勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2013年09月

北三陸編、東京編、震災編と三部で構成された朝ドラ「あまちゃん」。9月から始まった最後の震災編で宮藤官九郎はどんなメッセージを僕たちにに伝えたかったんだろう?僕は、この第三部は、東北出身であるクドカンならでわの、被災者へのやさしい、そして強くたくましいオマージュとみた。で、例によってメディア論(厳密には今回は記号論のテクスト分析)的視点からこの第三部を分析してみたい。

Twitterの「成仏」というつぶやきが教えてくれたこと

東京編の最後、春子は鈴鹿ひろ美の影武者となったおかげでアイドルになれなかったことを荒巻太一(太巻)と鈴鹿に謝罪される。これまで、自分が人生において悔やんでいた負債を遂に負債を負わせた当人たちから返済することが出来た感動のシーンだったのだが、このシーンについてTwitterのツイートに面白いものがあった。

「ああ、春子が成仏してしまった!」

これは震災後の北三陸・袖ヶ浜のロケに小泉今日子が現れなかったことで、震災で死ぬのが春子ではないかと噂されていたことと関係している。つまり、震災前に春子は思いを果たしてしまったので、震災で犠牲になって成仏するというという思惑に基づいたものだ(実際には、春子は死んではいないし、誰も死ななかった)。

なかなかシャレたツイートだったが、この言葉、ちょっとハッ!ときた。なぜ春子は成仏=思いを遂げることができたのか?それは……娘のアキのお陰だ。アキが東京に行かなければ鈴鹿と出会うこともなかったのだから。そう、アキは朝ドラ始まって以来の「成長しないヒロイン」(第一部の北三陸編は除く。ただし一部の最後で春子はアキに「アンタは何も変わっていない」と言い放っている)。そして、自分が成長しない代わりに周りをどんどん成長させる、いや幸福にさせる、いや成仏させていく(春子は「アンタはみんなを変えた」とも言っている)主人公。さながら映画「バグダッドカフェ」の主人公ヤスミン、ミヒャエル・エンデの物語「モモ」の主人公モモのように。実際、震災編は、もっぱら登場人物を「成仏させる」方向へ舵が切られていった。しかも、自らも含めて全員を北三陸へ集合させることによって。

アキが人々の成仏のためにやったことを並べてみよう。先ず北三陸の人々。彼らに海女カフェの再開を訴え、震災の傷から立ち直ることを促した。次に鈴鹿ひろ美と太巻。鈴鹿には自分がなぜ女優をやるのか、そして歌うのかについて意味を悟らせ、太巻には鈴鹿と春子をめぐって長年抱えこむことになった罪の意識を払拭させた。大吉には安部と再婚させることによって大吉の春子に寄せる思いを断ち切らせた。夏には春子の結婚と孫アキの成功を見せて人生の大逆転を遂げさせた。水口には、 アキにつられて北三陸にやってこさせることで、 自らの「モノ・ヒトを育てる」という思いを、再び琥珀と北三陸のアイドル・潮騒のメモリーズに焦点を合わせることで叶えた。……だが、ただひとり成仏できない人物がいる。ユイだ。当然、最終回は彼女をどう成仏させるかがテーマとなった。

ユイの成仏?

北三陸鉄道リアス線畑野駅までの部分開通のこけら落としとして開催された潮騒のメモリーズ復活のお座敷列車。みんなに喜ばれ、全国的にも注目されて、ユイは十分満足する。これは畑野駅で下車したユイの台詞が物語る。

ユイ「いままででいちばんヤバかった」

つまり、ゆいは「成仏」したのだ。

しかし、会話はこれで終わらない。アキは続ける。

アキ「まだまだ、明日も、あさっても、来年も。今はここまでだけど、来年は、こっから先に行けるんだ。」

アキは畑野トンネルを見ている。

時は平成24年。25年には北三陸鉄道リアス線全線が開通し、再び三陸沿いに東京まで行くことが可能になるのだ。そして、ユイがつぶやく

ユイ「いってみようか?」
アキ「じぇじぇ?」

二人は、震災時にユイが閉じ込められた、あの畑野トンネルのなかに入っていく……そのトンネルの先に見えるのは塞がったままの線路。そう、ユイが震災の時、トンネルを出て最初に目にしたもの。だがユイがそれを見つめる目線は、あの時の後ろ向きのそれではない。未来に向かって開かれている歓喜の目だ。

「成仏」させるのではなく「未来」を切り開くこと

ここまで、「成仏」という、ちょっと震災に遭われた方には不謹慎な言葉をあえて使わせていただいたが、もうそろそろこの言葉を修正しよう。登場人物は、みな抱えていたトラウマを払拭し、元気になった。パワーアップされた。しかもそれが震災というネガティブな要因をきっかけに東北に集結することでなされた。だから、正しくは過去を癒やす「成仏」ではなく、さらにそれを乗り越えて、その先を行く「未来」という言葉に置き換えたい。ユイは周囲を元気に変えていくアキの力を借りて、震災を逆バネとして自らを乗り越え、遂に未来を見たのだ。「行ってみようか?」という言葉は、表面的にはトンネルに向かうことだが、本質はそこにあるのではない。来年開通する先にある東京を意味している。いや、より正しく言えば、それは東京でもない。ユイが描く未来=アイドルを意味している(しかも未来はユイが東京に行くことで達成されるのではない。東京がユイのところにやってくることでなされるのだ。だって、忠兵衛が言うように東京も北三陸も同じ「世界」なのだから)。そして未来は「その火を飛び越える」ことによって可能になる。ユイは「その火」を飛び越えたのだ。

ユイの未来は東北の未来

クドカンが登場人物たちを用いて震災編で描きたかったメッセージの集約が最終回のユイの、この決意にあると僕は考える。そして、ユイとは被災者たち、そして東北の人たちのことなのだ。それに対してクドカンはただ慰めの言葉をなげかけるのではなく、もっとやさしく、ナイーブで、それでいて力強いメッセージをこめたのだ。

