勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2013年11月

2013年のゆるキャラグランプリ、一位に輝いたのは栃木県佐野市のキャラクター”さのまる”だった。さのまるは犬の侍、佐野の名物である佐野ラーメーンのどんぶりを頭にかぶり(これはどんぶりの形をした笠ということになっている)、前髪は中太ちじれめん、刀はやはり名物のいもフライ。で、侍だから袴をはいている。

「う~ん、フツーにかわいい……どこがゆるキャラなんだ?なんで、こんなキャラがグランプリになるんだ。」

僕は少々首を傾げてしまった。と同時に、そこにゆるキャラブームの飽和状態を見たような気がした。今回の総投票数は1700万票。なんと昨年の三倍近く。まさにその勢いは止まらないかのように見えるが、さのまるの優勝は、なんとなく「終わりの始まり」に思えたのだ。

そもそもゆるキャラとは

ゆるキャラとは、その名の通り「ゆるいキャラ」。名付け親のみうらじゅんはその要素を五つほどにまとめているが、これらをさらにまとめれば三つに集約できるだろう。1.キャラクターデザインの文法的な詰めが「ゆるい」、2.プロモーションのコンセプトがゆるい、そして3.予算的にゆるい、つまりあまり予算がない。要するにローカルの素人がキャラクターを開発して広報活動(多くは行政が主体)を行うので、プロのそれとは異なり、詰めの甘さが目立つ。いいかえると「ツッコミどころ満載」になる。だから「ゆるい」。みうらは、こういった規格化され得ない、素人がつくるものの「辛気くささ」「もののあわれ」「ミスマッチ」を諧謔的、ギャグ的に楽しんでしまうところにゆるキャラの本質を見たのだった(詳細については本ブログ「ふなっしーグランプリ!~変容するゆるキャラへの認識」http://blogos.com/article/67979/を参照)

さて、さのまるである。これはどうみても、みうらのいうところのゆるキャラとはほど遠いところにあるキャラだ。つまり「ゆるい」という要素が見つからない。まあ、ラーメンどんぶり、そしてこれを斜めにかぶっているところが愛くるしい姿とかろうじてミスマッチなのだが、どうもとってつけたような感じにしか見えない。つまり、ゆるさまでがビルトインされ、規格化されてしまった、計算し尽くされた、「ゆるキャラ」という名前の「ゆるくない、かわいいキャラ」なのだ。

さのまるばかり攻撃して申し訳ないが、実は上位のうちの三分の二がこういった類いの「ゆるキャラ」といっていいだろう。ぐんまちゃん(群馬県)などは、まさにその典型。これら「ゆるくないキャラ」「な~んちゃってゆるキャラ」がゆるキャラの名前の下に闊歩する状況。これこそがブームの聴きを感じさせるものにみえるのだ。

ジャンル栄枯盛衰のパターン

ジャンルというものが出現するときには、先ず始めは玉石混淆といった状況が生まれる。当該ジャンルの規則=コードがまだ存在しないために、それぞれがそれぞれのアイデアでこのジャンル(この時点でまだジャンルとしては成立していないが)に進出していくのだ。だが、その中でブレイクスルーが登場するときがやってくる(これが登場しない場合、多くはジャンルとして成立せず終息する)。そして、それが基準となる規則=コードを規定してしまうのだ。たとえばロックンロールがロックとして成立するためには、いうまでもなくビートルズというブレイクスルーが登場し、その後のロックシーンの方向性を形成した。

つまり、規則=コードが一般化することでジャンルは成立する。するとこのコードをデフォルトとしたさまざまな潮流が現れる。ただし、それらの差異はこのコードに拘束されて成立するので小さいものになる。そして、このコードにそぐわない者は次第に排除されていく。この状態がさらに進むと差異はどんどん微小化し、区別がつきにくいものになっていくのだ。その結果、ジャンルは構造化し身動きがとれなくなって、平板なものになり、飽きられ、瓦解していく。これを乗り切るためには新しいコードを規定する次のブレークスルーをもってこなければならない。さらに、こういった循環をシステム化していかなければならない(実際、ロックはそうだった)。

もちろん、こういったジャンルの栄枯盛衰はそれなりに時間を必要とはする。だが、現代はインターネットで情報がめまぐるしく入れ替わる時代。だから、このジャンルの栄枯盛衰がものすごく速いスピードで展開する。ジャンルはあっと言う間に消費されてしまうのだ。

ゆるキャラのゆくえ

さのまるを中心とする今回の上位キャラを眺めてみると、ゆるキャラというジャンルの消費がきわめて早いスピードで進んでいるように見える。つまり「かわいい+ちょっとゆるい」という「ゆるきゃら」というジャンルが成立し(こうなるともはやみうらじゅんの定義とはまったく関係ない”パックもの”になってしまっているのだけれど)、その規則=コードを競って踏襲したために、差異が微小になってしまった。しかも乱立状態で差異は限りなく微小化している。しかも、それらがランキングの上位を占めている(その原因については、あらためて特集を組む予定)。ということは、ゆるキャラというジャンル、後は衰退していくだけということになってしまうのだが……

ゆるキャラが今後も人気を維持するためには、このジャンルを打ち破るキャラクターを生み続け、ジャンルを活性化し続けるようなシステム化を働かせる必要がある(まあ、こうなるとますますみうらとは関係のない世界が出来上がっていくことになるけれど)。おそらく、「ゆるキャラグランプリ」というイベント主催者(=ゆるキャラグランプリ実行委員会)は、こういったシステム化を進めてビジネスチャンスを見いだしていこうとしているのだろうけれど(実行委員会のメインどころは幻冬舎、エイベックス、扶桑社、小山薫堂といった「ゆるくない」ギョーカイの強者たちだ)。

