「とくダネ!」での小倉の魅力はシステムがあって初めて成立していた
ゼロ年代、「とくダネ!」はその形式=システムの妙で聴衆を惹きつけることに成功していた。キャストの役割分業が明確に規定され、その中で各メンバーがインタープレイ=ジャムセッションを繰り広げる。こういった安定した構造の中、リーダー=スタープレイヤーの小倉智昭は思う存分自らのアドリブを展開することが可能だった。しかも、それが多少乱暴なものであってもショックアブソーバーの機能がビルトインされていたので、何ら問題はなかった。この時期、「とくダネ!システム」という形式は魅惑的なアンサンブルを提供することで聴衆=視聴者を巻き込んでいたのだ。
いいかえれば、「とくダネ!」の魅力はこのアンサンブルにあるのであって、個人の力量には還元されない。その最たる存在が実は小倉自身だ。小倉は「とくダネ!」以外の番組に出演する際には以外とパッとしない。小倉の出自は東京12チャンネル(現テレビ東京)の競馬中継だ。だから原則一人で仕切るというのがパターン。番組を小倉に丸投げし、好き勝手なことを、多少乱暴にやらせるというのに妙がある。ニッポン放送で夕方に放送されていた「夕焼けアタックル」はその典型で、持ち前の博識と好奇心を前面に出しリスナーを獲得することに成功していた。
だから仕切れない番組に登場する際には、全くもってパッとしない。嵐の番組などに出演した際には、ほとんど「借りてきた猫」状態で、「とくダネ!」での輝きはない。また「とくダネ!」の全盛期、番組はゴールデンタイムにまで進出したことがあったが、これは名前こそ同じだったが、メンバーも異なり観客席を設けたりしたこともあって、朝のシステムとは全く異なった、小倉の仕切りをマイナスに作用させるものになった。その結果、システム=形式は作動せず、これを楽しめない視聴者はそっぽを向いてしまったのだ。
要するに小倉は、仕切らせ、そしてその仕切りを十全に発揮できる形式=システムが備わることで輝くパーソナリティなのだ(だからラジオ番組のパーソナリティや競馬の実況中継といったピンの番組が向いている)。それが多少乱暴であったとしても、だ。
じわじわと押し寄せるシステム崩壊の影
「とくダネ!」は2010年くらいからその形式がゆっくりと崩壊し始める。原因は、次第にメンバー全体が「小倉イズム」に染まっていったことにある。番組のスタッフ構成自体は小倉、メインアシスタント、プレゼンター、そしてコメンテーターと変化はないが、このうちメインアシスタントとプレゼンターがその役割をだんだんと失っていったのだ。
「お利口」になった笠井信輔とプレゼンター
先ずメインアシスタント。男性メインの笠井信輔は、前回示したように日和見の狂言回し的な「視聴者=素人の代表」的役割を演じていたが、次第に勉強し意見するようになっていった。つまり日和見ではなくなっていった。そして小倉の意見に追従するような語りを見せ始める。だが、これはそれまでのメインアシスタントに振られていた役割の逸脱に他ならない。そして、それはイコール狂言回し=視聴者の代表というコマが失われたことを意味する。
プレゼンターたちも同様だ。彼らもまた笠井と同様「賢く」なっていった。つまり、マスゴミ的なベタな語りはやめ、小倉に頷いてもらえるような語りになり始めたのだ(相変わらずマスゴミ的なベタな語りをやるプレゼンターはデーブ・スペクターだけになってしまった。もっともデーブはコメンテーターでもあるのだが)。
こうなるとマスゴミのベタな図式にツッコミを入れるという第一の相対化の図式が崩壊する。なんのことはない、み~んな小倉(プチ小倉?)になってしまったのだ。だが、これは言い換えれば小倉のクリエイティブだけれど乱暴なパフォーマンスの「乱暴」な部分が前面に出てくるということでもあった。いわばスタッフ全部で小倉的な「クドさ」「乱暴さ」を視聴者に投げつけるという図式になったのだ(小倉が以前にも増してクドくなったとか、乱暴になったとか言うわけではない。あくまでシステム=形式の関係上、そうなってしまっただけだ)。
女性メインアシスタントによるショックアブソーバーの機能の喪失
そして、ショックアブソーバーの役割を演じる女性メインアシスタントもその役割が縮小、消滅していく。さながら「お釈迦様」の存在であるかのように「小倉孫悟空」の乱暴なパフォーマンスを寡黙と東大卒という権威で押さえつけるというパフォーマンスに成功していた佐々木恭子が降板し、2009年中野美奈子に変更した途端、ショックアブソーバー機能が弱化したのだ。中野もまた佐々木と同様、寡黙で地味な役割に徹していたのだが、彼女には東大という権威はない(中野は慶応出身)。そして、いわゆる普通の女子アナ(いわゆるアイドルっぽいフジテレビの女子アナ)のイメージが強い。この二つが結びつくと、中野の寡黙は佐々木のそれとは違い「頭が悪い」というイメージに結びついてしまうのだ(これも佐々木の「頭の良さ」というイメージ同様、実際に中野が頭が悪いということとは一切関係ない。そのようにみえるというイメージの問題に過ぎないことをお断りしておく)。こうなると中野は佐々木のような小倉の乱暴さ、勝手気ままさのかすがいになるような威厳=役割を持つことができない。
「とくダネ!システム」が備えていた二重の相対化機能の消滅
そして、この威厳の無さは二つ目の相対化、つまり「小倉のモノのイイもあまたある視点の一つに過ぎない」というモノの見方を視聴者に促す働きも喪失させてしまう。つまり、笠井とプレゼンターの「プチ小倉化」と女性メインアシスタントのショックアブソーバー機能の喪失によって、小倉の「勝手気まま」「クリエイティブ」は「乱暴」というイメージに転じてしまったのだ。
こうして「とくダネ!システム=形式」は小倉イズムに浸食されていった。だが、それは必然的にクドい!ウンザリだ!ということになる。しかも、そこから視聴者が啓蒙されるものもなくなった。情報相対化の促しとジャムセッションの楽しみを提供する機能を「とくダネ!」は喪失してしまったのだ。(ちなみに、繰り返すが、これは小倉自身が変わったからそうなったのではなく、システムが変わったがゆえに小倉の乱暴さ、クドさが浮上しただけに過ぎない。だから、このシステムの崩壊を小倉の責任に特化するという”単純化”はできない)。
テコ入れをすればするほど、番組は小倉だらけになってしまう!
