勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2013年10月

「半沢直樹」と「あまちゃん」の高視聴率について考えている。「ちゃんと作れば視聴率はとれる」と言う前提で、二つが「ちゃんと作った」から視聴率が稼げたのだと結論した。そして、これからもこの二作品のように「ちゃんと作れ」ば視聴率は稼げる、そして、それがテレビドラマの未来、ひいてはテレビの未来を開く。だから、この二作品の「ちゃんとしたところ」について考えてみよう。と言うことで議論を進めてきた。で、第一回は「共通」のちゃんとしたところについて考えてみた。そして「”情報圧”と”テンポ”が視聴者に快適な”めまい”を起こさせる」ところに、これら作品の魅力があると結論づけた。第二回は二つの「異なった」ちゃんとしところ、つまり「めまいを起こさせるメカニズム」「めまいの質」の違いに立ち入り、先ずは「半沢直樹」について言及した。最終回の今回は「あまちゃん」ついて考えてみたい。

前回も述べたように「半沢直樹」の魅力はベタな図式を徹底した「楷書」「ウルトラモダン」な展開にある。つまり半沢の目的(復讐)に向けて、あらゆるものが一直線に向かっていくという展開だ。いいかえれば全ては半沢の活躍に回収されるという「求心」的展開を、膨大な情報量と徐々に加速する爽快感で進めたわけで、それが視聴者を魅了したわけだ。

マルチストーリー

一方、あまちゃんは「草書」「ポストモダン」という言い方がぴったりだろう。とにかくベタな文法をどんどん壊し、ストーリーを拡散させていくという展開だ。そしてあまちゃん=天野アキの役割は、こういったマルチストーリー、そしてそれを演ずる脇役たちに役割を割り振っていく。そうすることで作品は「遠心」的な展開となる。

具体的にアキが割り振るストーリーを示してみよう。1.母・天野春子のアイドルルサンチマン克服の物語、2.足立ユイのアイドルを夢見る物語、3.鈴鹿ひろ美の女優としての自分さがしの物語、4.荒巻太一の春子と鈴鹿への贖罪の物語、5.水口琢磨の「モノ・ヒトを育てたい願望」成就の物語、5.大向大吉の春子と安部をめぐる恋の物語、6.天野夏と春子の母子確執解消の物語と、実にたくさんの物語が同時進行する。そして、これら物語をキャスティングするのが主人公・アキの役割なのだ。

これだけのマルチストーリーを一挙に展開するのだから、さすがにそのテンポは「半沢直樹」にはかなわない。というか、明らかにテンポはよろしくない。むしろ、一見、分裂したかたちでドラマは進行する。だから、これらの複数の物語を、それぞれ回収し、それぞれ改めて整理し直す作業を視聴者は強いられる。で、これがなかなかややこしいので、半沢がベースにおいているような「ベタな展開」、つまりサスペンス劇場や、既存の朝ドラの「一本道」の展開に慣れている高齢者には見るのがかなりつらくなる。情報量でオーバーフローをおこし、それぞれをつなぎ合わすことが出来なくなって「理解不能」に陥るのだ。だから高齢者には最初の北三陸編(Wikipediaでは「故郷編」。朝ドラの既存の展開である「アキの成長」というビルドゥングス・ロマンが展開された)の後からの、マルチストーリーが派手に展開する流れにはついていけないということになった。

オタク世代のデータベース消費

ところが、これがポストモダン世代、というか「オタク消費」的な指向性を備えた50代前半以下の人間にはウケにウケることになる。彼らは哲学者の東浩紀的に表現すれば「データベース消費」を嗜好する世代。作品の中にギッシリと詰め込まれた情報を繰り返し視聴したり(ネット上では一日四回放送されるあまちゃんが「早あま、朝あま、昼あま、夜あま」と表現された)、ビデオで何度も視聴したり、ネット上のサイト(とりわけTwitterを中心としたソーシャル)をチェックしたりすることで、このマルチストーリーのそれぞれを解析していくことに熱狂したのだ。

それだけではない、これらそれぞれのストーリーを任意につなぎ合わせるというメタ的な楽しみも見いだしていく。ただし、そのつなぎ合わせは完全に恣意的というわけではない。作品は三部構成になっているが、一部の北三陸編では天野アキの成長物語が、二部の東京編ではアキのアイドルへの道と春子のルサンチマンの修復が、三部の震災編(Wikipediaでは東京編)では鈴鹿ひろ美とユイの私さがしが通奏低音として用意され、その上でそれぞれのストーリーがこのシンフォニーを奏でるパートとして展開されるのだ。そう、クラッシックの曲のスタイルになぞらえば、「半沢直樹」が「協奏曲」であるのに対し、「あまちゃん」は「交響曲」的な構成(交響曲の多くは3~4楽章からなるが、「あまちゃん」は前述のように三部で構成されている)。そして、この時、「半沢直樹」では主人公の半沢はソリスト(ピアノ協奏曲ならピアニスト)として登場するが、「あまちゃん」ではアキは指揮者として登場している。そして、その都度、それぞれのパートを引き立てつつ、壮大なシンフォニーを奏でるのである。

