勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2013年07月

小学校にまで英語教育が導入されようとしている昨今、どうも教育界における英語の認識はちょっとおかしいような気が僕はしている。現状の学校英語が実用性がないという点で批判され、オーラル、つまり会話中心の教育を前面に押し出すべきと言う論調が最近のトレンドだが、現状の英語教育の意義とオーラルのそれはちょっと違うんじゃないんだろうか。今回は、この英語教育の小学校導入の無意味と、さんざん批判の対象になっている現状の英語教育の重要性について、メディア論的に展開してみたい。言い換えれば、ここでは英語教育で叫ばれている現在のあるべき方向とはまったく反対の視点、つまり「現状の英語教育が正しく、新たに導入する方が間違っている」というガラパゴス的な立ち位置から議論を展開するということになるのだけれど(もちろん僕が100%そう考えているわけでない。そうではなくて、視点を変えてみることで英語教育問題を相対化し、新旧二つの英語教育の功罪について考えてもらうことが本意だ)。まず、今回は、オーラル英語教育を小学校から導入することの無意味さについて展開したい。

現状の教育をひねったところで英語が話せるようにはなりません!

確かに日本人は英会話が下手だ。大学まで含めれば10年間も英語をやることになるのに、まともに話せる人間がほとんどいない。だから、早期からオーラルを取り入れて、こちらを中心に展開することで、英語によるコミュニケーション能力をどんどんと高める必要があるというのが、小学校への英語教育導入の主張になるんだろうけど。

これ、やってみたらいい。どうなるか?想定される結果はこうなる。まあ、ある程度日本人は英語を話せるようになるだろう。ただし、それは「とりあえずコミュニケーションができる程度」というところにとどまる(ただし、ほとんど使いものにならない程度に)。立ち入った話、突っ込んだ話なんてのは先ずムリだろう。なぜか?理由は二つある。そのひとつは教える側のインフラが整備されていないから。つまり、教える側がまともに英語が喋れない(これ、あまり語られていないが、実は大問題)。こういった人材が教えたところでいくつかのシチュエーション、つまり簡単な挨拶や、やりとりに対応するコミュニケーションが可能になる程度が関の山だろう。

しかし、もっと問題なのは、小学校からオーラルをやったとしても、現状と同様、圧倒的に学習時間が短いことにはなんらかわりがないことだ。英会話の学習はパターンを身体化すること。つまり、シチュエーションに応じたコミュニケーションパターンを何度となく様々な場面で繰り返し、条件反射的に対応できるようになることで習得される。ところが、現在の教育も、導入が計画されている小学校への英語教育も、この繰り返し学習が決定的に欠けているという点では同じ。いいかえれば、少しずつしか学習せず、次の学習項目に進んでしまう。だから、結局、生きた英語として馴染むことがないのだ。

ネイティブの子どもたちの英会話勉強量はハンパない!

これにカウンターをあてるような議論が「ネイティブの子どもたちは小さな頃から英語を学んでいるので使いこなすことができる。だから日本の子どもたちにもやらせればいい」というもの。だが、このロジックは完全に間違っている。というのもネイティブたちはベラボーな量の英語学習をしているからだ。なんのことはない、起きているときは全て英語なのだから、一日中が英会話の時間。ということは小学校に英会話を導入したところで、一日一時間くらいしか学習出来ない。しかもマンツーマンではないので、効率はきわめて悪い。こりゃ、ムリというわけだ。

前述したように、学習というのは、基本的に「繰り返し」だ。同じパターンを何度も何度も繰り返す中で、そのパターンが身体化していく、これが学習の基本。ただし、この「同じパターン」というのは、ただ単にまったく同じというわけではない。そうではなくて、そのパターンを実生活の様々な文脈の中に流し込んで運用する、これが学習の基本なのだ。これはわれわれの日常的な学習過程を振り返ってみれば簡単にわかる。例えば新しい言葉=単語(日本語)が出現したとき、はじめのうちはその運用がまったくわからない。ところが、これを何度となく様々なシチュエーションで用いることで、だんだんとその単語のコアイメージが形成され、最終的に身体化し、感覚的に、そして適切に運用することができるようになる。

英語にしたところで、これまたまったく同様で、とにかくあっちこっちで使ってみないと「生きた英語」にはならない。言葉というのは「単語とその意味」から構成されているのではなくて「言霊」、つまり言葉についての経験によって培われているからだ。ネイティブの子どもたちは、英語漬けの環境の中、こういったパターン学習=ロールプレイイング、単語を文脈に流して使う作業を延々やり続けているというわけだ(ということは、日本人が手っ取り早く英語を話せるようになるためには、英語圏に向かい、そこでもっぱら英語だけの環境に自らを置き、「英語漬け」になってパターンを身体化すればいいわけだ。僕の教え子の一人に、たった一年海外で暮らしただけであっと言う間にTOEICがほぼ満点になってしまった女性がいたが、この教え子の場合、英会話学校、友達(そして恋人?)にいたるまで全てがネイティブだけの環境だったのだ。つまり完全な”英語漬け”)。いいかえれば小学校に英語教育を取り入れたところで「多勢に無勢」「付け焼き刃」の域を出ないという点では現状の中学から始まる英語教育と何ら変わるところはないのである。

