勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2015年02月

巧妙なISISのメディア戦略

ISIS(あるいはIS、ISIL、イスラム国)って、いったい何なんだろう?テロリスト集団?それにしては、規模が大きいような、支持層も多いような。そしてメディアを賑わしている。もはや日本のメディアがしばし表記するように”イスラム「国」”つまり国家なんじゃないんだろうか?

こんなふうに思わせるほどISISのメディア戦略は巧妙だ。

たとえばISISの機関誌”DABIQ”。パッと見ですぐにわかるのは表紙に掲載されている写真の洗練具合だ。はっきりいって「よくできている」。これは中身のデザインやレイアウトを見ても一目瞭然で、観光ガイドかと思わせる出来だ。一般にテロリストと言えば、こういったことにはあまり頓着しないので、いかにもインディーズっぽい雑な編集になる(そして、それが「ならず者」のイメージを助長する)のだが、これは全く異なっている。

映像についても同様で、処刑映像についてもキチッと所定の位置にISISのロゴが付けられている周到さ。人質のイギリス人ジャーナリス、ジョン・キャントリー氏にやらせている「現地レポート」もBBCやCNNのそれにすら見える(実際、CNNでこのレポートの様子が流された時には、ナレーションがなければCNNの特派員による報告を彷彿とさせるものだった)。そして、この洗練されたメディアを使いながら「処刑」というセンセーショナルな映像をネットを使って世界配信してしまうのだ。すると、この残忍な映像も、なにやらあやしげな説得力=必然性を帯びているようにすら思えてしまうのだ。

もちろん、これは演出、もう少し悪意を込めて表現すればトリックだ。ただし、ISISの「メディアの魔術師」としての能力を侮ってはいけない。こういったテイスト、テクスチャーは、翻って実際の組織以上にISISを大きく見せることに成功しているのだから。世界を相手に堂々と渡り合う方法をこういったメディア戦略で達成しているのだから。そして、世界各国の過激派がISISに賛同の意を示しているのだから。今やISISを巡って世界中が引っかき回されている、そんな印象をわれわれは受けてしまうのだ(少なくともメディア上では、この”引っかき回し”は紛れもない「事実」だ。そして、このメディア戦略で日本政府も見事に「引っかき回された」わけで)。こういったメディアの用い方が結果として、本ブログの冒頭に提示したISISのイメージを形成している。

現在、ISISの外国人戦闘員は1万5000人とも2万人とも言われている。もちろん、これもメディア操作による数値であるという可能性を踏まえなければいけないが、相当数に及ぶことは間違いないだろう。じゃあ、なんで、こんな過激な組織に世界中のあちこちの若者たちが集結するのか。ちなみにアルカイダの国際性はそれほどでもなかったこと(外国人部隊がISISばりに存在したという事実はない)を踏まえれば、これはきわめて不思議な現象だ。だが、これがメディア性、つまりこの10年間あまりのインターネットを軸とするメディア・テクノロジーの発達と、ISISのその巧妙なメディアの用い方に基づくと考えれば、案外納得がいくのではなかろうか。

オタク的志向を充足させるインターネット。それがテロという「嗜好」に向かうと……

そのメディア性は二つ。一つはすでに展開しておいたISISのメディアの魔術師としてのメディア性だ。だが、そういった「洗練された」メディア戦略をやったところで、その思想が人々にリーチするということには必ずしもならない。つまりISISがプッシュするという必要条件の他に、このメディアを受け取ろうとする側のプル条件=これにアクセスしたくなる条件がなければならないからだ。その際、そこに大きく介在してくるのがインターネットだ。ISISはネット活動をするだけでなくYouTube、Twitter、facebookなどを巧妙に活用し、インターネットユーザーの若者たちがISISの情報にアクセスしたくなるようなインフラを構築している(例えばワールドカップ時にTwitterの検索窓に”#WC2014”とハッシュタグを打ち込むとISISの広告が出てくる、といった細かいことまでやっている)。

