勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2014年03月

匿名によるコメントは、なぜ時によってブロガーへの個人攻撃・誹謗中傷になるのだろうか。これは、実は現代社会におけるコミュニケーション様式の変容に由来するものと僕は考えている。今回の特集の最後に、これを考えてみたいと思う。最初に誤解のないようお断りしておく。ここから展開する内容は匿名の投稿の内、あくまで「ブロガーへの個人攻撃・誹謗中傷になっているもの」に限る。言い換えれば匿名投稿全般を指しているわけではない。つまり「匿名投稿はダメ」と主張しているわけではない(これ自体はコメントの自由度を確保可能という点で実名によるコメントとは異なるメディア性、そして社会的メリットがある)。

コミュニケーションの構造

一旦、ちょっと話を変える。以前にも本ブログで展開した内容だが、なぜワイドショーがテレビで放送され続けるのか?実は、これは人間のコミュニケーションにとって必要な要素を、このコンテンツが含んでいるからだ。

言語学者のA.マルチネはコミュニケーションがなされる場合、二つの目的が設定されることを指摘している。一つは相手に対する情報の伝達だ。いわゆる「用件を伝える」というのがこれに該当する。これをコミュニケーションの「伝達機能」と呼ぶ。もう一つは「用件を伝えるという儀礼的行為」によって達成される、コミュニケーションに関わる人間関係のメインテナンスとカタルシスの獲得だ。つまり伝達内容がネタとなり、それを対面的な場で相互に披露することで、互いの親密性を確保したり、相手に話をすることでスッキリしたりするというのが、それ。こちらは「表出機能」と呼ぶ。

で、コミュニケーションの大半は、実は後者の表出機能のために行われている。これは、われわれの日常会話のほとんどが、まあ意味のない「たわいのないもの」であることを振り返ってみればわかるだろう。つまり伝達しようとしてやっているのではなく「関わりたいから」「話したいから」やっている(言い換えれば伝達内容はどうでもいい)。そして、人間関係やメンタルヘルスのために、この「たわいのないもの」はきわめて重要な役割を果たしている。実際、「たわいのないものを交わす相手」こそ「仲のよい相手」となっている。

テレビ・ワイドショーの社会的機能

しかし、表出機能を作用させるためにはコミュニケーションを開く共通の地平が存在しなければならない。それがネタだ。だが、価値観多様化の中で嗜好が細分化され共有するネタを見つけにくい状況に。そういったとき、テレビによるワイドショー、そして報道は格好の共有ネタを提供するメディアとして機能する。視聴率が下がったといっても、やはりマスメディア。視聴する人間の数は個別のウェブサイトの比ではない(BLOGOSでの話題もテレビに端を発するものが多いことからも、このことは理解できるだろう)。テレビはネタとなる共通話題を提供する格好のメディアなのだ。

悪口がコミュニケーション活性化を促す

さて、ネタを介してわれわれがコミュニケーションを成立させる際、そのアウトプットとして求められている「親密性」と「カタルシス」を最もお手軽に獲得できる方法で、それゆえ頻繁に用いられているものが「うわさ」、もう少し限定してしまえば「悪口」だ。うわさ・悪口はコミュニケーションにおいて親密性とカタルシスのみならず、「優越性」も付与し、コミュニケーションをいっそう活性化させる。

悪口によるコミュニケーション活性化のメカニズムは次のようになっている。

知人AとBは、共通の知人Cをネタに会話をはじめる。この時、ネタになるのはCに対する話題だ。ただし、これが悪口・うわさとなればコミュニケーションの表出機能がより効果的に機能する。

先ず、互いがCに対するネタを語ることでカタルシスを感じることが出来る。人間はコミュニケーション動物。何かを話さないではいられない。しかも、話をする際には、それに対してリアクションしてくれるものが欲しい。言いたいことを自室で独白しても、まあ、むなしいだけだ。ところが、そこにこの発言に対してリアクションしてくれる存在(相手が、実際のところはその伝達内容を受け取っていなくても構わない。「話を聞いてくれる」という行為が儀礼的にでも成立していればそれで十分だ)がいるとカタルシス効果は圧倒的に高まる。

