勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2014年11月

この20年ほどの間に、テレビではニュース以外でも様々なかたちで文字が挿入されるようになった。テロップ、字幕スーパー、スーパーインポーズ、クローズド・キャプションなど、様々な呼び名があるが、いずれも画面に文字が配置され、映像や画像に何らかの意味を添加するような手法だ。ややこしいので、とりあえずここでは一番簡単な表現で「字幕」と呼ぶことにする。

津田塾女子大の柴田邦臣氏は2014年度の日本社会学会でCMにおける字幕の機能についての興味深い発表を行っている。CM字幕は情報を伝達するメディアとして徐々に独自の機能を持ち始めているというのだ。これには僕も大賛成。そこで、今回はテレビ全般における字幕の機能についてメディア論的に考えてみた。このアナログというかアナクロな「字幕」というメディア。古くて、実は新しいものなんじゃないだろうか。

メディアとしての字幕の四つのレベル

字幕の機能をいくつかのレベルで考えてみたい。レベルのスケールは「映像への従属→映像からの自立」というものだ。言い換えれば、レベルが上がるにつれて字幕それ自体が映像や音声から独立してモノを言い始める。

レベル1:完全な映像への従属

先ず、映像に対する最も従属的なレベルとして映画字幕、クローズド・キャプションが挙げられる。例えばテレビの文字放送。最も単純なのは、話される内容をそのまま文字化したものだ。こういった利用の仕方は、要するに音声を補うためのもの。つまり耳の不自由な人間のためとか、周囲の音がうるさいので文字で補うとか、あるいは話者の語りがわかりづらいので喋り言葉が併記されるとか。こういった利用法は今やごくごくあたりまえなのだけれど、実はその歴史がそんなに長いというわけではない。80年代初頭、某大手電器会社の超有名な会長のインタビュー番組が放送された際、会長があまりに長老で喋りがよく聞き取れなかったので、ほぼ全編にわたって字幕を加えたことがあったのだけれど、これが「失礼」だと言うことで物議を醸したことがあったほど。
このパターンとしては、当時はむしろ映画の字幕(当然、洋画)が最も一般的だったと言っていいだろう(後述するが、実はこれも完全に音声に従属しているというわけではない)。で、これらは喋り言葉が文字化されているだけなので、自立性は全くと言ってよいほどない。

レベル2:映像のコンテクストを補う

映像だけでは情報不足ゆえ、字幕を加えてコンテクスト付けをするというのが次のレベル。これは映像ではないが、たとえば絵文字・顔文字・LINEのスタンプあたりをイメージするとわかりやすい。これらは文章に対してコンテクスト付けを行うことで、文字情報における情報の誤った伝達を避けることが出来たり、意味を付加したりすることができる。具体的には文字情報のみの場合、しばしば感情的に情報が解釈されるといった状況が発生するが、これに絵文字・顔文字・スタンプを加えることで誤解を避け、感情を低減することが可能になる。たとえば「怒ってます」とやると、なんとなく角が立つが、これに(`ヘ´)を加え「怒ってます(`ヘ´)」とやると、怒りが相対化され、感情のトーンが引き下げられる。この場合、絵文字・顔文字・スタンプが文章という「画像」に対してコンテクスト付けを行っているわけだが、映像上においては字幕=文字が、この役割を担うことになる。

わかり易い例を二つほどあげてみよう。
一つは90年代半ばに人気を博した日テレのバラエティ『進め!電波少年』の「猿岩石ユーラシア大陸横断ヒッチハイクの旅』(1996)などで用いられたもの。お笑いユニット・猿岩石(有吉弘行と森脇和成)が旅の途中でカネがなくなり二日間絶食。やっとのことでハンバーガーにたどり着いたときの映像。このとき、2人はあまりの感動に一言も発することが出来ない。ただ目をつぶって上を向き呆然としていただけ。いわば「昇天」しているわけだけれど、このときの字幕が「あ」に濁点を振った「あ”~っ!」だったのだ(表記できなかったらすいません<(_ _)>)。つまり、完全にこれは感動に補足が加わったもの。

もう一つはPixar映画『モンスターズ・インク』(2001)の中で用いられた女の子・ブーの台詞だ。ブーは幼児で、まだまともに言葉がしゃべれない。それゆえ、ブーのセリフの字幕は全て「★○※□×!」みたいなものしかないのだ。これはようするに「何しゃべっているのかわからない」という補足・メタメッセージ=コンテクスト付けに他ならない(ちなみに、この映画はモンスター(マイクとサリー)=わけのわからない存在がきわめてわけのわかる人間的存在で、人間(ブー)の方がわけのわからない存在、つまりモンスターであるところがミソ)。

実は前述した映画字幕も同様の機能を備えている。英語などの台詞を丸ごと日本語化するのは不可能なので字幕の翻訳は原則、かなりはしょった意訳、いわゆる超訳になっているのだ。言い換えれば「この台詞は、こう読め!」というのが字幕なのだ。

レベル3:キュレーションレベル

映像に対して字幕が徹底した説明を加えていくというのがこのレベル。映像だけではわかりにくいものについて字幕で状況の詳細を展開する。こうなると字幕の自律性は圧倒的に高くなっていく。映像よりも字幕が先ずあり、こちらに合わせて映像を読んでいくという視聴スタイルを視聴者が採ることになる(抽象画を作品の題名に沿って解釈するような状況)。字幕がオピニオンリーダーとして視聴者に向けて解釈の仕方、方向性を誘導することになるわけで、いわば字幕は画面から茶の間に飛び出し、あなたに向けて映像の読み方を語っている。これは池上彰の解説を想定してもらうとわかりやすい。難しい政治や経済ネタを平明に紐解くわけで、このレベルでは字幕はいわば池上的な役所を担っている。

