勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2014年06月

コンピュータ=人工無能はわれわれの幸福度を上げる

前回は、コンピュータが実質的に「人工無能」であり、オウムのような条件反射を膨大な数で持っているに過ぎない、しかしビッグデータに集められたデータはあまりに膨大であるがゆえにチューリングテストに合格してしまうほどのパターンを保持し、それが結果として統計的にわれわれを最も快適な環境を作り出してくれていることを説明しておいた。例えばチェスのチャンピオンにコンピュータが勝利するなんてことがあたりまえのように発生するのは、こういった理由による。コンピュータはチェスの手に関する膨大なパターンを暗記し、その中から最適値を選択するパターン・プログラムに基づいて次のコマを進める。そういった「問題処理」レベルではとっくに人間を凌駕してしまったのだ。ところが「問題解決」、つまりパターンとパターンを組み合わせてメタパターンを作り上げる、つまり関係性について思考するというような主体性を伴う「意味論レベル」の知能は残念ながら持ちあわせていない(このパターンは結局のところ人間がコンピュータにプログラムをインプットしている)。

また、G.オーウェルが予想したビッグブラザーのような、われわれを監視・統制して自由を奪うようなコンピュータが登場することがないことも指摘しておいた。「支配しろ」というプログラムを人間がインプットしない限り、それは不可能。そして、そういった事態が発生すると懸念するのはいわゆる「陰謀史観」で、まったくもって現実的ではないし、実際にこういったことはプログラムミスといったヒューマン・エラーが無い限りは発生しない(つまり人工無能=コンピュータの責任ではない)。むしろコンピュータは統計的にこういったエラーを回避するプログラムが書き込まれ二重三重の防御がなされることになる。つまり、人工無能のおかげでヒトラーが誕生することはかえって出来なくなってしまうのだ(コンピュータ科学と認知科学の巨匠であるマーヴィン・ミンスキーはコンピュータ研究において、この三十年間、専ら統計=数値を処理させることだけに焦点が当てられ、意味=言語を理解させる研究が行われていないことを批判している。ミンスキーに言わせればコンピュータの言語研究は、やはり「人工無能=cognition」のそれであって「人工知能=recognition」ではないということになる)。

つまり「人工無能」のおかげで、われわれの幸福度は相対的に上昇するのだ。

ただし、この「快適さ」「幸福度」、実はかなり危険なものでもある。前回の、そして今回のタイトルを覆して表現すれば「ビッグデータはビッグブラザーにはならない」が、別の側面、メディア的な側面からするとビッグブラザーとしての機能を果たしてしまう。後半はこのことについてメディア論的に考えてみよう。



行動の規格化

考えられるのは二つの側面だ。
一つは前回指摘したことと重複するが、多様な人間的事象について次々と情報がビッグデータに集積され、それが統計的に解析されて「最適値」を返すようになり、なおかつこの最適値に対してリアルタイムに人間行動をフィードバックし更新し続けることで、きわめて快適な環境をわれわれが享受できることになり、これに抗うことが出来なくなるという側面だ。

それ自体は「すばらしいこと」のように思えないこともないが、これはわれわれの行動それ自体の規格化=均質化といった現象を生むことを結果することでもある。つまり、人間は意味世界に暮らしており、それぞれが勝手な解釈をし、勝手な行動をしているのであるけれど、ビッグデータが作り上げるシステムが、こういった自由気ままな行動の背後で、身動きが出来ないほどにまでわれわれの行動を規定してしまい、他のチョイスを許容しない環境が作り上げられる。言い換えれば行動においていくつかのチョイスがデジタル的に提供されることはあっても、アナログ的なチョイスが許容されないことになる(つまり、与えられた選択肢のなかからどれかを選ぶことだけがこちらの仕事となり、その選択肢の範囲の設定や、選択肢と選択肢の間の選択は不可能になる)。これは、実はもうすでにとっくに消費の世界では進行済み。今や世界の人々がコンビニやショッピングモールで規格化された商品を購入し、またAmazonのようなネット販売を利用して商品を購入し、ファーストフード店でハンバーガーやピザを食べるという同質化=グローバル化された行動をとるようになっている。

こういった”統計的データがこちらに強制してくる行動パターン”は快適ゆえ、それに飼い慣らされていることには気づかない。いや、たとえ気づいたところで快適なので「だからどうした?」ということになる(こういった規格化された権力のことを哲学者の東浩紀は「環境管理型権力」と読んでいる)。そう、ビッグブラザーはどこまでもやさしくわれわれを管理するのだ。

認識の細分化

もう一つは、それとは逆に人間を完全にバラバラにしてしまうという側面だ。これはイーライ・パリサーの「フィルターバブル」という概念で説明するのがいいだろう。例えばあなたのAmazonやfacebookのホームページをチェックしてみてほしい。そこに出てくる画面は、他のメンバーとは全く異なる情報で埋められているはずだ。これは、ユーザーであるあなたが頻繁にこれらページにアクセスし、そのデータがサーバーに送られ、ビッグデータと照合されて、あなたにとっての最適値としてカスタマイズされたかたちで情報が返されてくるからに他ならない。

やはりこれもまたきわめて快適なことでもある。あなたにとっておいしい情報ばかりで埋め尽くされるのだから。ところが、これはかなり危ないことでもある。というのも、それは「おいしくない情報はそこから排除される」ことだからだ。その結果、あなたの情報環境はインターネットとビッグデータのアルゴリズムによって「あなただけの世界=フィルターバブル」になってしまう。つまり、徹底的に個別化された世界の中で暮らすことになり、あなたは孤立する。おいしいものばかり食べていたら食べ物のバリエーションが狭まり、なおかつ味盲になり、世界は食べられないものでいっぱいになってしまうのと同じことだ。

規格化と細分化による社会的統合の崩壊?