しかも、この時ネタが悪口であれば、さらに都合がよい。AとBがともにCをこき下ろすことで、それぞれはCに対する差異化が働くからだ。つまり2人は「自分はCよりもイケている」と考え優越性を抱くことが出来る。つまりネタを共有することによる「親密性」、語ることによる「カタルシス」に、この「優越性」が加わる。いや、それだけではない。さらにAもBも悪口によって優越性を獲得すると、今度は「Cよりもイケている『私たち』っていい感じ」「イケてる2人」という具合にメタレベルでの親密性もまた獲得できるのだ。本来、差異化=優越性を獲得するためには、何らかのかたちで比較する対象よりも自分が優れている必要がある。ところが、これは努力を要するわけで、なかなか大変。しかし、悪口はこれを容易に達成可能にする。なんのことはない。自分を上げるのではなく、他者を下げることによってこれが獲得できるからカンタンなのだ。だから悪口はやめられない。まさに「人の不幸は蜜の味」なのである。

ところが、これはプライバシーの侵害という弊害も生じる。相互にコミュニケーションを活性化させるためには不断にネタとなる共通の知人を探さねばならない。しかし自らが属している生活圏に共通の知人はそんなには存在しない。ということは今度は自分がコミュニケーションに関わっていない場合(たとえばAが関わらず、BとCによるコミュニケーションが行われる場合)、今度は自分の悪口(この場合Aの悪口)がそこに展開されることが必然的になってしまう。しかも、それは原則プライバシーに関わる内容。だから、これをやりつづけると互いのプライバシーがどんどん暴露されてしまう。

しかし、現代はプライバシーについてきわめて敏感だ。そんなことやられちゃ、たまらない。そこで、この悪口によるコミュニケーションをプライバシーの侵害なしに達成可能にする方法が現れた。それはCをマスメディア越しに登場する著名人に固定してしまうことだ。これでネタとしては使えるし、悪口を言われる側が固定される。ワイドショーや芸能週刊誌、そして一般の週刊誌が「マスゴミ」と揶揄されながら生き残っているのは、いわば、こういったわれわれのコミュニケーション活性化のための「必要悪」だからなのだ。

テレビにおけるネタ機能の衰退

ただし、最近ではこういったマスコミもまた必ずしもネタとしては機能しなくなっている部分がある。インターネットの普及で、さらに価値観そして情報アクセス先が多様化し、テレビであっても誰もが必ず見ているというわけではなくなり(視聴率は下がり続けている)、ネタとして機能しづらくなってきたからだ。また、ネタがない(厳密に表現すれば「ネタが細分化され、共通のネタにたどり着きづらくなった」)ので、生身の他者と対面で第三者(この場合、メディア越しの人間)の悪口を言い合う機会は、かつてと違って得づらくなっている。さらに知人の悪口をベラベラ喋れば、「この人、私の悪口も喋ってるのでは?」と、周囲から警戒されかねない。

とはいってもわれわれは何らかのかたちで表出、つまり共有意識、カタルシス実感、そして優越感というものを獲得したい。で、 そういったニーズの捌け口の手段の一つとして機能するのが、ブログマガジンやブログへの個人攻撃・誹謗中傷という行為なのだ。

でも、どうしてそうなるのか?(続く)

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「匿名性」について考えている。匿名は「実名-匿名」(「名を名乗る」ー「名を隠す」)「有名-無名」(「存在が一定範囲で知られている」-「存在が知られていない」)というマトリックスで分類することが出来る。さらに、これに「著名-非名」(「存在が広く一般に知られている」ー「存在が知られていない」)という下位類型が加えられる(これは有名のサブカテゴリーと考えてもらっていい。実質的に無名と非名はほぼ同じ)。今回は第5回。番外編として「匿名性」の図式を利用して、BLOGOSのようなブログマガジンに対してなされる、匿名によるブログへのコメントの構造について考えてみたい(これは一般のブログ、つまり一日の閲覧者が二桁程度のものは該当しない)。

僕のブログも含めてBLOGOSに転載されるブログ(ブロガーはブロゴスへ直接投稿しているわけではなく、それぞれブログを任意のサーバーにアップし、これをBLOGOS編集部が転載している)へのコメントのうち、匿名によるものには辛辣なものがしばしば見られる。内容の枝葉末節を取り上げて一方的に持論を展開してみたり、文面をよく読むこともせずいきなり否定してみたりするなんてのはまだいい方で、よくあるのがブロガーに対する人格攻撃・誹謗中傷的なコメントだ。僕の場合だとプロフィールに大学教授としているので、これについて噛みついてくる。たとえば「あんたは大学なんていう”象牙の塔”にいるから、なんにもわかっちゃいない」みたいなモノの言い方だ。今回使用した概念をで説明すれば僕の属人性に基づいて僕を誹謗中傷する、言い換えればブログの内容とは全く関係のない側面から攻撃してくるのだけれど。

