勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2013年12月

「中学3年までの英語」学習のために必要なもの

前回までは、英語を「理屈―感覚」「教養―実用」という二分法をやめ、双方を統合したものとして扱うこと、量より質を重視すること、さらに「英語―国語」二分法ではなく「言語」というレベルで扱うことをコンセプトとして提示した。

今回はこの方法論、つまり具体的な学習法を示したい。それが「中学3年までの英語」だ。具体的には以下を学習項目とする。


1.品詞分類(ただし日本語)

2.五文型

3.発音


これらを徹底するために使うもの

1.中学3年までの文法を網羅した学習書(残念ながら無いのだが)

2.リーダーの教科書

3.文型のフレーズをならべた学習書(例えば森沢洋介『どんどん話すための瞬間英作文』ペレ出版)


これらを使って習得するのは「英語単語の運指パターンの身体化」だ。で、上の三つの項目は、それぞれやるのではなく、同時に進めていく。

品詞分類

まず品詞分類を学ぶ。ただし、英語じゃなく日本語。名詞、動詞、形容詞、副詞、助詞、助動詞、接続詞といった品詞を現在の大学生の多くが分類できない(これって、かつては小学校の学習項目だった(現在は中学校))。だから、作成した文章がわけがわからなくなるんだろうけれど。そこで、とにかく英語なんかどうでもいいから、日本語でこの品詞分解を徹底的にやらせる(ただしこの時、「形容動詞」などの細かい項目は無視してもいい。実は品詞分類は単語がそれぞれ独立している英語のほうがはるかにやりやすいので基本だけをやる。だから逆に、英語で品詞分類ができたら、それを日本語文法にあてはめるほうが英語・日本語双方を学ぶのにやりやすいのだ)。ちなみに「国文法を子どもに教えるのは難しい」と考える人間もいるかも知れないが、実はそうでもない。最初に文章から名詞だけを抜き出させ、それができたら動詞だけを抜き出させ、それができたら……というかたちで段階を踏んでやっていくと、たいていはできる。なんて言ったって、もっと高度で文法的に難しいRPGのルールを簡単にクリアする能力が、ほとんどの子どもには備わっているんだから。要するに教え方が悪い、というか「難しい」という偏見に基づいて、ちゃんと教えないのが国文法を理解できない子どもを生んでしまっているのだと僕は思っている。

五文型

国文法に続いていよいよ英語に入るのだけれど、最初にやるのは英語の運指のパターンである五文型だ。この時、主語、述語、目的語、補語、修飾語を同時に教える。で、これも高校までの英語教育ではオマケ程度にしかやられていないので、大学生のほとんどは文型分けができない。しかし、五文型は英語のもっとも重要な基本構造。これが身体化されていなければ、英語を理解するなんてのはちょっと無理。前回示した、やり方も知らず身体全体でスペース・インベーダーに悪戦苦闘するインド人みたいになる。つまり、理屈なし、ほぼ感覚だけで英語文法を学ぶという、きわめて費用対効果が少ない学習になる(機械的に書き換え問題を練習するなんてのがその典型的な学習方法)。 で、大学生のほとんどが、英語に関してはこの「クラゲ=骨なし人間」の状態なのだ。

とはいうものの五文型、理屈がわかりづらい。そこで二つの指導を行う。

一つは「とにかく五文型をそらんじさせる」。つまり第一文型「SはVする」、第二文型「SはCである」、第三文型「SはOにVする」、第四文型「SはIOにDOをVする」、第五文型「SはOがCであるとVする」「SはOがCするのをVする」と五文型を暗記させる。その際、当然ながら品詞分類も同時にやさせる。ちなみに、こうやって五文型をそらんじさせることは「理屈の身体化」だ。それができたら、今度は、それぞれの例文を10文くらいそらんじさせる。これには前述の『どんどん話すための瞬間英作文』が役に立つ(それぞれの文型について10の例文がある。左頁が日本語、右頁が英語という構成)。ちなみにこの時、本書に添付されているCDを利用して発音も同時に覚える(どれも声を出して暗記することは必須。こうしないと理屈が感覚に昇華されない。身体化とは考えなくても口が勝手に答えを喋ってしまうというレベルを指す)。ちなみに、各項目の暗記(瞬間英作文)ができるようになったなら、今度はこれをシャッフルしてやる。各文型のフレーズをごちゃまぜにして出題し、瞬間的に口から英語を発せられるようにする。ちなみに、この時、競争させるのがコツ。ストップウォッチを使ってタイムトライアルなんてのも、楽しく学べるやり方の一つだ。

リーダーを徹底的にやる

で、これに慣れてきたら、今度は新しい文法項目として「句と節」を教える。ただし、この二つは品詞がわかっていないと決してわからない項目なので、それ以前の項目が固まった時点で加えていく。

これをやる教科書が、実はリーダーなのだ。重要なのは先ず和訳させることで、教科書の英語をその場で訳させるのだが、その際、現在どこを訳しているのかを全て指さしさせながら訳させる。こうやると次第に英語を日本語に訳した際、どういった順番で訳すのか、どの単語がどの訳に対応しているか、その単語の品詞が何かを理屈で確認でき、さらにそれが身体化するようになる。ちなみに、その時子どもたちが発見するのは「英語は後ろから訳しあげるもの」ということ。中高時代に教員から「英語は前から訳さないとダメ」と説明を受けた人間は多いだろうが、これは全くのマチガイだ。もちろん、最終的に前から理解しなければならなくなるのは当然だが、先ず理屈、つまり「日本語と英語は順番が異なっている」ことを明確に理解してから、英語の配列を身体化=感覚かしていくという段取りが大切なのだ。いきなり前から訳せっていわれても、それは人間の学習能力からいって無理がある。

ただし、中学校のリーダーの教科書は、詳細を教員が説明することになっているので、教科書での自学習は無理。そこで中学校までの文法を網羅した文法の学習書を用意すればいいのだが、これがなかなかよいものがない。ちゃんと理屈を説明してくれている良質の文法書は『Forest』(桐原書店)だが、これは中学生のレベルとはちょっと違うので、むしろ教員が子どもたちに文法を理屈で説明する際の参考にする。

