勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2013年06月

NHK朝の連続テレビドラマ小説「あまちゃん」の魅力はテーマパーク消費、つまり空間的設定=ジャンルの統一、時間的設定=物語性という二重のテーマ性をハイパーリアルに楽しんでしまうところにある。前回は空間的設定について触れた。今回は時間的設定、つまり物語の側面について考えてみたい。

時間軸=物語としてもテーマ性が貫かれている。中でも徹底して行われているのが、番組の中に登場する「80年代アイドルシーン」の物語だ。

「80年代テーマパーク」的要素がいっぱい

とはいうものの時間軸からではなく、まず空間的なテーマ性を確認しておこう。番組の中では頻繁に春子(小泉今日子)がアイドルを目指した80年代半ばのシーンが登場する。上京した若き春子(有村架純)がバイトするのはベタに80年代的な喫茶店であるし(コーヒーを淹れるマシンは当時の主流の一つだったサイフォンだ)、応募したタレントスカウト番組番組「君でもスターだよ!」は「君こそスターだ!」という70年代に放送された番組を雛形にしたものだ(番組の中で展開される80年代アイドルシーンは、そのままというよりも70年代後半から80年代前半全般が舞台となっている。たとえば「君こそスターだ!」は80年に番組を終了しているが、ドラマの中では84年だ)。

そして、ここにアイドルを目指す架構の若者・春子が挿入される。彼女は当時絶対アイドルであった松田聖子を真似て、髪型をいわゆる「聖子ちゃんカット」にしている。そして「君でもスターだよ!」に出演、見事グランプリを獲得するのだが、時代はおニャン子クラブのような素人アイドルが受ける時代に移行してしまい、プロらしさを目指す春子は時代遅れで、その夢が絶たれてしまう。

80年代アイドルシーンというテーマ=物語設定に欠けている二つ

そして、この春子と80年代の絡みが実に「いわれ」に満ちたハイパーリアリティを形成しているのだ。注意深く見てみると、この番組が描く80年代アイドルシーンの中にはホンモノのそれとは決定的に異なるものがある。それは当時のアイドルが、ドラマが指摘していたような、おニャン子クラブに代表される「素人主導の時代」一辺倒というわけでは必ずしもなかったことだ。79年に松田聖子がデビューし山口百恵の後継(ただし「時代と寝た女」から「時代に添い寝した女」とその位置づけは変わる)が決定した後、松田聖子の二番煎じ的なアイドルもまた登場している。実際、これらタレントの多くが聖子ちゃんカットだった(完全にパクリの「聖子ちゃんズ」という三人組ユニットまであった)。また、映画からも女性アイドルが登場してもいる。この「後続世代」、そして「銀幕アイドル」の存在がドラマの80年代アイドルシーンから全て外されているのだ。なぜか。

理由は簡単だ。前者の代表が小泉今日子であり(中森明菜も含まれる。二人ともデビュー当初は聖子ちゃんカットだった)、後者の代表が薬師丸ひろ子だからだ(薬師丸は角川春樹事務所が生んだ銀幕アイドル。この後に原田知世、渡辺典子が続いた)。この二人もまた、松田聖子と並んで80年代(薬師丸は70年代後半から)を代表するアイドルであったのは周知のこと。そして、なんとこの二人が朝ドラ「あまちゃん」を彩るきわめて重要なキャラクターを演じている。しかも、番組の中では本当の80年代アイドルシーンからは欠けている二つの要素を別の形で番組の中で再現しているのだ。つまり当の本人二人が、ヴァーチャル80年代でのもう一人の自分を演じているのである。