ただし、やっぱりゆるキャラはゆるい。キャラクターデザインこそゆるくなくなったとしても、プロモーションは地方公共団体を中心とした素人の手による。で、こういった組織がゆるキャラを展開していく中心であるとするならば、必然的にシステム化は難しい。ということは結局、最終的にやり方が解らなくなり、マンネリ化し消滅していく可能性はかなり大と考えなければならない。

さて、来年のゆるキャラグランプリ、どうなっていることやら。

学生たちの文章がヘン

ここ数年、学生たちに提出させるレポートに顕著に現れる傾向がある。それは「ものすごく情報量が多い」こと。とにかく一つの課題でいろんな情報を「盛って」くるのだ。ただし、その情報の多くが羅列。つまり、レポート内容に関連する事項がダラダラと並び続けるのである。

まあ、並んでいたとしても、許せないこともない。並べられた項目が一つの連続性をなし、ストーリーを作り上げていればよいからだ。ところがそうではない。本当にただダラダラと情報が並ぶだけなのだ。しかも平板。深みがほとんどなし。なぜこの項目の前にその項目が来るのかと言うことについての考察がほとんどなされない。関連性は、たまたま課題のジャンルに含まれているからという理由だけ(つまり同じジャンルの情報が、さながら電器店の折り込みチラシのように並んでいるデジタル的な配列)。うっすらとある関連性は時系列的なものくらい(これすらないものが多い)。そして、規定の文字数に達すると「じゃ、そろそろ紙面も尽きたようなので、このへんで……」みたいな感じで突然、終了する。

結局、読後に残る印象は「こりゃ、いったい何が言いたかったんだ?」となる。

こういった文書が出来上がるのは、おそらく「コピペ」という習慣が一般化したからだろう。つまり課題についてはGoogleで検索したりWikipediaに掲載されている内容をつぎはぎして作成してしまう。で、引用のパッチワークなので何となく体裁はあるし、メチャクチャという感じではない(ジャンル=パラダイムに破綻はない)。だが、情報がオーバーフローしてしまい、そのほとんどは処理が中途半端な分裂したものになる。

かつて(といっても50年以上前になるんだろうけれど)は、こんなんじゃなかったはずだ。この時代、文章を書くという作業を行っている人間(いない人間ももちろんいただろうが)は、現在とはちょうど逆の状況に置かれていた。つまり「圧倒的に情報量が少ない」。そこで、文面を成立させるためにはレトリックに趣向を凝らす必要が生じた。そのため少ない情報をやりくりして、そこに意味を付加する作業が行われた。またスキーマ=ストーリー展開にも共有されたコード(≒お決まりのパターン)が存在していたので、その文脈に沿って読むことで内容を容易に表現できたし、読む方も読みやすかった。

情報の過剰と意味の希薄

一方、現代の若者はその逆だ。「圧倒的に情報量が多い」ので、それを並べることだけしか考えない。いや「並べる」という言葉は、まだ情報の関連性を考慮しているような意味合いがあるので、正確にはやはり「羅列」しているだけということになる。情報が集まりやすい分、意味がどんどん希薄になっていったのだ。で、結局何が言いたいのか解らない。で、もっと言うと実は「何が言いたいのか解らない」のは、それを読んでいるこちら側ではなくて、書いている側の問題でもあるように思える。つまり「自分の主張」、突き詰めて言えば方針や哲学が全くない魂の抜けたような文章になるのだ(もっとも、この情報を見事にストーリーに紡ぎ合わせる強者もごく一部生まれてくる。世代は違うがクドカンみたいな能力を持った若者だ)。

で、こういった現象、実は若者に限ったことではなく、現代日本人全体を覆っているような事態ではないのだろうか。そして、日本文化の元気のなさの一因のようにも僕には思える。

全部盛りという無駄

「全部盛り」という言葉がある。これは携帯電話、通称ガラケーによく使われた言葉で、要するに一つの携帯に機能を詰め込めるだけ詰め込んでしまうというやり方。カタログ上ではスペック満載、機能満載の豪華なものになる。つまり「あれもできるし、これもできる。だからなんでもできる」的なイメージを彷彿とさせる機能装備の仕方だ。イロイロできて便利なので、一瞬、万能感を感じ、購買意欲をそそる。

ところが得てして「全部盛り」は全然売れないなんてことになりがちだ。なんのことはない、なんでも出来ると言うことはなんにも出来ないことでもあるからだ。厳密に表現すればなんでも出来るんだろうけれど、あまりにたくさんの機能がつきすぎているので、そのマシンをなんのために使ったらいいのかのイメージがかえって希薄になってしまうのだ。つまり「器用貧乏」。だから、ガラケーだと結局、通話とメール、そしてカメラ撮影だけに使用して、残りの機能のほとんどは死蔵ということになる。その一方で機能を満載したために筐体は大きくなり、持ち運びづらくなる。しかもデザインも機能搭載が重視されたために損なわれ、ユーザーはマシンに愛着が持てないということに。

