勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2013年08月

情報化と消費社会化による価値観の多様化・細分化によってもたらされた思考停止、つまり「自らの立ち位置や前提を一切振り返ることなく、主張を一方的に展開すること」。そこには二つのパターンがあることをこれまで確認してきた。一つは、タコツボ=オタク化によって壺の中にアタマを突っ込み周辺を顧みることがなくなったことによって、もう一つは、細分化によって行動基準が見えなくなり、困った挙げ句、マスメディア(テレビメディア)のプッシュ性に基づく一元的な情報にすがって行動基準をとりあえず確保、もっぱらこれに熱狂することによって。しかし、これではわれわれはバラバラになってしまう。ディスコミュニケーションの世界が広がる一方だ。だいいち、社会として成立しない(まあ、超管理システムが勝手に社会を成立させるというオートマトン的な動きもあるけれど、これについてはいずれ議論したい)。では処方箋はあるのか?最後にこのことについて考えてみたい。

効率化と思考停止の悪循環

思考停止はヘタするとスパイラル的な展開を起こしていく。つまり「思考停止がさらなる思考停止を生み、他者への視線をいっそう喪失させる」という事態が発生する。今回はまず叩き台として、このメカニズムの説明から入ってみよう。

「思考停止」ならぬ「味覚停止」
思考停止スパイラルを「好き嫌いが多い人間の味覚のスパイラル=閉塞化」で説明してみたい。好き嫌いが起きるのは、嗜好の違いと言ってしまえばそれまでだが、この嗜好自体は、ある種のメカニズムによって構築されている。たとえば子供が「Aが好き」、一方「Bが嫌い」という味覚が出来上がったとする。まあ、誰にでもあることなのだけれど、この「好き嫌い」は親のしつけによって食べることを強制されたり、活動する社会権が拡大する中で、これらのものを口にすることを余儀なくされたりするうちに次第に淘汰され、嫌いなものが減少していく。これは子供の例ではないけれど、僕が大学に入学しサークル仲間と居酒屋に出かけたときには魚が食べられないというメンバーがかなりいた(僕自身は静岡生まれなので魚は好物)。ところがサークルゆえ飲み会の回数が多い。で、カネがないのでとにかく安い居酒屋で安い肴を注文(ホームグラウンドは「村さ来」だった)する。その時、必ずと言ってよいほどメンバーが注文したのがホッケだった。理由は簡単、「安くて量が多いから」。だが、魚の食べられないメンバーたちはこれが最初は食べられない。ところが、酔っ払ってくるとだんだん味のことなどどうでもよくなり、とにかく酒の肴になればなんでもいいということになって、結局、彼らもホッケに手を伸ばすことに。で、こんなことをやっている内に、全員が魚を食べられるようになってしまったのだ。そして、この伝統が繰り返された(笑)。

まあ、これは酒で頭の感覚、そして味覚が麻痺している、予算が少ないといった要因がいわば「嫌いの壁」の乗り越えさせたのだけれど。

しかし、この「壁」が設定されなかったらどうなるか?つまりもっぱら好きな物だけを食べ、嫌いなものは食べなくてよいというふうになったら。当然ながら、結果するのは「味覚に関する認識論の片肺飛行」という状態だ。たとえば、甘いものが好き、苦いものが嫌いであるならば、これが延々続くのだ。そして、甘いものについてはものすごく詳しくなる半面、苦いものについてはまったくわからない。いや、食べ物=甘いものという図式が構築されるので、苦いものは食べ物から排除される、つまり「食べ物ではない」という身体的構えが構築されてしまうのだ。その結果、世界は食べられないものに満ちてしまうというわけだ。

情報化社会・消費社会が推進する「情報の味覚停止」

情報化社会と消費社会は相まって、情報に対するわれわれのいわば「極小化された味覚」を構築し、これに拍車をかけていく。われわれが多様な情報の中から「おいしいもの」だけを入手しようとする。すると資本は整備された情報網・流通網を用いて「おいしい情報」「おいしい商品」のみを提供するようになるからだ。もちろん資本はこうすることでマネタイズを図っているのだけれど。こうやって「痒いところに手が届く」いや「痒くないところにまで手が届く(つまり不必要な情報まで押しつけ、甘いものの欲望を助長してくる)」状態になれば、ようするに、苦い情報、そして嫌いだから食べられない魚のような情報はすべからく遠ざけられる。だから苦いものに該当する情報、魚に該当する情報は、最終的に「情報ではない」ということになる。一方、同じように苦いもの(のような情報)だけを好む人間、魚(ような情報)だけを好む人間もまた、これに合わせて情報社会が情報を提供し、消費社会が商品を提供する。だから、この連中の味覚もタコツボ化したまま。そして、消費社会がここにビジネスチャンスを見いだし、どちらにもひたすら甘いもの、苦いもの、魚以外のもの、魚だけというかたちで細分化した情報・商品を提供し続ければ……甘いものを好む人間と苦いものを好む人間、魚好きと魚嫌いの間のディスコミュニケーションはひたすら広がっていくことになるのだ。これが他者に対する不寛容のメカニズムということになるだろう。言うまでもなく、これこそが思考停止の広がった世界に他ならない。


だから、これを乗り越えるためには、この認識論的な片肺飛行を相対化しなければならない。つまり魚が食えないヤツが居酒屋に行って酔っ払った勢いで魚に口をつけるようなシチュエーション≒環境を用意しなければならない。言い換えれば自らのパラダイムを越境して外部に出ていくこと=「壁」を越えることが必要だ(要するに養老孟司の言う「バカの壁」とほぼ同義と考えていただいてよい)。そして、これを可能にするカテゴリーは「べき論」的啓蒙=理屈ではない。やはり教育による身体的刻印だろう。となると、ここからの議論はBLOGOSをブラウズしているような教育課程をが終わっている人間(二十代後半以上)は切り捨てられてしまうことになるのだけれど(すいません<(_ _)>。もちろん自力でやることは可能です)。

