勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2014年12月

大韓航空機の趙顕娥(チョヒョナ)副社長が引き起こした、通称「ナッツリターン」問題が無駄にかまびすしい。ご存知のように大韓航空機がニューヨークを離陸しようとした際、乗り合わせた副社長がファーストクラスでのナッツのサービス方法を巡って激怒し、飛行機を引き返させて責任者を下ろした事件だ。これ自体は要するに「航空法に抵触する」という点が問題なわけなんだけど……でも、なんでこんなに騒ぎてるんだろう?もちろん、マズいことをやっているという点について否定する気はない。だが、この程度の事件でちょっと大騒ぎし過ぎではないだろうか。実際、事件はあちこちに飛び火し、大韓航空を傘下に置く韓進グループ会長・趙亮鎬(チョヤンホ)が娘の育て方が間違っていた(趙副社長は社長の実娘)と謝罪記者会見をやったり、この件を巡って大韓航空の常務に証拠隠滅容疑があるとして取り調べに入ったり、役員の多くを出国禁止にしたり。

客室乗務員がナッツを袋から開けなかっただけで、ちょっとこれ、騒ぎすぎなんじゃないか?

なので、今回はナッツリターン事件の「騒ぎすぎ」の構造について考えてみたい。ただし、これはあっちこっちから状況証拠を集めてきて「一つの見方」として提示するに過ぎないこと、その見方の立ち位置が「日本の文化のそれ」とは異なることを前提にしている。いいかえれば、他の状況証拠を集めれば、これと全く反対の結論も出せることをお断りしておきたい。で、今回は韓国文化にネガティブな立ち位置で展開することにする(もちろん、立ち位置を変えればポジティブにやることも可能)。状況証拠として次の6つをあげておく。1.韓国社会が一部の財閥によって支配されていること、2.超学歴社会であること.、3.大韓航空が先進国の航空会社にしてはやたらと飛行機事故が多いこと(世界第六位)、4.世間的なバッシングが多いこと、5.自殺率が世界でトップレベル(2位、1位は北朝鮮)であること、6.インターネットが最も普及していること。で、これらが絡むとナッツリターンは大事件になっていく……。

一族経営と超学歴社会が生む社会の構造化

先ず、大韓航空サイドの話から入ってみよう。この事件で気になったこと、それは副社長(もはや前なので以下「前副社長」)が、なぜこんなにゴーマンかますことができるのか、ということだ。まあ、それは一企業の首脳部ゆえ、やれないこともないが、度を過ぎている。この原因として考えられるのが1の財閥による支配だ。世界で活躍する韓国大企業の多くが一族経営と言ってもよいほど、一部の人間によって支配されている。趙顕娥前副社長にしても韓進グループ会長の娘。つまり能力のあるなしにかかわらず副社長になり、そしていずれは社長の椅子に座ることが約束されている状態。で、完全に上層階層の人間として育てられてきたので、上から目線しか出来ない。それが結果としてナッツリターン的な行為を平気でやってしまうことになる。そして、これに2の超学歴社会が絡む。韓国で一流企業入社するための必須条件は前述の名門一族がらみだけではない。あたりまえだが、これだとあまりに人数が少なすぎる。そこでSamsung、HYUNDAI、大韓航空などの一流企業に入り込む可能性が庶民にも残されている。それが学歴によるスクリーニングだ。早い話がソウル大学か延世大学あたりに入学することが、これら企業への登竜門となっている。いいかえれば受験戦争に敗北した者には、もはや一流企業への道は開かれていない(これは日本の学歴社会の比ではない)。こうなると一族がタカビーになるのみならず、当然、これらに入社した庶民もまたタカビーということになる。だが、それが結果として3の大韓航空が問題を起こす温床となっている可能性がある。つまり、これら既得権を獲得した人間が保身に回ることで組織が構造化、官僚化し、フレキシビリティを失っているので合理化が進まない。それが結果として事故を多発させる?

到達可能性という幻想が巻き起こす嫉妬

次に、このほとんど~でもいいタカビーな副社長のナッツリターン事件について、なんでこんなに大騒ぎするのかについて考えてみる。これは副社長に対するバッシングの原因についての考察だ。
1.財閥支配、2.超学歴社会という構造は、韓国国内には必然的にこの二つの条件をクリアしていない大多数が存在することを意味する。2は唯一の階層打破のブレークスルーだが、限りなく狭き門でもあり、現実的には「階層」ならぬ「階級」社会が成立していると言ってもよい。ただし、あくまでも階層社会であることはタテマエ、だから可能性としてはここに入れるという希望を持たせることは出来る。しかし実質的には不可能。こういった「到達する可能性があるのに、とどかない」という場合には、当然ながら心理学で言うところの認知的不協和とか合理化といった行動を人々は採ることになる。つまり「あのブドウはすっぱい」。とれるはずの物が取れない。でもその状況を容認することは出来ない。だったらこの認知のゆがみを正す方法は一つ。取れないものを誹謗中傷し、否定すればよいのだ。これは一般的には嫉妬というかたちで現れる。(ちなみに絶対的に到達不可能な場合には、こういった希望=欲望が出現することはない。クラスで成績の良いやつがまたイイ成績をとっても気になることはないが、普段は自分と同じくらいの並の成績しかとらない仲間が良い点を取ると気持ちが落ち着かなくなるという嫉妬の現象は、ようするにこの「到達可能性の有無」の違いで生じる。前者は不可能、後者は可能。だから嫉妬が起こる)。

