勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2014年02月

視聴率19.7%は「怖いもの見たさ?」

ソチオリンピック。金メダルが期待された女子フィギアスケートの浅田真央選手は、結局、六位入賞という、メダルにさえ届かない残念な結果となった。ショートプログラムで失敗。16位と出遅れたことが大きく響き、フリーでは自己最高を記録したものの、時すでに遅しだった。ショートプログラムの時点で日本人の落胆は大きく、森喜朗元首相にいたっては「大事なときには必ず転ぶ」と「お得意」の失言まで飛び出す状態(ただし、これはメディアによる森元首相の発言に対する恣意的な解釈の可能性が高い)。これはまさに「国民的落胆」に他ならなかった。

もはや、フリープログラムをみたところで悲惨な気持ちにさせられるだけと、われわれ日本国民は思うはず。実際、前日、僕の仲間内でもこのフリーのことが話題になったけれど「いや~、見たくないなぁ」といったリアクションが多かった。 ところが、深夜2時近くというのに、ものすごい数の人間が、このフリーの生中継に見入ったのだ。 つらいということがわかっていても、こんなに多くが見たのは「怖いもの見たさ」だったのか、それとも日本人は「ドM」なのか?

「真央ちゃん」という「愛娘」

もちろんそうでもあるだろうけれど、結局のところ僕ら日本人が見たかったのは、オリンピックでもフィギュアスケートという競技でもなく、浅田真央という人間、より的確に表現すれば「真央ちゃん」という記号的・メディア的存在だったのだ。

僕らは十年近く浅田真央の活躍を目にしてきた。10代前半での大活躍、それは実に鮮烈だった。浅田は華奢な身体で何物にも臆することなく舞い、跳び続けた。それは、さながら降りはじめた雪に大喜びして夢中になっている子どもとでもいったらいいような天真爛漫さだった。僕らは、この「天真爛漫」かつ「実に素直」な浅田に釘付けになった。そして僕らは自由に遊び、喜び続けている浅田の中に、女子フィギュア選手でも、アスリートでも、勝負師でもないものを見いだしてしまう……それは「愛娘」という感覚。つまり彼女が自分の愛おしい子どものように見えてしまったのだ。親は子どもを猫かわいがりするのは世の常。ところが浅田は日本人全体が親になってしまった。そして、最近では彼女をアスリート=浅田真央選手としてみることを放棄し、演技の内容など、もはや二の次になっていったのだ。だから彼女は23歳になっても、いまだに「真央ちゃん」と呼ばれ続けるていのである(これは浅田より4歳も若い村上佳菜子が「佳菜子ちゃん」とか「佳菜ちゃん」とは呼ばれないことを踏まえればよくわかる)。

「天真爛漫」から「艱難辛苦を乗り越える」へ、変貌するイメージ

ところが、浅田は成長とともに成人女性の体格となり、かつての身軽さで自由に舞うことが出来なくなっていった。いとも容易にトリプルアクセルを決めてみせるというわけにはいかなくなったのだ。そこで、今度は体力をつけ、技術的な修練に励み、日本国民の期待=天真爛漫に舞う真央ちゃん、に応えようとした。だが、それは「天真爛漫」から「艱難辛苦の乗り越え」「責務を果たす」といったイメージを作り出す。宿敵キムヨナの存在(嫌韓とそのしたたかな演技から、日本では「素直ではない」、つまり悪役とみなされ、浅田=善玉とのコントラストを構成している。もっとも韓国では彼女は「国民的妹」として位置づけられ、逆に浅田が悪役になっているらしいが)は、そのイメージをいっそう上塗りするものとなった(母親の死という不幸も相乗効果となった)。

しかし、日本国民にとっては浅田はあくまで愛娘=真央ちゃん。こうなると「天真爛漫」な浅田=真央ちゃんに萌えていた僕たち日本人は、今度は「艱難辛苦を乗り越える」浅田=真央ちゃんに萌えるようになる。これはバンクーバーオリンピックあたりからだろう(ケチのつきはじめは、金メダル決定的だったトリノに、出場資格としては87日の年齢不足で出られなかったところあたりからか?)。つまり、今度は彼女の演技をハラハラしながら見るようになるのだ。「失敗しないでね」「がんばってね」「めげたらダメだよ」「素敵な真央ちゃんでいて!」。そう、この四年間というもの、今度は僕たちは浅田の過保護な親として、ほとんどドM的に彼女の演技を食い入るように見つめるようになったのだ(しかし、この日本人の浅田への視線=愛情が、おそらく彼女の大きなプレッシャーになったことも否めないだろう。だから、自分に対してのドMは、うらはらで、浅田に対してはドS的な行為として潜在的に機能しているだけれど)。

そしてソチオリンピック。しかし、予選がうまくいかないのではないのかという不安は、僕らのところに何となく共有されていたのではないだろうか。オリンピックに至る各種大会での不安定な成績、オリンピック団体での失敗。そこはかとなく現実を見たくないような感覚が漂っていたようにも思える。それでも見ようとするのは、やっぱり「怖いもの見たさ」、もうちょっと明確に表現すれば「親」として「どんなことがあっても娘の姿を見なければいけない」という強烈な使命感があったから。だからこそ、薄々とヤバいんじゃないかという気持ちがあっても、その気持ちを抑えて中継にチャンネルを合わせたのだ。