次回は、具体的にどういった教育方法が考えられるかについて提示したい。(以下、長くなってしまったので明日9月1日の最終回に続く)

前回までは、情報化と消費社会化によって、われわれが思考停止に至ってしまうメカニズムについて展開した。行動の雛形=行為の準拠枠が失われ、その結果、それを基準に構築する他者や自己のイメージが不可視化し、行動パターンの獲得が困難になったがゆえに、情報化・消費化が提供する極小の代替雛形にすがりつき、これに強迫神経症的に熱狂=萌えるがゆえに他者に対する配慮がなくなり、もっぱら声高に自己主張するというパターンが思考停止であることを確認した。

ただし、思考停止となる原因はもう一つある。前回まで展開したタコツボ化的な行動の雛形=行為の準拠枠への熱狂は、すでに指摘したが、それが社会一般に通用しないことを当の熱狂している本人は身体的・無意識レベルでは知っている(それを抑圧するために、フェティッシュに熱狂しつづけるというパラノイア的な行為を続けているのだから)。しかし、これではやはりホーリスティックな、つまり社会全般に認知されるような安心感は得られない。人間は社会的動物。常に社会の一員であることを確認したいと願うし、社会に認められていたいとも思う。だが、そのためには前回まで展開してきたようなタコツボ的熱狂は強力なツールとしては機能しない。言い換えれば一部でしか通用しないのでは、やはり心許ないのである。

テレビというプッシュ=議題設定メディアの重要性

そこで、利用されるのがマスメディア、とりわけテレビだ。テレビは視聴率ジリ貧、コンテンツレベル低下などがしばしば指摘され、もはやオワコン的扱いをされることすらあるが、インターネット環境が拡大すればするほど、実はテレビメディアという存在はある意味重要度を増すようになっている。もちろん、その重要度というのは必ずしも視聴率に反映されるものではないのだけれど。

既存のメディアは新しいメディアが出現し、それと機能が重複する際には二つの方向に結末が分かれる。ひとつは既存のメディアが消滅するというもの。これは機能が完全にかぶってしまった場合(ポケベルやモールス信号が典型)。もうひとつはメディア性を再定義されるというもの(典型はラジオ。テレビの出現でマスメディアと言うより、いわばミドルメディア的、ナローメディアな機能を再定義された。限定された地域で機動性の高いメディアとみなされたのだ)。で、テレビの場合は後者が該当する。テレビが再定義されるメディア性=重要度は「議題設定機能」に他ならない(ちなみに、この機能自体はそもそもテレビが備えているメディア性だが、ネットの出現によってこの機能がより特化される。当然、それ以外の機能は衰退する)。メディアの機能で表現すればプッシュメディアとしての機能だ。本ブログではこの件について何度も説明をしているけれど、初めて読まれる方のためにもう一度これについて説明しておきたい(ブログのリピーターのみなさん、ごめんなさい)。

メディアにはプッシュメディアとプルメディアがある。プッシュメディアとはユーザーに向かって勝手に情報を投げつけてくるメディア(スマホのプッシュ機能をイメージしていただきたい)。一方、プルメディアはユーザーが情報にアクセスするメディアを(つまり、プッシュとプルで情報の指向性が逆になる。プッシュはメディア→ユーザー、プルはユーザー→メディア)。プッシュメディアの典型は新宿アルタの掲示板だ。新宿東口で待ち合わせをしていれば、この大型の画面に出くわすことになるのだけれど、そこから流される情報は、こちらが知りたくて取りだしているのではなく、一方的にこちらにプッシュ=押しつけてくるものだ。一方、プルメディアの典型はたとえばGoogleで検索するというのがそれにあたる。こちらに調べたいことがあり、検索窓にアクセスして情報をプル=引っ張り出してくるというわけだ。

テレビは典型的なプッシュメディアだ。とにかくスイッチをつけておけば、こちらのニーズに関係なく次々と情報をこちらにプッシュしてくる。だが、この「こちらのニーズに関係なく」というところがミソだ。テレビはマスメディア。だからプッシュしてくる情報を大量の人間がチェックすることになる。ということは「知らなくてもいいこと」を多くの人間が共有することになる。 そして繰り返し流されることで涵養効果、つまりこれをじわじわと認知するということが起こっていく(たとえば311以前に「マイクロシーベルト」なんて数値を知っている人間はほとんどいなかったはずだ。しかし、現在では日本人のほとんどがこれを知っているというのは、このプッシュ機能の議題設定+涵養効果のおかげだ)。 だが、「知らなくてもいいこと」(あたりまえだがマイクロシーベルトはこれには該当しない)を多くの人間が知ってしまえば、それは「知っていた方がいいこと」、つまり重要なことに転じてしまう。それは情報を多くの人間が共有するからだ。言い換えれば多くの人間が共有することで、その情報がネタとして利用可能になるからだ。これが議題設定機能というわけだ。ちなみにこの時、情報のコンテンツなど実はどうでもいい。つまりコンテンツ=内容ではなく、ネタになること=形式の方が重要になる。

一方、ネットのタコツボ的社会にはこれがない。ネットは基本的に任意にアクセスするメディア、つまりプルメディアなので広がりが圧倒的に狭いのだ。だから、そういったタコツボ的世界に関心のある同好の士の間でしかネタとして通用しない。でも、これじゃあ完全なネクラオタク(オタクという言葉が一般化し始めた90年代前後に認識されていたネガティブなイメージとしてのオタクを指す。現在、オタクについては前回指摘したように社会的性格=国民全員が分有する性格の一部となており、ニュートラルに捉えられるようになっている)になってしまうわけで、社会性を感じることが出来ない。もう少しはっきり言ってしまえば、自らの構築した世界観が社会全般に通用しないゆえ心許ない状態になる。