先ず理屈を教えることは重要だ

ここまで展開してきたように、母国語でない語学には理屈から入ることが重要だ。たとえば中一で学ぶ英語に”Let’s”がある。”Let’s play tennis”なんてのが例文の典型だが、これは文法では命令文の一つに位置づけられている。命令文は「主語Youを削除する」ことで成立する。これにPleaseを前につけると丁寧、Let’sをつけると呼びかけになるという説明だが、ちょっと気持ち悪い。文法的にpleaseは副詞、ということはLet’sという単語も副詞になるのだけれど、なんでアポストロフィーがついているの?という疑問が残ってしまう。実はLet’sは副詞はなく”let”という許容の使役動詞と”us”の短縮形で、前述の文章を短縮形ではないかたちで表現すれば”Let us play tennis.”となり、この文章はletを動詞、playを補語とする第五文型となる(ベタに訳せば「私たちにテニスをさせることを許容しましょう」。自分たちに対して自分たちが許容するのだから、これが熟語化して「~しましょう」となる)。つまり他の命令文とは構造が違うのだ。

この説明、ややこしそうに思えるかも知れないが、僕のところの学生(英語中二レベル)に、この理屈を教えると、ほとんど「目からウロコ」の状態になる。「なんだ、そうだったのか。だったら早く言ってくれたらよかったのに」。人間、理屈もないのに無理矢理暗記させられるのはやっぱり嫌なのだ。おかげで、彼は苦手な五文型の使役パターンがスッキリと頭に入るようになった(こんな説明を『Forest』ではやってくれる)。

さて、こういった理屈から感覚へ、つまり言語の構造を納得してもらい、そこから身体化作業をするという方法を中学3年までの学習レベルでやるとどうなるか……現世御利益的な効果を上げておけば、私学だったら六大学の下くらいまでは到達可能になる(単語と熟語の語彙数を増やす必要あり)。明治、立教、法政レベルは、早稲田の英語のように倒置・省略・挿入だらけの悪文を試験問題として並べることはほとんどやっていない。それは、中学3年までの英語の学習内容ということになる。

実は、ここで学んでいるのは言語学

しかし、もっと御利益が高いのは、文法がわかり、かつ会話もきれいな発音でできるという点だ。ようするに言語学の構造を基本にこれを理屈で学び、身体化していくことで、英語力を総合的に身につけてしまおうというわけだ。ちなみに、こういった学習方法を提案しているのがグロービッシュだ。これはネイティブでない人間が英語を使いこなすために、簡単な文法と1500の単語で全てを表現してしまう考え方。量と項目を減らし、これを血肉化するミニマリズム的な学習方法こそが最も効果的だし、やる気も起こるし、使える英語になる。

日本語も同時に学べる

ちなみに、これは日本語文法を相対化しつつ学ぶ契機にもなる。
僕の仕事の一つは、学生たちの文章チェック(レポートや卒論など)だが、とにかく酷い文章が多い。内容はともかく、文法がまったくもっておかしいのだ。

たとえば「従業員専用口とは、一般客は入れません」といったねじれ文が頻発する。この間違い、英語に直すとよくわかる。「従業員専用口とは」と文章が始まる場合、この係り結びは「である」となる。で、これは第二文型=S+V+Cに該当する。ということは、この文は「従業員専用口とは(S)一般客が入場を許可されていない出入口(C)である(V)」としなければならない。これを英語に直せばA service entrance(S) is (V)a doorway(C) which guests are not permitted to enter(M).”となる。あるいは文の後半を尊重すれば「従業員専用口には(O)一般客は(S)入れません(V)」と第三文型=S+V+Oになり、これは”Guests(S) cannot enter(V) a service entrance(0).”となり、それに従って日本語ものそのどちらかを採用しなければならなくなる。つまり、英語で単語の運指がわかると、それを立ち位置に、今度は日本語の文章構造が明瞭化し、日本語の文章が上達するというわけだ。

こうなると文章読解、文章作成について英語と国語が同時に、しかもそれぞれが相対化されたかたちで効果的に学習可能となる。つまり、これは「英語」でも「国語」でもなく、「文法」でも「会話」でもなく、「理屈」でも「感覚」でもない。それぞれを総合した「言語」の学習なのだ。

情報量を減らし質を高めると言うことは、ミニマリズムに徹し、それを身体にたたき込むまでやること。これが実は本当の意味での「ゆとり教育」、そして「深みのある教育」。学習項目が身体化されていれば、人間は必然的に、これを使って様々な表現をしたくなる。だから楽しい(そうでないものは「やらされ感100%」みたいな感覚になり、英語嫌い、国語嫌い、読解嫌い、作文嫌いになる)。

ここまでクドクドと説明してきたノウハウ。僕は学生たちに実践しているのだけれど、言語、そして英語というものがこんなにオモシロイものだったのかと、ものすごい集中力で取り組んでくれている。

ちょっと、英語、そして国語のやり方も目の付けどころを変えるべきなんじゃないだろうか。もちろん、これは様々ある学習方法の一つを提案しているに過ぎないのだけれど。

前回は、小学校への英語教育導入が、わが国における英語教育の根本的な間違いを象徴するものであり、こういった発想を末端とする誤った英語教育の根源が「詰め込み教育」にあることを指摘しておいた。また、その反動として現れた「ゆとり教育」においても、結果として科目数を増やすことで詰め込み教育が継続されていたこと、つまり、ゆとり教育が詰め込み教育の代替として科目数を増加させた分、今度はそれぞれの学習項目が希薄になり、学習項目の血肉化が難しくなり、その結果としてますます教育がスカスカになっていったことを、あわせて説明した。だから「本当の意味でのゆとり教育」、つまり「量より質を重視する教育を」やらなければならない。じゃあ、それを英語でやるためにはどうするべきか。今回(コンセプト)と次回(方法論)でその処方箋の一つを提案してみたい。結論を一言で言えば「中三レベルの英語までしかやらない」というもの。ただし、現在、中三までにやられているものとはやり方を異にするものだが。