「潮騒のメモリー」は80年代アイドルシーンのすし詰め

その究極は春子が歌うシーン。春子はスナック梨明日で仲間たちに促されて80年代のアイドル映画のテーマソング「潮騒のメモリー」を歌うのだが、この曲はどうみても松本隆+筒美京平による一連の松田聖子ソングをごった煮にしたものだ。この曲から松田の「スイートメモリーズ」「小麦色のマーメイド」「赤いスイートピー」といった曲を思い浮かべるのは40代以上なら容易だろう(タイトルにはメモリーがあり、歌詞の中にもマーメイドが登場し、サビの部分は赤いスイートピーのサビの”I will follow you”以下の部分を彷彿とさせるメロディーだ)。そして、この映画は山口百恵が出演した映画「潮騒」が雛形になっているし、また、そのストーリーが荒唐無稽である(内容は明らかにされていないので、本当のところどういったものかわからないが、そのような解説が施されていた)ことから、これは70年代後半~80年代、その荒唐無稽さで一世を風靡した大映テレビ室による一連の「赤いシリーズ」ドラマを彷彿とされる(赤いシリーズの主役山口百恵であり、80年代、その続編的なドラマ「少女に何が起こったか」の主役は小泉今日子だった)。この映画に出演し女優の地位を獲得したのが薬師丸ひろ子演ずる鈴鹿ひろ美だ(名前の部分の前半があえて「ひろ」とひらがなで併記し相同性を示している)。そしてドラマの中では、現在、鈴鹿ひろ美は大女優だが、薬師丸ひろ子も大女優なのである。ちなみに「潮騒のメモリー」をオリジナルで歌っているのは鈴鹿ひろ美ということになっているが、この曲は薬師丸の大ヒットを放った一連の曲のイメージ(「セーラー服と機関銃」「メインテーマ」など)もまた踏襲している。つまり小泉が歌っても、薬師丸が歌っても80年代が彷彿とされる作りになっているのだ。なんという、「いわれ」そしてリアルを踏まえたヴァーチャルの創造であることか!スゴイ!

春子が歌うシーンにはもう一つ「いわれ」が付加されている。春子が前述のオーディション番組「君でもスターだよ!」に出演して歌ったシーン。ここで歌われた曲が松田聖子の「風立ちぬ」。で、若い頃の春子役(有村)の歌うシーンをよく見ると口パクなのだが、その吹き替えをやっているのが他ならなぬ小泉今日子なのである。前述したようにデビュー当時、小泉今日子の髪型は聖子ちゃんカットだったのだけれど、ここもまた、しっかり踏襲されている。有村演じる若き日の春子は現在、ドラマの中で小泉が演じる春子の若き日であるとともに、小泉がひょっとしたら若い頃になっていたかもしれないもう一人の小泉でもあるのだ。(続く)

高級文化とポピュラー・カルチャー

ホンモノの北の海女さんが、ニセモノの海女方言「じぇじぇじぇ」を使っていることから文化について考えている。今回は後編。

われわれは文化ということばから僕らはどんなものをイメージするだろうか。おそらく文化会館とか文化庁とか文化遺産とか、まあ、そんなところではなかろうか。たとえば無形文化財といったときには歌舞伎や能の役者、陶芸師、そしてこういった人物のパフォーマンスや創り出したものが一般的には認定されている。メディア論では、こういったカテゴリーに属する文化は「高級文化」と呼ばれるカテゴリーに組み入れられている。ようするに「高尚な文化」だ。ただし、これらの多くは「保護」されるべきもの。そして、その多くが放っておくと衰退・消滅する恐れのあるものだ(まあ、だから保護されているのだけれど)。ちょっと表現はあまりよくないが、この文化は、いわば「干物」である。ややもすると、もう先がない。

だが、文化にはもう一つある。大衆文化とかポピュラーカルチャーと呼ばれるものがそれ。これは政策的に保護されることはあまりなく、むしろビジネスなどの消費社会の中で営まれる文化。それゆえ、勝手に盛り上がり、勝手に消滅する。いいかえれば記録に残りづらい文化でもある。そしてこちらは「生もの」ということになる。

北の海女はどっちだ?

さて、北の海女という文化だが、もしこれが消滅の危機に瀕していて、何らかの保護を施すようなことがあるのならば、それは「干物」であり、もはや高級文化に属することになる。あるいは何ら保護を施さなければポピュラーカルチャーの末端の一つとして知られることなく消滅するということになる。

そして、こういった分岐点の最中、北の海女にメディア=朝ドラが声をかけた。もちろんこちらはポピュラー・カルチャーからの働きかけだ。そして、ご存知のように現在大ブレーク中。ただし、本来の北の海女を高級文化的な立ち位置で捉えたら、これはメディア・イベント、つまりテレビ・メディアによる勝手なでっちあげであり、誤りであり、不謹慎なゆゆしきものものとなる。もと北の海女が「じぇじぇ」と喋るなんて許されるものではない。またポピュラー・カルチャーからの働きかけは消費文化として扱われること。だからビジネスめあてに勝手に盛り上げられ、儲からなくなれば見捨てられ、やがてやっぱり勝手に消滅する。実際、こういったメディア・イベント的な盛り上がりは、メディアのまなざしがなくなった途端(ドラマなら放送が終了したとき)、終わる。だから、こうやって勝手に盛り上げて期待させておいて、最終的に捨てられた地元はメディア・イベントを仕掛けた側をしばしば「無責任」と批判する。