英語嫌い拡大再生産のメカニズム

現状の英語教育、そしてこれから設置されるであろう英語教育は、上記のような教育システムゆえ、共通した困難を生徒たちに与えることになる。それは……「英語嫌い」だ。繰り返すようだが英語は数学同様、基本の上に初めて応用が乗っかるという科目。「社会」のような、コア部分が習得されていなくても、そこだけ覚えておけばなんとかなるという「暗記科目」とは基本的に構造が異なったものだ。ところが日本の英語教育は一貫して「身体化をせず、新しい項目を次々と課題として学習させる」というやり方を採用している。ということは、土台ができていないうちに上物を建てることになるわけで、あたりまえの話だが、これじゃあまともに学習項目が身につかない。にもかかわらず、その上物はさらに二階部分、三階部分を上に積んでいくことがノルマとなる。ところが、土台ができていないのだから、これはその都度構築物が崩れてしまうという事態を必然的に結果する。でも、これじゃあまさに「シーシュポスの神話」。やってもやっても効果がないのに、ひたすらやらされることになるわけで、やらされる方としてはたまったもんじゃあない。つまり、まったく実りがない。そこで、英語嫌いが発生する。

僕の教える大学は偏差値50ギリギリといったところなのだが、こういった「英語教育の被害者」が多数集結している。とにかく彼らは英語が嫌い。授業で英語の話をしようものなら、ほとんどフリーズしてしまうくらい。だが、それは「英語それ自体が嫌い」というわけではない。前述したように、英語にはそれにまつわるトラウマ化した苦い経験、つまり「やってもやっても効果がないのでウンザリし疎外感を感じる」が付着しており(これが彼らの偏差値アップを阻害していたのだけれど)、英語の話をするとそのことがフィードバックされるから、結果として「英語嫌い」になっただけなのだ。

僕は自分のゼミ生を毎年タイに連れて行き、フィールドワークをやらせているのだけれど、彼らにはトータルで100語くらいのタイ語を教えることにしている(その半分は食べ物の名前)。で、現地でこれを使ってもらうのだけれど、実際に使ってみると、思いのほかタイ人に意思疎通ができることを発見する。もとよりタイ人の方も日本人がタイ語を喋るなんてことは期待していないので、そんなシチュエーションでタイ語を使うとタイ人たちの反応もガラッと変わってフレンドリーになってくる。そのことがすごく楽しくて、結局、彼らはハマったようにその少ない単語を使いまくり、さらにはいくつか新しい言葉を覚えたりもする。彼らはわずかなタイ語のボキャブラリーしか持っていないし、文法も知らないのだけれど、そのコアイメージを現場のシチュエーションの中で繰り返し使ううちに身体化し、多少なりとも「言霊」化したのだ。

そのうちの学生の一人が僕にこう語ったことがある。

「タイ語はちょっとしかやっていなくても楽しく使えるのに、なぜあんなに勉強している英語ができないんでしょう。しかもつまらないし。」

僕は即座にこう答えた
「英語もタイ語も同じだよ。君が英語ができなくて、しかもつまらなく感じるのは、英語のせいじゃなくて英語教育のせい。つまり英語それ自体じゃなくて英語にまつわる君の苦い思い出のせいなんだよ。学校教育を怨め!」

で、これを認識した学生、つまり英語を学ぶことがタイ語を学ぶのとまったく同じことであると理解した学生に英語をあらためて教えると、俄然、英語が楽しいものになってしまったのだ。

要するに、英語教育の構造自体が英語嫌い、そして英語力低下を生んでいることになるのだけれど、小学校への英語教育の導入はその構造的問題、つまり「学習を細分化、分散化させ、学習の密度を下げる」という問題点を振り返ることなく、ただいたずらにコマ数を増やすという方法を採用しようとしている。それはいっそうの細分化、分散化に他ならず、たどり着く先は「英語嫌い」のいっそうの増加ということにならないだろうか。

いや、それだけではない。英語教育の小学校への導入は、この構造をさらに悪化させ、子どもたちの学力全体のいっそうの低下を引き起こす要因すらある。では、それは何か?(続く)

ネット選挙は選挙への関心を高めることはなかった

今回の参議院選挙で注目されたのは、ご存知のようにネット選挙だ。もちろん「ネット選挙」と言っても、インターネットによる投票が可能になったわけではなく、選挙期間中、インターネットを利用した選挙運動が可能になっただけに過ぎないのだけれど。基本的に期待されたのは、ネットによって候補者の主張を有権者が入手しやすくなり、それが選挙への関心へと繋がる、とりわけネットに親和性の高い若年層の投票率が伸びるというものだった。

しかしながら、フタを開けてみればそんなことは全くなかった。いや、それどころかむしろ投票率は低下した。もちろん、その原因にネット選挙があるとはいうことではないだろうが、少なくともネット選挙が投票率、選挙への関心を惹起する作用がなかったこと。これだけははっきりしたといえるだろう。