英語教育の常識を否定する

先ずはじめに、よく英語教育で議論になっている次の二分法的な考え方をやめる。一つは「会話か、それとも文法か」、もう一つは「実用のための英語か、それとも教養のための英語か」だ。これこそ科目数の細分化、学習項目の細分化、つまり教科書が三年間で十数冊になるようなバカげた教育を施すことになった元凶な考え方だと僕は確信している。

そうではない。むしろ、これらは全部一緒にやるのが正しいのだ。もちろん、しばしばほったらかしにされる発音なんかも同時にやる(学生たちの発音、メチャクチャです)。だいたい、よくよく考えてみれば「英語」ですよ。文法、リーダー、英作文、書き換え問題、熟語、単語……こんなのは英語ではなく、その「パーツ」に過ぎない。バラバラにやると、合理的に学べるように見えて、実はまったく反対。むしろ、全体像が見えなくなってわけがわからなくなり、いたずらに情報量が多くなって、やっているほうがウンザリし、その結果、英語嫌い、英語コンプレックス持ちを大量生産しているわけで。英語は英語、一つだけで十分なのだ。

理屈と感覚による血肉化

ただし、学習に別の二分法、より正確に表現すれば二側面を用意する。「理屈」と「感覚」だ。これは細分化ではなく、英語を総合的に学ぶための車輪の両軸と考えていただきたい。

「理屈」とは、これまで学校英語が取り組んできた文法的な側面を重視した学習方法。だが、こればっかりやるとどうなるかと言えば、六年間(大学を含めれば十年間)学んでも、まったく英語が話せない人間が誕生する。

一方「感覚」とは、文法はともかくフレーズとかを丸暗記して、何となく会話ができるようにするという学習方法(小学校英語が取り入れようとしているもの)だ。テレビのCMなんかで宣伝している「聞き流すだけ」みたいな、CDでフレーズをひたすら覚え込むなんてのが典型。まあ、これだと簡単な挨拶や旅の英会話みたいなものはできるようになるけれど、その実、話すようになることは不可能だ。議論みたいなツッコンだコミュニケーションは絶対不可能。感覚だけでそこまで到達するためには、それこそ現地で最低一年間以上、ネイティブ相手に徹底的に英会話に取り組まなければならない。

僕がインドでヒーロー?になった話(笑)

この二つの側面が片方だけだとなぜダメなのかを別の例で説明しよう。それはなんとテレビゲームに関する僕の経験だ。時は約30年以上前の82年に遡る。ところはインド・ニューデリー。バックパッカーとしてこの地に着いた僕。新市街地中心のコンノートプレイスをブラブラしていると、そこに一軒、ゲームセンターがあった。中に入ってみると、置かれていたのはスペースインベーダー。日本では70年代末に大ブレークしたゲームだ(ということは、この時点で、日本ではとっくにブームは去っていた)。これにインド人たちが興じていたのだけれど、とにかくヘタだった。身体全体を動かしながら、必死にレバーを操作している。膝は上がるわ、肩は大きく揺れるわで、ちょっと横で見ていると滑稽でオモシロイのだが、誰もがそんな感じでやっているのだ。もちろん得点は稼げない。

そこで、ここぞとばかりに、僕はしたり顔でマシンの一台にコインを挿入し、やりはじめた。もちろん僕の身体全体が動くなんてことはない、指だけがサクサクと動き、しっかり高得点のUFOを打ち落とし、「名古屋打ち」もキメて得点を稼いでいく。そうこうするうちに、周囲が僕に気づき、知らないあいだに僕のマシンの周りはインド人でいっぱいになっていた。いや、ちょっとしたヒーロー気分に浸れたわけなのだけれど。でも、これはなんのことはない。インベーダーがそれ以前に日本で大流行して、僕もその一人としてやり始めたときに、すでに点の取り方を熟知している人間からやり方を聞いたり、攻略法を綴った雑誌などを読んでいたりしたので、攻め方がわかっていた。だからできただけのこと(言い換えれば、当時インベーダーに親しんだ日本人だったら、ここに来れば、だれでもヒーローになれた)。つまり、僕はインベーダーの攻略法を理屈で覚えていた。ただし、それですぐできるわけではない。当然、その理屈を頭に入れながらもインベーダーに何千円もコインを投入して、その理屈を身体化していったという経験があったのだ。僕が高得点を稼げたのは、ゲームをやり始めた頃、先ず「理屈」を学び、その理屈に「感覚」=身体を重ねていったからに他ならない。一方、インド人たちはもっぱら「感覚」=身体だけでやっていた。だからダメだったのだ(それにしては「やり方全然知らないのに、よくここまでやれるなぁ」というレベルのお客もいて、脱帽したのだけれど(笑))。

身体化=理屈から感覚へ

で、英語の学習も、実はこれとまったく同じ手順を踏むべきなのだ(これ、別のゲームで説明すれば、たとえばドラクエのダンジョンを上がっていくのにどれだけたくさんのモンスターを殺さなければならないのかということを考えればよくわかる。レベルを上げるためには同じことを何度も繰り返し、RPGの文法を体得していくプロセスを経なければならないのだ。たとえば、自分より先のレベルまで進んだ他人のゲームを引き継いでも、絶対に上には行けない。ゲームを譲り受けた相手の感覚がこちら側で血肉化していないのだから、これはあたりまえだ)。つまり、基本的な単語の運指を理屈で覚え、これを身体化=感覚化していく作業を繰り返していくわけだ。日本に住む僕らは、前述したように感覚だけで英語を学べるような「英語のシャワー」的な環境にはいない。だったらやるべきことは、まず理屈から入り、これを身体に刻印する、つまり英語を理屈→感覚の順で血肉化していく作業が必要なのだ。要するに前回、説明しておいた「基礎をしっかり固めて、少しずつ新しい学習項目を加えていく」というミニマリズム的なやり方。
ちなみに、これは国語の学習も実は兼ねている。つまり英語読解=日本語読解、英作文=作文というふうに考えるのだ。これも英語―日本語という二分法ではなく「言語」というレベルで同じものとして扱うわけなのだけれど(これについては次回詳述する)。(続く)

