勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2013年03月

クレオール化するTDL

第一回では、東京ディズニーランド(TDL)が83年の開園から20年間の間、もっぱらゲストにディズニー・リテラシーを涵養させるべく、啓蒙し続けたことについて展開した。しかし九十年代も後半に入るとディズニー世界は日本人にもすっかり定着し、ディズニー的なものはもはや国内のあちこちに偏在するようになる。当然、日本人の多くがディズニーのキャラクターを熟知し、ディズニーランドにも頻繁に訪れるようになった。TDL側の教育は見事に花開いたのだ。だが、こういったリテラシーの向上はTDLとゲストの関係性の逆転をもたらすようにもなっていく。

文化人類学の用語に「クレオール化」ということばがある。クレオールのもともとの意味は、中南米やカリブ海に生まれたヨーロッパ人を指すのだが、これが転用されて用いられるようになったのがクレオール化ということばで、文化が異文化に輸入された場合、それがそのまま異文化に定着するのではなく、当該の異文化の文化性と混ざり合って新しい文化として成立してしまうことを意味する(クレオールはヨーロッパ人、とりわけスペイン人であったのだけれど、中南米に住み着き何世代も後に生まれた世代のためにもはやヨーロッパ文化のことはよくわからなくなっている)。

わかりやすいように寿司を例にとってみよう。寿司は今や世界的な食文化として広く認知されているが、言うまでもなく発祥は日本だ。ところがこれがアメリカに輸入されることでカリフォルニアロールのような寿司が生まれ、また寿司にドレッシングをかけて食べるというようなスタイルも出現した。中でも「裏巻き」という海苔を内側に巻く寿司のスタイルはこのクレオール化の典型だ。海苔巻きの海苔はシャリを巻くもの。ところが、キリスト教的な視点からすると黒は悪魔の色で忌み嫌われる。だから黒い食べ物は食べない。だが海苔は黒い。そして巻物としては欠かせない。そこでシャリと海苔の巻き方を逆にして黒い色が見えないように工夫したといわれている。ところが、これが寿司としての新しいスタイルを生んでしまった。つまりアメリカ人からすれば寿司であるが日本人にとっては寿司ではないようなものが出来上がったのだ(もちろん、これが今や日本に逆輸入され、「裏巻き」というメニューとして一般化しているのだけれど)。

TDLの三十年は、まさに「ディズニーランドの裏巻き」を作る歴史だった。つまり、アメリカ生まれのディズニー文化が日本にローカライズされ、独自のクレオール的なものへと変貌していく過程だったのだ。そして、このクレオール化は21世紀に入りTDL=TDR側というより、ゲスト側の方から要請されたようなかたちで顕著に進行していく。

ゲストがTDLのリテラシーを涵養する

日本国内に横溢するディズニー世界に浸ることですっかりディズニー・リテラシーを向上させたゲストたちは、次第にTDLが提供する情報に従順ではなくなっていく。それぞれがディズニーに対して一家言を持ち、独自の世界観を展開し始めたのだ。これは社会が巨大化していく際に発生する「多様化の流れから生まれる価値観の細分化」といった事態に他ならない。ゲストたちは、ビッグ5(ミッキー、ミニー、ドナルド、グーフィー、プルート)のキャラクターを頂点とし、その背後にディズニーのキャラクターをみるという、それまでTDL側が提供していたツリー構造ではなく、膨大なディズニーキャラクターのそれぞれに嗜好を向けるようになる。もちろん、彼らは独自にディズニー・リテラシーを備え、ディズニーの世界観を抱えているのだが、嗜好が異なり、したがって当然指向性が異なるようになったゆえに、このツリー構造を支持しなくなっていく。つまり、リピーターたちはそれぞれが「マイディズニー」を標榜し、これを実現する場所としてTDLを位置づけるようになっていったのである。

だがこういったゲストは、さながら映画「グレムリン」に登場する生き物・モグアイに水をかけることで分裂して生まれる小鬼=グレムリンのような存在にほかならない。TDLから生まれTDLによって育てられたゲストは、次第に自己主張し始め、グレムリンとなって、今度は生みの親であるTDLにさまざまな要求を突きつけ、その変更を迫るようになっていったのだ。

そしてTDL側、つまりオリエンタルランドはこれに応えるようになっていく。というのも、こちらにも事情があったからだ。オリエンタルランドは脱ディズニー化を図り、独自の道を歩もうと努力してきたのだが、そのことごとくが失敗していた。いいかえればTDL側はオリジナルのディズニーからの脱却が自力では達成出来ていなかった。だが、ゲストたちは膨らみ続ける。そこでTDL=オリエンタルランド側はこのゲストの要求に従順になっていく。それが涵養される側の逆転、つまりTDL→ゲストではなくゲスト→TDLという教育者と生徒の交代に他ならなかった。

