議員辞職、都知事ねらいと、Twitter上では「悪者扱い」されている東国原英夫氏を「安心理論」に基づきヨイショしている。三回目の今回は⑤オリンピック東京誘致に反対していたこと、⑥東国原の行政手腕について。
⑤「オリンピック東京誘致に反対した人間には立候補の資格はない」という理屈は後出しジャンケン
Twitterでは都知事選出馬時、東国原がオリンピックの東京誘致に反対し、代替として広島・長崎への誘致を提唱していたことがやり玉に挙がっている。つまり、東京オリンピックは決定したのだから、それに反対していた人間にこれを仕切る資格はないというモノのイイだ。これは選挙プランナーの三浦博史氏もブログで指摘していた(http://www.election.ne.jp/planner/96633.html)。
だが、このモノのイイはダメだ。これは社会学でいうところの「前史化」というレトリックそのものだからだ。前史化とは現在発生していることを正当化するために、過去の歴史の中から都合のよいものだけを抜き出し、これを強化するというやり方だ。例えば以前、アメリカのフェミニストが「ウォルト・ディズニーは女性差別主義者」と批判したことがあった。ディズニーはご存知のように白雪姫・シンデレラ、眠れる森の美女と言ったプリンセス三部作を手がけているが、ここに登場するプリンセス全てが「いつか王子様が」という文脈で語られており、男性優位、女性蔑視を助長するイデオロギーを煽ったと指摘したのだ。
ただし、ウォルトは六十年代半ばにはこの世を去っている。そして、これら作品が制作されたのは三十年代後半から六十年まで。この時期は女性差別、そして人種差別がまだまだ激しい時代。当然、一般の認識としては男性優位はあたりまえだった。そしてディズニーはそういった社会的文脈の中にあった一人の男性でしかない。つまりディズニーを批判するためには当時のアメリカ男性(そして女性)全てを批判することに等しいわけで、ディズニーを男女差別主義者と特定することは「現在、ディズニーがいたら」という前提でしかない。
東国原のオリンピック東京誘致反対もまったく同じ図式だ。東国原が立候補した2011年、オリンピック誘致についてはまったく盛り上がっていなかった。ライバルとなるマドリッドやイスタンブールよりも住民たちの支持はぜんぜん低かったのだ。だから東国原のような誘致反対の都民もかなりいた(逆に言えば、東国原はそこに目をつけていたとも言える)。ところが本年九月、結局2020年オリンピックは東京に決まり、一気にオリンピックムードは盛り上がった。そして現在、気がつけばオリンピックを開催することはあたりまえといったムードが立ちこめ、あの頃反対したり、関心なんかなかったなんてことは、多くの人間がコロッと忘れてしまっている。さらに、反対することなど許されないような雰囲気に。そんな時、オリンピック誘致に尽力した猪瀬が辞めた。そして国是となったオリンピック東京開催という現在から逆算して「あの頃、東国原は反対していた。だからダメ」というのはまさに前史化なのだ。東国原が仮に都知事になったとしてもオリンピックをやめるなんてことはありえないし、いや決まったことには当然、尽力するはず。東国原は大のマラソン好きで、立候補したときには首都高マラソンなんてことをぶち上げていたくらいなのだから。当時のことをあげつらったところで、ほとんど意味などない、そして後出しジャンケンなのだ。
⑥東国原は、県政についてかなり勉強していた。
2007年5月、統一地方選=県議会選が終了した直後、宮崎の民放UMK(フジテレビ系のクロスネット)では、スーパーニュースの時間枠を利用して東国原と当選した県議との討論番組を生放送した。これはテレ朝の「朝まで生テレビ」的な構成で、県政について知事と議員がバトルを繰り広げるものだったのだけれど、東国原はたった一人で県議会議員約四十人ほどと対峙したのだった。県議としては東国原をただのタレント、人気があるだけくらいにしか思っていないので、これがチャンスだとばかり、番組では一斉に東国原に攻撃を仕掛けたのだが……結果はその逆。たった一人の東国原が四十人を手玉にとって、いわば返り討ちにしてしまったのだ。もちろん話術の巧みさが大きな武器になったこともあるが、最終兵器はなんと「県政についての知識」だった。
