勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2014年09月

僕は現在50代前半。三十年前の大学生時代からバックパッカーとして海外をウロウロすることを趣味としてきた。バックパッカーなので安宿街(バンコク・カオサン、コルカタ・サダルストリート、カトマンズ・タメル、ホーチミン・データムなど)やチープなリゾート(タイ・コサムイ、コパンガン、バリ、フィリピン・ボラカイなど)などがその宿泊場所になるのだけれど、こういったところには必ずと言っていいほど旅行者向けのレストランやバーがある。提供されるのはサンドイッチ、ハンバーガー、ピザ、パスタと言ったいわゆる「インターナショナル・フード」。これにちょっとだが地元の料理メニューが並ぶ(ただしツーリスト向けに妙ちくりんな味にアレンジしたもの)。この状態はずーっと変わらない。

まあ、あたりまえと言えばあたりまえだが……ところがあたりまえではない変わらないものがある。

ビートルズ、クラプトン、ボブ・マリー、イーグルスの繰り返し

82年、インドを訪れたときのこと。リゾート(プリー)のレストランで流れていたのはエリック・クラプトンの「コカイン」だった(その横で旅行者がガンジャをやっていた)。
84年、アルジェリアのサハラ砂漠のとあるバスターミナルで耳にした音楽はマイケル・ジャクソンの「ビート・イット」そしてビートルズの「ウイズ・イン・ウイズアウト・ユー」だった。
86年、タイのサムイ島で流れていたのはボブ・マリーの「アイ・ショット・ザ・シェリフ」、そしてポリスの「見つめていたい」だった。
その他、こういったエリアでよく流れていたのはカーペンターズ、イーグルス、アバといったところ。
では90年代、これらの地域ではどんな音楽が流れていたのだろう。95年、タイのコタオで耳にしたのはやはりボブ・マリー、そしてクラプトンだった。間違いなく流れるのは「アイ・ショット・ザ・シェリフ」そして「コカイン」だ。加えて「ホテル・カリフォルニア」
0年代はどうだろう。バリやカオサンで流れていた曲は、やはりクラプトン、ビートルズ、ボブ・マリー、イーグルスだった。

つまり、全く変わっていないのだ。80年代以降の音楽はほとんど流れていない。

カウンターカルチャーとしてのロックの終わり

70年代前半くらいまでロックはある意味、商業主義に抗うことをウリにしていた。たとえば69年に開催されたウッドストックのライブは当時の若者世代による商業主義を排した、徹底的なカウンターカルチャーに彩られた祭典だったと評価されている(ただし、実際にはこれはイメージであってここに商業主義が全く関与していないというのは幻想に過ぎない)。そして最後に商業主義とバトルを繰り広げたのが70年代後半に登場したセックス・ピストルズで、それ以降、ロックは商業主義、つまりショー・ビジネスに完全に取り込まれていったとされている(94年に開催されたウッドストックⅡは、完全にショウビジネスの祭典だった。で、これに最初のウッドストックに出演した連中も登場した)。

ただし、こういったロックの教科書的な見解も、実のところ幻想だ。たとえばカウンター・カルチャーの最後っ屁と言われた前述のセックス・ピストルズは背後にマルコム・マクラーレン、クリス・トーマスと言った超有名なプロデューサーたちが仕掛けた「なーんちゃっって反体制」だった。マクラーレンはパンクファッションを世界的に認知させ、クリス・トーマスは70年代ビッグ・ネームとプログレッシブロックで暗礁に乗り上げていたシーンに「パンク」という新しい流れ=ショウビズ・ラインを作り上げた。つまり、ロックはセックス・ピストルズという「反体制」と「ビジネスの」両面を備えるユニットによって完全に商業主義に取り込まれたのだ。

産業ロック=文化産業としてのミュージック

代わって登場したのが、いわゆる「産業ロック」と呼ばれる徹底的にビジネスを突き詰めたジャンルだった。膨大な資本を投入し、完全に規格化されたものを大々的に売り出すというやり方で、その最たる存在がKing of Popことマイケル・ジャクソンだった。ジャクソン・ファイブの末っ子としてそれまでも人気を博していたマイケルだったが、これにクインシー・ジョーンズというジャズ界の超大物プロデューサーがつき、さらにMTVの開始に合わせてビデオクリップが作成されたのだが、これこそが「見る音楽」の元祖となった「スリラー」だった。製作担当は映画「ブルース・ブラザース」で知られるジョン・ランディス(その後のビデオクリップ「バッド」はマーチン・スコセッシが担当している)。ちなみに本作で、マイケルはロック界の大御所ポール・マッカートニーと「ガール・イズ・マイン」をデュエットするというオマケまでついている。何から何までチョー豪華だったわけだ。

そして、この産業ロックはシステム化していく。女性アーチストならマドンナあたりを嚆矢とするが、こういった文化産業=消費物としてのロックはその後のロックシーンの基本となっていくのだ。このシステム最先端がレディ・ガガであることは言うまでもない。

ところが、こういった文化産業=産業ロックはスタンダードとしては定着することがなかった。その傍証が、実は今回提示したリゾート先に流れる音楽が70年代で止まっていることだろう。いわば、「尖ったとされる」ロックは70年代半ばくらいまでには終わってしまったのだ。そういえば21世紀に入ってからというもの安宿街やリゾートでマイケル・ジャクソンを耳にすることは、あまりなくなった(マドンナも)。

「尖ったロック」が、いまや究極の「産業ロック」になった

こういった現象は、現代の音楽シーンにメヴィウスの輪のような奇妙なねじれを発生させている。前述の「いつまで経ってもクラプトン」というのがそれだ。今や70年代までのイコン=ビッグネームはいつまでずっとイコンのままなのだ。何度も引退を表明しては日本にやってくるクラプトン。ライブチケットを売り出すたびにあっという間にチケットが売りきれる。ポール・マッカートニーに至っては2万円近くするチケットが完売する。今年は病気で講演中止になってしまったが、追加公演として武道館を加えたときには10万円の席が用意され、これが真っ先に売れ切れになるという状態だった。そう、70年代のイコン立ちには、昔みたいに、落ちぶれると言うことが永遠にないのだ。まるでゾンビのように何度でも生き返る(その一方で80年代以降のビッグ・ネームはどんどん落ちぶれていく(そういえば、M.C.ハマ―って、どうしているんだろう?)。

