勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2013年04月

ハングリー・マーケティングという手法

4月12日、村上春樹が『IQ84』から3年ぶりに新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を発売した。代官山の蔦屋書店では11日夜に日付が変わる1分前からカウントダウンが行われ、この様子があちこちのメディアで報道された。また、初日の発行部数で50万部と、出足は前作を凌駕する勢いで、もはや「祭」と化した感すらある。

ただし、この「祭」、仕掛けがある。いわゆるハングリー・マーケティングと呼ばれる手法だ。これは情報を発売前に抑えて飢餓感を煽り購買意欲をかき立てるやり方。これがおおっぴらに用いられるようになったのは古くは35年ほど前の角川春樹事務所の映画戦略に遡るが、最近では村上の出版物に顕著だ。2009年の『IQ84』のときが典型で、この時にはタイトル以外、一切情報が外部に漏れることなく、これによって「今度の村上の作品はどうなるのだろう?」という期待感を抱かせ、それが発売と同時の爆発的ヒットに繋がった。また、この時は上下二巻で出版日を前後させたために、今度は二作目の発売の期待が生まれて一作目がさらに売れるという現象まで出現するに至った。そして今回の新作だ。全く同じ手法が使われているといっていい。今回も前回と同様、書き下ろしであり、その内容が全く外部に漏れていない。だから、飢餓感はいやがおうにも煽られる。
そこで、今回はこのハングリー・マーケティングの手法について考えてみよう。どういった条件で、どのようなやり方をすることでこの手法は効果的に働くのだろうか?

Appleのハングリー・マーケティング

ハングリー・マーケティングの手法を得意とするのはAppleだ。たとえばiPhoneを取り上げてみよう。スティーブ・ジョブズ生前時、Appleはベタなハングリー・マーケティングの手法を採っていた。新製品が出ると期待させ、なかなか出さず、しかも情報が一切といっていいほど外に漏れない。これでユーザーたちの間で期待が盛り上がり、その飢餓感がピークに達した瞬間を狙って、新作をリリースしたのだ。

ただし、全く情報が事前に外部に伝えられていなかったわけではない。少なくとも噂のレベルではさまざまな情報が流れ、それが「食欲をそそらせる」という呼び水効果をもたらしてもいた。もっともジョブズ逝去後は、この方針がちょっと変更されている。事前にかなりの噂や信憑性の高い情報が漏れるようになったのだ。だが、これも別の意味での「飢餓感の煽り」であることに代わりはない。つまり、ハングリー・マーケティングは「全く情報を外部に漏らさない」ことではなく、「漏らさないと言うことでメタ的な情報がひろがり、それが購買意欲を煽る」という手法と考えた方が妥当なのだ。

村上の受賞が購入意欲を煽る

だが、村上の場合、本当に外部に一切情報が漏れない。だからAppleのそれとはちょっと違うのでは?と考えたくもなる。ところが村上の場合には結果的に作品と関わりのないところでハングリー・マーケティングが展開され、それが飢餓感を煽る=期待を抱かせるという循環を作り上げている。それは村上、そして村上作品が世界的な名声のある賞を獲得することで結果として発生する「マーケティング」だ。とりわけ毎回候補に挙がるノーベル文学賞は最たるもので、その都度「村上祭」が展開される。だから、これは仕掛けているわけではないが、結果としてマーケティング=プロモーションになってしまっている。そして、こういった賞の受賞や賞へのノミネートは、翻って新作への期待感へと転じるのである。

ハングリーマーケティングを可能にする二つのポイント

じゃあ、こうやって発表を出し惜しみして飢餓感を煽れば商品は簡単に売ることができるのか?というと、話はそんなに甘くはない。そのためにはいくつかの条件がある。それらは一言で表現すれば「期待感を煽るインフラを構築していること」ということになる。

一つ目は、あたりまえの話だが、売ろうとする対象に知名度があること。たとえば僕が著作を出版するとしてハングリー・マーケティングをやったとしたらどうなるだろう?つまり発表を出し惜しみするのだ。すると、発売された瞬間……誰も買わずに終わりということになる(あたりまえだ)。つまり、かなりの地名度がなければこの手法は全く功を奏さないのである。無名でもこれが可能になる方法は一つ。膨大な金をかけ、無名の人間の知名度を上げること。76年、角川春樹事務所が薬師丸ひろ子を売り出したのがその典型的なやり方で、この時角川事務所は薬師丸を自らの制作した映画と情報誌でしか露出しなかったのだ。お陰で彼女の登場した映画は大ヒットを遂げることになる。