「すっぱいブドウ」と認定された趙顕娥前副社長

趙顕娥前副社長は格好の「すっぱいブドウ」とされた。

韓国は、ただでさえ4.世間のしがらみやバッシングの多い国だ。それが結果として5.自殺率の高さにあらわれている。たとえば、最近ではこの二つ(4+5)の合併症的な事件がセウォル号事件で発生した。この事件では修学旅行で乗船していた高校生(壇園高校)の犠牲者が多数出たが、その中で救助された引率の教頭がいた。この教員が生き残ったことに激しいバッシングが起こり、それを苦にして当該教員が自殺してしまったのだ(ただし韓国マスメディアはこの教員の自殺を美談として展開するというマッチポンプ的な報道を展開していた)。で、こういった世間のしがらみは関係性が合理化させるはずの6.インターネットの普及によってむしろ拍車がかかる。SNSなどでこの教員はバッシングされまくっていたらしいのだ。ちなみに、ここでは詳細な説明を避けるが、ネット(とりわけSNS)は人々の嫉妬にこれまで以上の拍車を駆ける機能を有している。本来なら顔が見渡せる範囲でのみ起こる瞬間的な集団の感情爆発である群集行動が、ネットを介することでお互いの顔が見えなくても一気に起こってしまうのだ(いうまでもなく炎上や荒しといった集団的なフレイーミング現象がそれ。ただし一方的、つまりバッシングされる側が固定されているのだけれど)。

大韓航空副社長という、本来なら決して批判できない対象が、ゴーマンかましてナッツリターンという些細な(殺人事件等に比べればの話だが)を犯したとき、韓国大衆はこの事件に首っ引きになった。嫉妬をかき立てる対象が典型的な階層トップの人間であり、しかも悪役を見事に演じてくれたのだ。この合併症で前副社長は到達可能な人間へと引きずり下ろされた。そして、今こそ恨みを晴らすべき時とばかり、韓国大衆のルサンチマンが爆発する。で、これを大々的にメディアが援護射撃する(というか、むしろ構造は逆でメディアが取り上げ、大衆のルサンチマンが援護射撃するというメディアイベント状態になっている)。

そこからスペクタクルが展開され、検察による前副社長の取り調べにあたっては、ものすごい数の報道陣が駆けつけた。そして趙顕娥前副社長は謝罪すると同時に全ての職から退いた。これに煽られて司法もさらに前副社長の過去を暴き始める……。バッシングは六つの要素が重なり合ってスパイラル的に拡大していくのだ。

ちなみに、韓国は歴代の大統領が悲惨な末路を迎えることで有名だ。その多くが逮捕され、中には死刑判決を受けた者(全斗煥。その後恩赦)も。それ以外でも亡命(李承晩)、暗殺(朴正煕)、クーデターで辞任(崔圭夏)、自殺(盧武鉉)など。これらから逃れているのは金泳三、金大中、そして李明博だが、前者2人は家族が逮捕されている。これもまた同じ構造だろう。つまり、トップのゴーマンと大衆のルサンチマンがなせる業。彼らが引きずり下ろされるのは得てして大統領辞任後、つまり到達可能な存在になってからだ(ちなみに現大統領の朴槿恵は、ご存知のように朴正煕の娘)。

もし、この僕の議論が正しいとしたら、この構造、つまり一部のタカビーと上に上がれない大多数の嫉妬による有名人バッシング・スペクタクルはこれからも継続することになる。というか、むしろインターネット社会の進展によって拍車がかかることになる。

日本バッシングも同じ構造?

そして、この構造は日本にも向けられている。つまり韓国人にとって日本はタカビーな民族、そして到達可能な相手という認識がある。だからスポーツ競技でも日本が活躍する分野には盛んに進出するし、各種のバッシングを徹底的に行う。そうであるとするならば、韓国による日本バッシングはこれだけが突出した事態なのではなく、現在の韓国が抱えている国民性(つまり要素の1~5)がなせる様々な事態の部分集合として捉えた方がよいということになるだろう。

日本も同じ構造を抱えつつある?
そして、こういった嫉妬の構造、実は韓国に限ったことではない。わが国日本でも最近拍車がかかっていないだろうか。メディアで突出した特権的に立場にある人間がスキャンダルや事件に巻き込まれた瞬間、嫉妬が炸裂し徹底的なバッシングを開始する。今年一年を思い返しても小保方晴子、佐村河内守、野々村竜太郎、小渕優子、矢口真里、百田尚樹+家鋪さくら(やしきたかじん妻)。これらは一様に趙顕娥前副社長と同じような立場にあり、ちょっとしたスキャンダルがネット上で炎上して嫉妬を巻き起こした。で、最終的に叩くわけで、大衆の「上げて、下げて、私のカタルシス」=嫉妬の解消という構造はまったく同じなのだ。

IKEA問題が暗示するここまでの議論の矛盾

スウェーデン家具のIKEAが12月にソウルに第一号店をオープンするにあたって、そのホームページと商品に掲載したマップに「Sea of Japan」、つまり日本海と記したことについての大バッシングが起こったことも記憶に新しい。これもまた同じ構造なのだが……ところが、である。オープン当日の映像を見てみるとびっくりすることがある。オープンを待ち焦がれていた若者たちが、さながらAppleストアでの新型iPhoneの発売イベントのように開店をカウントダウンし、喜色満面でハイタッチしながら店内に次々と入場する姿が映し出されたのだ。

この映像、ここまで僕が展開してきた韓国人のイメージとは正反対の姿だ。メディア的に展開されるような政治問題はさておき、IKEAというイケている新しい消費産業のはじまりを大歓迎している。さて、これどう理解すべきか。つまり、どちらが真の韓国大衆の姿なのか?……僕は後者の方を支持する。ただし、ご存知のようにメディアは徹底的にネガティブな映像、つまり韓国ダメという報道を流し続けている。今回は韓国に対してネガティブな議論展開になってしまったが、これが「メディアと政治によってイメージがコントロールされているだけ」という立ち位置になった瞬間、見方が変わって来ることは、念頭に置いておいた方がいいだろう。

