情報化と消費社会化による価値観の多様化・細分化によってもたらされた思考停止、つまり「自らの立ち位置や前提を一切振り返ることなく、主張を一方的に展開すること」。そこには二つのパターンがあることをこれまで確認してきた。一つは、タコツボ=オタク化によって壺の中にアタマを突っ込み周辺を顧みることがなくなったことによって、もう一つは、細分化によって行動基準が見えなくなり、困った挙げ句、マスメディア(テレビメディア)のプッシュ性に基づく一元的な情報にすがって行動基準をとりあえず確保、もっぱらこれに熱狂することによって。しかし、これではわれわれはバラバラになってしまう。ディスコミュニケーションの世界が広がる一方だ。だいいち、社会として成立しない(まあ、超管理システムが勝手に社会を成立させるというオートマトン的な動きもあるけれど、これについてはいずれ議論したい)。では処方箋はあるのか?最後にこのことについて考えてみたい。
効率化と思考停止の悪循環
思考停止はヘタするとスパイラル的な展開を起こしていく。つまり「思考停止がさらなる思考停止を生み、他者への視線をいっそう喪失させる」という事態が発生する。今回はまず叩き台として、このメカニズムの説明から入ってみよう。
「思考停止」ならぬ「味覚停止」
思考停止スパイラルを「好き嫌いが多い人間の味覚のスパイラル=閉塞化」で説明してみたい。好き嫌いが起きるのは、嗜好の違いと言ってしまえばそれまでだが、この嗜好自体は、ある種のメカニズムによって構築されている。たとえば子供が「Aが好き」、一方「Bが嫌い」という味覚が出来上がったとする。まあ、誰にでもあることなのだけれど、この「好き嫌い」は親のしつけによって食べることを強制されたり、活動する社会権が拡大する中で、これらのものを口にすることを余儀なくされたりするうちに次第に淘汰され、嫌いなものが減少していく。これは子供の例ではないけれど、僕が大学に入学しサークル仲間と居酒屋に出かけたときには魚が食べられないというメンバーがかなりいた(僕自身は静岡生まれなので魚は好物)。ところがサークルゆえ飲み会の回数が多い。で、カネがないのでとにかく安い居酒屋で安い肴を注文(ホームグラウンドは「村さ来」だった)する。その時、必ずと言ってよいほどメンバーが注文したのがホッケだった。理由は簡単、「安くて量が多いから」。だが、魚の食べられないメンバーたちはこれが最初は食べられない。ところが、酔っ払ってくるとだんだん味のことなどどうでもよくなり、とにかく酒の肴になればなんでもいいということになって、結局、彼らもホッケに手を伸ばすことに。で、こんなことをやっている内に、全員が魚を食べられるようになってしまったのだ。そして、この伝統が繰り返された(笑)。
まあ、これは酒で頭の感覚、そして味覚が麻痺している、予算が少ないといった要因がいわば「嫌いの壁」の乗り越えさせたのだけれど。
しかし、この「壁」が設定されなかったらどうなるか?つまりもっぱら好きな物だけを食べ、嫌いなものは食べなくてよいというふうになったら。当然ながら、結果するのは「味覚に関する認識論の片肺飛行」という状態だ。たとえば、甘いものが好き、苦いものが嫌いであるならば、これが延々続くのだ。そして、甘いものについてはものすごく詳しくなる半面、苦いものについてはまったくわからない。いや、食べ物=甘いものという図式が構築されるので、苦いものは食べ物から排除される、つまり「食べ物ではない」という身体的構えが構築されてしまうのだ。その結果、世界は食べられないものに満ちてしまうというわけだ。
情報化社会・消費社会が推進する「情報の味覚停止」
情報化社会と消費社会は相まって、情報に対するわれわれのいわば「極小化された味覚」を構築し、これに拍車をかけていく。われわれが多様な情報の中から「おいしいもの」だけを入手しようとする。すると資本は整備された情報網・流通網を用いて「おいしい情報」「おいしい商品」のみを提供するようになるからだ。もちろん資本はこうすることでマネタイズを図っているのだけれど。こうやって「痒いところに手が届く」いや「痒くないところにまで手が届く(つまり不必要な情報まで押しつけ、甘いものの欲望を助長してくる)」状態になれば、ようするに、苦い情報、そして嫌いだから食べられない魚のような情報はすべからく遠ざけられる。だから苦いものに該当する情報、魚に該当する情報は、最終的に「情報ではない」ということになる。一方、同じように苦いもの(のような情報)だけを好む人間、魚(ような情報)だけを好む人間もまた、これに合わせて情報社会が情報を提供し、消費社会が商品を提供する。だから、この連中の味覚もタコツボ化したまま。そして、消費社会がここにビジネスチャンスを見いだし、どちらにもひたすら甘いもの、苦いもの、魚以外のもの、魚だけというかたちで細分化した情報・商品を提供し続ければ……甘いものを好む人間と苦いものを好む人間、魚好きと魚嫌いの間のディスコミュニケーションはひたすら広がっていくことになるのだ。これが他者に対する不寛容のメカニズムということになるだろう。言うまでもなく、これこそが思考停止の広がった世界に他ならない。
だから、これを乗り越えるためには、この認識論的な片肺飛行を相対化しなければならない。つまり魚が食えないヤツが居酒屋に行って酔っ払った勢いで魚に口をつけるようなシチュエーション≒環境を用意しなければならない。言い換えれば自らのパラダイムを越境して外部に出ていくこと=「壁」を越えることが必要だ(要するに養老孟司の言う「バカの壁」とほぼ同義と考えていただいてよい)。そして、これを可能にするカテゴリーは「べき論」的啓蒙=理屈ではない。やはり教育による身体的刻印だろう。となると、ここからの議論はBLOGOSをブラウズしているような教育課程をが終わっている人間(二十代後半以上)は切り捨てられてしまうことになるのだけれど(すいません<(_ _)>。もちろん自力でやることは可能です)。
次回は、具体的にどういった教育方法が考えられるかについて提示したい。(以下、長くなってしまったので明日9月1日の最終回に続く)