レベル4:ツッコミ・レベル

映像に対してツッコミを入れるような場合がこれにあたる。映像を補足するどころか、映像を否定するために字幕が挿入される。たとえば出演者が感動しているリアクションをしたり、「こりゃ、すばらしい」と発言したりすることに対して、「どこが?」「ちっとも、すばらしくなんかないよ!」と字幕が入るシチュエーションを考えていただきたい。レベル3より、さらに画面から一歩飛び出し、茶の間=あなたの側に立ってテレビを批判するとか笑い飛ばすとかといった状況が作られる。3は茶の間へ飛び出してくるとは言っても、やはり映像(そして音声)を補足するといったスタンスから完全に外れることはない。この時、字幕はいわば2.25次元的な立ち位置となる。だがレベル4の場合は、完全にあなた=視聴者の側に立っているので、2.5次元ということになるのだろうか。つまり、字幕は映像から完全に自立したものとなる。こちらは、たとえば朝のワイドショー『特ダネ!』の小倉智昭をイメージしてもらうとわかりやすい。小倉はキャスターでありながら、必ずしもフジテレビ側に立つことがなく、時にはレポーターのレポートに視聴者側からツッコミを入れるなんてことをやっている。ちなみにアニメ『ちびまる子ちゃん』でのキートン山田のナレーションもこれと同じ機能を担っている。


映像、音声、字幕による情報のポリフォニー

こうやって考えてみると、レベルが進むにつれて字幕は映像、そして音声と相まって視聴者に多層的に情報を伝達するメディアへと変貌していることがわかる。映像、音声、字幕三つのメディアがテレビの中で渾然一体となって情報を視聴者に伝達し、統一した解釈を許さない。それは情報のポリフォニーに他ならない。だが、それはハーモニー(調和の取れたポリフォニー)とも、情報のバトル、情報の拡散による詩的空間の出現(ある意味混沌)とみなすこともできる。いずれにしても複層的メディアによる新しい情報伝達手段の出現であることは間違いない。だから課題は、この「古くて新しいメディア」をわれわれがどう生かすかにある。

ただし、これはイコール多層的な読みを視聴者に許容することを必ずしも意味しない。例えばレベル4において、われわれはツッコミの側に立ち映像を相対化する作業を行うことになるゆえ、一見すると情報の多相性による視聴者の主体的で独自的な、言い換えれば送り手の意図に必ずしも従わない能動的な読みをするように思える。ところが、これは必ずしもそうとは言えない。情報を別の視点から見ることを許容するという点では相対化ともとれるが、情報のオルタネティブな捉え方、つまりもう一つの捉え方を字幕が強要しているだけであり、これは言い換えれば、その他にもさらに多様な読みがあるという可能性を視聴者に対しては封じてしまう効果ももたらす可能性があるからだ(この辺については80年代の社会学において「受け手の能動性」という言葉で議論されていた)。ツッコミは「中二病的な見方をメディア側が提供している」というふうにも理解できるのだ。ようするに「諸刃の剣」。

またレベル4的なツッコミは、消費的にテレビを見ている側(まあ、ほとんどがそうなのだけれど)にとってはヴァーチャルな他者という機能をも果たす。つまり一緒にテレビを見てくれる相手という役割を字幕が偽装する。これは、ややもするとテレビ依存を深め、コミュニケーション不全を加速させるという側面も可能性としては考えられる。

とはいえ、こういった映像、音声、これに加えて字幕というメディアが加わることで、送り手側としては新しい表現方法が誕生しつつあることも確かだ。さて、今後どういった手法が現れるのだろうか?

オマケ:ニコ生の字幕の面白さ

ちなみに、映像、音声、字幕に「生放送」という状況が加わると、さらにもう一つオモシロイ事態も発生する。こういった放送形態を具現化しているのは、言うまでもなくニコニコ生放送(ニコ生)だ。ご存知のようにニコ生ではリアルタイムで視聴者がコメントを書き込み、これがフロー形式で映し出される。これは受け手にとっては、まさに多層的な読みを可能にするわけで、映像に対して様々な視点が集約性なくバラバラと流されるので、さながら集団視聴しているかのような消費的な楽しみが可能になる。つまり「ワイワイやっている」という感覚が視聴者参加意識を煽っていくのだ。

一方、これは送り手側にとっても興味深い効果をもたらしてくれる。ニコ生の収録現場(ニコ生はスタジオを必要としない。ネットが繋がる場所ならどこでもそこがスタジオに転じてしまう)で、出演者は常に目の前に二つのモニターを見ることができる。どちらも自分が映っている映像なのだが、一つはリアルタイムのもので、もう一つは数秒遅れのもの。で、後者が実際に視聴者が見ているのと同じもの、つまり書き込みのフローが流れる映像だ。僕は何度かニコ生に出演したことがあるけれど、この数秒遅れの映像が実にオモシロイ。自分が発言したことについて、視聴者から賛同、反論、ツッコミ等様々な情報が流れ、それを当の自分がチェックできるからだ。それゆえ出演者としては、字幕フローをみながら次のコメントを考えたり、新しいアイデアを思いついたりすることが出来る。そう、視聴者(書き込んでいる人間だけだが)と映像を介してインタラクティブに関わることが出来るのだ。で、ニコ生のオモシロイところってのは、実はこういった字幕の持っている新しい可能性にあるのでは?と、僕は考えている。

ジャズというジャンルはない

現在「ヨルタモリ」は大まかな設定があるだけで、まだそのスタイルが固まっているとは言い難い。だから出来にかなりのバラツキがある。その典型はゲストとの絡みで、第二回の井上陽水(陽水はタモリの親友)はとにかく丁々発止の展開だったが、第三回の上戸彩はどちらかというと宮沢りえがフォローしていたという感が強い。堂本剛の際にはタモリが蘊蓄を披露するという点で興味深い展開を示したが、第五回の松たか子は、どうも少し話が空回りしていた(一方的な展開。ちなみに、これは松のせいというわけではないだろう。以前、松が「タモリ倶楽部」で空耳アワードの審査員として登場した際には、まさに丁々発止と渡り合っていた。状況によって出来が異なってしまうのは、後述するが、要するに「ジャズだから」)感も否めない。まあ、これもその内ダラダラとやっている内に収まりどころが決まってくるのではなかろうか。ただし、どんどんとスタイルを変えながら(その一方で番組の形式は、いつものように究極のマンネリパターンを目ざすのではないか?)