最後に、しつこいようだが、これは「もしも6つの前提をネガティブ考えたら」という前提でしかないことをお断りしておく。僕はヘイトスピーチに荷担しているわけでも、韓国文化を擁護しているわけでもないので(まあ、勘違いして「よくぞ行ってくれた」とか、反対に「そんなこと言いながら、あんた嫌韓論者なんだろ?」なんて邪推する人がいるかもしれないが(笑))

前回はオンライン英会話が安くなる仕組みについて説明した。ポイントは1.フィリピンと日本の物価・人件費の違い、2.英語コンプレックスを煽られて登録したのはよいが、その実ほとんど使用していない多くのユーザが存在する、の二つにあると指摘しておいた(ちなみに2の場合、そのほとんどが数ヶ月で退会するのだが、必ずと言ってよいほど、割引と称して「最初の三ヶ月分の入金」を要求されるので、たとえば一月6,000円とすれば18,000円を徴収されてしまう)。

さて、後編では、この「大量入会、大量退会」のシステムが授業にどのように反映されるかについて考えてみたい。

レベルが上がれば上がるほど、対応できなくなる

ちょっとだけやって、すぐにやめてしまうという人間が大量に存在するということは、教える側からすれば、こういった層に対する対応=指導法だけを学んでいればよいことになる。

で、おそらくこれらの層の中心はまさに英語コンプレックスが高く、メディアで英語を煽られているユーザー。授業レベルなら初級、よくても中級程度ということになる。そして、これらの層のためには、ちゃんとしたテキストが用意されている。”Hello.”,”How are you?”,”I’m fine,thank you.”みたいな初歩的なスキット練習だ。教師の方も、これはしょっちゅうやっているので十分に対応が可能。ただし、初級でも終わりの方になると、ちょっとおかしくなることも。これはそこにまで到達せずに退会したユーザーが大量に存在することを暗示させる。このことについては中級やビジネス英会話(これも中級)でも同じだ。いや、こちらのほうが対応が少々おぼつかなくなってくるレベルは早い(ということは、その多くはここまでには到達しない)。ということは、レベルが上がれば上がるほど対応がおぼつかなくなってくるということになる。

自己紹介やテキスト読みでお茶を濁す

現在の僕のレベルはintermediate~advanced(TOEIC800点台程度)といったところ。このレベルになると教材を用意しているところはほとんどなくなる。なので、外部の英文が教材として用いられる。具体的にはBBC、CNN、NHK、VOA、TEDが提供しているサイトの英文がそれだ。で、この場合、教員は原則原文を読んでいない(教材としてリストアップはされているが、時事ネタなので流動的。記事はどんどん変更されるため、いちいちチェックしてはいないのだ)。それゆえ、授業はこれを読むことから始まる。先ず教員の方が内容を理解しなければならないのだ。これが、たとえばNHKの「ニュースで英会話」(HNKのBSニュースの記事がテキストになる)くらいだったら文章が短いのでよいのだが、他のものはこれに比べるとかなり長い。それゆえ、これを読むだけで7~8分は必要になってくる。ところが、授業時間は25分。しかも、教員の多くは授業開始に先立って「週末は何してた?」みたいな雑談から入ってくる。で、放っておくとこれが10分も続いてしまい、ということはテキストについての学習がトータルで10分もないなんてことになってしまう。

また、初めてレッスンを受ける教員の場合、自己紹介を必ずやらされる(これははっきり言って時間の無駄なのだが、とにかくこれで引っ張られる)。これが10分近く。もしこの自己紹介に「週末何してた?」が加われば、あたりまえの話だがテキストに入ることは実質的に不可能だ(しかも、教員は頻繁に入れ替わるので、ヘタすると自己紹介を無限にやらされることになる)。

で、このレベルになると(このレベルでさえも?(>_<))もはやマニュアルは存在しないので、その対応はアドホックなものになってしまっている。つまり、教員が気づいた項目にその都度対応するというパターンになる。いいかえれば、体系立てられた指導法はもはや存在しない。要するにこの程度のレベルでさえもユーザー=受講者はきわめて少なくなってしまっていて、対応法が確立されていないのだ。

文法を教えないのは初心者には致命的

ちなみに初級・中級であっても、そこで指導されるのはスキットと身体的学習のみ。なぜか文法については、ほとんどのオンラインスクールにはカリキュラムが用意されていない。あたりまえの話だが、文法なしで英語を喋るなんてのは、生まれたときから英語圏にいるか、メチャクチャ長い間英語圏で暮らしていない限り不可能。なので、このレベルで学習しても、結局は突っ込んだ会話やリスニングに到達するのは限りなく難しい。そう、要するに「トラベル英会話」のレベル以上の能力を期待することは出来ないのだ(とはいうものの、25分で文法指導はちょっとムリか?)。

「オンライン英会話はまだまだ始まったばかり」、これが僕がレッスンを受講してみて受けた感想だ。現状ではニッチ商売の域を出ていない。

自分でカリキュラムを組み立てられれば問題は無い

だからといって、これが使えないかと言えば、そうでもない。学習の体系立てをユーザーの方がやればいいだけの話なのだから。僕の場合、1.自己紹介や雑談を極力カットしてしまう、2.記事を大急ぎで読む(時間稼ぎ。ただし、アクセントや感情をしっかり入れて。つまりこちら大急ぎで読んでも教師がわかるように周到に練習をしておく。まあ、これはこちら側の学習にもなる)、3.文法的な質問をしない(予備校で英語教師をやっていたこともあるので、文法はあらかた解る)、4.会話に必要な表現や単語はメッセージに打ち込んでもらう、5.定番の教師を決めて専らその教師のレッスンを受ける、6.初めての教師の場合には文の短いNHKの「ニュースで英会話」を指定する、といったような工夫をやっている。ようするに、こちらがカリキュラムを組み立てられることが出来れば、これはこれで安くて便利な英会話なのだ。