テレビという「議題を提供してくれるプッシュメディア」なら安心だ。お互い同じ情報をプッシュされているがために、容易にコミュニケーションの契機が開く。そこでこのネタで会話していさえすれば、それなりに社会性、そして社会の一員であることを確認できるというわけだ。で、とりあえず互いにテレビメディアが提示してくれた議論とその処方箋をコミュニケーションの場で互いが儀礼的に反復しさえすれば、社会性(社交性)は確保できる。

形式に馴染んでいくと、その内容に洗脳されていく

でも、このネタが社会問題的なものだったら結構ヤバいことになる。内容=コンテンツではなく形式=ネタの方にむしろ関心があるのだけれど、そこにコンテンツは必ずついてくる。テレビメディアが報道などを通じて様々な物事をアジェンダ=議題として設定し、これを繰り返し流し、われわれのコミュニケーションのネタを提供し続けるようになると……マスメディアで流れているムードが、このネタ的コミュニケーションをやっているわれわれの中に浸透していってしまうのだ。人間、結構単純なもので、形式として日常的に親しんでいるものについてはそれに馴化してしまい、次第にその内容に対する判断能力を失っていくという傾向がある(これって、洗脳の典型的パターンだ)。ちなみに、このときプルメディアであるネットも重要な役割を果たすことになる。テレビが設定したものの議題は当然ネット上でも騒がれるようになるし、今度はこのネット上で騒がれた内容がテレビで取り上げられるようになる。こうなると議論は螺旋を描いていき、その内容がどうであれほとんど一つの方向に内容が収斂してしまうのだ。

そうなったとき、その議論はもはや「議論」ではなく、むしろ「常識」であるかのような振る舞いをしはじめる。さらに恐ろしいことにこれに楯突くことすらできなくなる。で、こうなると異なる意見を持っているものはバッシングを受ける恐れを感じて沈黙する(これはメディア論では「沈黙の螺旋」(N.ノイマン)と呼ばれている)。かくして、その議論については絶対性が生じ、マジョリティのレベルで思考停止が発生する。「○○でなければいけない」「○○があたりまえ」「○○しないのは(するのは)人間じゃあない」。

禁煙における思考停止

典型的な例をひとつあげておこう。それは「喫煙」だ。われわれの環境からどんどんとタバコを吸える環境が奪われている。「タバコは健康に悪い」という根拠に基づいて、こういった流れが進行しているのだが、喫煙自体は成人なら法律的には合法であり、喫煙者がとやかく言われる筋合いはない。言い換えれば「吸いたいやつが身体悪くしようが、それは自己責任」。だから喫煙に関しては「喫煙する人間と喫煙しない人間双方が快適に暮らせる」という環境を構築することが平等の観点からは当然の課題となる(これは飲酒や甘いものの過度の摂取でも同じことだ。「喫煙は受動喫煙という他者への被害が考えらる」と特化された説明がしばしなされるが、飲酒は酔っ払って人に迷惑をかけることが考えられるし、甘いものの過度の消費による肥満はは健康保険の費用を上昇させ税金をつり上げる)。  だが、今や「タバコを吸うなど人間のやることではない」といったムードすらデフォルトになりつつある。僕の大学でも喫煙スペースがおかれているが、なんとこの場所は野外。だから雨の日の喫煙はきわめて困難な状況になっている。はっきり言ってこれじゃあ、喫煙者差別だろう。怖いのはこの思考停止がメディアの形式を通じてわれわれ認識をジワジワと寛容していくことだ。つまり、気がつけば(というか気がつかないうちに)「タバコ吸うなど人間じゃない」という認識がデフォルト化していく。例えば、僕(非喫煙者かつタバコ嫌い)の場合。以前、他人の喫煙などまったく気にかけることはなかったし、となりの人間がタバコ吸って煙がこっちに来ようが、衣服に臭いが付着しようが知ったことではなかった。それが、いまじゃこんなことはまっぴら御免だし、もちろん電車の喫煙車に乗ることもしないし、ホテルの宿泊は禁煙の部屋を指定するようになっている。まあ、もちろんこれは僕の自由である。けれども、もう一つ「喫煙する自由」というのもあるはずだ。だから僕は、自分に迷惑をかけられない限りにおいて喫煙者の喫煙をとやかく言うつもりはない。互いの自由を尊重したいからだ。しかし、そんなことを口に出すことができないムードが出来上がってしまったのだ。つまり思考停止。これって、完全にファシズムなんだが。

テレビが創る思考停止も一過性

テレビを中心としたマスメディアが形成する雛形=行為の準拠枠はオタクのタコツボ世界のそれとは違って強力だ。支持層が厚いため安心感がある。ただし、やはりこれもかつての雛形のようにはいかない。というのも、これはあくまでマスメディアを通して議題として設定されているに過ぎない、そしてネタとして機能しているに過ぎないからだ。ネタであるということは消費し尽くされてしまえばそれでおしまいなわけで、かつてのような持続的な安定感はない。そこでマスメディアは次から次へとネタをプッシュしてくる(もちろんこうやってカネを稼ごうとしているのだけれど)。そして、われわれはその都度、そのネタに熱狂し続けることでつかの間の安心感を獲得する。その時はもちろん熱狂して、その雛形に自らを過同調させて。つまり思考停止の状態でこれに依拠して。だがこれはかつての雛形とは異なるもの。かつての雛形はあくまで行為の準拠枠の域を出ない、つまりそれを雛形にしつつ自らの行為を選択したり、他者の行為を予測したりする道具として機能していた。だが、このマスメディアによる雛形はもはや「雛形=行為の準拠枠。参考にすべきもの」というよりも「雛形=行為するべきこと。模倣するもの」になってしまった。そこに雛形に対する対象化・相対化はない。だから、思考停止。

じゃ、どうすればいいんだろう?(続く)