そして、今回の「ヨルタモリ」。ある意味タモリの哲学が前面に出されたものでもある。それをいわば「吐露」してしまったのが第四回だ。その哲学は「ジャズ」の一言で表現することが出来る。この回でタモリは吉原という一関でジャズ喫茶を経営する人物を演じているが、これは一関に実在するジャズ喫茶「ベイシー」のオーナー・菅原昭二氏をモデルにしていることは明らか(菅原氏は早稲田出身で早稲田のジャズサークル“ハイソサエティ”の座長を務めていた、日本のジャズ界では知る人ぞ知る人物。何度も一関にカウント・ベイシーを呼んでいることでも有名だ。ちなみにタモリが演じる吉原という人物のヅラ=髪型は最近の菅原氏をリスペクトしてか?)。この吉原という人物を通して、タモリはジャズについて次のように語る。


「ジャズというジャンルはない。ジャズな人がいるだけだ。」

「ジャズをやっている人で、ジャズでない人がいる」(クラッシック畑の人間がジャズを演奏した場合を一例としてタモリは挙げている)

「音楽やんなくてもジャズな人がいる」


さらに「ジャズとは何か?」については「スイングしていること」と答え、その具体例として”博多のラーメン屋のオヤジがリズミカルに首を振りながらチャーシューを次々と盛りつけていく動作”を挙げている。いわばジャズは「グルーヴ感」や「うねり」と言ったところにポイントがあると言いたいのだろう(ちなみに、この発言は第五回でもやっている)。

タモリがやっているのはモード・ジャズ

この”ジャズ談義”。タモリ、実は吉原という人物を借りて自らの芸風を語っている。

ジャズの典型的なスタイルのひとつとしてモード・ジャズがある。これはテーマ(これで音階=モードとメロディを提示する)を決め、コードを単純化あるいはある程度無視して演奏枠を確保し、これらを基調にしながら、各パートが自由にアドリブを繰り広げるというもの。それ以前のビ・ハップ、ハード・バップのコード進行に基づいた手法よりも自由度が高いが、半面、より多くの技量と想像力=アドリブ力を必要とする。実は、このスタイルを番組コンテンツに援用したのがタモリの手法なのだ。たとえば「タモリ倶楽部」では、毎回お題=テーマが決められ、同じパターンで番組は展開するが、その都度、准レギュラー的なゲストが複数名登場(なぎらけんいち、水道橋博士、ガタルカナル・タカ、江口達也な、どきわめて技量とアドリブ力の高いパーソナリティが出演する)、ここにそのお題にちなんだエキスパート(「書道の墨の達人」といったようなきわめてマニアックな人物)がスペシャルゲストとなり、テーマ≒音階に基づきながらグダグダと番組を成り行きで進行する。言い換えればお約束=コードがほとんどない。その間、タモリは、まさに「適当」にアドリブをやりつづける。そしてこの時、メンバー同士の丁々発止の渡り合いは、互いを配慮すると言うよりも、互いのアクションにインスパイアされるというかたちで進行する。言い換えれば、誰もが気ままにアドリブを飛ばし、次にそれを打ち消すカウンターがタモリや他のメンバーから繰り出され、さらにこれへのカウンターが続きという具合に、相互インスパイアによってアドリブが果てしなく提示される中で、番組はひたすらグルーヴし続けるのである。

「ヨルタモリ」はクインテットによるジャズ

このスタイルは「ヨルタモリ」においても何ら代わるところはない。いや、むしろ徹底されていると言ってもいい。わかりやすいようにジャズのクインテット(五重奏)、60年代後半のマイルス・デイヴィスのグループになぞらえて説明してみよう。当時のユニットはマイルス(tp)、ハーヴィー・ハンコック(p)、ウェイン・ショーター(ts、ss)、ロン・カーター(b)、トニー・ウイリアムズ(ds)といった布陣。「ヨルタモリ」でベースを奏でるのは宮沢りえだ。第一回目から堂々としたママぶりで、落ち着き払い、全くブレることがない。さながらR.カーターのウォーキング・ベース。見事にタイムキープしながら通奏低音を奏で続ける。これで番組の「枠」が安定する。一方、もう一つのタイムキーパー、ドラムスを担当するのが能町みね子だ。能町の役割は時に脱線するアドリブとインタープレイを元のペースに戻すこと。常に冷静で、タモリのアドリブにアクセントを入れるという「ツッコミ」的な役割も演じる(まさにT.ウイリアムズ的!)。また、能町は時に画面の外に飛び出して茶の間の側に立ち、タモリのバカバカしいアドリブを冷笑するような態度をとるのだが、これがタモリの暴走を防ぐとともに、結果としてタモリが展開する密室芸のパフォーマンスを相対化し、その面白さを語る役割を担うことになっている。知識人ゲストはH.ハンコックあるいはW.ショーター(実際、2人ともインテリだ。ただし、2人ともレギュラーだが)の役所で、宮沢と能町のタイムキープに彩りを添える。言葉は少なめだがトークに芳醇さを加える。これにスペシャルゲストが加わってメンバーとアドリブを繰り広げる(ちなみに当時のマイルス・クインテットでスペシャル・ゲストを迎えるというシチュエーションはない)。

