勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2014年07月

先日日『アナと雪の女王』(FROZEN、以下『アナ雪』)のMovie NEX(Blu-ray DiscやDVD、デジタルコピーなどがバンドルされたもの)を手に入れた。本編は大ヒットで、もはや評価は定着しているが、このディスクの中にバンドルされているボーナス・トラックがある意味スゴイ(Blu-ray版に限る。残念ながらDVD版は一部しか収録されていない)。1.短編『ミッキーのミニー救出大作戦』、2.『アナと雪の女王』製作スタジオ ミュージカル・ツアー、3.未公開シーン、4.各国のエンドロール・ミュージックビデオ、そして5.『原作から映画へ』(”D’FROZEN~Disney’s Journey From Hans Christian Anderson To Frozen”)という、映画が作られた経緯についての作品。特に、この『原作から~』の内容がすばらしかった(というか驚いた)。そして本編と合わせて、これら作品から感じられるのはディズニーアニメを仕切るJ.ラセターという男の凄まじいまでのディズニーイズム、ウォルト原理主義(以下「ウォルト主義」)の徹底だ。

『アナ雪』製作秘話の主役として登場したのは、なんとウォルト時代のアニメーターの妻

『アナ雪』製作秘話の『原作から~』には、なぜかウォルト子飼いの伝説のアニメーター、通称「ナイン・オールドマン」の1人であるマーク・デービスの妻・アリス・デービスが登場する。マークはすでに本ブログで紹介したように(「東京ディズニーランドにあるウォルトの世界」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/archive/2014/7/13)『バンビ』のとんすけとフラワー、シンデレラ、アリス、ティンカーベル、オーロラ、マレフィセント、クルエラ等のキャラクターを手がけ、スモールワールドなどの主要アトラクションのデザインを担当し、TDLのプロデュースも担当したナイン・オールドマンの中でも大物中の大物(余談だが、マークは生前「徹子の部屋」へも出演している)。

『原作から~』は10分程度の作品。ディズニーがアンデルセンの本作(”Snow Queen”)を、いかにして今回のFROZEN=『アナ雪』として具現化したかについての逸話が展開される。出演者は『アナ雪』の監督のクリス・バックと脚本のジェニファー・リーなのだが、この2人が本作製作に至った長い歴史を、アリス・デービスから話を聞くという体裁でストーリーは進行するのだ。アリスは前述したようにマーク・デービスの妻。自らもアトラクション”It’s a Small World”の衣装デザインなどを手がけている。でも、なぜアリスが2013年製作の『アナ雪』の語り部として登場するのか。マークは2000年には他界しているので、この作品には関わっていない。ましてやその妻???……関係ないんじゃないの?いや、ここが、おもしろい。ディズニーマニアなら垂涎の逸話が展開されるのだ。

『アナ雪』、その構想は、なんと70年前

本作は先ず30年代にアニメ化(仮題”Snow Queen”、製作番号1092)の計画があり、その指揮をウォルトがマークに命じたが中止となったこと、Enchanted Snow Palace from Snow Princessというアトラクションの企画もあり(夏に人気の上がりそうな、冷気立ちこめるアトラクションという構想だったらしい)、これまたマークが構想を練ったこと(いつこれが行われたのかわからないが、映像から察すると77年あたりか?)、さらに1949年にはMGMとの提携でアンデルセンの伝記映画を製作し、この中でSnow Queenを挿入アニメとして使おうとしたこと(これももちろんマーク担当)などの歴史が知らされる。これらをクリスとジェニファーは『アナ雪』製作決定後に知ったらしいのだが、すでに構想していたデザインがマークのデザインと酷似しており、その偶然に驚いたこと(エルサの髪型と氷の女王の状態でのコスチュームは酷似している)、そして本作の製作にあたってはマークのデザインを尊重したことなどが語られる。つまり『アナ雪』は70年も前に構想されていた。そして、その都度中心人物がマークだった。だから、ある意味、『アナ雪』とディズニーの深いつながりを語ることが出来るのは、もはや妻のアリス・デービスだけなのだ、となる。会話はクリスがアリスに向かって「この作品はアトラクションにするべきだ」と語り、これにアリスが「そのうちね」と答えて話を結んでいる(まあ、これだけ売れたので、おそらくアトラクションにはなるんだろうなぁ。アメリカではすでにグリーティングのアトラクションがはじまっているし……)。

クリスは「アリスとの時間は特別だった」と語ると、最後に作品はアリスのディズニーとの関わりも紹介される。それはイッツ・ア・スモールワールドを製作するにあたってのウォルトのやりとりだった。ウォルトはアリスに向かって「人々の期待以上の働きをしろ」「適当にごまかしたらお客さんは二度と来ない」と説いたという。そして作品はクリスの「ウォルトは永遠に喜ばれる最高のものを作ろうと奮闘していた」、さらに「その志を継ぐ」といったかたちで話を閉じている。つまり『アナ雪』はウォルトの精神をウォルト他界後40年を経てに具現化したものということになるのだ。

