勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2014年01月

個人情報保護法の徹底、インターネット環境の偏在化に伴って、以前にも増して意識されるようになった「匿名」ということば。しかし、プライバシー防衛に関するヒステリックなほどの対応の加速(テレビの画面はボカシだらけ、マンションやアパートの玄関に表札をかけない、マンション住民が自治会や理事会に世帯構成員の名前どころか人数を告げることすら拒絶するなどなど、今や日本人はプライバシーに関して完全に過敏になっている)によって、とにかく「匿名」であること、言い換えれば「実名」が表に出ないことが重要視されている。僕の知り合いの中に「絶対にFacebookはやらない」と断言する人間がいるが、まさに、これなどは、この「実名」「匿名」という分節に過剰になっている典型例だろう。

もちろんプライバシーを保護するために「実名を隠す」「匿名である」と言うことそれ自体は重要ではある。しかしながら、ちょっとヒステリックになりすぎなんではないか?あたかも腫れ物に触るかのようなこの対応。かえって危険なんじゃないだろうか?これじゃ、臭いものに蓋。ますます生ゴミの中身が発酵して危険意識が高まるだけだ。そして匿名の扱い方をおかしくするだけだ。

ということで、今回は、この「匿名」についてインターネットとの関わりで考えてみたい。で、最終的に提案したいのは「匿名」「実名」という考え方の賢い使い分けだ。先ず、今回は「匿名による誹謗中傷コメント」の構造について考えてみる。

匿名のメリット~自由な発言のワンダーランド

先ず、匿名であることのメリットは何か?言うまでもなく、自らが発した発言に対して責任を負う必要がない点だ。だから、ある意味、発言はナンデモアリだ(もちろん、その発言を発した匿名の人間のプロフィールを暴き立てるという連中もいるが、その際にはもはや、それは匿名ではない)。こういった「やりたい放題」の場所は、いうまでもなく2ちゃんねるだ。「便所の落書き」とも揶揄されるこの掲示板。匿名であるがゆえに、「荒らし」は起こるは、「祭り」は起こるは、とにかく賑やか。誹謗中傷的な話題にも事欠かない。ただし、そこには実名では語ることの出来ないインサイドな情報、言えない情報も流れてくる。それが議論それ自体を活性化するということもありうる。

匿名という名の「通り魔」

ただし、匿名であると言うことは「通り魔的行動」もまた可能になるということでもある。2ちゃんねるのような掲示板であれば「便所の落書き」的なものであるがゆえに、誹謗中傷、過激なコメントであったとしても、それはあくまでも落書き上のこと。つまり匿名の他者に向けられたもの。特定の他者に向けられたものではないし、たとえ特定の他者に向けられていたとしても、その特定の他者もまた匿名の他者。いいかえれば、「これらはあくまでヴァーチャル世界での出来事」と済ましてしまえば、まあそれで事は収まる。

ところが、コメントされる方が実名で、これに対してコメントが匿名で、しかも内容が誹謗中傷である場合、これは2ちゃんねるとは異なった状況が展開される。誹謗中傷が特定の他者に向けられているため、まさにこれは「通り魔的行動」になるのだ。つまり、「これを書いているヤツがいけ好かない。だったら殴ってやれ!」となり、便所の落書きをする掲示板が、突然、生身の人間に転じてしまう。しかも、自分はあくまで匿名ゆえ「通り魔的」に誹謗中傷を浴びせ、そのままやり逃げしてしまえば、コメントした側は傷つくことはない。一撃をくらわせたことに快を覚えるだけだ(時に、他のコメントにカウンターを食らうことはあるけれど)。BLOGOSなどに寄せられるコメントの中には、こういった「通り魔的コメント」が散見される。

ちなみに、僕のブログにもこういった「通り魔的コメント」がなされることがあるが、原則ほとんど内容を無視している(まあ、「恥ずかしい事をなさっているのに、お気づきにならないようだ。お気の毒に」くらいには思うけれど)。また、匿名でのコメントで酷いもの(中身を全く読めていない、ことばの一部だけを取り上げて恣意的な解釈を繰り広げる、自分の意見だけをもっぱら展開する、なぜか僕についての個人的な誹謗中傷をあげつらうなど)については一切、返事をしない。まあ、こんなコメントにいちいち目くじらを立てているようじゃ、ブログなんか書けないんだけど(笑)