ネット選挙への、この過剰な期待はメディア論的にはまったくもって的外れなことは選挙前に本ブログで指摘しておいた(「ネット選挙で投票率は上がりません!」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/archive/2013/7/19)。また、この時点で僕は投票率が下がること、それによって自民党と公明党、共産党が躍進し、民主党が大敗することも指摘しておいた。そして、これは完全に正解だった。……ただし、だからといって僕の予測が優れていたとは決して言わない。投票率が低ければ必ず投票に行く層、つまり組織票を持つ党が勝利するのは当然だからだ(今回メディアの当落予想がほとんど当たったのも、こういった事情によるのではなかろうか。つまり、誰でもちょっと冷静に考えれば当てられるほど予測がきわめて簡単だった)。いいかえれば、ネット選挙には選挙への関心を掘り起こす効果がまったくといってよいほどなかったのだ。

山本太郎のプッシュ&プル戦術は「鬼に金棒」

ただし、ネット選挙が変革を起こしていないかと言えば、必ずしもそうではないだろう。多少なりとも地殻変動を起こしていると考えることも可能だ。ただし、それは政治に関心のない層=投票に行かない層を掘り起こすというのではなく、既存の投票に行く層の投票行動変化を起こさせたという点で。そして、そのうちの無党派層を取りこむというかたちで。いいかえればネット選挙は「椅子取りゲームの秘策」としての機能を果たしたのだ。

その典型例として、ここで取り上げたいのは東京選挙区の山本太郎だ。そこで山本の例をを同選挙区で落選した鈴木寛との比較で考えてみよう。二人とも積極的にネット選挙を展開したが、前者は当選、後者は落選した。じゃあ、なぜ山本は当選し鈴木は落選したのか。前者は政治経験ナシのズブの素人、後者は文部科学副大臣という経歴、高校無償化、原発問題への迅速な対応といった業績があるというのに。一般的には、当然ながら鈴木が勝ちのはずなのだが。

その理由は意外と単純なところにあると、僕は考えている。まず山本はタレントとして抜群の知名度を誇ったこと。それゆえネット選挙をやった場合、その知名度ゆえに有権者が容易に関心を持ち山本のサイトにアクセスするというプル要因が発生する。また反原発という、ほとんど一つの主張で選挙を展開したことも有権者のイメージを明確化させ関心を惹きつけることに成功している。だが、これらはさしあたりネット選挙とは関係がない。むしろ、どちらかといえばマスメディアを通じて認知されたプッシュ的な要因だ(※メディアの「プッシュ機能」と「プル機能」の詳細については前述した「ネット選挙で投票率は上がりません!」で展開しているのでそちらをご参照願いたい)。

これに山本の場合、ネットを上手く活用するという要因が働いた。つまりオフィシャルサイトで訴え、ツイートし、リツイートされ、YouTubeに動画がアップされ(これは山本ではなく有権者が勝手にアップした)というかたちで、前述のプッシュ要因に触発された有権者たちが勝手にアクセスし、また拡散した。ようするに「祭り」を展開したのだ。これで、無党派層が煽られた。あるいは選挙に関心がない層も多少なりとも関心を寄せたかもしれない。

一方、鈴木はそうではない。まずプッシュ要因がない。政治に関心がない層にとっては、鈴木の実績など見向きもしないというか知らないので、これらの層にはリーチしない。そこにネット戦術をかける。するとどうなるのか……いうまでもなく、プッシュされていないのだから、そもそもネット戦術に関心を寄せるきっかけすらない。また実績があっても争点がハッキリしない。厳密に言えば、ハッキリしていたとしてもプルされず、やっぱりリーチしない。当然、ネット戦術はひたすら空回り状態になる。鈴木はとっておきのプッシュ手段として楽天の三木谷浩史を応援団に担ぎ出したが、これ自体はネット選挙とは関係ないベタな選挙戦術の一つでしかないので、新味がない。やはり有権者の関心を煽ることはなかったのだ。

あらためて山本と鈴木をまとめてみよう。山本の場合「鬼に金棒」という表現がピッタリだ。つまり、知名度、反原発のみのスローガンというプッシュ=鬼に、巧みなネット戦術(こちらも争点が結局、反原発に収斂した)というプル=金棒がセットになって投票意欲のある無党派層を獲得した。一方、鈴木の場合は「鬼に金棒」ならぬ「人間に竹刀」程度。まず、知名度が圧倒的に低いゆえプッシュ要因が弱い。さらに民主党内の公認をめぐってのゴタゴタというネガティブなプッシュ要因もあった。そして焦点が山本ほどハッキリしておらず(これは鈴木自身がハッキリしていないというのではなく、山本の一本調子に比べると見劣りするという意味だ)、比較的普通な展開でこちらもプッシュ力が弱い。こうなると、たとえ山本と同様のネット選挙を展開したところで、それは「金棒」ではなく、ようするにせいぜい「竹刀」程度の効果しか期待できない。そして、その竹刀には前述したようにプッシュ機能がないためにひたすら空振りとなったのである。

ネット選挙が示したマタイ効果

今回のネット選挙における山本太郎と鈴木寛のコントラスト。実は現状でのネット選挙の特性を如実に示したものと僕は考える。それは一言で表現すれば「マタイ効果」、つまり「富めるものはより富み、貧しいものはより貧困に」という事態だ。要するに現在のネット選挙それ自体は有権者の関心を煽る効果がきわめて薄い。そのことは、今回の投票率の低さがある意味証明したといえいる。ただし、プッシュを持っている側、そしてネットを操作する術に長ける側にとっては強力なアドバンテージになる。山本は知名度、そして反原発というミニマリズム的なプッシュを持ったお陰で、多くの投票意志のある無党派層をプルさせる、つまりネットにアクセスすることを可能にした。いいかえれば山本は選挙におけるメディア利用のエキスパートだったのだ(ちなみに同様の資質、つまりタレントという有名性を備えていたにもかかわらずダメだったのは、やはり同選挙区だった桐島ローランドだった。知名度が山本より低く、ワンフレーズの主張もなく、そしてネット選挙にも長けていなかった)。