つまり、文化産業としての産業ロックの成立によって、かえってこの「70年代尖っていたといわれる連中」たちが、21世紀になってもひたすら莫大な売り上げを続けるという「メタ的な産業ロックの旗手」としてビックビジネスを成立させることに、結果としてなってしまったのだ。言い換えれば70年代半ばまでのロックはもはやクラッシック=古典となり「学ぶもの」となった。つまり「権威」。

その証拠をいくつかあげてみよう。こういった70年代ロックシーンに深く感銘を受け、一生懸命耳を傾けるティーンエイジャーがいま、結構いる。僕の教え子の中には「マイ・フェバリート・ミュージシャンは、やっぱりシド・バレット(ピンク・フロイドの初期メンバー、Mr.Crazy Diamond!)ですね」なんて、したり顔で答える者すらいる始末(この学生十代です)。これは、それが良いとか悪いとかという判断よりも、親がライブラリーを持っていて自然と馴染んでしまったとか、お気に入りのJ-POPミュージシャンが尊敬しているとかという環境を媒介にして若者たちがこの世界に足を踏み入れていった必然的結果だ。つまり、ロックはもはや円環している。大槻ケンジはテレビ番組「NHKアーカイブ」に出演した際、77年に放送されたキッスの武道館ライブ(「ヤング・ミュージック・ショー」)を振り返りながら「キッスは歌舞伎のように世襲制にすべきだ」とまで言い切った。つまり、これは「二代目、三代目のジーン・シモンズを用意しろ」ということだ。また皮肉屋のドナルド・フェイゲン(スティーリー・ダン)は、自らが2013年に繰り広げたライブ・ツアーを自著『ヒップの極意』(DU BOOKS)の中で振り返り、この活動を自虐的に「老人介護」と表現した。つまり、自分は後ろ向きの連中のためにやっているに過ぎない(自分も含めて)というわけだ。逆に言えば、これはどれだけ歳をとっても70年代ビッグネームは活動をやめさせてもらうことが出来ないということでもある。いやジミヘンやボブ・マリーのように死んでも生きたままみたいなイコンすら存在するのだけれど。

ジジイが新しいロックの芽を摘み取っている?

誤解してもらいたくないのは、これによってロックシーンが死滅したと僕が言おうとしているのではないことだ。こういった産業資本に支えられたゾンビなビッグネームの背後で、新しい世代が音楽シーンを切り開こうとしているという事実は、もちろんある。だが、これはビジネスシーンには馴染まない。そしてビッグネームたちが市場を塞いでいるがために、そして文化産業が音楽市場を支配しているがために、ここに入り込む余地を与えられないという構造化が起きている。だから、こういったミュージシャンたちは目立たないで、一部のマニアだけの間でロックがやりとりされている。その必然的結果が、少なくとも安宿街やリゾートという「メジャーな空間」ではクラプトンやビートルズ、ボブ・マリー、イーグルスばかりが延々と流されるということになっているわけで……。

今年8月、僕は例によって世界最大の安宿街、タイ・バンコク・カオサン地区にいた。カオサン通りを中心とするこの街は、その発展によってエリアをとっくの昔にはみ出し、拡大化された一大カオサン・エリアを構成している。僕が宿泊していたのは、カオサン通りの北を並行して走るランブトリ通りにあるビエンタイ・ホテル。かつて静かだったこの通りもレストラン、中級ホテル、そしてバーが林立するようになった。つまりカオサン化が進んでいた。もはや下の階の部屋ではライブの音がうるさくて夜眠ることすら出来ない。

ある日のこと、ホテルの前のバーでは例によってライブバンドの演奏が始まっていたのだが……やっていたのは……やはり定番の「コカイン」だった。するとすぐさま、今度はその二軒先のバーでもライブが……始まった演奏はここも「コカイン」だった。つまり「コカインの時間差攻撃?輪唱?」。やれやれと思いながら道を東に向かった僕。すると50メートル先のバーでもライブの演奏が。ギターをかき鳴らしながら、あまり上手くもないミュージシャンが歌っていたのは……「ホテル・カリフォルニア」だった。

止まってる!(止められている?)


SamsungがAppleのiPhone6、AppleWatch発表直後にこれらを揶揄するCM六連発を中国で放送した。Appleストアの内部のようなセット、登場する2人の男性はAppleストアの店員風(青いシャツを着用し、ネームタグをぶら下げている)。2人の掛け合いではiPhoneよりSamsungが二年も早くファブレット=大画面スマホ(GalaxyNote)をリリースしていることやSamsungのスマートWatch・Gear SのほうがAppleWatchより魅力的なことなどを訴えている。

SamsungのCM、実はAppleが手がけたCMのパロディ

このCM、実はAppleのCMのパロディになっている。Appleが以前に展開していた”Mac vs PC”という比較CMを下敷きにしているのだ。2人の男性が登場すること、片方が太っていて、片方が痩せている。そして片方がメガネをかけている。ここまではまったく同じ。しかもライバルを何らかのかたちで登場させ、これをケチョンケチョンにするというところも同じ。BGMがピアノベースであるところも(ただし、Samsungは終わりの方でシンセ音が入る)。しかもCMシリーズのタイトルが”#NOTE the DIFFERENCE”で、これまたAppleがiMacでV字回復を果たしたときのキャッチコピー”Think different”のパロディ。だが、この二つ、同じように見えて、実は全く違う。同じ比較CMでも、中身を吟味してみるとAppleはイケてるが、Samsungのそれは全くイケてないのだ。そして、その違いはベタに二つの企業の体質を印象づけているとも言える。今回はこの二つのCMをメディア論的視点から比べ、CMが企業に及ぼす影響について考えてみた。

