勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2013年05月

前回まではワイドショーが格好のヒマつぶしになること、現代人のプライバシー防衛と嗜好の多様化をヘッジするネタを提供する機能があることを指摘しておいた。ただし、これはある意味「テレビ」というマスメディア全般にも適用可能な特性でもある。だから、テレビの中でもワイドショーが備える特異な社会的機能=必要悪をさらに抽出する必要がある。そこで、最後にこの部分についてツッコミを入れてみよう。

話は再びテレビ≒マスメディアが備えるネタ提供機能に戻る。テレビからは容易に表出=共有コミュニケーション(「伝達」の他にコミュニケーションが備えるもう一つの機能。カタルシスを獲得し、他者との親密性を形成する)のためのネタを取りこむことが可能であることを前回は指摘しておいた。つまり、プッシュ機能(送り手が大量の受け手に一方向的、垂れ流し的に情報を供給する機能。受け手は受動的に情報を受け取る)によって多くの人間がテレビによる一元化した語りに接することになるので、容易にネタとして取り上げることができる。それによって対面の場で情報の共有が可能となり、互いの中に同質性を見出すことで親密性と連帯を感じることが出来るようになるということだった。

ワイドショーは「悪口」を喚起することで強い連帯と優越性を容易に確保可能にする

そして、この機能にさらに拍車をかける、つまりいっそうの親密性と連帯を加えることを可能にするのがワイドショーなのだ。

これまたすでに述べたことだが、マスメディア発達以前、共同体の中で人々のコミュニケーションのネタは共通の隣人だった。ただし、自分がいない場合には自分がネタにされ、プライバシーが常態的に暴露される。だが、それでは人権意識の高いわれわれにとっては困る。そこで、現代では芸能人などのディスプレイ上の有名人をもっぱらネタの対象とすることで、プライバシーを維持しながら表出=共有のコミュニケーションを可能にする、というやり方が生まれたのだ。

さて、ワイドショーの必要悪としてのアドバンテージのポイントは「人をネタにしたコミュニケーションの構造はどうなっているか?」といったところに立ち入ることで見いだすことができる。かつてあった共同体で相手をネタとするとき、そのネタのほとんどは、実はネガティブなもの、つまり「悪口」だった。なぜ、そうなるのか?この構造は単純だ。われわれは他者とネタを共有し連帯感を得たい。ただし、このときそのネタを共有することでコミュニケーションを交わす双方がネタとなる相手に対する何らかの優越性を獲得できれば、一層カタルシスを感じることができる。そのためにはその他者との差異化を図ればいい。つまりネタとなる相手に比べて自分たちが優れていることを示せばよい。しかし、それは簡単なことではない。優越性を獲得するためには差異を示さなければならなければならないが、そのためには何らかの努力が必要となるからだ。そりゃ、しんどい。

しかし、簡単な方法がある。それが「悪口」だ。自分たちの優越性を誇示するのではなく、ネタの相手をこき下ろすことによって、結果として自分の立場が差異化され、努力なくして優越性を獲得することが可能となるのだ。自分をアップさせるのでなく、相手をダウンさせることで差異を獲得するという戦略だ。

そしてこれを二人でやると連帯感はいっそうアップする。まず、ここまで述べてきたようにネタの共有による同質性で連帯感がアップ。さらに話をしている二人はネタになっている相手よりも優越性が高い。そして、それを確認することでもう一つ連帯感が加わるのだ。「あのバカな○○に比べると、私たちってイケてるわよね」ってなことになるのだ。ちなみに、これはコミュニケーションを交わす相手の数が多ければ多いほどその効果は高くなる。自分たちが多数派になり、話題の相手をこき下ろすことに、より正当性が感じられるようになるからだ。

そして、これこそがワイドショーの得意とするところとなる。つまり、有名人のゴシップを取り上げこきおろす、犯罪事件を取り上げ、そこに登場した犯罪者を非難し、その一方で被害者に同情を示す。こき下ろそうが、非難しようが、同情しようが、要するに結果として視聴者側はそのような状況に陥っていない自分に優越性を感じ、上から目線でネタとなる相手を見ることができると同時に、その優越性を対面の場で共有して親密性を高めるわけだ。「ヒトの不幸は蜜の味」とは、実はコミュニケーションの本質に関わることばに他ならないのだ。

いわば、長屋の井戸端会議でやられていた「人の噂コミュニケーション」を今日風に「洗練化」したものが、この「ワイドショーをネタにしたコミュニケーション」に他ならない。

ニュースもまた必要悪?