※二回で終えるつもりが、長くなってしまい、申し訳ありません。関心のある方はもう一回お付き合いをお願いします。次回が具体的な方法論の提示になります。

今年十月、英語教育について、なんと小学校三年から導入されることが決まった。3、4年は週1~2回で英語になじむ、5、6年は週三回で中学英語を前倒しして学習させることを検討をしているという。

僕は、小学校への英語教育導入は大反対だ。理由は簡単、「さまざまな側面で費用対効果が全くないどころか弊害だらけ」と考えるからだ。ポイントをあげれば以下の通り。


1.結局、英語が身につかない

2.英語教育を施せる教員がいない

3.他の科目の時間を圧迫して、それらの科目の学習レベルを低下させる

4.英語にコンプレックスを持つ人間をさらに増やす


今回は、このポイント(ただし小学校への英語教育導入のみならず、現在の英語教育全般への批判ポイントとなるのだが)について展開した後、じゃ、英語教育は費用対効果的に考えた場合はどうすべきかについて考えてみたい。ちなみに、僕の基本的スタンスは立教大学教員の鳥飼久美子氏(50代以上の人間なら、かつて彼女が英語界の若きスターとして、日本の英語ブームに貢献したことをご存知だろう)の立場と基本的には見解を一にする(詳細は鳥飼氏の『危うし!小学校英語』文春新書 2006、『国際共通語としての英語』講談社現代新書 2011をご参照いただきたい)。

1.結局英語が身につかない

語学教育というのは、結局は「短期+集中」というやり方しかない。週一回とか三回程度やったところで、ほとんど身につかないというのが正直なところ(駅近の語学スクールなんかに通っても、実はほとんど効果がない)。何のことはない、この程度では覚えるより忘れるスピードのほうが圧倒的に早いからだ。語学は「理屈」でもあるけれど、その前に「感覚」。感覚というのは要するに「鉄は熱いうちに打て」という原則に基づく。感覚が醒めないうちに次のことをはじめたり、その感覚のあるうちに同じ項目を繰り返していかないと身につかないのだ。例えば、これは楽器の練習などがその典型で、ギターだったらスケール、ピアノだったらハノンを毎日繰り返して感覚を維持していかないと、どんどん技術、そして音楽感覚はおちていく。これは身体的な学習が大きくものを言う英語もまったく同じなのだ。ちなみに、現在の中学校以上の英語教育もまったく同じで、学習時間が少なく、しかもその少ない時間に対して学習項目が多すぎ、結局、身体化しない。だから中学高校六年間、さらに大学も加えば十年間やっても全然身につかないのである(一方で、全然英語を話せなかった人間がアメリカで1年暮らし、そこでネイティブと付き合っていたらペラペラになったという事例が山ほどあるのは、この「短期+集中」の典型的効果と言える)。ということは、小学校への英語の導入、中学高校以上にまったく意味がないのだ。

2.英語教育を施せる教員がいない

仮に、こういった小学校への英語教育導入が効果的であったと仮定しても、次の問題が立ちはだかる。それは……現状の体制では、教員が英語を教えられないという問題だ。とりわけ会話はまったくもって無理だろう。いったい、どうやって教員を養成しようというのだ。そのアウトラインがシ示されていない。ちなみに英語教育をちゃんと施せないのは中高の教員も似たようなもの 。実はそのほとんどがまともに英語を話すことができない。さらに、教え方についても問題を抱えている。たとえば、県内でも上位に入るような普通科の進学高校で、英語の教科書が一人の生徒にどのくらい配布されているかご存知だろうか。実は三年間で10数冊にも及ぶのだ。こんなたくさんの学習量を生徒たちに与えたら、処理不能でオーバーフローを起こすに決まっている(もちろんこれを消化できる処理能力の高い生徒も一部は存在するが、たいていは膨大の情報を目の前にしてめまいをおこし、萎えてしまい、英語嫌いになる)。そんなことすらわからないのだから。いいかえれば、明確なカリキュラムを作成することができていない(まあ、こんなカリキュラムを組んでいる大元のほうがおかしいということでもあるのだけれど)。一方、予備校講師は競争原理の中で仕事をしているので、能力の高い講師はきわめて高い指導レベルを備えるが、これとて受験英語用のノウハウに限定されているので、英語の総合的な力の養成には結びつかない(子どもを「受験屋」にするだけ)。

3.他の科目の時間を圧迫して、それらの科目の学習レベルを低下させる

現在、小学生に施されている学習プログラムは過密を極めている。たとえば、僕が子どもの頃は1~2年くらいまでだったらだいたい午前中で終わり、5~6限が始まるのは3年から。土曜は当然午前中で給食無しで終わり。ところが現在は違う。土曜日が休みなので、一学年時から授業時間がびっしり埋まっている (おかげで、教員の方もメチャクチャ忙しいという労働環境が作られてしまったのだけれど)。そのかわり土日はのんびりすればいいということになるのだけれど、これもそうはいかず、土日も塾やお稽古事で、やはり子どもはやはりびっしりと時間を埋められてしまう。

さて、これに今度は英語を加えれば……必然的に学習効率はどんどん下がっていく。科目が増え、それぞれを散発的にやり、そのくせ学習項目が多いなんてことになれば、それぞれの科目の内容はどんどん薄くなる。にもかかわらず、前述したように、教科書の学習項目は膨大なわけで、やっぱりオーバーフロー状態になる。ちなみに、後述するが、これは国語の教育に典型的に現れている。読解力、そして文章作成力が極端に低下しているのである。

