匿名によるコメントは、なぜ時によってブロガーへの個人攻撃・誹謗中傷になるのだろうか。これは、実は現代社会におけるコミュニケーション様式の変容に由来するものと僕は考えている。今回の特集の最後に、これを考えてみたいと思う。最初に誤解のないようお断りしておく。ここから展開する内容は匿名の投稿の内、あくまで「ブロガーへの個人攻撃・誹謗中傷になっているもの」に限る。言い換えれば匿名投稿全般を指しているわけではない。つまり「匿名投稿はダメ」と主張しているわけではない(これ自体はコメントの自由度を確保可能という点で実名によるコメントとは異なるメディア性、そして社会的メリットがある)。
コミュニケーションの構造
一旦、ちょっと話を変える。以前にも本ブログで展開した内容だが、なぜワイドショーがテレビで放送され続けるのか?実は、これは人間のコミュニケーションにとって必要な要素を、このコンテンツが含んでいるからだ。
言語学者のA.マルチネはコミュニケーションがなされる場合、二つの目的が設定されることを指摘している。一つは相手に対する情報の伝達だ。いわゆる「用件を伝える」というのがこれに該当する。これをコミュニケーションの「伝達機能」と呼ぶ。もう一つは「用件を伝えるという儀礼的行為」によって達成される、コミュニケーションに関わる人間関係のメインテナンスとカタルシスの獲得だ。つまり伝達内容がネタとなり、それを対面的な場で相互に披露することで、互いの親密性を確保したり、相手に話をすることでスッキリしたりするというのが、それ。こちらは「表出機能」と呼ぶ。
で、コミュニケーションの大半は、実は後者の表出機能のために行われている。これは、われわれの日常会話のほとんどが、まあ意味のない「たわいのないもの」であることを振り返ってみればわかるだろう。つまり伝達しようとしてやっているのではなく「関わりたいから」「話したいから」やっている(言い換えれば伝達内容はどうでもいい)。そして、人間関係やメンタルヘルスのために、この「たわいのないもの」はきわめて重要な役割を果たしている。実際、「たわいのないものを交わす相手」こそ「仲のよい相手」となっている。
テレビ・ワイドショーの社会的機能
しかし、表出機能を作用させるためにはコミュニケーションを開く共通の地平が存在しなければならない。それがネタだ。だが、価値観多様化の中で嗜好が細分化され共有するネタを見つけにくい状況に。そういったとき、テレビによるワイドショー、そして報道は格好の共有ネタを提供するメディアとして機能する。視聴率が下がったといっても、やはりマスメディア。視聴する人間の数は個別のウェブサイトの比ではない(BLOGOSでの話題もテレビに端を発するものが多いことからも、このことは理解できるだろう)。テレビはネタとなる共通話題を提供する格好のメディアなのだ。
悪口がコミュニケーション活性化を促す
さて、ネタを介してわれわれがコミュニケーションを成立させる際、そのアウトプットとして求められている「親密性」と「カタルシス」を最もお手軽に獲得できる方法で、それゆえ頻繁に用いられているものが「うわさ」、もう少し限定してしまえば「悪口」だ。うわさ・悪口はコミュニケーションにおいて親密性とカタルシスのみならず、「優越性」も付与し、コミュニケーションをいっそう活性化させる。
悪口によるコミュニケーション活性化のメカニズムは次のようになっている。
知人AとBは、共通の知人Cをネタに会話をはじめる。この時、ネタになるのはCに対する話題だ。ただし、これが悪口・うわさとなればコミュニケーションの表出機能がより効果的に機能する。
先ず、互いがCに対するネタを語ることでカタルシスを感じることが出来る。人間はコミュニケーション動物。何かを話さないではいられない。しかも、話をする際には、それに対してリアクションしてくれるものが欲しい。言いたいことを自室で独白しても、まあ、むなしいだけだ。ところが、そこにこの発言に対してリアクションしてくれる存在(相手が、実際のところはその伝達内容を受け取っていなくても構わない。「話を聞いてくれる」という行為が儀礼的にでも成立していればそれで十分だ)がいるとカタルシス効果は圧倒的に高まる。
しかも、この時ネタが悪口であれば、さらに都合がよい。AとBがともにCをこき下ろすことで、それぞれはCに対する差異化が働くからだ。つまり2人は「自分はCよりもイケている」と考え優越性を抱くことが出来る。つまりネタを共有することによる「親密性」、語ることによる「カタルシス」に、この「優越性」が加わる。いや、それだけではない。さらにAもBも悪口によって優越性を獲得すると、今度は「Cよりもイケている『私たち』っていい感じ」「イケてる2人」という具合にメタレベルでの親密性もまた獲得できるのだ。本来、差異化=優越性を獲得するためには、何らかのかたちで比較する対象よりも自分が優れている必要がある。ところが、これは努力を要するわけで、なかなか大変。しかし、悪口はこれを容易に達成可能にする。なんのことはない。自分を上げるのではなく、他者を下げることによってこれが獲得できるからカンタンなのだ。だから悪口はやめられない。まさに「人の不幸は蜜の味」なのである。
ところが、これはプライバシーの侵害という弊害も生じる。相互にコミュニケーションを活性化させるためには不断にネタとなる共通の知人を探さねばならない。しかし自らが属している生活圏に共通の知人はそんなには存在しない。ということは今度は自分がコミュニケーションに関わっていない場合(たとえばAが関わらず、BとCによるコミュニケーションが行われる場合)、今度は自分の悪口(この場合Aの悪口)がそこに展開されることが必然的になってしまう。しかも、それは原則プライバシーに関わる内容。だから、これをやりつづけると互いのプライバシーがどんどん暴露されてしまう。
しかし、現代はプライバシーについてきわめて敏感だ。そんなことやられちゃ、たまらない。そこで、この悪口によるコミュニケーションをプライバシーの侵害なしに達成可能にする方法が現れた。それはCをマスメディア越しに登場する著名人に固定してしまうことだ。これでネタとしては使えるし、悪口を言われる側が固定される。ワイドショーや芸能週刊誌、そして一般の週刊誌が「マスゴミ」と揶揄されながら生き残っているのは、いわば、こういったわれわれのコミュニケーション活性化のための「必要悪」だからなのだ。
テレビにおけるネタ機能の衰退
ただし、最近ではこういったマスコミもまた必ずしもネタとしては機能しなくなっている部分がある。インターネットの普及で、さらに価値観そして情報アクセス先が多様化し、テレビであっても誰もが必ず見ているというわけではなくなり(視聴率は下がり続けている)、ネタとして機能しづらくなってきたからだ。また、ネタがない(厳密に表現すれば「ネタが細分化され、共通のネタにたどり着きづらくなった」)ので、生身の他者と対面で第三者(この場合、メディア越しの人間)の悪口を言い合う機会は、かつてと違って得づらくなっている。さらに知人の悪口をベラベラ喋れば、「この人、私の悪口も喋ってるのでは?」と、周囲から警戒されかねない。
とはいってもわれわれは何らかのかたちで表出、つまり共有意識、カタルシス実感、そして優越感というものを獲得したい。で、 そういったニーズの捌け口の手段の一つとして機能するのが、ブログマガジンやブログへの個人攻撃・誹謗中傷という行為なのだ。
でも、どうしてそうなるのか?(続く)