鈴鹿が天野宅で潮騒のメモリーの歌詞の変更を考え、夏に相談するシーン。鈴鹿は「よせては返す波のように」「三途の川」の二つ歌詞に引っかかった。この時の夏の切り返しが圧巻だ。

鈴鹿「こちらのみなさんが聞いたら津波を連想するんじゃないかしら?」
夏「するね……それが、何か問題でも?……そこ変えるんなら、ここも変えねばならないな。17歳でなく47歳にしなばなんねい。……歌っても、歌わなくても、津波のことは、頭から離れませんから。どうぞ、お構いなく。」

さらに、夏は、春子がアイドルにはなれなかったが、大女優の鈴鹿がここにやって来て、また、めんこい孫にも会えて「おらの人生大逆転だ」ともつけ加えた。夏もまた火を飛び越えていたのである。

鈴鹿はリサイタルで、前者は変更せず、後者は「三代前から」と天野家をリスペクトする歌詞に置き換えた。夏のメッセージを理解し、そしてそのメッセージを自らも実践しなければならない=火を飛び越えなければならないと考えたからだ。

ここの台詞がユイの行動と見事に合致する。つまり事実は事実として認めなければならない。過去の事実はどうにもならないし、つらいものだ。しかし過去ばかり振り返っているのではなく前を向くべき。そのためには「寄せては返す波のように」をベタに津波として受け止める必要があるし、また人生というのは歌詞の通り寄せてはかえすもの「来るものは拒まず、去る者は追わず(夏)」のものと悟り、それを越えていかなければならないのだ。

ユイは遂にそのこと理解した。だから「その火=震災」を飛び越えた。そして、ユイにはこれからやらなければならないことが、たくさん、たくさん、待ち受けている。


宮藤官九郎は、ユイを通して被災者に優しく働きかける。しかも、何度も繰り返すが安っぽい慰めでなくエールを、そしてプッシュを。震災という負の遺産を逆にエネルギーとしてしたたかに利用し、これを飛び越えて欲しい。そのためには成仏することを考えるより、未来を見つめよう。そうやって東北を元気にしていくことが東北の本当の未来を創造することになるし、また震災で亡くなった方々を成仏させることになると。震災編で全員がアキを媒介に元気になって未来を向いていく、という「マルチ・ハッピーエンド」仕立てにしたのには、こういった意図があったと僕は考える。そして、こういったクドカンの被災地へのメッセンジャーとして駆り立てられたのが「成長しないヒロイン・アキ」に他ならない。アキは「あまちゃん」である。あまちゃんは「海女」という意味でもあるし、「甘い」という意味でもある。つまり何事につけてもゆるい。さらに言い換えればアマ、つまりアマチュアだ。プロではない。ということは永遠に鈴鹿ひろ美のようにプロになることはない。でも、それでよいのである。あまちゃんはアマであることによって周囲の未来を切り開くという「アマチュアのプロ」なのだから。

クドカンの、静かで、饒舌ではないが、それでいて狂おしいまでの地元東北への愛情を感じられないではいられなかった。クドカンは震災をテーマに、これを笑い飛ばしてしまうようなかたちで番組を進行させた。だが、表面は軽快なようでいて、実はそのテーマはきわめて思い。笑い飛ばしてしまうから、そう見えないだけだ。

最終回、未来を暗示させる二つのエピソードが挿入されている。一つはエンドロールに流れた北三陸観光協会のホームページ。今回の各種イベントの他に、翌年の全面開通予定の記事、勉さんの琥珀パーク?恐竜パーク?(琥珀掘り体験コース)のインフォメーションなどなど。そこには未来の「おらたち、熱いよね!」の北三陸の人々姿がすでに描かれている。

そして、もうひとつの、そして究極のエピソードが

アキの青色ミサンガはまだ切れずに残っている。そう、そのミサンガの運命は、トンネルの先に、残されているものだ。だれのために?もちろん、ユイのため、いや東北の人たちのために。

前回の記事「みのもんたをめぐるジェラシーの連鎖」http://blogos.com/outline/70419/?axis=p:5について、一日の内に多くのコメントが寄せられた。僕の意図をきちんと読み取ってくれたコメントがある半面、まったく意図から逸れたものもあり、半々といった具合だった。ただ、この記事ではみのもんたという有名人=記号をめぐって、これをわれわれがどのように取り扱うべきかについての提案を行ったのにもかかわらず、それがまったく理解されず、むしろそのようにみのを扱ったのではこちらが伝えようとしたこととは正反対というか、「それはまずい」という理解になってしまうコメントが存在したのは残念だ。本ブログはメディア社会論、つまりメディア論という概念を用いながら社会のさまざまな事象を分析し、人々のメディアリテラシーの向上に少なからず貢献しようという前提で展開している。なので、今回は今一度、前回の議論を、いわば「解題」のかたちで説明してみたいと思う。内容をよくご理解いただいた方には、さらに詳しい説明、ご理解いただけなかった方には再度視点を変えて説明ということになる。

みのもんたはメディア的存在

僕が前回指摘した内容を要約すれば以下の通り。みののセクハラ疑惑と息子の逮捕という事件の言説は、事件そのものよりもみのもんたというメディア的存在に対するオーディエンス、そしてマスコミのコンテクストに基づいて形成されている。だから、この疑惑や事件の対象になっている「御法川法男」(みのもんたの本名)というリアルの人物が、メディア上に形成されている「みのもんた」という記号、つまりヴァーチャルな存在によって恣意的に切り刻まれているということを先ずは踏まえて、これらを読むべきである。「みのもんた」については態度がデカい「いけすかないやつ」というコンテクストがメディア上で形成されており、にもかかわらずメディア上でセレブとして扱われている。それゆえ癪な存在、つまりジェラシーを抱いてしまう存在というイメージが成立している。だから「いけすかないやつだから、スキが見つかって叩けば面白い」。そして、今回の事件は格好のトリガーとして機能した。で、こういった「勝手に持ち上げて、勝手に引きずり下ろす」ようなベタな図式は、もうネタにするほどでもないほど使い古されているので、ネタにすらならないんじゃないの?といいたかったのだ。つまり、マスゴミといわれることすらある低レベルの報道を繰り返す連中のクリーシェ=思考が停止した定型的な取材パターンに付き合うな、と。