「思考停止」について考えている。前回は思考停止が「自らの立ち位置や前提を一切振り返ることなく、議論を展開すること」=認識論の片肺飛行であること、そして○○至上主義であること、突き詰めれば「他者への視線の欠落」であること、そして最近メディアを騒がせるアジェンダ(喫煙、飲酒、体罰、原発、捕鯨、竹島……)が思考停止に陥っていること、つまり他者の立場を考慮することなく、一方的に自説を展開し続けていることを指摘しておいた。でも、なぜ、こういった「思考停止」が発生するのか。今回は、そのメカニズムについて、メディア論的側面から情報化社会の進展との関わりで考えてみたい。

情報の洪水がもたらしたもの

情報化社会がわれわれにもたらしたこと。それは「情報の洪水」という事態だ。これは情報化の進展によってアクセスできる情報が膨大になるという意味だが(ちなみに、情報はかつてから洪水状態だった。ただし、そのほとんどにアクセスできなかった。それが今や様々な情報を大衆レベルでも入手可能になったという意味で「情報の洪水」と捉える)、これはちょっと困った状況をもたらすことにもなった。

かつて、情報アクセスの可能性が低かった時代、言い換えれば情報の選択肢が少なかった頃、人々は否応なくほぼ同質の情報にアクセスせざるを得なかった。これをきわめて俗っぽい例を出しながら説明してみよう。

例えば飲酒。かつて飲み方での第一声は、決まって「とりあえずビール」だった。「とりあえず」ということは、次には他のアルコールに手を伸ばすということだが、これも選択肢は限られていた。つまり日本酒か焼酎あたり。だが、これにだんだんとバリエーションが加わってくる。ウイスキー、ブランデー、ワイン、チューハイあたりが加わり、さらにウォッカ、テキーラ、ジン、ラム、バーボン、そしてカクテルが。でもって、現在ならマッコリとかグラッパとかシェリーとか泡盛、ウーゾ……もうキリがないくらいさまざまなアルコールが出現する。もちろん、これらはいずれもかつてから世界のどこかで親しまれてきたもの。ただし、当該文化圏に暮らしていなければ、一般的にはアクセスは困難な代物だった(たとえばウーゾだったらギリシャかキプロスへ行くか、専門の輸入業者から結構な値段で購入しなければならなかった)。ところが、こういった世界のアルコール、今や日本でも容易に入手可能だ。僕が好きなリキュールの一つにポートワイン(酒精強化ワイン)があるが、これだってネットで銘柄まで指定して簡単に購入できる。

ここで並べたアルコールを情報に置き換えてもらえばよいだろう。つまりインターネットと流通の発達が膨大な情報へのアクセスを可能にしたのだ。

ならば、それぞれがそれぞれの嗜好に応じてそれぞれの生活を楽しめばよい、ということになる。ところが、この「アクセス可能性の増大」はキッチリ副作用も持っている。それぞれがそれぞれに自らの嗜好に応じて行動をした結果、なんのことはない、まとまりがつかなくなってしまうという事態が発生したのだ。

再びアルコールの話に戻ろう。僕が学生の頃、コンパの1杯目はやっぱり「とりあえずビール」だった。ところが今の学生は違う。幹事はかつてのように店を決めて集金するという作業の他にもう一つ大きな、そしてやっかいな仕事が待っている。それは事前に「1杯目の注文」を参加者に尋ねることだ。つまり「とりあえずビール」はとっくに終わっていて、カルアミルクだ、モスコミュールだ、ブラディマリだ、マイタイだといった具合に、細かいメニューの注文をとらなければならなくなっているのだ(店の方もこれに合わせて酒を用意するわけで、楽ではないのだけれど)。

「世界に一つだけの花」というとらえ方の陥穽~どうやって行動したいいのかわからない

で、結局、こうなると前述したようにまとまりがない。だが、このまとまりのなさはSMAPの「世界に一つだけの花」みたいなきれいな話に収まることが、必ずしもない。バラバラ、実は大変困ったことでもあるのだから。

われわれは共同作業したりする際には共通の基準が必要だ。つまり、何らかの行動をしようとする場合には、それを行う「雛形」的なものを必要とする(社会学では、これを「行為の準拠枠」とか「一般化された他者」と呼ぶ)。で、こういった共通項=基準があることで相手が何をするのかを、それを基準にしながら推しはかることが出来るし、自分もまたそこから自らの行動パターンを選択することが出来る。で、こういった「雛形」、実は情報が限定され、それによって、それぞれが限定された共通の行動パターンに押し込まれていたからこそ形成できていた(つまり予測可能だった)し、それを踏まえて行動することで社会内でたち振る舞うことができてもいた。

だが情報の洪水は必然的にこのパターンを破壊させていく。情報化の進展によってどんどん情報提供が可能となり、それに合わせて個々のニーズも多様化、みんながバラバラという状況が生まれると……あたりまえの話だがこの雛形が見えなくなる、あるいは崩壊していくのだ。

人間は社会的存在。だから誰かと支え合って生きていかねばならない。言い換えれば他者を必要とする存在。しかし、情報社会化、消費社会化は他者という生身の人間をシステムに置き換えるという作業を加速度的に進行させていった。そして、人間的な関わりの多くがいわばアウトソーシング化し、支え合わなくてもよくなった。そこで、見えなくなったのが他者の存在、そしてこの雛形だ。これは人間の様々なシチュエーションでの重層的な関わり合いの中で黙契的に身体に刻印されてきたものだからだ。しかし、こういった雛形=行為の準拠枠が見えなくなってしまったとき、われわれはどうやって対処していけばよいのか。つまり、どうやって相手と関わったらいいのか。もちろん、かつてのように「とりあえずビール」みたいな嗜好を強制されるようなやり方はまっぴらという前提がつくけれど。

