勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2014年04月

日本における音楽市場の売り上げ減少


ちょいと古いデータだがIFPI(国際レコード産業連盟)の2013年度の統計では全世界での音楽産業の売り上げが3.9%減少(156→150億ドル)したことが報告されている。で、この減少に最も足を引っ張ったのが音楽市場としてはアメリカに次いで第二位の日本における売り上げの減少だった。その減少率、なんと16.7%。仮に世界統計から日本の売り上げを差し引くとその減少率は0.1%にすぎない。ちなみに第一位のアメリカは0.5%増加(48億ドル)だった。

そこで、今回は日本とアメリカの音楽市場の違いから、日本の極端な売り上げ減少について考えてみたい。この原因、実はリスナーの嗜好が変容したのではなく、もともとあるリスナーの視聴スタイルと音楽業界の構造的問題が絡んでいると僕は見ている。

日本人はモノ=フィジカルにこだわる

日本の音楽市場に特徴的なのは、相変わらずCD、つまり物質=フィジカルを媒介にしたパッケージ販売にこだわっていることだ。CD売り上げは前年比85%であるのに対し、ダウンロード販売は前年比77%と落ち込みが激しい(日本レコード業界)。世界の音楽市場はダウンロード販売に移行しつつあるというのに、だ。リスナーは、音楽というのは所有するか、純粋に消費するかのどちらかと割り切っているからなのだろうか。つまり、「これは大切」と思ったものはCD(あるいはレコード)を購入してライブラリーに並べる、それ以外はレンタルしてコピーしてしまう(日本のあちこちにTSUTAYAはあるので、ほとんどの人間がこれをやれてしまうというインフラがあるのも大きいだろう)、あるいはあまり音にこだわらなければYoutubeでタダで聴く。もし、そうであるとするならば、このどちらにも該当しない、つまり所有する喜びもなければ、値段も安くはないダウンロード販売に魅力を感じないのもわからないでもない。

アメリカも音楽事情は変化している~サブスクリプションの発展

ところが音楽業界が目ざしていたCDからダウンロード販売への移行も、ちょっと様子がおかしくなりつつある。アメリカでiTunesStoreの販売数が昨年5.7%減少したのだ。ダウンロード販売と言えば、真っ先に思い浮かぶのがここ。AppleがiPodをブレークスルーするきっかけとなった音楽販売サービスだが、これが開始10年を経て、そろそろそのシステムに限界の兆しが見えつつある。世界的にみてもダウンロード販売は2.1%の減少といった状態。

その原因は明快だ。サブスクリプション=定額制音楽ストリーミングサービスがどんどん定着しつつあるからだ。Spotify、Deezerといったサービスでは定額で1000万曲を超える音楽を聴き放題(音質や広告つきなどで価格は差別化されている)。なので、リスナーとしては膨大なライブラリーを利用可能となる。スマホに専用アプリをインストールすれば、いわば音楽図書館(有料だが廉価の)を持ち歩くという音楽環境を構築することが可能になる。Spotifyは現在、世界で2000万を超えるユーザーがあるという。全世界での昨年の音楽ストリーミングサービスの売り上げは昨年51.3%と急成長。ということはレコード→CD→ダウンロード販売→サブスクリプションによるストリーミングという形で音楽の聴取方式が変容していると考えられる。この流れは、もはや避けられないのでないだろうか。

そうであるとするならば、このままでは、音楽に関しては「旧型」ビジネスモデルであるiTunesStoreの将来は暗い。必然的にAppleもiTunesにサブスクリプションのストリーミングサービスを用意しなければならなくなる。で、サブスクリプションについてはジョブズ健在の頃からしばしばウワサにはなってきたことではあるのだけれど、ウワサの域を出ることはなかった。しかしながら、もはや徳俵に引っかかっている状態。おそらく今年度中には発表されるのでは?

ストリーミングサービスの夜明け

日本の場合、前述したCD→ダウンロード販売→サブスクリプションという流れは該当しないだろう。ダウンロード販売が定着しないのだから、これはあたりまえだが……。で、要するにCDからダウンロード販売を飛び越していきなりサブスクリプションになるのではなかろうか。実はサブスクリプション、日本でも以前から存在した。たとえば2006~2010年にわたりNapstar Japanがサービスを提供していたし、2012年からはSONYがMusic Unlimitedによってサービスが行われている(僕もこれらをずっと利用してきたのだけれど)。ただし前者はPCベース(Windowsのみ)だったこと(iPodでは使えなかった)であまり認知されなかった。一方後者は、なぜか認知度が低い。これは、おそらくサービスとプラットフォームの関連が見づらいからなのではないだろうか。そして現在虎視眈々と日本上陸を狙っているのがSpotifyだ。今のところ国内からはサインアップが出来ないが、サイトを開くと「日本でのサービスを準備中」とある。もしこれが実現すれば複数のサブスクリプション型音楽ストリーミングサービスが誕生するわけで、これにiTunesStoreが乗っかるとすれば、その時点でおそらく音楽視聴形態は一気にサブスクリプションへと移行するだろう。そして、ここでiTunesStoreがこのサービスをはじめれば、その強さは圧倒的だろう。抱える楽曲数もさることながら、iTunesというアプリがiPhoneやiPodのプラットフォームになっているゆえ、他のサービスと異なり、その認知が一気に広がる可能性が高いからだ。日本ではスマホ市場でiPhoneが圧倒的人気を誇っているのも、これに拍車をかけるだろう。現在Music Unlimitedのサービスが月額980円なので、サービスを開始するとすれば、これと同様(ただしちょっと高め)の料金でということになり、「この程度なら懐も痛まない」と多くのiPhone・iPod利用者が思うのではなかろうか。