もちろん、こういったインフラを利用したところで、そう易々とISISに参加しようとする人間が登場するわけではない。ほとんどの若者はスルーするはずだ(実際、そうしている)。しかし、ごく一部の者がこの網に引っかかる。それはインターネットというメディアが備える特性に由来する。

インターネットは、言うまでも無く膨大な情報を抱えた海。任意に様々な情報にアクセスが可能になる。それがマイノリティに属する情報であったとしても、だ。例えば僕の例を挙げてみよう。僕の趣味の一つはワインだが、最近ではポルトガル・ワイン、しかもヴィーニョ・ヴェルデという早摘み弱発泡性ワインに凝っている。で、これは白やロゼなら現在ではデパートのワイン・コーナーなどで入手可能だが、これが赤となると限りなく難しくなる。ところが、この入手困難なマイナーなワインであってもネットで探せば情報は出てくるし、ほんの数軒だが日本でもこれを輸入しているネット通販業者を見つけることができる。でも、こんなものに興味関心を抱いている人間など、ごく一部のオタク(つまり、筆者(笑))に過ぎない。しかし、日本中を探せば存在するのだ。このネット通販で購入可能なヴィーニョ・ヴェルデの赤というのが、実は日本におけるこのワインの需要を示している。そして、こういったど「どマイナー」な商品の取り扱いはネット通販だからこそ初めて成立する代物だ。つまり、ニーズが広大な領域に、さながらスキルス性胃ガンのがん細胞、あるいはアメーバのように点在するのだけれど、市場がネットという空間横断的な電脳空間に置き換えられることでビジネスとして成立するニーズへと置き換えることが出来るのだ。ネットは空間に縛られない分、広大なマーケットを獲得可能にする。言い換えれば、ネットというのはオタクの嗜好に対応するメディアなのだ。

ISISも同じだ。こんな集団に興味を持つヤツなんか、実際のところはほとんどいないはずだ。ところが、ISISを知らしめるインターネットというインフラはワールドワイドだ(こういう連中を引きつけようと、ISISはちゃんと英語でプロパガンダしている)。だから、世界中のどこかでISISのテイスト、テクスチャーがツボに入ってしまう若者がいると存在することは十分に考えられる。

もちろん、これは何もこういった人間=若者たちに「認められたい欲求」があり、それにISISが抵触したからなんてこともない。ただ単に「おっ、ISIS、カッコイイ!」ってな具合で先ずは入っていく。で、最初のうちは、この残酷性と洗練性のミスマッチがオモシロイみたいな具合で、いわば「形」から入っていくのだけれど、これが次第に「内容」そして「思想」、さらには「行動」へと変化する。かつて社会学者の中野収は1960年代末に学生運動に入れ込んでいった学生たちを次のように語っている「学生たちは思想があってヘルメットとゲバ棒を装着するのではない。むしろヘルメットとゲバ棒を装着すると思想が生まれる。順序は逆なのだ」。これと全く同じことがISISへの参加にも起こる。つまり「カッコイイ」から情報にアクセスし続けると、今度はそのカッコよさから次第にISISの思想が浸透していって、気がついたらISISへの参加へと向かっていったなんてことになる。

フィルター・バブルが助長するISISの勢力

こうなってしまうのは情報化社会、とりわけネット社会が作り上げる現実感覚の多様性というインフラに基づく。ネットにはあらゆる価値観がばらまかれている。Aという考え方について、それを否定するBという考え方があり、さらにこれを否定するCという考え方があり、さらにそれを……という具合に、価値観は限りなく展開されて、「これ」といったスタンダードな基準がない。となると、ユーザーたちはこういった情報の海、価値観の海から親密性に基づき任意に価値観をチョイスし、その価値観を補強するかたちで、それに適合的なデータを収集し始める。そうすることで自分だけの価値観が構築されていく。こういった「嗜好だけで作り上げられる価値観が構築される現象」「自分ループ」「情報のパーソナライズ」をE.パリサーはフィルター・バブルと呼んでいるが、ISISに入れ込んだ若者は、このバブルを補強しようとどんどんISISの情報にアクセスするようになる。そして、挙げ句の果てにはマスメディアで取り上げられる派手な映像やメッセージは、彼らにとっては自らの価値観をさらに補強する「すばらしいもの」にすら映っていくのだ。