タモリは言うまでもなくマイルスだ。このメンバーをバックに好き勝手に吹きまくるのである。しかもメンバーにも勝手にやらせているようでいて、その実、キチッと仕切ることも忘れない。タモリ=ホスト、その他のメンバー=ゲスト及びスタッフという「権力関係」の中で番組が展開されるので、結果としてタモリがいなくても、その場は「タモリ・ユニット」として稼働し続ける(これはマイルスがよくやった手口だ)。その典型が番組冒頭の5分間で、なんとこの間、タモリは登場しない。にもかかわらず、タモリ独特のダラダラ、ゆるゆるとした雰囲気=グルーヴ感が流れている(これは「笑っていいとも!」でタモリが登場しないコーナーでも同じだった)。

タモリは楽器を持たないジャズマン

だから、基本的なタモリ・モードは存在するが、面子でその雰囲気はガラッと変わるし、時にはうまくいかないこともある。面子の技量にかなりグルーヴ=スイング感は左右されるからだ(これまでのゲストでベストは当然、気心の知れた井上陽水だった)。モードを使いこなせない人間がメンバーに入ったときには、そのインタープレイはしばしば破綻を来す。だが、それでいいのだ。いつアタリでいつハズレ、いつスイングし、いつポシャる。どんなアドリブが出る……こんなことが予想不可能に展開する。これこそが、実はタモリのモード・ジャズの醍醐味なのだから(これもまたスイング感をメタ的に構成する)。この先の見えない状況がどうなるかとドキドキワクワクで待ち構えるようになれば、あなたは、もうすっかりタモリワールドに引き込まれていることになるのだ。そして、それこそが、実はタモリの芸の原点である密室芸の本質=ジャズということになるのだろう。

で、これを可能にしているのが、タモリの「適当」という哲学なのだ。「適当」である限りスイングが止まることは、恐らくないだろう。失敗?成功?そんなものはどうでもいい。先ずは「スイングすること」なのだ。


つまり、

”タモリは楽器を弾かずスイングするジャズマン”

なのである。


「いいとも!」でやっていたジャズはお昼向けのかなり基礎的なジャズ。だからみんなある程度わかったけれど、夜向けの「ヨルタモリ」は本格ジャズ。だからジャズがわからない人には「ヨルタモリ」はわからない。

評価が二分する「ヨルタモリ」

10月からタモリの新番組「ヨルタモリ」がスタートした。3月に「笑っていいとも!」を終了して以来のタモリによる新レギュラー新番組。当然ながら期待は高まっていた。で、フタを開けてみると……その評判は「すばらしい」「くだらない」と真っ二つ。どうやら、ちょっと「つかみづらい」という印象が、こういった評価のバラツキを生んでいるようだ。今回は、この評価が二分することの理由が、実はタモリの芸風に依存している、そしてそれこそがタモリの魅力であるという前提で論考を進めてみたい。

「ヨルタモリ」の進行

先ず番組の進行を確認しておこう。とある東京の右半分、湯島辺りにあるバー”White Rainbow”が舞台。レギュラーはママの宮沢りえ、常連客のエッセイスト・能町みね子、そしてタモリ。ただし、タモリは別人として登場する。扮するのは、現在のところ大阪で工務店を営む坂口政治、または一関でジャズ喫茶を経営する吉原という人物だ。ここに毎回、2人のゲストが登場する。1人は文化人系で、これまで劇作家・宮沢章夫、音楽家・大友良英などが登場。もう一人はスペシャルゲストで、第一回は不明だが(スタッフの1人?)、二回目以降は井上陽水、上戸彩、堂本剛、松たか子が出演している。

展開は、能町、文化人系ゲストがすでに一杯やっているところにスペシャルゲストが登場。5分ほどトークを続けたところでタモリ扮する人物が登場する。そこでしばらくトークを続けるのだが、途中、タモリは電話やトイレといった所用で二回ほど席を外す。その間、残りのメンバーがテレビを見るのだが、これがタモリが演じるショート・コント。現在のところ「世界音楽紀行」「国文学講座」「ドッキリマル秘報告」「ワールドショッピング」がある。
この間、タモリ扮する人物が、わけのわからない蘊蓄を傾けながらトークを続け、最終的に終電に間に合わないからと言って途中で店を出て行く(その際は、ツケ)。

内容はこれだけだ。しかも、途中の会話が脈絡なく続く。言い換えれば適当な始まりと終わりがあるだけで、とにかくダラダラと続くのだ。なので、番組の一貫性や物語、仕掛けを予期して番組に臨むという、視聴者の一般的な構え=コード(たとえば「水戸黄門」なら勧善懲悪で、最後に印籠が出るという「お約束」の進行)を完全に裏切っている。言い換えれば大雑把な「枠」が用意してあるだけ。だから、こういったものがないと落ち着かない視聴者には中身が読みづらく、スゴくイラつくコンテンツに仕上がっている。

タモリは終わった?