英会話教室の革命であることは、間違いない

ただし、オンライン英会話、これからも発展していくだろう。期待したいのはスケールメリットが現れること。ユーザー層がどんどん増え、それに従ってシステムも完備されているというかたちだ。すでにDMMが英会話に乗り出して、現在テレビで大キャンペーン中だが、こういった大手が入ってくると状況は一変するだろう。そして、あまたあるオンライン英会話、そして既存のフェイス・トゥ・フェイスの英会話レッスン(高額)が淘汰されていくのだろう。考えられるのは低廉=オンラインによるサービス、高額=フェイス・トゥ・フェイスの体系立てられたサービスという二極化。つまり「大衆化=一般化」と「高級化=排他化」(バブルはじけた後のスポーツクラブ再編成みたいなものかな?)。まあ、いずれにしても、これがインターネット時代の所産であるということは、間違いない。


オマケ:「英会話をやりたいけれどオンラインはフィリピン人なのでフィリピン訛りが気になる」なんてことを思っている人がいたら、そんな人はそもそも英会話をやる資格が無いと思った方がよいですよ。そういった「訛りレベル」のことにツッコミを入れられるのは相当レベルの高い非人間だけなので。で、英語熟達者の場合、その訛りレベルを自ら修正する力も持ちあわせているはず。

オンライン英会話は使えるか~レッスンを体験してみた

近年「英会話の価格破壊」として人気急上昇中のオンライン英会話。その魅力はズバリ「低価格」。30分程度のマンツーマン・レッスンが一回につき200円以下という破格の料金で受けられる。現在DMM、レアジョブ、ラングリッチあたりが大手三校。
じゃあ、自分もやってみようとばかり、9月始めからレッスン(一日一回コース)を受け始めた。ちなみにほぼ毎日なので、すでにトータルレッスン時間が50時間に達している。で、こんなことをやっているおかげで、そろそろいくつかシステムが見えてきた。そこで三ヶ月ほど試してみた結果をレポートしてみたい。前半は「低価格になるカラクリ」。

一日200円以下になるカラクリ・その1:人件費

しかし、それにしても1レッスン200円以下というのは安すぎだ。DMMなら最高75円になる(ただし、特別価格)とも謳っている。なので、はじめにそのカラクリについて確認しておきたい。というのも、実は、このカラクリこそが教育システム=カリキュラムの構造に大きく影響を及ぼしていると考えられるからだ。

ひとつは、あたりまえの話だが、まさにインターネット時代のメリットを最大限に生かしたから。英会話教師はそのほとんどがフィリピン人。そしてもちろんフィリピン在住。なのでテレビ通話アプリ・スカイプを利用して日本とフィリピンを結ぶのだが、要するにフィリピンの人件費の安さ、ネット通話が無料であることを利用してこのビジネスが生まれたのだ。

一日200円以下になるカラクリ2:日本人の英語コンプレックスに訴える

ただし、である。いくら賃金格差があるといっても、これじゃ教師の時給は最低150円以下ってなことになってしまう(DMMの場合、最安で75円なのだから、これを基準に教師の取り分を見積もれば時給は数十円程度と、とんでもなく低いということになる。しかしながら教師はそれなりの訓練を受けているし、その全てが大卒、あるいは大学生。そう、いくらなんでもこんなに時給が低いわけはなかろう。でも、なんでこんな安い価格が設定できるのか。

その答えは「英語というコンプレックスを利用した釣り」にあるといっていい。とにかく日本人の英語コンプレックスはハンパないというか、メディア的に助長されてしまっている感が強い。英会話関係の広告がテレビCMや電車内、ネットなどで夥しく展開され、そのどれもが「英語喋れないヤツは国際人じゃない」みたいな煽りがあたりまえのように行われている(実際には、そんなことは全然ないのだが)。半面、英会話で目ざされている到達目標はあまり明確にされていない。英会話には、たとえばトラベル英会話、日常英会話、ビジネス英会話、本格的なネイティブとの議論が出来る程度の英会話など、用途に応じて様々なレベルがあるのだが、これがみんなゴチャゴチャに扱われる。で、恐ろしいは、用途の設定が曖昧な結果、常にに先ほど列記した最後のレベル「本格ネイティブとの議論が出来る程度の英会話」がメディア的に設定され、これに到達すべく一律に英語コンプレックスを煽り続けるのだ。ようするにクルマを運転するのなら、安全に運転できればよいのに、一律F1レーサーを目ざさなければならないようなあやしい構図が設定されている(正直な話、日本人の英会話のレベルはメディアによる設定に比べれば遙かに低い。いいかえれば「永遠に達成不可能な目標」がメディア的に垂れ流しにされている)。で、こういった英会話ビジネスに入れば、突然ネイティブとペラペラとコミュニケーションが出来るような幻想が振りまかれている。

「じゃあ、英会話やらなけりゃ」となるのだけれど、フェイス・トゥ・フェイスの英会話レッスンはベラボーに高いので、これはムリ。そこでお手頃なインターネット会話が登場するのだけれど。実は、同様にこちらの方も、こういった煽りをうまく利用したビジネスになっている。

僕が利用している英会話は最大手のひとつ。システムは他のものとほぼ同じで一回につき25分のレッスンが受けられるが、これが一日一回で一月6000円程度。一回は200円ほどということになる。レッスン予約はサイトの予約ページに飛び、時間帯を選び、該当する時間枠をクリックすると受講可能な教師の写真が登場し、これをクリックして完了する。

で、この時、気になることがある。講師の数だ。リストを見てみると300名程度がリストアップされているが、各時間帯ごとに見ると対応できる教師は最大で20名程度。時間帯によっては(早朝など)数名という場合も。しかしながら、登録されている生徒数は膨大で、当然この程度の人数では処理しきれないはず。にもかかわらず、開始時間間近になっても予約可能な教師が存在するのだ。

これは、どういうことか?