Windows陣営をケチョンケチョンにしたMac

先ず、CMそれ自体の分析から違いを見てみよう。2人は前述したように肥満ー痩身、メガネあり―メガネなしのコントラストで視覚的な差異を図っている。当然、太っている方が比較対照とされる側だ。つまりAppleならPC、SamsungならAppleが太っている方になる。ただしメガネをかけている側はAppleの場合は太っている方、Samsungは痩せている方だ。
肥満=メガネ、痩身=メガネ無しというAppleのコントラストはわかりやすい。PC=太っている側はPCの機能やスペックにこだわるオタクで、だから目が悪いというスキーマがあるからだ。一方、Mac=痩せている側はパソコン=Macの機能のことはあまりはなさず、Macを使って何が出来たのかという実体験を語る。PCもやれることについても言及しているが、これが徹底してビジネスレベル。たとえば、絵画を描かせてもエクセルで作成したグラフになってしまう。服のセンスもPCはダサい。行動のピントも外れている。一方、Macはひたすら遊びやライフスタイルの充実についてコメントになる。服装もシンプルでコメントもポイントを押さえている。だが、この時、Macは決してPCを直接馬鹿にするという行為に出ていない。ただひたすら「あ、そうなの?」という顔をしているだけだ。まあ、よく言えば相手を尊重している、悪く言えば無意識レベルでの徹底的な上から目線。要するに、相手にしていない。「我が道をゆく」状態なのだ。



Appleによる"Mac vs PC"のCM




こちらはラーメンズによる日本版


Appleを機能面で徹底的に攻撃するSamsungのCM

SamsungのCMを見てみよう。前述したように、この2人は明らかにAppleストアの従業員を想定しており、太っている方がMac派で痩せている方がSamsung派だ。ただしメガネをかけているのは痩せている方。だから、この2人の役割が”Mac vs PC”に比べてやや曖昧になる。そしてその曖昧さをさらに曖昧にするのが、2人がAppleストアらしき店の店員であるということ。つまり、2人ともSamsungから攻撃を受ける側の従業員であること。その2人の1人がGear Sを腕に付けて宣伝してみたりと、どうもこの2人は何をやっているのかわかりづらい。そして2人が結果としてSamsung製品を讃えるポイントは機能的側面だ。つまり「SamsungはAppleに比べてこんなに技術的にスゴいんだぜ」と標榜している。だが、これは”Mac vs PC”でAppleが間接的にケチョンケチョンにしている側面に他ならない(MacはPCのスペック自慢を批判こそしないがスルー、あるいは無視している。つまり「それに何の意味があるの?」というスタンスをとっている)。機能などよりも、それで何が出来るのか、生活がどう変わるのかにポイントを当てているのがMacだからだ。それゆえSamsungのApple批判は、Appleが批判していたPCの駄目な側面=機能・スペックをことさらに取り上げて勝ったつもりになっているだけで、ポイントが完全に外れている。むしろAppleの批判したツボにはまっているだけなのだ。

ちなみに、セットはAppleストアの店内のようにも、店内奥の事務所のようにも見える。置いてある機器もどう見てもアップル製品だ。結局のところSamsungはAppleをあからさまに敵とみなし、これをかなりエキセントリックに攻撃している。



SamsungによるCM


ガリバーであるはずのSamsungの方が腰が引けている

これは実に奇妙な展開ではないだろうか。ご存知のように、現在Samsungはスマホの販売台数第一位でiPhoneの倍以上のシェアを誇っている。その一位であるはずのSamsungがiPhoneを執拗に警戒し、iPhone6発表と同時にこういったiPhoneを明らかに敵とした比較CMを流す必要が、果たしてあるだろうか。あたりまえの話だが、圧倒的に一位であれば、悠然と構えていればよいはずだ。ところが、このCMはどう見ても負けている側が作っているという立ち位置でしかない。

これは”Mac vs PC”が放送されていた頃の状況と見事なコントラストをなしている。このCMを流している時点でAppleはMicrosoftのWindows陣営、つまりPCに対して圧倒的なマイノリティだったのだ(シェアにして9:1以上だったのだから、Samsungとのスマホシェア争いどころではない)。にもかかわらず、AppleがCMにPCを登場させたとき、これを悠然とスルーし、相手にすらしなかったのだ。つまり圧倒的に負けているのに、独自の展開に自信を持ち(まあ「唯我独尊」と言い換えてもイイが)、さながら自らの方が圧倒的王者のように振る舞い、なおかつ鈍くさいPCを見守るという余裕すら見せていた(見方によっては究極のケチョンケチョンでもあるのだが)。しかもCMの背景は真っ白。Samsungが背景をAppleストアにしたのとは反対で、Windowsとインテルを中心としたPCへの攻撃をあからさまには行わないという演出になっている。

自らがAppleに寄生していることを語ってしまっている?

つまり、SamsungのCMは「まずAppleありき、iPhoneありき、AppleWatchありき」の展開なのだ。そして、やっていることは、これに対する後ろめたさらから逆ギレして、徹底的に攻撃を仕掛けるというパターン。だが、それは言い換えれば、自らが「単なるコピー屋」でオリジナルを放ち続けるAppleに寄生していることを自ら暴露しているだけ。つまり「語るに落ちる」という展開になっているわけで、ようするにAppleのパロディのつもりだったはずが、結果として自らがコピーしか出来ないことをパロっている「自虐的」あるいは「自ギャグ的」自己パロディになってしまっているのだ。結局、モノマネでしかない体質がこのCMの作り方そのものに現れてしまっているというのが、まさに「なんだかなあ」という感じだ。

Samsungの「パクリ屋イメージ」を結果として助長する

そして、このCMはSamsungに対するパブリシティ、つまり現在の一般的なイメージをマイナスレベルで助長するのにも結果として一役買ってしまっている。つまり、前述した「単なるコピー屋」「パクリ屋」といったイメージの増幅だ。