で、日本企業が不景気から立ち直るために、もがくようにやり続けてきたのが、こういった「全部盛り」的な発想であったのではなかろうか。それなりに技術力はある。だが、アジア諸国にコスト競争で劣勢を強いられ、これに対応するために機能満載という手に出た。しかし、そんな「不必要な機能」、まあ不必要とまでは言わないが別になくてもいい機能を付け加えるよりも、機能を限定して、価格を下げたかたちで販売するというやり方のほうが世界的に支持された。必要ないものを売ったところで買ってはくれないだろうし、多機能は製品に対するイメージを曖昧にさせてしまうのだから、あたりまえといえばあたりまえなのだが。しかも、人件費が少なくて済む韓国などの新興勢力が次第に力をつけていき、日本以上に全部盛りの製品を出すようになりもした。当然、これらの国の全部盛りは日本のそれよりも安い。で弱り目に祟り目ということになったわけだ。

家電での象徴的な出来事は2010年の3Dテレビだった。メガネをかけて立体テレビを見ようというものだったのだけれど、まったく売れなかった(2010年は「3Dテレビ元年」とまで言われていた)。ただし、こんなものはあたりまえ。誰が、こんな面倒くさいことを常時やるというのか?なんのことはない3Dテレビは全部盛りの延長上の発想でしかなかったのだ。つまり不必要な機能。こんなことはちょっと考えれば解ること。でも、作っている側は解らず、出してしまった。企業が製品に対するアイデンティティを失ったのである。

一点豪華主義で突っ切れ!

学生たちが解りやすくて説得力ある文章を書けないこと、日本の企業が魅力ある製品を開発出来ないこと。この二つ、実はまったく同じ処方箋で対処できるのではなかろうか。それは「一点豪華主義」だ。つまり余分なことはやらず、ひとつの機能を磨いてそこを掘り下げ、その魅力を最大化する。そのために先ずやるべきは、これから情報を入手するなら禁欲的に情報を入手すること、もはやたくさん情報を詰め込んでいるなら整理=断捨離することだ。前者は入手した情報をあっちこっちからつついてみる、後者は余分と思ったらバサバサ捨て、その後に前者と同じ掘り下げを行うのだ(もちろん前者でも情報選択という作業は当然あるけれど)。

こうすると情報量は処理可能なレベルまで数が減り、コントロール可能なものになる。それによって情報と情報の関連性を深く考えることができるし、そこからストーリー=スキーマも展開できる。そして、余裕を持って情報を扱うことが出来るので、そこからアドリブやアイデアも出てくる余地が生まれてくる。ようするに、情報を整理することで伝えようとする意味がクッキリと浮かび上がってくるわけだ。

でも、これって、ひょっとしてわれわれが情報に振り回された結果、自己を見失ってしまったことの二側面が、一見なんの関係もなさそうなことに出現しているだけでしかないのかもしれないが。

「混乱したときは、先ず足下を見る」というあたりまえのテーゼが、ここでも有効なようだ。

先日、とあるメディアからインタビューを受けた。内容は24日に発表されたゆるキャラグランプリを踏まえての事前取材だったのだけれど、その質問項目が実に興味深かった。それは「外人がゆるキャラを見たら、どう感じるのか?」というもの(まあ、この場合、外人と言えば日本人のステレオタイプである欧米人を中心に指すのだろうけれど)。で、僕は「もし、統計をとったならば、人気の分布がまったく違うはず」と応えておいた。

そう答えたのは「ゆるキャラはオタク文化が成熟した結果だから」という根拠に基づく。言い換えれば「アニメやマンガのキャラについてのメディアリテラシーが日本人と外人ではまったく異なる」。そこで、今回は日本人のマンガ・アニメオタク度=マンガ・アニメリテラシーについてメディア論的に考えてみよう。

オタクとは

先ず、はじめに誤解がないように「おたく」について確認しておきたい(オタクを取り上げると過剰に反応されがちなので定義をハッキリしておく)。オタクとは、もともとは「アニメやマンガなどに没頭するために、コミュニケーション能力が低い男の子」といった位置づけだった(「週刊読売」が定義している)。「オタク」(当初はひらがなで「おたく」)はコミュニケーション能力が低く、人と直接関われないために、相手を「君」とすら呼べず、心理的な垣根を設けて、隣の家の人間という意味合いで間接化するために、相手を「お宅」と呼んだことから名付けられた。90年代(言葉の発祥は83年、名付け親は中森明夫)、88~89年に発生した幼女連続誘拐殺人事件の犯人が典型的なオタク的性格を備えていたことから、こういったイメージは広がった。ただし、この時点でオタクについてのイメージはネガティブ。つまり「あいつ、オタクらしいぜ」と、差別的に扱われるものだった。

ところが、その後、情報の反乱と価値観の多様化によって、こういった一部の趣味や嗜好の世界に没頭するという傾向は一般化する。つまり「オタクなあなた」から「あなたの中のオタク」といった具合に、オタクは日本国民全体が分有する社会的な性格となった。いいかえれば「だれもが、自らの性格の中にオタク的な部分を備えている」時代になった。それゆえ、もはやオタクはネガティブなものではなく、もっと肯定的に捉えられるべきものとなった(海外ではオタクは”OTAKU”と呼ばれ、、クールなものと捉えられている)。言い換えれば、オタクであることはもはやコミュニケーション能力が低いと言うことを意味しない。
そして、ゆるキャラに対する国民の嗜好は、こういった価値観の多様化=国民のオタク化を明確に反映したものと考えることが出来る。

