勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2013年05月

低感度な大多数の消費的な若者に注目する

前回は情報を自由に操るデジタル・ネイティブなど存在しないことをスマートフォンとSNSの使いこなしの現状についての調査から明らかにした。

いや、しかしやはりデジタル・ネイティブは存在する、と僕は考える。そして、これは若者を高感度な存在とするような、資本の側に阿ったイメージを前面に立てなければ、以外にくっきりと浮かび上がってくるはずだ。具体的にはデジタル・ネイティブとは、新しく出現するメディアを消費的に、そして既存のリアルな場でのコミュニケーションをメインテナンスするために利用する若者という側面で考えれば、つまり前回示したスマホとSNSの使い方を踏まえれば案外わかりやすい。

それは、要するに僕が前回示した二十五年前のビデオ視聴について調査した結果の側面と同じところに目をつければいいということになる。あのとき、若者たちは様々な機能を使いこなすのではなく、ただ時差視聴のためにビデオを録画していた。つまり、限られた機能を実にシンプルに、そして消費的に使っていたのだ。そして、現在ビデオ視聴は完全にそういったスタイルで利用されるようになっている。要するにメディアの発達はこういった「時差視聴」にシフトしたかたちで録画という情報行動や情報意識を涵養したのだ(もちろん、これはメーカー側が時差視聴に振ったというよりも、消費者の方がメーカーに振ったと考える方が的を射ている。つまりいくら多機能にしていってもユーザーたちがなびくことは決してなかったのだ)。その結果、録画はどんどん簡単になり、なおかつ保存も安価にできるようになり、さらに録画しようとするコンテンツもアーカイブから手軽に引っ張り出せるようテクノロジーは発達していった。で、そうなったとき、若者たちは映像をコレクションしたり、カスタマイズしたりなんてことを、ほとんどしなくなってしまったのだ。だからDVDやBlu-rayなどレコーダーは(そしてディスクも)思ったほど売れない。見たければいつでもレンタルできるし、ネットから探してくることもできる。撮っておきたければHDレコーダーにワンタッチ予約しておけばいい。そう、メディアの様式を変容させたのは偏差値50の消費者=若者だったのだ。そしてこれは意識的というより、無意識的、身体的に涵養された行動パターンだった。で、これは高感度とはいえないかもしれないが、情報行動・意識の大きな変化とはみなせるだろう。

この図式をスマホやSNSにも敷衍すればいい。つまりスマホを高感度ではなく徹底的な消費物として、どのように利用しているのか、またSNSが世界ではなく、身内や仲間にどう開かれているのか、その様態はどうなのか。このへんが、実のところの目のつけどころではないのだろうか?

偏差値50の層が身体的に反応するメディア様式こそがデジタル・ネイティブの情報行動を規定してきた
だからデジタル・ネイティブとはインターネット、スマホ、SNSについての偏差値50の対メディア行動を探るということになる。そして、こういった偏差値50を探り当てたところが、実を言うと新しいメディアの覇権を握ることになる。スマホであるならば、それはiPhoneだった。iPhone出現以前にSymbianやBlackberryといったスマホ用のOSが存在したが、これはどう見てもオタク=メディア機器に長けた高感度なユーザー向け、それなりに技術を必要とする代物だった。だがiPhoneのiOSは素人=偏差値50でも利用可能なインターフェイスを備えていた。だからどっと人々が飛びついた。そして、このインターフェイスをコピーしたAndroidも普及し、現在のケータイからスマホへのシフトという流れが発生したのだ。

SNSも同様だ。身内でのクローズドなコミュニケーションをヴァーチャル・コミュニティ上で確保しようとしていた若者たちは、まずmixiからTwitterやFacebookへとシフトしたが、最終的に、もっと低感度な情報リテラシーで利用可能なSNSを発見する。それがLINEだった。LINEは無料通話を売りにしたが、その実最も利用されたているのはトークと呼ばれるチャット機能であることはもはや説明の必要すらないくらいあたりまえのことだろう。LINEはmixiとケータイメールとFacebookとTwitterとSMSの「いいとこ取り」かつ「簡略化」といった文脈で使われている。つまり電話帳とアドレス帳のみのデータをアクセスする対象=友達とするので(ワンクリックでこれらデータを検索してリストを作成してくれる)、mixiの閉鎖性を維持しつつ「足あと」などのうっとうしさを排除し、ケータイメールでの絵文字機能をスタンプ化することで拡張して表現力を高め、Facebookのグループ機能が備えるグループの外に自らの情報が流出するという危惧を取り除き、その一方でトークのタイムラインでダラダラと話を続けることが可能になり、Twitterの「バカ発見器」機能に引っかかることもなく、SMSのように一言で済ますこともできるのでメールみたいに長々書き続けたり、終わり方がわからなくて困ったりすることもない。またパケット定額での利用が基本なので、プッシュ機能をオンにしておけばいつでもリアルタイムでつながり、気軽にチャットできる。しかも、これらすべてがスマホというウエアラブルなメディアで、かつチープなインターフェイスゆえメディア機器に対する対した知識も必要とせず、即座に可能になるのだ。


デジタル・ネイティブを再定義する

さてこういったスマホやLINEの使いこなしからデジタル・ネイティブを再定義してみよう。

毎回出していて申し訳ないけれど、もう一度、指摘された「高感度」なデジタル・ネイティブを確認する。つまり、

1.金銭より自らの好奇心を満たしたり社会的に評価されることに関心の焦点がある、2.インターネットを利用したネットワークの構築に長けておりリアルとヴァーチャルの区別をしない、3.年齢差や属性にこだわらない、4.マルチタスクが得意、5.情報は無料。