視聴者は、これらのパートを繰り返し視聴する中で微分しながら楽しむということもやり始める。そして、さらにそれらをの物語をつなぎ合わせるという作業もまた楽しむのである。いわば個別で楽しみ、かつ全体で楽しむというやり方。なおかつ「自分だけのあまちゃん」を再構成するという楽しみ方。

アナグラムによるメタストーリー

さらに、この微分的な楽しみはアナグラム的手法でも可能なようになっている。アナグラムとは言葉の綴りを変えて別の意味をそこに含めてしまったり、主題を分解してちりばめてしまったりする手法のこと(言語学の父・F.ソシュールの言葉)。

たとえば、松本隆が作詞家としてデビューしはじめた頃、アグネスチャンに提供した曲「ポケットいっぱいの秘密」(1974)を例にとってみよう。この曲に次のような歌詞がある。

あなた、丘の上
ぐっすり、眠ってた
寝顔、かわいくて
「好きよ」とささやいたの

当時アイドルであったアグネス・チャンのイメージを踏襲した、いかにもかわいらしいテクストだが、この各行の最初の1文字を縦にならべると「あ・ぐ・寝・好」、つまり「アグネス」となり歌っている本人の名前が出現する。まあ、これはきわめて簡単なものだが、これが凝ってくるとアナグラムには一つのストーリーの中に別のストーリーが挿入され、それがメインとなるストーリーや設定とは異なるもう一つのストーリーや設定をつくりだすようになる。

そして、この手法が「あまちゃん」の中にはいくつか採用されている。大きなものは三つ。一つは80年代のアイドルシーンだ。当時のアイドルストリームに基づいて松田聖子、渋谷哲平などのエピソードがちりばめられ、これらを再編集することで80年代アイドルをめぐる物語が浮かび上がるようになっている。ただし、それはホンモノの80年代ではなく、その中から当時のアイドルである小泉今日子と薬師丸ひろ子が抜き取られらた「架空の80年代アイドルシーン」という物語。そして、このシーンを再現する役割を担っているのが春子=小泉と鈴鹿ひろ美=薬師丸なのだ。つまり、ドラマの中で架空の80年代アイドルシーンという別のドラマ=ストーリーを楽しむことが出来る。

二つ目は北三陸をめぐる物語。ドラマの中心は「北三陸市」。もちろんこれは架空の都市で、実際には久慈市がロケ地になっている。だが、この北三陸市には久慈市がしっかりと背後に想定されている。先ず北三陸鉄道は実際には三陸鉄道北リアス線だが、このことが「わかるやつだけ、わかる」ような仕掛けになっている。北三陸駅は久慈駅で駅舎はそのままロケ地になっているが、それだけでなく駅舎内も入り口と改札が同じ位置に作られていて、実際のものを見るとちょっとセットを彷彿とさせる。ただし、大きく違うところがある。実際駅構内の向かって右はウニ丼を売る売店だがセットは切符売り場、そして左側も売店だが、セットにあるのは喫茶店件スナックだ。そしてこの名前が「リアス(梨明日)」。つまり、この駅が実際には北リアス線の久慈であることが示されている。また北三陸市については北三陸観光協会にジオラマが用意されているが、これは久慈の要所を一カ所にまとめた架空のジオラマだ。たとえば北三陸線袖ヶ浜駅は前に海があり、それが袖ヶ浜ということになっている(ユイがミス北鉄として列車に乗り、窓越しに袖ヶ浜にいるアキと手を振り合うシーンがある)が、この駅は実際には袖ヶ浜のロケ地である小袖が浜から20キロメートル近く離れた堀内駅で、駅の前に広がっている浜は小袖が浜ではない(また畑野駅も田野畑駅を利用している。名前は後ろの二文字をひっくり返したもの)。さらにアキの恋人となる種市浩一は北三陸高校でダイバーの訓練を受けているが、このロケ地となった訓練用のプールのある高校名は「種市高校」という。つまり、こちらの方はドラマの中でもう一つの久慈市である北三陸市=ハイパーリアルな久慈市を楽しむことが出来る。とりわけ久慈の市民にとってはこのリアルな架空都市を毎回追うことで、やはり別のストーリーを追体験できるようになっている。