さて、ここまで必要悪=現代人のコミュニケーションの必需品としてもっぱらワイドショーを取り上げてきたが、実はこれと全く同じ構造を有するテレビのジャンルがもう一つある。それは「一般のニュース」だ。よくよく考えてみればニュースのほとんどは実はどうでもいい内容ばかり。たとえば最近だと橋下徹大阪市長が従軍慰安婦問題について不謹慎な発言をしたなんてのがこれに該当する。一介の市長が従軍慰安婦問題をどのように発言しようと実は大した問題ではない(橋下は首相ではない)。ところが橋下自身がメディアの寵児であり、われわれの表出=共有コミュニケーションのネタとしてはもってこいの存在。そしてそのことをマスコミは知っている。だから、橋下の発言の一部をはしょり、問題視するような文脈に流し込んでねじ曲げ、大々的に報道する。でも、そうすることで「やっぱり橋下さんは~」みたいなかたちでコミュニケーションが盛り上がる。ねじ曲げた方がネタとしてははるかに盛り上がるからだ(見下しやすい)。全てとは言わないが、ニュースもまたその多くが、こんな「マスゴミ」的なトピック、つまりネタになる情報、そして演出で埋め尽くされている。だからその質としてニュースとワイドショーは五十歩百歩だし、われわれのヒマつぶし、表出=共有コミュニケーションを開くという重要な「必要悪」としての機能を備えていることでも五十歩百歩ということになる。そして現在、こういった「どうでもいい報道」パターンが一般のニュースをどんどん浸食しつつある。そう、実は報道自体がどんどんワイドショー化しているのだ(NHKの7時のニュースで被害者の葬式が報道されたことがあったが、これって「伝達内容」としてはほとんど情報価値0%、つまり「必要なし」。しかし、メロドラマのお涙頂戴という「表出=共有」機能なら情報価値100%、つまり「必要不可欠」だ。これをNHKですらやるような時代になったのだ。まあ「みなさまのNHK」というキャッチフレーズがポピュリズムを意味するのなら正しいけれど(笑))。そして、それはある意味、時代の必然。つまり、報道全般のワイドショー化は現代人のコミュニケーションのための重要な社会的機能の一部を担っているということになる(念のために付け加えておくが、この機能を担っているメディアは他にもある。もちろんインターネット上でも。ただし、テレビが最大かつアドバンテージを有することは間違いないだろう)。

だからテレビはなくならない

テレビはジリ貧だ。だが、こういった機能を備えている限りなくならないし、むしろこちらに特化していくことで生き残りが可能になる。だからこれからワイドショー、そしてニュースを含めた報道コンテンツは、テレビ番組の中でますますその比重を増やしていくだろう。これらはわれわれのコミュニケーションにとってきわめて重要なのだから。

ちなみに、この他にもテレビのコンテンツとしてヒマつぶしとネタ供給機能を備えているのはスポーツ中継、そして情報バラエティだ。だから、これらが番組のジャンルとして伸びていくのではなかろうか。

前回はワイドショーが「必要悪」とみなすことができる理由として「ヒマつぶし」「ネタ供給」二つ機能を指摘した。そこで、さらにもっと積極的な理由、そしてワイドショー特有の社会的機能に切り込んでみよう。「テレビの重要性」さらに「ワイドショーの重要性」という流れで展開してみたい。今回(2)はテレビの重要性について。