そして規格化とフィルターバブルは相乗効果をもってあなたをいっそうビッグブラザーの管理下に従えることになる。つまり羊飼いと牧羊犬の監視する空間(=フィルターバブル)の中では、思いっきり自由なのだが、監視された空間の外に出ることは決して許されない。しかし、快適ゆえ、あなたはそのことに一切気がつかない。で、こういった「徹底した個別化対応によって、実は均質化をもたらす超管理社会」を推進するのが、実はビッグデータという存在なのだ。

それは結果としてわれわれが孤立化されたかたちで徹底した管理下に置かれることを結果する。しかし、これがさらに突き進めば、社会はアトム化された人間によってバラバラになり、社会統合を失ってしまうのではなかろうか?

…………いや、待て!よく考えれば、そんなことはないだろう。人間はバラバラになってしまうかも知れないが、そのバラバラの人間をビッグデータ=ビッグブラザーは統計的に管理することで社会統合を代替してくれるはずだから。これぞ、超管理社会と言わずしてなんと言おうか。


25世紀、宇宙人が地球にやってきた。するとそこにはきわめて整備された文明が存在した。ゴミ一つ落ちておらず、システムは完璧に作動していた。しかし、宇宙人は首を傾げた。地球には完璧に整備されているシステムはあるのだが、肝腎なものが存在しなかったからだ。

肝腎なものとは?……そこに住み、システムの恩恵を受ける「宇宙人」のこと。……そして宇宙人とは……もちろんわれわれ人間=地球人にほかならない。システムを構築した人間はビッグデータに守られて孤立化し、関わりを失い、人口を減らし、ついには消滅したのだった。しかし、システムはいつまでも稼働し続けていたのだ。さながら人間が存在するかのように。

ビッグデータの恐怖?

「ビッグデータ」という言葉が、最近あちこちで使われている。その定義は比較的曖昧だが、一般的には「Google、Amazon、iTunes、各種SNSに蓄積されたデータ」などがビッグデータを備える典型的な存在として語られることが多い。共通するのは、ユーザーがこれらを利用することで、当該サーバーに個人に関する情報(文字、画像、映像、音声等)がリアルタイムで次々と蓄積されていき、膨大な情報量になるというもの。こういったシステムによってわれわれが恩恵を受けているのが、例えばAmazonのアカウント・サービスだ。ここでは、これまで閲覧・購入した履歴がサーバーに蓄積され、これが同様にアマゾンを利用したユーザーのデータと照合、解析されて「おすすめの商品」を紹介してくる。つまり、個人の閲覧・購入した「パターン」が次々と蓄積され、そこから統計的に同質のパターンを抽出し、次いで、その同質パターンに従いながら、新たなユーザーのパターンを予測する。新たなユーザーが新しいパターンを作っていたり、既存のユーザーが新たなパターンを構築すると、やはり同様にこれがフィードバックされ、このパターンが更新されていく。

こういったビッグデータの特徴に対し、しばしば危惧の念を持って語られるのが、ビッグデータが悪用されるのではないかという不安だ。Googleであれ、Amazonであれ、facebookであれ、膨大な個人データが1カ所のサーバーに集積されるわけで、そうなると、このビッグデータを特定の人間や組織が独占してしまい、これを自由に操作することが出来れば、これらデータを利用して個々の人間をコントロールできる。そして、もしそういった行為をする人間や組織がヒトラーやナチスのような野望を抱いていたら、世界は一部の人間によって完全に支配されてしまう。まさにG.オーウェルが小説『1984』の中で描いた中央制御的コンピュータ、ビッグ・ブラザーによる人間の支配が可能になる。これは恐ろしいことではないのか?

こういった懸念、僕は「楽観的な悲観主義」と考える。ちょっとシステムを単純に考えすぎているのではないか?しかも、悲観的な側面でという意味合いなのだけれど(いわゆる”陰謀史観”的な被害妄想と同様の心性だ)。実は、こういった懸念、結構杞憂に過ぎない、そしてこのシステムの恐ろしいところはもっと別のところにあると僕は考えている(オマエこそ楽観的で単純すぎるというツッコミが入りそうだが)。では、なぜこういった見解を採るのか。このことをメディア論的に説明してみたい。

コンピュータ、実は何も考えていない

スマホをお持ちの方は、音声認識アシスタントの機能を利用されている方も多いのではないだろうか。iPhoneなら「Siri」、docomoなら「しゃべってコンシェル」なんかがそれだ。日本語で「近くのラーメン屋は」で話しかけると「この周辺には10ヶほどのラーメン屋があります」といった具合に返してきて、店舗のリストをずらっと並べてくれる。まあ、それなりに気の利いた答えを返してくる。これのおもしろいのは、正確なところは驚くほど正確だが、トリビアなところは全然ダメなところだ。

そしてもう一つ特徴的なのは、回線に繋がっていないと使用不可能なこと。こうなるのは、実はこの音声アシスタントシステムがビッグデータをエンジンとして機能しているからだ。スマホで音声認識アシスタントに話しかけると、回線を通じてネットサーバーにそのデータが送られ、解析される。つまりあなたの話しかけた言葉はスマホが処理しているのではなくて、クラウド上に、いわば「外注」され、処理されているのだ。つまり音声認識アシスタントシステムは膨大な情報があって初めて可能になるのであって、スマホはその端末として機能しているに過ぎない。で、こういったかたちでユーザーがこのシステムを利用すると、使うたびにデータがメインサーバー上に送られ、そこで分析が行われる。ただし、コンピュータが考えているというのではなく、アルゴリズムに基づいてパターン解析をしているにすぎない。つまり、あなたの尋ねてくるデータと類似したデータをパターン化して行く。つまり統計的にパターンを処理していくわけだ。


コンピュータはオウムと同じ

音声アシスタントシステムは、こうやって不断に学習=パターン解析を続けることで、次第に正確性を増していく。ただし、これ、実は考えているわけではない。比喩的に説明すれば、これはオウムや九官鳥のおしゃべりと同じメカニズムに基づいている。

オウムは言葉を覚えさせると、そのシチュエーションでキチッと返事をする。これはだいぶ昔の話だが、僕が高校の頃、玄関でオウムを飼っている友人がいた。この友人を「鈴木」という名字としよう。で、この友人宅に行きドアをノックし「鈴木さ~ん」と声をかけようとすると、こちらが名前を呼ぶ前に、扉の向こうから「鈴木さ~ん」と声が聞こえてくるのだ。そう、オウムは扉のノックと「鈴木さ~ん」という声を条件反射、つまり刺激ー反応図式で学習してしまったのだ。この時、オウムはノックと鈴木さんの関係を全く理解していない。そして「鈴木さん」の意味も理解していない。ただ単にパターンを認知=知覚(cognition)したに過ぎないのだ。