だった。

一方、スマホでLINEをガンガン使う「偏差値50」のデジタル・ネイティブは

1.社会的評価より身内の評価に関心がある、2.ネットワークを利用したネットワークの構築が苦手で、リアルを重視しているので、リアルをヴァーチャルにしか上げることはない。ヴァーチャル間でのつながりなんか怖くてできない、3.年齢差や属性に徹底的にこだわる、つまり同じ年齢と同じ属性(高校生とか大学生とか)がネットワークのポイントになる、4.LINEの基本的機能しか使わないからマルチタスクは苦手でシンプルの機能ばかりを一本調子で使う。ただし消費的にガンガンと、5.有料スタンプやアドオンには手を出さない(ということは、LINEがプラットフォーム化を図っても、カネを使わないユーザーであるから、付け加えられた有料アプリを購入しない。だからLINEのプラットフォーム化は進まない)。

となる。つまり、面白いくらい全くの正反対になってしまうのだが、こういった層がスマホとSNSのLINEを圧倒的に支持したのだ。そう、こういった消費性を加速する若者こそがデジタル・ネイティブに他ならない。で、これは能動的ではないけれど新しいスタイルなのであり、これはこれでクリエイティブと考えるべきなのだ。

要するにスマホもLINEも偏差値50の若者の「消費性」と「身内コミュニケーション」への欲望をしっかりと見抜いたから爆発的な勢いで普及したのだ。そして、こういったメディアがいずれも若者から普及するということは、やはり「若者は時代を先取りしている」という法則がキッチリ当てはまっているということになる。

で、もっというと、こういった層こそが若者論を研究する側も、マーケティングをする側も注目すべきターゲットだろう。若者論は多くは社会学者に担われているけれど、マーケティング業界のやっていることとほとんど同じという状況になっている。つまり、今回指摘したように偏差値60以上か40以下のマイノリティに焦点を当てる。マーケティングはとりわけ60以上に焦点を当てる傾向があるのだけれど、これは要するにメディアの新しい機能を使わせたいがゆえに、こういった新しい機能にすぐに飛びつく高感度なアーリー・アドプターの実態をことさらに取り上げ、さも「これからはこうやって使うのがあたりまえ」というイメージを形成しているのだ。要するにビジネス的な煽りとして若者というユーザーがでっち上げられる。で、なぜか若者論を担う社会学者もこれに追従してしまう。まあ、資本の側に阿っていればメディアからお座敷の声もかかるだろうし、小銭も稼げる。そんなところなのかもしれないが。でも、社会学は社会病理学ではない。ということは本来偏差値50を探り当てることが課題の学問領域のハズなんだけれど。どっちにしても「掘る穴を間違えている」ことでは同じ穴の狢ということになるだろう。

デジタル・ネイティブなんかいない。でも、デジタル・ネイティブはやっぱりいる!

デジタル・ネイティブの存在と若者論の描く若者像のあやしさについて展開している。前回は若者論が一部の突出した若者を抽出してそれを普遍化=全体化するということで成立してきたこと、そしてこれがメディアと若者関係についての論調ともなるといっそう極端になったこと、だから若者イメージの現在形であるデジタル・ネイティブという「高感度な存在」もきわめてあやしいということを確認してきた。ただし、新しいメディアの出現とともに新しい行動・思考様式を持った人間が出現するということは事実。ということはスマホとSNSの出現と普及は、やはり僕たちの世界観を変えていく可能性を秘めていると考えるべきでもある。じゃあ、どういったものが考えられるだろうか。メディアやマーケティングが叫ぶような「煽り」としての人間像ではなく、もう少し慎重にこれを考えてみよう。

新人類と呼ばれた世代はビデオをどう使いこなしたか

デジタル・ネイティブ、そしてメディアと若者の関係を考えるにあたって参考になる二十五年前のデータ、パターンがある。

当時、若者は新人類と呼ばれていた。メディアや情報機器への親密性が高く、高感度であるゆえ、情報に対する能動性が高いことが指摘されていた。新人類は送り手の提供する情報をただ鵜呑みにするのではなく、これを自らの視点に基づいて積極的に解釈、さらにはカスタマイズする主体的な存在とされたのだ。その典型として挙げられたのがテレビ・コンテンツの見方だった。制作側が意図するストーリー展開など無視し、自由に解釈を加えていく。あるいは制作側の意図を熟知し、それを対象化、相対化するかたちでコンテンツを消費したり、読み替えたりする。そしてこの傍証とされたのが、当時絶大なる人気を誇った大映テレビ室制作のドラマ「スチュワーデス物語」だった。出来の悪いスチュワーデス(現在では、もちろん「フライト・アテンダント」と呼んでいるもの)が訓練所で研修を受け、教官との恋愛を通し艱難辛苦を乗り越えて一人前に成長していく、いわゆる「スポ根」系の物語なのだが、ストーリーは現実からは極端に乖離したデフォルメで構成されていた。つまり、きわめて「わざとらしい」。これをマジメに見ていたら「けしからん!」となるくらい虚飾に満ちた代物だった。ところが当時の若者はこれに熱狂する。ただし、彼らの「熱狂ポイント」は「わざとらしさ」だった。あまりに現実から乖離していてバカバカしいので、かえってその不自然さを楽しんでしまおうという視点に立ったのだ。だから、送り手側が展開していたスポ根物的なストーリーに感動するどころか、「わざとらしい!」と爆笑するという見方になったのだ。こういった能動性の高まった受け手はマーケティング業界では「プロシューマー」と呼ばれた。プロデューサーとコンシューマーを掛け合わせたことば、つまり制作側の視点を持った消費者=視聴者という意味だった。