自らもメディア・イベントに乗り、イベントを超越してしまうこと

これじゃあ、マッチポンプでどうにもならないわけなんだが。だが、これを回避する方法がある。実は、その端緒こそが元海女さんたちの使う、テレビが作った新方言「じぇじぇ」「じぇじぇじぇ」なのだ。つまり、メディア・イベント的に喧伝された地元のイメージを取りこんでしまい、自分の文化にしてしまうという「したたかな」やりかたが、それ。もちろん、それは高級文化からしたらオリジナルを破壊するもの。しかし、こちらに乗ってしまうことで自らの文化をメインテナンスし、活性化することが可能になる。

実は文化というのは、マス・メディアの発達の過程で、こうやって外部からのメディア・イベント的な要素の取り込みによって継続してきた、いや活性化してきたというのが実際のところだろう。この典型として観光人類学でしばしば引き合いに出されるのがハワイとバリだ。ハワイは「常夏の島」であり、一般にフラダンス、ハワイアン、アロハシャツ、ウクレレ、トロピカル・ドリンクといったものがイメージされるが、19世紀にはこれらのものは一切存在しなかった。20世紀になってハリウッド映画が常夏の島というイメージをでっちあげ、これに合わせたかたちで現在のハワイが創造されたのだ。たとえばフラダンス(正しくはフラ)は、それ自体は以前から存在したが、ビキニに腰蓑というスタイルで、ハワイアン・ミュージックに合わせて踊るというのはハリウッド製だ(ちなみにアロハシャツは日本移民の着物をシャツにしたのがはじまり)。バリは20世紀初頭、オランダの保護政策の下で「最後の楽園」というキャッチフレーズの下、メディア・イベントが展開され、ケチャ、ガムラン、バリダンス、ウブド芸術といったものが再創造あるいは創造されている。これらはいずれも消費文化=ビジネスによるでっち上げだ。だが、これに現地の人間たちが乗った。それによってハワイもバリも活性化し、現在の観光地としての地位を確固たるものにしたのだ。そして現在、それはもちろん、独自の文化として世界に知れ渡っている。

となれば、北の海女さんたちが、自分たちの使わない「じぇじぇ」「じぇじぇじぇ」という宮藤官九郎によって創造された海女ことばを用いるのは文化的にきわめてまっとうで、正しい行為とすべきということにならないだろうか。マスメディアに飲み込まれながら、したたかに飲み込み返してしまえばよいのだから。

6年前、宮崎県知事になった東国原英夫はトップセールスと称して地鶏とマンゴー、焼酎といった県産品をテレビに露出すること、つまりメディア・イベントを展開することによって全国に売り込み、たとえば地鶏=宮崎といったブランドイメージを作り上げることに成功する。そして、これに宮崎県民が乗った。県民が地元の産業を再認識し、県外に向かって自信を持って売り始めたのだ。そして今や、たとえば全国各地に宮崎料理の居酒屋が出店、定着するという事態に至っている(僕が住んでいる川崎は駅前周辺に現在3店舗がオープンし、定着ている)。そして、こういった宮崎県産品の全国展開は、翻って遠心的に宮崎県民に地域アイデンティティーを形成することにも成功している。宮崎の県産品を東国原がヴァーチャルにクローズアップし、全国展開することで、宮崎県民は地鶏やマンゴーを再認識?発見?したというわけだ。これもやはりハイパーリアルが生んだ活性化に他ならない。

文化は生もの、そして常にハイパーリアルなもの

そう、よく考えてみれば、文化というものは「生もの」であることがもっとも正しい「あるべき姿」なのではなかろうか。既存の文化をただ頑固に守るのではなく、文化の外部を常に取りこんでいくことによって文化それ自体をメインテナンス、そして活性化し、さらに自らを不断に変容させていくこと。そしてハイパーリアルとして、常にリアルを更新していくこと。こういったダイナミズムを持ち続ける限り、文化というのは永続することになるだろう。そう、文化とは干物=その中身・コンテンツではなく生もの=変転し続ける形式なのだ。