で、これをものすごい記憶量と処理能力で可能にするのがサーバー上のコンピュータに他ならない。つまり、あなたがSiriと話をしているように見えても、相手はこちらのことなど全く理解しておらず、こういった「オウム返し」のパターンを膨大な数だけ記憶し、こちらが喋ったことに対してパターン解析し、統計的に割り出されたパターン的に近似のものの回答を返してくるだけなのだ。
ということは、ユーザーが使い込めば使い込むほどパターン認知は正確性と多様性を備えるようになり、さながら「考えている」かのように、こちらに対応することが可能になる。つまり文字化すればチューリング・テストに合格するようなコンピュータが登場するのだ(逆に言えば、トリビアな情報については、こういった「ユーザーとサーバー上のやりとり」がほとんど行われないので、返すパターンをコンピュータが知らず全く使いものにならない)。

だが、これは言い返せば、コンピュータは何ら判断能力を持ちあわせていない、言語学的に表現すれば意味論的世界についてはなにもわからないということでもある。例えれば「味の成分は分類できるし、おいしい料理を作ることは出来るけれど、自分はその味が決してわからない」というのがコンピュータの脳なのだ。いわば「人工無能」。Siriは”Speech Interpretation and Recognition Interface”(=発話解析認識インターフィス)の略称だがrecognition=認識の定義を「本質を理解し正しく判断すること。また、そうした心の働き」とすればSiriは全く認識能力を備えていないことになる(recognitionをcognitionと変更して発話解析認知インターフェイス、つまり”Sici”とすれば、適切な名前ということになるだろう)。

ということは、まずコンピュータの方が勝手に世界を理解して判断し、自ら主体的に思考し、行動し始めると言うことは現状では考えられない。『2001年宇宙の旅』に登場するHALのように、人を殺したり、判断を誤ったりするようなことは決してない。(判断を誤ったとしたら、それは純粋にプログラミングミスだ。人を殺すとするならば、殺してよい条件がパターンとしてプログラムらされていなければならない。そしてそれを入力するの人間の側だ。だが、それに対してはA.アシモフが定義した「ロボット三原則」のようなこれを否定するメタプログラムがパターン化されることになる。もっともロボット三原則の第一条は絶対法則で「人間に危害を加えてはならない」だが)。

快適な「人工無能」

ただし、こういったかたちで夥しい数のデータが日々蓄積されると、われわれはこうやって作り上げられたパターンに抗うことが難しくなっていく。それはビッグデータが作り上げたパターンがわれわれを強制すると言うより、われわれの行動の集積がパターン化された「集合知」となるためだ。そして、統計に基づいて不断にこの集合知がヴァージョンアップされるためだ。

J.スロウィッキーはネット上で集合知が生まれることを指摘した。つまり、はじめは間違った情報がアップされても、いろんな人間がこれに改訂を加えることでだんだんと正確なものになっていくと指摘したのだが、残念ながら人間において、これは不可能だ。問題はフィルター・バブルが発生するからだ(これについては後述)。人間の場合、いくら情報を集積してもあっちこっちからツッコミが登場してまとまらない。様々な認識が様々な見解を生むので、結果として”喧々囂々”の議論になってしまう。つまり「人間は意味的世界に生きており、アタマがいいのでまとまらない」。

ところがコンピュータはバカであり、愚直だ。ひたすらデータを集め続け、アルゴリズムに基づいてこのパターンを見いだす作業を続ける。だから、どんどん統計的な確率が上がっていき、正確になっていく。いいかえればコンピュータに関しては「みんな意見は案外正しい」、いや「みんなの意見は正しい」ということになる。ただし、間違えてはいけないのは、やはり個々のデータに価値判断が含まれてはいないということ。集合的に解析したパターンを抽出しているだけなので、いわば「多数決の結果、趨勢を占めたものが正しい」という判断しか下せないのだ。投票した人間全員が間違っていても、それはコンピュータにとっては正しいものとなる。つまり「コンピュータは統計的世界に生きており、アタマが悪いのでまとまる」。

価値判断を全く下すことができない、でもチューリングテストには合格してしまう「人工無能」=コンピュータ。しかし、これに従うことによって、われわれは快適な生活が約束されることになる。たとえば前述のAmazonの「おすすめ」を思い浮かべてもらいたい。次々と商品を提示してくるが、かなり気が利いている。自分が読んだ本の作者の新作などをいち早く提示してくれるからだ(で、思わずポチってしまうのだけれど)。

また、これは交通システムのことを考えてみてもよくわかる。現在、交通システムの発達によって渋滞はかなりの程度低減されてはいる。おそらく現在の交通量を鑑みれば、この渋滞の少なさは高く評価してもよいだろう(以前のシステムなら、慢性的な渋滞に陥っているはずだ)。これが可能になったのは、要するにクルマを運転している「個人」ではなく、クルマの流れという「交通量」のみに注目し、統計的に処理したから。ただし、現状でも渋滞は発生する。じゃあ、これはどうやったら解消できるか。なんのことはない、よりデータを集積し統計的に処理しパターンを厳密化し、アルゴリズムに基づいてパターンを解析し、交通システムを配備すればよいだけの話なのだ。たとえば、何十年後かに高速道路の自動速度制御システムのようなものが完成すれば、渋滞は全て解消し、交通事故は激減し、クルマの利用者は安全かつ快適に目的地に到達することが出来るようになる。それは、膨大な数のクルマの流れをフィードバックし統計的に処理することによる必然的結果だ。そしてこの時、われわれの交通事情についての満足的は相対的に上昇する。つまり快適レベルについての幸福度が上がる。渋滞でイライラすることも居眠り運転の危険性もなくなるのだから。だから、われわれは、この「人工無能」に抗うことが出来ない。