オタク化によるやり過ごし

そこでこの雛形と他者を見つける新しい方法を見いだした。それは、なんと雛形を破壊し、他者の存在を見えなくした当の情報化社会、消費社会のシステムにどっぷりとつかることによってだった。

自らの嗜好に基づいて行動すると、そこに嗜好を共通させる人間はいない。でも、これでは孤立したまま。しかも寂しい。行動パターンも読めない。だから、どうしたらいいのかわからない。でもなんとかしなければ。そこでネットに象徴される多様化された情報環境へとアクセスする。すると、同好の士、つまり同じ嗜好を持った人間を見つけることが可能になる。もちろん同好の士が同じ物理的空間に居合わせることは、まず期待できない(これを見つける場所が電脳空間だから当然だ)。これらの同好の士と電脳空間上で交わり交流し続ければ、自らの欲望に応じた孤立した嗜好であっても、これを承認する他者が存在することになる。だから安心だ。そこで、人々はいっそう電脳空間にアタマを突っ込む。そして、とりあえず電脳空間上の他者を可視化する。で、こういったネット上で知り合った人間関係から、リアルでは失われた雛形=行為の準拠枠を見いだしていくというわけだ(こういったニーズがあるからこそSNSは急激な勢いで普及した)。こういったかたちで人格を形成していくことを「オタク化」と呼ぶ。ということは、オタクというのは一部の人間ではなく社会的性格=現代人が共通して備えている性格ということになる。

ヴァーチャルの立ち位置でリアルを押し切る!

ただし、この雛形と他者はかつてのような雛形や他者の完全代替というわけにはいかない。何のことはない、ヴァーチャルな、そして自ら選択したタコツボ的な電脳空間上でこの雛形が有効であったとしても、やっぱりリアルな現実空間では無効だからだ。ヴァーチャル=オッケー、リアル=ダメという図式。しかし、頼るものは前者しかない。後者の空間では情報化と消費化によって雛形を獲得する可能性はもはや失われているのだから。だから、否応なく、このタコツボ的、オタク的な基準に自らを依拠させていくことになる。

ところがこれも問題だ。なんと言っても、これを支持するパイが小さい。かつてのように「とりあえずビール」というような一般性はないのだ。例えば、僕が「とりあえずポートワイン」といったら(食後酒だから実際にはこういったシチュエーションはないけれど)、これを「いいですねぇ!」といって乾杯してくれる人なんか、一部のポートガル好きの人間=ポートガルオタクくらいしかいないはずだし、そんな人間をリアル空間上に見いだすことは限りなく難しい。だから、安定性を欠いている。

でも、問題なのは、前述したように結局これに頼るしかないということ。だから、仕方なく、これにフェティッシュに依拠するということになる。つまり、もっぱら自らの雛形=パラダイムに入れ込むのだ。しかも代替になっているこのヴァーチャルな世界が唯一なわけで、他と比較をしようがない。だから、本人はこれが正しいと思って疑うところを知らない。つまり「とりあえずポートワイン」と「とりあえずビール」が同じ「絶対的」感覚になっている。いいかえれば「みんな、まずはポートワインでいいよね」ということが「誤り」であることに気づかない。

いや、実は無意識のレベルでは気づいている。認識こそしてはいないが、この「正しさ」が心許ないことを身体が知っているというところだろうか。だって、ヴァーチャル世界で形成した代替の雛形=行為の準拠枠がリアルな世界ではまったく通用せず、しばしば痛い目にあっているはずなのだから。だから、その不安を抑圧するために、この代替の雛形に熱狂的・フェティッシュに入れ込んでいく。何のことはない、そうやっていないと不安なのだ(こういった精神症状を精神医学的では強迫神経症=パラノイアと言う)。で、この入れ込む行為は「萌え」と一般的には呼ばれているものでもある。

さて、こんな心性を持った人間が議論したらどうなるのか。結果は明らかだろう。自らの立脚点に熱狂しているがために、この立ち位置がどういった正当性を備えているかについての省察は一切ない。つまり立脚点の相対化、つまり議論についての存在論的問いがなくなる。その一方、不安定な雛形をそれでも維持するために、この立ち位置に萌え、さらに不安定さの混入を事前に回避するために、認識論レベルの理論武装を徹底させる。その一方で不安を回避するために相手の話には一切耳を貸さない。さらにネット上の同好の士とSNSを使ってコミュニケーションを交わし、この代替=ミクロコスモス=タコツボの正当性をがあたかも普遍性があるかのように偽装し続ける。そうやって起こった必然的結果が「認識論の片肺飛行」なのだ。

そして、これを誰もがやり始めることで発生する事態が「神々の闘争」だ。つまり、誰もが○○至上主義となり、他者に対して不寛容となり、一方的に主張する。あるいはヘゲモニーを握ったと感じたら相手の論理などまったく聞き入れることなく一方的にまくし立てる。そう、これが「思考停止」のメカニズムに他ならない(ちなみに、これがミクロなかたちで奇形的に発生する一連の行動がクレーマーやモンスターペアレントのクレームだ。)。そして残念ながら、これに「待った」をかけることもできない。なぜって?これを「みっともないからよしなさい」と諫めるためには「一般化された雛形」が必要だからだ。だが、それはなくなっている。いいかえれば「やっぱり、先ずはとりあえずビールにしましょうよ」という黙契が消滅している。だから、みんな言いたい放題になって歯止めがきかないのだ(よって、僕がアルコールについての価値観を相対化していなければ「とりあえずポートワインにしましょうよ」と言い続ける=萌え続けることになる)。

思考停止とは情報化と消費社会化が生んだ必然、そして個人の存在論的不安の裏返しとして出現した事態なのだ。広大な情報世界へのアクセス可能性の増大は、それらを吟味して相対的価値観を持てるようになるどころか、かえって極小の世界に人々を閉じ込めて、意固地にすると言う逆説的結果をもたらしてしまうのである。