そして三つ目は、いうまでもなく東京のアイドルユニット「アメ女」こと「アメ横女学園」だ。これがAKB48であること、そしてアキが所属したGMT5(当初はGMT47)がAKBから派生した各都市のユニットHKT48やNMB48がモチーフであることはあきらか。そしてプロデューサー“太巻”こと荒巻太一は言うまでもなく秋元康だ(黒いスーツという服装と四角い黒縁メガネが同じ。腕を組んでポーズをとるところも)。で、アメ女のアメ横は御徒町。こちらも言うまでもなくAKBがホームグラウンドとする秋葉原のとなり。つまり、こちらはもう一つのAKBワールドであり、視聴者は秋元プロデュースならぬ「太巻プロデュース」を、秋元の手法をなぞらえながら楽しむことが出来るようになっている。

物語の重層性

あらためてまとめてみよう。「あまちゃん」は三つのストーリーから構成されている。先ず1.全体を通した大きなストーリーが三部(北三陸編、東京編、震災編)から構成され、次に2.それぞれのキャラクターのそれぞれのストーリーが展開され、さらに3.アナグラムに基づくメタストーリーが展開される。いわば「物語の三重構造」からなり、しかもそれぞれが複数の物語を持つという、きわめて重層的な物語なのだ。そして、この多重構造が「半沢直樹」をはるかに凌駕するような情報圧をつくりだす。視聴者はこれらの情報を微分していこうとするが、もはや物語の数が多すぎて処理不能。だから、必然的に「めまい」を感じるようになる。ただし、それぞれの物語には親密性を抱いている。だから、それは快適なめまい。視聴者はさながらディズニーランドでミニーのカチューシャを購入して装着し、嬉々としているゲストのように、この膨大な情報に身を投げ、あまちゃんワールドと一体となり、ホリスティックな感覚に包まれるのだ。つまり、ディズニーオタクがディズニーランドに行って各テーマランドで遊び、ミッキー、ミニー、ドナルド、グーフィー、プルートといったキャラクターに囲まれる(さらに裏ネタや隠れミッキーを探すと行ったようなアナグラムを探したりもする)といったのとまったく同じ状況が、「あまちゃん」というドラマを視聴し、ネット等を利用して情報アクセスすることで作られるのだ。

「半沢直樹」「あまちゃん」はウルトラモダン、ポストモダンといった相反するベクトルによって、隘路に陥っているテレビ界に風穴を開けるきっかけを作ったのではないだろうか。これはテレビドラマに限った話でしかないが、それ以外のテレビコンテンツについても、そしてその他のマスメディアコンテンツについても、実はブレークスルーとなる手がかりはころがっているはず。この二つはそのことを示したのだと、僕は思っている。

「半沢直樹」と「あまちゃん」の高視聴率について考えている。「ちゃんと作れば視聴率はとれる」と言う前提で、二つが「ちゃんと作った」から視聴率が稼げたのだと結論した。そして、これからもこの二作品のように「ちゃんと作れ」ば視聴率は稼げる、そして、それがテレビドラマの未来、ひいてはテレビの未来を開く。だから、この二作品の「ちゃんとしたところ」について考えてみよう。と言うことで議論を進めてきた。で、前回は「共通」のちゃんとしたところについて考えてみた。そして「”情報圧”と”テンポ”が視聴者に快適な”めまい”を起こさせる」ところに、これら作品の魅力があると結論づけた。

今回は後半。では、二つの「異なった」ちゃんとしたところはどこに求められるのだろう。いいかえれば、二つの「めまいを起こさせるメカニズム」「めまいの質」の違いはどこにあるのだろう?

先に結論を述べれば「半沢直樹」は楷書を徹底させたところ、「あまちゃん」は草書を展開させたところに、その独自性(そしてめまいの原因)を求めることが出来る。哲学用語を用いれば、前者は「ウルトラモダン」、後者は「ポストモダン」といったところ。でも、これじゃあ、ちょっとわかりづらいので、もう少し砕いて言えば、前者は「徹底的にベタな手法を採用したところ」、後者は「ベタな手法を次から次へと破壊したところ」に魅力がある。つまり、同じ「めまい」効果であっても、その手法においてベクトルは逆を向いている。