一方、同じコメントでも実名で書き込まれているものはこうはならない。その多くは、こちらの内容をよく吟味した上でコメントを返してくれる(もちろん、匿名であってもマトモなものもある)。

こういったコメントが生まれる構造はどうなっているのか。今回(前半)は、匿名性に関する構造からこれを考えてみよう。

ブロガーとコメント者は異なる象限に置かれている

例によって匿名性のマトリックスにあてはめつつ展開してみる。匿名でコメントする書き手は「匿名ヴァーチャル空間」(第3象限=匿名+無名+非名)に置かれた存在だ。匿名+無名という二重のバリアに守られて自由な発言が許容される。社会的通念や常識にとらわれることなく活発に議論を展開することが可能になるのだ。だが、これを履き違えたときに発生するのがブロガーに対する前述したような人格攻撃・誹謗中傷、難癖もどきのコメントとなる。これは、どれだけ書き手=ブロガーを叩こうが、自らが叩かれ返す、つまりしっぺ返しを受けることは原則あり得ない。ブロガーの方がコメントに対し反論したしても、無視すればそれで終わり。だから、思いっきり叩いてやれ!という感覚だろう。

一方、叩かれる側のブロガーは「現実世界空間的存在」(第一象限)つまり「実名+有名+著名」か「現実仮想空間的存在」(第二象限)つまり「匿名+有名+著名」の立場に置かれている(著名度はブロガーによって差がある)。いずれの象限に置かれていようとも、ブロガーには社会的責任性が大きくのしかかってくる。また、第一象限の場合は完全に面が割れているので、その責任性はさらに大きくなる。

ということは、ブログで議論を展開する際にも発言には要注意ということになる。個人に対する誹謗中傷、名誉毀損の恐れがあるもの、明らかな事実誤認、ウソを流すことといったことは避けられなければならない(ただし、これは論文や新聞記事というわけではなく、あくまでも「オピニオン」なので、あまりに厳密な規定を設けてしまうと、かえってブログの柔軟性が失われる。このように考えればブログというのは完全なジャーナリズムと言えるものではない特性を備えるとみなすべきだろう。そして、そこにブログの魅力があることも確かだろう)。

BLOGOSは実名と匿名の対決にしばしばなってしまう

BLOGOS上では必然的に完全実名(書き手=ブロガー)と完全匿名(匿名によるコメント者)という図式になる。コンテンツについて「責任性を帯びた存在」と「責任性を留保された存在」による議論の応酬になるわけだ。言うまでもないが、この図式では書き手は圧倒的に不利だ。責任性を負うがゆえに発言への慎重さが求められるからだ。一方、コメント者は、責任性を留保されているがゆえに自由に発言が出来る。そこで、前述したようなブロガーへの誹謗中傷、個人攻撃的な発言がしばしばなされることになる(ただし、閲覧者のほとんどはROM=リードオンリーメンバーであり、こういったコメントをする者はごく一部と考えるのが健全だろう)。で、その際、両者の間に発生する構造はJ.ベンサムのいう「パノプティコン」そのもの。コメント者が監視人、ブロガーが囚人となる。つまりコメント者からはブロガーが見えるが、ブロガーからはコメント者が見えない。だから、気の弱いブロガーだったらブログマガジンに自分のブログが転載されるなんて恐ろしくて出来ないだろう。原則、殴られっぱなしになること、しかもいつやられるかわからないことを受け入れなければならないのだから。


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ペンサムのパノプティコン。周辺に配置されているのが独房。真ん中に監視小屋が有り、監視小屋からは全ての独房が見えるが、独房から監視小屋の監視者は見えない。

ブロガーに求められる対コメント・リテラシー

ブログマガジンが、BLOGOSが謳うように「意見をつなぐ。日本が変わる」という社会的機能を担うとするのであれば、こういった匿名者によるコメントはけしからんので、いっそのこと匿名によるコメントは許可しないようにすればよい。まあ、こんなふうに考えたくもなるが、それじゃあ匿名による自由度の圧殺になってしまい、匿名が備える議論の柔軟性に欠けてしまうのも事実。