ところが、コメントの中にあったのは「なぜ、オマエはあんなセクハラタレントの肩を持つのか」「こんなやつを擁護するオマエはセクハラのことがわかっていない。オマエこそセクハラに気をつけろ」「みのは芸能界を私物化している」的な発言だった(くどいようだが全体の半分程度)。で、こういったかたちで僕の今回の記事を批判したコメントこそが、実は、僕がいちばん「やるべきではない」と指摘したかったことなのだ。というのも、こういったコメントはマスゴミというお釈迦様の手のひらの上で操られているだけと考えるからだ。

これらの議論の前提にあるのは明らかにメディア上のヴァーチャルな存在であるみのもんたに関するこれまたマスゴミ的な言説によって染められた文脈=コンテクスト、つまり「みのもんたはメディア上で構築した権力を利用してやりたい放題のことをやっている」という立ち位置だ。しかも、これらのコメントは、自らがこういったコンテクストに立脚しながらこちらを批判しているという自覚が全くない。つまり「思考停止」(そういえばTwitterには僕に対して「どんだけ思考停止って言葉が好きなんだ?」という批判もあった(笑))。そして、こういったコンテクストが「うまいことやっているみのもんた」という存在に対するジェラシーに基づいている可能性があることにも気づいていない。

わかりやすいように、まず僕のみのもんたに対する立ち位置を明らかにしておこう。僕は小学生の頃、文化放送でみのもんたのラジオ番組を聴き始めた頃(72年)から彼の存在を知ってはいる(「Come together」という短めのピンの番組だった)。かといって、みののファンというわけではない。つまり、特に思い入れはない。で、今回の二つの事件。セクハラについては、 みのはセクハラをしているかも知れないし、していないかも知れないと考えている。 つまり、みのがやっているのかやっていないのかについてはまったく判断基準を持っていない。 なぜって?あたりまえだろう。本当のことを知らないのだから。そして、こういった立場はメディアを通じてのみ、みのを見ている人間ならばまったく同条件のはずだ。だって、ディスプレイ越しにしか、みののことを知らないんだから。ようするに証拠をもっていないのだから非難も擁護も出来ないはずなのだ(二つ目の件、つまり息子の逮捕については前回も述べたが、31歳という、とっくに社会人の息子の不祥事に親の責任は問えないという立場だ)。まあ、もちろん仲間内で話題のネタとして利用する分には一向に構わないが、ネット上、とりわけこういったブログとりまとめサイトは公論の場なのだからある程度責任を持った発言が前提される(BLOGOSは2ちゃんではありません)。

にもかかわらず、みのをなぜ非難するのか。その結論が、メディア上の「いけすかない」というみのに対する文脈、つまり「うまいことやっていやがるみの」に対するジェラシーに基づくということなのだ。

唯一の証拠=映像の確証性の無さ

僕が、こうやって「証拠がない」と言ったとき、反論として想定されるのは、テレビ「朝ズバ!」で流された通称「セクハラ」とみなされる映像だ(YouTubeで見ることが出来る)。そう、確かにみのは吉田明世アナの尻の上、腰の部分に触れている。「これこそ動かぬ証拠である」というわけだ。だが、こういったとき、「映像」は事実であっても、しばしば「真実」ではなくなる。たまたま男性が女性の身体に触れた瞬間を切り取り、それをセクハラだと決め込むようなやり方は、かつて3FETと呼ばれた写真週刊誌がやった典型的手法と代わるところはない。たとえば芸能人がドラマなどの打ち上げでパーティを開き、その引け際、たまたま女優と男優二人が先に出てきたところを撮影し、あたかも「密会」に仕立てると行った手口は常套手段として行われてきたのだから。これは、取材する側に先ず「スキャンダルやゴシップという特ダネが欲しい」というコンテクストがあり、そのコンテクストに合わせて写真という事実が切り取られたのである。実際には単なる打ち上げという「真実」が、たまたま二人だけが映っているという「事実」によってねじ曲げられたというわけだ。こういうやり方が典型的な「マスゴミ方式」と呼ばれるものだろう。あることないことでっちあげるわけだ。で、映像・画像という証拠で正当化する。


で、みのもんたのこの映像=事実を見た瞬間、「これはセクハラである」と即断してみのを断罪するというのは、まさにこの「マスゴミ方式」をみのを批判するオーディエンスもまた踏襲しているということになる。しつこいようだが、映像だけを見ていたとしても、一般の人間はその背後の真実を見てはいないはずだ(見ているとすれば、それはオーディエンスではなく業界でみのとかかわってきた当事者たちだ)。しかも映像は一秒にも満たない。それを「いけすかない」というコンテクストに基づいてみのを断罪する。こうやって「みの、けしからん」「それを擁護するやつもけしからん」というとき、そういった発言をする当人は、実は「世界でいちばんエラい神様」になってしまっている。つまり、自分は天の上から全てお見通しと思って疑わないのである。で、これこそが「思考停止」の典型ではなかろうか。

さらに、もっと過激なものもある。いわゆる「陰謀史観」に基づくみの批判だ。みのは芸能界を牛耳る帝王であり、全てのことがやりたい放題という文脈、いわばM資金、フリーメーソンばりのスゴイ力を持っているというもの(まあ、ひょっとしたらそうかもしれないが(笑))。やはり、これもまったく根拠がなくメディア的に媒介されたコンテクスト=みののイメージを無批判・無意識に援用していることはいうまでもないだろう。そして、こういったコンテクストが無造作に適用されたのが息子の逮捕についての「みの責任論」に他ならない。これじゃ、USJでバカをやった学生に対する責任が大学側に求められたのと大してかわらない。果たしてみのはそんなにエラいのか?この文脈だとナベツネや安倍首相すら凌駕する巨大な権力っていう面白いことになってしまうのだけれど。