4.英語にコンプレックスを持つ人間をさらに増やす

英語は他の科目と違って中学で始まる新しい科目。だから、その学習方法は中学一年生にとっては「未知との遭遇」、つまり小学校時代の学習のノウハウを援用することができないものになる。そして、数学と同様、基礎がどれだけちゃんとできていてナンボの科目でもある。一年次の学習項目の達成度が二年次の学習の達成度、さらに二年次までの学習項目の達成度が三年次の学習の達成度にダイレクトに影響する。ということは「親ガメコケたら、みなコケた」ってなことになりかねない。下の基礎レベルが未消化のうちに上の項目をやると学習効率が下がるのだ。しかも、これは上の学年に上がれば上がるほどヒドくなる。その結果、英語嫌いの子どもが頻出するという事態を招く。僕の教える大学の学部生の偏差値は50程度だが、この学生たちも英語に対するコンプレックスは相当なもの。授業でちょっとでも英語の話でもしようものなら、露骨に拒絶反応が現れる。でも、これ、英語が嫌いではなく、英語という学習経験で身につけたルサンチマン=コンプレックスが英語に対する拒絶反応を起こさせているだけなのだけれど。つまり、彼らは前述した「親ガメこけたら、みなコケた」の状態。ちなみに、彼らの英語力は平均して中学二年生程度だ。”He play piano.”,” Is he play piano? Yes, I do”,”Are you have a pen?  Yes, I have”なんてヘンテコな英作文をするのが普通(まあ、通じないこともないけれど。ちなみに、正しくはそれぞれ”He plays the piano. “,”Does he play the piano?  Yes, he does”,”Do you have a pen? Yes, I do”)。

こうやってみると、問題は、まず「やたらと学習項目が多い学習プログラム」が存在し、さらに、その中に「小学校英語という必要のないもの」が加えられるという点にある。まとめてしまえば、これは「詰め込み教育の加速」ということを結果するわけだ。だからオーバーフロー。

ゆとり教育再考

いや、ちょっと待て!「詰め込み教育」はよろしくないので「ゆとり教育」が生まれたハズじゃなかったのか。これは学習のオーバーフロー状態を解消するための施策ではなかったの?で、ゆとり教育はダメだって批判されているんだから、英語教育を小学校に導入しないていう考えは、あの悪しき、そして日本をヘタレにしたとまで批判されたゆとり教育に逆戻りするだけなんじゃないの?

いや、そうではない。問題点は学習の量ではなく、質なのだ。かつての「ゆとり教育」で行われたのは、それぞれの学習項目の「内容」の削減。一方で「科目数」は減らされていないどころか、むしろ増えている。これじゃあ、スカスカだろう。薄っぺらい科目がただダラダラと並ぶだけ。しかも知識の羅列はかわらない。いや、もっとヒドくなる。

僕が言いたいのは、学習時間の総量を変えるのでなく、科目数それ自体を削減し、さらにそれぞれの科目の中の項目を減らし、そのかわりに、その少ない項目を徹底的に繰り返し、身体に流し込むことで、学習項目を「生きた、使えるもの」にすべき、ということなのだ。現在、この正反対にあるのが英語と国語で、どちらもスカスカになり、読解ができない、作文ができないという状態を生んでいるのだ(前述した、教科書が夥しい数になるなんてのが、その典型)。おかげで、こんな状態で入学してくる子どもたちを僕たち大学教員は面倒見なければならなくなるわけで、大学は「基礎教育の場」と化しているといっても過言ではない状況に陥っている(やってますけど(笑))。

そこで、学習項目減らし、時間は減らさず、インテンシブに教育を施し、学習内容を血肉化する、つまりいろんな麺で使いものになる英語を身につけるアイデア、しかも国語力も同時にアップさせる方法を一つ提案してみたい。それは、中学三年生レベルの英語までしか学習しないというものだ。ただし‥‥(続く)

第四象限、オタク論議で一儲け

オタク語りを四分類して分析をすすめている。今回は後半。

第四象限でのオタク語りは、 高いコミュニケーション能力を備えつつも狭いジャンルに拘泥するとみなすものだ。この場合、狭いジャンルとは、いわゆるオタクイメージを象徴するようなマンガ、アニメ、フィギュアなど狭義のサブカルを指す。さて、復習になるが、前回説明した第三象限、つまり低いコミュニケーション能力+狭いジャンルという括りは、オタクのプロトタイプ的なイメージだった。つまりネクラで彼女がいなくて、社会性のなさをこういった趣味に拘泥することで抑圧=ヘッジするといったもの。しかし、この第四象限では、このまさにオタッキーな趣味に深く関わることで、この第三象限のキャラクターに社交性が出てくるというような怪しい語りになる。

この立ち位置を徹底的に展開したのがオタキングこと岡田斗司夫だった。岡田に言わせればオタクとはネクラな人間でもなんでもなく、ひとつの分野に鋭くまなざしを差し入れ、これに徹底的にこだわる「粋」で「洒脱」なキャラクターと言うことになる。情報に対して高感度にこれを入手し、しかも、自らの趣味にこだわりつつも、相手の趣味の領域も尊重する社交性を備える。さらに、こういったキャラクターは江戸時代にまで遡る、日本の文化の伝統に深く根ざしたものだというのである。

オタクは新人類? 