ようするにホンモノとは何か?そのこたえは「歴史的に実証されたもの」「オリジナルに忠実なもの」ではなく「今、息づいているもの」ということになる。

だから、繰り返すが北の海女さんたちが「じぇじぇ」「じぇじぇじぇ」ということは、きわめて正しい。さらに突っ込んで言えば「じぇじぇじぇじぇ」という新方言を使うことも。ただし、したたかに。

北の海女は「じぇじぇ」とはいわない?

ゴールデンウイーク中、NHK朝ドラ「あまちゃん」の舞台となっている岩手県久慈市袖ヶ浜を訪れたときのこと。現地にはクルマで向かったのだが、なんせこの人気で観光客が押し寄せるため、一般車の直接乗り入れが不可能になっていた。そこで、途中の駐車場にクルマを止めタクシーで現地に向かうことに。

運転手とは当然のことながら「あまちゃん」の話になる。そこで、面白い事実を知らされた。それはドラマ内で頻用される「じぇじぇ」という方言だ。北の海女たちが驚いたときのリアクションとして使われるこのことば。ドラマではちょっと驚いたときには「じぇ」、もっと驚いたときには「じぇじぇ」、すごく驚いたときには「じぇじぇじぇ」(さらにドラマでは「じぇじぇじぇじぇ」ということばを全国的に流行らせようという、足立ユイ役の橋本愛の台詞があった)と、その使われ方が説明されていた。そして、今や、このことばは予備校教師・林修の「今でしょ!」と並んで、今年の流行語大賞を奪い合うくらいの流行語になっている。

しかし、くだんの運転手は意外な話をしてくれたのだ。「海女さんはそんなふうには使わんですよ。っていうか、あんまり「じぇ」とは言わんですね。まあ、驚いたときに一回「じぇ」っていうくらいで。「じぇじぇ」とか「じぇじぇじぇ」ってのはない。あれはテレビの中だけのことば。」

なるほど、これは宮藤官九郎の演出というわけか。

ホンモノの北の海女が「じぇじぇじぇ」と言った!

ところが、である。
袖ヶ浜では、北の海女めあてにやって来た観光客を相手に、道端でおばあちゃんたちが干物等の海産物を販売している。このおばあちゃん、実は元海女。現在は現役を退いてこういった商売をやっている(夏ばっぱが引退してこの仕事をやっているとイメージしてもらいたい)。このおばあちゃんたち。観光客と話をするとき、なんと「じぇ」どころか「じぇじぇ」、「じぇじぇじぇ」と言うことばをフツーに使っていたのだ。

これはいったいどうしたことか?タクシーの運転手はウソを言ったのだろうか?いや、そうではないだろう。元海女が「じぇじぇじぇ」と話すことと、タクシーの運転手が「海女はじぇじぇとは言わない」という証言、実は矛盾しない。つまりどちらも事実とみなすべき。

じゃあ、なんで矛盾する二つの立場が両立するのか。これはおばあちゃんの説明で解決する。

「『じぇ』は、ときどき使うことはあったけんど、『じぇじぇ』とか『じぇじぇじぇ』とかは使わんかった。だけんど「あまちゃん」を見ていたら、使うようになってしもうた。」

そう、ホンモノの北の海女はテレビのヴァーチャルな北の海女の使うことばに感化されて「じぇじぇ」「じぇじぇじぇ」と話すようになったのだ。で、もちろん、こういったことばをホンモノの海女さんが喋れば観光客は大喜びだろう。「ホンモノの海女さんの『じぇじぇ』を聞いた」ってなことになるのだから。う~ん、ハイパーリアルとはこのことか?