全ては確たる証拠に基づく

まあ、ここまで書いておくと「どうして、オマエはそこまでみのもんたの肩を持つのか」というツッコミをいれられそうだ。そう、確かにみのもんたは、とんでもない人間かも知れない。しかし、実際にそうであるかどうかは、さしあたり、ここでは問題ではない。批判するなら事実を持ってこなければならないからだ。たとえば、正直、僕も「この人、ちょっと」と思わないでもない。しかし、だからといってみのをバッシングすることは出来ない。それこそ「半沢直樹」ではないが、悪を叩くためにはキチッと証拠で固めて「倍返し」しなきゃならないわけで(みのが「悪」かどうかはわかないが)。そういえば島田紳助(この人も芸能界を牛耳ったとよく言われていた)は確たる証拠を提示され、芸能界を去ったはずだ。

いちばんの問題は、くりかえすが、こういったマスゴミ式のベタな図式にわれわれが振り回されることだ。もはや、何度も繰り返されてきたワンパターンのクリーシェ=常套手段。いくらなんでも、もう乗り越えるべきだろう。「悪の限りを尽くし人々を苦しめてきた輩が、ちょっとしたことをきっかけにひっくり返される」的な安直なマスゴミ的図式に無批判に従っているようでは、本当の悪など倒せはしないのだから。いや、これは口がスベった。もとい、真実など見抜けないのだから。

ネタがもっと面白いものを笑い飛ばしましょ!ただし、仲間内で。

オマケ……なぜ文章をちゃんと読まないのか

ちなみに、ブログに対するコメントについて加えておけば、記事をよく読むこともせず批判するものがあるが、問題外だろう。残念ながらこういったコメントが、結構多い。コメントの中には「(僕が)「女性アナが(みののセクハラを)意に介していないなら、問題無し」(と指摘したの)は、その通りですが、先生は「女子アナは、なんとも思ってない」という前提で話進めてますよね」」というものがあったけれど、これなどは、文章を丁寧に読むこともせず展開したものの典型。ここの下りはセクハラがどういったかたちで成立するのかについて展開したもので「された側がセクハラと感じたらセクハラになる」という原則を述べたに過ぎない。しかしながら、そう読めてしまうのは、彼らの文章読解能力が低いからなのだろうか?(僕のブログは「メディア社会論」なので理論的に展開することを旨としている。だからちょっと難しくなるときもあるが、偏差値50くらいの大学が出題する現国の問題が解ければ十分に理解可能な程度の文章にしているつもりだ)いや、そうではないだろう。読解能力が低いのではなく、要するにこれもメディア的に無意識にすり込まれたみのもんたについてのコンテクストが原文=テクストをねじ曲げて読むように仕向けているからではないか。つまり「飛ばし読み」。僕にはそう思えるのだが。まあ、どちらでもよいが、先ずは文章をしっかりと読んでいただきたいと思う。


ご存知のように、みのもんたが苦境に立たされている。テレビ番組『朝ズバ』でのセクハラ疑惑の火の消えないうちに、今度は息子の逮捕。一斉にバッシングの嵐が吹き荒れた。みのもんた側としては当分の間謹慎、そして報道番組(ワイドショー)出演の自粛という対応を現在行っている(バラエティは継続予定)。

みのをめぐるこの二つの事件?出来事?スキャンダル?僕にはとっても不可解なものに見えた。その不可解さを例によってメディア論的視点から考えてみたい。

みのをバッシングする理由、実はない?

まず二つの事件は実際のところはどうなのか?セクハラ疑惑については、女性アナの尻の上あたりに手が触れている(軽く叩いている)映像が存在する。だが、これがイコールセクハラに当たるかどうかは限りなく疑問だ(ちなみに、ここで僕が「セクハラ」と言うとき、本来の意味でのセクハラではなく、一般に使われるような、わいせつ行為について呼ばれる「セクハラ」を指している。セクハラとは、正しくは「権力関係を媒介にして性的嫌がらせを強要すること」だからだ。たとえば、女性の地位を維持するための交換条件として男性上司が性的な関係を強要するなどがその典型)。これをセクハラかどうかを判定するためには、その文脈=コンテクストを参照しなければならないからだ。つまり、みのにカラダを触れられた女性アナの側がそのことをまったく意に介していない、またみのも性的な意図を持って行っていない、ただのコミュニケーションの一つであったならば、これはセクハラには該当しない。もっとはっきりいえば、みのに性的な意図があったとしても、相手がまったく意に介していなければ、そもそもセクハラとはならない。現象=映像を見ただけでセクハラと判断するのはあまりに「思考停止」な即断と考えるべきだろう。こちらがその映像を見ただけでセクハラと決めつけるのは、はっきり言って大きなお世話と考えるべきなのだ。たとえば、タレントのおすぎはバラエティ番組に出演すると、しばしば女性タレントをハグしているが、そのことを誰もセクハラとはみなさないことを思い浮かべて欲しい。それは、おすぎがニューハーフであるために、この行為が性的な接触ではなくアメリカ式の儀礼、つまり純粋なハグであるというコンテクストが無意識に了解されているからだ。

息子の逮捕についても同様だ。31歳の息子が犯罪を犯して逮捕されたことについて、メディアの報道は、おおむね「みのは息子を甘やかしてバカ息子にしてしまった」という、これまた思考停止的な短絡を冒している。このことがおかしいのは、これまた、われわれが共有している一般的なコンテクストを踏まえれば容易にわかること。31歳の人間が逮捕されたとき、その原因を、もっぱら「親の責任」一つに集約してしまう発想は、人間が発達していく環境をあまりに無視した飛躍だろう。もちろん、親の影響が最も強いというのは、まあ考えられるが、みのの息子がもっぱら父親の庇護の下で育てられたかどうかは、かぎりなく疑問だ。一般的には人間の人格は自らが育った様々な環境の関数として成立するのだから。そして31歳という年齢はとっくに大人の域に達している。つまり、親の責任などはっきり言って「時効」。だから、先ず問われるべきは本人であって、そこに突然、親=みのの責任がクローズアップされるのはきわめて不自然な事態なのだ。