フィルターバブル:匿名コメントによる誹謗中傷はコメントする当人の社会性の後退を促す

また、匿名での誹謗中傷コメントの場合、発言にブレーキがかからないので、これをもっぱら匿名上で展開する人間は、イーライ・パリサーの指摘する「フィルターバブル」を来すことになる(『閉じこもるインターネット』E.パリサー著、井口耕二訳、早川書房2012)。これは、情報をインターネット上で任意に収集していくことで、情報がパーソナライズされ、その結果、自分だけの情報宇宙が構築される現象を指している。(今や検索エンジンや協調フィルタリングシステムによって、あなたは好きな情報だけを収集し、それ以外のものを排除することが出来る。たとえば、身体の具合が悪いとき「自分は癌だ」と思って検索をかければ、実際はそうでないのに自分が癌でしかも不治であるとか、反対に実は癌なのに「癌ではない」と思って検索をかければ癌とは無縁であるという結論に達することが出来るのだ。つまり、自分の思いに合わせていかようにでも情報を収集し、任意の世界観を作り上げることが出来る。詳細については本ブログ「自分の病気の症状をネットで調べると……必ず死ぬ?」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/archive/2013/04/15参照)こういったフィルターバブルの歯止めをかけるのがリアル、言い換えれば実名による責任ある発言なのだが、それがないということは、フィルターバブルによって構築された世界観に基づき、責任の発生しない匿名によるコメントによってネット上にコメントすることで、どんどんと自閉的な世界観を構築することが可能になってしまうのだ。そして、気がつかないうちにきわめて偏狭な、そして社会性のない世界観が作り上げられていく。ただし、それが通用しないことは実際のリアル=現実世界に関わらない限り自覚することは不可能。つまり、ひたすらネットにアクセスし続けることでタコツボ的な世界は維持され続ける。パーソナライズを続ける限り、自らを正当化する情報が延々とインプットされ続けるからだ。かくしてフィルターバブルはどんどん膨れあがっていく。

なぜ実名で公開されている情報に、匿名で誹謗中傷コメントを浴びせるのか

ブログなどで実名でコメントしている人間に対する、匿名による誹謗中傷コメントは、こういった人間が自閉的世界へ自らが閉じこもっていること=社会性が喪失されているという事実を抑圧するには格好の手段である。相手は実名、つまりリアル世界と接続している人間だ。ならば2チャンネル上のようにバーチャルな人間=匿名の人間にコメントで誹謗中傷するよりも、自らのコメントに社会性が生じているようにみえる。また、誹謗中傷コメント上で、匿名でコメントしている同士が呉越同舟して実名=リアルのコメントを誹謗中傷すれば、今度は「自分と同じことを考えている他者がいる」ということになり、その場限りではあるが社会性らしきものを獲得できる。便所の落書きより、生身の人間の方が反応がありそう、つまり「殴り甲斐=社会と関わったという実感」がある。しかも、殴った相手の反応を見る可能性を期待できるし(コメントし返してくるかも知れない)、その一方で、間違ってもこちら側は匿名だから「殴り返される」心配は無い。

こうやって、匿名によって実名ブログなどへのコメントに誹謗中傷を浴びせる人間は、自らフィルターバブル状態をメインテナンスしていくというわけだ。だから、常習化する、つまり、やめられない。なんのことはない、それはヴァーチャル上でのアイデンティティ確保・メインテナンスの手段なのだから。しかし、その結果、自閉性=非社会性はますます高まっていくことになってしまう。つまり「匿名によるネット上へ誹謗中傷的コメントは自傷行為」。

この非社会化のスパイラルから脱却する方法は……そりゃ、簡単。実名でコメントしている人間には実名でコメントすればよいだけのこと。ただし、それは、当然のことながら、そこからリアルの作法が適用されるということでもある。つまり「殴れば、殴り返される恐れがある」。ということは、おいそれとは殴ること、つまり誹謗中傷を浴びせることが出来なくなると言うことなのだけれど。

次回は本題の「実名と匿名の使い分け」について考えてみたい。

 個性が至上命題化された80年代以降

80年代以降、日本人の心性にデフォルトとして掲げられた命題。それは

 

「個性的であること」

 

70年代までは、60年代以降の高度経済成長イデオロギーを引きずり、人々は「人並み」であることを志向した。しかし70年代も末になると情報化・消費社会化が進み、誰もが「人並み」である時代が出現する。国民のほとんどがクルマや電化製品を買い揃え、同じような住まいに暮らし、年に数回はレジャーに出かける。いわゆる「一億層中流」という認識が生まれた。

だが、人間は贅沢なもので、欲望に限りがない。「人並み」が達成されたとき、次に目指したのが「人と違っていたい」だった。心理学者アブラハム・マズローの欲求段階仮説になぞらえれば、その最高段階である五段目の自己実現欲求の段階に達したというわけだ。そこで80年代にはいると「個性的である」と言うことが至上命題となった。とにかく「人と違っていること」が目指されたのだ。

 

でも「個性」ってなんだろう?