もちろんこういった連中はスキルス性胃ガンのように世界中に点在しているので、それだけでは力は弱い。ところが、これはまさにスキルス性胃ガン。がん細胞ならぬISISオタクが、ネットを介して結集し、さらには外国人部隊としてISISに加わるような状態になっていけば、これは強力な力を発揮することになる。それが、現在のバカに出来ないISISという勢力を作り上げている。ガン細胞が胃を侵し、さらに生命までも駆逐していくということになりかねない。

テロリストに対する対応として、ISISはもはや国家、そして戦争という対応の方が妥当?

で、ひょっとしたら、これは新しい国家のあり方を提示しているのかもしれない。つまり「土地はないけど国家はある」。社会学では準拠集団という言葉を使うけれど、そして古くはユダヤ人コミュニティ、華僑、印僑が該当したが、これはそれのサイバー版。そうなるとISISは新カテゴリーとして「イスラム国」ということになってしまう。まあ、そんなことは認めたくはないが、ただし、対応の仕方として「ネオ国家」として考える必要、これだけはあるだろう。ただ単に「罪は償ってもらう」とか「テロリストは掃討すべき」といった次元では括ることの出来ない現状を理解するためにも(こういう言葉は、あくまで語っている側が「強者」、語られる側が「弱者」という前提があって初めて成立する。言い換えれば掃討可能という暗黙の前提の内に語ることが出来る「上から目線」。ところがISISについては、もはやそんなレベルではないことは、言うまでも無い)。

ISISは、こういったメディア論的視点からも捉えられるべきだろう。

スマートフォンの先端に装着して、自分の方にカメラを向け自らを撮影する「自撮り棒」が若者の間で大人気だ。このディバイスが発明されたのはもう40年近くも前に遡るそうだが、ニョキっとバーを伸ばして撮影している姿、やたらと目立つ。

自撮り棒はカメラの備えている致命的な欠点を補ってくれる。カメラとは、あたりまえの話だが原則、撮影者が被写体になることができない。タイマーを使う手もあるが、明確なアングルを決めるというのはちょっと無理。で、これが可能になる便利なツールというわけだ。

そこまでして撮りたいのか?

ただし、である。これを使って「自撮り」している風景、なんとなく傍目からは(とりわけ年配者からは)不自然に思えないこともない。「そこまでして自分を撮りたいのか?」みたいな印象を抱く人間、結構多いらしいのだ。

そこで、こんな物言いが出てくる。若者は承認願望が強い。だが現代社会において弱者、しばしば社会的にはほとんど存在が無きに等しい。そこに自撮り棒。これは「存在証明」「自己主張」にはもってこいに映っているのではないか……若者論論者なら、こんな分析をするかもしれない(若者論は、しばしば「自己」とか「アイデンティティ」とか「存在証明」みたいな言葉を使いたがる領域なのだ)。ただし、もしあなたがこういった分析に同意したとするなら、それは単に「自撮り」することに躊躇する自分の立ち位置を無意識に正当化しようとしているゆえに、そうなるに過ぎないのだと考えたほうがいい。もとより、彼らの自撮りの理由はメディア論的視点からすれば、もっと他のところにあると見るべきなのだ。ちなみに、昨年の夏、僕はバンコクとタイのリゾート、暮れにはバルセロナに滞在したが、旅行者の集まる繁華街やリゾートのあちこちでこの自撮り棒を目撃した。これは一昨年には見られなかった風景だ。そして、これを利用している人間は別に日本人に限定された話ではない。欧米、アジア、とにかくあっちこっちからの人間が利用しているのだ。なんのことはない。現代社会における便利なツールと考えた方が的を射ている。この連中が存在証明したい、自己主張したいなんて思っているとは、到底思えない。