そして制作側の意図とは異なる独自の見方をするツールとして若者が利用するといわれたメディアが、当時普及し始めたビデオデッキだった。番組を録画、コレクションし、これを繰り返し視聴したり、コマ送りにして詳細を確認したりすることで、番組の構造それ自体を明らかにしてしまう。あるいはトリビアを見つける。こんなことが指摘されていたのだった(その中心的人物は法政大学の稲増龍夫だった)。

しかし、新人類世代であった僕にとってはどうもこの話は、やっぱり「眉唾」ものだった。そんなヤツ、本当にいるのか?そこで88年、大学生(中央大学、東洋大学、熊本短期大学の学生400名程度)を対象にビデオ視聴の調査を行った。そして、その結果は、なんと若者論やマーケティングが指摘していたものとは正反対だったのだ。まず以外だったのが所有するビデオの本数。なんと平均10本程度。だから、映像はコレクションするのではなく、もっぱら時差視聴のために使われていた。つまり一回見たら消してしまう。もしプロシューマー的な視点を持っているなら、こんなことをするわけはない。コレクションとして保存し、繰り返し視聴して制作側の意図を読み取り、それに対して高踏的にこれを批評したり、独自の解釈をするはずだ。だが、そんな七面倒くさいことはやっていなかった。ただ録画してみるだけ。またいろんな視点から映像を見ることもほとんどやってはいなかった。

実は後でわかったことだったのだが、傍証とされた「スチュワーデス物語」の見方についても実はウラがあった。『大映テレビの研究』(竹内義和)という本があり、これがいわば制作側の意図とは異なるもう一つの見方を提示するネタ本として当時の若者にウケているに過ぎなかったのだ。しかも、この本とて手にしている若者はそんなに多いというわけではなく、もっぱらマーケッターたちがこういう「一部の突出した(ただし能動性が高いわけではなく受け売りを喜んでいる)若者」を全体化し高感度な若者を演出するための道具として利用したのだった。「能動的な受け手」という発想自体がメディア・イベント的なでっち上げだったのだ。

デジタル・ネイティブというまぼろし~ チープなスマホ使用

25年も前の調査をここで紹介したのにはわけがある。デジタル・ネイティブに関する記述もこれとほとんど同じパターンだからだ。指摘されていることと実際が大きく乖離している。昨年、僕は大学生(関東学院大学、立正大学、宮崎公立大学300名強)を対象にスマートフォンとSNSの利用動向についての調査を行っている。この結果がデジタル・ネイティブに想定される使いこなしとは、やはり全く異なっていたのだ。デジタル・ネイティブの特徴をおさらいしておく。1.金銭より自らの好奇心を満たしたり社会的に評価されることに関心の焦点がある、2.インターネットを利用したネットワークの構築に長けておりリアルとヴァーチャルの区別をしない、3.年齢差や属性にこだわらない、4.マルチタスクが得意、5.情報は無料。これが、どうなるか?

 彼らのスマホ所有率は70%と一般に比べると高い普及率にあったけれど、その使いこなしについてはきわめて限定されていた。つまりメール、ネットブラウズ、ゲーム、音楽視聴、そしてSNSといったところ。一番利用されているのはSNSだったが、これもほとんど身内ツールとして使われていた(詳細は後述)。だから、社会的に評価されるというよりも身内に評価されるツールとしてこれが使われていた。したがってそれはリアルとヴァーチャルを極端に分けた使い方になった。具体的にはリアルな人間関係をヴァーチャル上でヘッジするという使い方。これは言い換えるとネットワーク構築能力の脆弱な部分をスマホでフォローするというやり方だった。当然、ネットワークを利用する仲間は互いに有名、つまりハンドルネームであってもその実名を知っている人間に限られ、だから関わる際には年齢と属性に極端にこだわったものになっていた。面白いのは自宅外でWi-Fiを使用することがほとんどなかったこと、そしてデータをパソコンと連動もしていない人間が半数以上を占めたことだ(つまりスマホを紛失したり壊したら全部パーになる)。この部分についてはマルチタスクどころか究極のシングルタスクという印象(ただしフリック入力はものすごく速い)。そして、彼らが購入するアプリのほとんどは無料のもの。一度も有料アプリを購入したことがないという若者が半数以上を占めていたのだ。

SNSは身内コミュニケーション・ツール

SNSの使い方についてもデジタル・ネイティブの指摘する傾向とは対照をなしていた。たとえばTwitter。自由にツイートし、不特定の人間との間でコミュニケーションや情報交換をするという、Twitterについて指摘されているものとは異なり、これまた身内ツールとして使われていたのだ。彼らのフォロー、フォロワー数はいずれも100人未満。つまり、これらのほとんどはリアルですでに知っている人間たちなのだ。Twitterはツイートした内容が世界に開かれているものだが、それは可能性としてそうであるだけ。実際には若者たちは身内の間でのチャットのツールとしてTwitterを使用していたのだ(だから身内の間ではつぶやいてもいいが、外部に向けてつぶやいてはマズイものをつぶやき、それが世間に広く知れ渡った結果、えらい目に合うという、Twitter=「バカ発見器」という利用法になったりした)。またTwitterにそなわる他の機能(ハッシュタグによる検索など)についても、その利用度はきわめて低かった。