 

ちょっと古い曲だが、槇原敬之作詞作曲でSMAPが謳った「世界で一つだけの花」のサビの部分にこんなくだりがある(というか、誰もがご存知の歌詞だろうけれど)

 
 
そうさ 僕らは

世界に一つだけの花

一人一人違う種を持つ

その花を咲かせることだけに

一生懸命になればいい

 

小さい花や大きな花

一つとして同じものはないから

No.1にならなくてもいい

もともと特別な Only one
 

(作詞・作曲・編曲/槇原敬之JASRAC許諾第J090816598号)

 
 

これは2002年の作品だが、実は80年代と00年代の「個性」のあり方の根本的な相違を如術に示している。

 

80年代は「No.1」の個性が、00年代は「Only one」の個性が志向されたのだ。つまり、「人と違っていること」について、前者は「異なっていて、それでいて他人より優れている」、後者は「異なっていれば、それでいい」。

 

これは、情報化の進展で価値観があまりに多様化・細分化してしまった結果、互いを比較することが出来なくなった必然的結果だった(逆に言えば80年代は、まだ人並みを引きずった上での差異化が求められていた。だから分衆論とか新人類論がもてはやされたのだけれど)。そして、これは「社会に貢献する」というよりも「周囲の一部の人間に認められれば、それでよし」という心性を作り上げた。

 

まあ、それはそれでよかろう。しかし、この二つ、ある側面においてはまったく変わっていない。それは「個性的である」ということが至上命題化されていることだ。

 
 

「個性的でありたい」と思うって、なんて没個性的なんだ

そんなに個性的である必要が、果たしてあるんだろうか?

 

実は「個性的でなければならない」という命題それ自体が、ぜんぜん個性的でないのではなかろうか。もし、誰もが「個性的でありたい」と思っているのであるのならば、みんな「個性的であること」を志向するおかげで個性的ではなくなる。むしろ、いちばん個性的なのは「個性的であることを志向しない人間」だ。この人間は「自分が個性的でありたいと思うような平凡な発想を持った人間ではない」ということになるからだ。

 

個性についての、このような存在論=議論の立ち位置に関する問いは重要だ。そして、それは翻って「個性」とは何かという問題を根本から僕らに問いかけてくることになる

 

個性は人生経験の必然的結果でしかない

「個性」は、個性的であろうとして出来上がるものではない。そして、自らをさして「個性的」というものでもないだろう。個性というのはむしろ結果だ。普通に暮らしていて、その人の長所や短所、そして性格といった人格全般が出来上がる。いいかえれば本人の選択ではなく、良きにつけ悪しきにつけ運命的に背負い込んでしまうもの。それを第三者の視点から見たときに「個性」と呼ぶのだ。

 

個性的であるためには

ただし、そういった個性が他人からは「個性的」と呼ばれたり「平凡」と呼ばれたりする。では、その差はどうやって生じるのか?

 

その答えは、やはり「世界に一つだけの花」の中にある。

 

あなたは「もともと特別なOnly one」だから「一人一人違う種を持つ」。ただし、その特別な一つだけの花=個性を開花させるためには「一生懸命に」ならなければいけない。

 

そう、やっぱり個性というのは努力の賜なのだ。ただし、それは個性的になるために一生懸命になるのではなく、「もともと特別なOnly One」の花を咲かせるために一生懸命になる必要がある。ちょっと、やさぐれた表現をすれば日々「ハンパじゃね~んだよ!」といった姿勢が重要なのだ。

 

じゃあ、どうやったら一生懸命になれるのか?それは意外と簡単だ。「一生懸命」という文字の一つを入れ替えると、そこに答えは現れる。「生」を「所」にすること、つまり「一所懸命」。何事もハンパなく、その都度、つまり一所一所に懸命に取り組んでみる。そうすることで経験が積まれていく。その経験の量こそが、結果としてあなたの個性を必然的に作り上げていく。

 

大学は高校までと違い、自由な時間がたくさんある。勉強、部活、バイト、恋愛、遊び……どれでもいい。とにかくハンパなく「一所懸命」に取り組んでほしい。その先に、実は個性というものが転がっている。