二つ目は飢餓感を煽るローテーションを組むこと。頻繁にやったら飢餓感は感じられない。ちょくちょく露出するので満足してしまうかhらだ。一方、その逆もまた真。露出が不定期だったり、あまりに長かったりすると今度は消費者の方が待つためのスパンがわからなくなる。言い換えれば、ほどほどのスパンで、かつこれが定期的であることで、その飢餓感は「いずれは必ず払拭される」という期待を抱く。そうすることで商品に手を伸ばそうとする欲望が表れる。人は容易に達成可能なものにも、達成が限りなく難しそうなものにも手を出さないのである。

再びAppleを例に取ってみよう。主力のiPhoneもiPadもほとんど同じ時期にリリースされている。つまり「そろそろ出る頃ではないか?」という期待が湧いてくるようにローテーションを設定しているというわけだ(ということは次の村上の新作は2016年の終わりか17年のはじめあたりということになる)。ファンたちはこのスパンを意識しながら首を長くして新作のリリースを待つのである。

商品それ自体が何かを期待させること

ただし、こういったハングリーマーケティングは、実はさらにもう一つ条件が設定されなければならない。それは「リリースされるものそれ自体に魅力があること」。とりわけ「何かそこに常に新しいものが必ずあると期待させること」だ。そして、その期待に応えてきたこと。村上作品とアップル商品はこの点で共通している。

もっとも、ここまで「現象」と化してしまうと、もはやその魅力はそれ自体が備えるのとは異なったところで魅力を発しているとも考えなければならない。それは、いわば「メタ魅力」。「魅力的であるというイメージが魅力的」というトートロジカルな魅力だ。つまり、iPhoneはiPhoneが本当に魅力的であるかどうかではなく「iPhoneが魅力だから」というイメージに魅力を感じる。村上作品も中身ではなく「村上作品は魅力的」というイメージに魅力を感じる。言い換えればブランド消費とでも表現できる域にまで達している。深夜に蔦屋で行われた発売のためのカウントダウン。Appleストアで展開されるiPhoneの発売と全く同じ図式の背後には、こういったメディア・イベントとしての作用が働いていると考えるべきだろう。

ハングリーマーケティング。こういったさまざまな条件が揃わなければ実現しない、簡単にやれそうでいて、実はなかなか難しいマーケティングなのだ。

以前、僕の先輩が白血病を患ったことがあった。彼は病名を知らされたとき驚愕すると同時に、自分の病気がどのようになるのかを知るためにネットで情報のチェックをし始めたのだが……その結果は、すべからく「死」という結論に達していた。調べても調べても、結局自分は死ぬ。絶望的な気持ちになると同時に、これはどう見てもメンタルヘルス的によろしい状況ではないので、それ以降、ネットで白血病のことを調べるのは一切やめることにしたという。

幸いにも先輩は骨髄移植が成功し病気を克服することができたのだけれど、これはネットというメディアを使う時に僕ら誰もががしばしば陥ってしまう典型的な例ではなかろうか(聡明な先輩ですらそうなったのだから、下々の僕らにすればなおさらだ)。まして、こういった不安や期待が大きかったりする心性の時には。

集合知が機能しない

インターネットは情報の海=洪水だ。一つのことを調べるだけでも、ベラボーな数の情報に当たることができる(逆に超専門的内容だと全くないという状況にもなるのだけれど)。だから、一見すると情報を集めることで、最終的に正確な情報にたどり着くように思える。いわゆる「集合知」が結集されていって、あっちこっちで情報をアップしていくうちに情報が収斂していくというふうに考えたくなる。つまりあることを調べる。そしてその項目についてザッと知ったところで、他のサイトに飛ぶ。その二つに共通の内容が書かれていることがわかる。さらに他のサイトに飛ぶ。そこでもやはり共通項目が。もちろん異なる内容も書かれているが、いくつも調べていくうちに、だいたいコアな情報部分に固まっていく。そして最終的に正確な情報にたどり着くというわけだ。

