勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2015年01月

ISISによって後藤健二氏と思われる音声メッセージ第三弾が29日に投稿され、イラク時間同日日没(日本時間同日深夜)までにリシャウィ死刑囚がトルコ国境に移送されなければ、ヨルダン軍のパイロット(ムアズ・カサースベ氏)は直ちに殺害されると警告した。

日本メディアが報道する「ISIS VS 日本」という図式

今回の事件、われわれはISISによる後藤氏(そして湯川氏)拘束事件、つまり「ISISと日本の問題」と捉えるべきではない。ところが日本のメディアは専らこの側面から捉え、希望的観測も交えて、かなり偏った見方をしている。テレビでの解説者の論評もこちらの文脈が趨勢を占める。このノリは、さながら飛行機事故が起きた際、真っ先に「日本人乗客は……」と報道するのとよく似ている。日本に関することだけに関心が向かってしまい、事の全体像が見えていない「視野狭窄」に至っているように思える。

そうではない。これは先ず始めに「ISISとヨルダンの問題」、あるいは駆け引きの問題なのだ。そして現在、後藤氏は、いわば、その駆け引きの「道具」として利用されているに過ぎない。このことは、われわれが今回の事件の立ち位置を「ISIS VS 日本」から「ISIS VS ヨルダン、それに付随する日本」へシフトすることで、はある程度見えてくるはずだ。

「ISIS VS ヨルダン」図式から見えてくる事態の本質

そこでISIS側の思惑という立ち位置をから考えてみよう。当然、ISISとしては今回の事件を利用して、自らの社会的な影響力、そして金銭的利益、これらを最大化したいはずだ。ところが、もしこれを対日本という立ち位置でやったらどうなるか?あたりまえだが費用対効果はきわめて低いことになる。金銭的利益はともかくとして、日本という当事国とは必ずしも言いかねる国に属する人間を相手にすることは、いたずらに社会的な評価を悪化させるだけ、つまり「ならず者」のイメージを助長するだけなのだから。つまり、大義が立たない。

ところが、これまでの戦略を対ヨルダンという立ち位置で見るとISISはきわめて狡猾なやり方をしていると判断できる。先ず湯川氏の首を刎ね、こちらが本気であることを示すことで相手側に脅威を与える。次に24時間以内にリシャウィ死刑囚を解放しなければ後藤氏の命がないこと、いやそれ以前にヨルダン・パイロットに命がないことを後藤氏の口から語らせた。つまり「どんどんやらないと、あんたのところの兵士の命はないよ、こっちは本気だからね」という強烈なメッセージを相手=ヨルダンに与えることに成功している。で、今回の第三弾でダメを押している。これで、思惑通りヨルダンも困惑した。ヨルダン政府がパイロットとリシャウィ死刑囚の交換といった条件を出してきたのだ。だが、残念ながらISISがそんなものを受け入れる気などさらさらないだろう(その理由は後述)。そして、この「ヨルダンの困惑」、まさにISISにとっては「思う壺」だったのではなかろうか。

なぜ、後藤氏とリシャウィ死刑囚の交換なのか

ISISによるこれら要求で重要なのは、ちょっと不思議に思える「後藤氏のリシャウィ死刑囚との交換」という条件だ。これに、あたかもパイロットの命という「オマケ」が付いているように見える。ところがそうではない。重要なのはパイロットの方が本命で、むしろ後藤氏の方が「オマケ」と認識した方が理に叶っている。ISISにとって政治的に価値があるのはパイロット=ヨルダンの方、だから後藤氏=日本については簡単に交換条件を出してくるが、パイロットの方はそうではない。実際、現在のところ、パイロットを解放するとは一言も言っていないのだから。そんな「おいしくないこと」はやらないのである。

要するに、これは後藤氏の画像と音声を利用してヨルダン政府に圧力をかけているとみるのが適切なのではなかろうか(後藤氏は、もちろん言わされているに過ぎないが、これがかえって強烈なインパクトとなる)。そして、実のところ後藤氏の解放など、ISISにとっては取るに足らないこと。ただし、これを自らの威厳発揚のためのメディアとして最大限利用してやろうと考えていること。言い換えれば、今回の人質交換を利用してパイロットの値段(政治的そして金銭的)のつり上げを図っている。こんなところではなかろうか。

そして、ISISの最も狡猾なやり方(そして多分そうするのではないかと僕は思っているのだけれど)は、前述したようにリシャウィ死刑囚との交換によって後藤氏は解放されるがパイロットの方はそうではないことだ。後藤氏と交換したから処刑を中止してやっただけ。拘束は今後も続く。そして、もし解放して欲しければ……次の要求を突きつけてくる。つまり、このパイロットを、もっともっと「おいしく」いただこうと考えるのだ。具体的にはカネ、そしてより重要な人物の釈放(複数の政治犯)などがそれだ。ISISの側、そしてISISの対ヨルダン戦略という立ち位置を想定すると、僕にはISISの思惑がそんなふうに見えてくる。

ISISにとってリシャウィ死刑囚はそんなに価値のある存在ではない?