だが、これは要するに究極の管理状態、つまり「超管理社会」の出現を意味する。われわれはコンピュータ社会の「飼い慣らされた羊」となる。ただし羊飼いに鞭を打たれるのではなく、やさしく管理されて。

ところが、この「快適さ」、実はかなり危険なものでもある。では、それは何か?(続く)

ブログをアップする側の悩み

ぼくがブログを運営し、BLOGOSに転載され、コメント欄も設けていることを知人が知ると、しばしばこんな指摘を受ける。

「コメントの誹謗中傷によく耐えられるね?自分は、あんな感じで罵詈雑言を浴びせられるのにはとてもじゃないけれどガマンできない!」

そういえば、BLOGOS上でコメントを受け付けていないブロガーも散見される(コメント欄の設置については任意ゆえ、拒否することも出来る)。

僕の答えは、

「まあ、鈍感力で(笑)」

というもの。

書き込まれるコメントのうち、三割程度は完全に的を外してしまっているか、あるいはブロガーに対する誹謗中傷(ブロガーの属性に基づいて、そこから憶測するかたちで行われるものが多い。さしずめ僕の場合は「大学教員」という肩書きを踏まえての攻撃だ。「大学なんて“象牙の塔”にいるから、オマエは世間のことを全然知らない」みたいなモノノイイがそれ)になる。

僕がこういった「誹謗中傷系」のコメントが三割くらい入ってしまうこと(コンテンツにもよるが)について、前述したように「鈍感力」で適当にスルーすることにしているのは、議論やコメントはなんであれ、ある程度こういったピントはずれの発言・コメントが含まれること、他者を自己満足の道具にとする輩が含まれるのは、ある程度やむを得ないと考えているからだ。これはネットではないが、大学では授業改善を目指して「授業評価アンケート」を実施する。アンケートなのでほとんどが選択式だが、終わりに筆記回答式の自由記述欄があり、ここでは、しばしば「声がヘン」「容貌がおかしい」といったような、質問事項とは直接関連のない誹謗中傷のコメントが寄せられる(脆弱性の高い教員の中には、怒りはじめる者すら現れる。まあ、これもまた「大人気ない」のだが)。で、やはりこの割合が似たようなものなのだ(つまりコメントの三割くらい)。双方に共通するのは「匿名で責任性の回避が担保されていること」。それを逆手にとって言いたい放題をやってしまう人間が残念ながら必ず一定の割合で存在するのだ(ちなみに実名になったら、これは限りなくゼロになる)。

こういったブログに対する誹謗中傷コメント。第三者的な視点、つまりニュートラルな視点からこのコメントを読み返してみると、かなりみっともないものにみえる。コメントを書き込む側の「リテラシーの低さ」、そして「痴性」つまり「知性が存在しないこと」を世間一般にさらけ出してしまっていることになるからだ。いわばTwitter上でコンビニの冷蔵庫に入った写真をアップするのと基本的に同じ構造。「みっともない」「やってはいけない」ということに自覚がない。

そこで、今回はメディア論、とりわけ記号論の概念を用いつつ、この「痴性溢れるコメント」がなぜ発生するのかについて分析してみたい。

テクスト、コンテクスト、知識体系

分析に当たって「テクスト」「コンテクスト」「知識体系」という三つの概念を説明しておく。

先ず、次の問題を解いて欲しい。


問題1:以下の空欄を埋めなさい。

(a)□肉□食
(b)品□方□
(c)天□大□


問題2:カタカナの部分を漢字になおしなさい。

派手なカッコウをした男


問題3:長さ16㎝の角材があります。これを4等分すると一つは何㎝になりますか。


この三つの問題、それぞれの答えは「一般的」には次のようになる。

問題1-(a):弱肉強食
問題1-(b):品行方正
問題1-(c):天下大平

問題2:派手な「格好」をした男
問題3:4㎝

だがこれは唯一の回答とは言えない。それぞれ別の回答例を提示してみよう。

1-(a):焼肉定食→定食屋でこの問題を出したら、たぶんこっちだろう。
1-(b):品川方面→駅での出題だと、多分こうなる
1-(c):天丼大盛→これも定食屋、天照大神→神の国の宮崎県民に出題するとこうなることがある(これ、実話です)。ちなみに「天下大平」は誤表記で、正しい綴りは「天下太平」で「大」のところが「太」になるが、同じような問題を連続して出題された場合(この場合は三番目)、ほとんど誰も疑うことなく「下」と「平」を入れてしまう。

2:派手な「滑降」をした男→スキー場でこの問題を出したら多分こちらの熟語が入るだろう。

3:16㎝、8㎝→角材を縦に切れば16㎝の角材が四本とれる。角材を横に2等分し(それぞれ8㎝)、次にそれぞれを縦に2等分すれば8㎝の角材が四本とれる。いずれも当分であることに代わりはない。

さて、以上の問題に対して複数の回答が出現すること。これはテキスト、コンテクスト、知識体系が絡み合うことに起因する。

わかりやすいように一番最初の問題を例に取ってみよう。「□肉□食」がテクスト、つまり「書かれたもの」。この□欄に埋める文字を考えるにあたり、この問題が出題されるコンテクスト=文脈が候補として上がってくる。つまり「弱肉強食」「焼肉定食」の二つ。このどちらを選択するのかが、コンテクストをテクストとした広義のコンテクストである「知識体系」ということになる(ちなみに、これは記号論ではさらにスキーマとフレームに分類されるが、細かくなるので省略)。知識体系は、いわばコンテクストをチョイスするメタコンテクスト=「空気」に該当するもの。つまり、前者の場合は「これは国語の問題であり、こういったところに埋める内容は「四字の故事成語でなければならない」」と考え、後者は「食堂ではいろんな定食があり、その中のひとつが選ばれる」と知識体系が判断するのだ。ちなみに逆の知識体系に基づいてコンテクストを充当した場合(試験で「焼肉定食」、定食屋で「弱肉強食」を選択した場合)は「空気が読めない」(言い換えれば知識体系が誤ったコンテクストを選択した)ということになる。で、このようなメカニズムが、先ほどの全ての問題に該当している。

