勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2014年08月

facebookCEOM.ザッカーバーグが、氷水の入ったバケツを被るビデオを公開したことでアッと言う間にブレイクし、日本にまで波及している寄付チャリティーALC Ice Bucket Challengeだが、これに危惧を覚える御仁が結構おられる。しかしこれ、な~んにも心配することはありません。今回はこのチャレンジに危惧を覚える方々を安心させるために、この運動の盛り上がりと終焉のプロセスについてのシナリオを考えてみましょう。ちなみに始めに答えを言っておけば、サクッと始まり、サクッと終わります。

 

断れない?

その危惧のポイントは二つ。一つは「断れないのでは?」という懸念。

このチャリティーイベントは100ドルを寄付するか、10ドル+氷水を被るかの選択があるのだが、これに加えて、次にこのイベントに参加する人間3名を指名するというルールがある(強制力は無い)。で、セレブがセレブを紹介するというかたちで展開しているが、ビデオを通じて参加者を指名すれば、その映像自体が広く一般に認知されるので、指名を受けた側は断れなくなる可能性がある。社会学的には「沈黙の螺旋」という無言の圧力に従わされるGがかかることになる恐れがあるのだ。だって、断ったら「あいつ、ケチな野郎だ」ってなことになりかねないからだ。でも、これはヤバいんじゃないか(まあ、これを平気で断る人間がいるとするなら故S.ジョブズくらいだろう。ジョブズは一切チャリティーに協力しなかったことで有名だ)。

 

しかし、これは杞憂に過ぎないだろう。というか、こういうセレブ間での指名なんてのは、まず事前に打診があって、それでオッケーが出て初めて指名が行われるという「大人の事情」を読んだ展開があるに決まっているからだ。ベタに断ったときのインパクトを考えずに指名するなんてのは、全くもって業界のマナーを理解していないとんでもないヤツになるということになるわけで(ビジネスだったら、その関係さえ断たれかねない)。つまり「お約束に基づいた祭り」。だから、セレブ間でやられている限りには、この圧力自体が発生する可能性はほとんどないと見た方が妥当だろう。問題は、これが一般市民層にまで浸透した時どうなるかなのだが、実はこれも後述するが、結果としては、おおむね問題はない。大丈夫なのだ(流行りすぎて死亡事故まで発生しているが、これは「必要経費」の部類だろう)。


 

「不幸の手紙」と同じ?

二つ目はこれが「チェーンメール、いわゆるマルチ商法のメカニズムとまったく同じでアブナイのでは?」という懸念だ。問題とされるのは「3名指名」というルールで、これだとねずみ算式にやらなければならない人がどんどん増えていく。単純に考えれば、17回指名すれば日本人の人口に達してしまうという計算だ。いわゆる「不幸の手紙」で、これまたヤバいんじゃないのか?というわけだ。

 

しかしながら、これまた決してそういうことにはならない。なぜって?この増殖は別の要因によって終息してしまうからだ。で、この終息原因を一言でまとめてしまえば「費用対効果」の消滅ということになる。具体的にはその要因は二つ。

 

波紋は広がるにつれ、どんどん小さくなる

バケツチャレンジ。セレブ間でやっているうちは順調に三倍で増加していくが、そう遠くないうちにこの増殖は止まる。今はザッカーバーグ、ビルゲイツ、スピルバーグ、山中伸弥、孫正義、堀江貴文なんて超ビッグなセレブが氷水を被っているが、この人間たちが指名する人間はだんだんと小物になっていく。そしてその小物は最終的には一般人を指名するようになる。そうすると、これは単なる「身内ネタ」のレベルにまで下がってくる。こうなるとやってもあまり面白くないし、メディア的露出もどんどん無くなってしまう。そうともなれば、今度は指名されても容易に断ることが出来るようになる(まあ、しばしば一般人の場合、セレブのそれとは異なり「大人の事情」が読めない人間が登場するので、揉めごとになったりするのだが)。で、結局、誰もやらなくなる。そう、波紋のように広がるにつれ、その波の勢いはどんどん小さくなっていき、最終的にその力は拡散して吸収されてしまうのだ。