いうならばオタキングたちのこの語りは、オタク以前、80年代に若者に与えられていた呼称「新人類」についての議論の焼き直しに他ならなかった。自らをオタキングと名乗り、実践してみせる岡田のこのやり方は、ネガティブにしか語られることの無かったオタクを正当化させる戦略だったのだ。そして、この戦略に一枚乗ったのが資本で、ここに資本はオタクという市場を発見することになる。「オタク-非社交性+高感度=新人類の焼き直し」という図式は、見事に成功し、これによってオタクについては二つの新しい意味が加えられていく。

ひとつは、オタクが「若者」という世代的括りを脱却し、女性を含めて全世代に該当するという捉え方である。つまりマンガやアニメに拘泥する人間は男子若者に限らない。いや、もっと言ってしまえば「限られなくてもよい」というお墨付きを与えられたと表現したほうが正鵠を射ているかもしれない。

もう一つは、オタクは「クラくない」というもの。オタクであることに劣等感を抱く必要はない、そういったオタクの「市民権」を岡田は与えていったのである。ちなみにその啓蒙として岡田が利用したのが自らの「東大非常勤講師」という肩書きだった。しかも「東大オタクゼミ」と、授業では徹底してオタク論を展開していることを吹聴し、「日本の学問の頂点である東大もがオタクを認めているのだ」というイメージを振りまいたのである。

岡田が思ってもいなかった展開~萌える第三世代の出現

しかし岡田のオタク論は結果としてあらぬ方向へオタク論を導いていく。

ひとつは第一象限=広いジャンル+高コミュニケーション能力の出現だ。これは資本が、岡田の議論をジャンル、世代双方に拡大し、オタクをひとつのマーケット(矢野経済研究所によれば12年度は1兆円弱程度らしいhttp://www.yano.co.jp/press/pdf/1002.pdf。ただしこの統計も、現在扱われるような広範なオタクジャンル全てを含めて試算しているわけではないので、実際はもっと大規模になる)として認知させようとする語りが出現したこと。要は、オタクが金儲けの対象として扱われるようになったことだ。

もうひとつは、こうやってオタクが認知されることで、岡田も想定しなかったオタクが議論上で登場したことだ。それは「萌え」るオタクだ。岡田には新しい世代(オタク第二世代以降)がするとされる「萌え」が理解できない。というのも、岡田にとってオタクは特定のジャンルで自ら世界観を作り、これを語る高感度な存在。一方、「萌え」るオタクは物語=ストーリーなどには全くと言っていいほど関心を示さず、もっぱらその世界を形作るパーツ(キャラや萌え要素)にフェティッシュに熱狂する。語りは二の次だ。これは、哲学者・東浩紀の言う「動物的」=欲望に忠実な状態であり、高感度でもなんでもない。こうなると語らないオタクは「粋」な存在でもなく、それは日本の伝統文化を踏襲しているわけでもなくなるので、岡田の議論とは齟齬を来すことになってしまうのだ。

結局、岡田は自ら「オタク・イズ・デッド」=おたくは、もう死んでいる、と宣言し、オタク論から撤退していった。

ただし、実際に「オタクはもう死んでいる」という議論は無理がある。それは第四象限を展開した岡田の図式が合わなくなっただけだからだ。言いかえれば、岡田が展開したオタク論は新人類という旧式のシステムの焼き直しでしかなかったとツッコミを入れられても仕方がないような展開だったと言ってもいいのかもしれない。事実、オタクはますます市民権を獲得し、またオタク論も相変わらず活発な状況に代わりはないからだ。だから、実のところ「オタクはもう死んでいる」のではなく「オタキングのオタク語りはもう死んでいる」ということだった。

総括すると……社会的性格としてのオタク

こうやってオタク論議のオタクイメージを見てみると、その流れは第三象限(低コミュニケーション+狭いジャンル)の「ネクラ」から、第四象限(高コミュニケーション+狭いジャンル)の「粋で洒脱な趣味人」を経由し、現在、第一象限(広いジャンル+高コミュニケーション)の「資本のマーケットとしての消費者」へ至っていると考えることが出来るだろう。そして、そこでオタクのイメージからは「クラい」というイメージ、「若者の特性」という世代論的な語り、「男性」というジェンダー的な語りが消滅し、あらゆるジャンルがオタクにとっての対象ということになることで、巨大なオタク市場がメタ的な「オタク語り」として登場している。つまり、今やオタクは日本国民のほとんどが分有する「社会的性格」として語られている、いわば「オタクなあなた」から「あなたの中のオタク」という語りに変容していることになるのだろうか。


オマケ:OTAKUはまったく別物

ついでに一つだけ、海外でのオタク事情について触れておこう。メディア的にはクールジャパンの牽引車と目されているオタクだが、これはいろんな意味で誤謬がある。そして、ここまで展開してきた、われわれがイメージするようなオタクとはちょっと異なるので、あえて”OTAKU”と横文字で表記し、この特性について考えてみよう。

OTAKUは局所的な現象

OTAKUには日本文化の中で繰り広げられてきたようなオタクに関する文脈がほとんどない。おそらく、アニメ文化を軸にするサブカルチャー文化が欧米文化の中でクール=カッコイイものとして受け入れられたといった文脈くらいしかないだろう。で、むしろクールなものなのだから、それに抵触する人間は一般よりアーリー・アドプターでコミュニケーション能力の高い存在。だから「ネクラ」なんて言葉はまったく該当しない。

これは、言い換えればいわゆる文化について外人(とりわけ欧米人)が抱く典型的なステレオタイプと同質のもの考えることができる。日本文化といえば禅、武士道、芸者、フジヤマ、秋葉原、スシ、スキヤキみたいな、日本人ならちょっと笑ってしまうような古びたような日本イメージだ。だから、これは日本文化で認知されているようなオタクとは別物と考えたほうがいい。

日本人のOTAKUに対するステレオタイプ

もう一つは、日本人のOTAKUに対するステレオタイプだ。われわれ日本人は自国文化にコンプレックスを持っているのか、どうもちょっとでも世界のどこかで日本のことを取り上げられていることを発見すると、これが、あたかも世界を制覇したかのごとく語りたがる癖がある。例えばサブカル系だったらジブリの作品に対する海外の認識についての誤謬がその典型。実は、全然知られてない(日本国内でジブリはサブカルどころか、とっくにメインカルチャーだけれど)。むしろ世界で知られているのはハローキティやドラゴンボール、アジア圏ならドラえもん、クレヨンしんちゃんといったところ(ちなみに、日本に関して今や最も世界に普及している文化は、間違いなく寿司=Sushiだろう。ただし、このSushiも輸出された先では、その趣をガラッと変える。これは文化人類学でいうところのクレオール化が発生しているからだ)。そしてOTAKU文化の広がりは、実はこのジブリに相当するレベルの局所的なものでしかない(もちろん例外的なものはある。例えば中国でのコスプレブームがそれで、毎年政府が主催するコスプレフィスティバルでは数十万人が参加し、その様子が全国で放送されている。でも、やっぱり全体的には局所的)。

「一部の連中が勘違いしながらオタク文化を享受している」

これがOTAKU文化の現状だろう。

オタクといっても、そう簡単に一括りにはできない。だが、それこそがわが国におけるオタク文化の広がりを示す証左でもあるのではなかろうか。

オタクって、いったい? 