ちょっと考えてみて欲しい。リシャウィはテロに失敗した人間であるゆえヨルダン民衆にはインパクトが強いが、政治的に重要な存在であるかと言えば、そうではないだろう。言い換えれば、社会的インパクトを除くと、ISISの将来にとってそんなに費用対効果の高い存在ではない。それゆえISISは後藤氏とリシャウィを同等の価値と踏んでいて、とりあえず次の戦略のための前フリ、そして威嚇として利用しているのでは?(ところが、日本のメディア的な立ち位置だとリシャウイ死刑囚はきわめて価値が高く、パイロットとの交換条件として十分間尺に合っているように認識されている)。メディアの使い方の狡猾なISISのことだから、これくらいのことはやりかねない。

繰り返そう。「ISISと日本、そしてそれに付随するヨルダン」的なメディア報道に距離を置き、この問題がむしろ「ISISとヨルダン、そしてそれに付随する日本」という問題として考えて見ることで、今回の状況は初めて読めてくる。僕はそんなふうに考える。

肝腎なのは「他者の視点に立つこと」。たとえ、それが「ならず者」であったとしても、だ(もちろん、これは「思いやる」ことを意味しているのではない)。

ちょいと後出しジャンケンみたいで申し訳ないが、今回はメディア論的立場から今回のイスラミック・ステート(以下IS)による日本人人質事件について考えてみたい。つまり、2人が拉致されて2億ドルが身代金として要求されていたときに、日本政府はどのような立場を採ればよかったかをメディア論的視点から考えてみようというものだ。ちなみにメディア論的視点とは、日本政府の今回のテロ=事件への対応は、今後の日本政府の社会的評価も踏まえた場合、どうするべきだったかという視点だ。つまりパフォーマンスとしての効果の視点。具体的に見ていくのは1.国際的な日本評価への対応、、2.テロ及びテロリストへの対応、3.人質への対応、そして4.日本国民への対応の四点だ。これらそれぞれについて見ていく。

安倍首相、何やってんの?

湯川・後藤氏両氏のISによる拘束について政府の見解は「言語道断の許し難い暴挙であり、強く非難する。後藤氏に危害を加えないよう、直ちに解放するよう強く要求する」というもの。これを安倍首相も菅官房長官もひたすら繰り返すのみ。湯川氏が殺害されたことが濃厚となった25日ににおいても同様のコメントを繰り返した。

これは、あまりに情けない。これって自分の娘がならず者に陵辱されている場面に居合わせた親が「言語道断の許し難い暴挙であり、強く非難する。娘に危害を加えないよう、直ちに解放するよう強く要求する」と言っているようなものだ。その間、何も事は展開されず娘は次々と陵辱されていく……。こんなふうな比喩を用いると政府の弱腰がものすごくよくわかる。そして、アメリカという庇護者が早くなんとかしてくれないかな?とただ突っ立って待っている。その親を周囲が見たらどう思うか……もちろん「なんて無責任な、自己保身に固まった親なんだ」と呆れるはずだ。つまり、非難はするけど何もしないのだから(してはいるだろうが、したことにはなっていない)、それはただの自己正当化でしかない。日本政府が上記の発言を繰り返せば繰り返すほど、具体的内容が無い分、虚しく響いてくる。言い換えれば、ここでのメディア性は「空虚な発言が醸し出す不信感」ということになるだろう。国際的な信用なんか得られるはずはない。どんどん日本のイメージは悪くなるだけだ。

また、こういった「ちんたらモード」は、必然の結果として湯川氏の殺害を招いてしまった。陵辱どころか、殺されてしまったわけで、この対応もまた無策と言わざるを得ない。もちろん、日本国民もあきれ顔と言ったところか。こりゃ、マズい。

立ち位置をはっきりさせよ!

これら四方向への政府の対応としてすべきことは、メディア論的には「立ち位置をはっきりさせること」だ(で、これが安倍政府にはなくてグニャグニャなわけなんだけれど)。実は明確な方針(声明やスローガンではない)さえキチッと立てれば、この事件、ある程度なんとかなるはずではないのか?ちなみに、今回、僕が提案しているのはメディアを利用して「負を正にかえる」政府の戦略だ。つまり現在、ISによる日本人拘束というネガティブな国際的大事件は全世界的に注目を浴びている(ここ二日間のあいだにセビリア人、ルーマニア人とこの件について話をしたが、やっぱり自国でも大きく取り上げられていると報告を受けた)。こんな時にこそ、日本政府の明確な態度を示すことで、日本が国際社会の一員としての立ち位置をはっきりさせるとともに、それが翻って「日本」という国家の国際的な認知に繋がるはずなのだ(たとえば第二次世界大戦時、スイスが19世紀以来の「永世中立国」という立ち位置の下、戦争に荷担しなかったが、これは「永世中立国」であることが国際的に認知されていたからに他ならない)。これくらいの「したたかさ」は欲しい。