そしてこの一般的な構え=コードは、タモリ自身にも向けられている。50代半ば以下の視聴者にとってタモリとは「笑っていいとも!」のイメージがデフォルト=コードとしてある。「ヨルタモリ」は、まあ適当に(「適当」はタモリの座右の銘)ダラダラやっているのは同じだが、「いいとも!」は昼の番組だったこともあり、タモリ、そして番組にはほとんど毒がなかった。つまり、タモリは無難に(つまり「適当に」)やっていた。ところが「ヨルタモリ」は、これを裏切っている。言うならば「毒」がある。エッジな展開だ。しかも長寿番組「タモリ倶楽部」より、ある意味、一層毒を吐いている。わけのわからなさ、エッジな人間の登場、エロネタの満載、大衆受けしそうもないようなギャグ(たとえば「国文学講座」でタモリ演じる季澤京平教授はどうみてもただのスケベなのだが、これをアカデミックな蘊蓄でオブラートしてしまうのでなんともいえないリアリティが生じる。ちなみにこれは、おそらく、かつてタモリが演じた中洲産業大学教授の文系教授への転換だろう)。「タモリはもう終わったな」なんて書き込みが2ちゃんねるでなされるほど。

我らがタモリが帰還した?

「君子豹変」したかに思われるタモリ。ところが、僕のように50代半ば以上でタモリのデビュー当時からタモリを見ている人間にとって、このパフォーマンスは少しも「君子豹変」ではない。むしろ、これは「本質」だ。タモリの芸のルーツは「密室芸」。新宿三丁目ゴールデン街で、わけのわからない文化人やゴロツキを相手に、メディアでは決して映すことが出来ないギリギリ、いやギリギリを超えてしまった芸をやるというのが基本。テレビに登場したイグアナ芸やハナモゲラ語は、いわばその象徴化された存在(もっともテレビ向けにある程度、毒を抜いていたが)。赤塚不二夫と2人で裸になりながらローソクショーをやるなんてことを毎夜繰り広げていた人間なのだ。70年代、パーソナリティを務めた「オールナイトニッポン」でも数々のアブナイコーナーを用意し、当時のオタクたち(当時、まだそんな言葉はなかったが)を驚喜させていた(NHKのラジオニュースを切り貼りしてマッシュアップしてしまうなんて著作権無視のコーナーすらあった。バレて中止させられてしまったけれど、そのことすらネタにするという「エッジさ」だった)。こんなタモリを知っている人間は、82年に「笑っていいとも!」が始まって、司会者としてタモリが登場した際には、むしろそちらの方を「君子豹変」とみていたはずだ。つまり、当初はスゴイ違和感で「いいとも!」を見ていた。

ただし、タモリの「適当」感覚にとって、そんなことはどうでもいいこと。メディアに流されながらもダラダラと「いいとも!」を続け、気がつけば三十年を超える国民的番組となり、今やタモリはカリスマ。オーディエンスからも「タモリさん」と「さん」付けで呼ばれる尊敬すべき人物になった。

ところが、この「ヨルタモリ」では、こうやって培ってきた社会的評価を全く無視するかのように、かつての密室芸を再び展開しはじめたのだ。ハッキリ言って視聴者無視というか「いいともタモリ派」をバッサリ切り捨てている。そんなことをしたら視聴率がどうなるのか?いいや、タモリはそんなことはお構いなしである。仮にお客が離れても、それは「適当」だから、そりゃそれでいいとでも思っているのではないか。かつてタモリはNHKの番組「ブラタモリ」で秋葉原を取り上げたとき、この街を褒め称え「振り返らない街」と表現したが、それは要するに自らのことを表現しているということになる。つまり、タモリもまた「振り返らない」。

そして、多くの視聴者がこの番組に違和感を感じる中、「タモリ原理主義派」の50代半ば以上のタモリ・フリークたちは、この「密室芸」「大衆無視」の復活をおそらく大歓迎しているだろう。それは、いうまでもなく「イグアナタモリの帰還」に他ならないからだ。実際、「ヨルタモリ」でのタモリのパフォーマンスはすっかり三十年以上前に戻っている。原理派からすれば、三十数年ぶりにタモリに対する「違和感」を解消したのだ。

ただし、タモリは「振り返らない」。そうやってノスタルジックにタモリを歓迎している年配層もまた「適当」にいなしていくのだろう。

でも、なぜタモリは回帰したのだろう?それはタモリがジャズだからだ!(続く)

ここ数年、ハロウィンがやたらに盛り上がっている。アメリカ式(現在、日本で流行っているスタイル。起源はアメリカのものよりさらにずっと古く、カボチャもなかったらしい)の行事スタイルが、21世紀に入ってから、なぜか日本でもやたらとウケるようになった。僕は、いちおう子どもの頃からハロウィンの存在それ自体は知っていた。C.シュルツのマンガ『ピーナッツ』(日本でこのマンガは『スヌーピー』としばしば勘違いされている)のキャラクターの1人、ライナスがハロウィンの熱烈な信者で、毎年この時期になるとカボチャを作って畑でカボチャ大王(ライナスの妄想だが)の降臨を待つというネタがあったからなのだけれど。でも、当時はそんな程度、つまりあちらの国の風習というイメージでしかなく、ハロウィンそれ自体はほとんど知られていなかったし、イベントも行われていなかったはずだ(協会でやられていた程度では?)。日本人の間で結構メジャーになるのは90年代に作成されたT.バートンの映画『ナイトメアー・ビフォア・ザ・クリスマス』あたりからじゃないだろうか。

まあ、そうは言ってもこの1~2年の盛り上がり方はちょっと異常という感じがしないでもない。で、その理由について、いくつか考えてみた。

1.広告代理店のせい
電通・博報堂あたりが、あんまりイベントのない11月前後を狙ってビジネスマーケットを作ろうとハロウィン・イベントをでっちあげた。

2.企業や官公庁が町おこしのネタにした。
典型的なのは川崎の商工会議所が地域活性化のために繰り広げたハロウィン・イベントで、現在、10月半ばからは二週間にわたって川崎駅東のエリアがもりあがる。11月はじめの週末は巨大な仮装行列状態。これはもう18回目を数えているが、ただし、これだけの盛り上がりを見せるようになったのはここ数年だ。