現状では、一部の熱狂的な音楽マニア用でしかないこの「移動音楽図書館」「なんでもジュークボックス」。世界でこの流れが一気に進行し、やがてダウンロード販売が陳腐なものとなる。その流れの中で日本の音楽視聴形態も変化していくだろう。ただし、音楽業界の構造上、最も遅いラガードとして。

そうなるとしたら、われの音楽視聴意識もまたガラッと変わってしまうことが考えられる。ネットがパケット定額でやり放題になったときに起こったこれらメディアへの意識変化と同じように(スマホ利用者の多くがテレビよりネットアクセス時間の方がもはや多いのだ)。料金に気兼ねすることなく音楽が聴けるようになるのだから、おそらくこれまで以上の嗜好の多様化をもたらすのではないか。その一方でCDやレコードは「コレクション」としてある程度残る。つまり音楽視聴のサブスクリプション=ストリーミング化は、僕らの音楽分野での「オタク化」を推進していく。そんなふうに僕は考えている。

例年通り4月から各キー局ではテレビドラマ(以下“ドラマ”)の新作が開始された。で、その視聴率は朝ドラの「花子とアン」を除き軒並みパッとしない。もはや言うまでもないことだが、情報ソースの多様化、とりわけスマートフォンによるインターネット環境の遍在化によって、人々のメディア摂取パターンが多様化した結果、テレビはかつてのように「メディアの王様」的な立場を降りてこれら諸メディアの一つとなったために、視聴率が全般的にどんどん低下している(もっとも視聴率を測定する方法にも問題もあるのだが)。なので、ドラマの視聴率低下も致し方ないということになるのだが。

しかしながら、こういったテレビの「構造不況」的な側面だけでは、ドラマの視聴率の低下は説明し尽くせるものではないだろう。その傍証が昨年の「半沢直樹」で、ドラマはダメだダメだと言われながらも最終的に40%を超えるトンデモ視聴率をたたき出してしまったのだから。
今回は、新しく始まったドラマのカテゴリーに焦点を当て、現在のテレビドラマが抱えている視聴率低下の原因についてメディア論的に考えてみたい。

「刑事物とそれ以外」という二つのドラマカテゴリー

まあ最近の傾向なのだけれど、テレビドラマは「刑事・捜査もの」と「それ以外」というカテゴリーに大別することが出来る。4月以降の主要なドラマ21本(すでに視聴率が出ている番組)もご多分に漏れずこの二大カテゴリーに分けられる。以下、ズラっと並べてみよう。それぞれ1.タイトル、2.主人公の役どころ、3.主役、4.初回視聴率、さらに※は特記事項を記載した。


(刑事・捜査物)
  • ホワイトラボ:科研捜査官(北村一輝)、8.3%
  • ビターブラッド:銀座刑事(佐藤健、渡部篤郎)、%
  • チーム:管理官(小澤征悦)、9.1%
  • 刑事110キロ:捜査一課課長つき刑事(石塚英彦)、9.7%
  • MOZU:警視庁公安部(西島秀俊)、13.3 %
  • スモーキング・ガン:民間科捜研調査員(香取慎吾)、10.3%
  • トクボウ:警察庁生活安全局特殊防犯課(井原剛志)、5.8%
  • ロンググッドバイ:探偵(浅野忠信)、7.6%
  • マルホの女:保険犯罪調査員(名取裕子)、8.4%
  • BORDER:殺人犯罪捜査刑事(小栗旬)、9.7%
  • 極悪がんぼ:探偵(尾野真千子)、13.6%%

(それ以外)
  • なるようになるさ:レストラン経営(浅野温子・舘ひろし)※橋田壽賀子家族ドラマ+トレンディ俳優の共演、9.4%
  • サイレントプア:ソーシャルワーカー(深田恭子)、6.3%
  • 花咲舞が黙ってない:銀行員(杏)※池井戸潤作品、17.2%
  • ブラックプレジデント:会社社長(沢村一樹)、8.3%
  • 銀二貫:侍・商人(林遣都)※時代劇、7.6%
  • 最後から二番目の恋:TVプロデューサー・市役所観光課(小泉今日子・中井貴一)※トレンディドラマ俳優の共演、14.0%
  • ファーストクラス:ファッション雑誌編集部インターン(沢尻エリカ)※ドロドロトレンディドラマ、6.5%
  • アリスの棘:消化器外科新人医師(上野樹里)※病院もの、14.2%
  • 死神君:死神(大野智)※ファンタジー、11.2%
  • 弱くても勝てます:高校教師(二宮和也)※青春学園もの「あまちゃん」キャスト多数出演、13.4%

