岩手の「小泉光男県議」がブログ炎上によって自殺に追い込まれた事件について、新しいメディアの出現とメディアリテラシーの関連から考えている。メディアが新しく出現する際には必ずと言っていいほど、ちょっとおかしな事件が発生する。それは、新しいメディアのメディア性がまだ認識されておらず、定まってもいないがために、オールドメディアの捉え方でこれらニューメディアを捉えてしまうことによって発生する事態と考えていい。そして、その際、起こる議論は必ず二つ。ひとつは「カーゴ信仰」的な礼賛的とらえ方。つまり、メディアが備えるテクノロジーによって「幸福な社会が約束される」というもの。そしてもう一つが、それとは正反対の「メディアが害悪を及ぼす」というものだ。後者の典型としては、たとえば六十年代のテレビやマンガの普及がある。これらが社会深く浸透することで、人々のあいだに無知や不道徳が広がると警鐘が鳴らされた(大宅壮一の「一億総白痴化」といったテレビへの指摘は、その典型だった)。しかし、結局のところ、メディアはそういった当初の思惑とは異なった方向で普及、定着する。そして、その過程でメディアは相対化され、ある意味「適正」に運用されるようになっていく。
今回の事件も、この「ニューメーディア出現による初期不良」的な認識がもたらしたものと考えられるだろう。言い換えれば、インターネットについてのメディアリテラシーが熟成していないがために発生した出来事。そして、前回は「小泉県議」自身について言及し、ブログとインターネットの特性についての認識の低さが自殺の引き金になったと指摘した。
しかし、これだけで「小泉県議」が自殺したとしたなら、ちょっと「県議」は繊細すぎる。だから、原因を「県議」のメンタリティだけに集約してしまうのはマチガイだろう。これは、あくまでプッシュ要因。むしろ、このブログでの「失言」を周囲がどう扱ったか、言い換えればプル要因が自殺の引き金になったと考えるべき。そして、このプル要因も、ネットに対するメディアリテラシーの低さがもたらした事態と考えるべきだろう。
メディアという容疑者
先ず、メディア。メディアは「小泉県議」のブログが炎上しているのを知ると、これを一斉に取り上げた。県議は「公人」、だから取り上げても叩いてイイ(つまりプライバシーに抵触しない)というのがそのスタンスだろう。ただし、最近、メディアは自分からネタを探してくるような地道な努力はしなくなっている。これはおそらく取材能力の低下と予算の削減が影響しているだろうが、もっと大きな影響力を及ぼしているのは、やはりネットだ。ネットだったら、ググればあっと言う間に「特ダネ」をゲットできる、しかも安上がりに。だからこそ「公人」という記号がついた「小泉県議」の炎上ネタに飛びついた。そして、これにスケールメリット、あるいは「勝ち馬に乗れる」と踏んだ他のメディアも一斉にこれを取り上げた。つまりプッシュしたのだ。
こうなると炎上の力は二乗化される。つまりプルメディアのインターネットで取り上げられた後、プッシュメディアのテレビが大々的取り上げることで「小泉県議」の失言はメディアイベント化し、さながら巨大なスキャンダルであるかのようにメディアによって媒介されることになる。ワイドショーはこぞってこれを取り上げ、「小泉県議」を叩きまくったのである。
しかも、これは循環する。つまり1.ネットが取り上げる→2.テレビが取り上げる→3.テレビが取り上げたものをネットが取り上げるという循環が起こり、「小泉県議」に対するバッシングは国家大の規模に膨れあがったのだ。そして、この循環のお陰で普通の炎上にはない持続性を、この炎上は持つに至る。そう、ブログを閉鎖してもバッシングは続いたのだ。そこで「小泉県議」は謝罪会見を開いたのだが、炎上は収まらない。さらにこの謝罪についてもネットでバッシングが続くという循環が起こった。
こうなると当の「小泉県議」が、たとえ鈍感力を備えていたとしても精神的なダメージは相当なものとなる。そして「小泉県議」は、さほど鈍感力の強い人間ではなかったようだ。……だから、彼が最終的にチョイスしたのが自殺だったのだ。皮肉なことに、これがバッシングを終了させる最適な手段だったのだから(実際、この事件は彼の死後、突然終息した。つまりメディアイベントを終えてしまった。そして、これもまた、後述するネットリテラシーの低さがなせる業だったのだけれど)。