そして、浅田はショートプログラムで16位という大失敗をしてしまう。さすがにここまで失敗するとは誰も思わなかっただろう。トップのキムヨナとは20点近くも差がある。もう金メダルは完全に無理だし、銅メダルだってほとんど不可能。 万が一表彰台に立つことができたとしてもキムヨナに上から目線されて屈辱を味わうだけだ。つまり、 バンクーバーのリベンジはならない。そして、こんな状態だったらフリーだって浅田は失態を晒す可能性は高い。だから、もう見ないに越したことはないのだけれど……。

「親」と「娘」の集大成としてのソチでのフリープログラム

だが、愛娘=真央ちゃんに対する「親」=日本人の愛情はそんなものではなかった。どんなことがあっても見届けるという使命感は、かえって反動形成的にドM度を高め、是が非でもフリープログラムを見ようというドライブがかかった。それが深夜の生中継での高視聴率に繋がったのだ。

そして本番。浅田は奇跡的な演技を展開する。2回転3回、6種類の3回転8回全てに成功。演技を終えた瞬間、その達成感で浅田は泣き出し、そのあと笑顔に変わって観客に手を振った。まさにこれは「艱難辛苦を乗り越え」て、あの「天真爛漫」が戻った瞬間だった。フリー全体ではソトニコワ、キムヨナに続く三位だったが、これが最終組での演技あったならば、おそらくこの二人に匹敵する得点がはじき出されていたのではなかろうか(どう見ても、二人の演技に劣るとは思えないというのが衆目の一致するところ。つまり、これは「滑走順が成したあや」。ただし技術力でソトニコワ、表現力でキムヨナに匹敵しているかと言えば疑問だが)。だから「もし、ショートプログラムで上位に食い込んでいたら」という悔しさは残る。

しかし、日本国民が向けた「ソチでの浅田への愛」は、ショートプログラムの失敗に及んで、前述したように反動形成によってドMモードが炸裂したことで究極に達し、もはや「溺愛する愛娘」のレベル。だから、実のところフリーの成績なんてどうでもよかったのだ(失敗したって、浅田をねぎらうことはあったとしても、誰も責めなかっただろう)。僕たちは演技で繰り出される回転の数、順番をあらかじめ覚え、そのひとつひとつを失敗しないことを祈ってハラハラドキドキで演技を見つめ続けた。ところがジャンプを次々と成功させるに従い元気になっていく「愛娘」の姿に「艱難辛苦乗り越え」の他にかつての「天真爛漫」を見いだし、日本国民は萌え=感動し、鳥肌が立ち、涙すら流れる状態が作り出された。ドMモードという「仕込み」が逆に「成功」を「大成功」と感じさせ、感情がほとばしったのだ(言い換えれば、この時点で「親」としての日本人は評価能力を失っている)。

そして、その涙は、これまでの浅田の天真爛漫から艱難辛苦への歴史を「親」として見続け、勝手に苦楽をともにした「母子、父子としての歴史」がおのずから促したものだ。必死に舞い続ける浅田の背後に「親子」の歴史全てが一気にフィードバックし、もう泣かずにはいられなかったのだ(まるで映画『ニュー・シネマ・パラダイス』のラストシーンみたいに)。すなわち「親子の集大成」。だから、その感動は競技としての演技それ自体から引き出されたものではない。ちなみに、まったく同じ心境だったのが、浅田のかつてのコーチであるタチアナ・タラソワだった。ロシアのテレビでの浅田のフリー演技の実況。タラソワは唸り、褒め、絶叫し、 涙し、そして感謝した。彼女の実況は解説者のそれではなく、われわれ「親」を代表する語りそのものに他ならなかった。

オリンピックが「真央ちゃん」にひれ伏した瞬間(「浅田真央選手」ではなく)

だから、浅田はオリンピックに出場するアスリート=浅田真央ではなく、みんなの愛娘=真央ちゃんとして認識され、さらに、最後にどんでん返しを見せることで、われわれの中からオリンピック、金メダル、そしてキムヨナといった競技に関わる要素を全て消去し、日本人国民全体に「真央ちゃんと私」という密接な空間と濃密な時間をさしだし、オリンピックを自らの下にひれ伏せてしまったのだ。もちろん、彼女自身は天真爛漫のままなので、そんなことは一切考えてはいない。こちらが、そういった「読み」を勝手にやってしまっただけなのだけれど。

僕らが、結果として、こんなにも彼女の順位やメダルに執着しなくなった理由は、ここにある。そう、そんなものはどうでもよくなってしまった。僕たちには「真央ちゃんらしさ」=「愛娘らしさ」がみられれば、それが「金メダル」ってなことになってしまったのだから。

ソチオリンピック開始前、最も注目されていたのは浅田真央だった。だが、団体戦での敗北で失速。かたや葛西紀明が41歳という年齢でラージヒルで銀メダルを獲得し、さらに団体でもリーダーとしてメンバーを引っ張り銅メダルに輝いたことで、今回は「葛西のオリンピック」と呼ばれることが確定的に見えた。だが、結局のところ、ソチオリンピックでわれわれ日本人のあいだに長く記憶されるのは、やはり「浅田のオリンピック」、そしてそのフリーの演技だろう。しかも、メダルのないその演技が、さながら長野オリンピックのジャンプ団体金メダル獲得の時の原田雅彦のように、永遠に輝き続けるのだ。

やはり、浅田真央、いや真央ちゃんはメディア的存在としては天使だったのだ!