で、この話、実にラセターっぽいのだが、なんとなくウソっぽい。ちょっと演出が入っているという感じがするからだ。『アナ雪』の製作スタッフがマークの業績を知らないはずはないだろう(それくらいのことはディズニーのスタッフが調べているに決まっている)。文脈的にはウォルトとマークが手を抜かなかったように『アナ雪』スタッフも手を抜かないので「偶然」の一致を見たみたいな感じなのだ。マークの手がけたエルサと『アナ雪』のエルサが髪型が同じで、氷の女王として纏っている衣服も酷似しているなんて、そりゃ、ウソでしょ。これがC.ユングの集合無意識になっちゃうよ(笑)

しかし、こんなやり方=演出をすること。そこにラセターのディズニー作品に対するスタンスがあると僕は考える。それが「ウォルト主義」という戦略だ、と。


ウォルトDNAを再びディズニーに注入するラセター

ラセターは2006年のディズニーによるPixarの買収によってディズニーにチーフ・クリエイティブ・オフィサーとして復帰するが、このディズニーによるPixarの買収劇は、ディズニーがPixarを買い取りながら、実質的にはPixar首脳陣によるディズニーアニメの乗っ取りであったことはもはや周知の事実だ。いや、厳密に表現すれば、その技術力でディズニーを凌駕してしまったPixarに、ディズニー側が、組織の存続を求めて自らのアニメ部門を乗っ取らせたといった方が的を射ているだろう。これによって、ピクサーとは対照的に下降線を辿っていたディズニーアニメに渇が入れられたのだ。その際、ラセターが取り組みはじめたことは「原点回帰」、つまりウォルト主義の復活だった。そもそも「適当にごまかしたりしない」というレベルではPixarは当時のディズニー作品を遙かに凌駕していて、これはディズニーよりもディズニーらしい、いいかえればウォルトらしかったのだが、これを本家にも導入していくのである。

「ラセターによるウォルト主義」はPixar買収後のディズニー作品群、つまりJ.ラセターのディズニー復帰後のディズニー作品群の変化から垣間見ることができる(ディスクのボーナストラックにバンドルされる製作秘話は、ウォルト主義をリスペクトする形式をとることが多い)。

例えば象徴的なのは2009年に製作された『プリンセスと魔法のキス(”The Princess and the Frog”)』だ。本作では、2000年代初頭にディズニー・カンパニーがやめてしまった手描きアニメを復活させる。アラジンやリトルマーメイドなどを手がけたロン・クレメンツ、ジョン・マスカー(手描きアニメ部門廃止とともにディズニーを去っていたい)を呼び戻したのだが、この映画の映像は「暗め」。そしてタッチがどことなくピーターパンに似ている。というのはあたりまえで、この2人はナイン・オールドメンの2人、オリー・ジョンストンとフランク・トーマスが最後に手がけた『きつねと猟犬』にアニメーターとして加わっているのだ。『ピーターパン』はナイン・オールドマン全員が関わった数少ない作品。つまり、ラセターはロンとジョンを再起用し、手書きの技術、そしてウォルトのDNAが流れている彼らに仕事を任せることで、かつてのディズニーを復活させたのだ。もちろん、作品のスタイルはプリンセスものとしては現代にマッチさせたものになっていたのだけれど。

そして、ウォルト主義は『アナ雪』のボーナス・トラックにも反映されている。その一つは本編上映前に上映された短編『ミッキーのミニー救出大作戦(”Get a Horse”)』だ。モノクロ作品で、オールドミッキー、ミニーの他、クララベル・カウ、ホーレス・ホースカラー、ピートなどの初期キャラクターが出演し、1930年前後のモノクロ画面、キャラクターの動き、ドタバタを繰り広げる。図式はミニーの奪い合いを巡るミッキーとピートの争いというお約束のパターン。初期の頃の元気いっぱいの悪ガキミッキーが復活し、「藁の中の七面鳥」(『蒸気船ウィリー』挿入曲)「ウイリアム・テル序曲・嵐」(『ミッキーの大演奏会』挿入曲)が流れ、『ミッキーの飛行機狂』の俯瞰が登場する(なおかつ突然CGの色つき画面に変わり、セピアのモノクロとCGが次々と入れ替わる。CGのミッキーとモノクロのピートが電話でやりとりするシーンではミッキーがスマホ、ピートが30年代の電話機を使用する)。途中までは全く新作には思えず、未公開映像と勘違いするほど(CGが登場し、色が突然付けられることで、これが新作であることに気づかされる)。この作品に込められているのはウォルトへの、そして古典ディズニーへの徹底したリスペクトだ。つまり、やっぱりウォルト主義。

もう一つは『アナと雪の女王』製作スタジオ ミュージカル・ツアーで、これは実際のディズニー・アニメーション・スタジオを舞台に、何とミュージカルでスタジオ内を紹介しているのだが、50年代のディズニー実写ものというテイストに仕上がっている(カラーもちょっと色あせた感じ、つまりセピア・カラー?にアレンジされている)。もちろんジェニファー・リー、そしてラセターも出演し、一緒に踊っている。ここにあるのはまさに「あの頃の、よき時代のバーバンク(=スタジオがある場所)」の再現だ。