そこで、僕はブログマガジンに転載されるブロガーの側にも「対コメント・リテラシー」を涵養すべきではないかと考えている。ちなみに、このリテラシー、一言で表現してしまえば赤瀬川源平が言うところの「鈍感力」となる。

先ず匿名での個人攻撃・誹謗中傷について。はっきり言ってこんなものは無視すればよいと思う。たとえば、今回の例で示した、僕の属人性に向けた攻撃「あんたは大学なんていう”象牙の塔”にいるから、なんにもわかっちゃいない」みたいなモノの言い方の場合、要するにこちらの人格には関係なく、たまたま職業が「大学教員」であったことから、それに対するステレオタイプに基づいてこちらを攻撃してくるわけで、いわば「難癖」。こういった的が外れているものにいちいち対応する必要などないだろう。ということで、ちょっと「イラっとする」くらいのことはあるかも知れないが、まあ鈍感力を持ってスルーする(笑)。匿名でのコメントのある程度は、こういったものが必ず含まれていることを前提とみなしてしまえばいいのである。

ただし、個人攻撃の中でも単なる人格攻撃を域を超え、差別的だったり、あまりに度を過ぎたようなコメントは「誹謗中傷」としてサイト運営者に通報するというかたちで処理をする。以前「おまえは○○人(人種名が入る)だから、そんなことを言うんだ」といったコメントが書き込まれたことがあった。僕自身は日本人で、○○人ではないが(まあ○○人でも一向に構わないけれど)、これは○○人をあからさまに差別する内容なので通報させていただいた。

一方、匿名であってもブログをよく読み、議論を投げかけてくれるようなコメント者には真摯に対応する。なんといっても「意見をつなぐ。日本が変わる」という方針にこれは適っているので。そうやって議論が深まっていけば、BLOGOS自体の社会的貢献度も高まるはずだ。

なお、実名でコメントしてくる場合は、当然「実名と実名の関わり」ゆえ、両者が社会的責任を担保にしつつ議論を応酬することになるわけで、これはいわゆる「公論の場」として成立することになる。コメントに対してこちらもコメントで返すといったことは有意義なことであると考えている。

匿名コメント者に求められるコメント・リテラシー

そして、こういったブログマガジンへのコメント書き込みをする者にも、当然ながら、いわば「コメント・リテラシー」が求められる。単なる誹謗中傷的な発言をすることが、Twitterにおける「バカ発見器に引っかかる」行為と構造的には同じ、つまり、メディア特性を理解せずに行っている「お恥ずかしい」行為であるということが認識され、ある程度控えられるという状況が生まれることが、まあ健全な方向だろう(実際にそうなるかどうかはわからないが)

しかし、なぜ、こういったブロガーを中傷したり、揚げ足取りをするようなコメントをしてしまう心性が生まれるのだろうか。実は、これは現代社会における情報化の必然的結果と僕は考えている。では、それは何か?(続く)

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「匿名性」について考えている。匿名は「実名-匿名」(「名を名乗る」ー「名を隠す」)「有名-無名」(「存在が一定範囲で知られている」-「存在が知られていない」)というマトリックスで分類することが出来る。さらに、これに「著名-非名」(「存在が広く一般に知られている」ー「存在が知られていない」)という下位類型が加えられる(これは有名のサブカテゴリーと考えてもらっていい。実質的に無名と非名はほぼ同じ)。今回は第4回。「匿名性」の図式を利用してTwitterについて考えてみたい。ちなみに、このSNS、結構ややこしい。

Twitterと匿名ヴァーチャル空間的存在~属人性を利用して自由度を最大化

Twitterは140字以内で原則、不特定の他者に対して情報を発信するという、機能的にはシンプルなSNSだ。だが「匿名性」を巡って、利用のされ方は意外と複雑だ。その利用方法が必ずしも一つの象限に限定されていない。しかも、それらが絡み合っているからだ。それが結果として「ゆるいつながり」とか「わかりづらい」と言われる理由になっている。

まず、Twitterの典型的な使われ方とされているのは、第三象限(匿名+無名+非名)だ。ここでユーザーは「匿名ヴァーチャル空間的存在」になる。そしてこの象限での典型的な利用法とされているのは、Twitter論の先導者である津田大介が指摘する「属人性」に基づくものだ。