自撮りを巡るインフラの変容~テクノロジーの側面

自撮り棒が突然ブレイクした背景には、あたりまえの話だが「撮影する」という行動におけるインフラの変容=整備があることを踏まえる必要がある。いまどきの若者の特殊事情とか特殊気質によるという説明は、ちょっと×なのだ。

かつて自撮り棒は「珍発明」のカテゴリーに属していた。重たいカメラを棒の端に付け、こちらに向けて撮影する姿は、不格好を超えて滑稽だったからだ。先ず、カメラ自体が重すぎる。またシャッターを切るのもなかなかたいへん。そして、結局のところモニター(=ファインダー)を見られないからアングルも決められない。ということは、タイマーとほとんど同じ機能しか無いにもかかわらず、がさばるわけで、こんなものを旅先に持ってくる人間など「変わった人」でしかないという位置づけになる。

ところが時代は変わった。カメラはスマホのカメラ機能に代替され、前面カメラでディスプレイをモニターしながらアングルやポーズを確認できる。ジャッターもBluetoothを利用しているからリモートで楽チン。また、スマホ自体が軽量だから、これに合わせて自撮り棒も大幅に軽量化できるし、がさばることもない。バックにちょいと忍ばせ、必要な時に取り出して棒をスルスルっと伸ばすなんてことが出来るのだ。もちろん自分だけを撮るだけでなく、自分を含めて仲間と撮影することも可能だ(というか、こちらの方が主流)。

自撮りを巡るインフラの変容~情報意識の側面

自撮りするという行為自体にも抵抗がなくなっている。これにはいくつかの要因がある。先ず1つは90年代半ばに登場したプリクラの存在だ。これで仲間と連れだってプリクラ・マシンで撮影することがコミュニケーションの一つとして位置づけられた。もはや三十代から下のプリクラ世代がプリクラ撮影に躊躇するなんてことはないだろう。で、プリクラのようなカジュアルなコミュニケーションツールに、自撮り棒を利用した撮影というスタイルが仲間入りしただけの話だ。ここで、自撮りに対する抵抗は一歩後退する。つまり、ただ単に「あっ、これ、便利じゃん!」。

もう一つはケータイ、そしてスマホにおけるカメラ機能の存在だ。かつて銀塩の時代、カメラはまさにホビーのひとつであり、それなりに費用のかかるものだった。ところが、いうまでもなく現在は全く異なっている。フィルムを購入する必要はなく、デジタル的にデータを取り込むだけ。だから失敗したくないので気合いで慎重に撮るなんてことはせず、とにかくこちらもカジュアルな感覚でジャカジャカ撮影してしまうのだ。そのジャカジャカ感が、翻って自撮りという撮影スタイルを生んだとしても何ら不思議はない。しかも、撮影行為はもはや男性に限られたものでもなくなった(「カメラ女子」なんて言葉もフツーに使われている)。もちろん、さっきは否定的な書き方をしたが、自撮りには自己確認=存在証明のための行為という側面もある。これはかつての若者だったら日記なんてのがこれに相当するのだろうけれど、これがカメラというメディアが身近になったことで、同じレベル=メディア性に降りてきただけのことだろう。カメラは日記になったのだ。そして、その際に自撮り棒を使うというスタイルも一部に生まれた。

コミュニケーションツールとしてのカメラ、そして自撮り

スマホの時代、こういった撮影のカジュアル化、それに伴った自撮りのカジュアル化はさらに加速したといえるのではないか。前述したように撮影したフィルムならぬデータ・ファイルはパソコンなどのストレージに保存可能であるだけでは無い。いや、今日ではこれをSNSにアップするというほうがむしろ一般的だろう。しかもこれがほとんど瞬時に行われる。つまり、撮影→即アップという流れ。