ラセターはこういったウォルト主義をディズニー作品の中にリスペクトというかたちでふんだんに盛り込むことでディズニー色を前面に押し出そうとしているようだ。ということは、ラセター自身が自らをウォルトの正統な継承者として位置づけているということになるのではなかろうか。ただし、ラセターはPixarのドンでもある。ということはPixarではCGベースの徹底した丁寧な造りで、一方、ディズニー作品の方ではこれにウォルト主義を振りかけるというやり方で、その色分けを行っているということになる。

90年代(厳密には80年代末からだが)、中興の祖となったJ.カッツェンバーグ(『リトルマーメイド』『美女と野獣』『アラジン』『ライオンキング』を手がけた。現在はスピルバーグ、D.ゲフィンとともにドリームワークスを運営している)がお家騒動で去った後、低迷を続けていたディズニーアニメがPixarを買収し、ラセターにアニメの全てを委ねたことは、実に正解だったと言わねばならないのかも知れない。


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爆発的に売れているセブンカフェ。日本人にの嗜好に合わせたあまり深くない焙煎、価格が百円というのがポイントだ。



現在、アメリカでは「サードウェイブコーヒー(第3の波コーヒー)」と呼ばれる新しいトレンドが出現している。第1の波は60年代、アメリカに一気にコーヒーが定着した時代を指している。この時、アメリカに普及したのが一般的にアメリカンコーヒーと呼ばれる、焙煎の浅いコーヒーだった(日本ではアメリカンと言えばお湯を足して薄めたコーヒーのことを指すが、実は本家のアメリカンは薄めてなどいない。ちなみにお茶代わりなので、スタバのトールサイズ350ccに該当するマグカップに入れてガブガブ飲むのが普通。結構旨いのだが、日本では滅多にお目にかかれない)。第2の波は80年代にやってきた。スターバックスを代表とした、いわゆるシアトルコーヒーがそれで、これは焙煎の深いエスプレッソを薄めてアメリカンコーヒー並みの容量にしたもの(前述のトールサイズ)。これが、もはやアメリカどころか、日本を含む世界中に爆発的に普及したのは、どなたもご存知だろう。

そして今回の第3の波の出現。これはコーヒー豆を厳選し、鮮度も徹底管理し、なおかつバリスタが手差し(ドリップ)で一杯一杯淹れるという、本格的グルメコーヒー(ちなみにシアトルコーヒーは出現当初「グルメコーヒー」と呼ばれていた)。で、第2の波と同様、これも現在、日本にも入り込んできている。

じゃ、この第3の波は第2の波と同様、日本にブームを呼び起こすんだろうか……う~ん、ちょっと難しいような気がするのだが?

レギュラーコーヒーのカジュアル化

僕が知っている限り、わが国におけるここ数十年のコーヒー事情はかなり複雑だ。70年代はまさに喫茶店の時代。ここではコーヒーを飲みながらおしゃべりするというのが定番だった。喫茶店で提供されていたコーヒーの淹れ方はドリップかサイフォン(洒落たところではダッチコーヒー)、つまり嗜好品だった(ちなみに家庭ではほとんどインスタントコーヒーだった)。80年代からは家庭でレギュラーコーヒーが定着し始め、コーヒーは純粋に飲むもの、つまりカジュアルなものになり、その影響を受けてか喫茶店で会話しながらコーヒーを楽しむスタイルが衰退。代わってドトールなどの一杯180円(当時)立ち飲みで、飲んだらとっとと出るというカフェが普及する(僕のように粘る客もいたけれど)。

1人で空間を楽しむスタバ

で、喫茶店文化がすっかり影を潜めた90年代半ば過ぎ、スタバが登場する。これは喫茶店文化の復活、いや今日的な進化だった。スタバはプライベート「第1の空間」でもパブリック「第2の空間」でもない。パブリックな空間でプライベートに浸れる「第3の空間」。1人で部屋にいたら寂しい、でも人と一緒にいたら相手がうざったくて自由がきかない。こういったディレンマを相殺する空間、つまり1人でいても寂しくない場所として、スタバのようなシアトルコーヒーは見事にフィットする。お客は1人で本を読んだり、勉強したり、パソコンを打ったり気ままな行動を店内でとるようになったのだ(おしゃべりは意外なほど少ない)。

サードウェイブコーヒーはかつての喫茶店文化と重複する

で、肝腎のコーヒーの味はどうかと言えば……。確かにグルメコーヒーではあるが、アメリカのようにドラスティックに味が変化したと言うことには日本ではなっていない。アメリカは水やお茶のように日常的に飲むアメリカンと、嗜好品としてのシアトルコーヒーは、その立ち位置が異なる。つまり、当初「グルメコーヒー」と名乗ったように、既存のコーヒーとは一線を画した上級レベルのコーヒーという位置づけだった。