 

メディアは儲からなくなれば持ち上げることをやめる

もう一つは、これがビデオを介してブームになっていることによる。YouTubeなどで一般人が見たい氷水かぶりはセレブに限られる。で、その時点ではマスメディアはネタになるので一生懸命取り上げるだろう。だが、小物になってしまったらもはや見向きもしないだろう。だから、やればやるほどメディアによるこのチャレンジについての露出は減っていき(一部の素人がセレブを真似てYouTubeにアップするなんてことが起こるだろうが、よっぽど面白い物でも作らない限り、おそらくほとんどの人間に無視されるだろう)、やがてこのイベント事態が収束していくのだ。まあ、ネタとしてもすぐに飽きられる運命なのだけれど。ちなみに、これはネット経由なので揮発性がきわめて高い。つまりアッという間に流行し、アッと言う間に終わる。9月末には、おそらく、もう誰も話題にしていないだろう。寒いしね!(笑)

 

そして、みんな幸せになりましたとさ?

で、これでいいのだと思う。こうやって一巡することでALS支援団体?は所期の目的、つまり寄付金集めを達成することが出来るし、セレブもまたイメージアップを図ることが出来る。またザッカーバーグや孫正義のような企業人ならば自らが指揮を執るカンパニーのイメージアップと営業利益にも繋げることができるわけで、めでたし、めでたしなのだ(もっともこのチャレンジばかりがもてはやされて「結局、ALSっていったい?」、つまり最終的にALSがなんだかわからないというオチがつくが……。とはいうものの、認知されるためには先ず名前が知られることが重要なので、そういった意味では十分に恩恵がある)。

 

そうやって、グルっと一巡していくことで、参加した人間たちは一様に利益を獲得することになる。ちなみに、いちばん獲得が少ないのは、実は素人だろう。彼らがこのチャリティーから得られるのは、要するに「ネタ」、つまり仲間内のコミュニケーションだけなのだから。場合によっては前述したように、人間関係に亀裂を来す要因となってしまう恐れすらある。

 

このイベントを危惧するみなさん。懸念されることなど全くないのですよ!少なくとも、みなさんが心配される部分に関しては(ちなみに、他の部分については、ここでは言及しておりません。念のため!)。費用対効果的には、きわめて多くの人たちがトクをするお祭りになっているのですから。

 

オマケ:ネイマールがワールドカップで自分にケガを負わせたスニガを指名したのはヒットでした。これで彼に対するバッシングが大幅に減るだろうし、ネイマールも周囲から「いいやつじゃん!」てなことになる。こういう使い方が正しいんじゃないんだろうか。

FacebookCEOM.ザッカーバーグの映像が世界中に配信されたため、あちこちでとりあげられている「バケツチャレンジ」と呼ばれる「筋委縮性側策硬化症(ALS)の認知度を高め、闘病を支援」する目的で展開されているチャリティーキャンペーンは、海外でのセレブだけでなく日本国内にも飛び火し、今やノーベル賞を受賞した山中伸弥、SoftBankの孫正義、堀江貴文氏なども、このチャレンジに参加している。そこで、その効用について考えてみたい。
 
まず、ルールをおさらいしておく。それは、
 
SNSを通じて指名された人物は「氷水の入ったバケツを頭から被る+10ドルの寄付」、かぶらなければ「100ドルの寄付」を行うことが期待される。また指名された人物はさらに3名の人物を指名し、このチャレンジを24時間以内に実行することを要求する」
 
というもの。
 

とりあえず全員がトクするシステム。

このチャレンジの面白いところはSNSをメディアとして利用することで、結果として全員に利益が配分されるというところだ。まずあたりまえの話だが、ALSには寄付が集められる。しかもセレブがやっていることで、その宣伝効果は絶大。ザッカーバーグが、ビル・ゲイツが、スピルパーグが、山中伸弥がやれば、これで多くの人間がそのビデオ=YouTubeにアクセスすることになる。その結果、ALSの存在が広く認知される。ここでミソとなるのがチャレンジした人物が誰を指名するのかへの関心だ。ザッカーバーグはビル・ゲイツ、ティム・クックはディズニーCEOボブ・アイガー、堀江貴文はロンブーの田村淳などを指名しているが、こうやって3人が指名されることで、これがいわば次回の予告編となり、それがいっそう認知度を高めていくのだ。
 