さて記号論における意味のこの三つのレベル、そのままブログ記事とコメントの関係、そしてそのコミュニケーションの齟齬にピッタリとあてはまる。

先ずテキスト(先ほどの例だと□肉□食の”設問”)がブログ記事に該当する。これをコメント者は読み込むのだけれど、その際、この文面がどういったコンテクスト=文脈で語られているかについて想定する。前述の例だとテクスト「□肉□食」を「弱肉強食」「焼き肉定食」どちらのコンテクスト(狭義のコンテクスト)で読むのかを判断する。そして、この二つのどちらを選択するかは(あるいは他の選択肢もあるかも知れないが)本人の知識体系=広義のコンテクストに基づいている。だからブロガーとしては「弱肉強食」と読ませたくても、コメント者が「焼肉定食」というコンテクストを支持するといった状況が発生する。これがブログ発信者のメッセージとコメント者の受信、つまりブログ解釈の齟齬となる。

齟齬を避けるためにブロガーとコメント者がすべきこと

こういった「齟齬」を避けるためにはブロガー、コメント者双方が”テクストに対する周到性=用心深さ”を備えることが必要となる。

ブロガー=発信者としては、コメント者に自らのテクストが意図した知識体系=広義のコンテクスト(=空気)に基づいてコンテクスト(狭義)を選択してもらうために、1.可能な限り平易かつ曖昧性を排除した表現を心がける、2.自らの属性を公開し、コメント者にその知識体系=広義のコンテクストに基づいて読んでもらえるよう方向付けを行うといった工夫をする。僕の場合、1については文章は偏差値50程度の大学が入試で出題している国語の論説文程度の難易度にすること、言葉の定義を明瞭にすること(たとえば「□肉□食」なら、設問に「四文字の『故事成語』を完成させよ」と明記する)、2についてはプロフィールに「大学教員」であること、「メディア論、記号論」等を専攻していることを明記する(もっとも、これが裏目に出る場合もある。大学研究者であることを示し、そちらの分野のプロパーであることを示すつもりが、前述したように「大学教員だから世間を知らない」というかたちでコンテクストを読み込まれてしまうこともあるからだ)。

一方、コメント者としては、1.テクストを丁寧に読む、2.コンテクスト(狭義)を適切に選択するためにブロガーの知識体系(コメント者の側からこれを表現すれば「ブロガーの意図」)が何なのかを斟酌すること、となる。

自らの知識体系を最優先=絶対視する

ところが誹謗中傷、ピントはずれになってしまうコメント者は、この手続きを踏もうとはしない。

先ず、ちゃんと読んでいない。これはマナーとしては問題外だろう。で、ブロガーの立場からすれば、このレベルならばコメントする資格はないとみなし、完全にスルーしても構わないだろう(要するに、この読み方では偏差値50程度に達していないので「足切り」させてもらっている。実際に本人が偏差値50であるかどうかはともかく、まともにテストを受けていないのだから、こちらも相手にするわけにはいかない)。

しかし、これよりも問題なのは、テクストを読解する力はあるのだけれど、こちらが意図した知識体系=広義のコンテクストが意図している狭義のコンテクストとは異なるコンテクストがチョイスされてしまう場合だ。つまり、前述の「□肉□食」の問題ならば、設問が国語の問題であり、従ってここでは「故事成語を埋める」ことを「空気」として読んでもらうことが要請されているのだが、その空気を読まず「焼肉定食」と埋めてしまう場合だ。

こうなってしまうのは、コメント者の方に先ず自分が主張したいことが先にあり、それを絶対視し、それに基づいてテクストに対するコンテクストを埋めてしまうからだ。言い換えればブロガーと意図などどうでもよく、とにかく「言いたい放題」を展開したいという動機が前面に出ているというわけだ(この辺の「不用心さ」を促進してしまうのが、責任性回避を可能にする「匿名性」にほかならない)。

このレベルだと、本人はブロガーの鬼の首を取ったような気分にはなっても、冷静にブログを読んでいる一般の読者からは、このコメントが「勘違い」「自己顕示」に読めるわけで、結果として痴性をまき散らす、きわめて恥ずかしいコメントになってしまうのだ。

相手を尊重する姿勢

結局、こういった「痴性溢れるコメント」をしないようにするためには、コメント者はあたりまえの話だが、1.ブログを丁寧に読むこと、2.コメントの際には自らの立ち位置、つまり知識体系から導き出したコンテクストが、ブロガーの知識体系と合致しているか、つまり独りよがりの意味づけになっていないかについて敏感さを持つことがポイントとなるだろう。言い換えれば、自らがコンテクスト(狭義)をチョイスする知識体系=広義のコンテクスト(=空気)をも対象化=相対化する作業が必要なのだ(ブロガー側がわかりやすい文面を心掛けることが重要であることは、あたりまえだけれど)。

ただし、こういうふうに言ったところで、こういった「空気の読めない」誹謗中傷系のコメントがなくなるとは思えない(実名のみの議論とすればなくなるだろうが、それでは匿名であることのよさが失われてしまう)。僕が言いたいのは、コメント者はそういった痴性をまき散らさないように心掛けた方が身のためだと言うことだ。ROMである膨大な数の第三者の閲覧者が、それを見ているのだから。


※オマケ:ちなみに「どうせコメントする奴なんてそんなもんなんだから、そんなことをゴチャゴチャ言う方が間違っている」と言う、いわゆる「ちゃぶ台返し=ニヒリズム」のコメント、実は最も質の悪いものとなる。これは「秋の味覚は松茸かそれとも秋刀魚か?」と論じ合っているときに「いずれどっちもクソになるのだから同じ」という「議論を無化する詭弁」であり、議論の場での典型的なルール違反であり、生産性がないからだ。まあ、そう思ったときには沈黙しておくのがマナーだろう。

今、ビストロが旬だ!