そこで、立ち位置を明確にするやり方を三つほど紹介してみたい

1.断固としてテロリズムと戦う

一つは「テロリズムを絶対に許さない」という姿勢だ。このやり方はアメリカ、イギリスのやり方だ。
現在、日本政府はそう語ってはいるが、前述したように弱腰。仮にこの態度を徹底すれば、必然的に「テロリストとは交渉しない」ということになる。当然、拘束される2人のクビは刎ねられる。ただし、日本政府の「対テロリズム」に対する国際的に立ち位置は明確になる。そしてテロリストのこういったやり方が日本に対しては功を奏さないこともまた、認識させることが出来る。でも、殺害された2人にはどうケアすればよいのか?殺されたものは仕方がないが、この2人はパスポートを取得して海外に出かけているわけで、当然、日本国としてはパスポートを所持している人間の安全を保障する義務がある。ただしできなかった。で、この場合、政府が違反を起こしたことになるので、当然ながら遺族には補償金を支払うことで対処するというスタンスを作る。

この場合、言うまでも無く「戦う」ことになるので、アメリカが主導する対シリア・イラクのテロリストへの戦いに加わることになる。で、もしこのテロ集団、つまりISを、日本のメディアが訳す「イスラム国」、言い換えれば「国家」とみなせば、これはテロの掃討の戦いではなく「戦争」となる。その場合には、憲法九条は完全に破綻するのだけれど(米英ははっきり言って、このならず者集団をほとんどこんな感じ、つまり「国家レベル」で認識しているのだろう。アメリカはならず者・アルカイダの掃討といって国家であるイラク・フセイン政権を打倒してしまったくらいなんだから。ビル数本を破壊された程度で、しかもそれがテロ集団であるにもかかわらず、国家を破壊してしまうって、いったい……。テロ集団=国家という歪んだこの図式は今回も同じだ)。で、これ以降、再び日本人がISに捉えられても、それは「しかたがない、あきらめろ!」という政府のスタンスを明確に出来る。そしてISは完全に無視されるので、この戦略が日本に対しては効かないことを認識させられる。日本人も、今後おいそれとはシリア、イラクへは入り込めなくなる。これで、いわゆる「自己責任」が正当化されてしまうからだ。

2.ひたすら秘密裏に交渉する

救出を目指してひたすら交渉する。ただし全て非公開とする。交渉過程、身代金、交渉ルート、これらを完全にトップシークレットとしてメディアには一切、公開しない。そして、突然、人質が解放される。もちろん、この後も何があったのかは一切説明しない。こうすることで、対外的には国家=政府としての威厳を保つことが出来る(というか、要するに内部で何が行われているのか解らないので、事態を闇に葬り去るだけなのだが)とともに、人質の救出も可能となる。これはフランス、スペイン、ドイツ、イタリア、トルコが採用したやり方だ。ただし、この場合、ISが「二匹目のドジョウ」を狙うという後遺症が残ってしまう。


3.ジョン&ヨーコ+憲法九条オシ戦略を展開する

もし、仮に安倍政権が憲法九条を堅持する意志があれば、ちょっとメルヘンチックであるけれどこんなやり方もある。最初に名前を付けておけば、さしずめジョンとヨーコが標榜した”War is over, if you want it”戦略だ。つまり「戦争なんかありません」というおおっぴらな宣言。

先ず日本政府はISの卑怯なやり方に、安倍首相と同様「言語道断、許しがたい」と非難する。だが、その後、突然手のひらを返したかのように「2億ドルを支払う」と宣言してしまう。これだとISに完全に屈したことのように見えるが、ここで理屈を立てるのだ。

「わが国の憲法には憲法第九条に「戦争放棄」という項目があり、未来永劫、戦争を仕掛けない、荷担しないことになっている。そして世界平和を常に追求している。だから今回の支援も政情不安で苦しめられている非戦闘員、つまり一般人に向けて実施することとした。そもそも戦争など出来ないと憲法に決められているのだから、戦争を仕掛けることなどわが国は端っから無理なのだ。それゆえ、ISのこの紛争への米側からのわが国の荷担という主張は全くの誤りだ。ただし、苦しんでいる人は今回、日本が支援しようとしているISに対立する側の一般人だけではない。IS側の戦いに関わらない一般人も同様だ。ならば、この人たちも平和主義的観点から援助しなければならない。よって、ここに2億ドルを「身代金」ではなく「援助」として提供する。ただし、わが国は平和主義である。繰り返すが戦争には一切加わることが出来ない。ということは、この支援によってIS側が獲得した2億ドルもまた、一切軍事的な予算として運用することは一切、出来ない。仮に、そのような運用が行われた場合には、憲法九条の規定が間接的にであれ抵触してしまうからだ。それゆえ、われわれは、もしISがそのような形で援助を活用しようとするのであるならば、これを提供できない。相互に国家や文化を尊重する「友愛」の精神があるのならば、このことはわかるはずだ。われわれはイスラムの人々の文化・人民を尊重するが、見返りとしてわれわれの文化・人民の尊重も望んでいる。そして、この平和主義=戦争放棄を踏まえれば、現在、ISがわが国に対して「英米に荷担している」というのは全くの誤りであることは容易に理解可能であるはずである。よって、ISはその認識の誤りを認め、相互尊重という名の下、拘束されている日本人は即座に解放しなければならない。2億ドル支援はそれとは全く別件のもの。そして組織ではなく人々への支援として認識されたい。」