ところが、先ほどのエピソードでも見たように、残念ながら必ずしもそういうことにはならない。むしろ価値判断を混乱させるような事態がしばしば発生する。こうなってしまうメカニズムは単純だ。情報量が多すぎて、そしてさまざまな視点からバラバラの見解や分析がなされ、内容が拡散してなにがなんだかわからなくなってしまうからだ。つまり集合知が機能しない。そしてこういった事態は項目についての情報が多ければ多いほど発生する確率が高くなる。このことは以前にも本ブログで取り上げたが、たとえばネット上でのラーメン屋の評価がその典型。それぞれが、それぞれの立ち位置で、その立ち位置を示すことなく評価をするので見解がバラバラになってしまうのだ。正確な情報をつかみたいと思う側からすれば、これは完全なカオスということになる。

ネットは自分の潜在的な欲望を映し出す「映し鏡」

こういった混乱の状況で、ある項目を調べようとする。しかも、それが自分の生命やアイデンティティに関わるような問題だったらどうなるだろうか……いうまでもない。客観的な判断基準がないのだから、それは項目を調べる当人が任意に立ち位置を決めて情報を検索するしかない。そうすると……自分が願望する情報のみがどんどん集まっていってしまうということになる。先輩の場合、「自分は死ぬんじゃないか?」という恐怖に駆られながら情報を検索した。しかし、この立ち位置がネガティブなものであったのだから、結果として彼は「白血病によって死に至る情報」ばかりにアクセスしてしまった。だから、どれを調べても、必ず自分は死ぬことにしかならなかったのだ。

これはもちろんその逆の状況も考えられる。もう少し楽観的に「自分は必ず助かる」という前提に基づいて検索に行けば、死ぬことはない。いや場合によっては自らの病が「誤診」であるというかたちで情報を集めることすら可能になるのだ。そして、その結果、自分がとんでもない病気であることを否定するがゆえに、かえって命取りになるということにもなりかねない。

そう、ネットの情報は、しばしば自分の思いを映し出す「映し鏡」になってしまうのである。

前回は、ゆるキャラが結局五年くらいで賞味期限切れになることを指摘しておいた。しかし、ゆるキャラは地域活性化の起爆剤としては重要な「無形文化財?」。これを何とか永続させて地域興しに使い続けることはできないのだろうか。最後にこれを考えてみたい。

ゆるキャラの生き残り戦略、実はゆるキャラでなくても、いい!

地域興しのために重要なのは、こういったゆるキャラのような象徴を介して地域の人たちが地域アイデンティティーを持つことができるようになることにある。だが、そのためには、これを持ち続けられるような仕組み=システムが必要となる。そして、そのようなシステムが構築できるのであるのならば、実は象徴となる存在は何もゆるキャラでなくても全く構うことはない。

ということで、そういった「象徴を維持するためのシステムが構築され継続されているもの」を一つあげてみたい。 それは、群馬県の「上毛かるた」だ。

上毛かるたという「究極のゆるキャラ」

上毛かるたは1947年に発売されたかるた、いわゆる「郷土かるた」というカテゴリーに属する草分け的存在。群馬の歴史、文化、偉人、自然、名産品、精神性などが読み札・絵札になっており、現在群馬県内での総発行部数は200万部を超える。群馬の人口は200万人なので、このかるたが県内でいかに普及しているかがよくわかる。群馬県民でこのかるたの文言すべてを暗記していない人間はいないと言うくらいの普及率なのだ。もし、あなたが群馬出身の人に遭遇したら、唐突に「ネギとこんにゃく」と切り出してみたらいい。すると相手は悲しいかな(笑)反射的に「下仁田名産」という下の句を吐いてしまうというくらいスゴイのだ。以前、福田康夫(群馬三区)が首相就任時、官邸でインタビューを受けたときにはこんな会話がなされた。