「俺のフレンチ」の象徴されるように、最近旬な格安フレンチ・レストランは「ビストロ居酒屋」と呼ばれるカテゴリーだ(「ビストロ」はフランス語で「小料理屋」という意味だが「居酒屋」という意味もあるので、これだと「居酒屋居酒屋」になってしまうのだけれど)。ここ20年以上、日本人にとってポピュラーな洋食と言えばイタリアンだった。通称”イタメシ”と呼ばれるこのカテゴリーが日本に普及したのはバブル末期の90年頃。それまで洋食と言えばフレンチのイメージが強かったが、フレンチ=高級というイメージも付随していて「ちょっとフレンチ」という具合に食べにいけるものではなかった。そこに料理法、価格ともカジュアルなイタリアン・レストランが街に出現する(ティラミスが大ヒットするのもこの頃だ)。イタリアンの勢いは凄まじく、究極のカジュアル・イタリアンであるサイゼリヤ、ジョリーパスタといった格安チェーン店まで出現した。で、「カルパッチョ」なんて料理もごくごく一般的なメニューの一つとして人口に膾炙した。一方、この煽りを受けたフレンチは不人気料理の部類に格下げされてしまう。店をたたむフレンチが結構出てくる始末だった。

でも、フレンチってやっぱり経費かがかるはずなんだが……

ところが、である。ここに来て格安フレンチであるビストロ居酒屋が出現。これが結構な賑わいを見せている。フォアグラやパテ・ド・カンパーニュ、アヒージョ、タジン、コンフィ、ジビエなんてものが千円以下。こうなるとフレンチはイタリアンと拮抗する価格帯になり、ウマいワインとウマいフレンチを懐を痛めることなく堪能できるということになったのだ。

とはいうものの、やはりフレンチは原価がそれなりにかかる。イタリアンに比べると料理法もちょっと手が込む。そこで、これをなんとかクリアしようと、店の方では様々な工夫が凝らされているのだが……。そこで今回はその内の1件、渋谷にある小さなビストロ居酒屋のやりくりを紹介してみたい。

経費節減その1:喫茶店の改造?

渋谷駅西口、道玄坂の小道をちょっと入ったところにあるこの店は、間口が一軒半、奥行きが六軒ほどの細長い、どう見てもかつての喫茶店を改装したとしか見えない小さな作り(まるで電車の車内のような空間)。内装もそっけない。奥になんとか四人掛けを確保してあるが、その大半が二人掛けとカウンターだ。おかげで厨房は小さく、中ではシェフ達が押し合いへし合いしながら料理を作っている。この作りなら、まあ、渋谷とは言え、家賃はそんなに高くないだろう。ギューギュー詰めの店内で先ずコストの削減がはかられているのがわかる。

経費節減その2:冷菜とオードブル的メニューがたくさん

次に料理。種類は限られている。そして作り置きが可能ですぐに供せるフォアグラ、冷野菜、パテ・ド・カンパーニュ、チーズやピクルスの盛り合わせなどが並ぶ。厨房での作業をなるべく省略しようという戦略だろう。また、すぐに料理を出すことで客にどんどん食べてもらい回転を高めるという狙いもある(混雑時は二時間制だ)。そして、これらメニューを前面に出した売り方をしている。たとえば、ここで定番となっているのがパテ・ド・カンパーニュで、客のほとんどがこれを注文するのだ(もちろん作り置き)。このやり方は廉価のサイゼリヤと同じ。だが、その一方でコンフィやタジンといった、ちょっと手間の掛かる料理も忘れない。問題はこのバランス。これがサイゼリヤだと、全てサッと出るものばかり並べて顧客の回転を豪快にはやめると言うことをやっているのだけれど、さすがにそこまではしない。ゆっくり食べさせるというものも用意する”周到さ”を備えている。ただし、この時間の掛かる料理も概ね料金は三桁。もちろんサイゼリヤよりは高くなるが、それを加味してもコスパ的にはまだまだ安い。サイゼリヤはチェーン店なのでスケール・メリットがあるが、こちらはそちらについてはディスアドバンテージといった状況になっているはずだ(で、あちらは究極の半完成品なので)。だから、これだけじゃ、商売にならない。さて、じゃあどうやってカバーしているんだろうか?

経費節減その3:ワインで粗利を稼ぐ

実はそのからくりはワインにあった。ここが提供する最も安いワインはボトルで2600円(チリ)。これは一般のイタリアン・レストランでの提供価格とまあ、だいたい同じだ。ただし、サイゼリヤに比べれば高い。サイゼリヤの場合、最も安いのはデキャンタで供されるテーブルワインのマグナム・ボトル(1500cc)で1080円、最も高いキャンティ・ルフィナ・レゼルバでも2160円。しかし、この2600円で提供されるチリ・ワイン(シャルドネとカベルネソーヴィニオン)、結構、ウマい。だからこの値段が高いとはあまり思えないのだ。当然、こいつも格安で提供されている(つまり、粗利が低い)のだろうと思い、ネットで当該ワインの価格を調べてみると……なんと一本、たったの510円。ワインのレストランの提供価格は、サイゼリヤを除くとだいたい定価の三倍程度。ところが、これは五倍と、とんでもないふっかけ具合。しかし、クドいようだが、これがその辺のスーパーで売っているような500円ワインとはわけの違う味なわけで……う~ん、粗利を稼ぐにも、客に不満を持たせないような工夫をしていることがよくわかる。僕みたいに「調べてみよう」なんてスケベ心がなければ2600円でも文句は出ないような逸品をチョイスしているのだから(事実、僕も価格を調べるまでは何の不満もなかったのだ)。

経費節減その4:ワインについての客のステレオタイプを利用する

ワインについてはもっと面白い工夫もしている。一つ上のランクの2700円のオーストラリア・ワイン(シャルドネとシラーズ)の仕入れ値が950円、さらに上の3000円のアルゼンチン・ワイン(トロンテスとマルベック)が1200円と、ちょっと値段を上げただけで仕入れ値が跳ね上がっているのだ(つまり粗利が低くなる。いずれも三倍未満)。しかし、その一方で同価格(3000円)のフランス・ワイン(南仏のテーブルワイン)の仕入れ値は750円と、四倍。で、味はどれも吟味してあって合格点だ。だから、こういったメチャクチャな価格設定でも客から文句は出ず、みんな楽しんでいる(ひょっとしたら、価格を知った瞬間、怒りはじめたり、粗利の低いものばかりを注文しはじめる客もいるかも知れないけれど)。