キャラスタイルの底辺を成す「手塚治虫」

アニメ・マンガに描かれるキャラクターの文法は、その底辺に手塚治虫のスタイルがあるといってよいだろう。手塚がディズニーのキャラクター文法を踏襲しつつ日本的にアレンジし直したものがそれだ。描き方としては○が基本になる。丸い顔、丸い手などがそれで、とりわけ目の○、しかも楕円のそれが特徴だ(アトム、サファイア、レオ、メルモ、ピノコ、写楽といった、手塚の手がけたキャラクターを思い浮かべて欲しい)。この描き方を手塚門下(主としてトキワ荘住民)の赤塚不二夫、石ノ森章太郎、藤子不二雄(A&F)、つのだじろう、園山俊二などの日本のマンガ・アニメストリームを形成していったマンガ家たちがこぞって踏襲した結果、日本アニメ・マンガの基本文法として成立し、日本人のこのジャンルに対する認識のデフォルトとなっていった(もちろん、ジブリの手法にも影響を与えている)。これを、とりあえず「手塚文法」と呼んでおこう。

そして、この手塚文法、今では世界でもある程度デフォルト化している。いうまでもなく日本のアニメ・マンガ文化は大きな広がりを見せ、もはやわが国のサブカルチャーを代表するジャンルに定着。さらにはクールジャパンの旗手として世界に名を馳せていることはご存知だろう(ということは、もはやサブカルチャーではない)。そして、アニメ・マンガ人口の上限を団塊世代とすれば、フォローする世代は六十代前半にまで達していることになる。

これだけの分厚い層があるならば、当然、マンガ・アニメに対する嗜好も多様化する。ただし、それは一般的なオタクたちの多様化=細分化とはちょっと異なっている。一般的には、それぞれバラバラの嗜好に細分化されるのだけれど、マンガ=アニメ文化については、そのほとんどが、先ず手塚文法という共通語を持っている点が異なる。これをベースにどう嗜好が展開するのかというのがこの文化の特徴なのだ。

マンガ・アニメに対する嗜好の方向は大きく二つに分かれる。この潮流を理解しやすいように、これを書道の世界に例えよう。書道で先ず学ぶのは「楷書」、つまり字画を崩さず文法通りきちんと書く技法だ。だが、有段者となると「行書」の世界に入り込む。これは文法をあえて崩した技法。素人目には「ミミズがのたくった」ような字に見えるが、玄人の目からすると「文法=楷書を知りつつ、これを崩している」という一段上の技法として捉えられる。つまり、リテラシーが高い。

そして、現代のマンガ・アニメ文化はこの二つの潮流(楷書と行書)が平行して流れる状況にあるといってよい。前者=楷書=手塚文法の典型は前述のジブリアニメであり、後者=行書のそれは少々気味の悪い印象すら与えるたくさんのマンガ=アニメだ(つげ義春あたりが嚆矢か?)。当然、後者の場合には、前者を知りつつ後者を楽しむという一段上のリテラシーが要求される。

ゆるキャラに見る二つの潮流

そして、このマンガ・アニメ文化の二つの潮流の上にゆるキャラという存在がある。それは、これまでのゆるキャラグランプリ・ベストテンのキャラクターを分類してみるとよくわかる。今年のベストテンは、さのまる(佐野)、出世大名家康くん(浜松)、 ぐんまちゃん(群馬)、 ふっかちゃん(深谷)、 与一くん(栃木)、 あゆコロちゃん(厚木)、 ちょるる(山口)、かわりみ千兵衛(福岡)、しっぺい(磐田)、 しまねっこ(島根)といった順。また、その他のこれまでにランキングしたものうち、めぼしいものあげておけば、バリィさん(今治)、やなな(岐阜市柳ヶ瀬商店街)、滝ノ道ゆずる(箕面)、オカザえもん(岡崎)、くまモン(熊本)、にしこくん(西国分寺)、ひこにゃん(彦根)、せんとくん・まんとくん(奈良)、ふなっしー(船橋)、カツオ人間(高知)、とっとちゃん(鳥栖)、泡姫ちゃん(新潟・粟島)などがある。で、これらは、ようするに「楷書キャラ」と「行書キャラ」に分けることが出来るのだ。

楷書キャラはひこにゃん、ちょるる、ぐんまちゃん、滝ノ道ゆずる、与一くん、まんとくんが該当する。これらはまさに手塚文法そのもの。楷書のマンガ・アニメ文法のをしっかりと踏襲している。典型的なのはひこにゃんとぐんまちゃんで、まあよくある「かわいらしい」「ベタな」キャラクターだ。

一方、その反対の行書キャラはバリィさん(ボーとしていて焦点が定まらない)、くまもん(ボーッとしていて焦点が定まらない)、にしこくん(鐙瓦をモチーフにしているが腕がない)、やなな(頭が段ボール、制作費1万円を標榜)、ふなっしー(梨の妖精とのことだが、子どもが書いた落書きのような稚拙なデッサン。喋る、切れるというゆるキャラとしては反則気味の動きが人気)、せんとくん(童子に鹿の角)、カツオ人間(鰹の頭だけのキャラ、横向きで、しかも後頭部に切り落とした切れ目がくっきり見える)、オカザえもん(顔が岡崎の「岡」の字)など。これは、手塚文法から明らかに逸脱している。しかも度が過ぎている。だから、既存の文法という視点をキャラの本来とみなしている人間からすれば、キモい。たとえばカツオ人間などはその最たるもので、要するに切り落とされた死体のカツオ。しかも、その切り口の身の部分がリアルに赤色に染められている。目も死んでいる。また、せんとくんが発表されたときには物議を醸し、これに対抗するように手塚文法をしっかりと踏襲したまんとくんが対抗キャラクターとして登場したことも記憶に新しい。しかし、この「キモい」キャラクターが、なんと、しばしば手塚文法に基づくゆるキャラの上位にランクインするのだ。実際、ゆるキャラのトップスターはくまモン、ふなっしー、ちょっとさがってバリィさんなのだから。こういったキモいキャラクターを受容できる日本人は、要するに行書を理解しうる、高度なマンガ・アニメ文法を共有していることになる。いいかえれば、この分野については多くの人間がオタクなのだ。