インタビューワー:首相、群馬と言えば?
福田:群馬と言えば「鶴舞う形の群馬県」

福田は瞬発的にこう答えたのだが、これは上毛かるたの「つ」の読み札だ。

ちなみに、群馬県人には申し訳ないが、群馬にはさして誇るべきものはない(群馬のみなさんすいません。自分も群馬で暮らしてましたのでご勘弁を)。県民が自慢する群馬の食べ物と言ったらあんの入っていないまんじゅうに醤油と味噌と砂糖を混ぜたタレを塗って火であぶる「やきまんじゅう」くらい。これとて、さしてウマいと自信満々に言えるようなものではないのだ(個人的には、好きです)。かるたで登場する偉人も新島襄、田山花袋、関孝和、内村鑑三、国定忠治、新田義貞ってなところで、まあ二線級。ところが、群馬県民は、この大したこともないものを(たびたび失礼)これみよがしに自慢してはばからないのだ。こうなってしまうのは、このかるたを何度もやって暗記してしまっているから。つまり、かるたが地域アイデンティティを構築する象徴として機能しているのだ。

ただし、じゃあどこでもゆるキャラの代わりに郷土かるたを作ればいいということになるのだが、そんなに話は甘くない。郷土かるたとて、やはりゆるキャラと同様、ただの象徴。そのままではいずれ忘れ去られる。実際、郷土かるたは2000種類ほどが制作されているが、そのほとんどは作った後、忘れ去られている。だから地域活性化にはほとんど貢献していない。「上毛かるた」がこういった地域アイデンティティー、地域活性化を可能ならしめているのは、やはりここにシステムが構築されているからだ。

それは、毎年2月に「上毛かるた大会」が開催されていること。1948年より開始され、現在65回を数える。大会は盛大で、地区大会、郡市大会の予選の後、県大会が開催される。これには子供会が絡んでおり、県内すべての子供会がこの大会に参加する。つまり、子供会育成連絡協議会が自らの活動を活性化するツールとして上毛かるたを利用しているがゆえに、上毛かるたは普及し、いまだに群馬県民のアイデンティティを支える象徴的存在として機能し続けているのだ。これがシステムだ。

ゆるキャラが生き残るためには、ゆるキャラから脱却しなければならない

さて、現在のゆるキャラの「ゆるさ」のポイントが「活動のためのコンセプトの緩さ」に求められていることは既に確認した。だが、それは前述したように「システムが存在しない」ということでもある。だから、いずれ忘れ去られると指摘したのだけれど、逆に言えばゆるキャラがシステムを持ったとき、つまり上毛かるたのように自らの象徴的存在をメインテナンスするような仕組みを備えるようになったときには、これは永続するキャラクターとして、そして県民のアイデンティティとして、そして真の地域興し、地域活性化のキャラクターとしての機能を発揮することになる。

ということは、ゆるキャラが永続するためには、そして機能するためには、結局、ゆるキャラであることをやめること、ゆるキャラから脱却することしかその方法がないのだ。

そして、こうやってシステムを配備し、永続するようになった時、ゆるキャラは一過性のものであることをやめ、県民たちが誇る「おらがゆるキャラ」ということになるに違いない。そして、そういった象徴的存在はもはやゆるキャラではなく、上毛かるた同様、一般的にはベタに「文化財」ということばで括られるようになるのである。

ゆるキャラブームの行く末について、このコピーの提唱者・みうらじゅんのコメントをヒントに占うという試みを行っている。前回はみうらが、もはやゆるキャラに関心がないこと、そしてそれがみうらのイメージするゆるキャラとは異なった形でゆるキャラブームが展開したことに起因することを示しておいた。みうらがイメージしたゆるキャラは「コンセプトの詰めが甘い=ゆるいのでツッコミどころが満載」というもの。だが、だからこそ、そこに素人の無意識が付与する「意味の闇」があり、その「ヘン」さ加減が異化作用を誘う(この闇は、記号論では「美的機能」と呼ぶ)。では、現在のゆるキャラはどうなったのだろう。

ゆるキャラの三パターン

ゆるキャラは現在、大きく分けて三つのカテゴリーに分類可能だろう。

一つ目はみうらが指摘したようなプロトタイプとしての「本当にゆるい」ゆるキャラ。

二つ目はデザイナーたちがちゃんとデザインしているのでキャラクター自体は全くゆるくないゆる「な~んちゃってゆるキャラ」。ただし、これはこのキャラクターを動かすコンセプトの手の位置がバラバラなので、ゆるキャラに見える。これはひこにゃんとかぐんまちゃんが該当する。キャラのデザインはごくごくフツーのキャラクターでおかしなところはない。ただし、使い方がわかっていない。