ところが日本ではどうだろう。以前からあるコーヒーはいまだに楽しまれている。そして、ドリップ使って結構まともに淹れている御仁も多い。つまり、はじまりから「グルメコーヒー」。そうするとシアトルコーヒーは「グルメコーヒー」と言うよりも「オルタネティブコーヒー」という位置づけになる。だから、アメリカのような味への驚きはないだろう。言い換えれば、シアトルコーヒーへの日本人の志向は、味と言うよりも、やはりあの空間に比重があったと言っていいだろう。
そしてサードウェイブコーヒーだ。これはアメリカ人にとっては本当の意味でのグルメコーヒーだろう。一杯一杯丁寧に淹れるなんて立ち位置からすれば、シアトルコーヒーなど「なーんちゃってグルメコーヒー」の域を出ない。

ところが、だ。これが日本だったらどうなるか?サードウェイブコーヒーって、要するに昔、喫茶店のオヤジが丁寧に入れていたコーヒーのことでしょ?まあオヤジの腕にはピンからキリまであったけど、コーヒー通ならピンを探すくらいのことはそんなに苦労せず出来た(街に数件は凝り性の喫茶店オヤジがいたはずだ)。そして、そういった旨いホントのグルメコーヒーを提供する「喫茶店」「カフェ」はいまだにしっかりと残っている。ということはサードウェイブコーヒーが乗り込んできたところで、まあ、どうということもないのではなかろうか。

で、実を言うとこのサードウェイブコーヒー。もともとは日本の喫茶店文化に感動したアメリカ人がそのスタイルをアメリカで展開したものだという。ということは、アメリカでウケるこのカテゴリー、日本では限りなく差異化が難しいことになる。そして現在、日本はコーヒー戦争の真っ最中。ドトールのような廉価コーヒー店、シアトルコーヒー、普通のカフェ・喫茶店、そしてコンビニ・コーヒー(セブンカフェはバカ売れ状態)、さらにはコンビニに溢れる缶コーヒー・カップコーヒー。こういった玉石混淆状態の中に食い込むのは容易ではない。だから、これがスタバみたいに爆発的人気を博することは、まあ、おそらくないだろう。

ただし、まったく人気が出ないということもないはずだ。というのも、これまで丁寧に入れていたコーヒーに「サードウェイブコーヒー」という名称をつければ、その付加価値で珍しがる連中はいるはずだから。とりわけ、喫茶店文化を知らない40代未満の人間達にとっては、これまで知ることのなかった「新しいコーヒー」として認知されるんじゃないんだろうか(実は、その辺の古びた喫茶店で提供されているコーヒーとさしたる違いがないにもかかわらず、だ。まあトレンド=モードとは、いつでもそういったものなんだけれど)。

6月22日、久しぶりに東京ディズニーランド(TDL)に出かけた。能登路雅子さん(東京大学名誉教授)にお誘いを受けたのだ。能登路先生は80年代はじめアナハイムのディズニーランドに勤め、82~83年にオリエンタルランドで嘱託としてディズニーユニバーシティ(キャスト研修センター)や営業の仕事をつうじてTDLの立ち上げに加わり、ディズニー公認のウォルトの伝記『ウォルト・ディズニー~夢と冒険の生涯』(ボブ・トマス、講談社、1983)の翻訳を手がけ、『ディズニーランドという聖地』(岩波新書、1990)を著したという、わが国におけるディズニー研究の第一人者かつTDLの生みの親の1人。先生とパークでご一緒させていただくなんて、本当に光栄なことだった。
 
お昼過ぎからの入場で、回ったアトラクションは先生のご希望でキャプテンEO(六月いっぱいで終了)、イッツ・ア・スモールワールド、ホーンテッド・マンション、白雪姫、カリブの海賊だった。キャプテンEOを除けばオープン時から存在するアトラクションなのだが、これらを回ったのにはちょっと「わけ」がある。しかもディープなディズニーファンだったら、ちょっとしびれるようなわけが……
 

ナイン・オールドメンの1人、マーク・デービスの作品を確認する

マーク・デービスという人物をご存知だろうか?知っていればかなりのディズニー通だ。ウォルトの時代、ウォルト・ディズニー・スタジオに在籍していたアニメーターのうち、中心となった9人のアニメーター、つまりウォルトの懐刀がおり、彼らは通称「ナイン・オールドメン」と呼ばれているのだけれど、デービスもその1人。とりわけ女性キャラクターを描いた人物として有名で、手かげたものにはシンデレラ、アリス、ティンカー・ベル、オーロラ姫、マレフィセントなど錚々たるキャラクターが並ぶ(ちなみにバンビも担当している)。
 
だがデービスはその他にも大きな仕事を二つ手がけている。一つはアトラクションを手がけたこと。ジャングルクルーズ、魅惑のチキルーム、カリブの海賊、ホーンテッド・マンション、イッツ・ア・スモールワールド、カントリー・ベア・ジャンボリー、ウエスタンリーバ鉄道がそれで、なんのことはない、古くからあるディズニーランドのアトラクションの主要どころ(かつてのチケット「ビッグ10」ならほとんどがEチケット、つまりいちばんグレードの高いアトラクションに該当する)、言い換えればディズニーランドのアトラクションのアイデンティティとなる部分の主要部を手がけているのだ。
 