半沢直樹は徹底したベタな展開、そしてデフォルメ

「半沢直樹」。これはとにかく本当にベタベタな展開だ。まず、展開としては勧善懲悪図式を徹底的に前面に押し出している(これについては慶応大学の中村伊知哉も指摘していた)。半沢は、実はピュアな善人であり「悪人を殲滅しようとする存在」。一方、大和田(香川照之)や浅野(石丸幹二)は悪人(大和田に至っては仇敵でもある)で、「殲滅されるべき存在」。そして、その取り巻きも半沢の周囲は善人(中野渡)や正義感の強い人間(中西、垣内、竹下)や、ちょっと気の弱い人のよい人物(近藤)、そして半沢の懐刀(角田)というふうに善玉で固められている。片や大和田や浅野の周囲は自己顕示欲の強い人間(羽根、東田)や保身に徹する人間(岸川 、江島)、姑息な人物(小木曽、灰田、小村)と、やっぱり悪玉。加えて善悪二つの対立を盛り上げる、二人の狂言回しが登場する。善は渡真利(及川光博)、そして悪は黒崎(片岡愛之助)(この二人は状況の解説役でもある)。さらに、これらをより明瞭化させるために、どの役者にも大仰な演技をやらせ、時には見得さえ切らせる(ご存知のように、半沢の決め台詞としての見得は「やられたらやりかえす、しかも倍返しだ!」だ)。香川の演技はいつもにまして大仰だし、片岡に至ってはオネエ系で声のキーを高くしてイヤミな感じをデフォルメし、エキセントリックなキャラとなっている(愛之助は歌舞伎の芸を見事に持ち込んでいる。お陰で現在、大ブレイク中だ)。

余分な要素は全て省略

こういったかたちで役柄の性格をはっきりと二分する一方で、それ以外の役割はバッサリ切り落としてしまう。だから、こういった善悪二分法の枠から外れた人間ついては、書き込みが実に浅い。その典型は半沢の妻・花(上戸彩)で、花はもっぱら半沢の、いわば「援護射撃」しかしない。この辺は「ジェンダーバイアスがかかりすぎ」、つまり男性中心のドラマであると批判を浴びているが、こういった批判は完全に的が外れている。ここでは前述したように善悪二元論をくっきりと浮き彫りにするために、どちらかに役割を二分し、それ以外はバッサリと切り落とすことが重要なのだから(言い換えれば「男のドラマ」にしてしまった方がわかりやすい。だからこのドラマでいちばん恩恵の少なかった俳優は上戸彩だろう)。こうすることで作品自体はミニマリズムを徹底させた、実にシンプルなものになるのだ。勧善懲悪の物語、シンプルな役割設定、シンプルな展開、そしてこれらが全て使い古されたお定まりの図式。ここまで単純なお約束の図式に話を持ち込めば、こりゃ、実にわかりやすい。年寄りでも十分楽しむことが可能だ。だから、視聴率はそれなりに十分見込める。

しかし、現れた結果は常軌を逸した想定外の視聴率。本来、こういったベタな図式だったら「サスペンス劇場」程度しか視聴率(まあ20%くらいが関の山か)がとれないはず。そして高年齢層がもっぱら顧客となる。ところが、ご存知のように「半沢直樹」は、これらをはるかに凌駕する数値をはじき出した。ということは「サスペンス劇場」の顧客層、つまりこれより下の層をゲットしたと理解しないと辻褄があわない。で、実際、この番組は、かなり広範囲な層に受け入れられている。なぜか?

ベタな図式を情報圧とテンポで引っかき回すことで生まれる疾走感

その理由は二つ。一つは、ここまで展開してきたように、ベタな図式を徹底したこと。つまり、徹底度合いがハンパなかった。きわめてクッキリとした展開を心掛けたから見やすかったのだ。 全ては半沢直樹を中心に物語は展開し、その他の役柄は半沢をポジティブかネガティブに盛り上げるだけ。いわば、他の要素でお茶を濁すと言うことが一切ない。だから、ものすごくわかりやすい。 いいかえれば既存=モダンな図式をそのままに、とことん突き詰めたウルトラモダン。とにかく半沢の話たった一本だけの電車道でストーリーがひたすら展開する。

だが、それ以上に、視聴率に拍車をかけたのが、前回、取り上げた作品の形式だ。つまり膨大な情報圧とテンポで、これらのベタ要素を使いまくった。しかも「半沢直樹」の場合、ストーリーは毎回、後になればなるほどそのテンポが加速する。しかも回を追うごとにもテンポが加速した(ただし大阪編(1~5話)と東京編(6~10 話)の二段ロケット方式で、それぞれ加速した)。そして、この疾走感=加速の爽快感こそが結果として「半沢直樹」のいちばんの魅力となる(ここが「あまちゃん」とはまったく異なるところだ)。こうすることで、このベタベタな図式は、ベタベタな図式なままベタベタな図式を超越する。つまりベタベタをものすごいエネルギーで突き通すことによってベタでも何でもなくなってしまう、きわめてクリエイティブなものになった。要するに量が質に転化したのである。そして、この骨太・高速な展開に、普段ならば「サスペンス劇場」的なベタな展開には目もくれない若年層が飛びついた(サラリーマンという設定も中年男性を呼び寄せるには効果的であったことを加えておくが)。つまり加速感にワクワクしてしまった。そう、こうして「半沢直樹」のウルトラモダン作戦は老若男女の幅広いそうを取りこむことに成功したのである。その結果が最終回の42.2%という視聴率だったのだ。