でも、これじゃあ、いったいホンモノって何なんだ?というふうに思わないでもない。そして、これは「文化とは何か」という問題を僕らに突きつけてくる。今回は、この「インチキ海女ことば」を使う「ホンモノの海女さん」を題材に、文化の有り様についてメディア論的に考えてみたい。そして、これは実は文化というものの存在、文化がどうあるべきかの本質を語っていると僕には思える。では、それは何か?(続く)

政治家やタレントといったセレブたちの失言・暴言が多発している。水野靖久復興庁参事、川越達也シェフ、高市早苗衆議院議員、乙武洋匡、橋下徹大阪市長など、ここ数週間だけでもメディアの多くが「失言・暴言ネタ」を中心に賑わっているという状態だ。なぜ、こんなに失言・暴言が多発するのだろう?メディアを賑わすこういったセレブな人間たちは礼節を失ったのか……いや、必ずしもそんなふうに決めつけることはできないだろう。

僕はこれを「重層決定的なメディア・イベント」と捉えている。二つともメディア論で使われることばゆえ、ちょっとややこしいのだが、この二つの概念を紐解くかたちで、今回はこの「失言・暴言多発」の原因について考えてみよう。

マスコミが事件を起こす

「犬が人に噛みついても事件にはならないが、人が犬に噛みつくと事件になる」という有名なことばがある。事件というのは、それを「事件」として取り上げるから事件になるということのたとえだ。もう少しはっきりいってしまえば「マスコミが取り上げない事件は事件でない」(たとえば、一般人が万引きをして捕まったとしても、それはただの「万引き」。だからほとんど報道されることはないゆえ、事件ではない。だが芸能人が万引きすれば、それは事件だ)。言い換えれば「マスコミが事件を作る」「ねつ造する」ということになる。これがメディア・イベントだ(これをやたらにやって「ウジテレビ」と嫌われたのがフジテレビだった)。

マスコミの報道姿勢は、名目上は「公共に益する」ことにある。つまり、大衆に「知る権利」を共有させようとする。ただし、実質的には業績原理、つまり「カネ儲け」が最優先事項になっている。言い換えれば、視聴率や発行部数が稼げれば、それでよいいという立場だ。ただし、この立場がマスコミでは無意識のうちに展開されてしまっている(自覚していたら、こんなこと、おおっぴらにはやれないだろう。つまりマスコミは「無知の知」を知らない)。だから怖いし、だからこそ「マスゴミ」と呼ばれてしまうのだけれども。

で、こういった報道姿勢=伝える身体に基づけば、注目すべきは原則、興味本位のスキャンダラスなものになる。だからこそ「人が犬に噛みつく」といった通常とは逆の事態が、そのキャッチーさで興味関心を惹きつけやすいゆえ、これをおおっぴらに報道されてしまうということになる。そして、その際、受け手にとってネタが、自分より優位に立つ者に対するジェラシーをルサンチマン的に晴らすものであれば、いっそう魅力的ということにもなる。

で、無意識のうちに業績原理が最優先されるので、それが事実であるとか報道する必要があるのかということは二の次になる。マスコミの人間の身体が業績原理に向かって勝手に作動してしまうのだ。つまり「セレブが犬を噛んだ事件」を報道しようとする。

様々な要因が折り重なる

そして近年、マスコミはこの身体化された業績原理至上主義のメカニズムにさらに拍車がかかっている。インターネットの普及による視聴率の低下、発行部数の減少という事態がマスコミに危機感を抱かせるようになり、なりふり構わぬ行動に出始めているからだ。ということは、こういったニーズに応えるものならなんでも取り上げてしまえ!ということになる。しかも、マスコミはジリ貧なためカネがない。だから、この思いはより強い。

そんなとき実にお手軽なメディアが現れた。それは何か?なんと、それは自らの足場を揺るがせているインターネットだ。とりわけブログやSNSはその格好のターゲット。関連事項をちょっとググればネタになりそうな情報=データが次々と引っかかってくる。しかも興味本位でスキャンダラスなそれが。しかも、オイシイことにセレブのそれが。

Twitterはその典型だ。SNSはものすごい勢いで広がりを見せているといっても、まだまだその利用方法については勃興期の域を出てはいない。つまり、その使い方がよくわかっていない。それは、たとえば若年層がTwitterの公共性とプライベート性を勘違いしてTwitterの「バカ発見器」機能に引っかかってしまうというのが典型だ。いやいや、大人の側とて、この使い方がよくわかっているとは言いがたい。つまりTwitterリテラシーは全般的にきわめて低い。で、ジェラシーの対象となるセレブたちがTwitterで、本来ならプライベートな空間でしかすることのない発言をつい書き込んでしまう。すると「カネのない」「溺れる者は藁をも掴む」マスコミがこれに飛びつく。そして、これを一気に魔女狩りのごとく糾弾するように報道してしまうのだ。しかも、その文脈を斟酌することなく、言葉尻だけを取り上げて、あたかもそれがセレブたちのとんでもない発言のように演出してしまう。これで失言・暴言の一丁上がりというわけだ。