※ただし、日本国民が「親」であるうちは、彼女はその庇護の領域から抜け出せず、本当のところでは天真爛漫に戻ることは出来ないのかもしれない。つまり過保護な親が、今度はその潜在的なドS的感覚で、前述したように無意識のうちに今後も浅田に重圧を課し続ける可能性がある。この呪縛から逃れる方法は、やっぱり引退なのかもしれないが……。

交響曲「HIROSHIMA」等の作曲が全くの偽装であったことが日本クラッシック界の一大スキャンダルとなっている佐村河内守氏。耳が聞こえない、被爆二世など数々の艱難辛苦を乗り越えて、ベートーベンばりの「大曲」を作り上げたという美談がとんだデッチ上げだったことは、もはやご存知だろう。このペテン師は、まさに絵に描いたようなペテン師で、バッシングされる他はないのだけれど、メディア論的には、今回の佐村河内氏について、ちょっとひねくれた場所から分析を施してみるとオモシロイと考えた。

それは、

「佐村河内氏、残念。もう少しで天才だったのに」

という前提で議論を展開してみること。しかも、これを21世紀の天才、S.ジョブズとの比較で考えてみたいと思う。つまり、

「佐村河内氏は、もう少しでジョブズになれた。ただし、なれなかった。じゃあ、その根本的な違いはどこにあるのか」

ちなみにジョブズ信者のみなさんには逆鱗に触れそうな論述になるかも知れない。つまり「ジョブズ様と佐村河内なんてインチキ野郎を比較するとは何事か!」。実は、僕もジョブズファンの一人。そうはいっても、冷静に見ると、2人はある部分でやっぱり実によく似ていると思っている。ジョブズも、やはりインチキっぽいところが多々あるのでけれど、それがとてつもなく魅力でもあるのだ。でも、完全に違うところがある。ならばアナロジー的な考察を施せば、佐村河内氏のペテン師度合いがわかりやすいと考えたので、ご容赦願いたい。そして、これは「天才」がどういう存在なのかを、ある側面では相対化する議論でもある。

佐村河内氏とジョブズ、その類似点

2人の類似点はどこか?先ず共通するのは、自分が関与した領域での専門技術を持ちあわせていない点だ。佐村河内氏は楽譜が書けない。一方、ジョブズはプログラムが書けない。前者は新垣隆という人物に曲を書かせ、後者はS.ウォズニアック(そしてAppleのエンジニア)にプログラムを書かせた。しかし、とりあえず二人とも自らが関与した領域で成功した。

ということは、こういった技術を埋め合わせる別の才能を備えていたということになる。その才能とは「大ホラ吹き」「デマゴーク」であるという点だ。佐村河内氏は前述したように、とにかく様々な嘘を並べ立て、自らをベートーベンもどきに仕立てた。ジョブズもあり得もしない夢想をさも当然のことのように語り続けた。ジョブズの語りは「現実歪曲フィールド」を形成すると言われた。この夢想が、ジョブズの語りの中で展開されると「現実」に見えてしまうような、あやしげな説得力を放ったのだ(これは新商品発表のプレゼンを見るとよくわかる。メディア的に「これでもか」というくらい様々なギミック、レトリックが施されている)。つまり、2人ともウソ(事実もあるが)をつなぎ合わせ、それを現実に見せてしまう「錬金術」を持ちあわせていたのだ。

また、自分を大物に見せることについても同じだ。佐村河内氏はクラッシック界に入る前はロック界で名を馳せようとしていた。強引な売り込みの結果、メディアでは「第2の矢沢永吉」と喧伝されたらしい。ジョブズは13歳の時、周波数のカウンターが欲しくて一人の男に電話をかける。その男とはなんと大会社HP(ヒューレットパッカート)のCEO、ビル・ヒューレット。そして、お目当てのものを手に入れたどころか、ヒューレットからバイトまでオファーされてしまった。そう、この二人、何の担保もないにもかかわらず、ひたすらゴリ押しとハッタリで周囲の人間をその気にさせる才能を持っていたのだ。そして二人は、矢沢永吉的に言えば「ビッグになる」ことも志向していた。

こうやって考えてみるとペテン師=佐村河内氏も天才=ジョブズも同じに見えてくる。じゃあ、どこが違うのか。

欲望の先にあるものは「自分」か「未来」か

二人の根本的な違いは、自らがビッグになるという欲望が、最終的にどこにたどり着くかにある。佐村河内氏は結局のところ、欲望のたどり着く場所が自分へと回帰している。つまり「有名になりたい」という俗物的な欲望でことは終始するのだ。いいかえれば「ビッグになること」が最終到達点。

ところがジョブズは違う。自分が「ビッグになること」は到達点=目標ではなく、あくまで手段に過ぎない。だからビッグになったあとも手綱を緩めることなく、ひたすらその次=Nextを志向し続けた。そして最終的に志向したのは「宇宙に衝撃を与える」といった究極の大ホラだった。そして、それが死ぬまで続いたのだ。

この志向性の違いは、二人がアウトプットを提示するときのやり方に象徴的にあらわれる。佐村河内氏は最終的に全てのアウトプットを自分が総取りした。つまり「佐村河内氏の○○」と言うかたちで、自分が関与したものの業績を自分一人の取り分とした。一方、ジョブズもあたかも全て自分がアウトプットを生み出したかのように振る舞ったが、決して「オレがやった」とは言わなかった。代わりに、自らの分身である「Apple」の所産であるとしたのだ。こういった志向性だから、96年に復帰してからの年報は1ドルだったし、生活する邸宅もビリオネアとしては質素すぎるほど小さな家だった(宿敵のビル・ゲイツが巨大な邸宅に住んでいることを考えるとオモシロイ)。その格好も90年代アップルに復帰してからはほとんど同じ(三宅一生のトレーナー、リーバイスのジーンズ501)で、自らを「Appleのキャラクター」として売り込んだ。宇宙に衝撃を与えるためなら、そんなことはどうでもよかったのである。