Facebookについては、学生たちは意外なほどに利用していない。Twitterと同様、彼らにとってFacebookはちょっと使うのが難しいツール。そこで、Twitterの場合は身内の連絡ツールとして使う方法を思いついた(mixi代わり)。ところがFacebookはよくわからない。また、実名なので怖い、プライバシーが漏れてしまう恐れがあると思い込み手を出さない(その半面、ある意味もっとアブナイTwitterには手を出して、バカ発見器に引っかかる)。グループを作ってみても、これがどこと関わって、どこに情報が伝わるのかわからないので、おっかない。

こうやって考えてみると、う~ん、どこにデジタル・ネイティブなんかいるんだろう?と考えてみたくもなってしまうのだけれど。

それでも、僕はデジタル・ネイティブは存在すると考える。ただし、高感度な存在という文脈でないところに。(続く)

デジタル・ネイティブって、知ってます?

デジタル・ネイティブということばをご存知だろうか?2008~9年頃に話題になった、デジタル世代の若者や子どもに与えられた呼称だ。命名元はイギリスの調査会社のガートナーといわれている。「生まれたときからインターネットやパソコンのある生活環境の中で育ってきた世代」(Wikipedia)で、具体的には90年代以降に生まれを指す(70年代以降、80年代以降生まれという指摘もあり、混沌としている。ただし、騒がれたのは2008年)。一方、それ以前の世代は途中からこういった情報環境に接することになったので、これと比較してデジタル・イミグラントと呼ぶ(まあ、ようするに「移民」というわけだ)。

その特徴を一言で示してしまうと、それ以前のアナログ世代(つまりデジタル・イミグラントたち)の感性や習慣を引きずらないところにあるとされていた。具体的にはインターネットやコンピューターを過去のメディア利用スタイルにこだわることなく用いるため、1.金銭より自らの好奇心を満たしたり社会的に評価されることに関心の焦点がある、2.インターネットを利用したネットワークの構築に長けておりリアルとヴァーチャルの区別をしない、3.年齢差や属性にこだわらない、4.マルチタスクが得意、5.情報は無料と考えている、といった心性や行動傾向があげられていた。2008年当時には、 こういった認識でネットを駆使した結果、10代にしてネットビジネスでミリオネアになってしまうような才能を発揮するような若者が登場していることなどが指摘されていた(2008年のNHKスペシャル特集「デジタルネイティブ」など)。また、情報関連機器のマーケティングのセグメントとしても注目されていた。

スマホとSNSの普及でいよいよデジタル・ネイティブ出現か?

ただし、最近はとんとこのことばを聞かないのだけれど……まあ実際、あまり流行語にはならなかったことも事実。ただし、このことば、今年になってもチョボチョボと出現するようになってもいる。というか、ひょっとしたら今度こそ派手なことばになるかもしれない。というのも、このデジタル・ネイティブを取り上げるのに格好な環境が出現しているというような社会的、技術的文脈があるからだ。それはスマートフォン、そしてSNSの普及だ。この二つは、コンピューターのカジュアル化、そしてウェアラブル化を徹底的に推進してしまうメディア=ツール。だから5年ほど前にはパソコンとインターネットをベースにしていたこの議論が、パソコンがスマホに置き換わり、コンピューター=インターネット環境が偏在することによって盛り上がることが考えられる。つまり、スマホを所有することで、前述した特性が一気に引き出される可能性があるのだ。ということは、まさにデジタル時代の「新人類」が誕生するということになるのでは?と、期待を抱かせないでもない。

これは「いつか来た道」だ!

だが、ちょっと待てよ?この手の話ってのは、新しい世代についての語りについてこれまで展開されてきた典型的なパターンじゃないの?そう、いわゆる「若者論」って文脈で。で、調べてもらうとわかるのだけれど、若者論ではこういった高感度で高性能な若者ってのがその都度、議論の俎上に載せられ、大騒ぎした挙げ句、結局全くもってハズレという事態を繰り返してきている。しかも、それは今日の若者論においても全く変わりがない。だから、これも「いつものパターン」として眉にツバをつけて考えた方がよさそうだ。ということはデジタル・ネイティブという世代の存在、つまりことば自体があやしいし、スマホとSNSが普及したところで、決してデジタル・ネイティブが出現して世界を席巻することもないと考えた方がよいのでは?

そこで今回はデジタルネイティブが、実際のところ可能性としてあり得るのかをメディア論的に考えてみようと思う。結論を先に述べておけば「これまで話題になってきたようなデジタル・ネイティブなど存在しない。しかし、立ち位置を変えた瞬間、デジタル・ネイティブの存在はきわめてリアルなものになる」ということになる。ちなみに今回の特集は若者論への批判でもある。

そこで今回は、先ず若者論で語られてきた新しい世代についての典型的な語り口のパターンを確認、これを否定することから始めたい。そして、そこから騒がれてきたデジタル・ネイティブという幻の正体を明らかにしてみたい。これを踏まえ次回、新しい世代についての可能性についての見方を提示し、その見方に基づいてデジタル・ネイティブの可能性について考えていくという段取りで展開していく。