この答えはこうだ。その安さに乗じて膨大な数の消費者がオンライン英会話に登録する。ただし、ほぼ全員が英語コンプレックスの持ち主。なのでレッスンは緊張しまくる(英会話教師たちの多くが日本人はナーバスだと指摘していた)。で、ほとんど英語が話せない。教師の方が一方的に話すというような展開でもしないと、会話よりも沈黙が流れる時間になってしまう。その結果、コンプレックスは返って助長される。で、だんだんとレッスンから疎遠になっていく。ただし、最初の三ヶ月とかは「割引」と称して一括入金を義務づけてくるところが多いので、結局たとえば一ヶ月6000円ならば18000円を払い込み、その実受けたレッスンは数回だけと言うことに。要するに膨大な数の非アクティブ・ユーザーが存在するわけで、だから教員数は一枠に付き20名程度で十分に処理可能。一方、このユーザーたちが支払った授業料が教員に還元される。だから彼らに支払われている給与は時給二桁ということには必ずしもならないわけだ。

もちろん、やる、やらないはユーザーの任意だから、これは悪徳商法というわけではない。自己責任、つまり「やらないヤツが悪い」だけなんだから。ということは、僕みたいな貧乏人は「意地でもやってやろう」(笑)と考える。なので、一部だが、毎日のようにガンガンやっているユーザー=生徒もいるわけなんだけど。

ところがこの構造、教育システムそれ自体、つまりマジメにガンガン授業を受けている人間にも大きな影響を及ぼしているのでは?しかも悪い方に。では、それは何か?(続く)

研究編:研究という権威とどう関わるかで態度は変わる

大学に生息する珍種の教員についてご紹介している(あくまで珍種、亜種です。あしからず)。後編は研究・事務編。ちなみにここでの様々なエピソードは文系教員を対象にしている。大学教員は教育者でもあるけれど「本来は研究者」というアイデンティティがある。つまり、「研究が好きで学者になった」というタテマエがある。で、このタテマエがどう展開するかで研究や事務に対する態度も変わってくる。

「これでいいと思います!」というご託宣

大学院時代の仕事は研究者にめざし研究会への参加、論文作成、学会発表・参加、主任教授のカバン持ちなど、いろいろとやることがある。で、院生の中には大学院というのは結構響きがいいと思っている人間がいる。大学が「最高学府」、ということは大学院は「チョー最高学府」ってな認識があるからだ(さながら「最高裁判所」のあとに「バッチリ裁判所」とか「ハイパー裁判所」とかがあるという感じか?)。おまけに、今や大学院はかなり入りやすい(文科省の指導によって定員を大幅に増やしたため)。自分が所属した大学の偏差値プラス5とか6とか、いやそれよりもっと偏差値の高い大学の大学院に意外と簡単に入学することが出来る(学歴コンプレックスの固まりみたいな学生たちは大学院に入ることでルサンチマンを晴らしたり学歴ロンダリングをやったりするのだけれど)。

で、こんな認識をもっていると大学院時代で、すでにいおエラい方になる場合もある。たとえば、学会でオモシロイ発言をする人間が登場する。学会発表の席で、某有名T大学の院生のやった質問・コメントがその典型だ(発表者ではない)。学会発表では発表の後に質疑応答があるが、その際、件の院生は「それでいいと思います。あなたのやっていることは合っています」とコメントしたのだ。おいおい、あんたはいつから大先生になられたんだ?それとも神なのか?当然、その場は唖然とした空気に包まれた。つまり”中二病”(ちなみに、このエピソード、あっちこっちから報告があった。しかも、これをやるのが、なぜか決まってT大院生なのだ)。

大学教員生活は余生

で、なんとか大学に職を得ることに成功するのだが、そのうちの一部の者が就職した瞬間、研究をスッパリとやめてしまう。ようするに「上がり」ってなわけだ。その一方で、困ったことに学務も教育もやらない。いいかえれば三十代で「余生」に入る若者が登場する。こういった人間は大学からすれば「不良債権」。何にもやらない分を他の教員や職員がフォローすることになる「焦げ付き」になってしまうのだ。大学の人選は公募か特定採用が基本。前者は広く公募を募って書類と面接で選考する。後者はいわゆる「一本釣り」。そして、この二つの中間形態の採用方法があるのだけれど、いちばんフェアに思えているようで、実はリスクが高いのが公募なのだ。書類だけだと業績しか見ることができないので教育と事務能力を測定できない。なので、面接や模擬授業を選考項目に加えるのだけれど、これとて一回きりが原則なので、上手く切り抜ける人間は結構多い。採用人事は、いわば「スカを引かない」ために行われるという側面があるのだが、どうしても紛れ込んでしまう。特定採用のようなコネの方が安全という場合が、間々ある。

で、こういう輩は結局、権威主義。大学教員という職業が社会的ステイタスであり、これを獲得したいというのが先ずあって、そのタテマエとして「研究が好き」となっているという体裁を装っている考えるのが正鵠を射ているだろう(だから就職した瞬間、カミングアウトして研究をやめてしまうのだけれど)。ちなみに大学教員になったところで、そんなに高額な給料がもらえるわけではない(国公立ならフジテレビ社員の半額くらいか?まあ、平均年収よりはマシだが)。ということは、やっぱりネームヴァリューに関心があるというわけだ。