高野連はなぜ「ご理解」を求めたのか

花巻東高の千葉翔太選手が夏の甲子園大会で行ったいくつかの行為が物議を醸している。一つは塁上から相手のサインを読み取りバッターにジェスチャーで送っていたこと。そしてもうひとつは「カット打法」。ボールをカットし続け、好球かフォアボールを狙う技法。双方とも高野連の高校野球特別規則に抵触するということで、高野連側から注意され、どちらも使えなくなって準決勝では敗退したといわれている(まあ、これをやめたから敗退したと必ずしも言い切れるわけではないけれど)。これについて前者はともかく、後者については概ね世論は同情的であり、一方、注意を促した高野連には非難が浴びせられるという図式になっている。

さて、今回の騒動をメディア論的に、かつ安心理論的(安心理論とは、全てを肯定的に捉える”屁理屈”のこと)に考えるとどうなるか?それがこのタイトル、つまり「高野連は正しい」という結論になる。「なにをふざけたことをほざいているのか?」といきり立たれた方もおられるかもしれないが、怒りをおさめてしばらくお付き合いいただきたい。意外と、これはハッピーエンドになり得る出来事なのだ。

先ず高野連の「ご理解」という事実上の「注意警告」について。高野連の役割は野球を通じた教育といった側面を持っていることは言うまでもない。いわば「清く、正しく、たくましい」青少年の育成と言ったところだろうか。だから勝利至上主義、技術至上主義よりも努力が重んじられるという傾向がある。いわば「スポーツマンシップに則り、正々堂々と戦う」といったところが理念。だから、まあ素直じゃなけりゃいけないみたいな文脈もあるだろう。実際、高校野球では高校生が審判にクレームをつけるなんてことはありえないし、テレビ中継の際、判定のきわどいようなプレーは決して再生されることはない。もちろん相撲みたいにスローモーションで微妙なところを再生なんてこともやらない。いわば、ちょっとカビたようなかつての「青年育成」的な立ち位置だ。

こういった高野連の方針=理念からすれば、当然、千葉選手のやった二つの行為は×か△になる。「正々堂々」とはしていないし、夏のクソ暑いときにひたすらピッチャーの球数を増やして疲弊させるなんてのは「卑怯」だ。それが技術的にいかにスゴイものであろうと、だ。ちなみに千葉選手に対する注意は試合中でなく、試合後に行われているのだが、まあこうった立ち位置からすれば、このようなシチュエーションもあるだろう。だから、高野連を後出しジャンケンみたいに非難するのはあまり意味がない。

だが、これの高野連の対応はプロ野球に馴染んでいる多くの野球ファンからすれば噴飯物。見ている側はプロ野球のように駆け引きのスペクタクルが見たい。また努力を技術に昇華した千葉選手の技術も見たい。だから、高野連には一斉に非難が上がった。古びている、保守的すぎるってな感じに。

ところが、である。高野連が高野連であるためには、こういった花巻東への一連の対応は絶対にやらなければならないことでもある。どんなに古くカビたものであろうとも高野連はそれなりに高邁な理念を抱き続けてきたわけで、それが結果として高校野球という「国民的スポーツ」を築いてきたことも確かだからだ。もし、こういったカビたような理念は古いと言ってどんどんルールや黙契を変更していったならば、それは結局他のスポーツ、そして高校生のやるスポーツとの差異がなくなってしまう。そうなった際には、高校野球はこれまでの高校生のスポーツの中でも特別なものであるという地位から引きずり下ろされてしまうはずだ。

あたりまえだがスポーツにはルールがある。そしてそのルールは各スポーツで恣意的に決定されている。そして一つのスポーツにもさらに下位分類があり、分類されたそれぞれのジャンルでまたルールは異なっている。またそれぞれにも黙契がある。だから野球の一分野である高校野球にも、一般のプロ野球のルールの他に、前述したような「青少年の育成(カビた)」といった理念、そして黙契があり、これがスポーツの一ジャンルとして、しかも他のスポーツよりも特化されたものとしての地位を確保し続けることを可能にしてきた。ちなみに、そのルールは前述してきたように、それぞれのジャンルで恣意的に決定されているので、科学的根拠や道理などというものは原則関係がない(ただしカビすぎると日本大相撲協会や全日本柔道連盟のように構造的腐敗を来してしまうのだけれど。で、実は今回、最も懸念すべきことは高野連のカビた構造がヘンな状況になっているのではないかということなんだが)。

で、高野連はこういった高校野球の伝統を守ろうとするがゆえに、今回花巻東にご理解≒注意警告を促すという行為に出たわけで、構造維持といった意味ではきわめて「まっとう」な対応をしたと考えてよいのである。

千葉翔太選手の取り分

でも、それじゃあ千葉選手の努力、そして技術はどうなるんだ?いくらなんでも可哀想ではないか?まあ、これはいわばプロ野球マンガの「巨人の星」で星一徹が従軍して肩を壊し、それでも巨人軍で野球を続けようとして魔送球を生みだし、これがいわば走者のアタマにボールをぶつけるような黙契に抵触する技術だったので川上哲治に促されて(つまり「ご理解」を求められて)野球界を去っというのと同じ図式になる。つまり、どんなに素晴らしい技術であっても、高校野球で「それをやっちゃあ、おしまいだよ」の範疇に収まってしまうのだ(収まるかどうかは高野連が決めている)。これはプロ野球が舞台になっているが、高校野球になぞらえマンガを例に出せば「ドカベン」の殿馬一人のような選手は許されないということになる(秘打「花のワルツ~」\(^_^))。