ブログも同様だ。たとえば、ほしのあきが自らのブログのなかでペニーオークションを使って格安商品を落札したという「偽情報」を流した事件。これはペニオク主催者がほしのの知り合いで、たまたまこれに協力したために起こったこと。これまた、ほしのあきが公共空間とプライベート空間の区別がつかなかったこと(つまり友達の仕事に協力するというプライベートな行為をブログというパブリックな空間に持ち込んでしまった)、そしてセレブがブログを使う際の注意事項を怠ったがゆえに(まあ常識がないということでもあるのだけれど)やってしまったこと。だが、これもマスコミはメディア・イベントとして取り上げるには格好のネタ。つまり「人が犬を噛む。しかもその人物が有名人である」ゆえ、鬼の首を取ったかのようにこれを取り上げる。そして同様のバッシングが次々と続いた。マスコミは報道のやり方としても、経費の面としても、実にお手軽なビジネス・モデルをインターネットの中に見いだしたのだ。だから、こういった失言・暴言はことさらに取り上げられるようになった。そう、これが重層決定、つまり様々な要因が結びついて起きた「セレブにおける失言・暴言」の多発といった事態に他ならない。

で、実際のところ、かつての人間に比べれば、こういったメディアで取り上げられる人物たちの失言・暴言は本当に増加したのか?と問われれば、それは「否」だろう。増えてもいないし、減ってもいない。だが、様々な要因によって「多発」といったメディア・イベントが作られたのだ。あるは「多発するもの」として演出されたのだ。要するに、業績原理に基づいて、どんどんと失言・暴言が量産されていったのだ。セレブ本人の意図とは関わりなく。

失言・暴言を批判したり同情したりしている場合ではない
僕らとしてはこういった失言・暴言問題は、そろそろ相対化すべき、つまりこういったマスコミ報道へのメディア・リテラシーを上昇させてもよい頃なのではないだろうかと考える。これら「失言・暴言」に怒ったり、同情したりするのではなく(これじゃあ、いずれにしても、マスコミというお釈迦様の手のひらで舞っているだけだ)、これらがいわばメディア上で演出された「重層決定によるメディア・イベント」でしかないと悟ること、言い換えれば「マスゴミによるマッチポンプ」と諒解し、そこから報道されている情報それ自体よりも、その伝達形式を冷静に抜き取ること。そしてこの形式を飼い慣らしてしまうこと。こういったスタンスを多くの人間が共有したとき、マスコミはマスゴミであることをやめなければならないとろこにまで追い詰められるはずだ。そういった公共空間を作る役割を担うのは、ひょっとしたらインターネット空間なのかもしれないが……。

偏差値50のマーケティング

オタク文化の弊害によって「木を見て森を見ず」の状況を加速化させ、ヘタレ化した日本。これを是正するためには「木を見て森も見る」という複眼的な視点が必要だ。つまり日本の美点であるオタク性=ミクロな視点を温存しつつマクロな視点も獲得する必要がある。木の方はよいとして、じゃあ森はどこにあるのか?

僕は、この森が「偏差値50」のゾーンにあると考える。オタクな技術というのは、得てして偏差値70を相手にしがち。つまり技術を使いこなせるアーリー・アドプターたちの高感度性に焦点を当て、それを使用することに優越感を感じさせ、これを偏差値50のマスにも踏襲させようと煽るようなやり方だ。前回示しておいたケータイの全部盛りとか3Dテレビはその典型だ。しかし、結局のところそのほとんどは偏差値70というマイノリティしか使うことはないし、偏差値50は使えないし使おうとする気もない。だから、普及するどころかどんどんと先すぼみになっていく。むしろこういったアーリー・アドプターではなく、マスな人間のニーズにこそ焦点を当てるべきなのだ。それが偏差値50のマーケティングだ。

いや、ちょっとまて。それってマーケティングの王道=常識を言っているだけに過ぎないのでは?マーケティングは市場の動向を調べてそのマスなニーズ、つまり偏差値50を商品化するんだから。

