小学校にまで英語教育が導入されようとしている昨今、どうも教育界における英語の認識はちょっとおかしいような気が僕はしている。現状の学校英語が実用性がないという点で批判され、オーラル、つまり会話中心の教育を前面に押し出すべきと言う論調が最近のトレンドだが、現状の英語教育の意義とオーラルのそれはちょっと違うんじゃないんだろうか。今回は、この英語教育の小学校導入の無意味と、さんざん批判の対象になっている現状の英語教育の重要性について、メディア論的に展開してみたい。言い換えれば、ここでは英語教育で叫ばれている現在のあるべき方向とはまったく反対の視点、つまり「現状の英語教育が正しく、新たに導入する方が間違っている」というガラパゴス的な立ち位置から議論を展開するということになるのだけれど(もちろん僕が100%そう考えているわけでない。そうではなくて、視点を変えてみることで英語教育問題を相対化し、新旧二つの英語教育の功罪について考えてもらうことが本意だ)。まず、今回は、オーラル英語教育を小学校から導入することの無意味さについて展開したい。
現状の教育をひねったところで英語が話せるようにはなりません!
確かに日本人は英会話が下手だ。大学まで含めれば10年間も英語をやることになるのに、まともに話せる人間がほとんどいない。だから、早期からオーラルを取り入れて、こちらを中心に展開することで、英語によるコミュニケーション能力をどんどんと高める必要があるというのが、小学校への英語教育導入の主張になるんだろうけど。
これ、やってみたらいい。どうなるか?想定される結果はこうなる。まあ、ある程度日本人は英語を話せるようになるだろう。ただし、それは「とりあえずコミュニケーションができる程度」というところにとどまる(ただし、ほとんど使いものにならない程度に)。立ち入った話、突っ込んだ話なんてのは先ずムリだろう。なぜか?理由は二つある。そのひとつは教える側のインフラが整備されていないから。つまり、教える側がまともに英語が喋れない(これ、あまり語られていないが、実は大問題)。こういった人材が教えたところでいくつかのシチュエーション、つまり簡単な挨拶や、やりとりに対応するコミュニケーションが可能になる程度が関の山だろう。
しかし、もっと問題なのは、小学校からオーラルをやったとしても、現状と同様、圧倒的に学習時間が短いことにはなんらかわりがないことだ。英会話の学習はパターンを身体化すること。つまり、シチュエーションに応じたコミュニケーションパターンを何度となく様々な場面で繰り返し、条件反射的に対応できるようになることで習得される。ところが、現在の教育も、導入が計画されている小学校への英語教育も、この繰り返し学習が決定的に欠けているという点では同じ。いいかえれば、少しずつしか学習せず、次の学習項目に進んでしまう。だから、結局、生きた英語として馴染むことがないのだ。
ネイティブの子どもたちの英会話勉強量はハンパない!
これにカウンターをあてるような議論が「ネイティブの子どもたちは小さな頃から英語を学んでいるので使いこなすことができる。だから日本の子どもたちにもやらせればいい」というもの。だが、このロジックは完全に間違っている。というのもネイティブたちはベラボーな量の英語学習をしているからだ。なんのことはない、起きているときは全て英語なのだから、一日中が英会話の時間。ということは小学校に英会話を導入したところで、一日一時間くらいしか学習出来ない。しかもマンツーマンではないので、効率はきわめて悪い。こりゃ、ムリというわけだ。
前述したように、学習というのは、基本的に「繰り返し」だ。同じパターンを何度も何度も繰り返す中で、そのパターンが身体化していく、これが学習の基本。ただし、この「同じパターン」というのは、ただ単にまったく同じというわけではない。そうではなくて、そのパターンを実生活の様々な文脈の中に流し込んで運用する、これが学習の基本なのだ。これはわれわれの日常的な学習過程を振り返ってみれば簡単にわかる。例えば新しい言葉=単語(日本語)が出現したとき、はじめのうちはその運用がまったくわからない。ところが、これを何度となく様々なシチュエーションで用いることで、だんだんとその単語のコアイメージが形成され、最終的に身体化し、感覚的に、そして適切に運用することができるようになる。