こういったSamsungに与えられているネガティブなコンテクストで視聴者がこのCMを見たらどうなるか?……答えは一目瞭然だろう。Appleの場合、Macと同じような比較CMを作ってもオリジナル性の高さとブランド性がイメージ=コンテクストとなってCMをイケたもの、Appleの哲学風に表現すればシンプルに徹したミニマリズムに徹したものとしてポジティブにこのCMを捉えるが(前述したような背景が全て真っ白というのもミニマリズムを踏襲している。つまりPCをダシにこそしているが、結局、売り込みたいのはアップル製品が可能にする日常生活の変革や利便性の上昇にある)、Samsungの場合、ネガティブなイメージがコンテクストとしてあるので、この側面から比較CMをやはりAppleのパクリ、そして「ただのあからさまで下劣な攻撃」と読んでしまうのだ。

問題はやはりイメージ、つまりメディア性

間違いないでもらいたい。Apple=オリジナル、Samsung=コピーという図式、必ずしも真実ではない。アップル製品にしたところで、そのほとんどはオリジナルが他のところにあり、そこからパクるか、そのオリジナル製品を開発した企業を買収するというかたちでAppleは成長してきた(ただしその質をグッと高めるとともに、自らのエコシステムに取り入れることにはぬかりがなかった)。Samsungは技術的側面で世界最先端を走っている分野もある。つまりSamsungだってオリジナルをたくさん持っている(実際のところ、iPhoneのパーツのいくつかはサムソン製だ。ただし、現在Appleは徹底した「Samsung離れ」を展開しているが)。

問題は「イメージがどう形成されるか」にある。そういった側面から見ると今回のSamsungの比較CMによるAppleiPhoneおよびAppleWatchへのあからさまな対抗キャンペーンは逆効果を生むだけで全くイケてないのである。いったいSamsungの広報は何を考えているのか?「まあ、こうやって一生懸命パクるというやり方がSamsungの企業体質を反映しているよね!」。こういった印象の上塗りをしただけとしかいいようがない。

ファブレット市場にAppleが進出してこの市場を奪われる可能性が高く、一方、低価格競争ではウォン高も加わって中国製にどんどん押されるという「前門の虎、後門の狼」状況に置かれているSamsung。苦し紛れにこんなCMやっているようでは、先がお寒いような気もするのだが。

「ケータイはコミュニケーションを希薄にするのでほどほどに」という嘘?をついた学生

これはもう四年も前の、まだスマホが普及する以前のお話し。
ある日、僕は講義で学生たちに課題を出した。題目は、

「ケータイとコミュニケーションの関係について」

当時、彼らにとってケータイは必需品(ちなみに今ではスマホが必需品で、ケータイは絶滅危惧種)。さぞかしいろんな回答が寄せられると思ったのだが……実際は、ほとんど異口同音だった。

レポートの趨勢を占めた内容をまとめるとだいたい以下のようになる。

「ケータイはいつでもいろんな人と連絡が取れるので便利でよいと思います。しかし、メール、通話などケータイばかり使っていると生身のコミュニケーションが希薄になってしまい、人間関係がおかしくなってしまう可能性があります。なので、使用にあたっては直接的な人間関係を重視し、ケータイ中心のコミュニケーションにならないように、あまり使わないのがよいと思います。」

この判で押したようなベタな回答に、僕は驚きを隠せなかった。
で、その後、授業で、この手のレポートを返してきた学生1人を指名し、内容についてツッコミを入れてみた(ただし、自分のゼミ生でお互いに気心の知れた、シャレのわかる学生をちゃんと選んではいる。ハラスメントになっちゃマズイので)。

僕:「君は、ケータイを使用することの危険性をレポートの中で訴えたよね」
学生:「ハイ」
僕:「本当にそう思う?」
学生:「えぇ、まあ」
僕:「じゃあ、こちらとしては一つ提案したいことがある。今、君はケータイを持っているはずだよね」
学生:「ええ、持ってます」
僕:「それ、危険な道具なんじゃないの」
学生:「……」
僕:「生身のコミュニケーションを奪ってしまうアブナイ装置なんでしょ?だったら、それを今すぐ窓から投げて捨てるべきなんじゃないのかな?」
学生:「いや~っ!それは……できません……」
僕:「だって、危険なんでしょ?是非やるべきなんじゃないの。なんで?」
学生:「だって、これがないとやっていけませんから」

そこで、僕はツッコんだ。
僕:「そうでしょ?ないとやっていけないもんね!っていうことは、つまり、それって、大切なものだよね?じゃあ、レポートではケータイのすばらしさを書くべきなんじゃないの。そんなにお世話になっているケータイ君にちょっと失礼なんじゃないのかな?」

すると、彼は次のように回答してくれた。
学生:「まあ、そうですよね。でも、授業でレポートが課題に出たときには、その一般的な書き方があって、フツーに言われているようなケータイの害みたいなものを書くのが筋だと思ったものですから」

なるほど。これは、いわゆる「べき論」というものが前提されていて、それに合わせた回答をしなければいけないと考えたわけだ。

もちろん、そんなことは全く要求していない。だいいち、それじゃあ学問にならない(ちなみにケータイによるコミュニケーションの希薄化の議論については、90年代末に社会学の分野では調査が行われており、あらかた決着がついている。ケータイ使用とコミュニケーション希薄化の相関関係は全く検証されなかった。むしろ逆にケータイの使用頻度は直接的なコミュニケーションの頻度を反映する傾向があることが判明している。つまり使う者ほどリアルなコミュニケーションも活発。どちらが独立変数かはわからない)。

そこで、大学のレポートでは、社会一般でいわれているような「べき論」に依拠する必要など全くなく、自分が分析したり、考えたりしたことを述べればよいこと。また、それが、たとえ結果として「べき論」が提示するような「正論」とは真っ向から対立するものであっても構わないことを説明した。

すると、件の学生、こう答えた。
「あっ、いいんですか。なーんだ。わかりました」

ということで、話は終わりになったのだけれど。でも、なんで自分の意見を言わずに、こんな「べき論」を持ちだしたのだろう?