ようするに、ネット自体は現状では客寄せのための必要条件となる機能がきわめて弱いことになる。だが、山本のように必要条件を備えている候補者がネット戦術を十分条件として利用したとき、これは強力なツールとなると言うことなのだ。だから必要条件を揃えていない鈴木のネット戦術は機能しなかった(桐島は弱い必要条件しかなく、かつ十分条件はまったくダメだった)。

だが、よく考えてみればネットのこういった特性は選挙という項目だけにとどまらないだろう。例えばブログ。多くのアクセスを確保できるのは有名人に限られ、一般人がそれを可能とする場合には、それ相当のメディアリテラシー=ブログリテラシーを備えていなければならない。これはSNSや一般のウェブサイトについてもまったく同様だ。いいかえればネットの効果はあくまで十分条件として、つまりプル的な要因としてしか、現状では機能することが難しいのである。

新しいメディアが出現する際に繰り返される「同じこと」

こういった、今回のネット選挙をめぐる「空騒ぎ」。メディア論的視点から見れば「あいかわらず」という言葉がしっくりとくる。

新しいメディアが出現する際、必ず発生する議論。それは「技術決定論」に基づく二つの見解だ。技術決定論とは「技術が社会を規定する」という考え方。つまり、新しい技術が出現すると、その技術の特性に基づいて人間の行動様式が変容し、社会も変化していくという考え方だ。その際、その変化の有り様について最初に想定されるのが、きわめて肯定的なものか否定的なもののどちらかになる。肯定的なものは、いわば「カーゴ信仰」的なとらえ方。新しい技術がわれわれの生活を快適な方向に導いてくれるというものだ。一方、否定的なそれは、新しい技術によって人心が乱れ社会がおかしくなっていくというものだ。例えば60年代のテレビの普及時、テレビは当初床の間に置かれていた。床の間に置かれるものは我が家の「お宝」、つまり「すばらしいもの」「何かを実現してくれるもの」だ。その一方で、テレビのブラウン管に装着するフィルターもバカ売れした。これは「そこから発せられるものが目に危険」、つまり「アブナイもの」だ。だが次第にテレビは床の間から外され、フィルターも売れなくなった。技術決定論的な呪縛が外れ、テレビというメディアを等身大で相対化してみることができるようなったからだ。そして、テレビは最終的にこういった当初とはまったく異なる認識で現在認知されるようになっている。

現在、ネット選挙についての議論は、まさに新しいメディアが導入された際に沸き起こるこの技術決定論的な文脈にある。しかもその多くが肯定的なもの、つまりカーゴ信仰的なものとしてネット選挙を捉えている。

しかし、最終的にメディアは様々な要素が折り重なって、当初の技術が想定したものとは異なるかたちで定着、浸透する。だから肯定的な議論も否定的な議論も、それ自体では間違っている。ということは、今後ネット選挙が普及し、その機能が相対化、定着した際には、まったく異なった認識のされ方、利用のされ方がなされていると考えるのが妥当だろう。

ということは、現在のネット選挙をめぐる議論、数年後には「ああ、あんなふうにしか当時は考えられなかったんだなぁ」、そして「今回のネット選挙で、その機能を最もクリアカットに示した出来事が山本太郎の当選だったんだなぁ」と考えるようになっているのではなかろうか。僕はそう考えている。

典型的な「箱物行政」の末路

大学内でのインターネットを用いた情報管理システムの多くがまともに機能しないことについてお伝えしている。前回はレポート管理がネットを使うことによってむしろ煩雑になること、学内Wi-Fiシステムがほとんど使われていない状況などについてお知らせした。ようする、膨大な手間と費用をかけて設備を準備したところで、宝の持ち腐れとなっているというのが現状なのだ。

こうなってしまう原因は簡単。大学という機関が競争原理に晒されることなく、体制迎合的、後追い的にしか社会に適応してこなかったためだ(もはやほとんどの大学はこんなことをやっている場合ではないのだけれど、見事な「鈍感力」で築かない)。いいかえれば、先ずはじめに「大学の古い体質」があり、こういった情報システムの無駄遣いは、大学の箱物行政の象徴的事例といえる。

具体的に示してみよう。社会全般が情報管理システムを組織に導入する。そしてそのためにインターネットを活用するようになる。すると、大学側は「ウチもやっておかなければマズイだろう」ということになり、重い腰を上げる。ところが、こういった体制迎合的な考えしかないので、理念、つまり何の目的のためにこれをやろうとするかについての動機が全くない。でも、やらなきゃならないと考える。すると、そこに謀ったかのようにのようにシステムインテグレータが登場する。で、「おたくのシステム請け負いますよ!」ってな感じで、一括してこれを請け負う。大学側としては、任せておけば安心と言うことで、ほぼ一任してしまう。で、出来上がるとどうなるのかと言えば、インテグレータは既存のシステム構築で培ってきた経験のみをもとに大学情報システムを構築する。しかし、それは、いわば「絵に描いた餅」。学生が情報環境をどう使いこなすのか、教員がどう使いこなすのかについて現実的な配慮がなされていない。