まあ、こんな感じでやったらどうか?これなら平和憲法に基づいた立ち位置は明確だ。この日本人拘束を逆利用して平和憲法を世界的に認知させることが出来る絶好のチャンスとなる。そう、スイスが永世中立国であることが認知されているように。これを立ち位置に、ISに対して、いわば「平和の爆弾」を投げ込むわけだ。それが「身代金」ではなく「非戦闘員への経済援助」という名目になる。ISもこれを認めないわけにはいかなくなる。そして人質は解放、この一連の事態を知った日本人は日本が平和国家であるということのアイデンティティを確保するようになる。でも、もし仮に人質が解放されなかったら?大丈夫だ、そうであっても日本の立ち位置は世界中に認知される。一方、ISは今まで以上に「ならず者」扱いされる。「広告宣伝費」とみなせば安いものだ。つまり費用対効果は絶大。「負を正にかえる」とは、こういったことを意味する。そう、これくらいのしたたかさがあっても、いい(「甘い」とツッコミが入りそう?(笑))。

ブレないこと!

三つ目は脳天気で荒唐無稽に思えるかも知れない。まあ、実現は難しいだろう。だが、ここでのポイントは、要するに今回指摘している「負の状況を利用して自らの立ち位置を内外に明確に示す」ということだ。これは三つの戦略案すべてに該当する。そして、中でも最もメディア論的にインパクト大なのが三つ目なのだ。もっとも、安倍政権は憲法九条なんか要らないと思っているんだろうが。

そして、この三つ。どれを選択するにしても迅速にやらなければならない。「即決」というのがメディア的効果として非常に有効だからだ。それによって「ブレない国家」というイメージを対外、そして対内的に植え付けることが出来る。

ところが安倍政権はチンタラしていてブレまくっている。で、どうなった?言うまでもなく2人の内の1人が殺害されてしまった(未確認だが)。そして、事態は一層深刻化した。もし、またチンタラしているうちに今度は後藤氏が殺害されたら、それは本当にマヌケなことになってしまう。日本人を救出できなかったという無能さだけではなく、ブレまくるどうしようもない日本政府というイメージもまた世界に広まっていく。そしてISは「こりゃオイシイ、またやってやろう」ってなことになる。国民も「やっぱり、安倍はダメだ」ということにもなる。ようするにあらゆる方向から舐められることになるのだ。言い換えれば、今やっているやり方がいちばんマズい。

どちらでもよいから、安倍政権は立ち位置を明確にし、迅速に行動せよ!さらに酷い事態を招く前に。

周知のように昨日からイスラム過激派「イスラム国」による日本人人質事件が報道されている。74時間以内に2億ドルの身代金を支払わなければ2人の日本人が処刑されるという宣言がされており、事は急を有するものだが、今、マスメディアが絶対にやらなければならないことがある。

それは、

「イスラム国」という呼び方を即刻やめること、

だ。

豊田通商が受けたとばっちり

その理由を別のエピソードから示そう。1985年、豊田商事という会社が現物まがい商法(存在しない金(gold)をあったことにして現物の代わりに証券を手渡す、いわゆるペーパー商法)によって2000億もの損害を人々に与えた事件があった。これ自体はとんでもない話だが(会長の永野一男が右翼によって報道陣たちの目の前で惨殺された話は有名)、この時、とんだとばっちりを受けた企業があった。「豊田通商」だ。豊田通商はトヨタグループの総合商社。豊田商事とは全く関係が無い。ところが、たまたま名前が似通っていた(「通」と「事」のみが違う)だけで、ここに膨大な数の非難、苦情電話がかかったのだ。まあ、迷惑この上ない。しかし、残念ながら、ある程度の人々にとって、事実に関する認識というのはこの程度なのだ。そして、こういったイメージがしばしば人々の偏見を助長する。

今回の、この過激派「イスラム国」にも同様の事態が恐らく発生していると僕は懸念している。「イスラム国」はしつこいようだが、一つの過激派の名称に過ぎない。だが、その名称は、さながら「イスラム諸国」を代表しているかのような錯覚を受ける恐れが高い。つまり、豊田商事事件のエピソードを敷衍すれば、状況を知らない人間たちは「イスラム国」を「イスラム諸国」、あるいは「イスラムの全て」と誤認。その結果、「やっぱり、イスラム教というのは邪教、そしてイスラムの人間たちはロクな連中じゃない」と誤認し、そこからイスラム文化に対する偏見が助長されていく。まあ、迷惑この上ない。