そして、もう一つはTDLの建設にあたって長きにわたり日本に滞在し、そのデザイン監修を手がけたこと。TDL、実はデービス・ランドでもあるのだ。しかし、そのマーク・デービスも2000年に亡くなっている。
 

ウォルトとデービスの精神が残っているTDLにアリス・デービスさんをお迎えしたい

能登路先生はデービスが手がけたアトラクションをチェックしておられたのだ。その理由はデービスの奥さんで、存命のアリス・デービスさん(現在85歳)を日本にお迎えし、パークをご案内する構想を練っているから。
 
「ある意味、東京ディズニーランドは、世界でいちばんディズニーランドらしい」
 
先生はこう語る。その理由は、要するに「ウォルトのアトラクションに対するコンセプトを忠実に反映して具現化したデービスのアトラクションが、まだ、ここには原形を失わずにあるから」という意味だ。先生によれば、アリスさんは近年のアナハイムのディズニーランドの変わりようには驚いているという。たとえば、2009年に大規模な改修をしたイッツ・ア・スモールワールド。実はアリスさんは1950年代からディズニー・スタジオでコスチューム・デザイナーとして活躍し、スモールワールド制作にあたっては、夫がウォルトの下でライドの基本デザインを担当、メアリー・ブレアが人形のスタイリングとデザインコンセプトを、アリスさん自身は人形の衣装デザインを受け持った。言わば、夫マークとの思い出の詰まった共同作品だ。ところが現在、アナハイムのスモールワールドは世界の衣装を纏った子どもの人形の中にディズニーのキャラクター(ウッディ、ジェシー、ピーターパン、ドナルド、リロ、アリエルなど)が人形と同じ文法で作成され配置されている。しかし、これは夫デービスの構想したスモールワールドの世界とは相容れない。アリスさんからすれば夫の世界を踏みにじられたことに他ならないだろう。だが、夫の世界を踏みにじったと言うことは、言い換えればウォルトの世界を踏みにじったということにもなる。
 
ところが、TDLにあるデービスの手がけたスモールワールドは手つかずだ。ホーンテッド・マンションしかり(ハロウィーン、クリスマスの時期は除く)、カントリー・ベア・ジャンボリーしかり(カリブの海賊はジャック・スパロウなどパイレーツ・オブ・カリビアンのキャラクターが配置されたので)。だから、アリスさんを日本にお迎えすれば、オリジナルの健在ぶりをさぞかし喜ぶに違いないと先生は考えておられるのだ。
 
80年代からデービスと親交があった能登路先生ならではの夢のある思いつき。先生はウォルトの伝記翻訳にあたって、わからないところを何度もデービスに直接問い合わせに行き、懇意になった。死ぬ間際のウォルトとの会話について説明をお願いしたとき、デービスが涙ながらに語り続けたのが忘れられないと、先生は当時のことを述懐した。こんなにもウォルトと直結し、しかもそれが現在、まだ進行中の話を先生から聞かされ僕は、歴史と思っていたウォルトとディズニー話が突然目の前に現れたという感じで、ほとんど鳥肌状態だった。
 
ゲスト=受け手の方はすっかり変わってしまい、また多くのアトラクションや催しも、こういったデズヲタ向けに変更させられ、ここにウォルトをすっかり感じられなくなっていた僕だったけれど、先生の指摘されたこの「デービス視点」、ディズニー=ウォルト原理主義的な立場から見るとTDLこそディズニーランドといえないこともない。
 
TDLにあるオールドアトラクションからウォルト、そしてマーク・デービスを感じてみては、いかがだろう。



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アメリカ・アナハイムのディズニーランド内の”It’s a SmallWorld”の中にあるウッディ、ブルズ・アイ、そしてジェシー。ディズニー(PIXAR)のキャラクターではあるが、アトラクションのテーマからは逸脱している。

東京ガスのCM「家族の絆『母からのエール』篇」が、放送後まもなく打ち切られたことがネット上で話題になっている。「批判が相次ぎ打ちきりになった」との書き込みがあり、これが拡散したかたちで物議を醸しているのだ。

実際に批判が相次いだかどうかはわからない。だが、何らかのクレームがあり、放送を打ち切ったことだけはおそらく確かだろう。実際、こういうかたちでCMが自主的に打ち切られるという事態は頻繁に発生している。

そこで今回は、こういった「打ち切りが起こるメカニズム」について、このCMを題材にメディア論的に考えてみたい。ちなみに、繰り返すが、このCMの本当の打ち切り理由はわからない。だから、ここから先は、4年ゼミ生という就活生を毎日見ている僕の妄想と「クレームがあり、打ちきりになった」という前提による文化論になってしまうことをお断りしておく。ただし、こういったクレームがあったとしても、もはやなんら不思議はない。そして今回指摘したいことは「この手のクレーム、そしてそれに応じての打ち切りという行為の危険さ」だ。