英語にしたところで、これまたまったく同様で、とにかくあっちこっちで使ってみないと「生きた英語」にはならない。言葉というのは「単語とその意味」から構成されているのではなくて「言霊」、つまり言葉についての経験によって培われているからだ。ネイティブの子どもたちは、英語漬けの環境の中、こういったパターン学習=ロールプレイイング、単語を文脈に流して使う作業を延々やり続けているというわけだ(ということは、日本人が手っ取り早く英語を話せるようになるためには、英語圏に向かい、そこでもっぱら英語だけの環境に自らを置き、「英語漬け」になってパターンを身体化すればいいわけだ。僕の教え子の一人に、たった一年海外で暮らしただけであっと言う間にTOEICがほぼ満点になってしまった女性がいたが、この教え子の場合、英会話学校、友達(そして恋人?)にいたるまで全てがネイティブだけの環境だったのだ。つまり完全な”英語漬け”)。いいかえれば小学校に英語教育を取り入れたところで「多勢に無勢」「付け焼き刃」の域を出ないという点では現状の中学から始まる英語教育と何ら変わるところはないのである。
英語嫌い拡大再生産のメカニズム
現状の英語教育、そしてこれから設置されるであろう英語教育は、上記のような教育システムゆえ、共通した困難を生徒たちに与えることになる。それは……「英語嫌い」だ。繰り返すようだが英語は数学同様、基本の上に初めて応用が乗っかるという科目。「社会」のような、コア部分が習得されていなくても、そこだけ覚えておけばなんとかなるという「暗記科目」とは基本的に構造が異なったものだ。ところが日本の英語教育は一貫して「身体化をせず、新しい項目を次々と課題として学習させる」というやり方を採用している。ということは、土台ができていないうちに上物を建てることになるわけで、あたりまえの話だが、これじゃあまともに学習項目が身につかない。にもかかわらず、その上物はさらに二階部分、三階部分を上に積んでいくことがノルマとなる。ところが、土台ができていないのだから、これはその都度構築物が崩れてしまうという事態を必然的に結果する。でも、これじゃあまさに「シーシュポスの神話」。やってもやっても効果がないのに、ひたすらやらされることになるわけで、やらされる方としてはたまったもんじゃあない。つまり、まったく実りがない。そこで、英語嫌いが発生する。
僕の教える大学は偏差値50ギリギリといったところなのだが、こういった「英語教育の被害者」が多数集結している。とにかく彼らは英語が嫌い。授業で英語の話をしようものなら、ほとんどフリーズしてしまうくらい。だが、それは「英語それ自体が嫌い」というわけではない。前述したように、英語にはそれにまつわるトラウマ化した苦い経験、つまり「やってもやっても効果がないのでウンザリし疎外感を感じる」が付着しており(これが彼らの偏差値アップを阻害していたのだけれど)、英語の話をするとそのことがフィードバックされるから、結果として「英語嫌い」になっただけなのだ。
僕は自分のゼミ生を毎年タイに連れて行き、フィールドワークをやらせているのだけれど、彼らにはトータルで100語くらいのタイ語を教えることにしている(その半分は食べ物の名前)。で、現地でこれを使ってもらうのだけれど、実際に使ってみると、思いのほかタイ人に意思疎通ができることを発見する。もとよりタイ人の方も日本人がタイ語を喋るなんてことは期待していないので、そんなシチュエーションでタイ語を使うとタイ人たちの反応もガラッと変わってフレンドリーになってくる。そのことがすごく楽しくて、結局、彼らはハマったようにその少ない単語を使いまくり、さらにはいくつか新しい言葉を覚えたりもする。彼らはわずかなタイ語のボキャブラリーしか持っていないし、文法も知らないのだけれど、そのコアイメージを現場のシチュエーションの中で繰り返し使ううちに身体化し、多少なりとも「言霊」化したのだ。
そのうちの学生の一人が僕にこう語ったことがある。
「タイ語はちょっとしかやっていなくても楽しく使えるのに、なぜあんなに勉強している英語ができないんでしょう。しかもつまらないし。」
僕は即座にこう答えた
「英語もタイ語も同じだよ。君が英語ができなくて、しかもつまらなく感じるのは、英語のせいじゃなくて英語教育のせい。つまり英語それ自体じゃなくて英語にまつわる君の苦い思い出のせいなんだよ。学校教育を怨め!」
で、これを認識した学生、つまり英語を学ぶことがタイ語を学ぶのとまったく同じことであると理解した学生に英語をあらためて教えると、俄然、英語が楽しいものになってしまったのだ。
要するに、英語教育の構造自体が英語嫌い、そして英語力低下を生んでいることになるのだけれど、小学校への英語教育の導入はその構造的問題、つまり「学習を細分化、分散化させ、学習の密度を下げる」という問題点を振り返ることなく、ただいたずらにコマ数を増やすという方法を採用しようとしている。それはいっそうの細分化、分散化に他ならず、たどり着く先は「英語嫌い」のいっそうの増加ということにならないだろうか。
いや、それだけではない。英語教育の小学校への導入は、この構造をさらに悪化させ、子どもたちの学力全体のいっそうの低下を引き起こす要因すらある。では、それは何か?(続く)