 
 

毎年、成人式の式典となると出てくる話題は三つ。浦安の「ディズニーランドでの成人式」、その年の出来事にふさわしい「時節もの(ここ数年は震災ネタ)成人式」、そして「荒れる成人式」だ。そして三つ目は、成人式でのネガティブな部分として取り上げられている。大声を上げたり、壇上や会場で酒を飲んで暴れたり。「困ったもんだ、何とかならないのか?」というのがその取り上げられ方なのだけれど。

さて、この「荒れる成人式」を終わらせる方法はないのか?実は、簡単に出来る。これをメディア論的視点から展開してみよう。

メディア・イベントとしての荒れる成人式

メディア論には「メディア・イベント」という考え方がある。これは実際に事件が起こっていようがいまいが、それが事件=イベントとなるためにはマスメディアが取り上げなければならないというもの。言い換えれば、どんなものであれマスメディアが事件=イベントとして取り上げれば事件になってしまう。つまり「マスメディアが事件をつくる」。そして、事件になってしまうと、今度はその事件=イベントは既成事実化し、それ以降、頻繁に発生するようになる。いわば、ヴァーチャルがリアル化するのだ。バレンタインデー、ホワイトデー、最近だったら恵方巻きなんてのがその典型だ。50年前バレンタインデーにチョコレートを贈っていた人間なんていないし(ちなみに現在、これはもっぱら日本と、日本に感化されたアジア諸国でメディア・イベント化している)、恵方巻きに至ってはここ数年の間に流行った、コンビニ誘導?のメディア・イベントだ。

さて、「荒れる成人式式典」だが、これはまさにメディア・イベントの典型といっていい(まあ、お役所がやっている成人式自体が、元はといえばメディア・イベントなんだけど)。60年代からチンタラし始めた成人式の式典。当初は式典の祝辞も聞かずザワザワと私語が展開された程度だったが、暴走族的な存在(いわゆるヤンキー)たちが式典で暴れ、これがメディアで大々的に報道された。すると、これを見たヤンキーたちが感化され「オレも成人式になったらやってやろう!」ってなことになった。そして、これが過激化すると、マスメディアが「荒れる成人式」として大々的に取り上げ、識者とおぼしき人物たちに「けしからん!」と言わせた。すると、「こりゃ祭りになる!」とばかり、ヤンキーの兄ちゃん(姉ちゃんもいるだろうが)たちをいっそうやる気にさせ、その結果「荒れる成人式」という「お約束」が成立してしまった。今年は大阪で橋下徹が祝辞の際に一喝したなんてのが報道されたが、まさに、これはイベント・フィーバーものだろう。二つのメディア・イベントのスターによる「夢のジョイント」なんだから、いっそう盛り上がる。

ちなみに、これと同じだが、ポジティブな方がディズニーランドの成人式だ。毎年、マスメディアがこぞって取り上げるメディア・イベントと化したおかげで、浦安市の新成人たちの出席率は異様に高くなった。メディアが煽れば煽るほど必ず出席したいという浦安の若者が増えるのだ。いや、浦安に住みたいと思う人間すら出現する始末。

荒れる成人式報道をやめてしまえ!

「この荒れ具合、どうにかならんものか?」

この処方箋は、

「メディア・イベントのスパイラルを止めればいい」

というだけのこと。

つまりメディアが荒れる成人式の報道を一切やめてしまえばいいのだ。荒れる姿がメディア上に現れなければ、その存在が知られることはない。ということは「そんなものはなかった」ということになる。ちなみに「いや、そんなことはない。ネット上に展開されるはず」とツッコミを入れたくなる御仁がいらっしゃるかも知れない。ところが残念でした。インターネットでいくら騒いだところで、マスメディアがこれを取り上げない限り、ほとんど「種火」くらいで終わってしまう。つまり着火することはほとんどない(というか、ネットでの盛り上がりは、最終的にマスメディアがメディア・イベントとして取り上げることで初めて成立している)かくして荒れる成人式は終わる。あるいは、どこかで細々とやられているだけということになる(まあ、 そもそも荒れる成人式は非常に少ない。一般的には何事もなく終わるか、ザワザワ私語が展開される程度。しかし、目立つので報道されて、あたかもあっちこっちで展開されるように見えているだけなんだが。つまり、やっぱり、メディア・イベントなのだ)