じゃあ、なぜ、ここまでこの事件がクローズアップされるのか。結論から言えば、その理由は、ひたすら「みのもんたのメディア性」に求められる。

今回の事件がみのもんた以外の人間に降りかかったとしたら

みのをめぐる二つの事件を相対化するために、この事件のシチュエーションはそのままに、キャスティングを変更して考えてみよう。つまりセクハラ疑惑、息子の逮捕はおなじだが、これが、たとえばNHKの普通の年配のアナウンサーだったらどうなるか?おそらく、ほとんどスルーだろう。前者については、その映像が映されても、実は指摘される可能性は薄い。むしろ番組内の打ち合わせ上の合図くらいにしか思われない可能性が強い。あるいはセクハラと指摘されたところで、その後、あっと言う間にフェイドアウトしてしまうのではなかろうか(詳細は後述するが、要はネタとして機能しないからだ)。また、息子の不祥事についても同様だ。この場合、息子が逮捕されたとしても、おそらくそのアナウンサーの名前がメディア上に登場する可能性は低い。

みののメディア性

だが、これがみのとなると話がまったく別になる。そこにみののマスメディア上の、そして有名人(あるいはセレブ?)としてのメディア性が付与されるからだ。みのは文化放送の局アナからフリーになり、フジの「プロ野球ニュース」の「珍プレー好プレー特集」のナレーションで再注目され、その後司会業として成功。「午後は○○おもいッきりテレビ」「みのもんたの朝ズバッ!」などに出演し、日本で最も忙しい司会者にまで上り詰めた。その口調は、いわゆる「上から目線だが、素人に阿り、権力をど突き倒す」というワイドショーの司会者の嫡流的な文脈に位置づけられる(おそらく、この嚆矢は六十年代後半「アフタヌーンショー」の司会を務めた桂小金治だろう)。こんな調子の司会業なので、原則「正義の味方」とでもいうべきパーソナリティになる。ただし、これだけ多くの番組に出演するようになると、上から目線といったスタンスは正直言って鼻につくという状態にもなっていただろう。実際、週刊誌では「夜の帝王」「傲慢」といった批判的、揶揄的な記事がしばしば目につくようにもなっていた。ところが、それはしょせん週刊誌なので、ゴシップの域を出ない。だからみの自身は、早い話が「わが世の春を謳歌」した状態にあった。

で、まあセレブの仲間入りというわけだが、ところがこの「傲慢、したり顔」的なパーソナリティゆえ、オーディエンスからは当然、「いけすかない」という印象も抱かれるようになる。つまり人々はジェラシーを抱くようになる。ただし、これをつつく場所がない。

そこに今回降って湧いた二つの出来事。これらは、こういった潜在的に広がっていたみのに対する「いけすかない」といった感覚を顕在化させ、バッシングの引き金を引かせるには十分なネタとなったのだ。だから、みのの場合、正しくは先ずはじめに「いけすかない」という文脈=コンテクストがあり、それを正当化するものとして「セクハラ」「親バカ」といった単語が持ち出されるかたちで二つの出来事のイメージが作られたのだ。

タレントは、やはり、最終的にはイメージがすべて

ただ、ここで面白いのは、「では、みのもんたとは実際にはどのような人間なのか?」についての言及が一切ないことだ。つまり、みのがアナウンサー、司会者、タレントという職業を通して演出しているイメージとしてのパーソナリティ、いいかえれば御法川法男演じる「みのもんた」というパーソナリティが先ずメディア上に展開され、それに対してオーディエンスとマスメディアもみのもんたというイメージによって御法川法男をバッシングした。これが今回の図式だろう。だから実際のみのもんた=御法川法男とは関係のないところで、どんどんと話が進んでいく。

僕らとしては、これら全てが、メディア上で「みのもんた」という記号を媒介に、ひたすら意識無意識のうちに形成されたイメージによって循環しているメディア・イベントとして理解するだけの周到さを持つべきだろう。もちろん、こういった有名人に関するネタは格好のコミュニケーションの肴ではある。誰もが知っているみのもんたの周辺でマヌケなことが起きたなんてネタなんだから、あのエラそうなみのを雑談上でこき下ろせば盛り上がる。で、僕はこういったことは下卑たことなのだと否定するつもりはないけれど、このネタがあくまでメディア上でメディアイベントとして勝手に回遊しているだけであること。一般的に火のないところに煙は立たないが、火があったとしても煙が立つとは限らないし、ましていわんや火事になるとも限らない。だが、これは火がみのであったがゆえに、こういったマスメディアとわれわれのヒマつぶしコミュニケーションの格好のネタとして無理矢理火事、場合によっては大火事として仕立てられたと言うことは自覚しておいた方がいいだろう。

とは言うものの、メディア上に登場する有名人は、もっぱらこういったメディア上のイメージを媒介に自らの評価が浮き沈みすることも受け入れなければならないのだけれど。

まあ、僕らもそろそろこういったゴシップは話の肴にすらならないどうでもよいものであると、自覚してもよい頃ではある。つまり、ネタとしても、もはやベタすぎておもしろくもないと。

新聞の先行きがあやしい。インターネットのポータルサイトやインターネット新聞=ブログとりまとめサイトに押され、販売部数がどんどんと下がっている。大都市圏でマンションが建設されても、入居者の新聞購入率は一割台程度。まさに、危機的状況にあると言っていい。

僕は前回のブログで新聞紙の生き残り戦略について展開したが(「新聞とBLOGOS、Hufinton Post、アゴラの攻防~新聞のサバイバルは可能か」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/archive/2013/9/14)、今回はその続編として、生き残りのための具体的な戦略について、地方紙を引き合いに出しながら考えてみたいた思う。