メディアのメッセージ性が備える恐ろしさ

こういった懸念、メディア論専門の僕からすれば決して「取り越し苦労」には思えない。メディアは情報を伝える媒体であるけれど、メディアそれ自体も特性を持ち(「メディアのメッセージ性」と呼ぶ)、それが伝達する内容に大きく影響する。たとえば「今」を意味する英語を「ナウ」「NOW」「なう」と表記すればイメージが全く変わってしまうことを考えてもらえばいい。つまり「デートNOW」「デートナウ」「デートなう」は意味が全く違う(あるいはまた、性交を「SEX」「H」どちらで表現するかでもニュアンスは大幅に異なる。明らかに後者の方が「お気楽」なイメージになる)。ちなみに「アルカイダ」は訳せば「基地」。でも、この場合、アルカイダの方がはるかにヤバそうでしょ。

それゆえ、メディアを振り回すマスメディアは、こういった「メディアそれ自体が持つ情報=メッセージ性」に敏感にならなければならない。とりわけ、文化や文明のイメージに関わるような事柄に関しては。しかし、今回、マスメディアはそのことがわかっていない。マスメディアは放送禁止用語(正しくは放送自粛用語)には、ものすごくナーバスなのに、国際関係、とりわけイスラム圏の扱いについてはものすごく杜撰。これって、マスメディアのメディアリテラシーの問題と言わずして、なんと言おう。知性が問われる。

だから、僕はマスメディアに提言したい。繰り返そう、「イスラム国」という呼称を即刻中止せよ!

代替案を二例ほど

まあ、「ヤメロ」というだけでは無責任なので、代替案を提示しておきたい。

1.名称変更:英字読みだと、このイスラム過激派の名称は”Islamic State”略称で”IS”なので、これを「イスラミック・ステート」(あるいは「アイエス」)とカタカナ読みにして利用する(もっとも「アイエス」だと旅行会社の「エイチアイエス」と勘違いされるかも知れないけれど)。日本人のあいだではstateの意味はイマイチ認知されていないので、この名称が「普通名詞」ではなく「固有名詞」と認識されやすく、その結果、これが一部のイスラムの人間たちによるものであることがメディアのメッセージとして伝達される。

2.お断り:その都度、断りを入れる。つまり「このイスラム過激派、名称は「イスラム国」ですが、あくまで名称であり、イスラム諸国家、イスラム文化を代表するものではありません」とやる。ま、メンドクサイが。


マスメディアのみなさん、自分たちの放つ言葉の影響力をよ~く踏まえてください。お願いします!



メチャクチャよく出来ているが……引っかかる!

やっとのことで、遅まきながらディズニーアニメ映画『ベイマックス』を見てきた。現在Yahoo!の映画欄でレビュー評価は4.3と高得点、興行ランキングも第一位。つまり質量ともに高く評価されているわけで、当然期待しつつ出かけたのだけれど……確かに、すばらしい出来だった。徹底的に練った脚本、キャラクター設定の妙、いわば「スーパー戦隊もの」として息もつかせぬ畳みかける展開、それでいてディズニーのファミリー・エンターテインメントのイデオロギーをしっかり踏襲し、さらに最後には泣かせるシーンまで。いやいや、それだけではない。グローバルなビジネス展開を見据えて”サンフランソウキョウ”というサンフランシスコと東京をゴッチャにした街を舞台にする周到さ、そして兄弟愛(ヒロとベイマックスの関係は、死んだヒロの兄・タダシとヒロの関係のメタファー)、仲間との友情……とにかくこれでもかと情報を詰め込み、これをキレイに並べて一本のストーリーとして展開しきってしまうところは、もう見事という他はない。

ただし、である。ちょっと僕は「引っかかって」しまったのだ。そして、これはPixar→ディズニーというJ.ラセター的世界に共通する「引っかかり」なのだが(とりわけ、最近ますます「引っかかって」いる)。で、今回はその完成度が高いだけに、余計「引っかかって」しまったのだけれど。ちなみに僕の『ベイマックス』のレビュー評価は★四つだ。これだけきっちり手をかけて作られているのに★五つとしないのは、まさにこの「引っかかり」にある。今回は、この「引っかかり」をテーマに『ベイマックス』、そしてディズニー=Pixar=ラセターの手法と未来を考えてみたい。

『ベイマックス』を絶賛し、ジブリに引導を渡したブログ

映画を見に行く前「『ベイマックス』を見て日本のクリエイティブは完全に死んだと思った」(http://anond.hatelabo.jp/20150104012559)というブログを読んだ。これは日本のアニメがなぜダメになって、ディズニーがスゴイことになっているのかを論じたものなのだけれど、要約すると日本は「作家主義」つまり宮崎駿、庵野秀明、細田守というカリスマ=天才が中心となって作品を作るが、これだと当たり外れが出てしまう。一方、『ベイマックス』は「チーム主義で「どうやったら面白いか」をみんなで必死に考え、ダメな部分を補強していく」。つまり天才VS秀才の対決図式の展開なんだけれど、ディズニーの場合は、秀才が寄ってたかって短所を埋めることで結果として良質の作品に仕上がっている、その象徴とも言える存在が『ベイマックス』なのだという主張だった(日本は作家主義で、作家たちがジジイになって才能が枯渇したからダメになったということなのかな?)。

この議論それ自体に、異論は無い。冒頭に記したように、ディズニーの場合、確かに、とにかく映画を作ることについては、事細かな配慮を徹底的に行い、全くもってソツが無いのだから。いや~、これについては呆れるほど、スゴイ!