先ずは作品のストーリーを示しておこう(ついでにYouTubeのURLも付け加えておく)
書類選考、面接、何度やっても内定が取れない就活女子が、やっとのことで最終面接にまでこぎつけ「もしかして、うまくいったかも?」と期待を抱き、ケーキを購入して、帰宅するが、玄関の手前で不採用のメールを受け取る。落ち込んで公園のブランコに座っていると、そこに母親が「やっぱりここだ」と迎えにくる。思わず泣きじゃくってしまう就活女子。帰宅すると、そこに母の作ってくれた鍋焼きうどんがあり「家族をつなぐ料理のそばに」というコピーが現れる。「おいしい」と就活女子。最後のシーンはメールに「まだまだ」と書き込み、再び就職戦線へと向かう雄姿が。(https://www.youtube.com/watch?v=_h3as7hFQxo



まあ、作品的にはよく出来ている。がんばる就活女子とそれをエールというかたちで支える母親。その橋渡しをするのが東京ガスで作った「おいしい鍋焼きうどん」というわけだ。そして気を取り直して再びガンバリはじめるところに若者のたくましさを感じさせる(就活女子を演じるタレントが、タレントっぽくなく、マジに就活女子っぽいところも、また、いい)。まあ、五つ星と言うほどでもないけれど。

内定がまだない、就活生の反応は?

このCM、就活生の間でも話題になった。その中で、二月からずっと就活しているが、エントリーシートで脚切りされ、集団面接で落とされ、さらにやっとのことで最終面接まで行ってが不採用になったCMの就活女子とまったく同じ境遇のゼミ生(男子)が、この作品に、こうつぶやいた。

「いや、リアルですよね。見てるとこっちのトラウマがズキズキします。しかも、自分は自宅通学じゃないし」

このコメント。おしまいの「自宅通学じゃないし」がイケている。つまり「CMの就活女子と同じ境遇どころか、こっちは母からのエールすらない」、言い換えれば「東京ガスの恩恵」を受けられないというもっと酷い状況。ただし、こういったコメントをちょっと自虐的に微笑み(もちろん苦笑いで)ながら僕に返してきたのだけれど(こいつは、なかなかタフだ!(笑))。

だが、このゼミ生がマジにこの話を受け取っていて、それを親が知っていたら、その中にはクレームを付ける過保護な人間が現れる。つまり「自分の子どもが悲惨な思いをしているのに、これじゃ神経を逆撫でする。落ち込んでいる自分の子どもが、これを見てもっと落ち込み、ややもすればノイローゼ、自殺なんてことに……けしからん!」……ひょっとして、そんなことがあったんじゃないだろうか?

また、その逆もまたある。もしこれのオチが「なんとか決まって、東京ガスの火で作ったおいしい鍋焼きうどんを食べている」だったら、今度は「そんなに簡単に内定取れるわけがないだろう!」ってクレームがつくなんてことも考えられるのだ(ちなみに、こういったオチだとCMの出来は星一つくらいになってしまうが)。つまり、実のところどう転んでもクレームがつく。

就職サイトと大学の就職支援がメンヘラ就活生を輩出する

ただし、実際のところ、就活を巡ってメンヘラ、つまり精神的に支障を来す就活生は少なくないのも事実だ。僕のところでも、毎年必ずと言っていいほど発生する。そしてこのCMの通り、他の連中の内定が出れば出るほど、焦燥感が増し、それが昂じておかしくなっていくのだ。こうなっていく理由のひとつとして、僕は就活のネット化をとりあげたい。

今や就活するに当たってはリクナビ、マイナビなどの就職サイトに登録し、これを介してエントリーシートを書き、応募し、というのがあたりまえになっている。で、これによって発生したのは人気企業へのエントリーの集中という事態だ。ところが人気企業が採用する新卒者数が増えるわけではない。ということは、以前に比べこれら企業はものすごい倍率になってしまっているのだ。しかしチャンスは平等。だから就活生たちは、これら人気企業にどんどん応募する。当然の結果として採用されない就活生の数は膨大になる。

でも「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」と考える学生たちは、これをやめない。ところがこれは飛んで火に入る夏の虫というか、あえてものすごい競争の中に身を投じるわけで、結局のところ「数を打っても当たらない」。で、そんなことをやっている内に疲弊していく。その一方で就職させたい大学は就職支援部が学生に発破をかけてくるし、就活サイトもいろいろと情報を投げてくる。これが結果として就活生に「就職しろ!内定取れ!エントリーシート書け!」という強迫観念を植え付けることになる。で、耐えられなくなるとメンヘラに。

こういったネット就活と大学の過剰な就職支援(今や大学は就職率をアップさせることがビジネスにすらなりつつある)で疲れておかしくなった就活生の親は、自分の子どものことを不憫に思うようになる。そんなときに今回のようなCMが流れたら……今度は親の方が苛立って、そのうち過保護な親がクレームを付けるのだ。