いや、そうではない。今のニーズは既存のニーズでしかない。そしてそういったものは先を見据えていないし、現状技術の焼き直しでしかない。これについてはS.ジョブズの発言が有名だ。ジョブズはマーケティングをしなかったが、その理由を次のように説明している。


F.フォードが大衆向けのクルマを開発しようとして当時の人々のニーズを調べたら「もっと早い馬」になってしまう。


当時のマス=大衆=偏差値50にとっての高速な交通手段は馬。それしかイメージできない層に調査をやったところで、絶対にクルマという選択肢が浮かび上がってくることはないというわけだ。そう、既存の市場の中には、実はここで言いたい偏差値50のマーケティングは存在しない。

じゃあ、それはどこにあるのか?それはアーリー・アドプター=偏差値70ではなくマスが欲しくなるような商品を具現化=創造してみることだ(ジョブズの例なら「ウマ」でなく「クルマ」)。言い換えれば潜在的な需要を掘り出すような想像力を働かせることなのだ。そして、これはオタクたちの発想の中から生まれるのがきわめて難しいものでもある(オタクの発想はパラダイム内、つまりタコツボの中を引っかき回すことだけなので、やっぱり早い馬しかイメージできない)。むしろ当該パラダイムの外部にいる人間=トリックスターの方が、こういった「潜在的な偏差値50」を探し当てることができる。前述のジョブズはその典型。ジョブズはAppleⅡでパソコンを作り、Mac OSでウインドウズのコンセプトを世に問い、iPodで音楽視聴スタイルを変更し、iPhoneで電話を再発明し、iPadでパソコンをコンピューターのメインストリームから葬り去ったのだけど、これが可能だったのは要するにジョブズがコンピューター業界にいながら、常にアウェイ的な存在だったからだ。Apple IIはマイコンを化粧箱に入れるという技術とは関係のない素人的発想、ウインドウズはプログラムを打たなくても、そしてマニュアルを使わなくてもキーボードとマウスで操作できる素人的発想、iPodはデジタル音楽プレーヤーをパソコンと接続するだけで簡単に曲を出し入れ可能にする素人的発想、そしてiPhoneやiPodはパソコンを機械を意識することなくタッチすることで素人どころかお年寄りなどのド素人までパソコン操作可能にする素人的発想。つまり、技術的な知識がこの業界のほとんどを占める世界で、素人的な感覚を押し広げた(ジョブズがプログラムを書けなかったことはよく知られている)。それがイノベーション、そして偏差値50のマーケティングを可能にしたというわけだ。ちなみに、技術畑の人間はオタクなので、こういった素人的発想は難しい。やたらと小難しくし、どうでもいい技術的細部にこだわるからだ。


英語教育の革新

こういった外部=周縁による中心の活性化という事態はその世界がパラダイムシフトを起こす際には必ず発生する。最近の面白い例を英語教育の世界から取り上げてみよう。いまこの世界で抜群に売れ続けている英語教材がある。森沢洋介『どんどん話すための瞬間英作文トレーニング』(ペレ出版 2006)だ。見開き右ページに英語の基本例文が同じ文法パターンで20並び(すべてWhatだけとか、ひたすら使役動詞だけとか)、左ページにはその日本語訳が並ぶ。CD付属で、ディスクはまず日本語が読まれ、しばらく無音が続いた後、その答えとなる英文が読まれる。やっていることはこれだけだ。ところが、文法項目が同じパターンばかり並んでいる、そして日本語が読まれた後、その文章を英語で話す時間分だけ空白になるために、英作文の練習が適切に行えるのだ。で、実はこれは本当はテキストなど要らなくて、CDさえあれば十分練習できる。スマホで練習するから通学・通勤時にテキストなしで手軽にトレーニングできる。そして、何度もやっているうちに反射的に英作文ができるようになってしまうのだ。僕はこれを学生たちにオススメしているのだけれど、効果はバツグンだ!