またジョブズの場合には方向性がミニマリズムで一貫していた。だから、佐村河内氏のロッカーになったりクラッシックの作曲家になったりといったような宗旨替えは全くない。そしてMacintoshからiMac、iPod、iPhone、iPadにいたるまでこのイデオロギーは一度たりともブレることはなかったのだ(ちなみにiPod以降のデザインのベースにあるのはいずれもS.キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』にモチーフがあるというのもオモシロイ。iPodは船外宇宙操作船Pod、iPhone、iPadはともに映画のキーとなる黒石板のティコモノリスだ。ピクサーの映画『WALL-E』では『2001年』の徹底したオマージュもやらせている)。またユーザーインターフェイスもこのミニマリズムで徹底し、しかもそのやり方全てを統一させてしまった(MacユーザーがiPhoneやiPadをほとんど何も考えずにすぐ使うことが出来るのは、MacOSとiOSがほとんど同じインターフェイスだからだ)。一方、佐村河内氏の場合は自分が有名になりたいだけだから、前述したようにこの辺の統一感はぜんぜんない。矢沢ばりのスーパースターメイクもするし、麻原彰光ばりのカリスマ風の風体にもなる(メタ的に表現すれば「ビッグになりたい」という点でブレがないだけということにはなるけれど)。そして、詰めも甘い(だから、バレた)。

ペテン師も徹底すれば天才だ

こんなかたちのゴリ押しとハッタリだから、ジョブズの場合には、そのゴリ押し、ハッタリ、また他人のアイデア泥棒(しょっちゅうやっていた)がそれに見えず、一つの美意識、そして強烈なイデオロギーとなり、ユーザーを引きつけた。言い換えれば、アップル製品のユーザーはジョブズのペテンに諸手を挙げてダマされ続けたのだ(僕者その一人だけど)。つまり信者を形成し、なおかつスタッフまでもこのイデオロギーで染め上げ、ジョブズ亡き後もそれはアップル内に浸透し続けた。そして現在でもAppleユーザーはアップルの製品ではなく、このイデオロギーを購入することに魅力を感じている。

一方、佐村河内氏である。前述したように「ビッグになる」という「何でも独り占め」の発想だから、後継者や信者を生み出すどころか、取り巻きにはひたすら不快な思いをさせることしかできなかった。そう、やっぱり彼が見ていたのは未来ではなく、自分自身だった。つまり、タダのナルシストに過ぎなかったのだ。

もちろんジョブズもまた徹底したナルシストだ。ただし、そのナルシシズムが、結果として、われわれのメディアライフを変えてしまうだけの威力と持続力を持った。ナルシシズム、ペテン師も徹底すれば、それは昇華されてしまうわけだ。そこまでのパワーを持つと、これは天才ということになるし、そうでなければペテン師ということになる。言い換えれば佐村河内氏は、ペテン師としてはそれを突き通すことが出来なかった二流、だから、その名の通りペテン師。ジョブズは自分も周囲も全部だまし、世界をひっくり返してしまった、そしていまだに世界を騙し続けている一流のペテン師、だから天才といえるわけだ。

二人の違いは「情報編集能力」

そして、このペテン師能力、つまり「大ホラ吹き」「デマゴーク」という才能、実は「情報編集能力」と置き換えられるのではなかろうか。ジョブズには自分の欲望、ユーザーのニーズ、商品に対する目利きの視点を編み込み、これを未来に向けた一直線の物語に流し込むことで、壮大な世界観、宇宙観、今回の表現を用いれば究極のペテン師能力を発揮した(だから「宇宙に衝撃を与える」というわけだ)。ところが佐村河内氏は身の回りだけの情報編集能力しか持ちあわせていなかった。

つまりジョブズは「ビッグ」で、佐村河内氏は「スモール」だったのだ。ここに天才とペテン師の違いがある。

※ちなみに、お断りしておくが「天才」の定義については、もちろん、今回やったような「ペテン誌的才能」以外の別の視点からの物差以外にも、いくつもあることをお断りしておく。今回、天才ということばで二人を比較したかったのは「錬金術師の才能」というレベルで、この腑分けをしようと考えたからだ。


作曲者が別人だったと言うことだけで不快感を感じるわれわれ

交響曲「HIROSHIMA」で知られる佐村河内守氏が、実はなりすましで、実際の作曲者が桐朋学園大学講師の新垣隆氏であった問題が、クラッシック界の一大スキャンダルとしてメディアを賑わしている。

今回の件、メディアの騒ぎ方の、そして交響曲「HIROSHIMA」を中心とする佐村河内氏の楽曲と呼ばれたものに親しんできた人間の感覚は「ダマされた」「裏切られた」「道義的に許せない」というものだろう。そして、言うまでもないことだが、共通する感情は「不快感」だ。「気まずい」「バツが悪い」という表現が適切だろうか。

それは確かにそうだ。一般人を騙し続けたわけなんだから、許されたものではない。しかし、である。佐村河内氏ではなく新垣氏が作曲したという事実が判明したところで、楽曲群が別のものになるということはないわけで「そりゃ、作曲者名を変更すればいいだけのこと。音楽は音楽なんだから」と割り切ってしまえば何ら問題はないのではないだろうか?と考えたくならないでもない。