九州の小都市で気を吐く「夕刊デイリー」

「夕刊デイリー」という新聞をご存知だろうか?「いや、それは間違い。正しくはデイリースポーツだ」と、虎党には指摘されそうだが、そうではない。「夕刊デイリー」という新聞はれっきとした存在。宮崎県延岡市を中心とした小さな地方紙だ。1963年に創刊され、現在においても延岡市内の購読率は六割に達しているという、しっかりと地元=地域に根ざした新聞だ。もちろん大手の新聞紙と同様、その発行部数はインターネットに押されて減少気味だが、低下率は一般新聞紙に比べるとき緩やかだ。旭化成の企業城下町・延岡(もともと城下町ではある)を象徴する文化=ローカルメディアと言ってよい。じゃあ、なんで夕刊デイリーはしぶとく生き残っているのか?実は、この秘密の中に新聞の未来が見えるのではないかと、僕は踏んでいるのだが。

夕刊デイリーがフォローする記事のエリアは宮崎県北。本社延岡の他に、高千穂、日向、そして県庁所在地の宮崎に支社がある。そう、宮崎といっても県全域をフォローしているわけではない。もちろん中央の記事も掲載されているが、これは他の地方紙同様、通信社任せ(夕刊デイリーは時事通信)だ。言い換えれば、情報の扱うエリアを全国各地にある県単位で取り扱う地方紙以上にバッサリと切り落としている。たとえば9月12日の一面トップは国道218号高千穂日之影道路の着工と、内藤記念館(延岡城内部にある延岡藩の歴史博物館)の整備充実についての市議会のやりとりだ。はっきり言って、失礼だが周辺の人間以外にはほとんど「どうでもいいこと」が並んでいる。しかし前述した通り、県北の住民の多くがこの夕刊デイリーと他の新聞(「宮崎日日新聞」が多い)を併読しているのだ。そして、さきほど僕は「どうでもいいこと」と書いたけれど、いや、実はそんなことはない。これこそが地域住民にとっては最も「どうでもよくないこと」になっているのである。だから、住民たちは夕刊デイリーを購入し続ける。

新聞の独自性を生かす

メディアは、その特性が重複する新しいメディアが登場する際には、一般的には完全に飲み込まれてしまうか、再定義を受けて存続するかの二つの道がある。前者はガラケーが出現した際のポケベル、後者はテレビが出現した際のラジオがその典型。ラジオはテレビが普及する中、全国的な放送を展開することを後退させ、マスメディアならぬ、いわば「ミドルメディア」として、その居場所を確保した。つまり、地元に密着すると同時に、音声だけという機動性を生かし、報道の速報性といったアドバンテージで見事に生き残ったのだった。東北大震災の際、もっとも効果的に機能したメディアがラジオであったことは記憶に新しい(Twitterだったという話はまったくの嘘っぱちだ)。

僕は、夕刊デイリーのようなきわめて限定されたエリアに向けた新聞というのは、こういったラジオと同じようなミドルメディアとしての機能を十分に生かせる媒体と考える。

再び夕刊デイリーの記事についてみてみよう。面白いのは本日の魚市場や青果市場の市況、夜間救急医療体制、そして道路情報、イベント情報、そして読者の投稿(社説ほどのスペースが割かれている)が掲載されていること。つまりベタに地域密着、ある意味「回覧板」「学級新聞」のノリ=親密性があるのだ。で、こうやって一通り見てみると、現在の新聞ではもはや見えづらくなったものが、ここにはくっきりと残っていることがわかる。それは、夕刊デイリーが延岡を中心としたエリアのイメージを読者に対してビジュアル化していることだ。かつて新聞は社会、国家についての情報を網羅することで、読者にこれらについてのイメージを与えてきたのだけれど(B.アンダーソンはメディアを介してイメージされる国家や社会のことを「想像の共同体」と呼んだ)、これが情報の膨大化、価値観の多様化でフォローできなくなっている(むしろ、テレビやネットのポータルを見た方がイメージしやすいくらいだ)。ところが、夕刊デイリーの場合は、扱うエリアを思いっきり絞ってしまうことによって、このかつて存在した新聞の「一覧性」という機能をしっかりと維持しているのだ。ようするに、夕刊デイリーは「規模=エリアの小ささ」という、いわば「逆スケールメリット」を活用して延岡周辺市民にとっての「社会の窓」「地域の窓」としての機能を果たしている。つまり「これを読めば延岡=ふるさとがわかる!」。だから、地域住民は夕刊デイリーを読むことによって、自らの地域アイデンティティを確認し、これをメインテナンスできることが出来るようになっているのである。

これにはマスメディアの備えるプッシュ機能も大きく影響している。マスメディアは同じ情報をマス=大衆、つまり不特定多数のオーディエンスに向かって一方向的に提供する。それによってオーディエンスはその情報を共有することになる。延岡周辺の住民が夕刊デイリーを読めば、延岡についての情報を共有することが出来る。だから、これを介してコミュニケーションもまた可能となる。これはインターネット情報の特性であるプル機能では果たせない強み(プルの場合はネットユーザーが自らの嗜好にも基づいて、それぞれバラバラに情報にアクセスするため、情報共有の相手を物理的空間の中に見いだすことが難しい)。それが、翻って、今度は横のつながりを通して地域アイデンティティを醸成するのである。

また、新聞を通じて知り得た情報は原則、地元の情報なので、その情報はリアルなものに還元できる。つまり、そこでイベントがあったり事件があったりしたら、その空間を経験からイメージすることが出来るとともに、実際にその場に出かけて確認したり、参加することも可能となるのだ。ここでは新聞=メディアというヴァーチャルと地域という限定された物理的空間=リアルの往還によるリアリティの現出といった事態が発生しているのだ。

消費社会化、情報社会化によってローカルの独自性がどんどんと希薄になる現在だからこそ(街の風景はショッピングモールとファミレス、コンビニ、大型電機量販店、ファーストフード、ファストファッションといったもので全国中が平板化している)、かえって地域住民がそこに暮らすことの存在根拠が問われるという逆転現象も起きている。こういったニーズに対して、エリアを限定した新聞による情報発信によってカウンターをあてるのは、むしろ「追い風」となる可能性を秘めているとは言えないであろうか。