テレビとネットは異なるメディア機能を有する

近年テレビはしばしばオワコンみたいな言われ方をするようになった。お客をネットに取られ、どんどんジリ貧になっている。なおかつ頭脳流出も激しいのでコンテンツ自体もスカになり、垂れ流しているものはまさに「マスゴミ」化しているというようなモノのイイだ。たしかにインターネットの方がテレビよりもアクセス時間増加の傾向にあり、また視聴率はどんどん低落しているので広告収入も低下し、先細りであることは否めない。しかし、だからといってオワコンと言うことは決してないだろう。というのもネットは原則プル・メディア(ユーザー=受け手が主体的に情報を取り出すメディア)、一方テレビはプッシュ・メディア(送り手が大量の受け手に一方向的、垂れ流し的に情報を供給するメディア。受け手は受動的に情報を受け取る)だから、双方がかぶらない部分も当然存在しているからだ(もちろん重複している部分はあるし、その部分の多くをネットが持ち去っているからジリ貧なのだけれど)。テレビの基本的な機能は議題設定。つまり、まだあまり認知されていない事柄を広く周知させることにその本領がある。マスメディアだから一元的な情報を大量に流す。だから、たとえば商品を大々的に売り出したい場合にはテレビという媒体を使ってキャンペーンを繰り広げ周知させるのが手っ取り早いのだ。プル型のネットにはこれは無理だ。つまりテレビが周知させたものについて、それを援護射撃するというかたちが基本になる(もっとも、テレビが取り上げるネタを提供するのも最近はネットだが)。だからこそ、ソーシャルゲームを手広く広げるGREEやMobageが積極的にCM戦略を打っているわけだ(ネットだけで十分に周知されるならば、あんなにテレビでCM展開するわけがない。二つの会社ともネットとテレビのメディア性の違いをよく踏まえて、ああやった戦略を組んでいるというわけだ)。

プッシュ機能がネタを提供する

このプッシュ型の機能がわれわれのコミュニケーション、とりわけ表出=共有の側面(「伝達」の他にコミュニケーションが備えるカタルシスを獲得し、他者との親密性を形成する機能。実はコミュニケーションの中心を占める)については大きな役割を果たす。

まだメディアがそれほど発達せず、対面的なコミュニケーションが中心だった50年くらい前まで、人々はこの表出=共有コミュニケーションのためのネタを対人的な場から捻出していた。そしてそのネタとは互いが共通するネタ、突き詰めてしまえば相互に知っている他者についての話だった。ただし、そういった「よく知った他者」についての話は、結果としてプライベートの暴露ということになった。そして、それは当然ながら話をする自分の身にも降りかかってきた。つまり共通の知人のプライベートをネタにコミュニケーションを交わしていることは、自分がそこに居合わせないときには、今度は自分が共通の知人の立場に置かれ、プライベートがネタになったのだ。だからプライバシーは常態的に暴露され続けた。

だが、時代は変わった。言うまでもなくプライバシーは最も尊重されなければならない権利の一つとなったのだ。だから、おいそれと他人の話など口にすることはできない。ところが、それは表出=共有のためのネタ源を失うことを結果した。これではカタルシスや親密性を獲得できない。

そんなとき、共通の知人についてのプライバシーに関する話でネタになり、そのくせ自分は決して共通の知人としてネタにはされない、つまりネタ源を固定する格好の方法が現れた。それがテレビに登場する「共通の知人」つまりマスメディアに登場する有名人だ。対面的な場でコミュニケーションを交わす人間の間で有名人であるテレビに登場する人間をディスプレイ越しではあるが双方よく知っている。だから、これをネタにすればとりあえずこの表出=共有コミュニケーションの確保は可能になる。また、テレビがその有名人を頻繁に露出させ続けることで、ネタは継続的に提供され続ける。その一方で、ネタになる人物が交代することもない。つまり、プライバシーを暴かれるのはもっぱらディスプレイ上の向こうの人間。だから、自分たちのプライバシー暴露には抵触しない(いや、どころか隠蔽する機能すら果たす。メディア上の相手の話をしていれば、自分たちの話はしなくて済むからだ)。

こういったテレビの機能がプルメディアであるネットにはないことは明らかだ(もっともソーシャルメディアはもう一つのネタを提供口でもあるのだが、こちらについての考察は別の機会に譲りたい)。たとえば、他者との一般的な会話を交わすネタとしてインターネットから拾ってきたものをとりあげたらどうなるか?これは、ほとんどネタとしては機能しないだろう。プッシュメディアではないため一般に情報を認知させる機能をネットは持っていない。自分が知りたい情報をプルするネットは、原則、その情報が細分化されたトリビアルなものになるのだ。だから、そのネタを持ちだしても相手にとってはそれがネタとして共有することが限りなく難しいし、表出として相手が聞かされたら退屈なだけだ。いや、そんなトリビアルなネタを話せば「こいつヘン?」と気持ち悪がられるのがオチだ(これが有効なのはオタク的な同好の士の間でのコミュニケーションに限られる。そしてこういう場合にネットは大きな「ネタ提供機能」を有するようになる)。

というわけで、テレビは人権意識の高まりによるプライバシー意識の向上とインターネットの広がりによる嗜好の急激な多様化に伴うコミュニケーションネタの枯渇をヘッジするという役割をむしろ強く持つことになるのだ。