しかし、しかし、である。やっぱり、ひっかかる。

『ベイマックス』から思いついた二つのエピソード

僕は『ベイマックス』を見ながら二つのことを、ふと思い出した。
一つはウイントン・マルサリスというジャズ・ミュージシャンの存在だ。ジャズ好きならこのトランペッターを知らない人はいないだろう。現在53才だが、18才で音楽の殿堂・ジュリアード音楽院へ入学するとともにジャズのメインストリームにのしあがり、23才でジャズ、クラッシック両部門でグラミー賞を獲得。97年にはピューリッツァー賞の音楽部門賞も獲得と、とにかくスゴイ人物だ。演奏は完璧そのもの。ものすごく正確な音を出すし、表現も豊かなのだけれど……にもかかわらず、古くからのジャズ・ファンには結構評判が悪い。なぜって?まるでサイボーグみたいだからだ。ジャズ好きはトランペッターだったらチェット・ベイカーやリー・モーガン、ルイ・アームストロング、サキソフォン奏者ならエリック・ドルフィーやジョン・コルトレーン、ベーシストならチャールズ・ミンガス、ジャコ・パストリアスといった、ちょっとイカれた「妖しい」連中を好むのだけれど、マルサリスにはこの「妖しさ」がまったくといってよいほどない。マルサリスはひたすらパーフェクトなのだ。それは、なんと「感情の表現」に至るまで……。

もう一つは70年代前半に少年漫画雑誌に掲載されたプロ野球漫画。作者もタイトルも忘れてしまったが、ストーリーはこんな感じだった。

2000年、ジャイアンツは長嶋監督の下、相変わらずプロ野球界の盟主としての地位を確保していた。ただし、その人気を維持する重要な役割を果たしているのは人気者のエースの存在があったから。このエース、なんとロボットなのだ。このロボット(ベタにメカニカルなロボットが描かれていた)、スゴイ球を投げると言うより、キチッと勝利するようにプログラムされているのだけれど、人気の秘密はそれとは別のところにあった。結構、失敗をやらかすのだ。そして、その失敗のおかげで、客たちには「人間味がある」と、人気を博することになる。もちろん、この失敗も人気を獲得するためにプログラムされたものなのだ。だが、監督・長島の胸中は複雑だ。何もしなくてもこのロボットが試合を成立させ、なおかつお客を楽しませてくれる。で、ジャイアンツもプロ野球も安泰で文句なしのはずなんだけれど……長嶋はふとつぶやくのだった「これって、はたして野球なんだろうか?」

秀才サイボーグによる作品作り

僕が『ベイマックス』に象徴されるラセターの作風、いいかえればディズニーによるPixar吸収後のディズニーアニメの作風に感じてしまうのは、上の二つのエピソードに感じるものと共通する。以前、現代思想哲学者の東浩紀は『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)の中で、ギャルゲーの特質を「ウェル・メイド」という言葉で表現した。ギャルゲーにおいては、程良く萌えて、程良く泣けるといったふうに、感情を消費できるデータベース消費が可能になるというのが東の主張だった。これは言い換えると、僕らが何に感動し、怒り、どういった映像やサウンドを好み、誰とどういったシチュエーションで作品を見るのかなどを全て計算し尽くし、それらを満遍なく処理し、作品というパッケージ=システムに作り上げ、僕らを楽しませることを意味する。

ラセターがやっているのは、まさにそう言うことなのでは?しかも東がイメージしたものよりも遙かに精緻な形で。脚本家20人にチームとして脚本を徹底的に練らせて、短所を修正、不足部分を全て補填し、さらに、それらがわざとらしくないように、いわば「ツルツル」になるまで展開に磨きをかけていく。そうやって出来上がった作品は「ウエル・メイド」どころか「スーパー・ウエル・メイド」とでも呼ぶべきもの。観客である僕らは徹底的に研究し尽くされ、そこから誰もが感動させられ、笑い、泣き、そして時には怒る。なんのことはない、これは恐ろしいまでのマーケティングの手法なのだ。そして、前述したように研究し尽くした結果。つまり、もはや観客たちはディズニー=Pixar=ラセターたち完全に舐められているのだ。