3.ディズニーランドのせい
東京ディズニーランドも、取り立ててイベントがなかった10~11月をイベントで埋めて集客効果を狙おうとイベント、ディズニー・ハロウィンを1997年から開始している。パレードは2002年から、ゲストの仮装も2002年から。その後次第に盛り上がり、2009年からは東京ディズニーシーでもイベントが開始されている。

4.ドンキホーテのせい
ハロウィーンの盛り上がりに合わせて、仮装グッズが一般にも売り出されるようになる。当初は、こういった仮装グッズはごく一部のマニアックな店でのみ販売されており、パレードやパーティに参加するとなれば、その多くが自作を余儀なくされていたが、盛り上がりとともに、あるいは盛り上げるかたちで、こういった既製品のハロウィン仮装グッズがあちこちで売り出された。そして、それを大量にバラまいたのが、今や全国に展開しているドンキだった?。

5.コスプレのせい
コスプレがオタク・アニメ文化の一つとして台頭し、いまやクール・ジャパンの旗手みたいな扱いを受けるほど社会的に認知された。だが、まだなかなかおおっぴらにストリートでやるというわけにはいかない。ところがハロウィンで一般道をパレードとして開放されれば、コスチューム・プレイはコスプレ・イベント会場に限定されることはなくなる。コスプレ、見方を変えれば「仮装」だからだ。だから、おおっぴらにやれる。そこで、ハロウィンにかこつけてコスプレイヤーたちが渋谷や川崎に集結した。

6.日本人の横並び感覚のせい
こうやって、勝手に盛り上がってくると、今度はマーケットで言うところのマジョリティ(アーリー・マジョリティ、レイト・マジョリティ)がバンドワゴン効果的に、これに乗っかってくることになる。この連中はさして気合いを入れてやっているわけでもなく「周りがやるから、自分もとりあえずやっておこう」くらいの気持ちでパレードに加わり、結果としてパレードやパーティが盛り上がる。ちなみに、この連中はコスプレイヤーのように本気ではないので、魔女とか、カボチャ頭とかのありきたりの格好をしている。もちろん、これはドンキみたいなその辺のグッズ屋で買ってくるわけなんだけど。で、これは最終的にはネタとして仲間内で消費される。つまり、やっぱり「みんなで盛り上がりたい」。ただし、この「みんな」とは仲間内のことであって、パレードにドーンと出没する膨大な数の人間たちは「みんな」ではなく「盛り上がりためのグッズ=風景」、渋谷や川崎は「環境=風景」。だから、仲間内以外には一切関心はないし、自分が楽しめる環境が、その後どうなろうが知ったことではない。で、祭りの後の渋谷の街はゴミだらけになったんだけど。

7.目立ちたがり屋がメディア露出を狙う?
これだけメディアが取り上げると、今度はテレビとかのメディアへ露出を目論んだ目立ちたがり屋が派手な露出を考える。テレビで紹介された中には、女子高生らしきティーン5~6名が東京エレキテル連合の格好をしているものがあったが、これなどは見事な「メディアねらい」だ。ただし、これはメディアがオモシロイ、キャッチーと判断したから取り上げられるので、パレード行列全てが、こんなキテレツな格好をしているというわけではない。むしろ、その多くはフツーのハロウィン装束か、地味なキャラの仮装だ(なぜか、ずっとあるのが「ウォーリーを探せ」のウォーリー装束(赤白横縞のシャツ・丸メガネ・帽子)の参加者たちだ)。

8.ファミリーイズム=イベント家族のせい
今や家族の絆はかつてのように経済的なしがらみで出来上がっているのではない。親も子どもも自由に振る舞え、楽しいパートナーとして年がら年中イベントをやり続けることによって絆を確かめるというスタイルになりつつある。言い換えれば「イベントなければ家族ではない」みたいな。その家族の絆を確かめる手段の一つとしてハロウィン・パレードが登場した。もちろん家族で仮装するのだけれど。この手の参加者が今年、娘にさせる格好の人気ナンバーワンは『アナ雪』のエルサだった。


と、まあいろんな要因が考えられるのだけれど、結局のところ、この全てがグチャグチャになりながら、その関数=重層決定としてハロウィンのあやしげな盛り上がりが成立したんじゃないんだろうか。だから、渋谷や川崎を取り囲む人々は一筋縄で括ることは出来ない。老若男女、マニア=オタクからなーんちゃってまで、とにかく実にさまざまでバラバラな欲望に基づいて、人々はハロウィンを楽しんでいたはずだ。そして、これは「欲望に基づいて一時的に集合する集団=集合」、つまり社会学で言うところの「群集」に他ならない。同じ感情を共有するゆえ、それぞれが感情的に盛り上がることが出来る(かつてビートたけしの名文句「赤信号、みんなで渡れば、怖くない」の図式だ)。ただし、感情は共有するけれど欲望やニーズはそれぞれ異なっている。言い換えれば感情以外にはつながりのない「原子化」された単位から構成されている集団。


まあ、いつまでこれが持つのかはわからないけれど。一過性のものなのか、それともクリスマスみたいになってしまうのか?