準決勝でカット打法を封印され、役割を果たせず敗退、試合後泣きじゃくり過呼吸にまで至ってしまった千葉君の心中を察するにはあまりあるところである。だが、千葉君、今でこそがっかりしているかもしれないが、実は今回いちばんトクをしたのは千葉君なのだよ。キミは試合に負けて勝負に勝ったのだ。なぜって、キミは甲子園で殿馬をやってくれたクリエーターなんだから。もう、キミの人生の肩書きには「カット打法の千葉翔太」という記号がしっかりと刻まれている。当然、この後の大学進学は引く手あまただろう(ひょっとしてプロ野球?)。だいたいカット打法と言ったところで並の人間が出来るような技術じゃない。もうすでにYoutubeではキミのカット打法の映像が35万回以上も閲覧されているものすらあるくらいなんだから。

で、もしこの打法に高野連がクレームをつけなかったらどうなっていたか?花巻東は彼の技術を擁して延岡学園に勝利したかもしれない。しかし、それなりの注目しか得られなかっただろう。ところがこれに高野連がケチを付けた。そしてメディアが一斉にこのことを騒ぎ立てた。その結果、今や千葉選手は今大会でも断トツのヒーローだ。しかも「卑怯な選手」というより「技術を封印された同情すべき選手」として。そう、キミの打法に歴史的痕跡を刻印してくれたのは、他でもない高野連、そしてメディアなのだ。それは92年に星稜の松井秀喜が明徳義塾から五打席連続敬遠をされて敗退したが、その後、この事実が松井という人物を野球の歴史に刻んだのと同じことだ(一方、その時の明徳の選手たちはバッシングの嵐で酷い目に合った。もう忘れ去られているが、次の試合は観客席から非難囂々。モノも投げ込まれるという始末で、選手は完全にビビり、大敗してしまったのだ)。そう、繰り返そう、千葉君、キミはメディア論的には試合に負けて勝負に勝っている。

そして、みんな幸せになりましたとさ

さて、今回の騒動、今後どうなるか?おそらくカット打法についてはかなり明確なガイドラインが示され、もはや千葉翔太的な打法はご理解≒注意警告どころか完全な禁止事項になるだろう。でも、そうすることによって高野連は高校野球を高校生のスポーツとしては特化されたものであることを維持できるようになる。ちなみに、スポーツを楽しむ側からすれば、こういった「わけのわからないルール」「不条理なルール」というのは、そのスポーツに関心を寄せるモチベーションとしても、実は機能する。たとえば、これはプロ野球で考えればよくわかるだろう。今や計測技術が進んでいる時代。審判なんておかずに機械計測した方がよほど正確なハズだ。あるいは審判を置いたとしても補助的な存在にしておいたほうがルールとしては厳密でフェアなものになるはずだ。ところが相変わらず審判によって試合が進行する。なぜか?実はスポーツは、こういった「人間的営為」、つまり人間が裁くことによる不確定要素が混入することによってスペクタクルを築き上げ、オーディエンスたちの関心を惹起するものであるからに他ならない。「あのジャッジはおかしい」なんて議論が展開されるということも、実はマクロ的な視点からすればスポーツという「観客を必要とするジャンル」を形成する一つの要素なのだ。ようするに、このイイカゲンさ、不確定性が、実はたまらなく面白い(余談だが、僕は箱根駅伝の際、箱根登山鉄道を止めずにいつものダイヤ通り運行させるべきだと思っている。メチャクチャ面白い勝負の綾となるはずだ。実況中継が「あ~っ、ここで遮断機が下りてしまった~っ」なんてやるわけだ)。

一方、千葉翔太選手は、もう問題ない。高校野球史に残る選手としてカット打法という金字塔を打ち立て、これからも野球の世界の中で輝き続けることが考えられるからだ。来年、彼がどこかの大学(おそらく六大学のどこかが引っ張るに違いない)で試合に登場したとき、メディアは彼を大注目することはもう約束されている。しかも、その時にはどれだけカット打法を繰り広げようがお咎めなし。いや、僕たちは彼がどんな技術で、どれだけボールをカットし続けてくれるかに興味津々となるに違いない。

そう、今回の騒動。今のところは同情だ非難だと騒がれている状態だが、結局のところ関わった人間がいずれもトクをするウィンーウィンの出来事だったのだ。つまり高野連、千葉翔太選手、そして僕たち高校野球の観客。

はやく千葉君のこれからの活躍が、見たいなあ!

あっちもこっちも思考停止

最近メディアを騒がす様々なアジェンダにちょっと引っかかるところがある。たとえば宮崎駿監督の新作「風立ちぬ」をめぐって日本禁煙学会がクレームをつけたこと、学園祭の飲酒をめぐってあちこちの大学がこれを取りやめたこと、体罰をめぐって教育における非暴力の徹底が過激なまでに図られたこと、311の福島第1原発事故をめぐって原発の廃止が叫ばれていること、海外では日本が鯨保護をめぐってバッシングを受けていること、そして韓国が竹島の領有を主張すること。

こういった一連の動きについて、とりあえず僕はこれが正しいとか間違っているとかという指摘は今回の特集では脇に置いておく(もちろん、僕なりに、これらについては立場を持っていることをお断りしておく。たとえば喫煙なら「神奈川県ではタバコが吸えんゾウ」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/61388334.html、学生の飲酒なら「大学祭での飲酒は、よいキャリア教育になる」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/archive/2012/10/29、体罰なら「体罰を飼い慣らせ!」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/64178809.htmlを参照いただきたい)。僕が引っかかっているのは、こういった個々の価値判断ではなくて、これらに共通する価値判断の形式、つまりメディアの様式=語られ方だ。これがどうも危ない気がして仕方がない。で、今回はこれについて考えてみたい。そして、これらすべてに共通する形式を一言で表現すれば、それは「思考停止」ということになる。