だが、残念ながら、そういうふうにはならない。そして曲に親しんできた人間からすれば「怒り」とともに、前述の「不快感」を覚えてしまう。なぜか?そうなってしまう理由、実は音楽、そしてそれを一部として包摂している芸術というカテゴリーが抱える構造に基づいている。今回は、これについてメディア論的視点から考えてみたい。で、今回のスキャンダルに対する不快感。メディア論的には、この事件はまるで教科書で基礎概念を説明するのにうってつけのような例として説明することが出来る。

メディアはメッセージである

あなたがメディア論を学ぶとしたら、いちばんはじめに教わるのはメディア論の父・M.マクルーハンの「メディアはメッセージである」という概念だ。メディア=媒体はメッセージ=情報を伝達する手段。つまり遠く離れた人にメッセージ=情報を伝えるために手紙、電話、メール、SNSと言ったメディア=媒体を利用する。その際、メディアは、いわば「黒子」であり、単なる透明な伝達手段に過ぎないというふうにわれわれは考える。

ところがマクルーハンはこれをひっくり返し、メディア=媒体もまたメッセージ=情報を備えていると指摘したのだ。たとえば相手に用件を伝える際、メディアとして手紙を使うか、電話を使うか、メールを使うか、SNSを使うかで、その伝わり方が全く変わってしまう(しかも、これらそれぞれもまた伝わり方が違う。たとえばSNSならFacebookのメッセンジャーとLINEのトークでは同じメッセージが異なったイメージとして伝わる。堅苦しい正式の伝達でSNSの利用をわれわれが避けるのは、このメディアのメッセージ性を無意識に使い分けているからだ)。つまり、われわれがメディアを使って情報を伝達する際には、伝えたい情報=メッセージ1と、その際利用するメディア=媒体が備えている情報=メッセージ2が混ざり合って相手に情報が伝わるので、「伝えたい情報」は「伝わった情報」とイコールにはならない。図式的に表せば「伝わった情報=メッセージ1+メッセージ2」となる。よって「伝えたい情報≠伝わった情報」、これが情報の伝わり方だ。

「HIROSHIMA」の二つのメッセージ性~「新垣」と「佐村河内」

今回の佐村河内事件はこの二つのメッセージ性が渾然一体となっている、そして後者を前者とみなしてしまったことに無意識に気づく?ことで、楽曲に親しんできた人間には不快感を与えるのだ。そこで、ここでは佐村河内氏の手による一連の楽曲、ここでは全てを総称して「HIROSHIMA」と呼ぶことにしよう、を、二つのメッセージ性に分けて考えてみよう。

先ずメッセージ1。これは楽曲それ自体だ。これは新垣隆氏が手がけたものなので、便宜上「新垣」と呼ぶことにする。一方、このメッセージ1を伝達するメッセージ2、つまりメディアのメッセージ性、つまり佐村河内氏の様々な詐術を「佐村河内」と呼ぶことにする。当然のことながら楽曲に対するわれわれのメッセージの受容については、次のような図式が成り立つ。

「HIROSHIMA」(メッセージ全体)=「新垣」(メッセージ1)+「佐村河内」(メッセージ2)

そして、今回問題なのは二つの力関係がメッセージ1<メッセージ2であったことだ。つまり「HIROSHIMA」が世間に知れ渡ったのは楽曲それ自体よりも、「佐村河内」というメディアのメッセージ性に基づいたからなのだ。

プロデューサー・佐村河内のメディア性

佐村河内氏はプロデューサーとしてはかなりの凄腕と言えるだろう(佐村河内氏以外に、今回の騒動を仕掛けたプロデューサーが存在しないという前提に基づくけれど)。「HIROSHIMA」は、実にメッセージ2、つまりメディアのメッセージ性に満ちている。

先ず、その名前「佐村河内」というメッセージ2。「佐村」でも「河内」でもなく「佐村河内」。しかも「さむらかわち」でなく、「さむらこうち」でもなく、「さむらごうち」。これだけで先ずわれわれの関心を引きつける。そのまんま東が知事になった瞬間、「東国原」という読みづらい(しかも「ひがしこくばら」ではなく「ひがしこくばる」)本名に戻ったときの違和感と、逆にそうだからこそ強烈な印象を与えたのと同じだ。

次に「全聾」というメッセージ2。当然、これはベートーベンの晩年と重ね合わされる。ベートーベンが第九の初演の時、会場にいて拍手が判らなかったという逸話があるが、佐村河内氏もベートーベンと同様、音楽家としては致命的である聴力の喪失を乗り越えて作曲活動に取り組んでいたというのは、まさに「現代のベートーベン」と賞賛するに値するというわけだ。アメリカのメディアすら欺いてしまったほどなのだから。つまり、ネガティブイメージが、代えって「HIROSHIMA」という存在を思いっきりポジティブなものに変えてしまうのだ。

そして交響曲「HIROSHIMA」という名前のメッセージ2。佐村河内氏は被爆二世であると称し、自らも当事者という立ち位置から、この楽曲を作曲したという(しかも全聾を乗り越えて)。そして原爆のシンボルである広島を題材にした(もともとは別の名前だったらしいが)。う~ん、ものすごい説得力だ。

加えて、あのあやしげな風貌というメッセージ2も強烈な印象をこちらに投げかけてくる。長髪、サングラス、左手にはサポーター、さらに杖を持つという姿は、身体を投げ打って作曲活動に打ち込むというイメージを形成する。