入試の面接は「べき論」の嵐

その時、僕がふと思い出したのが、大学入試試験での面接だった。もちろん、これは僕が受けたときのことではなく(僕の時代は面接なんかほとんどなかった)、僕が面接官となって受験生の相手をしたときのものをさすのだけれど。

受験生は、やはり、概ね紋切り型の回答をするのが常なのだ。推薦入試などの面接では、事前に調書的なものがこちらに渡されている。その内容は本人の志望動機、高校教員の所見と推薦文、そして高校時代の活動と成績だ。で、受験生は面接時、何をこちらが訊ねても、原則、ここに書いてある内容しか答えないのだ。たとえ、こちらが訊ねている話とズレていても、無理矢理そちらの話に引きつけていく。そこで、これらの「調書」には記載されていないことを訊ねてみると、しどろもどろになった挙げ句、今度は紋切り型の「べき論」を持ちだしてくるというのがパターンだ。

推薦入試でディベート的な集団面接(受験生同士の討論形式)をやったときも同じだった。やはり、これは仕込んできたネタの展開となる(この時は、事前に課題が出ているので、高校教員と一緒に仕込んだネタがひたすら展開される)。で、この時も、残念ながら「べき論」が展開されてしまった。こちらとしては、与えられた課題について、これをどう分析し、どう自分の考えに反映させながら答え、また集団面接なら、どう互いの意見を調整しながら議論を組み立てていくのかを見たいのだが、すべて「仕込み」。そしてそこに書かれている「べき論」が邪魔をする。あるときの集団面接では、仕込んだネタ(これまた高校教員と考えたのがまるわかりなのだが)がどれもほぼ同じで議論にならず、シャンシャンで話が終わってしまったことも。多分、指導教員が同じ資料にあたったのだろう(ちなみに、これだと「出来レース」なので、ネタが切れたら後が続かなかった。あたりまえか)。

面接に穴埋め問題と同じ認識で臨む

こうなってしまうのは、まず高校側での教育が、こういった社会問題を考えさせる際に「考えさせる」と言うよりも「正しい答え」みたいなものを提示し、それに従わせてしまったからではないだろうか?(これは個人的には間違いないと踏んでいる)。だいたい、受験勉強というのは、だいたいそういうもの。「読んで、覚えて、暗記して、それを何も考えることなく吐き出す」(偏差値ゲットに必要なのは、先ず「思考停止」なのだ。ヘタに想像力を駆使しようものなら高得点は望めない)。この図式がこういった面接にも反映される。つまり面接にも正答、つまり「解答」があり、それをどれだけ忠実に再現するかがポイントであると勘違いする(で、高校教員側も、残念ながらそういった指導をしている)。これが弊害となって、自分の頭で考えることをしない(出来ないわけではない)。というか、勉強の場には必ず「解答」があり、それに答えるものと勘違いしてしまう。その結果の一例が、僕のケータイに関する課題の回答だったのだ。

「解答」するのではなく「回答」する力が必要

これは問題だ。僕が要求するもの、というか大学が要求するもの(そして社会が要求するもの)は「解答」ではなく「回答」。つまり「処理」したのち「考え」「表現する」力だ。しかし、与えられた課題との距離をとる、つまり課題に関する知識を収集しながらもこれを相対化し、最終的に自らの意見として表明することが出来ない。ちなみに勘違いしてもらっては困るので、もう少し正確に表現すれば、かれらは「回答できない」つまり「意見を表明することが能力がない」のではない。批判能力がないわけでは決してないのだ。そうではなくて、こういった高校までの暗記式教育のおかげで「自分の意見を表明してはいけない」と思い込んでいるのだ。そして自分の意見を持ってはいても、それを表明する手段=スキルを教えられていないのだ。

結局、こういった「自意識過剰」とは正反対の「自意識過少」の若者に知識を提供し、科学的手続きを教え、物事を相対化させる作業というツケを大学側が払わされることになるのだが……実は、当の大学側も得てして放ったらかしであったりする。そうなると「モノを考える」訓練を受けることもなく大学四年間は過ぎ去り、こういったスキルは大学後の社会人として入っていった環境に委ねられることになる(たとえば、その任務を会社が背負う)……いや、何も考えず「社蓄」になっているという可能性も十分考えられるのだけれど(で、それが日本社会にはとりあえず適合的だったりして。でも、もしこの憶測が正しかったとしたら、これからの日本経済はヤバイってことになるんだろう……)。

僕は、僕なりに「寝た子を起こす」作業に取り組んでいるつもりだが、こういった教育界の「考えさせない」「考える技術を与えない」がゆえに「自意識過少」の若者を再生産させているという現状は、根が深い問題と考えている。



歴史は真実ではない

従軍慰安婦問題、南京大虐殺、竹島問題……こういった問題はしばしば歴史的事実を巡っての争いということになるのだけれど。しかし実のところ、この歴史的事実というのが曲者で、事実=真実という図式の下に議論が展開されるのだけれど、この図式こそあやしいと思われないだろうか?

で、これをちょっと変わった側面から考えてみたい。ネタはイソップの『アリとキリギリス』。「えっ?これが竹島問題なんかと、どう関係あるの?」
まあ、この先を読んでからお考えいただきたい。

まずは、お話しのおさらいから。以下はWikipediaからの引用

の間、アリたちは冬の食料を蓄えるために働き続け、キリギリスはバイオリンを弾き、歌を歌って過ごす。やがてが来て、キリギリスは食べ物を探すが見つからず、最後にアリたちに乞い、食べ物を分けてもらおうとするが、アリは「夏には歌っていたんだから、冬には踊ったらどうだい?」と食べ物を分けることを拒否し、キリギリスは飢え死んでしまう。
これをテキスト=書かれたものとする。そしてこれ自体に一切変更を加えないことを前提とする。問題はコンテクスト、つまりこのテクストが時代によってどういう文脈で読まれたかにある。ちなみに、以下は日本での解釈だ。