「私は研究者」という強烈なアイデンティティ

一方、その逆もある。研究者というアイデンティティがメチャクチャ強い人間だ。「全ては研究のため」「自分は研究のために大学に所属している」という信念ゆえ、こちらには一生懸命だが、その反動で教育と学務をほとんどやらない。で、こういうタイプは二つに分かれる。一つはそちらの研究に没頭するので優秀なタイプ。ジャンジャン業績残して、とっとと上の大学へと移動する。上の場合「研究中心の大学」なので、本人からすればそれまでの大学は「腰掛け」としてうまく利用したということになる。

まあ、これはこれでいい。著名な学者がかつてこの大学に所属していたというのは大学に箔がつくからだ。それなりに貢献している。マズイのは研究があまりにオタク過ぎて、当該学問分野でも相手にされないタイプだ。教育や学務をやらない、その一方で研究機関としての大学にも貢献しない、研究ばっかりやっているので社会性がない。というわけで、これもやっぱり「不良債権」扱いとなる。

学会でご託宣を宣う

就職が決まると研究をだんだんとしなくなるので、学会発表も減ってくる。調べればわかることだが、学会の発表者って、その多くがまだ就職先が決まっていない若者たちなのだ。ただし教員にとって学会はかつての仲間との再開の場でもある。しかも大学からその費用が出るので出席するにはやぶさかではない(とりわけ北海道や沖縄で学会を開催すると参加者が増えるのは、なにをかいわんやである)。

で、出席してギャラリーとして参加するのはよいのだけれど、中には迷惑な連中も存在する。やはり、発表者について質問やらコメントをするのだけれど、これが完全にピント外れというか、我田引水というか。自らの関係筋の発表がなされると、その発表についてコメントするのではなく、持論を展開してしまう。つまり相手の話を聞かず長々と高説を垂れてしまうのだ。その間、他のギャラリーは延々待たされることになるのだけれど、まあ迷惑きわまりない。

学務編:やってもらうことが基本

事務は職員の仕事

最後に事務=学務についても触れておこう。学内の事務、つまり学務も教員の重要な仕事の一つだ。しかしながら、これを極力やろうとしない輩が存在する。先ず書類の提出が遅い、あるいは提出しない。職員の方も慣れたもので、ある程度書類が出てこなければそのままスルーするか、こちらの方でさっさと処理してしまう。こっちの方が遙かに経済効率がよいからだ。それゆえ会議の議事録、進行表等の作成は全て職員が担うところが結構多い。これって、教員が手がけることで学務に対する自覚が涵養されていくという効果も期待できるのだけれど。しかし、教員にやらせておけばいつまで経っても出来上がらないので、やっぱり効率性を踏まえて職員がさっさと処理する。つまり、教員は上げ膳据え膳をやってもらえる「お殿様」となるのだが、これがデフォルトになってしまうと、ただただおエラい方になっていく。これこそ「大先生誕生」の構図である!

パーティの席上で、人は向こうからやってくるものと考える。

パーティの席上での教員の行動パターンも興味深い。基本、こちらも「上げ膳据え膳」という状況を期待している。たとえば、初めて出会った場合。名刺を先に差し出すのは相手の方。いや、後からであっても出してくれるだけまだマシ。中には、その都度「実は、名刺を切らしておりまして」と言い訳し、名刺を決して配らない教員もけっこういる。これ、言うまでも無いことだが、ビジネスの世界では余裕で失格の行動だ。

また、酒宴の席では専ら1カ所に立ち続ける。椅子がある場合はそこに座り続け、他の参加者が挨拶しに回ってくるのを待つ。これは傲慢と言うよりも、自分から席を立って挨拶するといった社交を経験したことがないから。で、着席しているときは手持ち無沙汰なので、たまたま隣に居合わせた社会人、あるいは教員と話し込むことに。教員同士なら相互扶助(見知らぬ空間で手持ち無沙汰になることなく、やり過ごすことが出来る)になるが、相手が社会人の場合だと教員のおもりをさせられることになる。

前回述べたが、最近、大学は過当競争の中にあるので教員も営業に駆り出される。たとえば企業説明会などを開き、その後で立食パーティが催されたりするのだが、その時、会場の隅の方に集まりヒソヒソ話をしている連中が教員だ。怖くて見知らぬ人間に名刺を差し出すことが出来ないのだ(前述したように、持っていないという輩もいる)。で、お客であるはずの企業の人事担当の方が名刺を持ってやってくることに。

でも椅子取りゲームは好き

こんな輩がある程度力を持ってしまうと学務それ自体が立ち行かなくなることも発生する。大学を「余生の場」と捉えている教員にとって、この環境は是非とも守るべきもの。だから、現状の環境を変更したくない。そこで、構造を変化させないようと努力し始める。いわゆる保守反動、アンシャンレジーム志向。で、これと学者気質と結びつくと質が悪い。学者というのは要するにオタク。施行細則にものすごく細かいという性格がある。で、この性格が保守反動と結びつくと大学規定を熟読し、どんな新しい提案も「規定違反」という解釈を構築して変革をストップさせてしまう。で、とにかく誰よりも規定を読み込んでいるので、最終的に誰も反論できない。かくして大学組織は旧態依然としたまま運営が続けられ、気がつけば時代から取り残されることに。ちなみに私大で理事長とか理事会がワンマン経営している場合は、こうはならない。ただし、それがよいかというと話は別。今度は理事会がわけのわからない裁量で大学運営を振り回し始める。

ちなみにこういったたぐいの教員は元々権威主義なので、偉くなることは大好き。教授になること、役職に就くこと、派閥を作って政争を繰り広げること、こんなことに血道を上げる輩も、まあ結構いる。セコイ「白い巨塔」ごっこみたいな状態を繰り広げて余生を楽しむのだ。という足の引っ張り合いなんて茶番もまた、展開される。

ということで、あっちこっちの大学に生息する大学教員たちの亜種の生態とその行動について今回は紹介させていただいた。こんな輩が大学教員の中にいると考えると、まあ教員も「人の子」ってなことになるんだろうか。