2013年のゆるキャラ上位は楷書と行書のバランスキャラ

ちなみに、ここのところ登場するのが中途半端にキモい存在、つまり楷書と行書の中間的なキャラで、いずれも微妙なミスマッチ感?ギリギリのラインを狙っている。今年のベストテンのうち、さのまる(アタマにラーメンどんぶり)、 出世大名家康くん(うなぎ、みかん、ピアノ)、 ふっかちゃん(耳?がネギ)、 あゆコロちゃん(ブタの頭に鮎)、かわりみ千兵衛(博多商人、菓子を売るのだが単なるオヤジ)、しっぺい(霊犬、微妙にボーッとしている) しまねっこ(頭が神社の屋根)の七つが双方のバランスをとったキャラで占められている。どうやら、この微妙なさじ加減が、いまやゆるキャラ人気のポイントとなっているようだ。

だが、くまもん、ふなっしー、バリィさんのような大人気を獲得するためには結局、行書でなければならないことも事実。つまりさじ加減で調整されたものは洗練されてはいるけれどウエルメイドで正直インパクトには欠ける。そのことを知ってか知らずか、行書と言うよりも素人アイデアレベルのメチャクチャなスタイルというものも登場し、それが物議を醸したりもしている。まあ、やななはギリギリだったが、泡姫はどう見てもソープ嬢だし(粟島の粟とソープの泡をつなぎ合わせればよいというものではないだろう)、とっとちゃんはわいせつ発言で自粛状態(目がバリィさん、くまモン同様、ボーッとしていて定まっていない)。これらなどはどうみてもやり過ぎというか、行書と無手勝流を履き違えていると言ったところではなかろうか。

外人にゆるキャラは理解できない(ものが多い)

で、こうやって考えてみると、ゆるキャラを受容する日本人のわれわれはマンガ・アニメについてきわめて造詣の深いオタク的な要素を共有していることが解る。つまり楷書も、行書も楽しむようなメディア・リテラシーを備えている。だが、いいかえれば、この文化が外人には理解不能ということでもある。マンガ・アニメ文化は日本独自のもの。そして、世界に向けて発信しているものではある。ただし、海外に届いているマンガ・アニメはそのほとんどが手塚文法に基づく楷書のもの。ということは、楷書と行書が混在しているゆるキャラについては、おそらくきわめて奇異なものに見えるのではないだろうか。行書ばっかりのキャラならなおさらで、理解不能だろう。だから強いて、彼ら(外人≒西欧人)にお気に入りのゆるキャラを選ばせたら、ひこにゃんとかぐんまちゃんとかの楷書キャラ=手塚文法を踏襲したものにしかならないはずだ。

う~ん、やっぱり日本の漫画・アニメ文化はものすごくマニアックなのだ!

テレビをめぐっては、一定の間隔で「ヤラセ」問題が発生する。古くは1985年、「アフタヌーンショー」(テレ朝)で暴走族が少女をリンチした事件のヤラセや、2007年、「発掘!あるある大事典」(関西テレビ)での納豆データのねつ造、そして今年の「ほこ×たて」(フジテレビ)のスナイパーVSラジコンカー勝負の結果改ざんなど。これらのヤラセが明らかになった場合には番組のスポンサーが降りたり、番組を打ち切ったりといった対応が行われてきた。でも、なぜ、いつまでたっても番組のヤラセはなくならないのだろうか?メディア論的に考えた場合、これは二つの要因が考えられる。一つは制作側の問題、もうひとつは番組を制作する社会的文脈の問題だ。それぞれについて考えてみよう。

業績原理に追われ、基準を喪失する

先ず制作側の問題。これは搾取の構造になっている点が問題だろう。制作自体は基本下請けの制作会社が行っている。ここでは制作費が大幅にカットされており、また制作日数もタイト。そういったなかで業績原理に基づいて制作会社は番組を制作しなければならない。で、当然、限られた予算と期日の範囲でよりオモシロイ、いいかえれば視聴率を稼げるコンテンツを作成することを余儀なくされる。こうなると「よい作品を作る」ではなく「とにかくウケりゃなんでもいい」みたいな心性が制作側に根付いてくる。しかも、忙殺されているがゆえに無意識のうちにこの感覚が定着する。そこで、ちょっと演出を踏み越えてヤラセの領域に手を伸ばす。そして、これがウケると、今度はこれを「やってもいい」ということになってしまう。そう判断するのは自分、つまり制作会社のスタッフ自身なのだが、業績原理に振り回されているので、評価されたことがOKのサインとなり、以降における演出のデフォルト的な立ち位置になってしまうのだ。当然、ここで演出は一線を越え、ヤラセモードに突入する。そして、これがウケれば、さらにどんどんとヤラセの水準はアップしていき、気がつけばトンデモナイ領域に。いや、厳密には「気づく」ことはない。ズレていることの感覚は麻痺しているので、気づくのは、ヤラセが露呈して番組が打ち切られるときなのだから。ちょっと制作側を擁護するみたいな言い方になるが(もちろん、決して擁護できるものではないけれど)、ブラック企業で働いていたら、だんだん倫理基準がおかしくなっていってしまうのとほとんど同じ構造だろう(現在、テレビのコンテンツがこの「負のスパイラル」に陥っているように思えるのだけれど)。