こうなるとメッセージ性2=名字の仰々しさ+耳が聞こえない+原爆二世の思い・広島原爆+各種身体的困難+麻原彰晃ばりのミステリアスさで、メッセージ2=メディアのメッセージ性は膨大なものとなる。つまり「新垣」(メッセージ1)<「佐村河内」(メッセージ2)という図式で、しかも二つのメッセージの格差はきわめてかけ離れた、コントラスの高いものになってしまうのだ。

そう、「HIROSHIMA」を聴いて感動していた人々は交響曲「HIROSHIMA」=「新垣」ではなく「佐山河内」というメーッセージ2が奏でるもうひとつの交響曲に心を打たれたのである。

不快感の正体

ということは楽曲「HIROSHIMA」の主成分がメッセージ2=「佐村河内」であることが判明した瞬間、これに感動していた人間たちは不快感=バツの悪さを感じざるを得なくなる。自分が「新垣」=メッセージ1を聴いて感動していたとばかり思っていたのが、実は「佐村河内」=メッセージ2に感動してメッセージ1を聴いていただけ、つまり間違って聴いていたということを、 自分の無意識が認めてしまったからだ。でも、それじゃあ都合が悪い、バツが悪い。だから心理学用語の言うところの合理化(「あのブドウはすっぱい」つまり責任転嫁)という作業を行い、それによって「自分はダマされた」と位置づけ、自らが「新垣」=メッセージ1を聴いていなかったこと、あるいは、メッセージ2に基づいてメッセージ1を逆にメディア、つまり2を伝達するための黒子的な手段として用いていたことを抑圧したのである。言い換えれば、前述したように、これまでメッセージ2をメッセージ1と思い込んでいたのだが、そういう自分を欺こうとした。これが、不快感の正体だ。

高橋大輔は音楽を純粋に聴いていた?

今回の騒動で不快感を覚えていないのは、ひょっとしたら高橋大輔選手かもしれない。もし、高橋選手がクラッシックに全く造詣がなく、コーチなどの関係者がプログラム用の音楽として佐村河内の手によるものとされた「ヴァイオリンのためのソナチネ」を高橋選手に聴かせ、同選手が「これがいい」とチョイスし、そのまま使用しているのだとするのならば(あくまでも仮定です)、高橋選手は純粋にメッセージ1=「新垣」を聴いていることになるからだ。もちろん、高橋選手から直接聞いたわけではないので、真偽のほどは定かではない。しかし、もしそうであるとするならば、高橋選手は誰が作曲していようが構ったことではなくなる。一方、残念ながら、交響曲「HIROSHIMA」を支持した層は、 そうはなっていない。 そのほとんどがメッセージ2に基づいてそう判断した。そして1と2を取り違えた。これは否定できないだろう。

芸術作品は二つのメディア性によって偶有する

しかし、結局のところ、僕らは芸術作品に親しむ場合、常に、こういった二つのメディア性を混在したかたちで判断基準を持つ。このことは自覚しておいた方がよいだろう。そして、今回の事件はそのことを痛烈に実感させてくれたのではなかろうか。まあ、それこそがわれわれの想像力をかき立てる「芸術」というものの働きということでもあるのだけれど。

最後に一言。誤解のないようにお断りを入れておく。佐村河内守という人物は典型的な、そしてベタなペテン師であると。人に作曲させる、耳は聞こえる、カラダは元気、広島という煽りネタを探してくる、高橋大輔に曲を使わせる。バレなかったら大したもの。ただし、バレてしまった。だからペテン師なのである。と言うことは、バレなければ大プロデューサーか偉大な芸術家ということになってしまうのだけれど……。

都知事選に突如出現した原発問題

ご存知のように、都知事選に元首相の細川護煕が立候補している。「後出しジャンケン」方式でギリギリまで候補者が定まらなかったが、開けてみれば舛添、田母神、宇都宮と、それなりの候補者が出馬。だが、ここにきて意外な候補者として細川が登場した。争点は言うまでもなく原発問題。原発ゼロを東京からということで、これを小泉純一郎元首相が後押しするという図式。小泉は11月の記者クラブの会見で、原発ゼロ発言を展開し、マスメディア、そして自民党に爆風を吹かせることに成功したが、どうやらこの文脈での細川の出馬は「小泉が細川という刺客を放った」という認識が一般的。つまり、主役は小泉。

だから、現状では、どうやら桝添には届かないというのが下馬評のようだ。細川ー小泉というゴールデン元首相コンビ、そして小泉お得意のワンフレーズ・ポリティックス=ワン・イシューだけで勝負する戦略という図式が、どうも機能していないようなのだ。来週日曜日(9日)の投票日に向けて盛り上がる様子もみせてはいない。ということは、桝添の当選で話は決着しそうだが……。今回はワンフレーズ・ポリティックスの可能性と限界について考えてみたい。

2005年の郵政民営化衆議院選と違うのは「コンテクスト」

ワンフレーズ・ポリティックスの効果を考えるにあたっては2005年、小泉が仕掛けた郵政民営化衆議院選挙と今回の都知事選を比較するのがわかりやすい。あの時、小泉は「郵政民営化は改革の本丸」とし、選挙期間中、ほとんどこの民営化のネタしか争点としては取り扱わなかった。つまり、今回の都知事選の「原発ゼロ」と戦略的にはまったく同じだ。