三つ目ははじめから意図的にゆるいポイントを設定してある「確信犯としてのゆるキャラ」。いいかえればわざとツッコミどころを用意しておいて、受け手にそこに突っ込ませるようにしているものだ。この典型がくまモンで、これは以前にもブログで特集したが、日本でもピンのプロデューサーである小山薫堂が、デザインコンセプトを詰めた後、あえて意味の「闇」を付与したものだった。そしてその闇こそが、くまモンの瞳孔の開いた目だった。

こういったヴァーチャルなゆるキャラは他にもある。たとえば柳ヶ瀬商店街の「やなな」(引退)はそれだ。制作費1万円を謳っている、頭が段ボールの人魚というこのゆるキャラは、ドレスを着た女性の上に四角い段ボールのかぶりものをつけただけ。まさに「ツッコミどころ満載」に見えるが、ゆるキャラブームを踏まえてツッコミどころをトッピングしたというのがミエミエだ(そういった意味ではメタ的には1と考えられないこともないが)。またせんとくんも同様だ。その不気味さで物議を醸すような仕掛けがプロデュースされている。

フツーのデザインがされた「な~んちゃってゆるキャラ」の跳梁

この中でみうらの発見したオリジナルとしてのゆるキャラ、つまり1はほぼ絶滅状態と言っていいだろう。そして、もっとも一般に流布するのが2のデザインはフツーだがキャラを動かすコンセプトがゆるい「な~んちゃってゆるキャラ」だろう。

こうなった理由は簡単だ。21世紀に入ってからの価値観の一層の多様化の中で注目され始めたのが地方だった。たとえばB級グルメのコンテストであるB1グランプリ、テレビ番組「ひみつの県民ショー」といったイベントが組まれるようになったのだけれど(逆に言えば、中央と地方の経済格差の拡大についての”あがき”のようにも思える)、こういう「地方ブーム」「ご当地ブーム」の流れの中の象徴的存在としてゆるキャラといったキャラクターに脚光が浴びせられたと考えていいだろう。

ただし、こういったブームが発生すれば「ゆるキャラ」の開発と販売?をビジネスにしたような企業が登場する。つまり地方やマーケッターたちは、みうらの「ゆるキャラ」というコピーにビジネスチャンスを見出したのだ。その結果、全国のあちこちにゆるキャラ=ご当地キャラが登場するのだけれど、これらは要するに「フツーのプロ」の仕事。だから、実際のところは出来上がったデザインは既存の文法をしっかりと踏襲した無難な「ゆるくないもの」になってしまう。

つまり、新しく出現するゆるキャラは、ある意味、みうらじゅんが発見し指摘したゆるキャラの定義を踏襲したものとして開発=ねつ造される。みうらはゆるキャラの定義として1.郷土愛に満ちあふれた強いメッセージ性、2.立ち振る舞いが不安定かつユニーク、3.愛すべき緩さを持ちあわせているの三点をあげているが(http://www.oricon.co.jp/news/special/71089/)、これらはあくまでみうらがご当地キャラからボトムアップ的に発見したもの。ところがその後に出現するのは、この三つのコンセプトを踏まえて、これをトップダウンするかたちでゆるキャラが開発されるようになる。だから、実は「な~んちゃってゆるキャラ」(3のパターンも含む)でしかない。

にもかかわらず「ご当地キャラ=ゆるキャラ」という図式が設定されているので、これらも「ゆるキャラ」というカテゴリーで一括りにされたのだ。そして、全国各地でゆるキャラ=ご当地キャラが登場すれば、今度はスケールメリットがでてくる。つまり「赤信号みんなで渡れば怖くない」というわけで、大挙してゆるキャラが登場することで、一大ムーブメントとなったのだ。

そして、ゆるキャラブームは終わる

でも、これからゆるキャラはどうなるのだろうか?みうらじゅんの手を離れたのは、まあいいだろう。これが人口に膾炙し、定着し、さらにこれが地域興しの象徴的存在となって地域活性化に繋がれば万々歳なのだから。しかし、僕はそうはいかないだろうとみている。なぜか。