「とくダネ!」としてはテコ入れをしなければならない。そこでいくつかの手を打った。一つはオープニングトークの廃止だ。番組内では冒頭で小倉が任意にチョイスしたトピックについて五分程度のトークを展開していたのだが、これをやめた。そうした理由は言うまでもなく、小倉イズムでクドくなった番組を多少なりともマイルドにしようとしたからだ。言い換えれば番組スタッフはオープニングトークを小倉イズムの象徴的な存在とみなしたからに他ならない。しかし、これは視聴率低下の原因である「小倉のクドさの前面化」をシステムではなく小倉個人の資質の問題とみなしてしまったことの誤りだ。つまり処方を間違っている。だって、問題はシステム側にあるのだから。
二つ目は女性メインアシスタントの変更だ。12年7月からは中野に代わり、タレントの菊川怜が起用された。こちらはおそらく、というか間違いなく「権威」の復権を図ってのものと思われる。菊川も佐々木と同様、東大卒。だから、その威厳が働くと考えたのだろう。だが、初代の佐々木恭子がとくダネ!システム=形式の中で果たした最も重要な役割は、小倉の乱暴に対するショックアブソーバーの機能。東大卒の威厳はこの機能を十全に働かせるために副次的用いられていたに過ぎない。
そして、菊川にはショックアブソーバーの機能は全くといっていいほどなかった。彼女はまさに「東大出の才女」というキャラクターで番組の中に立ち入り、さまざまなコメントやトークを展開したのだ。ということは、これはとんでもなくまずいことになる。小倉と、プチ小倉と、小倉ばりに乱暴にモノを言う女性メインアシスタント菊川=もう一人の小倉、という構成で「とくダネ!」が進行してしまうからだ。つまりみ~んな小倉になってしまった。それは、要するにクドさの上塗りにほかならないわけで、こりゃどうみても視聴者は、引いていくことになる。さながらテレビから視聴者が攻撃されているようにすら思えるのではないだろうか(だから菊川がクドく見えるのは、実は彼女自身のせいではなく、こういった構造の中でそのように見えるようになってしまっただけのことなのだ。つまり「み~んな小倉化」にトドメを刺した。まあ、もちろんちょっと癖のあるキャラクターであることは否定できないけれど)。
コンテンツのテコ入れも負のスパイラルを招く
システムがだんだんとまずくなっていったとき、これをなんとかしようともがき始めると、かえってもがいたぶんだけ、いっそうまずくなっていくという「負のスパイラル」=底なし沼現象が発生することがあるが、「とくダネ!」はその典型だ。前述のキャストの入れ替えがまさにそうだったのだけれど、番組編成の変更もまたこのスパイラルに陥っている。「とくダネ!」のスタッフたちが番組のテコ入れとして考えたのは「情報密度のアップ」だった。つまり、これまでの「情報量はともかくとして、丁々発止でやっていく」というスタイルを排し、情報量を多くして本格的な情報提供=報道番組的な色彩を濃くしていったのだ。具体的には、同時間帯のワイドショーとかぶらないネタを多くし、それをマジメに報道するというスタイルだった。
しかし、これが全くもってマイナスにしかならない、つまりいっそうの「負のスパイラル」を招いてしまうであろうことは、ここまで今回の特集に付き合ってくださった方ならもはやお解りだろう。ワイドショーの魅力は情報内容=Whatではなく、情報形式=Howにあるのだから。「とくダネ!」スタッフがやっているのは本来の魅力であるHow=形式が崩壊したことに対して、What=内容でカウンターをあてようとしている。しかしワイドショーの魅力は形式、プレゼンテーションにあるわけで、こういったテコ入れ戦略は全く的が外れているどころか、いたずらに情報量を多くすることで番組をわかりづらくしてしまう。しかも、他局と重複しないネタは原則マイナーなので、それ自体が魅力的ではない。そして、それを「み~んな小倉軍団」が乱暴に喋りまくれば……究極のクドい、暑苦しい番組が出来上がってしまうのだ。そして、そこに楽しいジャムセッション、インタープレイはなく、「金日成生誕百年祭」のようなマスゲーム的で硬直した、一方的で、直線的で、絶対的な情報の投げつけが繰り広げられる。そう、それが現在のシステムが壊れた「とくダネ!」の現状なのだ。
かくして「とくダネ!」はどんどんと凋落していくということになった。しかし、じゃあもう「とくダネ!」はダメなのだろうか?いや、そういった結論は時期尚早だろう。まだ、やるべき手立ては残っている。小倉も、菊川も相変わらず”逸材”であることにかわりはないのだから。でも、どうやって?……それは、ようするに形式の復活、具体的には相対化システムの復活にあるということになる。つまり「情報プレゼンター」という、看板通りの番組に戻すことにあると僕は考えるのだ。
でも、どうやって?次回は最終回。これについて考えてみたい。(続く)