次に、このチャレンジを受けた側のセレブの取り分。彼らは氷水を被ることで自らのメディア的なイメージのアップに繋げることができる。とりわけ今回のバケツチャレンジでそのイメージを大幅にアップさせた典型的な人物はビル・ゲイツだ。ビルはこのチャレンジをビデオに収めるにあたって、なんとショートムービーに仕立ててしまったのだ。まずはそのビデオをご覧いただこう。
 

バケツチャレンジを自己パロディで演じてみせるビル・ゲイツ

 

はじめにザッカーバーグが自分を指名するビデオを見ている姿が映し出される。最初は「なに、これ?」ってな感じのあまり関心の無さそうな表情をしているが、この要請を「受ける」と宣言すると、次には自分が氷水を被るためのあやしげな装置のデザインを始め、さらにそれを自らバーナーで製作しはじめる。しかもひたすらクールな表情で。ただバケツを被りさえすればよいものを、なんでここまで大仰にやらなければならないのかと思うほどバカバカしいのだが、それがかえってビル・ゲイツの、あまりかんばしくないイメージを覆すユーモスな映像に仕上がっている。ゲイツしばしばS.ジョブズと比較されるのだが、この時、ゲイツは「ものすごく頭がいいが、狡猾でクリエイティビティに欠ける」ネガティブな存在として描かれることが一般的だ。だがビデオでゲイツはこのイメージを逆手にとって、このバカバカしい行為を自らこのイメージに従った演技、つまりクールな表情=秀才イメージでやり続ける。つまり「自己パロディ」。だから、このイメージを認知している人間にとって、これは大爆笑。しかも「ゲイツ、結構茶目っ気あるじゃん!」と親密感さえ覚えるようにもなる“傑作”に仕上がっている
 
 

プロダクト・プレイスメント手法が使われている

まあ、でもよく見てみるとやっぱり狡猾ではある。ゲイツはザッカーバーグの指名ビデオをきっちりMicrosoftSurfaceで見ているわけで、ここではセレブのイメージをサブリミナル的に商品に転化する「プロダクト・プレイスメント」というベタな広告手法が用いられている。つまり、この場合「こんな面白いビデオを作っているセレブのオレは、もちろんSurfaceを使っている。つまりセレブ=面白=Surface。ということはSurfaceを使えば、これを見ているあなたもこんな面白いことができるし、自分もセレブみないた気分に浸れる」というイメージの転写が行われるのだ(プロダクト・プレイスメントの詳細をお知りになりたい方はこちら→http://ja.wikipedia.org/wiki/プロダクト・プレイスメント)。そして、こういったバケツチャレンジをメディアとしたセレブや企業のイメージアップ、結果として登場する全ての人物が大なり小なり行っていると言っていい。
 

ボランティア=偽善の図式は、もうやめましょう!

じゃあ、これは偽善的な行為なのだろうか。その答えは“Yes”でもあり“No”でもある。「偽善」という言葉をどう認識するかで決まってくるからだ。
 
辞書の定義によれば、偽善とは「本心からではない,うわべだけの善行」となる。では、バケツを被るセレブたちにそういった側面があるか?と問われれば、無いとは言えないだろう。前述のようにこのチャリティー=ボランティアを使って、何らかのイメージアップや利益の上昇を企てているのだから。「本心は自分の利益で、そのためのうわべの善行として氷水を被っている」とも考えられる。
 