チーム主義の落とし穴

ただし、である。この「チーム主義」には重大な落とし穴がある。それは、これが前述したように、いわば「秀才集団によって人間の心理をマーケティングした結果、アウトプットされたデータ」でしかないことだ。出来上がった作品は、いわば「精緻なモザイク」「膨大な数のピースから成るジグソーパズル」。観客たちはこの膨大なデータベースの中に身を投げることでイリンクス=めまいを感じ、そこに一つの快楽を見いだすのだけれど……所詮はモザイク、ジグソーパズルでしかない。ということは、これを脱構築、つまりどんどん分析、分解していけば、結局、後は何も残らないという「水」のようなサラサラした構造が露呈する。僕が最近のラセター作品に感じるのが、実はこれだ。なんのことはない、最終的に分解可能なのだ。ということは、映画を批評する行為が「批評」と言うより「解体処理」みたいな作業になってしまう。で、それは……「アート」という視点からすれば、きわめて遠い存在。むしろ、それは「工場で生産される商品」なのだ。当然、そこには「妖しさ」は微塵も感じられない(ちなみにラセターの作品全てがそうだと言っているわけでは無い)。要するに、これが『ベイマックス』に感じた僕の「ひっかかり」なのだ。この、いわば「引っかかりの無いことへのひっかかり」は、作品を見終えた直後に感じることができる。見ている最中は感情が揺り動かされるのだけれど、終わった後は全く後を引かない。後味スッキリ、余韻が全くないのだ。そして、この作品、新しい側面が全然見えないのである。秀才は整理できるけれど、新しいものを生成することは出来ない?

恐らく、これこそがラセター的=秀才集団的=マーケティング的手法なのだろう。そこには当然、かつての宮崎駿が放っていた「妖しさ」は感じられない。僕らは『未来少年コナン』『ルパン三世カリオストロの城』『風の谷のナウシカ』『となりのトトロ』といった宮崎の初期の作品(晩年のものは全くダメ)になぜか思い入れがあり、思わず何度も見てしまうが、それは天才の持つ「妖しさ」、いいかえれば分析不可能で異様な「ドキッとする」オーラに、僕たちがひたすら見入り続けている(洗脳され続けている?)からに他ならない。1月16日、『カリオストロの城』が日テレで放送された。本作が14回目の再放送にもかかわらず14.5%もの視聴率を上げたのは「何をか言わんや」だろう。

ラセター的秀才集団手法にも、未来はあるかも?

ただし、ただし、である。ラセター的手法でも時にオモシロイものを見いだすこともある。それが昨年の『アナと雪の女王』だ。僕のこの作品の評価は、まあ三つ星程度。この作品、登場人物の描かれ方が全くもっておかしいし(ハンス王子などは統合失調症じゃないかと思えるほど、立場がコロコロ変わる。アナがなんであそこまで姉思いになるのかについては全くもって根拠がない)、ストーリーはきわめて不自然だ(ストーリーのみなら星一つか二つくらいしかあげられない)。これは秀才集団が作品に必要な情報を、それぞれがどんどん盛り込み、短所をどんどん潰していった結果、情報量が過多になってしまい、ストーリーが破綻してしまったからに他ならない。つまり秀才集団はとにかく「処理する」ことに長けてはいるが、全体を統合することについてはダメなのだ。だって、ビジョンがないんだから。だから、あの作品は笑えるくらい荒唐無稽でぶっ壊れている。

ただし、ただし、ただし、である。天邪鬼なのか、こういった破綻をむしろ僕は面白く見てしまった。というのも、そこには新しいアイデアが盛り込まれてもいたからだ(作った本人たちもわかっていないんだろうけれど)。しかし、まとめ上げることは出来なかった。こっちの方が「妖しさ」という点では上だ。そして、『アナ雪』のいちばんの妖しさは、言うまでもなく音楽だった。あの音楽の強烈さ(そして日本人声優のチョイスの絶妙さ)は、単なるマーケティングでは予測不可能なものだったろう。だから、僕は『ベイマックス』より遙かにレベルの低い『アナ雪』の方に、むしろ未来を見てしまうのだけれど。

ラセターがディズニーアニメに新しい方法論を入れようとしているのはよくわかる。ただし既存のものを加えるというやり方で。ディズニーに戻り最初に手がけた作品『BOLT』は『トゥルーマン・ショー』の『ベイマックス』は日本の「スーパー戦隊シリーズ」の、そしてPixarの次回作『インサイド・ヘッド』は『マルコヴィッチの穴』あたりの手法をパクったものだろう。それ自体をとやかく言うつもりは毛頭無いのだけれど、それが「妖しいもの」になるかどうかは未知数だ。

さて、ラセター的ディズニー世界。これからどっちの方向に向かうのやら?

1月3日、NHKスペシャル「未来はどこまで予測できるのか」が放送された。未来では、あらゆる場所にセンサーが配置され、それらが不断にデータをフィードバック、これを解析することで物事の未来が予測可能となる世界が描かれていた。番組の中では、すでにこうやって集められた膨大な様々なデータを用いて都市の犯罪を予想し、犯罪率を激減させているアメリカ警察の様子やヒット曲を作るという事例が紹介されていた。では、果たして将来、未来を予測することは可能になるのだろうか。

僕の答えは「そりゃ、ムリでしょ」だ。まあ、このNスペの番組もそのことを十分踏まえているというか、腰が引けているというか、タイトルも「どこまで予測できるのか」となっている(ただし番組の内容は、どう見ても「予測できる」という方に力点が置かれていた印象があったけれど)。そこで、今回は未来が「どこまで予測可能」で「どこから予測不可能」かについてメディア論的に考えてみたい。