もちろん、企業=システムインテグレータが構築するシステムは一般企業の情報システムには適用可能だろう。というのも、発注した企業では、社員たちにそのシステムを有無を言わさず使わせることができるからだ。なんのことはない、使わないヤツはクビにすればいいだけの話。

ところが大学ではこうはいかない。学生たちはまだ社会のルールなんか全然知らない。遅刻、欠席、提出遅れ、書類未提出なんて行為がデフォルト。一方、教員の側も同様だ。大学教員は研究生活と大学院暮らしという、きわめてクローズドな環境の中で人生を過ごしてきた人間たちの集団。ということは社会との関わりがきわめて薄い。ちょっと極端に表現すれば、ある意味「社会的不適応」といった側面を持った輩が多い。で、そんな人間たちに企業で通用しているようなシステムを提供し、これを使用するように仕向けたらどうなるか……「人権侵害」「プライバシーをなんだと思っているんだ!」「学問の自由をこういった管理システムで阻害しようというのか?」「社会人のように勤務労働制にしようとするようなたくらみの一環にこれは見える。愚の骨頂だ」みたいな感じで、たちまち火の手が上がる(ちなみに、大学教員になればわかることだが、見なし労働制なので、一般の教員とは異なり、大学教員は本人の主体的な意識がなければ研究も教育も、学内行政もやらなくても済んでしまう。つまりほとんどヒマな毎日が続くのだけれど)。

これで、システムインテグレータの提供したシステムは「絵に描いた餅」になるわけだ。もっとも、そんなことであってもインテグレータの方としては気にする必要がないという側面もある。とにかく、契約すれば、その後のメインテナンスも委ねられることになり、お客(学生、教員)が来ようが来まいが、メインテナンス料金を大学側から定期的に受け取ることができるわけで。で、結局、ほとんど使われないシステムが、ひたすら動き続けるという「清のラストエンペラー=溥儀がいた紫禁城の中で毎日行われる、誰も見ない行事」的な状況が続くのだ。

セキュリティに対する認識の必要性

また、ヘンなところにもこだわるところも大学組織の情報システムがうまく稼働しなくなる原因となる。その典型が前回挙げておいたWi-Fiシステムだ。ログイン必要、一定時間利用しないとログアウトされてしまう。ルーターのアクセスポイントを移動するたびに再ログインを要求してくるなんていう、ややこしい状態になるために、学生や教員たちがスマホのWi-Fiシステムを切ってしまうのだが、こういった「使えなくなるシステム」を用意する背景には「セキュリティ」についての過剰な反応がある。

大学にも、もちろんセキュリティをしっかりと用意しなければならない情報は多々ある。だから、二重三重にロックするというわけなのだけれど、はたしてそのセキュリティはどれについて、どこまでやるべきかということについてほとんど考慮されていないのだ。

セキュリティに関するリスクというのは、ようするに「どこに線を引くか」で全てが決定する。わかりやすく説明しよう。もし、あなたが交通事故に遭遇したくなければどうすればいいのか。歩道を歩く、自動車を運転しない、極力歩道橋を利用するなんて方法が考えられる。しかし、それでも事故に遭遇する可能性が0%になることはない。いや、たったひとつだけ可能性をゼロにする方法がある……それは「家から出なければいい」のだ(もちろん平屋だったら家にトラックが突っ込んでくる可能性がないとは言えないので、これとて0%ににはならないのだけれど)。しかし、こういった可能性を徹底的に減少させることは、言い換えれば「社会生活をしない」ということと、ほとんどイコールになる。だから、社会生活をちゃんとするためには、リスクを抱え込むことを快しとしなければならない。もちろん、自己責任において。だからこそ「どこに線を引くか」、いいかえれば「腹を括るか」が問題となる。

大学の情報システムの構築は、まさにこういったリスクの徹底回避的立ち位置での設計が施されている。それは言い換えれば堅固なセキュリティを用意した結果、機能しない状態。こうなるのは、要するに何かを機能させるよりも「責任回避、自己防衛」と言った認識が先に立っているからに他ならない。だから動かないし、そうはいっても社会的責任?として情報システムは用意しなければならないので、アリバイ的情報システムを組む。その結果、うまい汁のすするのはシステムインテグレータだけということになる。ちなみに、一番損をするのは、このシステム構築のための膨大な費用を捻出している人間たち。そう、学費を支払っている大学生の親なのだ。

はじめに「何をしたいのか」ありきであって、情報システムがあるのではない

もちろん、こういった「お役所的」な箱物行政的なやり方ではなく、情報システムを適切かつ積極的に利用している大学もある(たとえばSFCなどはその典型)が、大学の多くは、ここで紹介したような状況だろう。