しかし、これが「ボランティア活動」であることを忘れてほしくない。こういった行為に「偽善」というレッテルを貼る人間は、このことを忘れている。そしてこれは今回のバケツチャレンジに限らず、ボランティア活動の全てに該当する。ボランティアとは「ボランタリーな行為を行う人」をさすが、このボランタリー=voluntaryの意味は「自発的、無料の、自由意志による」という意味だ。注意してほしいのは、ここではまず「自発的」つまり「やりたいから勝手にやっている」、そしてそれが「タダである」ことを謳っているだけで、別に見返りを求めていないのではないことだ。震災ボランティアを考えてみて欲しい。彼らは見返りを求めていないだろうか。そんなことはないだろう。彼らはそこで活動を展開することで金銭的な見返りこそないが、半面、様々な人々と関わり新しい人間関係を構築することが出来るはずだ。また人生経験を積むことも出来るはずだ。そう、しっかり見返りを得てはいるのだ。いや、よく考えてみれば、そもそも「やりたいからやっている」という発想自体が「『やりたいことを成し遂げる』という見返りを期待しているからやっている」ということでもある。しかも、それによって被災者を助けるということにもなっているわけで。
 
ここにあるのは、言い古された言葉ではあるけど、ようするにWIN-WINの関係に他ならない(このへんの分析と実践例については金子郁容『ボランティア~もうひとつの情報社会』(岩波新書)が詳しい)。江頭2:50は自分が震災ボランティアに参加していることを一切隠して活動に従事していたが、これなどはボランティアやチャリティーに添加されているネガティブなイメージ、つまり偽善ということに過敏なまでに反応した例だろう。江頭はそういったイメージを恐れたがゆえに、こういったボランティアのやり方を採ったのだろうが、これはちょっとナイーブすぎると思う(江頭って、かなりいい人なんだろうなぁ)。
 
むしろ、こういった行為を偽善呼ばわりする人間に対して、やっている側は「偽善、それのどこが悪い!」と開き直ってもいいんじゃないんだろうか。それは偽善であっても偽善ではないのだから(つまり取り方の問題)。
 
ということで結論。セレブによるバケツチャレンジ、大いに結構。周りが偽善と言おうがそんなことは気にせず、みなさん、「偽善」を鉄面皮でやってください。
 
ところで、でもこれって、最終的にどうなるの?次回は、これについて考えてみたい。
 

丹下健三の平和主義

実は、広島平和記念資料館がある広島平和記念公園一帯には、このような仕組みを巧妙に組み込んだ見事な施設、というか環境が存在する。それは公園一帯を設計した丹下健三の思想だ。広島平和記念公園はなぜか三角州の形に対して少々斜めを向き、しかも三角州の少々東側を中心とした形で設計されている。このからくりは正面玄関(つまり記念資料館本館)から見据えるとその理由がわかる。非常に印象的な風景が目に入るのだ。平和記念資料館は一階の部分が柱だけで、上階の部分が資料館になっているのだが、正面からこの柱だけの1階部分から建物越し、真ん中のその一番先に原爆ドームが見えるのだ。しかも正面玄関と原爆ドームの中間地点に慰霊碑があり、原爆資料館、慰霊碑、原爆ドームの三つが一直線でつながっている。そう、この公園はすべての中心が原爆ドームに向かうように構成されているのである。しかも、丹下はその原爆ドームを悲惨なものとして演出すると言うことを拒否した。こういった、建物越しにドームが見えるような構成にすることで、極めて美しい構築物=シンボルとして原爆ドームを演出したのだ。原爆で焼け落ちた「神聖」な場所として。

もしこれを手がけたのが平和記念資料館の資料展示をプロデュースしたスタッフだったら、やっぱりおどろおどろしい悲惨なものにみえるような演出にしたのではないだろうか。しかし丹下は違った。丹下は原爆ドームとそれが受けた受難のすべてを昇華するような美に変えてえてみせるという離れ業をやって見せたのである。(ちなみに、これでさえ岡本太郎は「平和主義の押しつけ」と批判しているのだが。僕は、必ずしもそうは思わない。ここの印象は、先ず”美しい公園”である。キャプションがなければ原爆の悲惨さはわかりづらい構成だ)