たとえば県議会議員の一人が自分の地盤で起きている問題点についてとりあげ、こんなエラいことになっているのにオマエは何も考えてない、いやその前に知らないだろう?みたいな上から目線の攻撃をしてきた。当然、地元有権者へのリップサービスも意図してただろう。
だがこのとき、東国原はその議員が取り上げたネタを倍返しで深掘りし、「アンタはこのことを知っているのか」とやり返したのだ。すると、相手はタジタジとなってしまった。地盤出身の県議より東国原の方がその地盤の問題について詳しかったのである(このやりとりをテレビで見ていた県庁職員の中には、普段、行政についてろくに勉強もしていないのに自分たちにデカい面をしている県議たちが、東国原に一泡吹かされたこの番組を見て、おもわず「ざまあみろ」と溜飲を下げる者もあった。職員たちの東国原への信頼が高まったのは言うまでもない)。そして、東国原のこの地域に対する知識の豊富さが、最終的にマニフェストに掲げた「100社の企業誘致」を退任間近で達成することで見事に実を結ぶ。
番組は当初一時間(午後5時~6時)の予定だったが、事の重大さを察知したUMKは急遽変更を変更し、結局六時台の枠の部分も潰すかたちで(全てではない)七時まで討論を延長した。そして、この番組は大評判=一世一代の大芝居となり、東国原の政治的手腕=行政手腕を県民に知らしめる格好の機会となる。実際、この生中継は、その後、深夜枠で数回再放送すらされたほど。そして、東国原の支持率はさらに上昇、90%台を獲得するに至ったのだ。
県議会は「タレント=お笑い出身の知事など赤子の手をひねるようなもんだ」とタカを括っていたが、実際に赤子の手をひねられたのは県議会の方だった。県政の知識は東国原の方が圧倒的に抱負だったのだ。これは僕が東国原氏と何度か話す機会を得たときにも同様の印象だった。まあ、とにかく地域について細かいことをよく知っていた。
「安心理論」を展開する意義
さて、ここまでとにかく東国原という人物を「安心理論」に基づいてヨイショし続けてきた。また、それを実証すべく僕の東国原にかんする生のデータをいくつか紹介した。だがこれは、いわばディベート的な手法。つまり、先ず自らの立ち位置を自らの主義主張にかかわらず形式的に決定し、それを正当化するためにいろいろな事実や論理を持ってくる、その一方で都合の悪いものは隠蔽するというやり方だ。だから、当然、僕の論理の方にもデフォルメと省略がある。ちなみに、たとえば宮崎の実績をデフォルトに現在を語るのは、上にあげた「前史化」の反対の「後史化?(過去の事実=実績に基づき現在の行為を正当化する)」とでも言うべきレトリックになる。
で、こんなことをやったのは、本特集の冒頭でも述べたようにTwitter=マスメディア的な東国原のイメージを相対化してもらいたいから。いわばポジ・ネガ二つの視点から東国原を見てもらおうというわけだ。僕たちが必要とするのは、タレントではなく政治家として東国原の費用対効果なのだから。
東国原の問題点
ただし、東国原ウォッチャーをやって来た僕としては、彼に対して「?」と思うところがいくつもある。
1.2009年の衆院選に自民党からの出馬要請があり、これに対し「総裁候補」とすることを前提としたこと。ギャグや自民党への皮肉かと思ったら、本人、結構本気だった。
2.現在、用もないのにテレビに出続けていること。もはやバラエティに出演したところで、背後に宮崎を前提しているわけではない。資金稼ぎ?ただのデタガリ?