「おたく」という言葉は奇っ怪だ。結局、何を指しているのかどうかわからない、というか、結構その定義付けがイイカゲンにされていて、その時々でテキトーに語られてい傾向があるからだ。で、かなりデリケートな言葉らしく、僕がブログに「オタク」について触れると、ソッコーで「おまえはオタクが何なのかをわかっていない」なんて突っ込みが入る(一応、誤解のないように、毎回その都度、オタクの定義はしているのだけれど……)。なので、今回はちょいと、これを整理してみたい。「最近のオタク・パラダイム=オタクの語られ方はど~なってんの?」。オタクという言葉の広がりと運用方法について歴史的、空間的二つの側面から概観してみよう(今回は全二回でお送りする)。今回は、いわば「オタク論」論だ。

まずは、古典的定義

とりあえず一番古い定義をしておこう。それは89年、週刊読売上で説明されたもので、それによればオタク(当時は「おたく」とひらがな綴り)とは「アニメやパソコン、ビデオなどに没頭し、同行の仲間の間でも距離を取り、相手を名前で呼ばずに「おたく」とよ」び、人間本来のコミュニケーションが苦手で、自分の世界に閉じこもりやすい」「少年」というものだった(誕生それ自体は83年にまで遡る。命名者は中森明夫)。

もちろん、こんな定義が今、通用することはない。2008年、総裁選で勝利した麻生太郎は自らをマンガ・アニメオタクと豪語したし、対抗馬の石破茂もミリタリー・オタクを自称していた。この連中が「コミュニケーション能力が低い」などとは、とても思えない。オタクの殿堂、アキバにいっても暗そうなオタクというよりも、オタクであることに自信たっぷりに街を闊歩しているような人間を多く見ることが出来る(最近はコスプレ禁止だが)。そして、オタクは今やその範囲を女子にまで広げている。これも暗そうなイメージの「腐女子」からゴスロリ、コスプレまでと幅が広い。う~ん「オタク像」ちょっとわかんなくなってきた。

オタク論のパラダイム

実際、オタクの語られ方もバラバラなのだが、ここではおおざっぱにこれらを整理してみよう。

まず、オタクが牴触するジャンル。もちろん、先ずマンガ、アニメ、フィギュア、コスプレなどが思い浮かぶが、これに加えて、鉄道、旅、ゲーム、カメラ、クルマなどと実に幅広い。このどのジャンルまでをオタクジャンルとするかで、オタクの扱いは異なってくる。また、コミュニケーション能力も低いと評価するものと高いとするものに別れる。「低い」と捉えられた場合には、相変わらずクラい、社交性が低いといったイメージがまとわりつく。一方、「高い」と捉える場合には逆に情報に対し高感度でオタクが関わるジャンルを社交ツールのように利用するといった側面が強調される。そしていずれにも強調されているのが、自らがコミットメントするオタク世界への執拗なまでの金銭の投入だ。いわば「オタク係数」が非常に高いとしているのだ。ここは、なぜか共通する。

さて、この二つの軸を使ってマトリックスを構成してみると、オタク世界の見取り図が出来る。つまり、ジャンルの広さの軸(縦軸)、そしてコミュニケーション能力の高さの軸(横軸)だ。当然ながら、1.オタクジャンルを広くコミュニケーションを高く見る(第一象限)、2.オタクジャンルを狭くコミュニケーションを高く見る(第二象限)、3.オタクジャンルを広くコミュニケーション能力を低く見る(第3象限)、4.おたくジャンルを狭くコミュニケーション能力を低く見る(第四象限)の四つだ。このおたく語りをひとつずつ検証していく。前半は第一象限から第3象限まで、みていこう。



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完全にビジネス市場と捉える第一象限 

先ず一番目「オタクの市場は様々なジャンルに広く広がっており、それらそれぞれに志向するオタクたちのコミュニケーション能力も高い」という捉え方について。

こういう立ち位置の典型は経済界に多い。要するにオタクを新たなマーケットとして金儲けの対象にしようというものだ。当然、こうなるとオタクは「お客様」ゆえ、徹底的にポジティブな記述になる。「オタクは成熟した文化だ」みたいなリスペクトを厚顔でガンガンやりまくるのだ。これまでの趣味的な分野が全てオタク・ジャンルとなるわけで、言いかえれば金儲けのスケベ心が透けて見えるというのも確か。ちなみに自民党の麻生太郎はマンガ・オタクだが、2008年の総裁選中、麻生は自分が大量のマンガを毎週読む、2ちゃんねるに書き込みをしたことがあるなど、イメージアップを図るため意図的に自分がオタクであることを吹聴し、実際のオタクたちに「ウザい」と批判されているが、これなども、麻生が自らが「オタク」であることをアピールすることで票獲得を狙ったというスケベ心がかいま見えたことによる嫌悪感と考えることが出来るだろう。まあマーケッターもおんなじようなもんだと思えばいい。