そして、このテレビの機能、つまりネタ供給による表出=共有コミュニケーションの働きを最も効率的に達成可能にするコンテンツの一つが、実はワイドショーなのだ。(続く)

ワイドショーというのは、メディアを語る人間たちの間ではもっぱら「悪者」扱いされることが多い。スキャンダル、ゴシップ、バイオレンスを並べて、野次馬根性を惹起する「マスゴミ」の典型といった論調だ。「人の不幸は蜜の味」で、確かに、この出歯亀的な情報の放出は、ちょっとウンザリしないこともない。実にくだらない、といってしまえば、まさにそのとおりだ。

ワイドショーを批判は自己言及になってしまう

しかし、どうだろう?だったら、見なければいいだけの話なのだけれど……事情は、必ずしもそうはなっていないようだ。なんのことはない、ワイドショーはそれなりに視聴率を上げているのだ。それを「腐りかけの奥様」(山下達郎”Hey Reporter”)だけが見ているという図式で片付けてしまうのは実に単純。ということは、ワイドショーを「マスゴミの象徴」みたいなモノのイイをしている御仁は天にツバしていることにならないだろうか?結局、ワイドショーを見ているのは「マスゴミ」といって批判している「あなた」ということになる可能性が高いからだ。つまり、お下劣、くだらないというのはあなた自身のことになる。

いや、そうではないだろう。ワイドショーが延々続けられるのは、むしろこういったニーズに何らかの必然性があるからと考えるべきなのだ。だから「マスゴミ、くだらない」「ワイドショーくだらない」と一刀両断するのは、要するに「思考停止」でしかない。

だったらワイドショーの社会的機能とは何なのだろう?今回はこれについて考えてみたい。

ヒマつぶしの機能

人の足を引っ張ること、不幸を楽しむことを展開するワイドショー。その社会的機能として考えられるのは、先ずはコンサマトリーな側面、つまり「ヒマつぶし」だ。仕事で忙しい人間はともかく、多くの人間は一日のヒマをもてあましている。こういったヒマの相手をしてくれる他者が必要だ。だが、自宅に相手をしてくれる人間が必ずしもいるわけではない、というか普通はいない。そこでテレビがそういった人たちの「お守り」するわけだが、これが教養的なネタじゃ、堅苦しくてちょっとヒマつぶしにならない。だから、肩の凝らないものがいい。そして人にまつわるモノがいい。

ネタ提供機能

しかしこれだけならサスペンス劇場みたいなドラマや一般のバラエティ番組も同様に該当する。だからワイドショーにはコンサマトリーな側面以外にも独自の魅力があると考えなければならない。それは……リアルな世界でのコミュニケーションを開く機能、いいかえれば「ネタ」としての役割だ。

われわれが他者と日常的なコミュニケーションを交わすとき、その中身はどうなっているのか?コミュニケーションというと、あたかも相互に「情報を伝達する」というイメージを浮かべがちだが、実はこれは誤りだ。日常生活でのコミュニケーションにおいて伝える情報内容は、実はほとんどと言っていいほど意味がない。これはわれわれが普段、他人とどういった会話をしているのかを振り返ってみるとよくわかる。ほとんど「どうでもいい話」なのだ。その典型はテレビについての話で、たとえば今日の朝ドラの話をすると言うとき、互いに伝え合う情報はほとんどない。互いにそのテレビを見ており、双方とも番組内容のことをよく知っているからだ。にもかかわらず、われわれは「今日の「あまちゃん」見た?」と、朝ドラの話で盛り上がる。

コミュニケーションの本質は表出と共有

このとき、われわれが行っているのは「情報内容」の伝達ではなく、「情報内容をチェックしたという行為」の伝達となる。つまり「見たこと」という事実のみが情報伝達内容となるのだ。

でも、なぜそんなことをやるのか?それはコミュニケーションが備える情報「伝達」以外の、そして最も重要な機能を利用しているからだ。これは二つある。ひとつは「表出」の機能だ。つまり、自分が「番組を見た」と言うことを相手に伝えると言う行為それ自体によってカタルシス効果を得ようとするのだ。人はコミュニケーション動物なので誰かと関わっていないと耐えられない。これは具体的には他者を目の前に置き、ことばを発することで達成される(モノローグ的なものもでもある程度のカタルシスを感じることができないこともないが、目の前に他者がいてリアクションしてもらうことでリアリティは倍加し、そのカタルシス効果は倍加する)。これは子どもが母親に今日の出来事を話するといったシチュエーションを思い浮かべてもらえばわかりやすいだろう。