「アリとキリギリス」の読まれ方

先ず60年代、高度経済成長期は「アリこそ正しい」
「やはり人間働かなければダメ。キリギリスのように遊んでばかりいたら、いずれそのツケが回ってくる。アリのように勤勉なのがいちばん」
といったところだろうか。実際、僕も一桁年齢の頃(現在54歳)は、こういうふうに教えられた覚えがある。で、当時はテレビアニメまで、こういった「刻苦勉励」を金科玉条のごとく奨励していた。典型的なのはスポ根アニメで「巨人の星」のテーマソングは「思い込んだら試練の道を、ゆくが男のド根性~巨人の星をつかむまで、血を汗流せ、涙を拭くな」、「アタックNo.1」は「苦しくったって、悲しくったって、コートの中では平気なの」という、おそろしくドMな歌詞だった。こんなことをあたりまえのこととして受け入れていたのは、背後に高度経済成長神話のイデオロギーが脈々と流れていたからに他ならない。つまり「みんなで汗水流して働けば、いずれはアメリカに追いつき、追い越すことが出来る。つまり世界ナンバーワンになれる。怠けている場合ではない」よってアリ=○、キリギリス=×

次に80年代、バブルの時代だった
「まあアリはアリで結構だけれど、キリギリス的な精神も必要だね。よく働き、よく遊べ。ベストな人間像はアリギリスだ!」
モーレツに働き、モーレツに遊ぶ。当時、もてはやされた「新人類」という若者像がこれにフィットしていた(実際に新人類が存在したかどうかは別として。当時、僕が調べた限りではこんな人間は存在しなかった『若者論を読む』小谷敏編、世界思想社参照)。残業手当で稼ぎまくり、無駄にフレンチ食ったり、ワインに蘊蓄垂れたり、外車乗り回したり、ブランドにこだわったりみたいなバブリーなコンテクストが感じられる。こちらの場合はアリ=○、キリギリス=○(ただし要修正)といったところだろうか。ちなみにこの「アリギリス」というのは当時のマーケティング業界による造語だ(そういえば、当時のファッション、色つきのロイドメガネやワンレンボディコンみたいなファションが、なんとなく(アリ+キリギリス)÷2みたいに見えるのだけれど(笑))。

90年代、失われた十年の時代
「アリは酷い!困っているキリギリスを助けることもなく飢え死にさせてしまうんだから。人間、働くことしか考えていないと度量が狭くなる。ありゃ、ダメだ!あんな人間(アリ)にはなりたくない」
バブルがはじけて、モーレツに働くことの意味が問われはじめた。また「やさしさ」という言葉が重要視されるようにもなった(「やさしさ」という言葉は70年代に出現するが、80年代に再ブレークする。ただし意味を変えて。詳細は『「やさしさ」の精神病理』大平健 岩波新書を参照)、さらにナンバーワンに到達することなどもはやないと認識されるようになったというコンテクストで解釈すると、まあこんな感じになるのではないか。ややもするとあわれなキリギリスにバブルで疲弊した自分自身を見たのかも知れない。ここではアリ=×、キリギリス=△。

21世紀、物語のコンテクストは根本的に変容した

で、0年代に入るとさらにこのコンテクストは変容する。
「まあ、確かにアリみたいなヤツは嫌なヤツで、あんまり付き合いたくはないよね。でも人は人なので、まあ勝手にやっていてほしい。そうはいっても、キリギリスもバカだ。あいつは夏の間バイオリンを弾き、歌を歌っているとき、その前にバイオリンケースを置きさえすればよかったんだ。そうすれば、その演奏と歌を聴いた連中がカネをケースに投げてくれる。これで冬もバッチリだったはずなのに。」
アリの評価は下がったままだが、キリギリスの評価も下がる。つまりアリ=×、キリギリス=×。ただし、ここでは、キリギリスの態度の修正案を提示することでそれまでこの物語のコンテクスト=解釈に通底していたイデオロギーが否定されている。それは「労働―余暇二元論」(あるいは「生産―消費二元論」と言い換えてもいいだろう)だ。それまでは「働くか?それとも遊ぶか」という二者選択という前提が置かれていたが、ここではこれが完全に否定されているのだ。つまり、働く=労賃が発生する、遊ぶ=それを消費するという図式が崩れる。まず労働絶対主義、労働こそ価値があるというプロティスタンティズム以来の価値観が否定される。だからアリは×。一方、遊びを労働と結びつけないという点ではキリギリスも同じ価値観に基づいた行動をとっており、こちらも×。そして修正案では「労働―余暇二元論」が解消されている。つまりキリギリスの遊び=消費はイコール労働=生産となるのだ。(ちなみに80年代のアリギリス的な立ち位置も労働―余暇の図式に含まれる。「よく働き、よく遊べ」なので、二元論は相変わらず保持されていたのだ)

これは、まさに時代のコンテクストを反映していると考えていいだろう。槇原敬之の『世界に一つだけの花』に象徴されるように「ナンバーワン」である必要はなく「オンリーワン」であればいいのだ(もっともこの曲は「はじめから、特別なオンリーワン」と謳っているのだけど)。プロティスタンティズム的な労働観は禁欲的に徹底的に働くことを旨とするが、これが結果として資本主義における競争原理を生んでしまったことは、社会学をちょっとかじったことのある人間なら誰でも知っていること(M.ウェーバー『プロティスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫 参照)。つまり、資本主義は結果としてナンバーワン志向を生んだ。ところがバブルがはじけ、失われた十年を経過した後、人々はナンバーワンより自分らしさ=オンリーワンを大切にし始めた。そこで「カネがたくさんあることよりも、そこそこでいいからむしろ楽しく過ごすこと」を旨としはじめた(マイルドヤンキーなんかがそのライフスタイルの典型)。そういったコンテクストを反映すると「バイオリンを弾き、歌って楽しく過ごしながら、それによって冬の蓄えもそれなりに確保する」というコンテクスト=解釈が妙にこの寓話に正当性を持たせるようになる。

要するに、テクストはテクストでしかない。そして、それをどう解釈するかはコンテクストにもとづく。それによってテクストの解釈はいかようにも変容する。

歴史を巡る問題に対するコンテクストの恣意性はアリとキリギリスどころではない!