予測によって自動車事故はゼロになる

先ず、予測可能になるものについて。その典型は自動車による事故を未然に防ぐことだ。これは自動運転という技術およびインフラ整備によって間違いなく可能になるだろう(技術的にはすでに2011年、グーグルがセルフ・ドライビングカーを開発し、サンフランシスコ―ロサンゼルス間を無人で走らせることに成功している。もちろん、万が一のことを考え、助手席に人間を乗せてはいたが)。現在、装着され始めている自動ブレーキはその端緒と言える。前方のクルマや壁との距離をセンサーによって算出し、一定以上近づくとブレーキがオートで作動するシステムだ(つまり、これが前者に取り付けられれば「追突」がなくなる)。そしてこの発展系が、全てのクルマが周辺のデータ全てフィードバックさせながら自動的に制御されて動くというシステムだ。その時、人のやることはクルマに「○○へ行け」と指令を出すことだけ。すると、クルマは到着時間をオーナーに告げ、自動的に発信し、その時間通りに到着する。どれだけたくさんのクルマが道に溢れても、交通量に合わせて自動車間隔は狭められ、数珠つなぎなりながら高速で移動し、やはり時間通りに到着する。人間が運転していないので渋滞は絶対に起こらない。なんのことはない、クルマでの移動は電車移動とまったく同じになるわけだ(まあ、こうなると誰もクルマを移動手段としては買わなくなるんだろうけれど。その一方でスポーツとしてのドライビングなんてのが出てくるんだろうけど)。

これは要するに、自動車運転で起こりうるあらゆる事態がデータとして集積された後、人間を運転から遠ざけることで可能になるということなのだ。なぜ?全て機械にやらせれば、そこでエラーの入り込む要因、つまり人間という存在がなくなるからだ(もちろん、道路に人間がやってこないようにするということも不可欠になる。なので、これが実現するのは、先ず高速道路ということになるだろう)。

未来を作るのは人間というノイズ、だから未来予測は不可能

だが、こういったコンピューターと通信による膨大な情報データの集積とフィードバックによるシステムの制御は、ある条件が排除されて初めて可能になるものでもある。それはシステムを閉じてしまうこと。つまり、制御する情報に混入するノイズを遮断してしまうことによって、だ。そして、それは要するに前述した人間を排除することによってということになる。人間はヒューマン・エラーを起こす動物、そして常態的にノイズを生成する存在だからだ。ところが前述した自動車による制御は、過去にあった様々な可能性を全てフィードバックし、その統計的確率に応じてドライブそして交通システムを制御、さらにヒューマン・エラーとノイズを遮断していることで初めて可能になるに過ぎない。言い換えれば、それは「未来を予測した」のではなく「未来を閉じた」ことによって過去のデータが反映され、未来のデータの入り込む余地を無くすことで、予定調和の世界が実現したに過ぎないのだ。

ちょっと話は変わるが、これはマーケティングのことを考えてみればよくわかる。マーケティングによる商品戦略は必ずしも功を奏するわけではない。いや、その大半は不成功に終わる。マーケティングは過去のニーズを統計的に集約し、その最大値のニーズを新しい製品に反映させているに過ぎないからだ。このことについてはマーケティングなど糞食らえと考えていたスティーブ・ジョブズが面白いことを言っている。

「もしクルマのなかった馬車の時代にどんな移動手段が欲しいのかとマーケティングをしたら、誰もクルマとは言わず「鉄の馬」と答える」

そう、だれも四輪の、エンジンで動く車などイメージできない。過去の統計データをいくら返したところで未来を言い当てることは出来ないのである。そしてジョブズはさらに付け加え、マーケティング=未来予測の不可能性を断言する。

「未来を予測することなんか簡単だ。それを作ってしまえばよいのだ」

これは言うまでも無く、未来、実は人間が起こすノイズ=それまでの統計からすれば無駄なこと、そしてヒューマン・エラーの中に存在するということを意味している(酒を造ろうとしたら失敗して酢が出来たようなものだ)。そして、このノイズは人間が意味というものを求め続ける限り無限、そして永遠に産出され続ける(ジョブズはノイズをバラまき続けることで、確かにわれわれの未来を変えてしまった(笑))。一方、テクノロジーが出来ることは、こうやってすでに吐き出されたノイズ≒ヒューマン・エラーをフィードバックし、これをノイズではなくした形でシステムの中に包摂することだけ。だが、それが可能になったときには、もうすでに新しいノイズが算出されている。このいたちごっこが未来永劫続くわけで、だから未来を予測することは不可能なのだ。仮に、たとえば前述したデータをフィードバックさせて犯罪を激減させることが出来た例にしても、決してゼロにはできない。犯罪のスタイル、そして犯罪を起こす空間を人間が新しく創造し続けるからだ。また音楽にしたところでウエルメイドの小銭稼ぎみたいなものしか作ることは出来ないだろう。「意味という病」に取り憑かれた人間という存在をナメてはいけない。

そう、常に「未来は開かれ」、日々産出され続けている。そして、そういったノイズを不断に生成し続ける行為のことを、われわれは「創造」と呼び、また、そしてそうやって再生産される新しいシステムのことを、われわれは「文明」「文化」と呼んでいるのだ。

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