企業の都合がメンヘラ就活生を増加させる

ただし、あったとしてもこれはあくまで少数意見。でも、こういった場合、企業の側(この場合東京ガス)は、しばしばCMを引っ込める。その理由は簡単。訴えられたり、付けられたクレームがネットなどを通じて拡散され企業イメージが損なわれるのを恐れるからだ。まあ、これもメディア社会が作ったイメージに対するナイーブさが生み出した現象なんだけれど。

そして、これらは結局のところ「負のスパイラル」を発生させることになりかねない。つまり、就活サイト・大学が就活生に危機感を煽る→就活生がメンヘラ化する→一部の過保護な親がCMを見て怒りクレームを付ける→CMを自粛するという流れは、これだけにとどまらないのだ。こうやって「臭いものに蓋」をし、傷口に触れないようにしたところで、結局、危機感を煽る大元(就活サイトと大学の煽り)は存在するのでメンヘラ化は減らない。で、傷口も癒えないどころかむしろ悪化する。そうなると、このCMよりもっと当たり障りのないものにまでクレームが付けられるようになる。で、やっぱり企業側は自粛する。そうすると学生たちはますます脆弱になり、親はさらに過保護になっていく。つまり、都合の悪いところをみせないようにする配慮=やさしさを施すことで、それがかえって現実から若者を遠ざけさせ、いっそう若者を弱体化させていく。……よくよく考えてみれば、これっぽっちのCMごときにクレームを付けると言うこと自体が、すでにこういった負のスパイラルがある程度進んでしまっていることを示唆しているといえるのではないだろうか。

放送を自粛してはいけない!

こういった負のスパイラルを止める方法は、もちろん先ずは大元のネット利用の脅迫的な就職システムを改善するところにあるといえるのだけれど、もう一つは負のスパイラル化を進行させるクレームを無視するというところにも求められるだろう。こういったクレームは少数意見。これをいちいち真に受けていることで、マジョリティが脆弱化していくのでは、正直言ってたまったものではない。マイノリティの尊重は重要だが、それが社会全体を脆弱化させる側面も持ちあわせていることは十分認識しておく必要がある。

今回の例ならば、たとえばこれにクレームがつき、議論が沸き起こったが、支援者が増えたために、改めて放送を再開したなんて感じになると、いいのかも知れない。

このCMは「就活生へのエール」、つまり彼らへの応援を意図している(その末端を東京ガスが担っているという造りだ)。これを「現実の残酷さが含まれている」といった側面のみを強調して否定することの方が、そもそもおかしいのだ。「たくましくなれ、くよくよするな、ガンバレ、就活生!」と考える方が、読み方としては正しいし、その読み方が圧倒的なマジョリティ。そういった本来のメッセージを堅持するために放送することの方が、はるかに健全な社会のあり方だろう。

パリで日本のポップ・カルチャーを紹介する『JAPAN EXPO』が開催され、初日の日本文化を紹介するステージに船橋市非公認キャラクターで、日本で大ブレーク中の”ふなっしー”が登場した。ふなっしーはいつものようにキレキレのパフォーマンスを披露したのだが……どうもウケなかったようだ。ふなっしーに関心を向け、ケータイを向けてていたのは、どうやら現地の日本人ばかりといった状態だったらしい。

国内では大人気ーのふなっしー。なぜフランス人にはウケなかったんだろうか?

実のところ、この現象はわが国のキャラクター文化を考えるには格好の出来事に僕には思えた。で、ちょっと考えてみた。

マンガ=アニメ世代はもはや60代半ばから下

日本のマンガ=アニメキャラの歴史は長く、裾野の広がりも広い。マンガ世代と言われた年代が該当するのが団塊世代、つまりもはや60代半ばに達しているわけで、ようするにマンガ、アニメはもはや日本の代表的なサブカルチャー、いやポップなマスカルチャーとして完全に定着している(ちなみに鳥獣戯画あたりからはじまる「漫画」の歴史的な文脈ではなく、手塚治虫以降のこの「マンガ」の定着を踏まえてこの議論を進めている)。その結果、日本のマンガ=アニメ文化はどんどん成熟を極めていった。

楷書と草書

だが、成熟とは、いいかえればちょっとレベルが複雑な方に展開するということでもある。このことをわかりやすく説明するために、一旦、ここでは別の話を持ち出そう。それは「書道」だ。書道は一級までは「楷書」、つまりキチッとした文法に従ったかたちで学ぶが、有段者となると「草書」、つまり文法を崩すような流麗な書体に取り組むことになる。いうならば「ミミズがのたくったような字」を書くようになるの。確かに、これは一般人にとっては、まさに「ミミズののたくり」で、文字の解読もままならず、まさに意味不明。ただし、玄人にとっては「楷書を知りつつ草書を展開する」、つまり文法を十分に踏まえつつ、これを崩していくわけで、素人が殴り書きするのとは訳が違うハイブロウなアートの世界と認められている。

マンガ=アニメキャラはもはや草書の時代

で、手塚を嚆矢とするマンガ=アニメ文化が50年以上を経過した現在、これを受容する層はマンガ=アニメリテラシーについては、いわば「草書」の域に達している。つまり、手塚文法=楷書的キャラクターはすっかり身体に馴染み、それを崩したようなキャラクターに関心が向かうようになっている。その典型は”くまモン”だ。くまモンはゆるキャラだが、実は一般のゆるキャラとはちょっと違っている。くまモンは超一流のプロ(小山薫堂+水野学)によって手塚文法を意図的に崩して作られているからだ。つまり、これは草書の領域。そして、これを一般人が受容するようになっている。瞳孔が開いたような、焦点の合わないくまモンに人気が集中するのは、こういったキャラクターに対するオーディエンスのメディアリテラシー成熟によるところが大きい。

草書と素人の殴り書きの区別がなくなった?