また、このカタルシス効果は翻って情報のもう一つの機能である「共有」機能を満たすことになる。前述したようにコミュニケーションにおいてわれわれが志向するのは他者であるが、さらにその他者との親密な空間の形成も志向する。こういった親密性を確保するためには相手とコミュニケーションするための共通の話題=ネタが必要なのだ。ネタは会話のきっかけを作り(お見合いで「ご趣味は?」とたずねるのは共有する部分を探ろうとするためだ)、また同じ情報を共有することでわれわれは他者の中に同質性を見る。これが親密性に結びつくというわけだ。さらに、こういったカタルシスを継続的に満たしてくれる相手は「いい人」であり、これを相互に行うことで親密性は一層高まっていく。

ただし、こういったネタ提供機能は、ワイドショーだけに限った話ではない。前述したドラマ、テレビ一般、いやそれ以外のメディアもまたそういった機能を備えている。だが、表出と共有による親密性形成に、テレビは有効な機能を備えている、そしてその中でも格好のものがワイドショーなのだ。じゃあ必要「悪」としてのワイドショーの機能とは何か?次回以降、ワイドショーの社会的機能を他のメディアとの差異化を示し、その特性を段階的に絞り込むことによって明らかにしていこう。(続く)

アベノミクスの影響でどんどん円安が進んでいることは周知のことだ。あたりまえの話だが、円安になれば輸出にドライブがかかり、一方で輸入が減少する。だが、これは(これまたあたりまえの話だが)観光客については逆になる。つまり円安になることで割安感が出るのが外人観光客で、輸入増ならぬ日本への観光客増が見込まれることになる(当然、日本人の海外旅行者は減少する)。だから、国内の観光業界には外人観光客ゲットのビジネスチャンスが大きく開けている。そこでとりわけ提案したいのが「タイ人観光客の誘致」だ。タイ人は日本観光活性化の目玉になる可能性=インフラを秘めているからだ。しかもそれは他国の比ではない。そしていろんな意味でメリットがある。

コンビニがタイでの日本ブームの火付け役?

注目したいのは、ここ十年のあいだにタイで起こった日本ブームだ。90年代後半、タイではコンビニエンス・ストアがオープンしはじめる。セブン、ファミマ、ローソンといった日系企業を中心にコンビニが進出したのだ。そして全国中に広がりを見せ、現在12,000店を突破。タイ人にとってコンビニは日本人と同様、生活に欠かせないモノとなった。当然、ここでは日本的なレイアウトで、日本的なものも売られるようになった。カップ麺(ただしタイ味にアレンジしたもの)、どら焼きなんてものがおかれ、一時はカウンターの横でおでんが売られていることもあった。

そして、このコンビニの「主力戦闘機種」となったのが、緑茶のペットボトルだった。バンコクで1999年に日本料理店”OISHI”がオープン。廉価で日本料理を食べ放題ということで大人気となり、勢い余って店で出していた緑茶をペットボトルとして売り出したところ、これが大ヒット。そして、今やコンビニで売られている最もポップなソフトドリンクとなったのだ。コンビニの冷蔵庫にはさまざまなメーカー(キリンやダイドーなど日本メーカーもある)の緑茶がギッシリと並べられている(ただし、OISHIが当初提供したモノが砂糖入りの緑茶だったため、売られている緑茶も砂糖が入っているという、ちょっと日本人の味覚からすると”痛い”ものなのだけれど)。