こうやってざっとカテゴリーをみてみると、やっぱり「なんだかな~」という感じがする。新味がないのだ。というか、全然工夫が感じられないのだ。「焼き直し」「使い回し」といった表現がピッタリだ。

まず、とにかく刑事物・捜査物が全体の半分を占めていることに驚く。で、よく見てみると、もしあなたがこのカテゴリーが好きだったら、ほぼ一週間ぶっ続けで見続けることが出来るようになっている。ちなみに、これに「サスペンス劇場物」(これも刑事物・捜査物)が加わるんだから、その日のうちにハシゴも可能なこともあるというわけだ。

しかしながら、刑事・捜査物が幅をきかすのは納得がいく。もはやテレビを視聴するコア層は50代以上(いや60代以上かも知れない)。この世代は「非インターネット世代」、いいかえれば「テレビ第一世代」とそれ以前の世代。つまり「メディアと言えばテレビ」という認識で人生を過ごしてきた層。そして、もはや高齢であるので新しいものに関心をあまり向けない。となると旧態依然とした「刑事・捜査物」がやっぱり落ち着くのだ。

そして、この層はテレビを見捨ててネットに走らず、ずっと死ぬまで付き合ってくれる「お得意様」。だから、刑事物をやっている限りは、ある程度の視聴率を稼ぐことが出来る。実際「それ以外」のカテゴリーに比べると視聴率にバラツキがない。ここにあげた視聴率は初回のものだが、おそらくこれ以降も大して上下することなく視聴率は続くのだろう。ちなみに帯ドラマの「花子とアン」も高視聴率を維持しているが、これも、こういったコア層をがっちり捕まえようとするベタな展開だ。

過去の遺産で食いつなぐ

ただし、こういった「刑事・捜査物」に依存するというのは、全くもって将来が暗いと言うことでもある。当然のことだが、時代とともにコア層はさらに高齢化し、先細りするからだ。だから、とりあえず急場しのぎ、その場しのぎでこういった作品を次から次へと打ち出してはいるが、これは最終的には自滅行為に至ってしまう恐れがある。やはり、新規顧客の創出、より明瞭に言えば下の世代を獲得する必要があるのだ。

ところが「刑事・捜査物」以外のカテゴリーもパッとしない。こちらも、実に過去の遺産での食いつなぎという感じがする。橋田壽賀子、池井戸潤作品、トレンディドラマの残党?的なキャスティング、あまちゃんキャスト大挙出演なんてのがその典型で、どこをみてもそこに新味が感じられない「パッチワーク」。これでは、後続世代はこれまで以上にメディアアクセスをインターネットに向けていくのではなかろうか。つまり、結局のところ僕が指摘したいのは、ドラマを制作する人間たちのイマジネーションの欠如なのだ。

「半沢直樹」と「あまちゃん」の新奇性

じゃ、どうすればいいのか?さしあたりそのやり方を示したのが「半沢直樹」と「あまちゃん」だった。

「半沢直樹」の戦略は、複数の世代の顧客を同時にマーケットの対象とする手法。半沢直樹のストーリーは実にベタな勧善懲悪、つまり「水戸黄門」と代わるところはない。そのわかりやすさで保守的な高齢者層をゲットすることが出来る。だがその一方で、たたみかけるような早い展開は若年層にも歓迎される。また、舞台が銀行と言うことで、今度は30~40代の中年層にも支持される。それが結果として40%を超える視聴率を結果したと言えるだろう。「半沢直樹」は投手で言うならマー君のような超本格派剛速球投手なのだ。

一方、逆に顧客層をバッサリと切り落とし、それに一部の層の熱狂的な支持を取り付けたのが「あまちゃん」だ。昨年前半「あまちゃん」は大ブームとなったが、視聴率に関する限り、そのあとの「ごちそうさん」や現在放送中の「花子とアン」と大差がない。だから「あのあまちゃん騒ぎはなんだったんだ?」と首をひねりたくならないでもない。ところが、そうではない。「あまちゃん」と後の二つは戦略が違う、言い換えれば顧客層が違っているのだ。つまり「ごちそうさん」「花子とアン」が「テレビ世代の高齢者」をガッチリ掴み、「あまちゃん」が「インターネット世代」を掴まえた。で、「あまちゃん」がやたらに騒がれたのはネット上。なぜか?40代以下のインターネット層が「あまちゃん」を支持し、普段馴染んでいるTwitterやfacebookにどんどんコメントを書き込み、これをメディアが取り上げたためだ。また「あまちゃん」が作品的に受けたのは、朝ドラとしてはあり得ない数々の新しい手法をそこにギッシリと詰め込んだから。いわば変化球、あるいは魔球?を投げていたということになる。詳細に関しては以前に説明しているのでそちらを参照願いたいが(「半沢直樹とあまちゃんが示す、テレビドラマのあり方~二つの共通部分は?http://blogos.com/article/71252/)、一つだけ繰り返しておけば、一回見ただけだけでは消費できないほど多くの情報を詰め込み、視聴者はそれを解明しようと一日何回もテレビで再放送を見たり、ビデオ録画で繰り返し視聴したりした。「あまちゃん」は、いわば「オタク」的、今日的なメディア摂取スタイルに適合した番組構成だったのだ。で、こんなややこしい番組は「刑事・捜査物」が大好きな高齢者にはわかりっこない。だから年寄りがそっぽを向いた。そして「あまちゃん」終了とともに、かつての朝ドラ視聴者が戻ってきたというわけだ。だから視聴率はどっこいどっこいだったというわけだ。