これを前述の歴史問題に照らし合わせてみると面白い。従軍慰安婦「らしき」事実は、おそらくあっただろう。南京大虐殺「らしき」事件もあっただろう。島の領有を巡って、その正当性を担保するさまざまな歴史的事実「らしき」ものもあっただろう。しかし、これらは、少々皮肉を込めて「」付けで強調したように、すべて「らしき」ものという表現しかできない。これら「事件」を巡る事実、つまりテクストは確かに存在する。しかし、それがどのようなコンテクストに基づいて解釈されるのかはまったくもって恣意的。社会や歴史、文化、そして政治的なコンテクストに基づいて、いかようにでも解釈されうるのだ。
いや、よく考えてみれば「アリとキリギリス」の方がまだましだ。イソップが残したテクストそれ自体は普遍だからだ(※)。だが上記の問題群はそうではない。テクストそれ自体が改変されている。つまり、あまたある事実から自らのコンテクストに基づいて(それはきわめて政治的なものだが)そのイデオロギーにふさわしい「事実らしきもの」だけが抽出され、それを組み合わせてテクストを構成した後、さらにこれがコンテクストによって補われるというレトリックが施されているのだ。いいかえれば、まず自分が主張したいこと=例えばこの島はわが国の領土、があり、これにあわせて過去の歴史的事実を拾い上げ(この主張にふさわしくない事実は全て切り落とされる)てテクストを構成し、これを主張したいコンテクスト=イデオロギーに基づいて解釈するという「出来レース」がここでは繰り広げられているのである。なんのことはない、はじめから答えは決まっているのだ!だから事実は事実であったとしても、それを編集したものは真実ではない。あくまでイデオロギーに基づいた解釈でしかないのだ。だが、政治レベルでは、こういった議論はわかっていたとしても絶対にやらない。なぜ?だって、それが政治なんだから。で、最終的に勝った方によって構成された「事実を組み合わせたテクスト」と「その解釈=コンテクスト」が「真実」というヘゲモニーを握る。お断りしておくが、これも「」書きしてあるように、決して真実ではない。


※ちなみに「アリとキリギリス」についてもテクストが改編された作品は見受けられる。一つはこれが「子ども向け」と捉えられ、ちょっと残酷なので結末が改変されているというもの。最後のキリギリスが飢え死にしたという結末をカットしたり、食べ物を与えられてキリギリスが改心するというのがその典型だ。またディズニー(シリーシンフォニーシリーズ、1934年)の場合、最後にアリはキリギリスに食べ物を与え、キリギリスはそのお礼としてバイオリンを演奏して聞かせるという、いかにもディズニー的なハッピーエンドになっている。)

前回のブログで「社会問題を取り扱う科目を、授業科目の一つとして取り入れるべき」との提案をしておいた(「教育機関は社会問題について考える授業を用意すべきだ」http://blogos.com/article/93741/forum/)。コメント欄ではかなり積極的な議論が交わされ、こちらの方面への関心の高さを伺わせたが、例によって少々誤解を被った部分もあった。前回、僕がこういった科目を提案した理由は、考える力をつけるためには、その考えについての基礎知識、つまり語彙とそれにまつわる物語がなければならない、つまり前提=コンテクストがなければ考えることさえ出来ないという立場に基づく。これは「考える考え方を学ぶ」とまとめておいた。そして、この教育の条件として教える側が価値判断を加えてはいけないことも指摘しておいた。つまりコンテクストのみを提供して、それに関する評価基準を教える側が提供するべきではない。ちなみに価値判断、つまりイデオロギーの押しつけという側面でしばしば問題にされるのが道徳と歴史だ。「正しい道徳」「正しい歴史」というわけだ。これが実に政治的で焦臭い(記号論・メディア論的には「そんなものはない」という立場を採る)。だから、議題とその知識だけを提供して、考えることは教わる子どもに委ねるべきと考えたのだ。

コンテクストが備えるイデオロギー性

ただし、こういった時、二つの問題が生じる。
ひとつは、「コンテクストこそがイデオロギーではないのか?」という問題だ。メディア論では、このコンテクストを選択する働きを議題設定機能=アジェンダ・セッティングと呼んでいる。あまたある知識やジャンルの中から一つの議題をマスメディアなどが選択し、世論を形成する機能を指すのだけれど、問題は、なぜその議題が選ばれたのか、そしてその議題の中からなぜこれらの語彙やストーリーが選ばれたのかという点にある。というのも、それらは、ほとんどが恣意的な選択に基づいて行われているからだ。

わかりやすいように例を示そう。たとえば、次の文をどのように思われるだろうか。

「世界の国々はみな平等。様々な人種、文化を持った人々がそれぞれの国に住んでいる。アメリカ、イギリス、フランス、中国、ブラジル……。」

この文章が全然平等ではないことがお解りだろうか。

まず二文目「様々な人種、文化」
なぜ国家というジャンルを語るのに、その中の一要素でしかない人種と文化が、ことさらに取り上げられたのだろう?宗教や食物、生活習慣といったものはなぜ切り落とされたのだろう?まあ、文化の部分集合とすれば納得がいかないかともないが、じゃあなぜ人種が選ばれたのか?ここに議題設定機能が働いている。

次に三文目「アメリカ、イギリス、フランス、中国、ブラジル……」
国家というジャンルは195国から構成されているのだけれど、なぜこの五つの国家が取り上げられたのか?トリニダード・トバコ、バチカン、アンドラ、リヒテンシュタイン、バングラデシュはなぜ挙げられなかったのか?これも国家というジャンルに属するのだけれど。ここにも議題設定機能が働いている。そう、どちらにしても無意識のうちになんらかの優先順位=スキーマに基づいてこれらがとりあげられているのだ。