ただし、根本的に異なるものがある。それはこのワンフレーズの背後にあるコンテクストの存在だ。

このコンテクストはさらに二つある。一つは、ワンフレーズが他の政策とどのように連動しているかと言うこと。いや、実際に連動していなくてもかまわない。ただ「連動している」というふうに思わせることが出来ればそれでいいのだけれど……。郵政民営化選挙の際には、このイシューの他にも構造改革という言葉でまとめられた様々な課題が山積していた。そして、それらは実はほとんど郵政民営化とは関連がないものだったのだけれど、前述したように小泉は「郵政民営化」が「改革の本丸」と謳ってしまったのだ。そして、その改革を国民が望んでもいた。だから、なんだかわからないけれど「郵政民営化」は、それが達成されれば他も一気に解決する、なんでも叶えてくれる「四次元ポケット」のように思えてしまった。そして、それを邪魔する名悪役たち(しかも、なんと自民党の国会議員!)も登場し「善が悪を倒す」という、ベタな勧善懲悪図式上で小泉劇場は重層的かつムダに盛り上がった。この二つのコンテクストが郵政民営化というワン・イシューにあやしげなリアリティを与えてしまったのだ(その後、われわれが酷い目にあったのはご存知の通り)。

さて、今回の都知事選はどうか?残念ながら「原発ゼロ」というイシューは他の都政に関わる問題となんらリンクしているようには思えない。都民として関心のあるのは、やっぱりオリンピックとか、待機児童ゼロとか、福祉とか、教育とかになる。それが国家の一大事たる原発問題とどう繋がるのか……ちょっとかなり想像力を要求するのだ。だから、争点として持って行くにはかなり無理がある。むしろ親の介護経験のあるという桝添が、それを担保に福祉問題を語った方が、コンテクスト的には圧倒的に説得力がある。

もう一つのコンテクストは、そのワンフレーズを発する人物のキャラクター、とりわけそのカリスマ性、言い換えればメディアの魔術師としてメディアを操作する能力だ。前述した小泉の場合、全くブレず、真正面を据えて確信犯的にワン・フレーズでイシューを訴える。前述した記者クラブでの原発に関する発言がまさにそれで、もはやただの民間人に過ぎない小泉が自民党をうろたえさせることすら出来たのだから。ワンフレーズを語る人間に共通する特徴は「先ず人を信じ込ませる前に、自分を信じ込ませる」点だ。新庄剛志、東国原英夫、橋下徹といったメディアの魔術師たちがまさにそれで、ある意味、完全に自己陶酔している。それによって、その発言が、こちらには「真実」に思えてしまう。「敵を欺くには先ず見方から」ではなく「敵を欺くには先ず己から」という図式がないとワンフレーズ・ポリティックスは機能しない。記者クラブでの会見の時、小泉には、これがいまだに健在だった。

しかし、である。細川の場合、いかにも小泉に操られているという感じがしてしまう。つまり、細川は「己を欺いていない」というイメージをこちら側に抱かせてしまう。だから、バックに小泉が控えていても、イマイチ、パッとしないのだ。いや、むしろ小泉が控えるからこそ、キャラクター=メディアの魔術師としてあやしさが感じられないのだ。

無党派層はなびかない

で、こういったコンテクストが存在しない場合、当然、政策よりもコンテクスト=ムードに煽られることで投票する無党派層はなびかない。かつて、小泉は「無党派層は宝の山だ」と言い放ち、見事に宝の山を掘り当ててしまったのだけれど、今回、その宝の山を掘り当てることは出来ないだろう。有権者の「探知機」がこういったコンテクストを探り当てられないのだから。探知機は小泉の身体をサーチすることは出来るが、細川のそれはサーチできない。だから、ワンフレーズ・ポリティックスで都知事選に勝利しようとするのならば、本人か息子の進次郎でも出すしかない(この場合も他の政策とのリンクがほとんど感じられないからコンテクスト的には「片肺飛行」。だから、郵政民営化の時のような圧勝というわけにはいかないだろうが)。

かくして2月10日(日)投票日、無党派層は動かず、投票率は上がらず、組織票がモノを言って、結果として桝添が楽勝するという「何事もなかった都知事選」が繰り広げられることになる。

日本人のワンフレーズ・ポリティックス・リテラシーが向上した?

もっとも、ここ数年のこのワンフレーズ・ポリティックの繰り返しに辟易して、われわれが「ワンフレーズ・ポリティックス・リテラシー」を培ったので、もうこういったやり方には慣れっ子になってしまい、なびかなくなったのかも知れないが。そして、もしそうであるのならば、それはきわめて健全なことと考えてもいいのだけれど。

ま、まだそんなに甘く考えることは出来ないか?小泉進次郎がウケているんだから……

自虐的なご当地地図

今、Twitterで「よくわかる○○県」と呼ばれる地図が話題を呼んでいる。「こまけぇことはいいんだよ、ざっくり描いたよくわかる都道府県地図」ということで、神奈川県、茨城県、北海道などの各県が、作者(おおむね地元民)の主観に基づいて勝手に区分けされ、大雑把に説明されている。岩手だったら久慈は「じぇじぇじぇ(あまちゃん)」、東野は「妖怪居住地区(東野物語)」、 小岩井エリアは「人より家畜が多い(小岩井農場)」 、盛岡はなぜか「青森県盛岡市(誰か、教えてください)」と、ひたすら主観に基づいて勝手に「こまけぇことはいい」文脈で「ざっくり」と県の説明がなされている。
その指摘は、実証性こそないものの、当たらずとも遠からず。地元民の誇りというよりは「自虐的」「自ギャグ的」ネタに満ちている。その一方で「あるある」という感じも。見ているこちらも、思わずニンマリとしてしまう。

イメージ 1

よくわかる岩手県pic.twitter.com/RmkxByDajT


ある意味バカバカしい。だけど、よくよく考えてみると、これ、実はぜんぜんバカバカしくないのではないか?