ヤラセは社会的文脈によって規定される

もうひとつの社会的文脈の方だが、これは「演出―ヤラセ」という基準が社会的レベルでどんどんずれていくことによる。つまりかつては演出の領域だったものが、今やヤラセになってしまう社会状況が作られることで発生するというものだ。

そもそも演出―ヤラセという分類はきわめて恣意的なものと考えてよい。この線引きは社会的コードによってもたらされるからだ。かつてだったらヤラセとして大騒ぎになりそうな演出が堂々となされた例、しかもNHKがやった例があるのでこれをちょっとこれを取り上げたい。

番組は10月24日の「ニュースウオッチ9」。番組内ではウルトラマンの未公開映像が発見されたと言うことで、その特集が10分間近くにわたって組まれた。ゲスト出演はなんとウルトラマン。アンカーの大越健介とアシスタントアナウンサーの井上あさひが、くそ真面目な顔でウルトラマンにこの映像の状況についてインタビューする。井上が質問すると、ウルトラマンが応える返事はシュワッチとかだけ(あたりまえだが)。ところが、このシュワッチを大越が翻訳するのだ。そして肝腎の映像の特集が組まれた後、再びスタジオが映されるのだが、そこには肝腎のウルトラマンがいない。これに大越は「ウルトラマンさんは地球上に3分間しかいられないために、すでにお帰りになりました」と説明した。そして論評抜きでコーナーは終了、何事もなかったかのように次のコーナーに移っていったのだった。

ようするに、これは完全にヤラセである。架空の人物?にインタビューして、全て嘘で固めたのだから(未公開映像についてはもちろんヤラセではない)。だが、これはオモシロイというか、実にオシャレと解釈される。こんなおふざけを「皆様のNHK」がやった、しかも報道番組の中でなんてのは、20年前だったら言語道断でクレームの電話がバンバン来たのではなかろうか。ところが、そうならないどころか、かえって絶賛されたのである。そう、これはミエミエのヤラセであるという文脈が共有されているからこそ許されることなのだ。だから、このヤラセはヤラセでなく演出になる。

一方、微妙だった例を挙げてみよう。これは1996年、日テレが放送していた番組「進め!電波少年」の中の「猿岩石ユーラシア大陸横断ヒッチハイクの旅」というコーナーでの出来事。猿岩石という若手お笑いコンビ(一人は有吉弘行)がヒッチハイクのみで香港からロンドンまで旅をしたのだが、この旅の行程に疑義が投げかけられた。猿岩石はタイからミャンマーを抜けバングラディシュに抜け、さらにインドに向かったことになっているのだが、ミャンマーとバングラディッシュの国境は開いていないので、実際にはこれは不可能。ところがちゃんとインドまでたどり着いていたことにクレームがついたのだ。つまりヒッチハイクをしていない。

実際、猿岩石はここでは飛行機で移動しており、後にそのことが公表された(結局、飛行機はその他を含めると三回利用されている)。ただし、その時、プロデューサーの土屋敏男は完全に開き直った?コメントをしている。それは「バラエティなんだから」という発言。つまり「誰もドキュメント=ノンフィクションとは言っていない」と主張。日本テレビ氏家齊一郎社長(当時)も「(バラエティという)番組の性質上、倫理とか道義的な責任はないと考える」とコメントした。これは、はっきり言って電波少年側の理屈がまったくもって筋が通っているのだが、社会的コードに抵触したため、それでも多くの非難を受けたのだった(とはいうものの、この後の特番で二人が飛行機乗り込む映像を流したりするという過激なこともやっていたが)。

結局「演出」と「ヤラセ」はどこで線が引けるのか

結局のところ演出とヤラセの線引きは社会的コードからどの程度逸脱しているかによって決定すると言っていいだろう。つまり、それがウソであろうがなかろうが、そのことを視聴者側が肯定してしまっているものについては「演出」、そうでないものは「ヤラセ」に振られていく。だからこそ、きわめて曖昧、恣意的なものなのだ。

逆を言えば制作側としてはこの社会的コードが読めていないといけないということでもある。たとえば「電波少年」のように筋を通したとしても、許されないという文脈が世論を形成してしまうこともある。

ひょっとして、もし「ユーラシア大陸横断ヒッチハイクの旅」が今放送されていたとしたら、大バッシングを食らって番組打ち切りなんてことになっているかも知れない。現代は、それくらいイメージが優先する時代なのだから。その半面、ウルトラマンやミッキー、ガチャピンは完全なヤラセであるにもかかわらず、事実=演出として受け入れられてもいる。そう、こちらもまたイメージが優先する時代のたまものなのだ。虚実ない交ぜの中で演出とヤラセが偶有するのが現代のメディアなのである。

で、僕らとしてはどういうスタンスでこういったコンテンツを見るべきなのか?この答えは意外と簡単だ。全て「ヤラセ」として見ればよいのである。演出などしたつもりのない報道であったとしても、だ。そう、僕らにはこういったメディア・リテラシーが要求される時代なのだ。コンテンツというものはすべからく虚構であるという視点、重要なのではなかろうか。