とはいうものの、この「属人性」ということば、ものすごくわかりづらい(津田の『Twitter社会論』(洋泉社 2009)での説明も、おそらくほとんどの読者は理解できなかったのではないか)。おそらく、これは法律の「属人主義」からとったものだろう。これは「法的な解決に当たって対象となっている行為を行なった者の国籍や住所など,人を基準にして決定を行う立場」。たとえば、アメリカ人がわが国で犯罪を犯した際には、日本の法律ではなくアメリカの法律に基づいて裁かれるといった場合がこれに該当する。ちなみにその反対は「属地主義」だ。だけれど、やっぱりこれでもわかりづらい。そこでざっくりと「超訳」的に説明すると次のようになる。

たとえば、あなたがスペインのワインについて知りたいと考え、その専門家に問い合わせるとする。その時、あなたが関心を持っているのは「スペインワイン専門家」、つまり「その人それ自体=人格」(これは「属人性」に対する「属地性」に該当する)ではなく、その人が持っている「スペインワインについての専門的知識」、つまり「その『人』に『属』する知識」ということになる(だから「属」「人」性)。この場合、その知識(この場合スペインについての専門知識)を持っている人間=専門家であれば、誰でも構わない。これを属人性と考えるとわかりやすいと思う。

Twitterは、この属人性が極めて高いSNSだ。ユーザーは思い思いにツイートする。それは、まさに「つぶやき」「ひとりごと」ではあるけれど、その人の知識の世界に関する内容がしばしばつぶやかれる。そして、そのツイートは不特定多数に発信される。一方、受信する側は、自分の興味関心に基づいて任意に検索をおこなう。つまり、先ほどのスペインワインならば、検索窓にこれを打ち込むと、ユーザーたちのスペインワインに関するツイートが次々と現れる。この時、検索をかける側は原則、ツイートした人間それ自体(≒属地)に関心はない。そこから導き出された情報=データ(つまり「スペインワイン」)にもっぱら関心がいくのだ。

こういったかたち、つまり誰が書き込んだのかが考慮されないで読まれるという前提によって、書き込む側にはツイートする内容にかなりの自由度が与えられる。facebookのニュースフィードに書き込みづらいコメントはTwitterでつぶやくといった使い分けがしばしばなされるのは、こういった匿名性(この場合、ツイートする本人は匿名かつ無名な存在)に基づいている。で、相互に情報だけが交換されて、その人物については考慮されないがゆえに「ゆるいつながり」と呼ばれるのだ。で、Twitter論者たちはこういった使い方を専ら言及し、推奨している。

匿名ヴァーチャル空間的存在(第三象限)から現実模倣的存在(第二象限)へ

ところが、話はそんなに簡単ではない。こういった使い方だけで終わらないのがTwitterの難しいところなのだ(だから「わかりづらい」のだけれど)。

たとえば属人性に基づいてツイートを続け、それがある分野に特化された形になってくるとフォロワーたちがツイートを継続的にブラウズするようになる。いわば「お得意さん/リピーター」となってメルマガ的な要素をツイートが備えていく。こうなると、ブラウズする側はツイート側の「情報それ自体」すなわち属人性よりも、「ツイートする人間」すなわち属地性へとその関心が移行する。「その情報を知りたいから」から「その人が情報を発信しているから」にアクセスする動機がシフトするのだ。するとフォローされている側は次第に有名性を高めていき、その存在が第二象限、つまり「現実模倣的存在」へと変化していく。それは言い換えれば発言へ責任性の発生であり、ツイートする側は第三象限の時のような発言の自由度を喪失する。失言をしようものなら炎上、素性を暴かれて丸裸、社会的権威を失墜するなんてことにもなりかねない。こうなるとツイートする側は第一象限同様、発言に慎重性を要請されることになり、ツイートしづらい状況に。で、しばしば、その利用をやめるということに。

学生による第二象限的な用い方

また、学生たちの多くがTwitterを「匿名ヴァーチャル空間」(第三象限)ではなく「現実模倣空間」(第二象限)として利用している。LINE/mixiの匿名性について展開した前回(第3回)で説明したが、学生たちはこれらのSNSを匿名でありながら、実際には実名を知っている有名な存在と互いを認識しながらコミュニケーションを行っている。そして、このパターンをTwitterでも踏襲するのだ。

彼らの相互フォロー数は100人未満。フォローする相手の実名はほぼ知っている、というかリアルな日常世界で常に関わっている相手。この相手とヴァーチャルで関わるツールとしてTwitterを使用している。