また、新聞が一次情報である点も強みだ。インターネット新聞=ブログとりまとめサイトやYahoo!などのポータルは原則二次情報。つまり新聞やテレビが拾ってきた情報を掲載するというスタイルを採用している(まあ、ブログとりまとめサイトは必ずしもそうはならないが。たとえば、僕の今回のこの記事は一次資料、つまり夕刊デイリーとその記者から情報を得ているので、BLOGOSに掲載されれば、それは一次情報になる)。一方、新聞は原則「取っ手だし」、つまり生のデータに当たっている。いわば情報を加工する前に、情報を生成している(まあ、「発表ジャーナリズム」と揶揄されるように、記者会見で発表されたものをただ単に流しているだけとか、恣意的に情報を加工したりしていて、これが批判の的にもなっている点も踏まえておく必要があるが)。加えて、ネット上の二次情報によるコンテンツは、その情報の責任性があまり問われない。原則、全て引用ということになるからだ。たとえばインターネット新聞=ブログとりまとめサイトはブロガーたちのコンテンツ。ブロガーたちが自由に表現することが出来るという強みはあるが、その質については保障されていないし、もし情報が誤っていたり、他者を誹謗中傷するようなものになってしまった場合にも、その責任はブロガーたちに投げられるという「責任回避の機能」が働く。一方、新聞は、いちおう新聞社の責任・編集方針にもとづいているわけで「品質保証」がつく(最近は無責任にスキャンダル的なものをデッチあげてすっぱ抜いたりもするので「マスゴミ」と非難されたりもするが)。

これから新聞がやるべきこと

僕が提案したいのは、こういった夕刊デイリーのようなやり方だ。つまり新聞の持つ一覧性、網羅性、プッシュ性、一次情報性、責任性といったメディアの独自性をローカルの限定した情報で展開すれば、まさに地域オピニオンを醸成するジャーナリズム文化を構築することになる。つまりエリアを限定する代わりに、ジャンルを限定して、おなじようにかつての新聞の機能をそこに盛り込めば、新聞は新しいメディア性を確保し、ラジオのように生き残りが可能になるのではなかろうか。ちなみに、これは必ずしもローカルという物理的空間に限定される話ではない。たとえば新聞がある分野に特化してもよい。つまり「オタク新聞」であっても一向に構わないだろう。

ただし、である。ここで取り上げた夕刊デイリーとて、購読率が低下しているという事実を看過するわけにはいかない。実際、夕刊デイリーの読者層が年々高齢化していることも事実だ。そして、若者の新聞離れはなにも大都市圏に限られたことではない。ということは、夕刊デイリーとて、このままのスタイルでは読者を失う恐れを払拭することは決して出来ない。

やはり、ここはこういった新聞の持つ独自性を生かしつつ、そのシステムを変更していかなければならないし、やがてそういった時期が夕刊デイリーも訪れることになるのではなかろうか。具体的には、インターネット媒体のさらなる普及・定着によって、日本の新聞流通の基軸となっている宅配システムが早晩、機能しなくなっていくであろうという状況にどう対応するかといった岐路に立たされるはずだ。それは要するに新聞の紙媒体から電子メディアへの移行ということになるのだろうけれど。今はともかく、将来も見据えるのであるのならば、夕刊デイリーもまたインターネットへ移行することになるべきだろう(もちろん、夕刊デイリーは現在でもウェブサイトを運営し記事のダイジェストを提供しているが、僕が指摘したいのは、こういった中途半端なやり方とは一線を画した、ネットでマネタイズするというやり方だ)。というか、そうしない限り若年層の読者を失うことになりかねない。もちろんそれは収益モデルを根本から改めることを余儀なくされることでもあるのだけれど。そして、実は、これ夕刊デイリーに限った話ではなく、全ての新聞が、むしろ夕刊デイリーより先に立たされる岐路なのだが。

こうやって、既存のローカル新聞がインターネットの独自性を生かし、インターネットを活用した一次情報を提供するミドルメディアとしてリニューアルされた暁には、既存のポータルの情報掲示板やインターネット新聞=ブログとりまとめサイトと棲み分けることが可能であろうし、ある意味これらよりも情報の質、編集方針が異なっている分、アドバンテージを持つことも可能になるはずだ。ローカルやオタクジャンルの重要な活性化メディアとして。

5月、日本にハフィントンポスト(以下「ハフポスト」と略)が上陸したこともあり、BLOGOS、アゴラといった「ブログとりまとめサイト=インターネット新聞」が、徐々にだが注目されつつある。7月には新書『ハフィントンポストの衝撃』(牧野洋、アスキー新書)が出版され、アメリカでハフポストが既存の新聞メディアを凌駕しつつある様子が紹介されている。既存の紙媒体をベースとした新聞の電子化が進んでいるが、ハフポストはこれらとも一線を画し、報道メディアとしての新しい魅力を放っていると報じている。そして、その魅力こそが新聞というメディアを根底から変容させつつあるとしている。

では、インターネット新聞の出現で新聞はこれからどうなるのだろう?あるいはこれらとどう棲み分けたらいいのだろうか?

新聞の限界

すでに様々な分野で指摘されていることだが、新聞というマスメディアの先行きがあやしい。年々発行部数が低下しているのはご存知の通り。この理由は、これまたさんざん指摘されていることだが、メディアの多様化、とりわけインターネットの普及によるところが大きい。インターネットによる報道のメディア性は様々な面で新聞と重複し、そしてその多くがネット情報の方にアドバンテージがある。例えば「速報性」。新聞は朝刊夕刊によって情報が発信されるわけでタイムラグがあるが、ネット情報は事件・出来事が発生すれば直後にその情報が流れる。Twitterなどではもはやリアルタイムといってもいい。次に「網羅性」。新聞はあまたある社会の情報をチョイスし、満遍なく掲載するという体裁を採るが、ネットはバラバラ。ただし、ユーザーが情報をチョイスすれば新聞と同じになる。しかも新聞以上に情報を幅広く入手可能だ。たとえばGoogleSkypeなどでマイページを作成すれば、自分のお気に入りの新聞、つまり自分が知りたいことの情報を網羅したコンテンツが出来上がり。しかも後はひたすらそこに情報がプッシュされてくるから楽ちんでもある。さらに、その気になれば新聞より深い情報にたどり着くこともできるわけで。では「一覧性」についてはどうだろう?これもやはりネットの方に利点がある。ネットは情報検索が面倒くさければ、ポータルサイトに利用しているようなサイトを見ればよい。たとえば日本ならYahoo!Japanのホームページがこれに該当する。これをポータルにしておけば、さながらテレビのヘッドラインを見るのと同じことになる。いや、項目は刻々と変化するので、テレビよりもさらに社会の動きをチェックするのは容易だ(前述のマイページなら、さらに知りたいことの一覧性はこちらのニーズに見合ったものになる)。