小泉純一郎の日本記者クラブでの脱原発についての発言。早速、あちこちで物議を醸しているようだが、メディア論的に見ると今回のやり口は実に見事と言うほかはない。相変わらず小泉純一郎がメディアを操ってやりたい放題にやるという「メディアの魔術師」的な技量は健在だ。そして、原発ゼロ発言にはじまる小泉の脱原発アピールは、必ずや何らかの影響を政策に与えてしまうだろう。なので、今回は小泉が脱原発をめぐって、いかにメディアを巧みに操ったのかについて、この会見を中心にメディア論的に分析してみたい。
 
 

反論を利用する

会見の冒頭、小泉は先ず首相辞任以降、自分がこれまで公式にはメディアで一切コメントしてこなかったことから切り出した。これは、要するに、これから発言することがいかに重要なことであるかを言外から巧妙にアピールするやり方だ。聞いている側としては「そうか、そこまで大切なことをこれから話すのか」と無意識のうちに身構えてしまう。もうこれで「つかみはオッケー」である。
 
次いで、自らの原発ゼロ発言への読売新聞の批判への反論をはじめる。読売は「代案を出さずに発言をするのは無責任で楽観的だ」と小泉を批判したのだが、これに「1人でそんなことは出来るわけがない」と開き直ることで自らの代案を提出しないことへの正当性を主張し、さらにそれを叩き台に、だからこそ政府が原発ゼロの方針を打ち出すべきなのだ、「原発ゼロという方針を政府が出せば、専門家や官僚が必ずいい案を作ってくれると切り返す。原発は無くさなければいけない。しかし、自分一人ではそれはムリ。だから代案を出さずに、政府が方針を出すべきだというレトリック。こりゃ、スゴイ。
 
しかも、主張と言うより、事実を知ったという感じで「原発というのは、無くせるんですよ」と他人事のように、そして当然のことのように語り、話を続ける(この担保はオンカロの視察だ)。この根拠の無さはトンデモナイのだけれど、他人事のように語ることで、聞いている側は既成事実のように感じてしまう。そして、このインパクトが醒めないうちに、やっぱり代案を出さずに「みんなで考えて工夫すればなんとかなる」的な発言をもってくる。しかもLEDの開発ではそれが出来たという、あんまり関係のない議論を持ってきて。でも、客観的事実のように語るので、そんな感じがしてしまう。
 

振り子理論の応用

しかし、この会見の趣旨をよく見てみると、それまで発言していた内容と微妙に異なるところもある。これまでは「原発ゼロ=即原発廃止」という立ち位置だったのが、現在の原発ゼロは「みんなで工夫してゼロにしろ」という文脈に変化しているところだ。ただし、これも小泉一流の巧妙な戦略とみた。
 
70年代前半、榎美沙子という女性がウーマンリブを掲げで中ピ連という組織を結成し、選挙にも女性党という名前で出馬し、メディアを賑わせた。「中ピ」とは中絶とピルのこと。つまりこの二つを許可して女性を性差別から解放せよというもの。しかも、高らかに女性上位を謳った運動を繰り広げ、男性からの総スカンを食らった。その際、なぜそんな過激なメッセージを発するかについて、榎は以下のような主旨の興味深いコメントを残している。それは、
 
「振り子を真ん中に持ってくるためには、一旦、反対に振らなければならない」
 
というもの。
つまり性差別を無くすためには現在の男性優位から、先ず女性優位に振ることで、結果として性に対する扱いはニュートラルになるというわけだ。
 
で、今回、小泉は、いわばこの「振り子理論」を政府に対して働きかけたと僕は考える。しかも榎よりはるかに巧妙なやり方で。
 
つまりこうだ。先ず「即原発ゼロ」という突拍子もない発言をする。だが、これを一般の人間や一般の政治家が行ったところでインパクトは薄い。たとえば山本太郎が叫んでも、一部の支持層にしか届かないだろう。ところが、あのカリスマ、そして首相を辞してからも復帰待望論が止まず、人気も維持したままで、しかもずっと何もコメントしてこなかった小泉だったら、そのメディア性=インパクトは全然違う。「あの小泉さんが」「あの純ちゃんが」一生懸命言っていることだから、これは大変なことだろう、と耳を傾けてしまう。だからトンデモ的な主張がトンデモに聞こえない。たとえトンデモでも、メディアが黙っていない。だって純ちゃんは人気者なんだから。
 
で、そのことを小泉はよく知っている。そして実際、朝日新聞が行った世論調査では小泉の原発ゼロ主張の賛成が60%で、反対の25%を大きく上回ってしまったのだ(朝日新聞もやらなきゃいいものを。実はやったこと自体が小泉に弄ばれているんだけど)。
 
こうなると世論のバックアップがあるということ、安倍首相は元々小泉の子飼いであると言うこともあって、政府としてはほったらかしておくわけにはいかない状況に追い込まれる。「ジジイはひっこんでいろ」とか「無視しとこう」ってなわけにはいかなくなってしまうのだ。で、渋々「あんまり言わないでね」的なコメントをするのだけれど、これはどうみても力関係が小泉>政府みたいになってしまっている。言い換えれば、巨大な敵軍にドンキホーテのようにたった一人で立ち向かい、しかもマトモに対抗しているどころか優勢に戦いを進めてしまっている。で、こうなるとメディアは面白がるし、これ見ている観客=有権者たちは、たった一人が大軍をきりきり舞いさせるという映画的スペクタクルに驚喜してしまう。そう、例の「小泉劇場」が、またはじまってしまったのだ。
 