ただし、これはかなりヤバい使い方でもある。学生たちがTwitterを第二象限として利用することは、その性質上、コミュニケーションが仲間内のプライベートなものとなることを意味する。ところがTwitterは第二象限と同様、匿名性を旨としてはいるものの、属人性の部分についてはオープンだ。ところが第二象限は属地性、つまり互いの人格に基づいてコミュニケーションする空間なので、本来ならばクローズドでなければならない。これを第三象限のオープンなTwitter上で展開すれば属人性ではなく属地性、つまりプライベートな部分が世界中に垂れ流しという事態を生んでしまう。Twitterが「バカッター」「バカ発見器」と揶揄されるのは、こういった若年層の「匿名性の誤用」に起因している。つまり実質実名付きの匿名性を勘違いして無名匿名空間に晒してしまう。だから、仲間内でやるようなおバカな行為がTwitter上に流され、それがメディアを賑わすような事件に至るというわけだ。

セレブ=実名著名人はTwitterにおいても現実空間的存在(第一象限)

Twitterは、わが国で勃興時、タレントや政治家・知識人などメディアに露出する著名人たち(以下、セレブ)がツイートし、場合によっては一般人がこれらセレブにリツイートされたりすることがウリといった宣伝のされ方をしたことがあった。だが、これはあくまでTwitterを普及するための「釣り」「煽り」であり、実際の使われ方とはかなり異なっている。

セレブたちはTwitter上においても原則、現実空間的存在(第一象限)として扱われる。実名が晒されているし、Twitter上でもその名で登録しているので、あたりまえといえばあたりまえだが、言い換えれば、それは一般のユーザーたちと異なり、Twitter上でも様々な自由の足枷が科せられているということでもある。たとえば匿名ヴァーチャル空間(第三象限)的な発言は絶対に不可能(もちろん別のアカウントと匿名を持ち、全く異なる存在としてツイートしている分には別だが)。ヘタにやったらそれこそバッシングの嵐、大炎上といったことになりかねない。これはよく政治家たちがやらかすことで、いわば担保が付いている分だけ、一般人なら自由なツイートのはずのものがバッシングの対象となる。

もちろん、だったらやらない方がよい、というわけではない。Twitterは誰とでもコミュニケーションが可能。ということは、普段はアクセスが難しいセレブであっても何らかの関わりが可能になると思わせることができるし、広報手段として利用する場合も効果的だからだ。つまり「いつでもあなたに何らかのかたちで反応しますよ」「私の日常をリアルタイムで追うことが出来ます」というわけだ。ただし、これを真に受けてはいけない。セレブ側はあくまで広報としてこれをやっているわけで、やっぱり肝心の情報を提供することはない。もし、仮にそんなことをやっているとしてら、それはあまりに不用心であり、前述したように一般人から何らかの攻撃を受けかねない。

混在する利用方法

こうやって考えてみるとTwitterは原則「匿名ヴァーチャル空間」(第三象限)であったとしてもしばしば「擬似現実空間」(第二象限)へと転じる可能性を秘めていること、場合によっては実名やプライバシーが垂れ流しになる可能性があること、さらにセレブにとっては「現実空間」(第一象限)でしかないこと、そしてそれらが混在する形で利用されていることを確認した。それゆえ、Twitter利用に際しては、現在自分が匿名性のどの部分で関わっているのかを常に注意を払う「Twitterリテラシー」が必要となる。そしてその分類が結構ややこしい。だから「わかりづらい」のである。

さて、次回は最終回。SNSを離れて匿名性を考えてみたい。トピックを当てるのは「BLOGOS記事への匿名コメント」だ。その構造について、やはり「匿名性のマトリックス」を用いて展開する。(続く)

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「匿名性」について考えている。匿名は「実名-匿名」(「名を名乗る」ー「名を隠す」)「有名-無名」(「存在が一定範囲で知られている」-「存在が知られていない」というマトリックスで分類することが出来る。さらに、これに「著名-非名」(「存在が広く一般に知られている」ー「存在が知られていない」)という下位類型が加えられる(これは有名のサブカテゴリーと考えてもらっていい。実質的に無名と非名はほぼ同じ)。今回は第3回。「匿名性」の図式を利用して第二象限(匿名+有名)のSNSであるLINE/mixiについて考えてみたい。