ゆるキャラでくまモンと人気を二分するふなっしー。一般のご当地キャラが人気を博するのは地方自治体の観光課、そして広告代理店、さらにはメディアの後押しがあったりするからだが、ふなっしーの場合、ちょっとその事情が異なっている。いちおう、ふなっしーは船橋のご当地キャラ、地元名産の梨から生まれた「梨の妖精」ということになっているが、ご存知のように非公認キャラ、つまり船橋市から認めてられておらず、地元を背負っていない。いわば個人が「勝手にやっている」状態。また、当初はあちこちのイベントに乱入する”究極のインディーズ系”だった。だから、一般のゆるキャラの文脈から見ると、その人気は不可思議だし、ものすごく違和感がある、というか理解に苦しむ。

僕は、このブログを通じてゆるキャラブームやくまモンの分析等を行ってきたが、いつまで経ってもよくわからないのがこの「ふなっしー人気」だった。だが、ちょっと最近、その秘密が少しだけれど見えてきたような気がする。そこで、今回は、このふなっしー人気についてメディア論的に考えてみたい。

最初にお断りしておくが、ふなっしーの考察は今回が初めてではない。本年7月5日のブログ「アニメ=漫画文化の爛熟を象徴するふなっしー人気~ふなっしーはなぜパリでウケなかったのか」(http://blogos.com/article/89923/)で、普通のゆるキャラ以上に詰めの甘い「ゆるい」デザインとコンセプト(そもそも、そんなもんあったのか?と思うほど)であるにもかかわらず、ふなっしが一般に受け入れられた背景には、日本人のゆるキャラに対するメディア・リテラシーの高まりが存在したという論考を行っている。だが、こちらはふなっしー自身というより、ふなっしーを巡るインフラの変化に焦点を当てたものだった。で、今回はふなっしーのキャラクターそれ自体についての考察をやってみたいと思う。視点は二つ。一つは「着ぐるみ=スキン」とふなっしーを演じる人物、つまり「中の人」との関係について。もう一つはふなっしーのパーソナリティ面での魅力について。つまり二つのブログを合わせるとトータル三つの視点からの分析になる。ちなみに分析は、記述が後になればなるほどふなっしーそれ自体について語るということになる。

ふなっしーだけが備えるリアルなパーソナリティ

先ず「着ぐるみ=スキン」と「中の人」との関係について。ふなっしーが他のゆるキャラと圧倒的に異なっている点が二つある。
一つは「喋る」こと。もちろんふなっしー以前にも喋るキャラクターは存在した。たとえばガチャピンがこれに該当するが、これはアテンドという方式で「中の人」と喋る人間は異なっている。声が着ぐるみ=スキンの中と言うよりも後ろの方で声優が喋り、それに合わせて中の人が振り付けを行うというしくみだ。ところがふなっしーは中の人にマイクが装着され、自ら喋る。それゆえ、中の人はその場に応じて臨機応変にアドリブが可能になっている。一方、一般のゆるキャラは喋らない。だからアドリブも飛ばしづらく、表現も限定される(この表現力の弱さを逆手にとって表情を取っ払ってしまったのがくまモンだ。あれは驚いている顔と言うことらしいが、いかようにも解釈できる。だが、それは言い換えれば「得体が知れない」と言うことでもある)。

もう一つは、中の人を常にKという同一人物が演じていること。一般のゆるキャラの場合、喋れないのでキャラクターの役割が限定されるが、その代わり複数の人物が交代で中の人を演じることが可能になる。だが、それはゆるキャラに詳細なイメージを盛り込めないということでもある。人によってキャラクターの動きが異なってしまえば、そのアイデンティティが崩壊してしまうからだ。しかし、これによってゆるキャラは着ぐるみ=スキンを除くと、総じて「キャラの薄い存在」となる。はっきり言ってパーソナリティが弱いのである。ところがふなっしーはそうではない。常に中の人は同一人物であり、これがアドリブを飛ばしやすいという利点と相まって、ふなっしーに人格の一貫性=アイデンティティとそこから派生するパーソナリティを与えることに成功している。

この二つは言い換えればふなっしーが「ゆるキャラ」「ご当地キャラ」ではなく「タレント」と位置づけられているということになる。

異形タレント

ふなっしーに対するわれわれの認識を明瞭にするために、一つの軸を用意しよう。軸の一端は「ゆるキャラ」、もう一端は「異形タレント」だ。そしてふなっしーはこの軸の中間に位置しており、それが独特の魅力を発揮することに成功している。前者=ゆるキャラの説明は省略するが、後者=異形タレントについてはバナナマンの日村、はんにゃの金田、オードリーの春日あたりをイメージしていただきたい。こういった異形タレントは、強烈であやしげなルックスという「つかみ」があることで先ず注目を浴び、その後パーソナリティが認知されたという点で共通している。

ふなっしーはこの異形タレントの中に位置づけることが出来る。ゆるキャラ以上に文法がメチャクチャな着ぐるみ=スキン、甲高い声でエキセントリックな喋り、キレた動きとパフォーマンス、そして非公認で。これら特徴は一般のゆるキャラからすれば明らかに異形なのだ。だから、先ずオーディエンス=われわれとしては「なんじゃ、こりゃ?」ということで関心(記号論の用語を用いれば異化作用)を持たざるを得ない。

で、喋る、着ぐるみ=スキンと中の人が常に同一人物であるという先ほどの特徴がこれに加わることで、ふなっしーは俄然、キャラクターとしてのイメージに奥行きが感じられるようになる。つまり、ここでふなっしーがパフォーマンスを繰り広げれば、もはやこれはゆるキャラではなく、まっとうな異形タレントという位置づけになってしまうのだ。

着ぐるみ=スキンが伝えているのは中の人のパーソナリティ

他のゆるキャラとの違いをメディア(=メッセージを伝達する手段)という言葉を使って表現すれば次のようになる。一般のゆるキャラはその「着ぐるみ=スキン」というメディアを使って「ご当地イメージ」というメッセージを伝えている。ところがふなっしーは「自らのタレント性」を伝えている。伝えるものが違うのだ。だから、ふなっしーは必ずしも船橋を背負っている必要はないし、われわれもふなっしーに船橋を見てはいない。むしろ、ふなっしーに見ているのは「中の人のパーソナリティ」なのだ。だから船橋市非公認であったとしても何ら問題はない。いや「非公認」であることは、逆に他のゆるキャラとの差異化を図る究極のブランドとして機能しさえしている。こうなると異形タレントの範疇すら乗り越え、普通のタレントとみなしてもよいほどということになる。そういえば、われわれはだんだんとふなっしーの容姿=スキンなどどうでもよく、むしろパフォーマンスの方に関心を抱くようになっていないだろうか?