アート化することで、原爆は永遠となる

原爆ドームは単なる悲惨な記憶ではなく、アートとして演出することで、丹下はわれわれが後世においても代々と語り継がれていく空間を構築することに成功している。つまり、まず「美しい」と感じ、次に、付随的にそれが原爆によって作られたものだと認識する。こういったアレンジを施さなかったら、時代が経つにつれ、ひょっとしたら原爆の記憶それ自体は風化してしまうのではなかろうか。しかし、遺物を美へと昇華させることによって、原爆ドームは永遠を獲得する。そして百年後、二百年後の人間が、その美しい原爆ドームとそれを取り囲む環境に魅せられ、想像力を働かせる。これこそ、戦争を徹底的に相対化した状態=言い換えればメタ平和主義、普遍的平和主義といえるのではないだろうか。ある意味、父母を原爆で亡くした丹下の戦争に対する冷静な、それでいて強烈な問題意識が、ここにはある。
さて、こうやって考えてみると、丹下の仕事は原爆を風化させない、ちょっと不謹慎な言い方になるが、本ブログの文脈からすれば「原爆祭り」(2ちゃんの「祭り」ではありません)を持続させるための手段を提示していることになる。つまり、常に原爆に解釈を加えさせるような仕組みを用意し、その都度、時代の人々がイメージを働かせ、原爆に何らかの思いを馳せていくという図式がここにはある。たとえば、ここでライブや様々なパフォーマンスなんかをやってイベント会場にし、この場を盛り上げ続けるなんていうのはいいかもしれない(ここをコミュニティ・スペースにすることは丹下がそもそも考えていたことでもあった)。それは「原爆」に対する、良い意味での日常化ということになる。僕はそんなふうに考える。

僕の「広島平和記念資料館は出来が悪い」発言への学生たちのリアクション

以前、僕は講義の中で「広島平和記念公園の記念資料館は出来が悪い。並べ方が押しつけがましくて、想像力を喚起しない。資料館のあり方としてはレベルが低い」と批判した。すると、これについて次のようなリアクションがあった。一つは、原爆の悲惨さを訴えている施設にたいして、僕が批判したことの倫理感を問うもの。もう一つは、僕の見解を評価するもの。そこで、今回は異なる二つの典型的な見解を挙げ、これに対してMuseum=博物館、美術館のあり方についてメディア論的に考えてみたい。

先生のコメントは「不快」

広島の原爆の話について、私はとても不快に思いました。原爆を二度と引き起こさないように原爆ドームとして残し、平和記念資料館を建てたのに、先生の考え方を聞いてハッキリいってかなりショックでした。確かに先生がおっしゃったように「見せ方」としてはいいものではないかもしれません。しかし、過去にどのようなことがあって、そして、今があるといった点で、こういった建物、資料館は必要ではないでしょうか。原爆を二度と起こさないようにしなくてはという考えの下に遺族の方が亡くなった人の服などを使っていたものを寄贈したのだと思います。そうしたものを展示することによって多くの人に原爆の悲惨さを伝えると行った考え方だと思うのですが。(同様のコメント他1部)

「原爆ブレイン」な人々が出てくる危険性

僕も中国地方出身と言うこともあって、平和記念資料館には何度か行ったが、先生と同じで、あれは少し危険をはらんだ施設であると思っていた。断っておくが、僕は戦争支持者でも何でもなく、危険をはらんでいるというのは、戦争を知らない若者(自分も含む)に対する警告である。平和記念資料館は全部見るのにさほど時間はかからず、30分もあれば全部回れるが、少なからず出口からは洗脳を終えた「原爆ブレイン」な人々が出てくる危険性をはらんでいる(僕の友達もそうだった)。記念館はある意味、情報が一方通行であり、その情報も単一である。「原爆=悪」。これ自体は僕自身、同意をするが、問題はその後の「核を使った戦争」、極端な話「核を持った国に対する戦争」が正当化されるような可能性をはらんでいること。それでは「沖縄」で起きたことはなんであったのか?核を使っていない戦争であったのでは?戦争に対する考え方が偶然であれ、洗脳されるのは少々危険ではないか?