地元民の二つの顔~宮崎の焼酎は20度。ところが県外に売り出されると25度になるわけ

地元民は地元について二つの顔を持つ。表=オフィシャルな顔と裏=そうでない顔だ。で、オフィシャルな顔では、世間一般、全国的に知られている情報を県外の人間にアピールする。その裏で、ひた隠しにして外には出さない(ちょっと、言い過ぎか(笑))情報がある。

僕は十年ほど宮崎に暮らしていたが、そんなことがちょくちょくあった。例えば焼酎。宮崎と言えば芋焼酎。現在ではコンビニにも置いてあり、芋焼酎としては全国一のシェアを誇る霧島酒造の「黒霧島」(黒霧)が有名だが、実は、この芋焼酎についてもものすごいコンプレックスを宮崎県民は持っていた(いまだに?)。宮崎の焼酎は一般にアルコール度が20度。ところがこれを県外に出荷するときには25度となる。先ほどの黒霧にしても県内20度、県外25度の「鉄則」は守られている。で、こうなったのには理由がある。

戦後、宮崎は貧困にあえいだ。しかし酒は飲みたい。そこで密造酒が出回った。当然、これで健康を害する県民が続出。そこで、密造酒を駆逐するために考えられたの20度の焼酎だったのだ。ご存知のように酒の価格のほとんどは税金。で、アルコール度が税率に反映される。つまり度数が高い方が酒税が高い。となると、当時貧乏だったみやざき人には一般の25度の焼酎には手を出せない。そこで20度にして酒税を抑え、密造酒の代替にしてもらい、密造酒を駆逐するという策に行政が打って出たのだ。で、これが功を奏し、気がついてみると県内の焼酎はほぼ全域20度になった。

ただし、これはいいかえれば「20度」が自分たちが「貧乏」「貧困」であることの証明になってしまう「恥ずかしいアルコール度」ということでもある。だから、県外に出荷するときは必ず25度にするのだ。かくして20度の焼酎は裏の顔となった。

文化を相対化し、地元意識をめざめさせるきっかけに?

こういった県外にはちょっと言えないような「恥ずかしい」ネタを主観に基づいて「よくわかる○○県」といったかたちで、地元民が勝手に表現してしまう。こうなると、今度は自虐ではあるけれど、そのことが笑いとともに相対化される(だから「自虐的」というよりは「自ギャグ的」)。そして、「裏」の顔が諧謔として現れるのだ。いいかえれば「よくわかる地図」は裏と表をなくし、スーパーフラットな状態を作り上げる。

これまで裏の情報は、メディアに乗ること無く口コミで、しかも地元の外には知られないような状態で語り継がれてきた。そして、それがいわば「裏文化」を作り上げていた(地元民は、それを決して「文化」とは呼ばないのだけれど)。しかし、この裏文化はプラバタイゼーションが進展し、個別化・原子化といった事態、つまり、それぞれがミーイズムに基づいてバラバラに消費生活の日常を繰り広げるようになると伝播能力を失ってしまった。これにファスト風土化(全国がAEONとセブンとTSUTAYAとヤマダと青山とMacとスタバとユニクロみたいなもので均質化した空間、均質化したライフスタイルをつくってしまうこと)が進むことで、地方はその特色も失ってしまった。

これでは地方が地方である存在根拠がなくなってしまう。そこで、マスメディアが地域性取り上げようとして、やれゆるキャラグランプリだ、B1グランプリだ、ひみつの県民ショーだといった具合に、ご当地の「裏情報」を表に出して活性化をやり始めた。だが、これはいわばマスメディアによる「トップダウン方式」。そして、もちろん、それらが深いレベルでの「裏文化」に触れる可能性は少ない(放送コードに引っかかってしまうから)。

そこで、ある程度アングラが可能なネット上、しかも匿名性が担保されているTwitter上に、これを公開して知らしめるというアイデアが生まれた。それこそが「よくわかる○○県」なのだ。くりかえすが、この現象は地元民=県民自らが自虐ネタ、恥ずかしいネタとして「裏文化」をカミングアウトする。ただし、それによって笑いが生まれ、カミングアウトした裏文化が受容されていく。恥ずかしい「おらが県」が、恥ずかしいまま、それでいてかわいらしい、ちょっと誇らしい、諧謔に富んだアイデンティファイすべきものへと変容する。そう、なかなか効率のいい、ネットを使った地域文化の活性化方法なのだ。

そ・こ・で、この「よくわかる○○県」。あっちこっちでやってみたらどうだろう。「こまけぇことはいいんだよ」の精神で多少の顰蹙系のものにも目をつぶって。たとえば教育現場でやってみるなんてのはよいのでは。クラスの児童それぞれに「わたしの○○県」を作成させ(「わたしの○○市」「わたしの○○町」「わたしの○○地区」でも、もちろんかまわない)、コンペをやったり、それぞれのアイデアをまとめて集合知として「○年×組がざっくりと考えた「よくわかる○○県」なんてのを公表させ、県の教育委員会や広報課でイベント化してしまうなんてのは、かなりオモシロイし、県民アイデンティティを醸成するという、「精神性からの地域活性化」も可能になる。しかも、くりかえすが「相対化された笑い」とともに。さらに、これは「靖国○○」みたいな上から押しつけられる文化じゃなくて、下から積み上げた「みんなの文化」だ。だから、みんなおもしろがってやるに違いない。

地方公共団体のみなさん、ご一考、あれ!

↑このページのトップヘ