こうなると、たとえばFacebookやインスタグラム、LINEに挙げれば、即コミュニケーション・ツールとして写真が機能することになる。いわば「どこでもプリクラ」。この時、もはや「撮影」という行為は限りなく透明な行為となっているのではないか。つまり、コミュニケーションすることが先にあり、そのメディア=手段としてたまたま撮影、自撮りが登場するだけに過ぎない。

この意識が定着しているとすれば、若者たちが自撮り棒で自らを撮影する行為は自己確認でも何でもない。ただの「ネタ」だ。まあ、もちろん存在証明的に撮影している若者もいるだろうが、そちらはむしろマイノリティだろう。

そう、自撮り棒が流行るのは、自己アピールと言うより、むしろ撮影を巡るインフラ、とりわけケータイ→スマホとSNSの普及というインフラによって技術的、そして心性的に生み出された必然的結果と考えた方がよいのでは?そういったニーズを的確に捉えたツール、それが自撮り棒。だからヒットしていると、僕は考えている。

絶好調のiPhone6

iPhones6が相変わらず好調だ。2014年に入りiPhoneは格安中国スマホ、韓国のSamsungやLGに押されてジリ貧かと思いきや、画面を大型化した瞬間、ユーザーが一気に再びiPhoneへとなびいてきたことはすでにご存知のことだろう。お陰で、iPhoneよりもはるかに早く大型スマホを発売していたSamsungが煽りを食らってしまった。価格では中国スマホに負け、ブランド力ではAppleに負け、中途半端な商品に堕してしまったのがその原因だろう。しかも、これが日本やアメリカだけでなく、中国、いや自国の韓国でも同様の事態を招いているのだ(ただし、シェアはSamsungがまだトップを維持している。)。

しかしながら、ジリ貧と思われていたiPhoneがV字回復したのは、要するに大型、とりわけ5.5インチというスマホをユーザーたちが待ち焦がれ、遅ればせながらやっとのことでリリースしたからだと言われている。4インチ以上のスマホを頑なに拒絶していたS.ジョブズの予見は完全に外れてしまったわけで、そういった意味ではAppleはジョブズ路線を超える次のステップを見いだしたと言ってよいのかも知れない。

ただし、このモノノイイはちょっと外れているところもある。待ち焦がれていたと言っても、発売してからも伸びがよいという事実は別の話。いいかえれば、それはユーザーが何らかのプラスアルファをそこに見たからと考えなければ帳尻が合わない。じゃあ、それは何だろう?

iPadを駆逐するiPhone6Plus

iPhone6、とりわけPlusのそれはきわめて奇妙な現象を発生させているという感がないでもない。ちょっと僕の例だけれど、一つエピソードを。

昨年9月、iPhone6発売と同時に、僕は早速それまでのiPhone4から乗り換えることとした。チョイスしたのはiPhone6Plus。購入した際には「こりゃ、ちょっとデカすぎるな?」と、かなりヤバイと感じてしまった。「ただのiPhone6(4.7インチ)にしておけばよかった……」

ところがで、ある。使い込むうちに僕の認識はどんどんと変わっていったのだ。この画面の大きさ、実に心地よい。何が心地よいって、ビデオもガンガン見る気になるし、長文の記事も読む気になる。英文も読む気になる。しかもそれがポケットから取り出して即といった具合なのだから。この経験はこれまでのiPhoneでは無かった。4インチのiPhone4の時代。さすがにこの大きさだと細かい文章を長時間読む気になれなかったのだ。そういった作業は専らiPad(時にパソコン)の役回りだった。つまりパソコン―iPad―iPhoneの使い分けが出来ていた。ところがiPhone6Plusは違う。易々と長文にトライできる。これは、ただ画面をデカくしただけで、全然新奇性がないと揶揄された指摘とは、全く正反対の実感なのだ。やっぱり、字はこれくらい大きい方が見やすい(まあ、自分が五十代と年寄りであることもあるのだけれど)。気がつけば、以前に比べiPhoneに接する時間は格段に延びていた。結局、こっちの方が「しっくり」きたのだ。完全にアディクト状態に。