僕の知り合いの小学校の校長先生が退職後、教育学関係の大学に再就職された。定年後に、受け入れ側に望まれて入ったくらいなので、教育者としてきわめて優秀、教育にも熱心な方だ。さて、再就職してそろそろ1年が経とうとしている件の先生に先頃お会いしたのだけれど、なんと先生は大学に不満を抱いておられた。それは「大学は不可思議なところ。教員がマトモに教育していない」というものだった。学生が授業に欠席しようが知ったことではないし、授業以外はほとんど関わることがない。逆に一生懸命面倒を見ている自分が白い目で見られるほど。

「大学の先生は教育者としての自覚って、どうなっているんでしょうか?」

これには僕も別の側面からではあるが同感だ。僕は大学教員になって17年目だが、それ以前は一般社会でフリーランスとして過当競争の中で働いてきた。当然、仕事できなかったり、失敗したら即クビという状況にあった(実際に、突然クビにされたこともある)。そんな僕、つまり民間で仕事をしていた目から見ても、大学教員の中にはきわめて不可思議な人間が存在する。一般社会ではあり得ないことをあたりまえに思っていたり、にもかかわらずそれがまかり通ってしまっていることもしばしばなわけで。あまりにそのかけ離れた行動に、僕はかえって関心を抱き(これも社会学者という奇異な職業の性分か?)、教員となって以来、いわば生態学的?あるいは文化人類学的に教員を観察してきた。で、研究会などで顔を合わせるあっちこっちの大学の教員にこのことを訊ねてみると。変わった「生態」があるわあるわ、いろんな話が返ってきて盛り上がってしまった。そこで、今回は、大学教員という動物の生態?(あるいは部族?)について集めたエピソードをご紹介してみたい(こりゃ、どっちかというと文化人類学的なフィールドワークかも?)。ただし、間違えないでいただきたいが、ここからご紹介するのは大学教員の一般的な傾向=趨勢というわけではない。あくまでも「こんな輩が存在する」というふうに理解して欲しい

大学教員の仕事は大きく分けて三つ。教育、研究、そして事務だ。なので、この三つに分けて事例を紹介したい。

教育は全て自己責任という立場

で、今回は教育についていくつか取り上げてみよう。

・学生が何もしなければ、何もしない

「大学は最高学府。選抜された大人が研究に対して自主性を持って入ってくるところ。なので大学教員としては、もっぱらその知識を提供するのが仕事。よって勉強する、しないは全て自己責任。やる気のないやつは放っておけばいい。要は自己責任なんだから」。
こういったスタンスで講義やゼミをやっている教員がいる。三十年以上も前の、進学率が10%程度ゆえ、実際に選ばれた人間が入学してくるというシチュエーションなら、まあ、わからないでもないが、もはや大学進学率は50%を超えている。でもって、もはやほぼ全入の時代なので、こちらの方から手招きし、手厚い保護を加えないことにはほとんどの大学は成り立たない時代に突入しつつある。つまり小中高の「生徒指導」レベルが要求される時代。だから、こんなこと言っているようではどうにもならないのだが、そんなことはお構いなしである。

・授業時間は正味一時間

授業を15分遅れで始め、15分前には終了する。一講義は90分なので、正味一時間くらいしかやらない。講義もちょくちょく休講にする。ちなみに、最近、文科省はこの手のことにかなりうるさくなっており、国公立の大学では必ず15回の講義(半期)をやるように指導しているところも多くなってきた。一方、私学となると、このへんはかなりイイカゲン。

・授業はひたすらビデオ

国文学の授業なのだが、ひたすらビデオで映画(日本の古典)を見せるという教員がいた。映画のジャンルは自分の好きなヤツ。それを分析するとか、体系立てて説明するとか、そんなものは一切ない。で、映画が終われば、また次の映画。「この時代、原節子は大女優でした。いや~美人ですねぇ」って、どうでもいい話で授業は展開する。しかも、気に入っている場面では本人が介入して話をするので作品が中断されてしまい、真剣に見ている学生にとっては、かえって集中しづらい。ただし、この先生、人気があった。ほとんどの学生にA評価を与えていたのだ。ということは、授業中は、つまらない映画を上映している暗い教室内で昼寝していれば優秀な成績がもらえる。出席も採らない。ということは、手際よく単位を取りたい学生にすれば「よいセンセイ」ということになる。

・駅のコンコースと化す授業風景

受講生に全く関心を示さない。だから授業のプレゼンはメチャクチャ。ボソボソと喋ったり、ものすごい早口だったり、板書がべらぼうに多かったりする。また板書は書いた瞬間消してしまうので、実質学生たちはノートが取れない。ただし、学生に関心を示さないので、学生の方も適当にやる。だから教室は私語の嵐。さながら駅のコンコース状態。

・やたらと受講生に過敏

その反対もある。とにかく受講生に過敏なパターンだ。咳をしたら怒りだし、即座に教室から退出させた。体調が悪くなり退出した学生を再入出させなかった。次回の講義で件の学生が出席すると睨みつけ、学生は事実上、それ以降の出席が不可能になった。ただのアカハラなんだが、そのことが全くわかっていない。教員にとって、この学生は、ただ単に「態度が悪い」という認識しか無い。センセイはエラいのである。