3.(やはり)すぐに政治家を辞めてしまうこと。宮崎知事を一期で、衆議院議員をたった一年で辞めてしまった。
ちょっとあげてみれば、まあ、こんなところだろうか。ただし、これらを細々とあげつらってもポイントがズレてしまうし、単なる揚げ足取りにしかならないので、最後に僕が感じた東国原の問題点について、これらをまとめるかたちで展開してみたい。
「プラーっ!」としてしまう性格が×
東国原は興味を持つと、それに対して集中的にエネルギーを投入する。しかも、ものすごいスピードで。で、このスピードに周囲が振り回されて追従し、その結果、政治がどんどん進んでいったというのが宮崎での展開だった。
ただし、この性格は裏腹なものでもある。興味がないもの、興味を失ってしまったものについてはまったくやる気を見せないということでもあるからだ。つまり「飽きっぽい」。これを象徴するのが2009年の衆議院への自民党からの出馬要請騒動で、結局話はお流れになるのだが、その後がいけなかった。すっかり県政への興味を失ってしまったのだ。いわば「県政」よりも「国政」という女の方に関心がいってしまった(実際、東国原は「県政だけではどうにも県を変えられない」といった文脈のコメントをし、心変わりを正当化している)。で、その後、本人の言葉をそのまま引用すれば、残りの任期一年半は「プラーっ!と」してしまったのだ(宮崎の東国原番の記者からも、かなりやる気を無くしていたという情報が僕のところに頻繁に入ってきた)。僕が就任半年の時点(2007年10月)で彼にインタビューしたときには「宮崎に骨を埋めるつもりでやります」と宣言していたのだから、 こりゃイイカゲン。まあ、自分の力が十分に発揮できないと思うと辞めてしまうような感じは、はっきりいってあるし、今回の衆議院議員辞職もこの文脈で理解することも十分に可能だ。で、結局、今回はここのところにツッコミが入れられた。
その後、都知事選に出たり、日本維新の会に入ったりしているが、やっぱり全般的にプラーっ!としている感は否めない。テレビへの出演も、維新の会での存在も、なぜ東国原がそこにいるのかという存在根拠が感じられないのだ(辞職の弁を自分のブログで表明したときにも、維新の会に対して「最初からあまり役に立っていない」と表明している)。
で、そんなことをしているうちに、かつての宮崎の名声も賞味期限切れになりつつある。一方、この曖昧なイメージは世間的にも広がり、そこで議員辞職にあたっては「都知事選で一発逆転を目論んでいる」と、Twitterやメディアで憶測が流れることになったわけだ。
東国原という男。僕は密着する中で政治家としては極めて高い能力、そしてファンタジスタ的才能を備えた人材と判断したのだけれど、このプラーっ!は、はっきり言っていただけない。メディアの怖さを熟知し、それをうまく利用してきた東国原のことだから、現在、風当たりが強いことは重々承知だろう。フラフラあっちこっちに目移りする「権力亡者」みたいにすら思われていることを。しかし、こうなったのは、ちょいと一般には理解しがたい行為を連発させた結果であることを自覚すべきだ。もし、このブログを本人が読んでおられるようなことがあれば、僭越ながら一言申し上げたい。「東さんそろそろ、シャキっと方向を定めてしっかり、じっくりとやってください。じゃないと、せっかくの才能がもったいないですよ」と。
まあ、都知事選には出ない方がよいのかも。ただしファンタジスタの東国原のことだから、僕らの思いもよらないトリックプレーで政界を引っかき回すなんてことがあるかも知れない。でもって、都知事になってたりして……
最後に僕が考える東国原ファンタジスタ的、都知事選のシナリオ(ただし、もちろんギャグ)を一つ。
自民党は勝てる候補が欲しい。それは東国原の出馬を恐れるから。しかし適切な人材がみつからない。一方、東国原もネガティブなイメージが広がっていて、おいそれと出馬というわけにはいかない。つまり、三すくみならぬ「双すくみ」の状態。そこで出てきたウルトラCとは……自民党推薦による東国原の出馬だった(笑)