当然、ここにもある種のイデオロギーが存在する。そしてこれは、基本的に道徳の価値判断の押しつけと同じだ。いや道徳的な、例えばウヨ的なイデオロギーは認識論レベル、つまりはっきり言っちゃっているので、実を言うと、ある意味、あんまり危険じゃない。これらはウヨ的立場とカンタンに括ることが出来るので相対化が可能なのだ。「あ、ウヨが言っていることなのね。ハイハイ」となる。ところが、こういった無意識のうちに展開される、つまり存在論的イデオロギーはかなり危険で質が悪い(そしてこちらのイデオロギーの方がより支配的で包括的だ。哲学に詳しい方ならこちらの広義のイデオロギーはL.アルチュセールの主張するイデオロギー概念に該当するとみなしていただければ、すんなりとお解りいただけるのではなかろうか)。なぜなら、こういったジャンルの選択は価値判断を許さないというか、価値判断をすることもなく透明なかたちでこちらが受容してしまうからだ(そして、こういった広義のイデオロギーがわれわれの行動や認識を規定し、文化を形成している。世界地図は、日本の場合、日本が世界の中心に描かれているが、欧米の地図では右端。だから日本は「極東」。またオーストラリアの世界地図なら北と南が逆さまだ。加えて言えば日本人がアジア国家の名前を挙げていくとき、最後まで出てこない国があるが、それは「日本」だ。これは、たとえば新聞などのマスメディアが国内欄と国際欄を分けてしまったことでわれわれが日本≠アジアという認識を無意識のうちに形成してしまったからだ。これらももちろん広義のイデオロギーにもとづく)。いいかえれば受容する側に選択判断が与えられていない半ば強制的なもの。だが、それが強制であることに全く気がつかない。M.フーコー的に言えば規律訓練型権力、東浩紀なら環境管理型権力といったかたちでイデオロギーが作動してしまう。だから、前回の自分が提案した議論をひっくり返すようで申し訳ないが、議題のみの提示というのも、実は十分にイデオロギーが作動していると考えなければならない。つまりコンテクストもイデオロギーに満ちている。

「考え方」という装置もまた、イデオロギー

もうひとつはコンテクストを提供したのはよいけれど、ではいったい、どうやって考えたらいいのか?ということ。考えるためには、あたりまえだが考えるための教育が必要だ。それが例えばディベートだったり、修辞学だったり、論理学であったりするわけなんだけど。たとえば帰納法、演繹法、アブダクション、弁証法、アナロジー、モードポネンス、表示義・共示義みたいな装置が指導される。しかし、こういった「考えるための装置」もまたイデオロギーに他ならない。しかも提供されるコンテクストと同様、存在論的、つまり無意識裡に機能する質の悪いイデオロギーだ。これを使った瞬間、他の方法によってでしか見いだせない事象が捨象されてしまう。ようするに、そのスタイルに洗脳されてしまう。つまり、道徳と同様、コンテクスト(前提的知識、語彙、そして概念装置)もイデオロギーに人間を閉じ込める装置ということになる。違うのはそのイデオロギーが認識論=意識的なものであるか存在論=無意識的なものであるかでしかない。

じゃあいったい、どうしたらいいんだ?

「今、君たちを指導している教員を信用してはならない」という唯一の絶対的命題

僕は教員なので、当然ながら学生への指導をする際には、こういった議題=アジェンダをいくつも提示し、語彙を用意し、なおかつ考えるための装置も提供している(ちなみに僕は学生たちに考える装置としてメディア論と記号論を教えている)。しかもかなり厳しく。こうなると僕は煽動的右翼、デマゴーク以上に若者たちを洗脳する人間ということになる。でも、これははっきり言ってヤバイ。

そこで、彼らにしつこく繰り返し言っていることがある。ちなみに、これは学生に守ってほしいと思っている、僕の「押しつけ」「譲れない絶対的イデオロギー」だ。

それは、

「僕の言うことを信じてはいけない!」

というもの。


もう少しマイルドに表現すると、

「僕が君たちに教えているのは、たくさんある知識のひとつでしかない。あまたある知識の中から「僕が勝手に」選択し、それを「僕が勝手に」解釈したもの。そして「僕が勝手に」考えるための装置として選んだものを君たちに提供しているにすぎない。」

となる。

自らの教授することが一つのパースペクティブでしかないこと。これが、ものを教える側の唯一守らなければならないことなのだと僕は考える。つまり、教えるものはすべからくイデオロギー装置。教わる側の思想や行動を否応なく規定する。これは絶対に避けられない。そこで、ここで取り上げるものや分析方法は、他にもこれ以外に取り上げるものは無数にあり、分析方法もあるが、とりあえず教える側としては、これを選択した。そして少なくとも、これを使うと、まあこんなふうに考えることが出来ると提示する(これをキレイに、つまりなるべく価値判断を排除して指導できるかどうかが腕の見せ所になるだろう)。だが、それはいいかえれば、しつこいようだが他にもたくさんのジャンルがあり、たくさんの分析方法があるので、そちらを使えば現実の理解は全く異なることになることを釘を刺しておく。だから「僕を信用するな!」となる。

つまり、教員が提供するものも「あまたある内の一つ」として相対化しつつ受け入れる土壌を用意することが教員の仕事となる。そう、知識と技術を教える際に「相対的視点」を教えることも社会問題を教える際の絶対条件なのだ。そして教わる側もこれを了解しつつ、自分が考えたものも同様に相対的なものでしかないと認識する。これがちゃんとできて、初めて教わる側も知識や技術を道具にアイデアを巡らせる、つまり考えることが出来るようになる。

ただし、最後に一言付け加えておけば、こうしたところで結局、学生・生徒は教員のイデオロギーに染められることからは逃れられない。それは熱血教師であればあるほど、その可能性は高くなる。そして熱血教師の場合、しばしば自分が絶対的な価値観を押しつけている可能性も高くなる。だから、教える側は一生懸命であればあるほど自己相対化を常に自らに化さねばならないのだけれど(テキトーな教師は、学生の方が「アイツはイイカゲンだから」とスルーする、つまり教師の発言を相対化できる)。とはいっても、結局、教師にある程度洗脳させられるって言うのが教育なんだろう。学ぶというのは最終的には「知識」ではなく「経験」なのだから。そして経験に基づいた知識、つまり「知恵」を養うのが教育なのだから。

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