で、当然ながら、テレビドラマというカテゴリーを存続させるためにすべきことは「あまちゃん」的な形で世代を入れ替えをやることだろう。もっとも、前述したように「あまちゃん」終了後の朝ドラが安定した視聴率を取っているので、実は「あまちゃん」はあれだけの視聴率を取ったとしても「時期尚早な社会実験」だったのかもしれないけれど。とはいうものの、いずれにしても未来は「あまちゃん」の方にあるだろう。

要は創意工夫です!

なので、僕がテレビに訴えたいのは「もっと創意工夫しろ」ということ。バッティング投手、いや草野球投手レベルの棒ダマを投げていても、後続世代は面白いとは思わない。もっと剛速球、あるいはもっと変化球、いいかえればドキッとするような新奇性のあるものを提供すること。実はやっぱりこれが求められているんじゃないんだろうか。で、現在、それが出来なくなってしまっているのがドラマで、ところが視聴率の低迷をネットのせいにしているゆえに、自らの体たらくを振り返っていない。そんなふうに思えないこともない。ちなみに、今回は「刑事・捜査物」をやり玉に挙げたけれど、これが問題なのは「こぞってこのジャンルばっかりやる」ことにあるのであって、「刑事・捜査物」それ自体が悪いというわけでは決してないことをお断りしておく。前述したように創意工夫すればいい、ドラマの新しい側面をみせればよい、新しい世代を掘り起こせればよい、複数の世代をターゲットにできればよいのだから。90年代後半、サラリーマンとお笑いの要素を入れて刑事物に新たな風を吹き込み、多くの視聴者獲得を成功した「踊る大捜査線」のように。

ちなみに、個人的にはこういった剛速球や変化球?魔球?を投げている番組、実はテレ東のドラマに見て取ることが出来る。「三匹のおっさん」「孤独のグルメ」なんてのは、実にスリリングだ。で、これが低予算で出来ているって言うのが、何とも皮肉な話なんだが……。

やたらと注目される小保方氏

小保方晴子という存在はメディアにとってはきわめて関心の高い存在らしい。そしてBLOGOS上でも多くのブロガーが今回の論文問題について、というか小保方氏にまつわる出来事について記事を載せている。で、面白いのは、小保方氏がメディア上に実際に登場したのはトータルで三時間程度しかないということだ。つまりSTAP細胞についての記者会見+謝罪記者会見(しかも、そのほとんどはこの一部しか見ていない。たとえば後者の場合、全部見るためにはニコ動をチェックしなければならなかったからだ)。にもかかわらず、とにかく延々と氏のことについて様々な話題が振りまかれる。

で、笹井氏の登場で、そろそろこの話も落ち着きを見せようとしている。そこで、今回は小保方氏のメディア性について、言い換えればメディアはどういった小保方像を描いたかについて、メディア論的に整理して考えてみたい。小保方氏を巡るメディア、そしてブログの議論は、基本的に本人が実際にどうであったかを横に置きつつ、ひたすらその思惑=メディア性で展開されている。どうも、彼女はそういった意味では人々のイマジネーションをかき立てる限りなく魅力的な存在らしい。

小保方氏のメディア的三分類

小保方氏はメディア的には三つの側面から語られる。わかりやすいように、それぞれネーミングを施してみよう。


1.小保方博士:STAP細胞を作成する方法を世界で初めて示した人物(研究者ベース)

2.小保方研究員:論文のたしなみのない不用意な研究員(研究者ベース)

3.オボちゃん:割烹着を着て研究するムーミン好きのリケジョ(人格ベース)


で、メディアでの扱われ方、そして記者会見での記者の質問はこの三つがゴッチャになっている。ちなみに、この中で現在、証拠的に見て明らかなのは2だ。本人も謝罪しているわけなので。1と3については状況証拠というか、はっきり言って憶測の域を出ていない。

もっぱらオボちゃんを語り続けた週刊誌とバラエティ

たとえば「文春」や「新潮」などの雑誌での扱いは3を重視、つまり「不思議ちゃん」「虚言癖」「乱倫な女」といったうわさを立ち位置に「だからのし上がることが出来た」的な文脈へ移行し、「だから2の手続きはイイカゲン」、「だから研究はウソ=1である」というふうに話は展開していく。つまり3→2→1といった流れ。ちなみにこれはバラエティでの西川史子やテリー伊藤の論調も同じだ。ちなみに論文不正問題が出てくる前は、3での基本的なイメージはポジティブに「リケジョ」「庶民は」だった(この時は1から2を飛ばして3へという展開だった。ちなみにこれも研究からすればどうでもいいことなのだけれど)