そして、政府が苦虫をつぶしている状況に第二の矢を放ったのが、この記者会見だ。ここでは前述したように今すぐ全てを廃炉にしろとはいわず、「原発ゼロを方針として先ず決めて、みんなでそちらに向かって工夫すべき」と、一見トーンダウンしているようにみえる。しかし、これはトーンダウンでもなんでもない。一ノ矢で「即ゼロ」とプロパガンダをぶち上げ、世論を引きつけ、アドバンテージはこちらにあるとした上で、今度は現実的な案を提示したのである。つまり一ノ矢では振り子を一旦反対方向に振って慌てさせておいて、落としどころの「原発ゼロの方針を決定する」というニュートラルな案を提出しているのだ。そして、小泉のホンネはこちら、つまり「今すぐ原発廃止、即ゼロ」ではなく「脱原発を加速させろ」「おまえらはチンタラしている。こんなんじゃダメだ」という喝入れにある。
 
こうなると政府も黙ってはいられないだろう。やはり苦虫をつぶしたような顔をしながら、結果として脱原発に向けて、その動きをこれまで以上に加速させることを余儀なくさせられるはずだ。たった一人が大群を槍一本=コメントだけで打ち倒すという図式は、有権者からすれば、こりゃカッコイイ。ドンキホーテが勝っちゃうんだから、痛快だ。
 
 

息子・進次郎とのあうんの呼吸の出来レース?

ちなみに、当然ながらメディアはもう一人の政界の寵児であり、この小泉マジックと関与しているのではないかと思われる人物にコメントを求めた。言うまでもなく、息子の小泉進次郎だ。で、このコメントもまた秀逸だ。先ず、「父親のこのスタンドプレーをどう思うか」的な質問に「父親が元気というのはよいことです」と、政治とは関係のない、ほとんどどうでもいいことをコメントする。しかし、このコメントは計算済であることを看過してはいけない。この発言で、自分と父親の政治的つながりを一旦、寸断してしまうからだ。つまり政治的関係<親子関係というかたちで議論をすり替える。こうなると小泉純一郎は微笑ましいジジイになるし、自分はそれをねぎらうというか、呆れながらも親しみを感じている親孝行息子という位置づけになる。これで、自民党での自分の立場も安泰だ。
 
しかし、その次に進次郎がしたコメントが大きな意味を持ってくる。「こうやって原発のことについてオープンな議論をすることは重要だ」と付け加え、一旦、「年寄りの冷や水」と自分の父親の行為を評していたものを、他人事として対象化した後に、今度は一つの政策のあり方として提示する。つまり、オヤジのやっていることの正当性を呼び戻してしまうのだ。そう、これは純一郎が他人事のように「原発はなくせる」といった手法とまったく同じ「事実を発見した」というパターン。ということは、結局、進次郎は、自民党での自分の立場を保全した後、議論を対象化したかたちで、今度は今回の父親のパフォーマンスを評価、援護しているのである。二人はまったくつるんでないなんてのは、実は大ウソと考えた方がいい。
 

メディアの魔術師の能力はスタンド・アローンだった?

不謹慎に思われるかもしれないが、今回の小泉純一郎のメディアの魔術師の発揮ぶり、やはりスゴイと思った。こんな巧妙なやり方、橋下徹、安倍晋三じゃムリだろう。そして、今回もっと驚いたのが、小泉が首相だったときに言われていたことがちょっと違っていたんじゃないかということだ。メディアの操作に長けていた小泉には、メディア対応のブレーンがいて、うまい具合にやっていたといわれていた。そしてそのリーダー的存在と目されていたのが秘書の飯島勲だった。しかし、今、飯島は第二次安倍内閣の内閣官房参与の立場にある。つまり、小泉の「殿、ご乱心」ならぬ「ジジイの乱心」に対応する立場にあるはずだ。ところが、政治家すら辞め一匹狼になった小泉純一郎のパフォーマンスにまったく対処できていないどころか、いいように振り回されている。ということは首相時代の数々のパフォーマンスやメディアの巧みな操りは、実は小泉がたった一人でやっていたことなのではないか?つまり飯島はサンチョ・パンサではなかった。そんなふうに感じないではいられなかった。
 
自民党衆議院議員の武井俊輔氏は今回の小泉のやり方にFacebookで苦言を呈している。小泉の発言には耳を傾けるべきものがあるものの、なぜ、個人的によく知っている安倍首相に直接話さずメディアでパフォーマンスをしたのかと。武井さん、残念ながらそれは政治家のやるべきことではありません。というのも、もし小泉が個人的に安倍首相に今回のことをアピールしたら、それはまさに「負け犬の遠吠え」「ジジイのボヤき」でしかないからです。そんなことをしたら、「ああそうですか、参考にしておきます」と言ってスルーされるのがオチ。ところが、メディアを使えば、こうやってたった一人でも政府を引っかき回すことが出来る。武井さん、こういうパフォーマンス能力こそが政治家の資質なんですよ。

 
やはり、純ちゃんはカッコイイ!そして、ものすごくアブナイ!!この男はオワコンでもなんでもない。相変わらずメディアの魔術師、取扱注意な存在なのだ。


※追記:なお、小泉純一郎のメディア戦略についての詳細は拙著『劇場型社会の構造~お祭り党という視点』(新井克弥、青弓社2009)を参照されたい。

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