巧妙な錬金術、でもみんな満足
この価格帯のからくり、僕はこう読んだ。問題は粗利の高い二つのワイン(チリとフランス)の位置づけだ。まず2600円の最安値のチリワイン。これについては「とにかく、なんでもいいからボトルでがっつりやりたい」という客を目当てにしている。つまり「ワインの味なんかわからない。安けりゃいい、飲めればいい」という客。しかし、ちゃんとした味なので文句は出ないどころか、むしろ満足し「リピートしよう」とも思うようになる。で、最安値なので注文される割合が最も高い。次にフランス・ワイン。これは「フレンチだからフランス・ワイン」という顧客の固定観念に訴える。同じ価格のアルゼンチン・ワインを比較したら、おそらくこちらを注文してしまうだろう(確かによく吟味してチョイスされてはいるが、はっきり言って味はアルゼンチンの方が上)。

つまり、この店はチリ、アルゼンチン、オーストラリアといった第三世界の割安ワインを厳選して味のレベルを保ち、その一方でワインが最安値であることとフランスものであることの魅力で粗利を稼ぐという構造になっているのだ。いいかえればワイン消費に対する客のエコノミーとステレオタイプ、つまりイメージをうまく利用しているというわけだ。

このやり方に腹を立てることはヤボだろう。儲けるためには様々なレベルで価格調整し、その差異を、自らの味覚と作り出す味でカバーするという”創意工夫”をしているのだから。「なるほどこの手があったか!」

料理・酒もさることながら、客も喜ばせ、自分もまた喜ぶというシステム。高く評価してもいいのではないか。参考までに、最終的に支払う価格はサイゼリヤの1.5倍強になる。だからメチャクチャ安いというわけではないが、結局納得させられる。結構、キモチイイダマされ方だと、僕は考えるのだが、みなさんはどうだろう?

メチャクチャマイナーな存在まで入手可能にするネット

インターネットの普及は膨大な量と種類の情報を一般大衆のレベルにまで入手可能なインフラを作り上げた。かなりマニアックなことでもGoogleでチョコっと文字列を入力すれば、一気にその情報を誰でもがカンタンに引き出すことが出来る。一例を挙げてみよう。僕の趣味のひとつはワインだが、現在ハマっているのがまだあまり知られていないポルトガルのヴィーニョ・ヴェルデという弱発泡系の早摘みワイン。最近はかなりあちこちで見られるようになったが、そのほとんどは白かロゼ。赤を市場で見ることはない。というのも現地ポルトガルでも赤はマイナーな部類で、主にヴィーニョ・ヴェルデ産地のポルトガル北部で楽しまれているといった具合だからだ。でも、手に入れることが出来る。それは赤を輸入している業者がたったの一つだが存在しているからだ。輸入しているのは「崖の上」というネット販売業者だが、こんなマニアックで「マイナーの中のマイナー」なワインをこの業者が輸入販売している理由は簡単。販売業者のオーナーがこのワインの熱狂的なマニアなのだ。つまり本来は繋がることがないマニアックなワイン業者とマニアックな僕というきわめてどマイナーなマニア=オタク同士がネットを介して繋がってしまっているのだ。これはおそらくネットというインフラがなければ絶対に不可能だろう。

ネット社会は多様化を生む?

こういったエピソードが象徴するのは、要するにネット社会が個々のトリビアでマニアックな嗜好に対応しているということ。そして多くのネットユーザーたちがこの恩恵にあずかっているということ。だがネットユーザーとは、もはや日本人のほとんど。ということは、それぞれがそれぞれの細分化された好みに応じてネット上で情報を検索し、その結果それぞれの嗜好が満たされ、どんどん嗜好が細分化されていくということになる。つまりネットは嗜好や価値観を徹底的に細分化・多様化していくのだ。

ということは、われわれはこれからどんどん多様化して、いつかは接点を失ってしまうのではないのか?と考えたくもなる。確かにそうだ。ネットで自らのトリビアな嗜好を満足させ続けていれば、近隣で、つまり対面的な場で同好の士を見つけることなど限りなく難しくなるのだから。その内みんなバラバラになるに違いない?(で、同好の士は専らネットを使ってのみ探し出すなんてことになるんだろう)。

いや、実はそうではない。多様化というのは、実は均質化と必ず同時進行するのだ。このことを社会学者の故中野収は「超管理社会化」という言葉を用いて、なんと二十年以上も前に予測していた。じゃ、多様化と均質化の同時進行とはいったいどういうことなのか。

多様化に伴う均質化1:ポータルによるネタの入手

情報化、ネット化がもたらす均質化の側面については二側面が考えられる。

一つはポータル・サイトへの依存だ。あなたはパソコンでブラウザを開くとき、どのサイトを最初のページにしているだろうか?つまり、ポータルサイトにしているだろうか?あるいはスマホでブラウザを開くときメインにしているブックマークはどれだろうか?おそらくその多くがYahoo!JapanのホームページかGoogleの初期画面あたりではなかろうか。またスマホだったらブラウザ以外に、やはりこのYahoo!のアプリやGunosyあたりをブックマークしチェックするのではなかろうか。これらポータルや情報をチェックするアプリの頻用、実はインターネットが押し進める多様化・細分化と一対になっていると考えられる。

それぞれが、それぞれの嗜好に応じて情報にアクセスすれば、個人の情報に対する欲望を十分に満たせるようになる反面、前述したように相互の関心はバラバラになる。だが、こういったシチュエーションはわれわれを困った状況に陥れる。一般社会に暮らす限り、われわれは多くの人間と関わり合う。その際、当然コミュニケーションを成立させるためのメディア=ネタが必要だ。仕事であれば仕事のやりとりで交わす内容がコミュニケーション・メディアとなるが、通常、そういった利害関係のない人間との関わりの中では仕事の話はもちろんしない。また、細分化した嗜好を持ちだすこともしない。関心が全く異なるので、ネット仕込みによって細分化された情報は「ネタ」にならないのだ(やれば「空気が読めていない」と、気持ち悪がられるか呆れられるのがオチだ)。だから、当たり障りのない話をコミュニケーションのネタ=潤滑剤として持ち込まなければならない。で、共有するネタの源がこういったポータルやとりまとめアプリが担うのだ。