報道は2=小保方研究員は×、ゆえに1=スタッフ細胞の作成はウソという展開

さすがにこういった「カストリ雑誌」(古い!)「芸能誌」「東スポ」的な扱いは報道番組であまり話されていなかったが、小保方氏に対し批判的なコメンテーターの論調も結局は同じ流れだった。異なっているのは3がなく2→1という展開。つまり「手続きが雑と言うことは、研究はウソ」という論調で、その状況証拠として研究ノートが二冊であるとか、200回以上成功しているなんてのはあり得ないといった項目が挙げられていた。ちなみに、こういう指摘をすべくコメントさせられていた科学者のみなさんが、きわめて非科学的に2→1図式で話をしていたのが、あるいはそういう風にメディア的に演出されてしまっていたのは、科学者としては自己矛盾していて「なんだかなぁ~」ではあった。

三つの小保方がゴチャゴチャに展開された記者会見

そして、この文脈が混在して行われていたのが謝罪会見だった。この記者会見の小保方氏側の目的は謝罪会見だから2に対するものであるはずなのだが、ここではその多くが3を前提としつつ3および2についての質問が展開されたのだ(その最たるものは「笹井氏との愛人関係にあった」的な質問だった)。ちなみに1についての質問は、まあ場違いと言うこともあるし、記者の側に知識や技術がないということもあってほとんどなかった。

で、オーディエンスとしては実は、下世話な話である3にいちばん関心がある。そこをハッキリさせたいといった野次馬的な感覚に基づき、2を利用しつつ3をこじ開けようといった展開になった。これが記者会見の本当のところではなかったのか?ただし小保方氏自身はこれをうまくすり抜けた。

メディアイベントによって、次第に大衆は記者会見に納得がいかない状況に

だが、その結果、メディアは「記者会見には納得がいかない」というイメージを一般に伝達していったのだ。そして、その「納得がいかない」は3についてなのだが「2と1」をハッキリさせないというツッコミへと転じていった。つまり「議論のすり替え」。ちなみに、記者会見で2は謝罪しているんだからハッキリしているし、1についてはこの記者会見で明らかにする予定はないのでハッキリするさせる必要もない。だが、こういった文脈ゆえ「謝罪していないで、パフォーマンスをしているだけ」「STAP細胞についての本当のところを一切言わなかった」というバッシングに転じたのである。

この時、興味深かったのがYahoo!が実施していたアンケートによる意識調査の結果で「会見に納得したか?」という質問項目について、当初、納得したと納得しないが35対45程度だったのが、メディアの報道が繰り返される中で「納得した」が減少し、「納得しない」が上昇していくという現象が発生したのだ。おそらく、これはメディアイベント的にマスメディアがこの会見を報道したために、こうなっていったのではないか?と僕は読んでいる。つまり「納得できない」と報道したから一般人は、だんだん納得できなくなっていった。でも、よくよく考えてみれば、この「納得がいかない」というイメージはメディアがマッチポンプ的に作り上げたものといえないだろうか。記者会見の中で質問項目を絞り明確な回答を得るといった技量を、質問する記者側が持ちあわせていなかったのだから。

われわれが建設的に追求べきなのは1と2、つまりSTAP細胞の存在と、科学倫理

この問題の本質は1と2の二つに集約されるだろう。最も重要なのが1=STAP細胞の存在で、次に2=科学者としての倫理・ルールにまつわる問題だ。で、1についてはまだ決着が付いていない。2については小保方氏自身は謝罪している。だから、本来なら今後メディアが議論すべきなのは1についてということになるのだ(これに2における不正を見抜けなかった、さらにはそれを許容したり荷担したりしていた理研の体質についての議論が加わる)。

そして、間違えていけないのは、やはりこの二つの混同だ。すなわち2が明らかに×であったとしても、それは必ずしも1も×と言うことにはならないのだ。1949年、考古学者・相沢忠洋は群馬県岩宿で槍先形石器を発見し、それまで否定されていた旧石器時代が日本にあったことを証明したのだけれど、発見時、相沢は学者ではなく、独学で考古学を学ぶ行商だったのだ。つまりアカデミズムのきちんとした手続きを得ていたかどうかはあやしかったのだ。しかし大発見をした。ということは小保方氏の場合も、科学的手続きがあやしかったしても、STAP細胞の作成には成功していたかもしれない。もちろん、していないかもしれないが、二つ(1と2)を直結するのは、実に「非科学的な手続き」。これはあくまで「科学的手続き」によって証明されるべき事柄だ。