偏差値60以上(あるいは40以下)の世界

これまで若者論での若者像は常に「一部の若者を取り上げ、それを無根拠に普遍化=全体化する」というやり方で展開されてきた。これは若者についての語りが「若者論」と呼ばれる以前(「青年論」と呼ばれていた)の60年代から変わるところがない(昨年出版された『絶望の国の幸福な若者たち』古市憲寿、講談社などはその典型で、古市がまとめている若者文化の歴史は、この「一部の若者を取り上げる」パターンを並べるという、荒唐無稽にダメを押したような展開になっている)。そして、取り上げられる若者を一言で示してしまうと「偏差値60以上の若者」ということになる。もう少し丁寧に説明すると「大都市圏にある偏差値60以上の大学に所属している文系男子大学生」のうち「より行動が活発でコミュニケーション能力が高い若者」というマイノリティとなる。60年代末なら学生運動に打ち込んでいた学生、80年代なら出回り始めたパソコンを駆使し、ギョーカイに詳しく、イベントなどを立ち上げる文系の若者(「新人類」と呼ばれた)が抽出され、これが「いまどきの若者」として若者の全てであるかのようにおおっぴらに書き立てられた。ちょっと考えればすぐにわかることだが、若者論で取り上げらた若者は、当該世代の若者のほんの一部でしかない。言い換えれば偏差値50あたりの「マス」な学生たち、アクティブで無い学生たち、そして学生ではないそれよりもはるかに大多数となるフツーの若者たち(70~80年代の大学進学率は30%以下。現在は50%)は蚊帳の外の存在として無視され続けてきた。

ちなみに偏差値40以下の若者を扱うという傾向もある。バブル崩壊後の90年代以降、若者に対する論調は時代の低調さを反映し、それまでのもの(たとえば「新人類」など)と打って変わってネガティブなものとなった。オタク、引きこもり、ニートなんてのがその典型。だが、これもまた当該世代の若者の一部を強調し普遍化=全体化したものであることでは全く同様だ(ちなみに「偏差値40以下」と表現したが、要するに「否定されるべきマイノリティ」という意味で用いているのだ、実際に大学偏差が40以下というわけではないことをお断りしておく)。

こうなってしまうのは、要するに若者論を展開する論者の多くが首都圏の高偏差値系大学に籍を置く「大学教員」であるからというところにある。教員が余技で身の回りのちょっとトンガった若者を描いてみたというのが若者論の本質といっても過言ではないかもしれない。

若者論の中でも最もデフォルメが激しい「若者とメディアの関係」

そして若者論はメディアの議論になると、この「一部を普遍化する」というデフォルメがさらに極端になる。80年代前半なら「新人類」ということばについての議論がその典型だった。新人類は「既存の価値観に流されることなくパソコンやメディアを用いて情報を駆使し、コミュニケーション・ネットワークを構築して自己実現を達成していく高感度な存在」と表現されたのだった。僕は新人類世代のド真ん中に位置していたのだけれど、自分の周りで、こういった新人類的な人間をほとんどといっていいほど見かけることはなかった。むしろメディアが流布する「新人類という価値観」に翻弄され、自分も新人類じゃないとヤバいみたいな強迫観念に駆られている「既存の価値観にもっぱら流される」「低感度な」若者ばかりだった。

それでも、若者たちがメディアを駆使するという前提で語られるのが若者とメディアの関係だ。前述の新人類ならWALKMANやビデオ、そしてパソコンが引き合いに出され、これを使って外部世界に大きく打って出るというような表現がもっぱらなされたのだ。

で、こうなってしまう理由は結構単純。新しいメディアの出現は、その機能を駆使することで生活の利便性や行動パターンの変容が期待できる。つまりメディアは「カーゴ信仰」的に捉えられ、それに最も順応が早いのが若者である、いや若者であって欲しいという資本の側(そしてマーケティング側)の都合によって「煽り」として、こういった「高性能で高感度な若者」がデッチ上げられたのだ。だから、当時からメディアに関する記述で若者論にエピソードとして登場する若者は、新しくビジネスを始める、すっごくクリエイティブなごくごく一部の若者ということになった(当然、ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブズ、西和彦といった、さらにごくごく一部の若者がさながら全若者の代表=イコンのように語られたのだった)。

新人類はいなかった、ということは……

しかし、すでに述べたように、そんな奴らはいなかった。つまり「新人類」は存在しなかった。しかし、その後もメディアと若者の関係は新しいメディア、とりわけ電子メディアが登場する度にデフォルメしたかたちで表現され続けた。たとえばポケベルやケータイ。これも全く同じ脈絡で語られている。ただし、結構ネガティブな文脈が強かったのだけれど。典型的なのが「ケータイ利用によるコミュニケーションの希薄化」という議論で、ヴァーチャルなコミュニケーション関係ばかりだとリアルな人間関係がおかしくなるという警鐘がまことしやかに鳴らされた(これについては松田美佐などの社会学者がこれを否定している)。

つまり、新しいメディアが登場した際に語られる若者に関する議論は、先ず疑ってかかる必要があるのだ。ということはこのデジタルネイティブという考え方も「一部を普遍化する」いつか来た道。だから、とりあえずは「眉にツバ」して見た方がいい。ということはスマホとSNSの急激な普及があったとしても、やはりこういった高感度な若者が出現し、それが若者の大多数になるとは考えない方がいいということになる。