・試験の解答を教える

期末テストは面倒くさいので「合理化」を推進しようとする教員がいる。○×式テストを実施する、ほぼ毎年同じ問題を出すなんてやり方がその典型(ちなみに授業内容が10年間同じというのもまま見受けられる)。また試験の前の週に「授業のまとめ」と称し、これまで学習した内容の復習を行う。なかなか丁寧な教員とおもえないこともないが、実はこの「まとめ」の内容がそっくりそのまま試験問題になる。こういったやり方をすると、受講学生と教員の間には、ある種のWinーWinの関係が成立する。学生としては毎年同じ問題ならカンペが回ってくるし、授業のまとめをやってくれるならその時だけ出席すれば単位ゲットは楽勝(にもかかわらず、なぜか成績に差が出るんだが)。で、こういう教員に限って出席をとらない。教員としても○×や同じ内容についての回答チェックなので、採点にかかる時間は一枚1分以下。それゆえ、こちらも楽勝。当然、ここでは「教育とは何か」なんて問いは不問に付すべき問題となる。

・自著の教科書の購入を義務づける

教科書を指定している教員の中には、新規購入を義務づける者がいる。授業以外ではほとんど購入者がいないので、毎年せっせと受講生に購入させて在庫分を処理しようという魂胆だ。学生たちは価格がバカにならない教科書(7000円以上するなんてスゴイやつもある。まあ、だから売れないんだろうけれど)を購入したくはない。出来れば先輩から譲り受ける(同じ教科書を使っているのだから十分使える)というかたちで節約したいところ。ところが、これができないように教員側もバッチリ対策を立てている。試験時は教科書持ち込み可。しかしその理由、実は教科書を購入したかどうかをチェックするため。試験最中、教員が教室内を回り、受験者全ての教科書を検分して回る。検分するカ所は奥付だ。ここに自分の印鑑を捺印するのだ。で、もし先輩から譲り受けた教科書なら、すでに奥付には印鑑が捺印されてある。これが発見された学生は即刻受験資格を失うのである。

・ほとんどの学生を不可にした

試験問題の出来の悪さに「学生が怠慢」と憤慨し、全体の8割に単位を認定しなかった。こういった教員の場合、わけのわからない授業をやっている可能性が高い。本人は高尚な授業をやっているつもりでも、学生たちには理解不能。つまり、学生たちが受けようとするレベルと教員が提供するレベルが全くかみ合っていない。しかし教員側はそれを受け入れないどころか(学生のレベルをマーケティングしようなどと言う意志はさらさらない)学生の学力低下を嘆き、それを「ゆとり社会の弊害」と言い放つ。

・結果として各種ハラスメントをしてしまう

大学教員の多くが大学、大学院という人生を歩んできて、専ら勉強だけだったので異性との関係についての経験値が低い。なので大学に就職し、ゼミで学生の面倒を見ることになるとエラいことをやりかねない。face to faceの関わり、研究室という密室での指導。慣れない異性との関わりの中で、親密性を恋愛感情と勘違いし、気がつけば気分はエロモードへ。そこでセクハラが発生する。また、言うことをきかないと、今度は一転してストーカー=イジメモード、つまりパワハラへと転じる。これもやっちゃいけないことなんだが、社会経験が低いのでわからない。


・評価されることを極端に嫌う

FDと称して、授業改善などを目指して大学は「授業評価アンケート」を実施している。で、この存在を端っから否定する。アンケートは選択式の質問項目が20項目程度で、これらが五段階評価になっているのだけど、これを極端に嫌うのだ。「授業を評価するなんてのは研究の自由に対する侵害だ」「学生には評価能力が無い」「この評価アンケートは真実を反映していない」というのがその理由。ちなみに、この評価アンケート自体、確かに実はほとんど役に立たないことは事実。何のことはない、きわめて差が出にくいのだ(ほとんどの教員が同じような成績になる)。ただし、ひとつだけわかることがある。それは極端に評価が高い教員と極端に評価の低い教員については当たっているということだ(これはグッド)。ただし、自分が評価されることに慣れていないので、とにかく成績を付けられることがイヤ。なので、実施すること自体に大反対が起こる。「授業評価」という名称についても「評価するとは何事か!」というツッコミがなされるほど。センセイはやっぱりエラいのである。で、最近では大学によっては「授業改善アンケート」なんて名前に改められている……まあ、どっちでも同じなんだけど。当然、評価については公表を嫌う教員が多い。なので、大学によっては教員だけに結果が知らされるというところも。しかも返却に当たっては集計する側が事前に自由回答をチェックし、誹謗中傷と思われる部分を削除してから手渡すなんてご丁寧なケアまでやっているところも(ちなみに、これも最近ではアウトソーシングだ)。で、そのままゴミ箱に捨てられるなんてことになれば、実施すること自体に意味がなくなるんだけれど。

またアンケートには自由回答項目が設けられている場合が多い。この欄は、匿名であるがゆえに時にかなり誹謗中傷めいたコメントがなされることがある。ところが成績の公表すら嫌う教員。当然、こういった文面には「怒り心頭に発する」状態になる。「あんな連中は人を評価するような能力が無いんだから、そもそもこんな回答をさせることそれ自体が間違っている」。まあ、評価されることにホトホト慣れていないんだろう。お客様の学生を「あんな連中」呼ばわりするのも、大人気が無い。

・学生の卒論の公表を嫌う

論文というのはあたりまえの話だが「第三者に見られることを前提に作成するもの」。ところが自分が指導した学生論文の公表を頑なに拒む。「あんな連中はて・に・を・はすらわからない。文章を書く能力がない。だいいち個人情報に関する知識もないので、書いたものを公表したら、場合によっては裁判沙汰になる」というのがその理由。でも、よく考えてみて欲しい。これらを指導するのが「卒論指導」なんじゃないの?なんのことはない、指導していないのがバレたら困るだけのことなのだ。で、いちばん見られたくないのは同僚の先生だったりする。論文の質自体が指導の質と量を反映しているからだ。

さてエピソードをいくつか紹介したが、どれも一般社会では到底通用しないといってもいいレベル。で、一括りにしてしまえば「社会性が低い」ということになるんだけど。

ただし、繰り返すが、あくまで「こんなセンセイもいるんですよ」ということで、了解していただきたい。(続く)

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