しかし、ここに小保方氏の3、つまりオボちゃんとしてのメディア性が加わった瞬間、状況は一変してくる。小保方氏が「フツーの男性の科学者」であったらということをイメージしてみて欲しい。この場合、記者会見ではやはり2に(そして最終的には1に)問題の焦点がいくはずだ。ところがオボちゃん、けっこう「可愛かった」。しかも若いし、対応が科学者らしくない。で、メディアはタレント的な魅力をそこに見てしまった。だから割烹着やムーミンをことさらに取り上げたのだ(こんなことを書くと「あの人間のどこが可愛いの?」とツッコミを入れたくなる御仁もおられるかも知れないが、ここで「可愛い」と指摘するのは、僕の個人的好みに基づくのではなく、あの取り上げられ方がどうみても「可愛い」という前提に基づくものによるという判断に従ってそう表現している。これはスポーツ選手が美人だったり可愛かったりしたら実力以上に取り上げられるのと同じ。モーグルで里谷多英より上村愛子が、女子体操で鶴見虹子より田中理恵がもっぱら取り上げられたことを思い出して欲しい。マスメディアってのは、結構差別的で残酷なのだ)。

スキャンダルとして楽しむのは勝手だが、個人的には1や2の方に関心がある。だから、1と2の部分の問題の明白化が3によってかき消されてしまうのは、ちょっとねえ?という感じでもある。ジャーナリズムが今回の騒動の明確性を求めるのなら、これらをゴッチャにしないで別々に切り分けてさらに切り込んでいかない限りダメだろう。強いて言えば、重ね合わせるのはその後だ。ただし、やっぱり大衆的関心は、結局、この三つをゴッチャにしつつ「他人事」「ネタ」として楽しんでしまうところにあるんだろうけれど。

小保方さん、タレント性十分ですけど、いちおう科学者ですから、まずはそっちで扱ってもらいたい。はっきり言ってオボちゃんなんか、どーでもいいでしょ?……まあ、ダメかな?

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持参のダッフィーを撮影するゲスト。


テーマ性を喪失していく東京ディズニーリゾート(TDR)

東京ディズニーリゾート(TDR)が21世紀に入り大きな変容を見せている。

ディズニーランドを彩る重要なコンセプトは「テーマパーク」という考え方。これは環境を一定のテーマで統一し、われわれの暮らす生活環境とは異なる非日常空間を作り出す手法。このテーマ性は「設定」と「物語」から構成されている。たとえば東京ディズニーランドのトゥモウロウランドならば”未来”をテーマに「設定」し、アトラクション、レストランからトイレ、ゴミ箱に至るまでを統一してしまう。さらにここに未来にまつわる「物語」を配置させていく。

ところが近年TDRのテーマ性はどんどん破壊されている。テーマ性にふさわしくない施設が各ランド・シーに建設され、これらをつなぎ合わせる物語、そして物語間の関係性もどんどん希薄化しているのだ。かつて(80年代)、東京ディズニーランド(TDL)の驚異的な人気の盛り上がりに対して、としまえん(東京都練馬区)はこれに対抗すべく「史上最低の遊園地」というキャンペーンを展開したことがあった。これはテーマパークVS単なるごちゃまぜの遊園地というコントラストで自虐的に自らを売ろうとする、いかにも当時の西武・セゾン系がやりそうな戦略だったが、いまやテーマパーク権化のTDRがとしまえんと同じようなノン・テーマパーク化しつつある。

しかし、である。だったら、このわけのわからないTDR=テーマパークもどきにゲストたちが愛想を尽かしても良さそうなものだが、現実はその逆。2013年度TDRは3000万人超という過去最高の年間入場者数を達成したのである。

なぜだろう?僕はここに、もはや本家本元のアメリカとは袂を分かったジャパン・オリジナルのTDRの成熟を見る。もともとTDR(TDL)はアメリカ文化の疑似体験という裏テーマを持って83年に千葉県浦安市にオープンしたもの。だから当初は本場のコンセプトをそのまま踏襲していた。つまりディズニー=アメリカという図式。だが、もはやこの裏テーマはとっくに捨て去られ、クレオール化、つまり日本人向けに徹底的にカスタマイズしたTDRを構築しているのだ。それは「テーマなきテーマパーク」という新しい?ポストテーマパークとでも言うべき空間。今回はその側面について考えてみたい。

見事にバラバラなゲストたち

パーク内を歩いてみるとわかること。それはゲストたちが思い思いに様々な衣装?コスチューム?に身を纏っていることだ。プリンセスの衣装姿の子ども(女子)(白雪姫などの子供用コスチュームが売られている)。どっさりとダッフィを抱えてパーク内を闊歩するゲスト。レストランのテラス席のテーブルにダッフィーをずらっと並べているゲスト。体中にキャラクターのピンやアクセサリーを付けているゲスト。ミニーのコスチュームを自作している女性。和服姿だが周りにキャラクターがいっぱいの女性二人連れ。ダンサー追っかけ……とにかく、色んな身なりでパークにやってくる。

中でも、ここ数年見かけるとりわけ興味深いゲストのカテゴリーは通称「制服ディズニー」と呼ばれるスタイルだ。これは女性が高校の制服でパークにやってくるというもの。「えっ?修学旅行の生徒は制服でやってきているんだから昔からそんなのはあるんじゃないの?」と思われるかもしれないが、これ、実は「な~んちゃって女子高生」。高校はとっくに卒業した女性が、かつての制服に身を纏いパーク内を闊歩するのだ。だから、よく見ると「制服姿だけれど、どうも様子がおかしい」というゲストに遭遇する。しかも、結構な数だ(「ちょっと恥ずかしがり屋の人のためのコスプレイベント会場」みたいになっている)。