ただし、だからといって新しいメディアの出現と普及が若者の情報行動や思考様式を変えることはない、というわけではないだろう。とりわけ「スマホというコンピューター=インターネット環境」の偏在化は若者に何らかの根本的な変化をもたらしているのでは?と僕は考える。ただし、それは若者論のように偏差値60以上、あるいは40以下を見ても決して明らかにならない。じゃあ、どこを見ればそれが明らかになるのか?それはマス、つまり偏差値50のメディアの使い方を見ることにある。(続く)

タモリの芸風からマンネリズム=ワンパターンがいかに重要であるかを考えている。タモリは、番組においては大まかな決まり切った進行を制作側に任せ、そのシナリオ上で自由に立ち回ることに魅力があることを前回は確認した。今回はこれを踏まえ、その内実、つまりマンネリズム=ワンパターンの番組制作上(そしてすべてのコンテンツ)における役割について考えてみたい。ただし、それはマンネリズム=ワンパターンという図式を解体することでもあるのだが

「タモリ倶楽部」は究極のマンネリズム

再びタモリの番組について考えてみたい。おそらく、もっともタモリのスタイル=芸風が反映されている番組は「タモリ倶楽部」だろう。この番組は、ほとんどシナリオというものがない。テーマが決められ、そのテーマについて関係があるような、無いような人物たちが登場し、ダラダラと話を続けるだけだ(ただし、誰もが話術に長けている。ちなみに全てロケ)。テーマは思いつくものならなんでもいい。鉄道がその代表的なものだが、どこかの場所についてのことであっても、グッズであっても、人物であっても、現象であっても、もう、ほんとうになんでもいいのだ(鉄鍋とかハイサワーとかインド人がやっている飲み屋とかがテーマになったこともあった。稜線なんてのもあったが、これはおそらく「ブラタモリ」のヒントになっているのではなかろうか)。典型的なのが「酒飲み」の特集で、ラーメン屋でどうでもいい酒を飲んだり、中野・新井薬師にある日本銘酒会の酒屋・マチダヤで何種類も酒を飲んだりするだけ(試飲する場所も店の向かいの空き地だった)。 で、これは要するに「どうでもいい設定」というワンパターンの形式があるだけなのだ。 いいかえればほとんどコンテンツ無し。ところが、こうやって雑に、そしてゆるくやればやるほど番組はむしろ面白くなる。それぞれが勝手に語り、それにツッコミを入れる。

また、一般のトーク番組だと聞き手と話し手、仕切り手と仕切られる側が分離していることが多いが(「徹子の部屋」「さんまのまんま」がその典型。それぞれ黒柳、さんまが仕切っている)、「タモリ倶楽部」の場合にはこれがほとんどない。ひたすらジャムセッションが繰り返される。だが、こういった「コンテンツ無きに等しいコンテンツ構成」のおかげで、登場人物によって無限のパターンを繰り出すことが可能になる。しかもタモリが仕切らないのでタモリの押しつけがましさもない。強いて表現すればタモリが押しつけるのは「押しつけがましさ」ならぬ「押しつけがましさ無しさ?」といったところ。さながら羊飼いのように出演者を遊ばせるのである(だから、しばしば休んでいる)。言い換えれば、タモリ自身にすらコンテンツがない。

マンネリズムはワンパターンではない

タモリのこの展開は、まさにマンネリズムの極致といっても過言ではない。しかし、面白いことに、これは実はワンパターンではない。むしろ万華鏡のように変化するパターン。そしてそれが番組のダイナミズムを生み、フレッシュさを維持するポイントとなっている。

これは「マンネリズム=ワンパターン」という図式で番組を捉えることが誤りであることを示唆している。マンネリズムは確かに一見するとワンパターンだ。だが、こういったワンパターンを安定して提供することでコンテンツを消費する側は、このパターンに親密性を覚え、アクセスビリティを高めていく。つまりコンテンツそれ自体よりも、コンテンツを作り上げている形式=メディア性に馴染んでいく。だから先ずはワンパターンを作り上げることは、実は重要なのだ。

問題はその先だ。そういったパターン=形式上で番組がどのように展開するか?これが番組の魅力のキモとなる。たとえば「ドラえもん」。そのパターンは九割以上が同じもの(問題状況の出現→解決手段の提示→一旦解決→悪用→因果応報)。そしてこのパターンは子どもですら身体的に馴致可能な素朴なものだ。だから作品に親しみを覚え、ドラえもんに飛びつく。つまり、ワンパターン。しかし、そのワンパターンの中で様々なバリエーションが展開される。毎回異なったひみつ道具が出され、これが様々なシチュエーションで用いられていくのだ。つまり全く同じパターンで様々な展開=変化を生み出す。こうなるとむしろワンパターンの方がいろんな表現がしやすいということになる。そう、これこそがマンネリズムのすごさに他ならない。ちょっと他の長寿番組を見てみよう。ずーっと続けられてきたので有名なのは「水戸黄門」「笑点」「生活笑百科」あたりだが、これらは全てワンパターン。ただし、どこでどのような条件で印籠が出るのか、大喜利で林家木久扇はどんなバカをやるのか、上沼恵美子はいかに荒唐無稽なウソをつくのかといったかたちで形式を踏まえたバリエーションが展開する。この差異が見たくて視聴者はチャンネルを合わせるのだし、これが無限に登場することで継続してこれを見続け、最後は番組を見ることが水みたいな「日常」へと転じてしまうのだ。