じゃあ、「あまちゃん」の方の「めまい」は、どう構成されているのだろうか?(続く)

ご存知のように、今年に入って「半沢直樹」「あまちゃん」二つのドラマが高視聴率を獲得した。「半沢直樹」の最終回は21世紀に入ってから放映されたドラマでトップ、「あまちゃん」の平均視聴率は朝ドラで二位という快挙だった。長期にわたるテレビ視聴率の低下の中で気を吐いたわけだが、なぜこの二作品がこのような快挙を達成することが出来たのだろうか?今回はこれについてメディア論的に考えてみたい。で、僕はこの二つのドラマの高視聴率の背後に現在のテレビの不調、そしてテレビというメディアの将来が見えると考えている。

メディアの不調はインターネットのせいではない?

内田樹は著書『街場のメディア論』(2010、ちくま新書)のなかで、「メディアの不調」というタイトルで既存のメディアの退潮について考察を加えている。一般にテレビや雑誌などのマスメディアの不調は、インターネットの出現によって情報ソースが多様化していることに求められると分析がなされるが、内田はこれを否定する。そして、その原因を論考のタイトルどおり「メディアの不調」に求めている。簡単にまとめてしまえば、要するにレベルの低いコンテンツを作っているからダメになっているだけであって、ちゃんと作れば、これは克服できると論じているのである。

「内田節」ゆえ、少々乱暴な議論であることは確か(まあ、そこが楽しいのだけれど)。ただし、この主張、僕は若干の留保を加えることで納得がいった。確かに情報ソースの多様化の中で、テレビのような既存のメディアは、あまたあるメディアの一つに成り下がり、他のメディアとの客の奪い合いが発生して、かつてのような「わが世の春」を謳歌することができなくなっているのは確かだ。しかし、それ以上に、この不調は激しすぎるのではないか。つまり、予想以上に低下している(まあ、これは様々なメディアによって人材が引き抜かれ、よい人材が集まりにくくなっていることもあるだろうが)。いくらなんでも、ここまで酷くはならないはずだ。

そこに「半沢直樹」と「あまちゃん」である。前者は初回19.4%からジワジワと視聴率を上げ、最終的には42.2%に達した。後者も平均視聴率20.6%という高視聴率を達成したのだ(両方とも尻上がりだった)。ということは、この二作品は「ちゃんと作った」から認められて視聴率をとっただけ、と考えることも出来る(多様化というマイナス要因を考慮すれば、かつてだったらもっと視聴率を稼げたのではないかとも考えられる)。ということは、この二つのドラマの「ちゃんと作ったところ」を分析すれば、テレビドラマの未来が開けるということになる。そこで、二つの作品に「共通するちゃんとしたところ」と「独自のちゃんとしたところ」、つまり魅力の二つの側面を析出してみよう。で、今回は前半として「共通するちゃんとしたところ」について取り上げてみたい。

中村伊知哉氏の分析への不満

慶応大学の中村伊知哉がこの二つの人気の秘密について論じている(http://ichiyanakamura.blogspot.jp/2013/09/vs.html。まず、「半沢直樹」の人気の要因については「ヒーロー願望」「わかりやすさ」の二点を指摘している。前者については等身大のヒーローがサラリーマンの願望を体現したこと、後者については勧善懲悪の時代劇を展開したことが取り上げているが、ちょっと説得力には乏しい。というのも、この二つの要素だけでは他のドラマとの差異化が図れないからだ。つまり、よくある図式の一つでしかなく独自性が見えない。一方、「あまちゃん」については「様々な人間模様」がポイントとしてあげられているが、こういった「群像」的なドラマも、やはりよくあるパターンの一つでしかない。また、たくさんの人間ドラマを描いたところで、これが魅力を放つとも限らない。日本のガラケーが「売らんかな」の姿勢で、機能を次々と加えた、いわゆる「全部盛り」を押し出したことがあったが、その後登場したスマホ(当初iPhone、全部盛りではない)に駆逐されたといった例でもわかるように、「合わせ技一本」というやりかたは必ずしも「量が質に転化される」ということにはならない。要するにどちらの分析にしても「それは他でもやっているよ」という可能性を排除できていないのである。だから説得力が弱い。

「半沢直樹」と「あまちゃん」の共通項は「情報圧」と「テンポ」
じゃあ、この二作品が視聴率を獲得した理由はどこに求められるのだろう?ということで、まず、「共通するちゃんとしたところ」について考えてみよう。この二作品に共通するもの、それは「情報圧」と「テンポ」だ。