日本食の爆発的普及

こういった日本食のベースとなる緑茶や日本食の大衆レベルでの広がりがゼロ年代の半ばくらいからバンコクを中心に日本食ブームを生むようになる(ただし、ブームになる前からヤマザキパンや北陸を中心に展開するラーメン・チェーン”8番らーめん”などは進出していた)。かつてバンコクで日本食と言えば、原則、在タイの日本人が利用するもので、日本人が多く滞在するスクムビット通り周辺に店が集中的に存在していたのだが、これがいつの間にかバンコク全体、いやバンコクを飛び出して全国中に展開されるようになる。当初は寿司、すき焼き、とんかつなんてのが基本だったが、そのうちサバステーキ(鯖焼きのこと。もともとはパッポンのミズ・キッチンというレストランに昔からあった)とか、焼き鳥(これもタイ人にはもともと焼き鳥=ガイヤーンがあるのだが、タレをつけて”YAKITORI”となった)などがスーパーの総菜として売り出されるようになった。その中で後発ながら大ブレークしたのがラーメンだ。タイ人にとってラーメンももともと馴染み深いもの。”クイッティアオ”と呼ばれる屋台ラーメン(米の麺”センミー、センレック、センヤイ”とかんすい麺”バーミー”がある)が庶民の食なのだが、これに近くて異なっているものとして“ラーメン”は大ブレークを遂げるのだ。今や、バンコクでは醤油、味噌、塩、とんこつどころか博多、仙台、さつま、尾道、喜多方、久留米、そして家系といったご当地ラーメンにすらありつくことができるようになった(とんかつラーメン、天ぷらラーメンなんて、日本人にはやっぱり”痛い”メニューもある)。もちろん日本料理店もとんでもない数になり、とっくにブレークは終了。すっかり定着してしまったのだ。

バックパッカー向け日本食レストランがタイ人の若者でいっぱい!

この定着のスゴさについて、僕が経験したエピソードを一つ。僕は毎年夏、一ヶ月ほどタイに滞在するという生活を二十年近く続けているので、たまにしか来ないぶん、この日本食、そして日本文化の定着がずっといる人間よりはかえって現象を対象化してみることができ、ビビッドに感じられるというポジションにある。滞在するのはバンコクの安宿街カオサン通り(フィールドワークの場所)なのだが、ここに初めて日本料理店が開店したのが98年。小さなラーメン屋で、この時、店が顧客としてターゲットにしていたのは日本人バックパッカーだった。当時はバックパッキング・バブルで、日本人がどんどんカオサンに集まってきた時期。これに合わせて二件、三件と日本料理店がオープンし始める。その中に2003年”レックさんラーメン”というお店がオープンする。この店はもともと前述した98年にオープンしたラーメン屋があちこちに移動して、ここにやって来たのだが、この当時、やはり顧客は併設する日本人向けゲストハウス「SAKURA Guest House」の日本人旅行者だった。

ところが、店の様子が変わってくる。この店は乗っ取られ「SAKURAレストラン」と名前を変えるのだが(レックさんラーメンはさらに移動)、この顧客層が次第に変わり始めたのだ。びっくりしたのは2010年の8月のこと。いつも通りに僕はこの店に夕食をとりに出かけたのだが、その時、店内は客で一杯だった。ただし、そのお客は僕を除くと全てタイ人、しかも若者たちだったのだ。

「なんで、こんな辺鄙なところを知っているんだろう?」

そもそもビルの四階という目立たない場所での営業ゆえ、口コミだけが頼りという運営。だからタイ人が知る由もないはずなのだが。僕は次のように考えた。「とにかく日本食がブームをこえて定着している。ということは若者にとっても日本食はトレンド。でも彼らはカネがない(日本食はタイ人たちにとって「ヘルシー」というのと「高級」というイメージがある)。でも、みんなで楽しくパーティ気分に浸りながら食べたい。そんなふうに考えるとバックパッカー向けの日本料理店は格安。で、この店がタイ人若者の間に口コミで広がった」。この店の客の構成はその後もずっと続いている。つまり、客のほとんどがタイ人若者。そして仲間連れでやってくる。言い換えれば、こんな裾野にまで日本食はタイ、とりわけバンコクで徹底的に定着したのだ。

タイは、もう日本大好き人間がいっぱい!

もともとタイ人は日本好き。ところがこういった日本食ブームの中でその日本好みにさらに拍車がかかった(「すいか」「ザブ」(洗濯洗剤名)「フランチェスカの鐘」といった日本では絶対に見かけることのない、わけのわからない文字がデザインされているTシャツを身につけているタイ人をバンコクではよく目にすることができる)。ドラえもん、ドラゴンボール、クレヨンしんちゃんといったアニメもよく知られているところだ(もっともこれはタイだけではないけれど)。実際、日本へのタイ人留学生はうなぎ登りで増加してもいる。だからタイ人は他の国よりも、はるかに日本にタイする基本的な知識、そして憬れが強いのだ(そういえば東京ディズニーランドに行くと、必ずタイ語を耳にするようになったなぁ)。こういったタイ国内に浸透する「日本文化インフラ」を利用しない手はないだろう。他の東南アジア諸国、中国などとはその潜在力では訳が違うのだ。