今やゆるキャラがゆるキャラであるゆえんは、前述したようにキャラクターのデザインではなく、これを動かすコンセプトにある。地方自治体や観光課などがキャラクターを使ったイベントを仕掛けていくのだけれど、いかんせん素人に毛が生えた程度の企画なのでトータルコンセプトはない。つまりゆるキャラを使った「場当たり」的キャンペーンしか繰り広げることはできない(まあ、だからこそゆるくみえているのだけれど)。だが、この「形式」ではなく「内容」のゆるさが、いずれゆるキャラの存在を脅かすことになるだろう。

たとえば、こんなシナリオが考えられる。ご当地の象徴としてゆるキャラは引き回し的に、あっちこっちのイベントに登場する。で、当初はこれで話は進んでいく。つまり、ゆるキャラが登場することでの集客効果を見込めることができる。ただし、それはあくまで「新奇性」といったものが担保になっているだけのこと。ということは、何度も繰り返すうちにこの担保はなくなってしまう。すると、当然のことながらゆるキャラたちは飽きられてくる。そして、その時、ゆるキャラはついに形式部分、つまり「フツーのゆるくないキャラ」という正体を現してしまうのだ。当然、消費者は飽きてしまい、やがてゆるキャラが登場しようが集客効果は期待できないという事態に陥る。そしてコンセプトがないので、後が続かない。で、あとはじり貧。

おそらくこういった事態が五年もたたないうちに起こりうるのではないか。今から10年後、「そういえば、あの頃、ゆるキャラってのが流行ってたよね」って昔を懐かしむような会話をしている。そんな映像が僕の頭の中を過ぎるのだ。

じゃあ、どうすればいいのだろう?(続く)

「旬」のゆるキャラ

今、「ゆるキャラ」と呼ばれる一連のご当地キャラクターがウケにウケている。そのブレイクは彦根のキャラクター・ひこにゃんにはじまり、奈良のせんとくん騒動でまたひと盛り上がりし、そして熊本のくまモンが登場するに至って大ブームを巻き起こすに至った。とりわけくまモンは爆発的な人気で、今やディズニーのミッキー、ダッフィー、サンリオのハローキティに匹敵するほどの支持を獲得している。いったい、この人気はいつまで続くのだろうか。

話は変わるが、僕のところにも、このブームの余波が押し寄せた。本ブログで掲載した「くまモンはゆるキャラではない」(http://blogos.com/article/51024/という特集がなぜか当たりし、あちこちからの取材を受ける羽目になったのだ。で、その時ちょっとおいしいネタを仕込むことができた。それはくまモンの特集をするために取材をしていた記者が「ゆるきゃら」の生みの親、みうらじゅんに取材を申し込んだというエピソードだ。なんとみうらじゅんはこの取材をやんわりと断ってしまったのだ。「ゆるキャラは、もう自分のもとを離れているし、興味もない」のがその理由。

「なるほど、そりゃそうだ!」

僕は思わず膝を叩いた。そこで、今回はゆるキャラのゆくえについて、このみうらじゅんのコメントを紐解くかたちをとりながら考えてみたいと思う。

みうらじゅんの視点は意味のスキマにある

イラストレーターであるみうらじゅんだが、彼は糸井重里の下で働いたこともあり、コピーライターとしても大変な才能を発揮している。時代をクリアカットに切り取るコピーの数々を生み出しているのだ。マイブーム、クソゲー(作り込みが悪く、面白くないテレビゲーム。ただし、みうらは「くそゲーム」と呼んだ)、カスハガ(土産物屋に売っている、全く魅力のない写真が掲載された絵はがき)、とんまつり(生殖器などを祭のシンボルにしてしまう「とんま」な祭)、いやげもの(いただくとありがた迷惑な土産物)、そしてゆるキャラといった類いだ。