つまり、番組を成立させるにあたっては二つの条件が必要ということになる。


1.必要要件としての”コンテンツに対する安定した形式”

2.十分条件としての”形式を踏まえた展開”


前者は原則ワンパターンでなければいけないが、後者は常に変化していく必要がある。これが可能となったとき「マンネリズム=ワンパターン」という図式は崩れる。マンネリズムは永続する魅力的なスタイルに転じるのだ。一方、”2=形式を踏まえた展開”がワンパターンになったときにはまさにこの図式が当てはまり、視聴者たちは飽きてしまい、「ワンパターンだから飽きた」ということになって、番組から離れていく。こうなってしまった典型が「水戸黄門」だ。これは同じ時代劇の必殺シリーズと比較するとよくわかる。必殺は1こそ完全にワンパターンだが、仕事人が頻繁に入れ替わり、繰り出す必殺技も変化していくことでバリエーションの展開に成功している。危機に陥ったのは1の維持が難しくなる恐れがあった中村主水役の藤田まことが死去したときだったが、仕事人の一人である渡辺小五郎役(渡辺もまた中村同様昼行灯というキャラクター設定だった)の東山紀之にこの役割を移すことで切り抜けている。一方、「水戸黄門」の場合、役割設定を固定しすぎ、展開のバリエーションが出尽くしてしまった。

そして、この究極のスタイルがタモリの番組に他ならない。タモリはものすごくシンプルでわかりやすい必要条件(ほとんど展開というものがない形式)を用意して視聴者を惹きつけ、そこにゲストを頻繁に入れ替えるとともに、自らもでしゃばらない程度に「適当」に仕切ることで、見事にマンネリズム=ワンパターン図式を打破している。だから、これからも賞味期限切れになることなく、本人が引退しない限り、タモリは延々とテレビに出続けるだろう。(逆に言えば、さんまやワイドショーのパーソナリティ(みのもんた、小倉智昭など)は仕切っているぶん自らの力量が求められ、最終的には2=十分条件がワンパターンになって飽きられてしまう可能性がある。小倉などはその典型だろう)。

でも、こうやってみるとやっぱりタモリの演出はジャズだなあ!

やっぱり、タモリのマンネリズムは偉大なのである。

長寿番組三本を持つタモリ

タモリは二十五年以上続く長寿番組を「タモリ倶楽部」「笑っていいとも!」「ミュージックステーション」と三つも抱えている。そしてこの三つの番組、大して視聴率が浮き沈みすることもなく延々と続いてきた。これら番組に共通することがある。ワンパターン、そして究極のマンネリであること。本来ならマンネリ=ワンパターン化してしまったものは飽きられるはず。ところが、タモリの場合、決してそうはならない。なぜだろう?

僕もタモリが担当するこの番組を開始当初から飽きることもなく、ずっと見続けてきた。というより、飽きるとか、飽きないとかという軸が全くない状態で、ほとんど日常、ほとんど水のように、ただダラダラと見続けてきたのだけれど……。でも、僕のようにタモリの長寿番組にダラダラと付き合ってきた人間は多いのではないか。そして、それこそがタモリの人気の秘密なのではないか。

そこで、今回はタモリの人気の秘密について考えてみたい。ただし、今回の最終的な目的はタモリ個人の人気を明らかにしようとすることにあるのではない。まあ、それもあるが、一番のねらいはタモリが延々と続けるワンパターン=マンネリズムということばの意味についてメディア論的に考えるところにある。そして、そのための典型的な存在としてタモリを分析しようというわけだ。実は「究極のワンパターン=マンネリズムは最もワンパターンでない」という逆説的な結論、そして「ワンパターンこそ最も偉大な作風・芸風」であることを明らかにしていきたい。

アシスタントや脇役が重要な役割を占める

先ずはタモリの芸風をい見てみよう。上記にあげた3番組(そして、これまで担当してきたほとんど全ての番組)はいずれもほぼ同じパターンで構成されている。構成作家やディレクターによる大枠の構成と進行が用意され、その他はほとんどタモリにお任せというやり方だ。ただし、この「お任せ」というのはタモリにひたすら仕切らせるというのとはちょっと違う。多くは横に進行役としてのアシスタントを用意する。たとえば「ミュージックステーション」では女子アナが、「笑っていいとも!」ではテレフォンショッキングのコーナーを除けば、すべて他のタレントが(SMAPメンバー、爆笑問題、関根勤など)、そして「タモリ倶楽部」では週替わりで准レギュラーのタレント(空耳アワーではソラミミスト・安西肇)が、また「タモリのボキャブラ天国」では小島奈津子が、「トリビアの泉」ではこれを高橋克実と八嶋智人が、「ブラタモリ」では久保田由祐佳がその役を担っている。

ただし、この構成は骨太ではあるが、やはり大雑把。枠だけが用意されるというパターンだ。そして、この「ゆる~い」構成の中、タモリもまたゆる~く番組を展開していく。ただし前者は「カチッとしたゆるさ」、つまり大枠だけはしっかりしているという形式、後者は本当にゆるいそれだ。タモリの座右の銘は「適当」で、スローガンも「明日やれることは今日やらない」と、まさにこのゆる~い展開を確信犯として展開していることを臆面もなく言い放っている。実際、番組中もよく休んでいるし、他のタレントから「休むな!」と指摘されることもしばしば(笑福亭鶴瓶がよくこうやってつっこんでいる)。しかし、このゆる~い展開こそが、実はタモリの本領、そしてマンネリズムの極値=キモになっているのだ。