タイ人観光客は日本の観光業界にとっても歓迎すべき存在

受け入れる側としてもタイ人にはメリットがある。九州、北海道などの観光地が海外の観光客を誘致しようとしてターゲットにあてているのは、これまでは韓国や中国(そして台湾)が中心だった。ところが、これらの国の客(台湾を除く)には問題がある。それは、自らのライフスタイルを日本でそのまま踏襲し、他の日本人客に大迷惑をかけてしまうことだ。風呂場で湯船に石けんをつけたまま入浴したり、食事会場や室内で大騒ぎをしたり、あちこちにゴミを散らかしたり、部屋のアメニティを持ち帰ってしまったり、朝食会場に食事を持ち込んだり(韓国人ならキムチ。会場中にキムチの臭いが広がってしまう)、その反対に朝食バイキングの食事を持ち帰ってしまったり、列に横入りをしたりなどなど。こういった「韓国人、中国人大迷惑」という状況は、日本に限ったことではなく世界中で有名だが(世界フォーラムが発表した「外国人観光客友好度ランキング」で韓国と中国は、調査対象となった140カ国中、129位、130位と”最下位ゾーン”を占めている)、これが観光地のムードをぶちこわしかねないのだ(別府のある大型温泉施設で韓国人・中国人観光客と日本人観光客の宿泊棟を分割しているなんてところもある)。

ところがタイ人はそうではない。中国人や韓国人と同様、集団でやってくるが(まだ個人旅行よりもパッケージツアーが主力なのだ)、まずおとなしい(タイ語がうるさくないということもあるが)、みんなで大声で騒ぎ立てるとこともまずない。また傍若無人な行動はしない。マナーも守り迷惑もかけないという国民性もある。だから、観光地としてはきわめてフレンドリーな顧客なのだ。

タイ人にとってはとっても魅力的な日本という国、そして日本人にとってもとっても魅力的な外人観光客=タイ人。究極のWIN-WIN関係。そしてこの円安、バーツ高状況(現在1バーツ3.4円。もっともバーツが安い時期は2.5円だった。つまり現在、タイ人にとって日本はバーツ安の時期よりも3割以上も贅沢ができる状態)。この際、タイ人相手にこれまで以上に日本観光向け大キャンペーンをやってみてはいかがだろう?タイーバンコク間の飛行機も山ほど飛んでいるのだから。


低迷する「とくダネ!」。前回まではその過程をメディア論的に見てきた。最終回は、この番組を立て直す方法について一案を考えてみよう。ただし、小倉と菊川を温存するという条件付けで。「クドい」「ウザイ」と呼ばれ、視聴率低迷の張本人とされているこの二人。しかしながら、本ブログでは番組低迷の原因を個人に帰着させるのではなく、もっぱら形式=システムの崩壊に求めてきた。言い換えればこの二人に責任があるのではないとみなしてきた。ということはシステムを立て直すことで、小倉も再び輝くし、菊川もその魅力を引き延ばすことが可能になるはずだからだ(双方とも”逸材”であることは間違いないのだから、ようするに「使い方が悪い」と考えてみるのだ)。

するべきことはするべきことはたったひとつに集約される。それはミニマル化、シンプル化だ。これは形式化=Howの復活ということでもある。これには二つある。


情報量を減らす


ひとつは情報を徹底的に削ること。前回指摘しておいたように、現在の「とくダネ!」は情報形式=プレゼンテーションの崩壊を情報内容で補うという対処をしている。しかし、これはかえって視聴者を混乱に陥れている。つまり情報量が多すぎてイメージが拡散してしまうのだ。とどのつまり、それが「クドい」「ウザイ」ということになる。「クドい」のは、中身をクドクドと展開すると言うよりも、薄っぺらい情報がたくさん並ぶというところにある。そして、それは余分な情報ゆえ「ウザイ」のだ。だから、もっとシンプルにする。