だが、その一方で全く触らなくなってしまったものがある。当然ながらiPadだ。発売直後、iPadを購入しワクワクしていた自分はいったいどうなったんだ?と思うほど。もっとも、最近はちょっと利用頻度が減っていたことも確か。どうもiPadは「帯に短したすきに長し」の感が強いのだ。つまりパソコンほど本格的に仕事は出来ないし、その一方でスマホほどカジュアルでもない。本を読むとかゲームをやるにはいいんじゃないかと思えないでもないが、その実、あまりやらなかったことも確か。本を読むなら、どちらかというとKindleくらいの大きさの方が手軽でいい。よく考えてみれば、電車の中で馬鹿デカいiPadを広げて読書している姿は結構、マヌケでもある(Surfaceもイマイチの普及のようだ)。そして、iPhone6Plusで本も読めるという状態に。で、今や我が家のiPad四台は、カミさんがゲームをヒマつぶしにやることを除いてほとんどオワコン状態になっている。

しかしながら、こういったiPhone6PlusによるiPad浸食といった状態、おそらく自分だけではないんではなかろうか。iPadを含めたタブレットPCの受容はどうも頭打ち、iPadに至っては売り上げは全くかんばしくない。アラン・ケイのダイナブック構想を具現したかのようなiPad≒タブレットPCだったが、どうもダイナブックの構想(コンピューターの最終形態は子どもが外で気軽にいじれるタブレットになるというコンセプト)はタブレットではなく、大型スマホ、つまりファブレットの方がふさわしいということに、現状ではなりつつあるようだ。

で、こうなるとAppleまた他の企業も次の一手に出てくるだろう。一つはさらに大きなファブレット、つまりiPhone6Plusが文字通り6インチになるということ。これはあるかも知れない(で、iPadminiが完全に死亡する)。そしてもう一つの方向がタブレットPCの大型化だ。ただし、この受容は一部のユーザーに限られるだろうが(アート系ニーズか?)。

タブレットPCの新しい道はビジネス・ユース

Appleは時々、こういった自社製品の「共食い」をためらいもなくやってしまうことがある。例えばiPhoneはどう見てもiPodを駆逐してしまったとしか考えられない。そして今やiPhone6PlusがiPadを駆逐しつつある。タブレットPCとは、しょせん一過性のメディアに過ぎなかったのだろうか?

いや、そうでもないだろう。おそらく売り上げの伸びは頭打ちで、今後漸減していくだろう。ただし、なくなることはない。おそらく、こうやってパーソナルな市場をファブレットに食われたことによって、タブレットPCは新たな自らの居場所を見いだすのではないだろうか。それはズバリ、ビジネス市場だ。企業や医療の現場での測定機器、クラブなどでの入会手続き、レストランの会計マシン、銀行などでの手続きの道具、教育用、こんなところでは実に大きな力を発揮するのではないか(ただし、こうなるとiPadminiは最も中途半端な製品になるけれど。miniはビジネス・ユースとしても中途ハンパだ)。家庭のリビングルームに鎮座するという当初のジョブズの構想(iPad発表時、ジョブズはステージ応接椅子を置きパフォーマンスして見せた)は完全にハズレだ。むしろリビングルームで各種ディバイスのハブ的な役割をするようになるのはファブレットだろう(リモコンにもなっているはずだ)。