この本=テキストのスゴいのは、シンプル(中学の英文法のみ)、余分なことが一切ない(文法の枝葉末節な部分についてはバッサリとカットしている)、そして学ぶ側の視点に立っているところにある。つまり、読者を大卒くらいで英語を中途半端にしかやらなかったが、英語を使えるようになりたくて勉強をやり直そうとしている、しかし、取っつき方がわからないという層に絞っている。だからシンプルな分、かえって「痒いところに手が届く」ことについては非常に細かい配慮がなされているのだ。要するに「マクロはシンプル、ミクロは詳細」。で、これを執筆した森沢は浦安で英語教室を開いているが、彼自身は英語のプロパーではない。大学卒業後、自力で英語を勉強した素人だ。そして自らの英語上達経験を踏まえた上で本書を作成している。だから、一般の人間がつまずきそうなところにはやたらに丁寧で詳しい(「これは私の本です」「この本は私のです」なんて初心者が引っかかってしまいがちな例文が登場する。前者は”This is my book.”後者は”This book is mine.”)

森沢と同じアプローチをしている文献に熊谷隆司『基礎からの英語学習』(中西出版 2011)がある。これはウェブサイト「英語喫茶」(http://www.englishcafe.jp)のダイジェスト版だが、これもものすごく優しく丁寧な解説がなされている。上から目線の「覚えろ!」という感じではなく、なぜそうなるのかをキチッと筋道を立てて展開し、英語の構造を納得させるような説明を心掛けている(文法書なのに「読み物」として面白い)。そして熊谷もまたプロパーではないたたき上げだ。そう、素人目線が英語教育に風穴を開けているのだ。

こういった「素人目線」は、かえってプロパーには見えない「偏差値50」が見えている。それは自ら偏差値50の状態でステップアップに苦しんだ経験があり、それを克服したからこそ可能になったものだろう。つまりミクロとマクロの両方が見えている。逆に言えばプロパーは偏差値70(高感度なアーリー・アドプターのみを対象とする)と、偏差値70目線から見た偏差値50(既存の偏差値50のニーズを統計的に集約する。つまり「早い馬」という結論を出す)しか見えていない。

要は「他者に対する想像力」

こういった「視点を変えた偏差値50マーケティング」は、前述したように潜在的需要を創造し、これを啓蒙するところにあるのだが、ではこのためには何を想像=イメージすればいいのか?この答えは意外とシンプルなところにある。想像するものとは、要するに偏差値50の他者=顧客なのだ。他者が製品やシステムを利用するとき、どうやったら気持ちよく使えるのか、何があったら便利なのかということを徹底的に考え抜くこと。そしてそれは自分にとって何が必要なのかを考えることでもある。ただし、その際、オタクでプロパーな自分の部分を外した状態で考える必要があるのだが。いいかえれば単なる思いつきではなく、生活の文脈に流し込んだとき何が必要なのかをイメージし、それに基づいて創造すること。

iPhoneの魅力は、こういった「素人目線」を徹底的に考え抜いたところ、言い換えれば前述したように「痒いところに手が届く」インターフェイスを設計したことにある。さらにいえば偏差値50を啓蒙=教育するために「痒くないところにまで手が届く」「そこに手を伸ばしたくなる」ことを考え抜いたところにある(「痒くないところに手を伸ばしたくなる」とはユーザーに「パソコンを使いたくさせる」ことだった。iPhoneが登場するまで人々はパソコンになかなか手を伸ばさなかった。つまりほとんどがこれをビジネス・マシンとこれを捉えていた。ところがiPhoneを使うことでパソコンは日常生活の一部として頻用される家具=家電になったのだ)。こういった視点は、現在爆発的な普及を見せているSNSのLINEも同様だ。

松下電器(現パナソニック)の創業主・松下幸之助が企業を巨大化させたきっかけは「二股ソケット」だった。幸之助はアイロンを使いたい姉と、本を読むために電灯をつけたい妹が口論をしている姿を町で目撃した時、姉妹が同時にアイロンと電灯を使うことができるようにと二股ソケットを考案したといわれている(当時、電気料金は定額制だったが、その代わりコンセントが一つと決められていた)。幸之助がただの技術オタクだったら、この姉妹の口論はスルーされてしまっていただろう。

技術ばっかり盛って全然使いづらいとか、妙竹林なサービスばっかり増やして肝心なことは抜けているとかというのは、要するにオタク的精神をベースにした技術至上主義、金もうけ至上主義が生んでしまう必然的結果。そろそろ本当の意味で「顧客重視」ということを考えなければならないのではなかろうか。で、実はそれこそが日本文化の美徳ではなかったのか?そして日本経済を押し上げてきた原動力ではなかったのか?

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