これらゲストに共通するのは、それぞれがそれぞれのスタイルで勝手にTDRにを利用しているということだ。そして、その多くがカップルや女性二人連れだ。本場ディズニーのような家族連ればっかりというのとはちょっと様子が異なっている。

また、そこから見て取れるのはディズニーに対する知識、いわばディズニー・リテラシーの高さだ。とにかく細かいところまでよく知っている。ただし、もはやディズニーの世界は膨大。その世界の中からゲストたちは自らの嗜好に応じて好きな物をチョイスし、好きなようにディズニーを意味づけていく。だから必然的にそれぞれの行動はバラバラになっていくのだ。僕の知人のアメリカ人曰く「日本人のディズニーへの熱狂は異常。ほとんど宗教に近い」。日本においてはもはやディズニー世界はアメリカ以上に定着しているのだ。

近くの「日常の延長としての非日常」

こうなった理由を推測するのは意外と簡単だ。いくつか考えられるだろう。だが、その最たる理由の一つは空間的規模の相違と僕は見ている。アメリカ人にとってディズニーは80年近くに渡る文化。日本も戦後から映画館で上映されてはいるが、本格的な定着は80年代からなので、その歴史は30年ほど。だから、時間的長さにおいては本場アメリカが圧倒する。ところが日本の場合、島国の小国ということもありディズニーランドは身近な存在なのだ。関東圏だけでその人口は5000万強。これだけの人々が「ちょっとディズニー」という感じでパークを訪れることができる。いわば「非日常という日常」という、語義的には矛盾した状態を環境として持つ。だから、この「非日常」にリピーターとして何度もやってくる。で、そうこうするうちに、パークを自分なりにカスタマイズした解釈で闊歩するようになった。一方アメリカの土地は広大。パークを訪れるのはおそらく人生において数回だろう(子供の時、そして大人になって子供を連れてくるときの二回くらいなのではないだろうか)。だから、アメリカ人はパークを任意にカスタマイズした形で解釈するなんて芸当は出来ない。

で、これにTDR側が対応すればどうなるか。当然、統一したテーマではなく、こういった多様な顧客=ゲストに対応した多様な展開、言い換えればゴチャゴチャな環境を用意する必要がある。それは必然的にパークの多様化を生み、それがテーマ性の崩壊に繋がったというわけだ。

だが、その崩壊は、こうやって個々の好みでディズニー世界をカスタマイズするディズニーオタクの日本人にとっては好都合だ。だから、これからもどんどんテーマ性は崩壊し、最後はとしまえんになっていくと僕は見ている。つまり、日本人の嗜好に合わせてTDRはジャパニーズな遊園地へと変貌していくのだ。ただし、ものすごく濃密な。

以前、このブログで僕はTDRがアキバ化、オタクランド化すると指摘しておいたが、今回、このうち前者の予想=指摘を撤回しようと思う。というのもアキバはある意味ディズニーほどには多様化していないからだ。言い換えればTDRはアキバの周りに第2のアキバ、第3のアキバ、第4のアキバが隣接し、広大なオタク的空間を構築している。そういったオタク・ワールドがさらに広がりパークは混沌としながら繁栄を続けていくのではなかろうか。

だから、かつてのようなテーマパーク(言い換えれば、設定と物語を徹底させるテーマパーク、アメリカのディズニーランド的なそれ)を期待する「オールドファン」、そして一般の入場者にとっては不気味な空間にどんどんなっていくんだろうけれど。

でも、これってとっても日本文化的な現象、あるいはアジア的な風景という感じがしないでもない。欧米のように計画された空間がキチッと踏襲されるのではなく、気がつくと環境がどんどんメタモルフォーゼしてしまい、過去を残さない。

そう、TDRは、やっぱり「ジャパン・オリジナル化」したのである。

差異化消費の終わりと大きな物語の消滅、そしてバックパッキング・バブルの終わり

バックパッキングは70年代=青春の終わり、80年代=差異化消費という物語を背景としつつバックパッキングをメディアイベントとして若者の間に普及させることを成功した。そして85年のプラザ合意によって円高が急激に進行すると、この物語(差異化消費)に乗っかるかたちで海外バックパッキングは大ブレイクする。バックパッキングは「電波少年」や「あいのり」といった番組を構成する重要な要素とすらなっていったのだ。90年代はまさに「バックパッキング・バブル」といってよい時代だった。

ただし、これがいわば「終わりの始まり」だった。「電波少年」の企画は、海外旅行がカジュアル化し、またカメラ機材もコンパクト化して、容易に取材が可能になったことで初めて成立するもの。しかも、ただの海外紹介ではなく、海外を舞台に別のテーマが設定されている。こういった海外ロケの「一ひねり」は、もはや海外をメディアが単に取り上げただけでは大して話題にもならないほど海外のイメージが相対化されたということでもあった。逆に言えば、それは、もはや海外に出たところで、それは必ずしも差異化に繋がらず、八十年代的な物語消費としては海外バックパッキングが機能しないことを意味していたのだ。