でも、これじゃあいくらなんでもだろう。もう少しフレキシブルな環境を用意して、大学運営の効率化、教育環境の柔術に役立てるような手立てを考えるべきだ。

たとえば、前述したWi-Fiシステムの問題。こんなものはとっとと仰々しいセキュリティを外してしまえばよいだけの話なのだ。もちろん、ただ外したのではさすがに危険。だから、どこにセキュリティを徹底的にかけるべきか、どこにかけないべきか、そしてどちらにすることで情報システムが最適化できるのかについての考察を行うべきなのだ(多分、現在のような厳重なシステムを用意することが必要となるような情報など、実は大学にはほとんどないと思うけれど)。それは、言い換えれば、どこまで大学側が責任を持てるのかについての議論にももちろんなるのだが。現状ではこういった「何のために必要か」という考察がなされず、「企業秘密」といったレベルでのセキュリティが引かれているという状態なのだ。

また、成績や学生管理、さらに加えればウェブサイト=オフィシャルサイト運営などのシステム構築についても、もっと効率的な方法を考慮すべき。これらは現状では大学サイトは「学生が最もアクセスする動機が働かない」場所。勉強、お仕事といった「必要」以外には用のないところであるし、だいいち使いもしないメルアドでアクセスするなんてバカらしい(学生の多くが大学から支給されたメルアドをちゃんと覚えていない。まあ、だからそれを察して学籍番号にしているのだけれど……それでも使わないし、覚えられないのが学生だ)。また、そんなサイトを膨大な費用をかけて構築するのもカネのムダだろう。

成績管理などについては、心配ならばネットから外してしまうか、まったく独立したシステムを用意すれば解決するだろう。学生側にはレポート提出は直接授業で(定期試験はもちろん教室で)、成績付けについては前述したように独自のシステムを用意してそちらで教員が入力する。使えるところと使えないところに対する吟味も、もちろん必要だ。

また、オフィシャルサイトなども、もっと簡略化してもいい。たとえばプッシュ機能を高めるためにFacebook上にオフィシャルサイトを展開するという方法もあるだろう。これについては佐賀県の武雄市市役所のオフィシャルサイトがFacebookに移行した例があるが、これによって市民(そしてそれ以外のネットユーザー)がよりアクセスが容易になり、さらにサイト構築のための経費も大幅に削減されている。大学もこれくらいのフレキシビリティが欲しいところだ。

と、実質的にはまともに機能していない、大学のインターネットを利用した情報システムの現状についてお伝えした。で、これについては前述したように、実は大学という教育機関の現状の体質を象徴した事態と考えることもできる。つまり、自らは新しい方向に梶を向けようとしない。でも、実はこういった大学教育、大学機関の停滞状況が、日本社会の停滞状況を招いている一因ともなっているのではないか?個人的には民間活力を利用し、競争原理を導入したような大学組織の再編が必要だと考えている。

ただし、こういったことを教員に認識させなければならないし、またこういった組織をプロデュースする人材を大学が確保しなければならないのではあるけれど(これがなかなか難しいのも事実だ)。ちなみに、僕は講義での提出物は全て現物、ゼミ生との連絡はFacebook、LINE、Evernote、Googleカレンダーを利用している。もちろん、こっちの方がはるかにお手軽に情報管理できるからだ。しかも、原則全てタダだ(Evernoteを除く)。で、個人的には、教員と大学がこれらシステムを利用すればおおよその仕事は済んでしまうと思っている。

現在、ほぼ全ての大学で、学生の管理、事務などでインターネットを利用したシステムが整備されている。大学のウェブサイトのためというのはもちろんだが、様々な事務手続き、成績付け、学生管理などもこれに含まれる。それゆえ、学生、そして教員全員に大学のドメインのついたメールアドレスが支給されている。だが、これらのシステム、どうもうまく機能しているとは言いがたい。

ネットによるレポート提出システムの不全

まず、大学の授業での運用。たとえば僕の赴任している大学ではレポートの提出等がネットを通じて可能になっている。しかし、これを実際に利用している教員は少ない。なんのことはない、使った方が不便だからだ。メールで集めようとすると、きわめて効率が悪い。学生からなかなかデータが集まらなくなってしまうのだ。むしろ「来週、集めます」と講義で連絡し、直接ハンドアウトを提出させた方が早い。顔=授業という「キャッシュ」の方が力がある。

学生たちも大学の提供するシステムを使おうとしない。たとえば、彼らがメールで最も利用するのはキャリアメールのアドレス、つまりガラケーのアドレスだ。ちなみにこれはスマホにメディア機器がシフトしても変化はない(ちなみに僕の大学での2013年7月現在のスマホ普及率は91%までに達している)。ところが、大学が要求するのは大学が支給したPCメールのアドレス。これでレポートの授受なんかをやろうとする。でも、学生たちにとってメールと言えば、前述したようにキャリアメールのこと。だからこの「PCメール」というものに馴染みがないのだ。でも、大学はこれでの提出を要求するので、彼らは渋々使用するのだけれど……とはいうものの、結局、こういったレポート提出以外には使用することがないので、いずれ使われなくなる。大学サービスとしてこのメールアドレスが永久に使えるようにするなんて制度を設けたりするところもあるけれど、実質これらが使われることは、もちろんない。

で、学生たちのやりとりは、前述したキャリアメールに加え、SNSが入り込むようになっている。最も普及しているのがLINEで、今や学生たちがお互いの連絡を取るために交換するのはキャリアメールアドレスでも電話番号でもなく、まずLINEのドメインという感じになっている。ちなみに、僕のところのゼミでは相互の連絡にずっとFacebookを使っている。写真やファイルを容易に添付できたりグループを作ることができて、使い込む側としてはこれらに頻繁にアクセスすることでFacebookがプッシュ機能を持つようになるためとにかく便利なのだ。もっとも、最近はこれも次第にオールドファッション化。ゼミの連絡もLINEでということになりつつあるようだが。

キャンパス内ではWi-Fi機能をオフにする!