また、差異化を図るために現在やっている、意図的に他局とは異なるトピックを取り上げるというやり方もやめる。この差異化はやはり情報内容=Whatに焦点を当てたやり方で、しかもキャッチーではない。 実はそういった差異化自体が、視聴者の関心を引かない。というのも、同様のトピックはあっちこっちの他局で取り上げられているので、視聴者のそのトピックへの親密性が高まっているというスケールメリットがある。一方、他が取り扱わないトピックは関心を惹起しない。だから、他でも扱うWhat=内容をとりあげて視聴者の目を向けさせ、それをHow=形式=プレゼンテーションで差異化を図るという、以前のやり方がいいだろう。他の同じトピックを少ない情報量で取り上げ、それを展開の仕方で差異化するのである。こうやって先ず情報を明瞭化する。

形式化を復活させる


そして、もう一つはこれと関連するが形式の復活だ。現在は情報が膨大で、その処理が錯綜したがゆえに、これを出演者がどう扱ったらいいのか、言い換えれば情報にどのような固定的なスタンスを取ればいいのかわからなくなっている。この状況は前述の情報圧の高まりによる意味の拡散が加わることで、いっそう視聴者が状況を把握できなくさせてしまっているのだ。要するに「複雑怪奇」。

そのために、やることは出演者の役割の再定義だ。たとえばこんなやり方が考えられる。メインはもちろん小倉だが、菊川を女性メインアシスタントから外す。そして、もう少しおとなしいというか佐々木恭子ばりに「物言わぬ威厳」を発せられるキャストに変更する。これは佐々木の時には「東大卒」という権威が用いられていたが、別に学歴的権威にこだわる必要はない。要は小倉のモノのイイを相対化するような視点を視聴者に促せるような役割が可能な女性なら構わないのだ。たとえばテレ朝の人気番組に「怒り新党」があるが、この番組の妙はマツコ・デラックスと有吉弘行の毒舌を中和するような女子アナの夏目三久にある。もし、マツコと有吉の二人だけで番組を進行すれば、これはただただクドいだけだろう。ところが、ここに夏目が割り込んで、二人の主張を適当にあしらうことで聞き流してしまう。これが、二人のトークの相対化をもたらし、番組は絶妙なバランスとなる。そして、マツコも有吉も最終的には夏目がテキトーにいなしてくれるという前提があることで、今度は思う存分毒舌を吐き続けることが可能になるのだ。こういったメインどころのキャラクターを相対化させる役所が必要なのだ。

一方、菊川は番組には温存しメインのプレゼンターに起用する。報道系の特集を担当させ、気象予報士の天達武史ばりに頻繁に登場させるのだ。これは小倉の仕切りと菊川の仕切りを分割し、その間に女性メインアシスタントを置くことで、双方の個性を生かそうというやり方だ。こうすることで小倉と菊川は寄り添うのではなく相対する立場となり、それぞれの強い個性を生かすことが可能になる。

またお利口になってしまった男性メインアシスタントの笠井信輔は降板させる。笠井にはもはや狂言回し=視聴者の代表としての役所は無理だろう。代わりに、前回取り上げた大村雅樹を起用する。大村はジャパンーコリアカップで展開した「安心理論」を次のドイツカップでもそのままやろうとしたが、ジーコジャパンがボロ負けし始めると突然立ち位置を変え「不安理論」、つまり否定的な要素ばかりを入れて心配するというリポートを展開し、これまたウケた。つまり、この徹底した「日和見」的なキャラクターは狂言回しとしてはピッタリだ。こうやって、形式=プレゼンの部分を明確にする。

形式の中で初めて生きる小倉の芸

小倉は確かに仕切らせると抜群の才能を発揮するが、半面、その仕切りは他のキャラクターの魅力を引き出すという能力については欠けている。だからこそ、こういった明確な役割配分が必要であり、この形式の中で小倉もまた相対化させることで、その毒舌は中和され、さらに小倉もまたこれに安心して、ますます乱暴に毒づくこと、またマニアックに好奇心を振り回すことが可能になる。そして、それこそが「小倉ワールド」なのだ。

結局、僕らが「とくダネ!」に見ているものは、要するに、この「丁々発止の形式」なのだ。これが復活すれば再び「とくダネ!」の人気も復活する可能性が開けるのでは?と僕は考えている。ただし、その時、小倉が「賞味期限切れ」になっていなければ、の話だが(もし小倉が新しい魅力を放つことができなくなっていたならば、それはいくら情報を減らし、形式を明確化したところで、やはりダメだろう。そう「水戸黄門」同様、形式だけが自動的に作動するだけの、視聴者には何の好奇心も喚起しないようなスカスカの番組になってしまうからだ。その可能性も、十分に考えられるのだが……)。

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