海外渡航者の増大は、海外に出かけるスタイルもまた多様化させた。パックツアー、スケルトンツアー、各種海外留学、海外研修、海外出張、ワーキングホリデー、買い物ツアー、リゾート、クルーズ、グルメツアー、親戚・友人宅訪問などなど多様を極め、向かう先も実に多様化した。つまり、もはや海外に出ることは「ナンデモアリ」の状態になった。そう、差異化のためのフロンティアは消滅してしまったのだ。

そして、こういった海外旅行の多様化と同時に、海外旅行そのものもまた様々な嗜好、趣味、レジャーの多様化の一つとして相対化・細分化されていく。こうなるとバックパッキングは七十年代の「青春を捨てる旅」、八十年代の「差異化消費の旅」といったような一元的な物語消費を維持することが出来ず、こういった膨大な範囲での多様化のなかで、結果としてあまたあるレジャーのジャンルの一つと位置づけられるようになったのだ。

若者の間でも嗜好は多様化しているので、大学生協の書籍部に『地球の歩き方』を平積みにしたところで、もはや煽られる学生も限られるようになった。そして、今やかつてのように若者は海外にさしたる憬れを抱くことはない。だから、現在海外旅行がコアなターゲットとしてねらいを定めているのが60代以上の、若い頃には海外に憬れを抱いていたが、行くことが出来なかった層。これら年代層は「海外ルサンチマン消費」を行っているのだ(エイチ・アイ・エスは、とりわけこの層の獲得に熱心で、近年では海外クルーズを積極的に売り出している)。

消滅したバックパッキング紀行本のリアリティ

また、かつてあれほど人気を博したバックパッキングを題材にした紀行本もすっかりリアリティを失っていった。旅の僻地を説明したところで何の意味がある?売春とドラッグ、海外の危険地帯みたいなセンセーショナルなネタもすっかり使い古されてしまった。一般的に紹介すべきところを失った一連の紀行本ライターたちは、さらに細部に立ち入り、トリビアな旅の情報を披露するというパターンをとったが、そんなマニアックな情報を欲しがる層はさらに少ないわけで、いわば”負のスパイラル”。いたずらに読者層を減らすだけだった。今や、こういった本にアクセスしようとする若者たちはほとんどいない(かろうじて文学作品としてフィクション的な要素を多く含みつつ著された『深夜特急』だけが、依然としてバイブル的な存在と位置づけられているのが、紀行本の中で示された事実よりも旅のロマンの方に需要がシフトしていることを示唆している。また下川裕治は2007年「外こもり」ということばを用いて著書『日本を降りる若者たち』を著し人気を博したが、これは紀行本と言うよりも若者論だった)。こういった紀行本を求めるのは、かつての物語に固執している40代以上ではなかろうか。2011年12月、バックパッキングの刊行雑誌『旅行人』が編集者の蔵前仁一自らが「その役目を終えた」とし休刊している。

実は本当のバックパッキングがはじまったのでは?

さて、じゃあ現在のバックパッキングの不人気、バックパッキング・バブルの終わりはどう見ればよいのか?僕が指摘したいのは、逆説的に、むしろこれこそが「バックパッキングのあり方」ということなのではないかということだ。つまり、これまでバックパッキングしていた層の多くはバックパッキングに付随していた「大きな物語」を消費していたのだ。言い換えればバックパッキングそれ自体を消費していたわけではない。そして、そういった層がブームの崩壊、物語の終わりとともに去って行った。その結果、残ったのは、実はかつてから存在した、そういった大きな物語に左右されず、自分なりの形でバックパッキングを嗜好する若者たち(あるいは大人)なのではなかろうか。僕は毎年バックパッカーの聖地と呼ばれるタイ・バンコクの安宿街・カオサン地区でフィールドワークを行い、インタビューを通して若者たちのバックパッキング意識をたずねているが、旅の目的はやはり多様化している。かつてのように通り一辺倒ではない。つまり、ワーキングホリデーの帰り、ちょっとネパールに行ってくる、長期にわたった旅、たった4日のなーんちゃって海外バックパッキング、スケルトンツアーでタイを訪れ、ついでにカオサンにやって来てバックパッカー気分に浸る、深夜特急に感銘を受けてやってきた、タイ語を覚えたい、私さがし、旅行者とのコミュニケーションを楽しみたい……まあ、とにかくいろいろある。彼らに物語がなくなったわけではない。ただ単に、個別化したのだ。つまり、冒頭に示したようにスタイルの多様化。そして自分なりの物語の消費。

ということは、バブル終わって実は正常に戻っただけなのではないか。まさに等身大で自分の旅をカスタマイズする。そして、おそらくこういった層はこれからも永続する。だから、もうバックパッキング・バブルはもう来ないけれど、バックパッキングは旅のスタイルの一つとして定着する……。

でも、これって実は、これこそがバックパッキングの本質、つまりオーセンティックなバックパッキングなんじゃないんだろうか。

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