LINE/mixiと 現実模倣空間的存在

匿名+有名+非名の第二象限の典型的なSNSはLINEとmixi(ここではmixiはほぼ「オワコン」なのでLINEを中心に扱う)。この二つは様々な機能があるが、実質的にはほとんどグループ内のメッセンジャー的な使われ方しかしていない(僕が教える学生400名ほどにアンケート調査をした結果、たとえばLINEだったらほとんどトークだけ。通話機能すら接続がイマイチということもあってあまり使われていなかった。ちなみにLINEの利用率はスマホとガラケーを足して99%)。たとえハンドルネームで匿名であったとしても、互いの存在、そして実名も現実世界が担保になっているためよく認知されている。ただし、グループで括られているため、その密室性は高まる。利用に際しては、仲間内の「ひそひそ話的・ここだけの話」的な文脈が登場するのだ。

プライベートな関係による互いの自由度の確保と拘束

それゆえ、第一象限(facebookが該当)の現実世界空間的存在によるコミュニケーションよりも別の意味で拘束性が発生する。第一象限は礼儀・倫理・慣習・道徳といった世間一般的な作法が関わる者同士を拘束するが、こちらの場合は仲間内の、ややもするとウェットな関わり合いが相互を拘束する。つまりプライベートに構築された関係性は、グループ外部による自由の拘束からは逃れられるものの、内部では相互の自由を拘束する。

それゆえ、この象限はまだ社会性が低く、人間関係が未熟で、狭い人間関係を維持することに執着する若年層に重宝がられる。トークのグループ機能で仲間を括れば、その中はクローズな関係が維持できるからだ。しかも、この範囲で発言している分には、それがメンバー外の人間に知られることはないので、発言に対して社会的責任は生じず、自由に振る舞える。

ただし、前述したように相互に強く関係性を拘束する。そして、これは自分たちだけの間に形成された関係性、マナー、黙契ゆえ、拘束性は第一象限のFacebookよりも強い。たとえば、これらをグループ内で守ることの出来ないメンバー=友だちは、グループ内の結束を見出すものとして除外されるといった現象を生じる。そして、それが結果として現実世界でのイジメに接続するような可能性を高めていく(その一方で、このイジメは、いじめる側のメンバーについては連帯を高め、グループの閉鎖性を高めていく)。それゆえ「mixi疲れ」という言葉に象徴的に現れるように、しばしば人間関係の疲れを起こしてしまう。また、これは社会圏を非常に狭く限定する恐れも有している。そうなると、今度は実際の社会に出ないでやりすごすためのモラトリアム・ツールとしてライン/mixiが機能してしまうこともしばしば発生する。

大人が使えばプライベート活性化ツール

とはいうものの、これは大人の感覚=認識で使えばプライバシーを防衛しながら、プライベートを楽しむための格好のSNSとも言える。恋人同士がラインを通じて常に接続し続けることが出来るわけで(スマホはウェアラブルなので、こういった密着環境がいっそう容易に構築可能だ)、「あなたと私のラブラブモード」のメインテナンス、活性化ツールとしては抜群の機能を発揮するのだ。また、これはたとえば家族間で親子が連絡を取り合うためのツールとしてもうまく機能する。今や子どもの方もスマホ持ち。そしてこれを使った友達とのコミュニケーション手段もそのほとんどがLINEだ。ということは、親が子どもを管理しようとするならば、LINEはきわめて便利なものになる。LINEはもはや子どもたちのコミュニケーションのためのプラットフォームとして機能している状態なので、そのプラットフォームに親が乗り入れることが可能(もちろんリアルな友だちと形成するグループとかは別立てのグループやトークだが)。そうすると、親は子どもがいつ、どこで、何をやっているのかを常時把握できるのだ。

そう、この象限のSNSは、ある意味、実名の第一象限よりプライベート性が全然高いのである。

次回はTwitterの匿名性について。(続く)