ばらまかれる膨大な情報量

情報圧とは、圧倒的な情報量によって視聴者にかけられる圧力のこと。二作品は、ともに一つの番組の中に数本分の情報を詰め込むというやり方を採用している。これは例えば映画なら「スターウォーズ」「パイレーツ・オブ・カリビアン」「20世紀少年」あたりが典型的。これらはとにかく一回では分析不可能なほどの情報を見る側に降り注ぐ。だから、これを解析しようと映画館に複数回通ったり、ビデオで何度も繰り返し見たり、SNSで情報交換したりすることになる。これによって視聴者は情報という海の深海魚となり情報圧を感じるようになるのである(で、これが快感)。そして、こういった近年の情報圧を高める手法がテレビに持ち込まれたのが、この二つのドラマなのだ。朝七時半にBSで放送されていた「あまちゃん」は、その前の時間枠で朝ドラ「純情きらり」が放送されていたが、この二つを順番に見ると「きらり」の方はスカスカに見えた。だが、これは正しくは「きらり」がスカスカなのではなく、「あまちゃん」がギュウギュウだったのだ。(ちなみに、テレビでこの手法を採った嚆矢は「踊る大捜査線」あたりだろう。とにかく、細々とした情報を番組内に盛り込んだ結果、視聴者にネットやビデオでこれを掻き出すような作業をやらせることに成功し、視聴者は熱狂した)。

速いテンポ、そして短いエピソードによる情報拡散と、長いエピソードによる情報の圧縮

ただし、情報圧を高めるという手法だけでは視聴率獲得の決定打とはならない。これに加えられたのは「テンポ」だ。とにかく、ものすごくテンポが速いのだ。二つとも速いテンポ、つまり短いスパンでシーンが次々と変わり、次第に加速していく。ただし、ただ速いだけではない。じっくり見せたいところは突然遅くして、それまで速いテンポで提供されていた情報をまとめ上げる。たとえば「半沢直樹」なら麻生支店長や大和田常務を落とすシーン。「あまちゃん」の場合は、鈴鹿ひろ美が海女カフェで「潮騒のメモリー」を歌うシーン。後者では、薬師丸ひろ子に、なんとフルコーラスを歌わせている。そして、この長いシーンには、これまで短いスパンでばらまいた情報が何らかのかたちでびっしりと再現=回収される。半沢の麻生や大和田に対する思い、潮騒のメモリーにまつわるそれぞれの人間ドラマ。見ている側としては、そのことを腑分けできなくても、それまで無意識に詰め込んだ情報が一気に絞り出されるので(ちなみに、この長回しの時には、しばしば、詰め込まれて「課題」となったいた情報の「回答」が盛り込まれている。「半沢」は謎解きであり、「あまちゃん」は登場人物たちの思い=トラウマだ)、ここで理由はわからなくともでグッと感動するという仕掛けになっているのだ。

こういった情報とテンポが織りなすアンサンブルは、翻って、見ている側にある種のマゾヒスティックな緊張を感じさせることになる。視聴者はつぎつぎと情報の連射を打ち付けられることによって、いわば「前戯」を徹底的に受け、次いで長いエピソードシーンで、これを一気に発散させることで「エクスタシー」に達するのだ。しかも、その間、ずっと緊張を強いられるのである。ちなみに、この手法を用いた傑作は映画『ニュー・シネマ・パラダイス』で、ラストの試写室のシーンでひたすら過去の映画のキスシーンとハダカのシーンが流れるのだが、これでほとんどの観客の涙腺が開きっぱなしになるのは、このメカニズムを採用しているからに他ならない(クドカンはあまちゃんの第二部、東京編の最終回で、映画「潮騒のメモリー」の試写会のシーンを用意しているが、これは完全にこの映画へのオマージュだ。もちろん技法もそのまま使われている)。

イリンクスの快感

社会学者のR.カイヨワは「遊び」の要素としてアゴン=競争、アレア=偶然、ミミクリ=模倣、イリンクス=めまいをあげているが、「半沢直樹」と「あまちゃん」がわれわれにもたらす緊張の快感は最後のイリンクスに該当する。解読がまったく不能なほどの膨大な数の情報の前に晒されたとき、われわれは一般的に、緊張し、めまいに陥るが、その際には二つの反応パターンがある。一つは、情報量におののいて、それを拒絶しようとしたり不安に陥ったりするという反応だ。たとえば、大型書店に出かけたときに、思わずクラクラしてしまうのがこのパターン。もう一つは、反対にその情報の海の中に身を投げてしまうという反応だ。ディズニーランドで遊ぶ状態がこれで、全てがディズニーで埋め尽くされた環境の中に身を置くことで、自らがディズニー世界に身を投げ、これと一体化する(ミニーのカチューシャを買い求めてパーク内を闊歩するなんて行動がその典型。このカチューシャをパーク外でつけていたら、ものすごく不自然だろう。でもパーク内では何とも思わない、というか、こうすることが快感になる)。そうすることで自我は崩壊し、ディズニーという揺籃に囲まれてホリスティックな感覚の中でエクスタシーを感じることが出来る(ロックコンサートで熱狂することもこれと同様)。ディズニーに優しく包まれるのである。