結局、こうなると新聞の取り分はかなり少ないように思える。では、どこが取り分かと言えば、それは「読み物として面白さ」ということになるだろう。ネットやテレビの情報は、いわば「生もの」。とにかくその中身はともかく、新鮮なことが重要。これは一日二回発信の新聞では到底太刀打ちできない(最近は夕刊もどんどんなくなっている)。一方、新聞の情報は、もはや「干物」の部類に属しつつある。つまり「生もの」とは逆。新鮮さはともかく、中身で勝負する点がポイントになる。だから、その筋のエキスパートや論説員に事件・出来事について事細かに解説させることになるのだけれど。だが、実は、これも結構苦しい立場にある。

一つは嗜好の多様化といった点がネックになることだ。つまり、今やわれわれの価値観や嗜好はバラバラ。ということは、これらのニーズ全てに対応しようとすれば、膨大な量のコンテンツが必要となる。だが新聞の紙面量には限りがあるゆえ、これに対応するというのは無茶な話だ。新聞はそれなりに対応しようとはしている。だが、そういった対応は、すればするほど自らを窮地に追い込んでいくことになる。多様なニーズへの対応を限られた紙面内でまかなうということは、言い換えれば記事ひとつひとつが細切れになると言うことを意味する。しかし、これは食べ物がなくなったタコが自分の足を食べ始めるようなもの。つまり、紙面細分化によって新聞の魅力であるコンテンツの豊かさが損なわれていくのだ。新聞は「読み物」ではなく、単なる「情報」「データベース」に堕していくのである。だが、それは中身の薄い情報。だから、面白さ=話の深みはなくなり、人は新聞から離れていく。

ブログとりまとめサイトの出現

さらに、弱り目に祟り目のような状況で出現したのがブログとりまとめサイト=インターネット新聞だ。BLOGOSやハフポストは、登録されたブロガーから旬な情報をチョイスし、とりまとめてあたかも新聞のように情報を提示する。それは、新聞よりも速報性が高いし、なおかつブロガーたちが自由に議論を展開している分、新聞よりも深い分析、興味を引くコンテンツの提供が可能になる。ハフポストの創設者、アリアナ・ハフィントンは、その編集方針としてストーリー性を重視しているというが、この方針こそ、かつての新聞が備えていたそれ。ということは「干物」としてのメディアの分野でも、こちらの側に持って行かれる可能性が高い。

新聞に残された道は

じゃあ、どうやったら新聞はこの先、生き残れるのか。それは、ネット、さらにブログとりまとめサイトと重複しない、あるいは重複してもアドバンテージのあるメディア性に特化するという点に求められるだろう。僕は可能性としては二点があると見ている。

一つは「コンテンツの幅」。これを縮めてしまうことだ。つまり、これまでの網羅性をやめる。そして、ある程度の分野にその方向性を限定し、その分、記事のボリュームを増やし、読み物としての深みを加えるスペースを割いていく。

もう一つは「コンテンツの質」。インターネット新聞=ブログとりまとめサイトはブロガーたちが自由にコンテンツを綴っているゆえ、その質については保証の限りではない(もちろん、サイト運営者が取捨選択しているが)。また、同じテーマに多くのブロガーが一気に記事を書いたりする(たとえば、近々ではオリンピック東京誘致決定がその典型だ)。こういった点を整理して、それなりに「識者」と呼ばれる人間に分析させ、読み物としての面白さを前面に打ち出すという方法が考えられる。ちょっと汚いことをやって、インターネットサイト新聞で質が高いと思ったブロガーをハンティングしてしまうという手もありだろう。この二つ、言い換えれば編集権を大幅に高めていくということになる。

ただし、これは新聞がこれまで持っていた「マスメディア」というメディア性の最も重要な要素をバッサリと捨てることでもある。それは総合的な情報の提供という役割だ。つまり、生き残る方法としてはよりマーケットを縮小した専門性をウリに、高品質な情報を提供することに求められる。

そして、最後に言えることは、やはり紙媒体としての新聞の未来は暗いと言うことだ。つまり、こういった「生き残りのための方策」も、紙という物理的な移動手段を必要とするメディアを利用する限り存続は難しい。だから、結局は既存の新聞はインターネット上で展開するということになるのではなかろうか。アメリカでは8月、Amazon.comCEO、ジェフ・ベゾスがアメリカ第五位の新聞ワシントン・ポストを買収したが、このベゾスの目論見は、おそらくこういったブログとりまとめ的なインターネット新聞に対するカウンターを考えているのではと僕は見ている。つまり、ベゾスはKindleを通じて新聞を販売、いや配信することで、既存の新聞のメディア乗り換えを狙っていると(もちろんワシントン・ポストがこれまで通りの編集方針を採用するというわけではなくなるだろう。つまり、僕が予想したようなやり方に編集方針をある程度はシフトするだろうけれど)。もしこれが功を奏するのであるのならば、新聞の未来は再び開けることになるし、ブログとりまとめサイトは新しい方向性の模索を強いられることになるだろう。
日本の場合、新聞販売店経由での配布という販売システムゆえ、アメリカの新聞のようにはドラスティックな変化はまだ起こってはいないが、こういったメディア性の根本的な変更を迫られる時期は、やはり早晩やってくるだろう。さて、そのとき日本の新聞は、はたしてどういう方向に舵を切るのだろうか。?

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