思考停止とは~「天才バカボン」で展開された認識論と存在論

「思考停止」はつぎのように定義することが可能だ。すなわち

「自らの立ち位置や前提を一切振り返ることなく、議論を展開すること」

これは哲学の基本用語で言い換えれば「存在論的問いの欠如」と言い換えることができる。つまり、思考停止とは存在論なく認識論のみで議論を展開する態度を示す。ちょっとわかりやすいように引用で示そう。引用元はマンガ「天才バカボン」からの一話だ(ちょいとうろおぼえで多少誤りがあることをご容赦願いたい。あくまで説明のための方便なので)。


学者たちが議論していた。

「『バカとお金は使いよう』ということわざがある。これが本当かどうか実験してみよう。」

ということで、バカの被験者としてバカボンパパが選ばれた。パパに100万円を渡すとどうなるのか?という実験だ。ところがパパは意外なほどにこのお金を「まっとうに」使ってしまった。

何の実験成果も得られない学者たちは、苛立ってとうとうパパに苦言を呈したのだ。つまり、

「なんでキミはバカなのにちゃんとお金を使うのか」

これに対してバカボンパパは次のように返答した。

「それは違うのだ。それをいうなら『バカとハサミは使いよう』なのだ!」

(ちなみに、バカボンパパの職業は植木屋である。つまり「バカにハサミを持たしたら使いようになった」というダジャレ)


このときの学者たちの立ち位置こそが認識論に他ならない。つまりことわざの間違いに気づいていないで、それをそのまま「実験」という「科学的スタイル」(あくまでマンガでの話だけれど)を運用した。一方、バカボンパパはそれに対して存在論的問いを投げかけた。つまり「あなたたちは立ち位置が間違っている」。まあ、ようするにパパは「ちゃぶ台返し」をやったわけだ。

存在論と認識論はモノの認識の二つの側面であり、どちらがより価値が高いのかという議論は意味がない。われわれは考察する際に、時には認識論的に(ディベートなどはその典型)、時に存在論的に振る舞う必要があるだけの話。

問題なのは「片肺飛行」になってしまうこと。例えば存在論的問いばかりやっていれば虚無主義=ニヒリズム(アニメ「ムーミン」に登場するジャコウネズミさん的態度。つまり、この場合、すべては「ムダじゃ、ムダじゃ」といって存在そのものを無化してしまう。これじゃあ議論が成り立たない)に陥ってしまう。一方、認識論的問いばかりやっていれば、いくら手順が正しくても、そもそもその立ち位置が正しいかどうかがわからない。

以前、イザヤ・ベンダサンこと山本七平が著書『日本人とユダヤ人』で「ユダヤ教では全員一致は否決」という記述をしていたが、これは認識論の危うさを回避するためのルールと考えることが出来る。議論というのは必ず反対意見が出るはずという前提があり、ということは一致してしまっている状況は、全員がダマされている、あるいは洗脳されているということになると考えるわけだ。これは、うまい具合に認識論と存在論のバランスをとるルールと言える。

思考停止は○○至上主義

さて、装置が出たところで最近メディアを騒がせている議論にこれをあてはめてみよう。つまり、「これらはどう思考停止しているか?」

禁煙は「タバコ吸うヤツは人間じゃあない。言語道断。映画で描いてもダメ」「お酒は危険。学祭の場であったとしても本来は学業の場であるわけで、飲酒するなんてのは言語道断。そもそも学生が飲酒するのはダメ」「どんな理由があれ暴力は言語道断。躾でもダメ。デコピンすらダメ」「原発は存在自体が言語道断。まったくダメ」「鯨は絶滅危惧種であり、知能が高いので漁をするなど言語道断。調査捕鯨なんてのもダメ」「竹島はもともと韓国の領土なので議論をすること自体が言語道断。日本が領有権を主張するなんてのはもちろんダメ」まあ、こんなところになる。つまり、すべて「○○至上主義」で、立ち位置について議論することそれ自体がタブーになってしまっている(やると激しいバッシングに遭う。議論それ自体より人格を疑われるような非難が展開される)。飲酒や喫煙が法律的に認められていること、体罰が歴史的にある程度教育的効果を持ってもいたこと、場合によっては暴力より精神的な打撃の方が影響力が強いこと、原発がわが国の電力のかなりを担ってきたこと、鯨が日本ではかつてから食文化であったこと、竹島が本来どんなものであったのかについて様々な議論があったこと。こういった「存在論的問い」が、一切考慮されることなく、認識論レベルで議論の補強が延々繰り返される。つまり、繰り返すが「認識論の片肺飛行」。これが思考停止というわけだ。

でも、これって、ちょっとヤバいんじゃないんだろうか?で、思考停止というのは「他者への視線の欠落」。もっぱら自分の主張ばかりを展開し、言うだけ言い放って、決して相手の話に耳を貸そうとはしないという態度なのだから。

この場合、対立する議論が拮抗しているならば、これは延々と不毛な議論が展開するだけだし(社会学の父、M.ヴェーバーは、これを「神々の闘争」と呼んだ。そう全員が神になってしまって譲らないという状況だ)、逆に片方が優勢になってヘゲモニーを握ってしまえば、劣勢の方は一切、主張が通らなくなる(現在、日本で典型的にこの状態になっているのは喫煙だろう。喫煙者は今やレイシズムの中の差別的対象と同じような状態にすらなっている。しかも、これは日本国憲法の人権尊重という理念まで平気で踏みにじって展開される勢いだ)。これじゃ、ヒステリー、いやファシズムだ。

そして、この思考停止=認識論の片肺飛行=○○至上主義=他者への視線の欠落が、結果として社会に対する不寛容と一方的なクレームの跳梁をほしいままにしているように僕には思えてならない。それは、まるでカルト集団のやり方に近い。僕らは、もう少しおおらか=寛容であってもよいのではないか?

しかし、なんで、こんなことになってしまったんだろう?実はこれは情報化社会の、ある種の必然的結果でもあると僕は考えている。次回は情報化社会の進展との関わりでこの原因について考えてみたい。(続く)

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