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「匿名性」について考えている。匿名は「実名-匿名」(「名を名乗る」ー「名を隠す」)「有名-無名」(「存在が一定範囲で知られている」-「存在が知られていない」というマトリックスで分類することが出来る。さらに、これに「著名-非名」(「存在が広く一般に知られている」ー「存在が知られていない」)という下位類型が加えられる(これは有名のサブカテゴリーと考えてもらっていい。実質的に無名と非名はほぼ同じ)今回はこの「匿名性」の図式を利用してメジャーなSNSのうちFacebookについて考えてみたい(ちなみに、ここで「匿名性」とは、こういった「匿名-実名」「有名-無名」「著名-非名」といった概念を包括する上位概念として用いていることをお断りしておく)。

facebookと現実世界空間的存在

facebookは実名制を担保にしたSNSであり、その中でユーザーは典型的な1=現実世界空間的存在(実名+有名+非名)となる、匿名とは対極にある存在。それゆえ必然的にfacebook上では現実世界におけるマナーがそのまま持ち込まれる。

現実空間持ち込みの窮屈さ
ただし、この「現実世界の持ち込み」は諸刃の剣でもある。現実世界的な責任性が持ち込まれるゆえ、そのレベルでは相互に信頼を寄せており、安全なコミュニケーション関係を維持することが出来るが、反面、というか当然のことながら現実社会の責任性が担保となるため、現実世界が規定する自由の拘束度もそのまま持ち込まれるからだ。だから、発言が「無責任である」とか「マナーに欠ける」といった面については敏感にならねばならない。

facebookにおける空間認識の誤用とトラブル

ところが、この特性、いいかえれば「facebookリテラシー」が涵養されていない場合には不適切な用い方がなされ、それがしばしばコミュニケーション上でトラブルを起こす。たとえば、facebook上にプライベートを公開する際には、その範囲に対して注意深さが必要だ。にもかかわらず、これはしばしば見受けられるのだが、周囲が見たくもないような情報を公開してしまうということがおこりうる。そのうち、最も頻繁に見られるものの典型として「自分の子どもの日常に関する写真の公開」をあげることが出来るだろう。まあ、愛する自分の子どもの成長ぶり、かわいらしさを公開したいというのは「親バカ感覚」ゆえわからないでもないが、それをそのまま受け取ってくれるのはごく一部の人間、つまり身内や親密な相手レベルに限られる。それ以外の人間にとっては、それはただの「うざったい情報」でしかない。これをやる場合は、そのことを理解してくれる人間をグループ機能にまとめて、そちらに公開するか、第二象限=2現実模倣空間的存在となることができるLINEやmixiを使うのが正しいということになる(つまりSNSの場を変えて、明確に「身内ネタ」に落とす)。これはよく考えてみればあたりまえで、現実世界では、こういったことはあまりやられていないし、やれば迷惑がられるのがオチだ。つまり現実世界の「公私の区別」はfacebook上でも意されなければならない。

ところが、これがSNSというヴァーチャルな空間ゆえ、facebookが現実空間と変わらないものであることが認識しづらい。そして、こういったfacebookの「誤用」が、結果としてfacebookそれ自体をうざったいものとみなし、それが結果として「facebook離れ」やfacebookに関する嫌悪感を生んでいることも事実だろう。またfacebookのこういったメディア特性にふさわしい利用の仕方を認識できなかったユーザーは「あれはただの同窓会名簿だ」と一蹴してfacebookから離れていく。

現実空間をヴァーチャルに持ち込むことで現実空間を活性化

言い換えれば、facebookは実名制かつ有名であること、そして非名であることを有効に活用することで初めてその機能が十全に活用できるようになるSNSなのだ。前述した「同窓会的利用」の有効的な活用もその一つ。別に不仲になったわけでもないが、生活空間が異なるようになったため、あまり関わりがなくなったような相手とfacebookを通じて関係を復活させるという「グローバルヴィレッジ(マクルーハン)」的な使い方をする際に、facebookは大きな威力を発するのだ。また、グループで括り、それを限定されたメンバーの連絡網として仕事などに利用する(グループ内はクローズドになる)と、その利便性はいっそう高まる。つまりニュースフィードで「友達」たちの近況をチェックしつつ、その一方でグループで日常的に連絡を取り合うことで、facebookはコミュニケーション・プラットホーム的な機能を有するようになり、この二つの機能がプッシュ機能として働いて、きわめて社交的空間を作り上げていくのである。

要するにfacebookは、実名+有名+非名の現実世界を、あくまでヴァーチャルにあげたものにすぎないので、現実世界の人間関係やルール・マナーがそのまま適用されるのだ。だから基本的にコミュニケーション能力の高い人間にとってはヴァーチャルな世界を用いてリアルを活性化することになるので至って便利なSNSということになる。

次回はmixi/LINE、Twitterと匿名性について展開する(続く)

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