この場合、オタクは父親

また、この捉え方はより多くの市場、より消費活力が旺盛な市場を取り込もうとする戦略に基づいているため、年齢層を若者からオジサンまで幅広く位置づけている点も特徴的だ。で、とりわけ、この時、意識される層が、オタク第一世代の男性。つまり40代以上の中高年層だ。この世代は現在、社会、経済を担う中心的存在。可処分所得も多く、一人あたりの利益率が高い。そこで、これらの世代に「オタク」であること徹底的に肯定させ、妻に怒りを買わない程度にオタク・グッズにカネをふんだんにつぎ込むようなマーケティングを行う。たとえば、家庭ではオタクの世界に没頭し、その半面仕事はバリバリこなし、社交的にも問題ない。家庭ではオタク趣味への変質愛に妻が愛想を尽かしているが、一家の大黒柱としてカネをもってくるので、許してもらえているという幸福な環境にある、なんていう語りがなされるのだ。いわば「オタクであることはオトナ(「大人」ではない)であることのたしなみ」みたいなモノの謂いだ。これで免罪符を受け取ったお父さんは心おきなく、ガンプラだの、怪獣だの、フィギュアだの、マンガだのに熱を入れると言うことになる。

ちなみに、この時、家庭内でも同好の士を作ろうと、子どもに自らのオタクワールドを洗脳しようとし始める(妻には、先ず間違いなく無視されるので)。うまくいけばオタク二世の誕生となり、父子はひたすらオタク談義に花を咲かせて楽しい親子ができあがる(ただし、妻との関係は悪化する)。たとえばウルトラマン検定がそれで、小学生までがこれに参加していた。しかも父と一緒にというパターンがかなり多かったのだが、これなどは子どもを洗脳した典型例といえるだろう。

ただし、ことはそうはうまくいくわけではない。そのうち子どもに「この趣味って、結局、お父さんのオタク趣味」ということが、小学校の友達なんかと関わり合ううちにバレてくる。このオタク趣味が父と子のコミュニケーションしか開かないからだ。下手にオタク・ネタを学校で話そうものなら鼻つまみ者になりかねない。で、あんまり社会では有効なメディアとなりそうもないと判断した瞬間、子どもは父親が与えてきたオタクワールドから脱していくのである(新しい、親離れのスタイル出現か?)。これって、だいたい小学校高学年あたりじゃなかろうか。

例外としてのディズニーオタク

しかし、唯一、お父さんが入れ込んでも免罪されるオタク分野がある。それはディズニーだ。これは子どもはもちろん妻まで巻き込めるファミリー・エンターテインメント。しかも社会的にはオタクの趣味とそれへの熱狂に対して浴びせられる「奇異」な視線もほとんど無い(よ~く、考えてみて欲しい。ドブネズミの着ぐるみの化け物に大のオヤジが血道を上げるというのは、どう見たってヘンだし、奇異な視線で見られるはずなのだが、なぜかディズニーだけは社会的に例外として扱われている)。こうなると、楽しいディズニーオタク・ファミリーのできあがりというわけだ。なんでディズニーリゾートに年間二千五百万人もの客がやってくるのかは、こう考えてみるとよ~くわかる。オヤジオタクが、その世界に熱狂することが社会的に許される数少ない空間がここだからなのだ。おかげで、ディズニーは今や巨大な市場と化していて、家族みんなで東京ディズニーリゾートへ向かい、グッズを集め、新作映画/ディズニーチャンネルを鑑賞し、海外のディズニーランドに参詣する。これに投入される金銭は相当なものだ。家計に占める「オタク係数」はハンパではないのである。

こんな扱いだから、オタクジャンルはメチャクチャ広範囲になる。アニメ、漫画(電子コミック含む)/フィギュア/ ライトノベル/同人誌/プラモデル/ドール/鉄道模型/アイドル/プロレ ス/コスプレ衣装/オ ンラインゲーム/アダルトゲーム/A V(アダルトビデオ・DVD、ダウンロードコンテンツ含む)/恋愛シミュレーションゲーム/ ボーイズラブ/ボーカロイド(関連商品含む)/声優関連商品/クルマ/ディズニー/怪獣/戦隊もの……

第二象限と第三象限はネガティブオタク

第二象限と第三象限はともにコミュニケーション能力を低く見るオタク語りだ。第二象限はオタクのジャンルを広く、第三象限はジャンルを狭く見ている。それぞれの語りについてみていこう。ただし、説明の都合上、よりメジャーな第三象限から始めたい。

第三象限の語りは典型的なネガティブ語り、そして古典的な語りだ。限定されたジャンルとはアニメ、マンガ、フィギュアといった、いわば元祖「オタク語り」の分野に属するもの。で、コミュニケーション能力が低いので、社会に出られないという脆弱性を、こういった「子どもっぽい趣味」に自閉することで補うという論調になる。当然、このカテゴリーの典型的人物としては古くは幼女連続誘拐殺人事件のM被告、このキャラでタレントとして売った宅八郎、近年ではこのカテゴリーにいながら、一般的なコミュニケーション能力を獲得するに至った電車男があげられるだろう。中背でやや太め、カッターシャツを来て、度の強いメガネをかけている、髪の毛は少々長髪といったイメージがピッタリ来る語りだ。

この語りにおいてオタクは社会性が低い、つまりオタク以前に、困った若者として70年代に語られたモラトリアム人間(いつまで経っても大人にならない人間)と同列の評価で扱われており、いわば「困ったちゃん」的存在。ただし、このような一般的な見解に対するカウンターとしてオタク論議が活発化したという事情もある。裏を返せば、乗り越えなければならない社会病理のように扱われた。当然この語りは、おたくを青年期に該当する若者に向けており、世代論、若者論的な語りになる。

ちなみに、第二象限、つまりジャンルを広くコミュニケーション能力を低く取る語りだが、この場合「語り」と言っても、この場合ほとんど取り上げられることはない。ジャンルが広すぎてイメージが出来ないと言うこともあるが、アニメ、マンガ以外のトリビアな分野に深く関わり、なおかつコミュニケーション能力が低いというオタクのイメージは、はっきり言って不気味であり、語る側からしても市場的なうま味もない(ジャンルが分散していて、見えない)。だから、実際にこういったオタクが存在したとしても、それはいわばアカデミズム用語で言うところのサバルタン、つまり決して語られることのない人間たちだ。

これらの語りは、オタクがポップに評価されるようになる中、さすがに最近はこういった古典的な語りは影を潜めつつある。(続く)

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