報道は常に取捨選択のメディア・イベント

「これって、典型的な報道統制、報道の自由を阻害しているトンデモナイ発想なんじゃないの?」

確かに見せたくないものを隠蔽してしまうのだから、そのような指摘が間違っているとは言えない。実際、政治だったら典型的な思想統制の手段だ。しかし、である。現実というのは多元的なもの。その中からいくつかが選択され、メディア上にメディア・イベントとして展開されているという事実を看過してはならない。つまり成人式式典には多元的な現実=出来事が存在し、現在はその中から「ディズニーランド成人式」「時節もの成人式」「荒れる成人式」が任意にチョイスされているだけ。だから、こういう指摘は必ずしも当たっていないのだ(これだって立派な報道統制の一つと言い返すことも出来る)。メディア側が視聴率とか発行部数的においしいネタをチョイスしただけなんじゃないの?たとえば、フツーの成人式を迎えたフツーの人たちのことを、なんでこの「成人式三大ネタ」よりも過小評価して扱うの?こっちの方が圧倒的にマジョリティなんだから、報道の平等性を考えれば、この大多数のほうをもっと大幅にフィーチャーするのがあたりまえ。そうしないのは、ようするに「これじゃ、カネになんない」から。いいかえれば、これは「マスメディアの業績原理に基づく報道統制」だ。そう、「現在のマスメディアのほうがはるかに報道統制を行っている」と倍返ししたほうが的を射ている。そして、さらにマスメディアにツッコミを入れれば「あんたたち、こんなかたちでしか稼げないなんてのは、単なる創造力・想像力の欠如だよ」「いつも三大与太話のクリシェ(常套句)でお茶を濁していようじゃ、しょ~もない。もうちょっと、工夫してください」ってなところになるだろうか。

要するに僕らは記号=メディア・イベントとしての荒れる成人式に振り回されているだけなのだ。

ハッキリ言おう!「成人式で荒れてるヤツなど少なくともメディアからは抹殺すべきだ!」と。(もちろん、「スルーせよ」「取り上げるな」という意味ですけど)。

SNSはリアルなコミュニケーションヴァーチャルに上げ、ヴァーチャルなコミュニケーションをリアルに下げることの繰り返しによって、人と人のコミュニケーションをメインテナンス・活性化するツール。だからヴァーチャルな環境でもリアルな環境でのルール・マナーである「公私の区別」が要求される。前回はFacebookについてみてきたが、最終回の今回は、TwitterとLINE、そしてSNSのゆくえについて見ていきたい。

Twitter。一見、公私の区別など不要に見えるが

Twitterは一般的に「ゆるいつながり」を備えるSNSと呼ばれている。実名である必要はないし、原則、不特定多数の人間に向かってツイート、つまりつぶやくからだ。だからパブリックでありながらプライベートであるという「ゆるさ」を備えている。たとえばアカウント名が匿名で、自らのプロフィールをほとんど書き込まない状態で利用すれば、かなりアブないことでも書き込むことが可能になる。要は、面白くて、誰かが相手にしてくれればいいわけで(相手にしてくれなくても、まあ、いいけれど)。書き込んだ内容がバッシングを受け炎上したとしても、あくまでも自分は匿名。なので、よっぽどのことがないと(つまり、自分が誰であるのかを同定するような情報を残さない限り、あるいは執拗にプライベートを暴露しようとするユーザーがいない限り)自らに直接的な危害が加えられることはない。いいかえれば、匿名性を徹底している限り、発信に関しては公と私の境界線が限りなく曖昧になるSNSなのだ(逆に言えば「匿名性を徹底する」というメタ的な公共性が強く求められるということでもあるのだが)。

また、こういったゆるさ=曖昧性によって、津田大介たちの言う「属人性」をフルに発揮できるSNSでもある。つまり実名でパブリックには発しづらい個人的な情報を発信することで、他のユーザーが一般的には収集が難しいような情報を入手することが可能になる(もちろん受信者となればその逆、つまり細部に立ち入った情報が入手可能になる)。かつて上杉隆が指摘していたように、ユーザー全員が新聞記者・特派員となる潜在的可能性を秘めているのだ。

だから、FacebookとTwitter双方を利用しているユーザーの多くが「Twitterには、Facebookにはアップできないような内容をコメントする」という使い分けを行っている。