ところが、この分析は少々留保を付け加えなければならい。それは後続世代のリテラシーの問題だ。典型はティーンエージャーより下の世代。彼らは、こういった「草書体のマンガ=アニメキャラ」が定着した状態で、これらに馴染んできた。つまり「楷書→草書」というプロセスを経ることなく、いきなり草書=ゆるキャラに接した。となると、彼らにとっては草書も楷書もない。全て楷書というか、全て草書というか。なので「文法を崩すことの諧謔を理解・堪能する」といったことはない。だがそれは、言い換えればくまモンのように「楷書→草書」というプロセスを経たゆるキャラと、ただ単にゆるいだけのゆるキャラの区別は当然不可能ということでもある。これらをまとめて「ゆるキャラ」として楽しんでしまうと考えた方が納得がいく。

ふなっしーは文法を持たない子どもの「お絵かきキャラ」

そしてふなっしーである。ふなっしーは今やくまモンを凌駕するほどの大人気だが……ふなっしーはどう見ても「楷書→草書」のプロセスを経て作り上げられたもの、つまり文法に従ったキャラクターとは言い難い。子どものお絵かきみたいなキャラで、内側のフレームが外側からもよくわかる、きわめて詰めの甘いベタなゆるキャラ、ツッコミどころ満載のキャラだ(もともと「ゆるキャラ」名付け親のみうらじゅんは、こういった「ツッコミどころ満載のご当地キャラクター」に注目していた)。

ふなっしーの人気はキャラの外観に依存していない

だが、これが現在、大ブレークしている。しかし、こういった「ベタにゆるい」キャラクターは国内にあまたあるはずで、ふなっしーだけがこれだけブレークするのはきわめて不自然といえないこともない。それは要するに、ふなっしーに対するキャラクターデザイン=外観ではなく、ふなっしーの他の要素がその人気を支えているということになる。言うまでもなく、あのキレキレの動き、早口で喋るキャラ、半分素人で半分プロといった曖昧なコメント、そしてすぐにキレる性格、さらには「船橋市『非』公認」というメタなブランド性といった「メディア性」が、ふなっしーの人気を支えていると考えた方が当を得ているだろう。

ふなっしーの外観的なデザインはいつまでもゆるく、われわれイメージの中で揺らいでいる。でも、そんなことはどうでもいい。ふなっしーは、こういったマンガ=アニメ文化の「成熟」の先にある「爛熟」をデフォルトとしたメディアリテラシーをわれわれが共有し、そのリテラシーの延長上に位置づけられているのだから。まあ、簡単にいってしまえば「なんでもあり」をもっとあも理想的なかたちで具現したキャラ、「文法なき文法」がウケる時代を忠実に反映したキャラ、爛熟時代だからこそ支持される奇形=異形それがふなっしーなのだ。

マンガ=アニメキャラの有段者が存在しないパリでふなっしーは認められない

一方、フランスにおいてマンガ=アニメ文化はさほど歴史と広がり持っているわけではない。日本的なアニメ文化がフランスに広く浸透しはじめるのは70年代、とりわけアニメ「キャンディキャンディ」ブレイクあたりからだ。そしてOTAKUやフィギュアといった「サブカルチャー」もフランス人の若者のあいだで人気を獲得していくが(この後にドラゴンボール、機動戦士ガンダム、ワンピースといった一連の作品が続く)、これはあくまで「楷書」の世界。いいかえればフランスの支持者達は「有段者」ではない。ましていわんやマンガ、アニメの後に登場した「ゆるキャラ」に関しては級も下位のレベルでしかない。ひょっとしたら級すら持っていないかも?

そこに、突然、有段者向け、草書体のふなっしーが登場したらどうなるか。当然わけがわからないに決まっている(そのパフォーマンスはデザイン=外観以上に理解不能だろう)。JAPAN EXPOに日本文化見たさにやってきただけで、アニメ=マンガにさしたる興味をもっていない客であれば、おそらくふなっしーはひたすら不気味な存在でしかないだろう。またマンガ=アニメファンにしたところで、前述したように有段者ではない、言い換えればアニメ=マンガについてのメディアリテラシーは低い。だから、ふなっしーを一生懸命理解しようとしても、おそらくわからない。ただ、戸惑うだけ。

フランスでふなっしーがウケなかったのはマンガ=アニメリテラシーのギャップに基づく。要するにマンガ=アニメ文化の成熟度が全く違っている。このリテラシーのないフランス人にふなっしーが了解不能なのはあたりまえなのである。

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