「半沢直樹」と「あまちゃん」は、視聴者にその都度ものすごい情報量を提供しつつ、次々と新しい情報を速いテンポで繰り出し、そしてこの繰り出すパターンに緩急をつけていく。しかもこれはどんどんと加速し(加速度は「あまちゃん」より「半沢」の方が上。詳述は次回)、緊張感を強めさせながら、次第に視聴者を作品の展開の中に巻き込んでいき、その自我を消滅させる。そして、最終的に視聴者をエクスタシーへと誘うのである。

こういった手法を「半沢直樹」「あまちゃん」以前にすでに採用し、傑作を作った先達が二人いる。一人は伊丹十三。伊丹は映画「お葬式」「マルサの女」「あげまん」など数々の名作を世に放っているが、いずれも情報圧とテンポを活用したイリンクス的展開を得意としていた。もう一人は和田勉で、NHKドラマ「ザ・商社」の中でまったく同じ手法を用いて張り詰めた緊張感を持続させ、テレビドラマ史上屈指の傑作を作り出している(本作で夏目雅子が演技を開眼させ、スターダムへとのし上がっていったことはつとに有名だ)。この手法を二作品のスタッフたちは踏襲しているとみた。ちなみに「あまちゃん」の中には、この二人にまつわる人物が二名登場する。一人は宮本信子。ご存知のように宮本は伊丹十三の妻で、伊丹作品の多くに主演している。もう一人は塩見三省演じる「琥珀の勉さん」。本名は小田勉で、これは和田勉をモチーフにしたものだろう。クドカン、ひょっとしてこの二人をリスペクトしているのかも?いや、多分、確信犯だろう。それほどまでに作風は近い。

さて、今回は二つの作品に「共通する」メディア論的な独自性、つまりストーリーや要素=内容ではなく、作風というメディア性=形式に焦点を当てて、その魅力、つまり「ちゃんとしたところ」を考えてみた。次回は、二つの作品の「異なったちゃんとしたところ」についてみていこう。(続く)

ブッチギリではなかったあまちゃんの視聴率

大人気で番組を終えた「あまちゃん」。だが、最終的な視聴率を見ると、意外や意外、昨年の「梅ちゃん先生」に僅差ではあるが敗北(20.7%VS20.6%)。21世紀以降の朝ドラとしては第二位という結果だった。

「大山鳴動してネズミ一匹」とはこのことか?「国民的番組」とまで称されたこの番組の視聴率がこの程度とは、いったいどういうことなんだ?一部、あまちゃんオタクの空騒ぎ、あるいはメディア、とりわけNHKがゴリ押ししただけのことなのか?今回は、この意外な視聴率の結果についてメディア論的に考えてみたい。

スタジオパークはあまちゃんファンでいっぱい

9月16日、僕は渋谷にあるNHKスタジオパークに出かけた。あまちゃんの特設コーナーがあるということで、これを見に行ったのだ。しかも、これは第三弾。二回もリニューアしているという事実は、いかにこの番組が盛り上がっているかを物語る。混雑を予想して、僕が出かけたのは午前中。ところが施設内にはすでにかなりの人混みだった(出る正午頃にはスゴいことになっていたが)。で、ここはNHKの番組を紹介する施設。だから「あまちゃん」以外にも大河ドラマの「八重の桜」や、各種の子供番組などに関する展示もあるのだけれど、入場者たちの関心はもっぱら「あまちゃん」。他には目もくれないといった様子だった。それを物語るのは出演者の色紙が並べられているコーナーの様子だ。ここは撮影禁止なので、入場者はひとつひとつを目に焼き付けるように色紙を覗き込んでいた。当然、コーナーは人でごった返す。で、これと同様の展示があった。「八重の桜」出演者の色紙コーナーだ。……なんと、これがほとんど完全にスルーされていたのだ。やはり、あまちゃんの人気はスゴイ。

高齢者にはウケなかった?