ある意味、Facebook以上に大人の扱いを要求される

ところが、前述したようにTwitterがしばしば「バカ発見器」や「バカッター」と称されるように、書き込んだ本人がバッシングの対象となることがある。コンビニのバイトが自らアイスクリーム用冷蔵庫の中に潜り込んだ写真を公開し炎上した、有名人のお忍びチェックインをホテルの従業員がツイートし、炎上の末、従業員のプロフィールが暴露され集団バッシングを受けたなどがその典型例だが、これは要するに「本来なら、身内だけで密かに公開し合うような内容を不特定多数の人間に向けて公開してしまった」がために発生する事態だ。いわば「属人性の誤用」(属人性の高い情報の発信といっても、あくまで「専門的知識」のような「公的な内容に関する詳細な個人的情報」の発信に限られる。つまり、個人的ではあっても私的≒プライベートなものではない)。ようするに、これもまた私的空間でのコミュニケーション様式が公的空間に持ち込まれることによって発生した混乱なのだ(もっとも、そうはいってもアイスクリーム用冷蔵庫の中に入られるのは困りものではあるけれど……)。

こんな、公私混同的な用い方をしてしまう原因は、やはりSNSリテラシーの有無(この場合は「Twitterリテラシー」)に求められる。

Twitterの利用者の多くが、上記のような利用法以外に、Twitterをメッセンジャー的にも使ってもいる。つまり、仲間内同士でフォローし合い、それによってTwitter上でコミュニケーションを図るという使い方だ(しかも、若年層にとってはこちらの方が主流の利用法だ)。ところがTwitterは原則オープンなSNS。ダイレクトメッセージ的な利用以外、自らの発言=ツイートは不特定多数の全世界にばらまかれる。つまりFacebookならグループ機能で交わされているコミュニケーションをニュースフィードで、いや、それどころか友だちでもない一般人に向かってさらけ出すことになるわけで、こりゃ、おもいっきり危険ということになる。なんたって、プライバシーの垂れ流しなんだから。

そして、若年層の多くが、Twitterをこういった「仲間とのチャットツール」として使用している(フォロー、フォロワー数は僕のところの大学生でそれぞれ100名程度。しかも、相手のアカウントがハンドルネームであっても、誰なのか認知している。つまり「匿名」だが「有名」。ハンドルネームは単なる「あだ名」でしかない)。だから、結果として「身内ネタ」が「炎上ネタ」となってしまうのだ。

TwitterはFacebookのように公私の区分けが機能的に分化されているわけではない。それゆえ、公私の線引きはもっぱらユーザーに委ねられることになる。ということは、Twitterはゆるいつながりで公私がゴチャゴチャであってもよいように見えて、その実、Facebook以上に公私の峻別が求められるSNS。いいかえれば、最も「取扱注意」的な側面を備えているSNSということになる。堅苦しいけど安全=Facebook、お手軽だけど危険=Twitterといったところだろうか。

公私の峻別がもっともカンタンなLINE、だから安心

今回の特集ではSNS利用=SNSリテラシーについては、常にリアルワールドでのコミュニケーションが担保になることを指摘しおいた。ポイントは二つ。一つは「公私の峻別」で、これについては、すでにここまで詳しく展開してきた。そして、もう一つが「人間関係資本」、つまりリアルワールドでの人間関係の量や質がSNSの利用に大きく影響することだった。

さて、Facebook、Twitter、LINE三つのSNSの中ではFacebookが最も人間関係資本を要求すること、つまり「大人のSNS」であることを確認してきた。じゃあ、残りの二つはどうだろう?

まず、Twitter。これは人間関係資本を要求はしない。活性化するのに必要とするのは属人性、つまり人間関係ではなく、ユーザー本人の知識や経験(知識経験資本?)だ。ただし「公私」についてはFacebook以上にその峻別が要求されるSNSだった。だから、人間関係資本規模の小さい若年層、つまり社会性が低く(言い換えれば「公私の峻別がつかない」)、知人・友人の数が限定されている若者がメッセンジャー的に利用すると「バカ発見器」「バカッター」になってしまう。

そしてLINE。これはFacebookが「人間関係資本と公私の峻別」、Twitterが「公私の峻別」を要求するのに対して、このいずれも必要としないSNSだ。LINEは多機能だが、その利用はトークと呼ばれるメッセンジャーと無料通話にほぼ限定される。とりわけ利用の主流はトーク。これはFacebookのメッセージ機能とグループ機能をまとめたもで、それぞれの機能が明確に分離されている。関わる相手は一対一ならば実質上二人っきり、グループならばメンバーとして登録した友達のみであり、ともに完全クローズドな環境を構築している。