ここで考えるべきは、今度はメディア側のネットについてのメディアリテラシーの低さだ。前回述べたように、ブログを炎上させる人間たちは世論の趨勢ではなく、そういうクレームをつけて公人を「酒の肴」にしたい、ネタにしたいという輩が大多数。だから、メディアもそうならないためには、「小泉県議」に求められたのと同様、こういった炎上をまっとうには取り扱わないリテラシー=鈍感力が求められる。ところがメディア、とりわけテレビはネットの普及でジリ貧の状態が続いており「溺れる者は藁をも掴」みたい状況。だからこそ、こういった末節な事柄をことさらに取り上げ、バンドワゴン効果的に「小泉県議」をバッシングしてしまった。ようするに、メディア=テレビもまたネットが放出する情報を成熟し、相対化した目で見極めることができなかったのだ。当然、「小泉県議」を死に追いやったのはメディア=テレビであり、その責任は重大だ。メディアの無知が一県議の生命を奪ったと言っても過言ではない。言い換えれば、メディアはもっと熟成しなければならないのだ。自殺された瞬間、突然口をつぐむようなやり方などもってのほかで、むしろ、なぜこうなってしまったのかについて、自らの責任も含めて検証するような姿勢が必要。というか、それくらいのことをやらないと、いずれメディア=テレビはその存在根拠を失ってしまうだろう。
で、僕らとしてはこうったメディアのやり口にも、そろそろ慣れるべきだろう。つまり、メディアのこのやり方を見抜き、「もうそれはいい、飽きた」と一蹴するようなリテラシーを涵養すべきなのだ(ただし、こちらはテレビに関するメディアリテラシーだが)。商業主義=経済原理に基づいて動くことが基本になりつつあるメディア=マスコミを、僕らは最近「マスゴミ」と揶揄するようになっているが、こういった非難は、そういった意味ではきわめて健全なものと考えてもよいのではなかろうか。
ネットに書き込みするユーザーもまた容疑者
最後に、もう一つ、この事件の首謀者の一つとしてネットに関するリテラシーの低さを持った集団を挙げておこう。それはいうまでもなく「小泉県議」のブログを炎上させた人間たちだ。「匿名」という隠れ蓑をよいことに、市井の人間を「公人」であるからといって、あることないこと書き立て誹謗中傷する。でも、これってほとんど「通り魔」あるいは「無差別殺人」と同じ心性と言っても過言ではないだろう。もし、これが実名だったら絶対にできないこと(返り血を浴びる恐れがある)。で、そのことは無意識のうちに十分知っている。だから匿名で「便所の落書き」のように他者のブログに罵詈雑言を浴びせる。で、これは「便所の落書き」よりはるかに質が悪いものでもある。攻撃する他者が特定されているのだから。しかも執拗に繰り返されるのだから。
これはいつも新しいメディアが出現するときに起こること
さて、話をプロレスの流血事件に戻そう。この事件はモノクロテレビで放送されるプロレスの流血シーンでショック死した老人についての話だった。そして、もし、今、プロレスで流血シーンを見て(しかもカラーテレビのそれを見て)ショック死する人間がいたら、それこそ「珍事件」として別の意味でニュースになると指摘しておいた。逆に言えば、いまどきそんな人間はいない。なぜなら、いわば「流血リテラシー」=流血慣れっこ的心性がすっかり醸成されているからだ。
今回の「小泉県議ブログ炎上、そして自殺」事件は、まさにネットリテラシーに関する「プロレス流血シーン、ショック死」事件とまったく同じ構造といえる。ということは10年後、この事件を振り返った際には、人々のネットに関するメディアリテラシーが向上していて「いやー、そういえばそんなこともあったよね。でも、もし今こんなことがまた起きたとしたら、珍事件としてしか取り上げられないだろうなあ」ということになっているのかもしれない。そうなっていれば、今回自殺した「小泉県議」も、これを取り上げたメディアも、「県議」のブログを炎上させたネットユーザーたちも「恥ずかしい存在」で括られることになるはずだ。僕は、そうなることを祈っている。
要するに、僕らはまだまだインターネット社会の入り口いるに過ぎない。そのことを、この事件は僕らに教えてくれているのだ。