ファブレットの大いなる可能性

ちなみにファブレットはさらに大きな可能性を秘めていると考えることも出来る。例えばこれがBluetoothでキーボードやマウスと、さらにディズプレイとワイヤレスに繋げられるということになったらどうなるか。言うまでもなく、それはスマートフォンがパソコンに転じた瞬間を意味する。つまりスマホ一台あればほとんど事は済んでしまうのだ。携帯しているときはただのスマートフォン。ところが一旦、オフィスや自宅に持ち込めば、瞬時に大型ディズプレイで操作するパソコンに。こうなると、今度はパソコンがスマホ=ファブレットに駆逐される番だ。つまりスマホは電話であり、インターネットディバイスであり、ミュージックプレイヤーであり、SNSであり、カメラであり、アプリであり、さらにパソコンでもあるということになるのだ(ちなみに、iPhoneがもし、こういった形で進化するとiOSは存在してもMacOSは死滅するということになる。そしてマックもまた死滅することになるかも。もっとも、Appleならやりかねないことだが)。

この予想、かなり現実味があるのではないかと、僕は思っている。そして実は、これこそがA.ケイがイメージしたダイナブック構想の最終形態なのかも知れないとも思っている。

残念ながら後藤健二氏が殺害された模様だ。非常に残念だが、問題はまだ始まったばかりという見方も出来る。これからわれわれはテロリズム、そして国際社会の一員としてどのような立場をとっていくべきかが重要な課題として残されたのだから。

先ず、絶対に避けるべきは、ベタで恐縮だが「憎しみの連鎖」だ。そして、これがわれわれ日本人の中にも芽生えた可能性がある。後藤氏の殺害を受けて、ひょっとすると日本人の中には「戦争における憎しみの感情」を初めて感じた人間がいるかも知れないからだ(お恥ずかしい話だが、僕も報道を受けて、一瞬「ムッ」とし、直後に「いかんいかん」と反省した)。しかし、もしそうであるとするならば、それこそが「憎しみの連鎖・スパイラル」メカニズムの正体であることを肝に銘じなければならない。この憎しみは「償い」と称する行為を相手に求めることになる。それが「やられたら、やりかえせ」という感情へと繋がっている。

安倍首相は後藤氏の殺害報道を受けて「この罪を償わさせるために国際社会と連携していく」とコメントした。これはいけない。「償い」という言葉を用いたことで、ISISに「やっぱり、オマエはアメリカ側だったのか。われわれが人質を殺したのはきわめて正しかった。そして今後、日本は敵対する勢力であることが認定されたので、同じように日本人を捉えて殺害することには正当性がある」と認めさせてしまったことになるからだ。そして、この場合「国際社会」とは広義ではなく狭義、つまり米英を指すものになってしまう。あくまで「日本は人道的支援なんだから、あんたたちは間違っている、勘違いしている」としなければいけないのだ。

次に、この事態を受けてこれから政府、そしてわれわれはどうするべきかを考えること。実はこちらの方が、広義(=グローバル)の国際社会における一員として日本を考える場合には重要だ。

僕は政府には、自らのテロに対する日本の立場を、国際社会により具体的に提示する、すなわち「『軍事的な手段以外』で、テロ全般を無くす方向に尽力する姿勢」を明確に表明することを期待したい。一方、われわれの側としてはイスラム文化をこれを機にもっとよく理解することが重要だと考える。世界人口の22%、15億人にも及ぶイスラム教徒を、われわれ日本人はあまりに知らない。だからこそ「イスラム国」を国家と勘違いするような事態、さらにはイスラムと言えば紛争やテロの報道ばかりがなされるので「イスラム教は邪教」みたいな誤認が生じているわけで。そして、こういったイスラム文化の理解=誤解において重要な役割を担っているのがマスメディアだ。こういったステレオタイプを助長してきたのは、実はマスメディアによるところが大きいことは言うまでも無いことだろう。それゆえ、マスメディアにはこれを機に「イスラムとは何か」(まあ、これでもものすごく大きなカテゴリーだが)を認知させることを期待したい。もちろん、僕らもまた自らこういった情報にアクセスすることが必要なことは言うまでもないことけれど。

問題なのは、後藤・湯川氏にはちょっと失礼な表現になるけれど「後処理」だ。そして、これをいかに上手くやるかが彼らへの弔い、そして日本の未来へと繋がっている。これだけは間違いないだろう。

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