ということはSNSリテラシーを最も必要としないゆえ、若者には受け入れやすいということになる。さらに若者の場合、人間関係資本の規模が小さいゆえ、よりいっそう歓迎すべきSNSと映る。リアルな仲間をヴァーチャル上に押し上げ、そこでの情報が外部に一切漏れることなくコミュニケーションが可能となる。つまり「バカ発見器」に引っかかる可能性がない。また、狭い人間関係をリアルとヴァーチャルを往還する中でメインテナンスするツールとしても便利だからだ。当然の結果として、Twitterでチャットをやっていたこの層が、一斉にLINEに飛びついた。その結果が、現在の若者の間での普及率だ(僕の大学だとスマホの普及率は91%、そのうちLINEの利用率は99%に達している。一方、Twitterの利用率は低下している)

こうやって見てみると、Facebook、Twitter、LINEいずれにしても既存の人間関係資本がそのアクセスや使いこなしに大きく影響を及ぼしていることがわかる。そして、あらためて繰り返すが、そのリテラシーの要求度はFacebook≧Twitter>LINE。だからFacebookは「大人のSNS」でLINEは「子どものSNS」、そしてTwitterは「取扱注意のSNS」ということになる。

SNSの未来

今回はSNSのメディアリテラシーについて考えてきたが、もちろん大人が子ども向けのSNSのLINEを使ってはいけないわけではない。「子ども向け」というのはリテラシー上、高度なレベルを必要としないがために、便宜的に振ったに過ぎない。大人がLINEを利用しても、他と使い分けても何ら問題はない。実際、僕もLINEを頻繁に活用している。たとえばカミさんとのやりとり、仲間内での簡単な連絡なんてのは、こっちの方が気軽かつ簡単で、その利便性はFacebookよりも高い。スタンプ機能は親密性を高めるツールとしても有効だ。また、親が子どもにスマホを持たせ、連絡を取るなんて時にはLINEは強力な威力を発揮するだろう。だから、実質的にはこれらは大人だったらTPOに合わせて使い分けるというのが適切だろう。

さて、今回はSNSの利用についてはリアルワールドでのコミュニケーションが担保になっているという前提で議論を進めてきた。つまりリアルあってのヴァーチャルであると。しかし、である。メディアというのはそれぞれメディア的特性(マクルーハンの表現を用いればメディアのメッセージ性)を備えている。そして、その特性はわれわれの行動や思考様式に大きな影響を与える(ケータイやスマホを所有するようになったら、人との待ち合わせがかなりイイカゲンになったなんてのがその典型)。ということは、今後スマホが、そしてSNSが完全に定着し、ウェアラブルなメディアとなった暁には、これらが備えているメディア的特性がわれわれのコミュニケーション・スタイル、そしてライフスタイルを大きく変容させる可能性がある。それは、言い換えれば、これまでわれわれがデフォルトとして考えてきたリアルの世界の変容ということでもあるだろう。たとえば、パソコンがデスクトップというリアルな卓上をシミュレートしたインターフェイスを考案し、それが一般化したとき、立場が反転して、今度はデスクトップをシミュレートしたかたちでリアルな卓上が設計されたりするような変化だ。

こういったことを踏まえると、SNSにおけるヴァーチャルなコミュニケーションがリアルなコミュニケーションをメインテナンスしたり、活性化したりするだけではなく、今度はSNSのヴァーチャルなコミュニケーション様式がリアルワールドのコミュニケーション様式を変更する可能性もある。というか、メディアというものは、常にリアルをプッシュし、リアルがヴァーチャルを交えていくことで、新たなリアリティを構築、そしてメインテナンス(バージョンアップ?)していくものなのだ。当然、今回テーマとしてあげた「公私の峻別」の線引きも変わって行くであろうし、いや、そもそも「公ー私」という概念そのものが変容する可能性も十分に考えられる。

残念ながら、新たなリアルワールドのコミュニケーション様式がどのようになるかは、現状では過渡期で見えていない。しかし、10年後にはその新しい様式が定着し、どのようなものに変化しているのかが、おそらく明らかになっているのではなかろうか。いや、技術革新は早いので、ひょっとしたら五年後かも知れないが。