さて、この二つの意見、どう考えるべきか。

一元的な原爆イデオロギーの押しつけは、戦争を起こさせるファシズムと変わらない 

僕が、広島平和記念館を批判した理由を述べよう。
結論を先に言ってしまえば、僕も原爆なんてゴメン。戦争ももちろんゴメンだ。だからこそ平和記念資料館を批判した。批判の根拠は、資料館を訪れる側に戦争に関する一方的なイデオロギーを強要し、こちらが戦争がどういうものかを考える余裕を与えないからだ。つまり「戦争はいけない。こういうことがおこる。だからやるな」的な考え。そして、それを前提に非核三原則を強要する(ちなみに僕は非核三原則には賛成だ。しかし、これを金科玉条のように押しつけ、反対する人間を人非人のように扱うのには断固反対する)という態度に嫌悪感を覚えるのである。

これはマズい。このような記念館のプロデュース方針は、要するに思想統制にほかならない。考えても見てほしい。かつてそういった思想統制によって何が起こっただろうか。いうまでもなく戦争だ。そして原爆が落とされた。つまり、一元的なイデオロギーの押しつけとは、ファシズムと質的に全く異ならないということになるのだ。いいかえれば、あの記念館は「戦争はいけない」というイデオロギー=ファシズムを振り回している、と僕は考える。戦争は、時代時代で個人がその都度想像し、そして構築し続けることによって、様々に解釈・理解される中で、その悲惨、あるいはリアリティが伝わるものではないだろうか。だから、遺族が寄贈したものが悪いのではなく(これ自体は展示すべき)、それを並べた後に(並べること自体も問題ではない。とはいうものの厳密には注意が必要と言うことにはなるが。並べることも存在論的なイデオロギーを構成するので(後述))、一元的な物語を構成し、こちらに押しつけるのが悪いのである。

ちなみに正しい歴史など、存在しない。「歴史」とはその時代の権力を握ったものが、自らの権力を正当化するために都合のいいように過去の事実を配列して作り上げた物語に他ならない(だから歴史は普遍ではなくしばしば変わる、いや厳密に表現すれば変えられてしまう。従軍慰安婦、竹島、南京大虐殺問題などはその典型)。ということは、この展示物の並べ方も、現在の権力の正当化のために使われていると考えるのがメディア論的な考え方となる。要するに、認識論的側面が平和でも、その認識のさせ方の根本的態度、すなわち存在論的側面がファシズムでは、どうしようもないのだ。そして、戦争は存在論的ファシズムがなせる業でもあるといえるだろう。そもそも戦争とは「正義と正義の戦い」、「神々の闘争」なのだから。ちなみに、こういったイデオロギーは、しばしば党派制の道具として使用続けていることも、もはやいうまでもないだろう。

客観的な配列ですら政治的イデオロギーを含む

Museumの展示は、すべからくイデオロギー性を含んでいる。プロデュースする側が確信を持って展示配列のストーリーを作り上げている場合は言うまでもない。
問題は、どんな配列をしようと、かならずそれは物語=イデオロギーを構成してしまうことである(後述)。そしてそれに基づいてある程度一元的な解釈をオーディエンスに強要する。それゆえこちらとしては、これらイデオロギーのフレイムを読み取り、その背後に、自分にとっての原爆の意味を読み込もうとする想像力=創造力が必要となる。それがメディアリテラシー教育が必要であるゆえんなのだ。
僕は広島平和記念資料館は「絶対に必要」と考える。原爆の真実を伝えるのではなく(「そんなものはない」と先ず前提した方が、むしろ事態はリアルに把握できる)、原爆を想像、あるいは創造しつづけ、後世に伝え続け、原爆に関する様々なディスクールが展開され続けるために。現状のような一元的でクリーシェ化している展示のやり方では平和記念資料館はいずれ飽きられるのではないだろうか(展示をプロデュースした人々の想像力の欠如を感じます)。原爆を起こさないためには、原爆について「定型=クリーシェ」の原爆の恐ろしさを語り継ぐのではなく、原爆についての想像=創造力を喚起し、活性化させ続ける装置を用意することが重要なのだ。
こういった「展示することの権力」は、プロデュースする側のイデオロギーが関与する。一つは、ここまで述べてきたような認識論的=意識的なイデオロギー。だが、もしそれを取り除くことができたとしても、もうひとつの存在論的=無意識的なイデオロギーが関与してくる。展示品をチョイスし、配列すると言うことは、本人の意図にかかわらず、そこに無意識にイデオロギーが含まれてしまうからだ。本人は客観的・中立にやったつもりでも、やった本人は、実はその時代のイデオロギー、つまり時代を支配するディスクールに染まった存在。それが、無意識のうちに展示品の選択と配列に反映されるのである。これこそ、実を言えば究極的な権力の作動といえるのだ。(権力の作動や差別は認識論レベルよりも存在論レベルの方が遙かに強力でタチが悪い)
だから、展示する側も、自らの存在論的なイデオロギーを省察し、これら前提を踏まえた上で、展示を行う必要がある(なかなか難しい話ではあるのだが)。僕がとりあえず提案したいのは、「今回は、こんな感じのイデオロギーで展示してみました。こんなテーマでまとめました。みなさんどうでしょう?」的な立場表明をした上で、展示するというやり方、いわばオープンリーチ方式とでもいうやり方だ。こうすることで訪問者は、そのイデオロギーを相対化しながら、イデオロギーを吟味すると同時に、それに対する自分の立場を想像=創造することができる。