そして、こういった「当たり障りのないネタ」は、細分化が進めば進むほどナマのコミュニケーションの場において、かえって重要になってくる。時事ネタ、政治ネタ、芸能ネタなんてのは、まさしくこういった「実質的にはネタ的にコミュニケーションの接点のない人間同士」をつなぎ合わせる重要なツール=メディアとして機能しているわけだ。だから僕らはヤフーのポータルをひっきりなしにチェックする。

ちなみに、こういった機能はもはやオールド・メディアと化しつつあるテレビも同様で、テレビも報道や情報についてのプログラムを増やしているのは、おそらくこういった事情によるのではなかろうか。もはやドラマをやってもさしたる視聴率はとれない(「半沢直樹」や「あまちゃん」のように、これらがいわば「時事ネタ」としてネット上にまで賑わいを見せるということになれば話は別だが)。ただし、それでもやっぱり、われわれはテレビを見る。その理由は、言うまでもなく、こういった当たり障りのないネタを狩猟するためだ。それが佐村河内であり、小保方であり、橋元であり、石原であり、中国問題であり、韓国問題であるというわけだ。これらはコミュニケーションにとっては格好の潤滑剤、いやガソリンなのだ。

ちなみにこれは概念的に説明するとプル・メディアとプッシュ・メディアと言うことで説明が付く。嗜好が細分化された情報はいわば「プル・メディア」、つまりこちらが情報を積極的にアクセス(探しに)に行く情報。当該情報に対する強いモチベーションが必要で、いいかえると好みが分かれるわけで、その情報に強いモチベーションを抱く同好の士はきわめて少ない。だからコミュニケーションの地平をほんの一部しか開かない。一方、ポータルやテレビの報道は「プッシュ・メディア」。サイネージのように、いわば多くの人間に向けて垂れ流し的に情報を流し続ける。だから、プル=とりに行く、ということをしなくてもスイッチ一つで勝手に入ってくる。だから、みんなが見ていて、だから、ネタになる。

だが、それは翻って、「当たり障りのないネタ」については、どんどんと認識の均質化が進むと言うことでもある。心理的な側面から考えれば、あまりに細分化されたい領域に入り込んでしまったため、他者とコミュニケーションがとれない。そこで、強迫神経症的にポータルとしているサイトにアクセスし、この情報を他者とやはり強迫神経症的にやりとりすることで、自分が対面的なコミュニケーションの場面においても他者と繋がっていることを確認するのである。つまり細分化が均質化を同時進行させる。

多様化に伴う均質化2:システム化=超管理社会化が、あなたの身体的動きを均質化する

もう一つの均質化は、この細分化・多様化を徹底的に推進するネット=情報化社会のフォーマット=インターフェイスの一元化に伴う行動一般の均質化といった現象だ。メディアは原則的には情報を伝達するための手段=媒体だが、メディア自体も情報を備えている(これを「メディアのメッセージ性」と呼ぶ)。それはメディアの持っている特性=クセで、そのメディアを利用することで、利用者であるわれわれはそのメディア特性=クセを身につける。そして、それが結果としてわれわれの情報行動、思考スタイルを知らず知らずのうちに規定してしまうという側面を備えている。

おそらくその中で、近年、最もドラスティックにわれわれの様々なライフスタイルを変容させてしまっているのがスマホだろう。スマホはそれまでパソコンの中に閉じ込められていたインターネット環境を持ち歩く、つまり身につけてウェアラブルなものにすることを可能にした。そして、われわれは朝から晩までスマホの小さな液晶画面と睨めっこすることになったのだ。スマホのアラームに起こされ、朝食をとりながら電車の発車・乗り換え時刻を確認し、音楽を聴きながらニュースをブラウズして通勤し、その間にスケジューラーで今日の仕事を確認する。で、メールをチェックし、SNSを眺めて一言つぶやきなんてことをやっていると、今度は電話がかかってくる。ちょっと疲れたらヒマつぶしにゲームに興じ、楽天やAmazonに入って気に入った商品をポチる。家に帰ってきても同様だ。最後は寝床でスマホをいじりながら眠りにつき……そして翌朝スマホに起こされる。おそらくスマホ所有者の多くがこういったスマホ利用をやっているだろう。もはや日常生活には欠かせないわけで、紛失したり、壊れたりした場合には2日としないうちに修理するか、新しいものを購入する。

で、気がつけば不思議なことが起きている。電車の中にいる人間の半数近くが、あの小さな画面と睨めっこしているのだ。かつてだったら本や雑誌やマンガをよんでいたり、誰かと話をしていたりといった状況に遭遇するのが普通だったが、今やそんなものは駆逐されつつある(そういえば電車の網棚にマンガや新聞が捨てられているというのをとんと見なくなった)。つまり、みんながみんな「スマホライフ」をはじめたのだ。そして、前述したような1日を誰も過ごしている。そう、僕らのライフスタイルはスマホというメディアでフォーマット=均質化されてしまったのだ。

情報化が織りなす均質化した空間と均質化した行動

もちろん、こういった均質化の側面はインターネットとスマホだけが押し進めているのではない。情報化は流通の側面でもかつてから進んでおり、システム化が進展して、今や日本はチェーン店ばかりで構成された街並みが出来上がっている。AEON、TSUTAYA、セブンイレブン、ヤマダ電機、ニトリ、マクドナルド、ユニクロ、松屋・すき家・吉野家、ケンタッキーフライドチキン、ミスタードーナツ……ひたすらのっぺりとした均質化空間が出来上がっている(三浦展はこれを「ファスト風土化」と読んだ)。

こういった空間の均質化を情報化に伴う流通の合理化が推進したのだとすれば、スマホによるインターネット環境の遍在は、われわれの頭の中の、そして行動の均質化を推進するはずだ。もちろん、同時にものすごい多様化を加速度的に推進しながら。

内容=コンテンツの多様化、形式=フォルムの均質化。これこそがインターネットとスマホが押し進める情報化の正体なのだ。

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