タモリの芸風はジャズの「モード手法」

タモリは早稲田時代ジャズ研に属し、トランペットを担当していたが、仲間から「マイルスのトランペットは泣いているが、オマエのは笑っている」と指摘され演奏者を断念。MCに回ったという経歴を持っている。しかし、タモリをジャズマンとして捉えると、その芸風はむしろくっきりと見えてくる。とりわけ前述のマイルス・デイビスがビバップを基に完成したと言われる「モード手法」(典型的なスタイルは59年のアルバム”Kind of Blue”で聴くことができる)に例えるとよくわかる。ビバップはコード進行やメロディ、ハーモニー、リズムに合わせて各パートがアドリブを展開するのだけれど、こうすると結局のところリこれらに拘束されて自由な表現ができない。そこでこれらをある程度無視して自由に演奏するというスタイルが採られた。これがモード手法だ。

ただしそうした場合、もし全員がコードなどの規則を無視して演奏したらこれはメチャクチャになる(モード手法の後に現れたフリージャズがこれに該当する)。だから、自由に演奏できるのは原則的にはソロパートを取っているときで、それ以外はコードやリズムをキープする必要がある。

タモリのやり方はまさにモード手法と呼ぶのがふさわしい。アシスタントにリズムやコードキープ、つまり進行を任せ、自らはソロイストとして自由にアドリブを展開する。しかも、しばしばこれらは無視だ。だがアシスタントがキープし続けるので自由にアドリブが展開できる。

ただし、ここで面白いのはタモリは必ずしもソロをやりっ放しというわけではないところだ。つまり、時にはバックに回ってコードやリズムをキープし、アシスタントやゲストにソロを取らせる。これがタモリが「休んでいる」時なのだ(実際全く何もしていない=演奏していないで時間が進行することもしばしばある)。だが、こうすることでジャズのインタープレイ(ソロを交互に取り合う)と行ったスタイルが出来上がる。

で、こうすると面白いことが起こる。要するにタモリはジャズバンドのリーダーとしての役割を担うが、ユニットを組んだ他のメンバーに自由にやらせることもできるわけで、その結果、メンバーを入れ替えることで同じワンパターン=形式でありながら、相手のパーソナリティも生かし、無限にパターンを創り出すことが可能になってしまうのだ。

しかも、それぞれのアドリブを展開する場面を用意するだけではない。時にはアドリブに関しては素人的な存在まで無理矢理ソロを取らせ、その能力=パーソナリティを開花させてしまうという離れ業もやってみせる。たとえはNHK「テレビファソラシド」では、ベタにNHK的な女子アナの大御所・加賀美幸子アナに、「ボキャブラ天国」では小島奈津子アナにツッコミを入れ、アドリブを取らせてしまった。そこに、観客=視聴者たちは新しい意味=面白さを発見するのだ。

フリーな側面も

また、そのアドリブはモード手法にあったスタイルとも少し違っていて、ややもするとフリージャズ的な側面もある。モード手法の場合、ソロパートの順番はだいたい決まっている。たとえば60年代当時(“Kind of Blue”は59年)のマイルス黄金期のクインテットだったらトランペット(マイルス)→テナー(W.ショーター)→ピアノ(H.ハンコック)→ベース(R.カーター)→ドラムス(T.ウイリアムズ)→トランペットという順番。ソロを取っていないとき、各パートはバックでコードとリズムを刻み続ける。ところが、タモリの場合は相手がソロを取っているときに介入し、その場でインタープレイを展開する。つまり、つまり相手がトピック=アドリブをすると、これにヒントを得て、今度はそれに関連するトピック=アドリブを語り出す。そして、同じトピックのコントラストがそこで生まれるのだ。 

ひたすら「適当」

ただし、この仕切り方もまた「適当」。こういった掛け合いをするとき、一般のパーソナリティ(たとえばみのもんた、明石家さんま、小倉智昭)などとは異なり、決して相手の話をまとめて「場を締める」ということをやらない。相手のアドリブに対してタモリはその変奏をやってみせるだけなのだ。だから、二人は主題こそ同じだが全く別の話をする。その結果、相手との対話において自らがイニシアチブを取りながら仕切ることをしていない。言い換えれば無理矢理まとめに持っていくことは絶対にしない。しかも、話は唐突に終わる。だから、仕切りが「適当」なのだ。だがこの時、場はタモリ色に染まる。相手に適当に喋らせ、それに対して自分も適当に答える。場はリラックスしたムードに包まれ、それがさらに次の話=アドリブをインスパイアーしていく。そして、このムードが視聴者側にも伝染する。見ている内に、だんだんこの「ゆるゆる」「ダラダラ」ムードのパターンへの中毒症状が現れるのだ。

こういった「適当」な、無責任と言ってもいいほどの「仕切っているようで仕切っていない、仕切っていないようで仕切っている」というタモリ風演出(つかみどころがないゆえ爬虫類=イグアナということになるのだろうか?)が、今回取り上げた三つの長寿番組(そして全てのタモリの番組)に共通しているワンパターン、マンネリズムの魅力なのだ。そして、このマンネリズム、実は長寿番組と呼ばれる全てに共通している。じゃあ、それは何か?次回はこの構造についてみてみたい。この時、われわれが魅力を感じているのは、実は番組の内容=コンテンツではなく形式=フォルム=メディア性なのだ。(続く)

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