それくらい、早いスパンでのメディア様式の変容の中に、われわれは生きているのである。

SNSはリアルなコミュニケーションヴァーチャルに上げ、ヴァーチャルなコミュニケーションをリアルに下げることの繰り返しによって人と人のコミュニケーションをメインテナンス・活性化するツール。利用に際してはその前提となるリアルワールドでのコミュニケーション様式がヴァーチャルのそれにも同様に要求される。それゆえ、ユーザーはSNSメディアリテラシーとして、リアルワールドでのコミュニケーション様式である「公と私の区別」が必要となる。じゃあ、SNSを代表するFacebook、Twitter、LINEでは、この区別がどうやって機能的に分類されているのか。そして、ユーザーたちは実際にどうやって使っているのか?今回はこれらについて見ていこう!ちなみに、「公と私の区別」についてはFacebook≧Twitter>LINEという図式が成り立つ。

「公と私の区別」が最も厳密に規定されているFacebook

まず、公私の区別を細かく規定するエリアが存在するFacebookを例に取ろう。Facebookは多機能だが、最も多く利用されるのは「ニュースフィード」「グループ」そして「メッセージ」だ。

「ニュースフィード」は、いわゆる「掲示板」で、「友達」関係を結んだ相手全員に情報か公開されるエリア。そして最もパブリックなコミュニケーションが要求されるエリアだ。当然、多くの人間=「友達」に情報が公開されるので、ここではプライベートに関わるコメントは差し控えるのがルール・マナーとなる。だが、これが「グループ」となれば、閲覧可能な人間が限定され、かつ可視化されるので、プライベートならぬ「身内」的なコミュニケーションが許されることになる。さらに「メッセージ」ともなれば一対一でのコミュニケーションとなるので(Facebookの場合、「メッセージ」をグループで括ることもできるが)、ここでは完全にプライベートでクローズドなコミュニケーションが可能となる。

また、プライバシーをどれだけ公開するかは、個人の意志によってまちまちなので、これもまたプロフィールによって設定が可能となる。名前以外のほとんどをプロフィールに記載しなければ、実質的にFacebookはほぼクローズドなSNSとなる。ただし、この場合、SNSとしてはほとんど機能しなくなってしまう(極端な例としてプライバシーをほぼ公開せず、友達申請もせず、承認もせず、ひたすら写真のデータベースとして使うという利用法もある)。プロフィールを詳細に描き込めば、Facebookはそのデータを参照し、それに関連する情報や人物をユーザーに返してくる。たとえば、自分の出身高校、卒業年度を記入すれば、同じ記載をプロフィーに登録しているユーザーをこちらに「友達かも?」と示してくれる。それが実際にかつての同級生だったりすると、そこから友達申請をし、関係が結ばれる(復活する?)。もちろん、これはFacebookがプロフィールに関連する人物を割り出してくるだけではなく、自分のプロフィールも関連する人物に「友達かも?」と紹介するということでもある。だから、プロフィールを公開すればするほど、こういった人間たちと関わる可能性が高まる。だが、それは反面、リアルワールドでのコミュニケーションネットワークと同様のパブリックな関わりをより強く要求するものとなる。いいかえれば、公開すればするほど、社会性、社交性といったものが要求されるようになる。

これら機能を上手に使いこなすことができるのであるのならば、Facebookはきわめて有益なコミュニケーションツールとなる。とりわけ人間関係資本が豊富、つまり友達や仕事関係者が多い人間にとっては実に便利なツールだ。また、この三つのレベルを使い分けることで、Facebookをビジネスのコミュニケーションツールとして利用することも可能。だから、広く社会と関わることの多い大人向けのSNSということになる。

ニュースフィード、グループ、メッセージの明確な公私の使い分けが必要

問題は、この機能の使い分けがうまくできない場合、つまりFacebook上の公的空間に私的な情報を発信したり、その逆をやったりする場合だ。たとえばニュースフィードに自分の子どもの写真を貼ったりするのがその典型。これはプライベート、あるいはギリギリ仲間内だけでウケる情報。正直な話、閲覧する側は他人の息子娘にほとんど関心はないわけで、まあ迷惑な話となる。また自慢話をされても、ちょっと困る。あるいはまた、仲間内での他人の悪口なんてのがニュースフィードで展開されたら、これはエラいことになる。オフレコネタの一般公開になってしまうからだ。つまりニュースフィードでは、発信する情報の公共性を常に考慮に入れなければならない。

結局、ニュースフィード→グループ→メッセージという流れで公→私という使い分けをきちんとすることが基本となる。やっぱり、これらを閲覧することが想定されるリアルな人間との関係が、こちらが情報を流す際の担保となっている。

次回(最終回)はTwitterとLINE、そしてSNSリテラシーのゆくえについて。

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