もう一つ、大学が学生や教員のために準備しているが機能していないものがある。それは学内のWi-Fiだ。学生の利便を図ってキャンパス内ではWi-Fi環境が整備されつつある。ところがこれも意外と使われていない。使用にあたっては先ずログインしなければならない。つまり使用者の限定だ。そして、さらに一定期間以上(例えば30分)使用していないと自動的にログアウトしてしまうので、あらためて使用するためには再ログインということになるなんてのが一般的だ。でも、さすがにこれじゃあ、やりづらい。中にはアクセスポイントが移動するたびにログアウトし、その都度ログインし直しなんてところもある(しかも、入力フォームが保存できないようになっていたりもする)。で、結局、学内でWi-Fiを接続するのはうざったいということになり、学生たちは大学にやって来た瞬間、Wi-Fi機能をオフにしてしまう。そのほうがいちいちWi-Fiにアクセスしに行かないのでかえって早いし、バッテリーの消費を抑える効果もあるからだ。僕の研究室内も大学のWi-Fiが飛んでいるのだけれど、これを使わず、研究室に設置したWi-Fiルーターでアクセスしているという状態だ(ゼミ生たちは、こっちの方が便利なのでネットをやりに研究室へやってくる)。

 こうなってしまうのは大学の側がセキュリティについて敏感になっているからという事情がある。つまり、むやみやたらと内部情報が外部に漏れてしまってはまずい。だから、こうやって様々な制限をかけるというわけだ。しかし、これが結果として裏目に出ていることは間違いないだろう。つまりネットのシステムの用意をしたのはよいが、セキュリティのことを考えると、こういった制限をかけざるを得ない。だが、それが結果として学生や教員の学内Wi-Fiシステムの利用を躊躇させることになるのだ。このシステム整備のために膨大な経費をかけていることを考えれば、まさに無駄遣い以外の何物でもない。

でも、何で多くの大学が、こんなマヌケな使い方をしてしまうのだろう?次回はその原因と処方箋について考えてみたい。(続く)

ネット選挙解禁?

21日は参議院選挙投票日。今回、話題になっているのがネット選挙の解禁だ。これでもって候補者の主張がネットを通じてダイレクトに伝わり、投票率、とりわけ若年層のそれが上昇することが期待されている。で、例によってテレビもこの文脈で選挙を煽っているのだけれど……残念ながらメディア論的に考えた場合、今回のこの「ネット選挙」でも投票率が上がることはまったくもって期待できない。良くて通常通りの50%後半、ただし6月の都議会議員選挙の低投票率(過去二番目の低さ)ということを鑑みれば、もっと悪くなるかもしれない。まあ、すくなくとも前回(57.9%、2010年)を上回ることはないと見た。

毎日新聞と立命館によるTwitter調査は、掘る穴を間違えている
僕と同じような議論、つまりネット選挙に疑問を呈している世論はある。その典型が毎日新聞と立命館大学が合同で行ったTwitter上の選挙に関するツイートの分析だ。ここでは候補者とTwitter利用者が今回の選挙についてツイートした単語の数を比較している。それによれば候補者が多くつぶやいたのが演説、選挙、駅、街頭。一方、有権者=Twitter利用者は日本、憲法、原発、TPPといった具合。つまり候補者が発したいコンテンツと有権者が欲している情報がかみ合っていないことが指摘されている。毎日が展開した記事はここまでだが、要するにこれは「候補者と有権者のニーズがかみ合っていないからネット選挙がうまく機能しない」という立ち位置に言外に含まれているとみた。ということは、両者のニーズがかみ合えばネット選挙は投票率の上昇に繋がるという文脈になる。

この調査に代表される、ネット選挙に関する世論。しかし、メディア論的に考えると、分析の場所=掘る穴がまったく間違っている。言い換えれば、メディア論的には「候補者と有権者のニーズがかみ合ったところでネット選挙は投票率に影響を及ぼさない」となる。なぜか。

プッシュ・メディアとプル・メディア

すでによく知られている用語だがメディアは大きく二つに分類することができる。「プッシュ・メディア」と「プル・メディア」だ。プッシュ・メディアは受け手が情報に自ら主体的アクセスすることなく、メディアの方から情報をプッシュ=提供してくるメディアをさす。典型的なのはスタジオアルタの掲示板で、新宿駅東口駅前で待ち合わせをしていれば、情報が勝手にこちらに入ってくる。またスマホのプッシュ機能も「お知らせしてくれる」ので、これに入る。テレビをつけっぱなしにしてダラダラと見ていると、知らないうちに情報が頭の中に入ってくるなんてのもテレビのプッシュ性だ(ただし、これらは一般的な傾向で、受け手の状況に応じてメディアはプッシュにもプルにもなる)。一方、プル・メディアは受け手が任意に情報にアクセスに行くメディアだ。つまり、情報を知りたいので、そのメディアに向かう。Googleで情報調べをするなんてのがその典型だ。当然、こちらは任意で情報にアクセスするのでプッシュ・メディアよりアクセスする側の主体性・任意性が高くなる。