ゆるキャラとタレントの「いいとこ取り」で魅力を倍増

ふなっしーは着ぐるみ=スキンと中の人が同一で、喋ることによって、ゆるキャラとタレント双方の特長を併せ持つ「いいとこ取り」のキャラクターでもある。タレントとしては許容されない行為を行ったとしても、ゆるキャラならそれが許容されている場合には免罪されてしまい、さらにそれが独自の魅力となってしまうのだ。

前述したように、よく知られるふなっしーのキャラは「キレ」である。まずゆるキャラであるにもかかわらずキレのいい動きをする。だが、もし一般のタレントが同じような動きをしたとしても、われわれがその動きに注目することはないだろう。あくまで「ゆるキャラであるにもかかわらず」という立ち位置でふなっしーを見るゆえに「キレがいい」と思うだけなのだ。この時、ふなっしーはタレントとして演じていながら、われわれはふなっしーをゆるキャラの立ち位置から眺めている。もう一つの「キレ」つまり、すぐにブチギレるというのも同様の理由から魅力へと転じることになる。たとえば、先頃YouTubeにアップされたふなっしーのビデオを見てみよう。ここではファミマの新製品「ふなっしーまん」をふなっしーが食レポするのだが、ふなっしーは目隠しされていてこれがなんだかわからない。試食後、目隠しを外され、それがふなっしーまんであることが判明した瞬間、ふなっしーは「共食いだなっしー!」と絶叫してブチギレ、怒りに震え叫びながらテーブルをひっくり返しディレクターとカメラマンを殴りつける。
もちろんヤラセだが(最後に「でも、おいしかったなっしー」と宣伝する如才なさも忘れていない)、こういったアブナイというかエッジなパフォーマンスが可能なのは、要するにふなっしーが「ゆるキャラ」として見られているからだ。もしこれが一般のタレントだったら単にアブナイだけになってしまう。この「ダメなはずなのに、立ち位置をこちらが変えてみてしまうのでダメでなく、しかもオモシロイ」というのが、こちらに快楽を誘うという仕掛けなのだ。



イリュージョンというトリック

そしてこの逆、つまりゆるキャラだったら許されないのに、タレント=人間だから許されるというのも、もう一つの魅力になる。これも「ふなっしーまん食レポ」の中に見ることができる。着ぐるみを着ていれば当然ものを食べることなど出来ないはず。ところがふなっしーはこれが可能だ。頭の後ろ(背中?)にチャックがあり、そこから飲食物を取り込むことが出来るからだ。こういった中の人が着ぐるみ外部に出て行くような穴=チャックをゆるキャラが見せることは反則であり、許されない。ところが、梨汁補給(水分を中の人が確保する)とか、こういった試食の際にはこのチャックから飲食物の出し入れがおこなわれ、これが堂々と映される。このこと(チャックの名前、あるいはこういった行為)のことを、ふなっしーは、自ら「イリュージョン」と呼んでいる。つまり「このチャックと、今やっていることは幻影です」、言い換えれば「これはなかったことにしてね」ということになる(同様にゆるキャラなのに人間的事情、つまり中の人の都合のためにゆるキャラらしくない行為をする際には「大人の事情ってもんがあるなっしー」とやる)。こういったゆるキャラに設定された役割からの逸脱に対し、われわれはふなっしーをタレントという立ち位置から見ているわけで、そのズレがまたふなっしーの魅力ということになる。

ふなっしーは、ゆるキャラと中の人のパーソナリティが映画『マスク』のように一体となって、その両方が交互に出現することで、独特の魅力を作り上げているというわけだ。

ガンバリズムというパーソナリティ面での魅力

ただし、こういったアドバンテージを持ってしても、まだふなっしーの魅力を語り尽くしたことにはならない。これにもうひとつ、パーソナリティ自体の魅力が加わるのだ。ただし、こちらの分析については、紙面の都合上、今回はさわりだけにしておきたい。

その魅力は「ガンバリズム」というところになるだろうか。つまり非公認キャラとして認められず、着ぐるみとしてもブサイク。だが、こういった負の要素だらけにもかかわらず、インディーズとしてたたき上げ、現在の成功へとたどり着いた。その「根性的なストーリー」がキレるアシッドなキャラクターとよく馴染む。子どもだけでなく大人、とりわけサラリーマンあたりに結構人気があるのは、ふなっしーが逆境をガンバリズムで克服する姿に思わず自らを投影してしまうからなのでは?(だからこそ「非公認キャラ」は、逆に「究極のブランド」なのだ)。自分は相変わらずこき使われて、あまり成功しているわけでもないが、われらがふなっしーはガンバって今の地位に登り詰めた。だからふなっしーを自らの代償的存在として、そのガンバリにエールを送ってしまう。そんな魅力があるのかもしれない。

もはやタレントのふなっしー。だったらドラマの主役をやってもおかしくない。『西船橋警察捜査課ふなっしー警部の事件簿』なんてのはどうだろう?(笑)ラストシーンで泣き叫びながらブチギレ、事件の決着をつける人情派のドラマなんてやったら、案外オモシロイかも?

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