平和記念資料館は批判を受け続けることで、その存在意義が生じる

また、広島平和記念資料館を批判することについて、嫌悪感を覚えたのであるのならば、それはファシズムの始まりだと僕は思う(つまり現在の原爆イデオロギーを「神聖にして不可侵なもの」にしている。しかも展示物を担保にイデオロギーの正当性を主張している。つまり展示物の正当性をイデオロギーに置き換えているのだ。これは展示物に対する冒涜ではないのか。つまり展展示物提供者の意図を最終的には踏みにじっている)。むしろ、平和記念資料館を批判することも原爆を考えることの一つと考えるという視点が、原爆に対する考察を深化、あるいは進化・変容させる方法と僕は考える。いいかえれば記念館は、議論を続ける空間として機能する、そして機能し続けること、つまり「生き物」として取り扱うことが必要なのだ。中身も時代に合わせてどんどん変更させていってもいい。もちろん、展示物も変更されてもよい。少なくとも展示されていない物はまだまだあるはずだ。並べ替えれば、原爆はいろんな形で解釈が可能になり、原爆をより相対化できるきっかけを提示してくれるはずだ。もちろん、その都度、オープンリーチ方式を採って。

後半は、こういった読み替えによる原爆イメージの再生産と記念館の活性化についての一例を示してみたい(続く)

8月15日は終戦記念日。日を前後して戦地で散った若者の記録や、戦災を受けた人々の体験が語られる。こういった報道の継承はもちろん重要だ。だが、もっと多くの人々が体験した、あまり語られることのない戦争の記憶も、まだあるように思う。
僕の従兄(歳は三十近く離れていたが)は、終戦の日、朝から池に釣りに行き、帰宅した際、その事実を父親の”鉄拳”で知らされた。「こんな大事な日に、なんと不謹慎な!」というわけだ。

当時の大多数の日本人にとって、戦争というのは、こういった日常の中にあっただろう。ある日、戦争が始まり、激化し、敗戦色が濃くなり、そして戦争が終わった。だが、身の回りには爆弾一つ落ちてこなかった。そういった「大きなことは何も起こらなかった戦争」こそ、これから語られるべきではないだろうか。

もちろん、何も起こらなかったわけではない。戦地に向かった知人や肉親の何人かは帰らぬ人となっている。だが、死は紙で知らされるのみ。また日に日に生活事情が逼迫し、戦時統制も厳しくなっていく。こういった、ひたひたと日常に入り込んでくる戦争の現実を、当時の人々はどう受け止めていたのだろうか。

現在の若者はもちろん、団塊世代ですら戦争経験はない。だから、戦争を様々な視点からイメージすることが必要だ。そして最も共有された経験であるにもかかわらず、地味ゆえに語られず、イメージしづらいのが、こういった、いわば「何も起こらなかった戦争」だ。

そして、それは、もうひとつの戦争の悲惨さ(しかも最も多くの人間が体験したそれ)を物語っているはずだ。

↑このページのトップヘ