インターネットは原則プル・メディアに位置づけられる(YouTubeをヒマつぶしにダラダラと見ているような場合は、これには該当しないけれど)。つまりインターネットアクセスのためのディバイスを開き、必要なサイトにアクセスし、必要な情報を引き出す。ということは、その情報が掲載されているサイトにアクセスに行く前に、受け手は先ず何らかの情報を知ろうとするモチベーションがなければならない。

宮崎県知事選挙で有権者がそのまんま東のサイトにアクセスしたのはサイトが魅力的だったからではない

選挙でウェブサイトがうまく機能した例をひとつあげよう。それは2007年1月に行われた宮崎県知事選挙だ。この選挙で泡沫候補と呼ばれたそのまんま東(後に東国原英夫)が圧勝する。これには様々な要因があるが、そのひとつとして東がサイトでマニフェストを公開したことがあげられる。つまり、公示前にオフィシャルサイトで県知事候補としては初めてといってもいいマニフェスト公開を行ったのだ(当然だが、選挙期間中はサイト更新がストップしている)。

ただし、これが功を奏したのは東のマニフェストが有権者のニーズに応えたからというわけでは、必ずしもない。つまり東のニーズと宮崎県民のニーズが合致したというのではない(後に東自身もコメントしているように、 よく見てみれば、このマニフェストも結構イイカゲンだった)。そうではなくて、たけし軍団で宮崎出身のそのまんま東というタレントが立候補したということに有権者は関心を持ったのだ。つまり、サイトが魅力的だったのではなく東という存在が魅力的(=関心を惹起する)だったのであり、こういったプッシュ要因が、結果として東のサイトに人々を向かわせた=プルさせたのだ。だが、これはいいかえればサイトそれ自体では関心を惹起するとことはないということになる。これがプル・メディアの宿命なのだ。プルメディアはまずアクセスする側に動機がなければならない、これが前提となる。

これとまったく同じ図式が今回のネット選挙にも該当する。つまり、どんなに有権者のニーズに沿ったサイトを構築したところで、そもそも候補者のサイトにアクセスする動機=プッシュ要因がないのだから、そこにアクセス=プルすることはないということになる。いいかえれば毎日新聞+立命館の分析に典型的に見られるような世論が展開している今回のネット選挙に関する議論は完全に的が外れている。インターネットは有権者に政治的な関心をかきたてるカーゴでは決してないのである。

ネット選挙は、やっぱりネット投票のこと!

じゃあ、ネット選挙が投票率をアップさせる可能性は全くないのか?といえば、「いや、そうでもない」と考えることはできる。ただし、まったく別の視点から考えればの話だが。それは、現在まだ実施されていない「ネット投票」を実施することだ。現在の投票システムは投票所に有権者が出向いて投票するというもの。当日投票が難しい有権者のために期日前投票が準備されているが、これとて役所に出向いていかなければならない。つまり「面倒くさい」のである。これがプル要因を阻害する。あるいは選挙に向かうことを躊躇させる。つまり「自分は必ず選挙に行く」と決めている層(公明党・共産党の支持者や自民党の一部の有権者が典型)はともかく、「まあ、選挙に行ってもいいかな?」と軽く思っている層は、天候が悪くなったり、別の用事ができたり、あるいはただただ単に「面倒くさいなあ」と思ったりすると、これが投票に向かうのを止める方のプッシュ要因となり、投票所に向かうことを思いとどまらせてしまう(ということは、今回の選挙結果はすでに見えているということでもある。自民党の圧勝、公明党、共産党の躍進、維新が以外にダメ、民主党が大敗北。でねじれ国会は解消する)。

ところが、ネット投票ともなると、こういった、いわば「ライト有権者」たちもまた投票しようというプル要因が現れる。なんのことはない、投票所に出向くという「面倒くさい」作業が取り払われるからだ。だから、ネット投票すれば当然ながら投票率が上がることになる。ただし、それはやっぱりネットが政治への関心を惹起したからというわけではない。これまで取りこぼしていた有権者をインターネットというシステムによってすくい取ることが可能になるだけだ。とりわけ若年層がこれに該当するだろう。

で、この場合、政党の構成がかなりかわるだろう。「出向く」までの動機がない有権者を取りこむということは、いわゆる「浮動票」「無党派層」の投票率を高めることに繋がる。だから、もう少し政党勢力がばらつくだろう。そして選挙に「プル」な集団が有権者の中心である共産党や公明党の議席数が減少する。

結局、ネットは政治的関心を高めない

ただし、ネット投票による投票率のアップは、底引き網に例えれば網の目が細かくなり、小魚まですくえるようになるだけのこと。ということは、たとえネット投票が実施されたとしても、くどいようだが政治への関心それ自体を惹起するわけではないので、当初こそ、こういった「面倒くさがり」の有権者を確保することはできるが、やはり現在の政治への無関心がそのまま進む限り、また投票率は漸減していく。

政治に対する関心を高めるためには、もっと別のところを掘っていく必要がある。つまり、有権者の政治的関心をあおり立てるようなプッシュ的な要因を探し当てる必要がある。そして、それはインターネットそれ自体には決して存在しない。少なくとも現状においては。

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