ただし、ひとつ気になることもあった。あまちゃん目当てにやって来たこれら入場者たちが、いずれも若いのだ。五十代から下がほとんどで、お年寄りはほとんどいない。
で、僕はもうひとつ、気になることを思い出した。それは僕の二人の母(実母、義母)のこと。実母は80代、義母は70代。朝ドラはずっと日課だったのだが……だがこの二人、「あまちゃん」は面白くないといって、あまり見なかったのだ。

まあ、これだけのデータしかないので、ここからは僕の印象としての分析になってしまうことをお断りしておくが、ひょっとして、あまちゃんは高齢者層にはまったくウケなかったのではないか?で、そう考えると、この視聴率は納得のいくものになる。

「あまちゃん」は朝ドラのルール破り

そこで「あまちゃん」が高齢者層にウケないと仮定して、その原因について思いをめぐらせてみよう。ひとつは「あまちゃん」がこれまでの朝ドラのスタイルとはあまりに異なっていたこと。朝ドラの鉄板はいわゆるビルデゥングス・ロマン。つまり、一人の人物が成長していく物語。しかも必ず女性が主人公(例外はあるが)。「あまちゃん」の場合は、後者は確かにヒロインゆえ違和感がないが、このビルデゥングス・ロマンが主人公に振られていない。つまり天野アキは成長しないヒロインだったのだ(その代わり、周りを明るく変えていく。言い換えれば周囲を成長させていく)。お年寄りゆえ、新しいパターンは苦手、だからクドカンの手法が受け入れられなかったのでは?

もう一つは、高齢者たちが「時代を共有できない」という側面だ。現在放映中の朝ドラ「ごちそうさん」にも典型的に見られるのだけれど、朝ドラはビルデゥングス・ロマンということもあって「歴史」が前提される。その多くは戦前が舞台になり、だんだんと現在に近づいていく。こういうものであるのならば、高齢者たちは時代を追体験することが出来る。ところが「あまちゃん」は現代劇。時代の進行は2008年からだ。そして、フィードバックされるのは80年代のアイドルシーン。つまり30年前。こういったスタイルを追体験できるのはやはり、一般的には五十代から下ということになる。

こうなると高齢者はストーリーパターンも、時代設定も、共有できない。加えて言えば情報をジャンジャン詰め込むようなやり方にも慣れていない(むしろ、情報量が多すぎてオーバーフローを起こす)。だから関心を寄せないのではないか。

朝ドラ視聴者層の新陳代謝

この僕の憶測が正しいとしたら、やはり「あまちゃん」はスゴイ朝ドラということになる。これら要素をきちんと踏襲して高齢者向けの朝ドラを鉄板を展開した「梅ちゃん先生」にたったの0.1%しか視聴率的には負けなかったのだから。つまり大票田=高齢者を失ったのに、この視聴率。ということは無党派層というか、未開拓層を獲得したことになる。つまり、新しい視聴者層の掘り起こしをおこなった。そして、それが50代以下と想定されるわけだから、これは「朝ドラの世代交代」を果たしたということになる。しかも、この層は消費活力が高い。だから、ビジネスチャンスとしても期待が出来る。で、実際、メディアで大騒ぎしているし、サントラは売れるし、スタジオパークには大挙して押し寄せているわけで。

こういった新陳代謝が起こるとすれば、これはテレビ界には大きな事件と言えるだろう。ただでさえ長期低落傾向を見せるテレビ。その象徴ともいえる朝ドラ顧客層の新陳代謝をおこなえたとなれば、今後長期にわたって続く顧客を獲得し、テレビは再び安定を取り戻すことが可能になるのだから。つまり、むしろこちらの方にテレビの未来はある(これに味を占めたら、大河ドラマで脚本・クドカン、主演・能年玲奈なんて作品が登場するかも?)。

今年の紅白の最高視聴率は?

今年の紅白歌合戦。その企画の目玉は「あまちゃんメドレー」ではないかと呼ばれている。あまちゃん効果で紅白の視聴率が上昇するとともに、このコーナーで最高視聴率がカウントされるのではというのだ。ただし、これまでの僕の憶測が正しければ、意外にこのコーナーが最高視聴率を獲得することはないかもしれない。「紅白の視聴者-高齢者層+あまちゃん支持層」という足し算と引き算が結果としてこのコーナーの紅白の視聴率を上げるかどうかがわからないからだ。当然の図式だが視聴率を上げるためにはwその際の視聴者の構成が高齢者層<あまちゃん支持層となっている必要がある。そして、もしこれが「梅ちゃん先生」のような状況であれば、「あまちゃん」ファンは首ったけになっても高齢者は見なくなるので、最高視聴率に匹敵するも、最終的に最高視聴率を上げるのは他のコーナー、他の歌手ということになる。僅差で(くりかえすが、もちろん紅白としては高齢者層とそうでない50代以下の若年層?の二つのターゲットを得るので全体の視聴率は上がるだろうけれど)。

まあ、これは統計的な根拠はなく、あくまで「憶測」であることを、繰り返しておくけれど。さて、紅白、どうなるか?

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