これらへのみうらの着眼点は一貫している。それはメディア論=記号論的に表現すれば「異化作用」を見ている側に起こさせるという点だ。ちょっと詳しく見ていこう。

記号論では記号を記号表現=シニフィアンと記号内容=シニフィエに分けて考える。これは辞書の機能を例えて考えるとわかりやすい。辞書は物事を調べるもの。その際には、まず調べたい項目を探し(国語辞典なら五十音順に並んでいる)、次に該当する項目の意味を調べる。この前者がシニフィアンで後者がシニフィエ。つまり辞書で引く項目=シニフィアン、そこに書かれている意味=シニフィエだ。たとえば「犬」というシニフィアンのシニフィエは「四つ足の、ワンワンと吠える、ほ乳類で、ペットとして親しまれている動物」ということになる。

そして、このシニフィアンとシニフィエは社会的な規定=コードによって結びつけられている。だから、上にあげた「犬」というシニフィアンに対して「四つ足の、ニャーニャーと鳴くほ乳類で、ペットとして親しまれている動物」と、1カ所だけ内容を変えたシニフィエに置き換えた瞬間、それはコードの規定から外れている、つまり「間違い」として否定される。

だが、みうらはこの間違いに着目する。たとえばクソゲー。これはすぐにゲームが終了してしまったり、逆にいつまでたっても設定されたレベルを超えられなかったり、同じパターンがいつまでも繰り返されてしまったりする、つまらないゲーム全般を指している。これらはいわば「設計上のミス」。だから通常なら「間違い」として否定されなければならない。ところが、みうらはこの間違いを、むしろヘンなもの、こっけいなものとして、むしろ肯定的に捉えてしまう。「間違っている」ものと「ヘンなもの」は似ているようでちょっと違う。間違っているものは即座に否定され修正を被ることになる。だがヘンなものは「間違ってはいるけれど、そこに何かいわれがあるような、正当性があるような気がする」というような印象をこちらに投げかけてくる。だから、そこに新たな意味を見出そうとするような契機=欲望が発生するのだ。これが異化作用だ。そして、このコードのズレ、シニフィアンとシニフィエの狭間は、いわば「闇」。記号化されていない一般庶民の深層心理に潜むもう一つの意味と言い換えることもできる。みうらはこれを見出そうとするのだ。

前述した、みうらが命名したコピーいくつかをとりあげて検証してみよう。マイブーム:ブームは集団、社会大で発生する現象だから、個人がブームを起こすという適用の仕方は間違っている。ところが、個人を社会と見立てれば新しい意味が生まれる。つまり個人の中で社会のブームのような現象が起きているという精神作用が意味として発生してくる。カスハガ:神社や観光地の土産物店で売られている訪問者・観光客のニーズを全く無視した絵はがきで、たとえば神社だったら「社務所」の写真の絵はがきなどがこれに該当する。だが、これがお客に媚びを売っているのではなく、売る側が主張している、だが場違いになっていると捉えると、突然面白い意味が生まれてくる。

そしてゆるキャラである。ゆるキャラは、ようするに「コンセプトのツメが甘い=ゆるい」という意味だ。これは正反対のミッキーマウスやハローキティと比較してみるとよくわかる。たとえばミッキーは全て○だけで設計され、キャラクターも設定も計算し尽くされた究極の「非ゆるキャラ」。こちらとしてはディズニー側が提供してくるミッキーのシニフィエとシニフィアンを一元的に受容するしかない(シニフィエは「強くて、明るい、元気な子。僕らのクラスのリーダー」)。ところがゆるキャラは素人、あるいはセミプロみたいな人間たちによって設計されたものだから、ツッコミどころ満載になる。つまり「ヘン」、そして記号化されない「闇」、身体が無意識に抱えている意味が潜んでいる。みうらはそこに諧謔的な魅力を覚え、その意味を理解しようとするのだ。

さて、それでは現在のゆるキャラブームでのゆるキャラはどうだろう?そんなズレから生じる「闇」=潜在的な意味を見出す「ツッコミどころ」が存在するだろうか?いや、存在しない。あるいは存在したとしてもみうらの視点とは全く異なった形で、いわばヴァーチャルに設定された「闇」だ(これがくまモンだ)。

だから、異化作用=ヘンなものへの意味探索を欲望するみうらの視線から現在のゆるキャラが外されるのは、ある意味当然なのだ。

そして、このみうらの視線、実はゆるキャラの未来を占うという点でもきわめて重要な意味を持っていると僕は考える。ではそれは何か?(続く)

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