ゲストはオタク化し、TDRはアキバ・ドンキホーテ化する

こういったかたちでのクレオール化は、当然ながら本家本元とは異なった、いいかえればウォルトの理念からは逸脱したディズニー世界をTDR内に構築していくことになる。その典型がパーク内におけるテーマ性の破壊だった。各テーマランドはテーマに基づいてアトラクションやレストランなどの設備が配置され、それぞれを物語でつなぎ合わせることで統一した世界観が形成されていたのだが、この関連性がどんどんと失われ、さながらショップ・ドンキホーテの「ナンデモアリ」のようなごった煮的な世界がパーク内に現出するようになったのだ。それはいわばウォルトとビッグ5からなる「ツリー構造」から、さまざまなものが混在する「モザイク構造」への変容だった。また、人気のないアトラクションは次々と廃棄され、新しいものへと変更されていった。しかも、以前のアトラクションと新しいアトラクションとの関連性も全く考慮されることなく。

だが、こうやってクレオール化することでTDL=TDRは強靭な顧客層を取りこむことに成功する。その顧客層=ゲストとは……ディズニーオタクだった。オタクは細分化された趣味の領域の一つにタコツボ的に入り込み、これに熱狂する人々。これがTDL=TDRを担う主要なゲストとなったのだ。ちなみに、これを例証するデータがある。TDRゲスト一人あたりの売上高の推移だ。2006年から6年間の間にチケット収入は2.7%減であるにもかかわらず商品販売収入は逆に2.9%の伸びを示している(飲食販売収入は横ばい)。とりわけ興味深いのは2011年のデータで、この年度から入場料は5800→6200円と6.9%の値上げを行ったにもかかわらず、この傾向が続いたのだ。チケット収入は前年比とほぼ横ばい(42.1→41.9)だが、商品販売収入比率は36.2→36.7と微増している。しかも前年度の販売比率は前々年度よりも増加した状態を維持した数値だったのだ(34.7→36.2%。いずれもオリエンタルランド公表の数字http://www.olc.co.jp/tdr/guest/profile.html)。311があったにもかかわらず、である。言い換えればゲストたちの購買意欲は高い。つまりTDL=TDRはオタクリピーターたちが物品を求めてやってくるマーケットのような色彩を帯び始めているとも考えられるのだ。

そういえばディズニーのグッズをあちこちにまとわりつけた女の子の二人連れ(五年の間に女性入園者が4%近く上昇している)、ダッフィーをカートにいくつも乗せてパーク内を闊歩する家族、ダッフィやコスチュームに身を纏ったお一人様……こんなゲストの存在は、今や「非日常パーク内を彩る日常的な風景」になりつつある。

クレオール化の先に構築されたTDL=TDRのオタクランド化、アキバ・ドンキホーテ化という現状。これは、ディズニー原理主義、つまり本場アメリカのディズニーランドやウォルト的な理念を信奉するディズニーファンからすれば心地よいものではないだろう。彼らからすれば「あいつらはディズニーのことをわかっていない」と上から目線で訝るような状況だ。僕は以前、このブログで今回と同様、アキバ・ドンキ化するディズニーランドについて書いたことがあるのだけれど、それに対する反応の中にも僕のこの指摘に対して同意しながら、こういった現在の流れは間違っていると意見してくれたものがあった。そして、その指摘をしてくれた人の何名かは、なんとかつてTDLで働いたことのある人たちだった。彼らからするとTDL=TDRはディズニー世界を具現化する場所であり、オタクのものではないということになるのだろう。

しかし、TDLそしてTDSを含めたTDRは、こういったオタク化、アキバ・ドンキ化を推進することで入場者を増加させているということも事実なのだ。じゃあ、こういったクレオール化を踏まえると、これからのTDL=TDRにはどんな未来が開けているのだろうか?(続く)

東京ディズニーリゾート(=浦安一帯のオリエンタルランド社が運営する東京ディズニーランド=TDLと東京ディズニーシー=TDSを中心とするレジャー施設。以下TDR)は2012年、過去最高の入場者数を達成することが予想されている。そして13年度はTDL開園30周年を記念してより大規模なイベントが組まれ、さらなる入場者数が見込まれている。まさにTDRの運営は順風満帆という状況だ。だが、果たして今後もこういった順調な経営が続くのだろうか。レジャー施設は流行廃りが激しい。それゆえ、日本最大のこのレジャー施設とて、一歩方向を誤れば突然風向きが悪くなるということも十分考えられる。

今回は、TDLの三十年の動きを踏まえ、その未来(この場合はTDLを含むTDR全体の未来)について可能性を考えてみようと思う。というのもここ数年のTDRはかつてのスタイルとは大きく変貌を遂げつつあるように僕には見えるからだ。今回は、先ずその歴史をゲストとTDLとの関係に焦点を当てて展開してみよう。


きわめて低いディズニー・リテラシーの下でTDLは開園した

83年、TDLはまさにアメリカのアナハイムとオーランドにあるディズーランド(ディズニーランドとマジック・キングダム)二つのコピー的な存在として開園する。この当時、日本人のディズニーに対する認知度、いわばディズニー・リテラシーはかなり低いものだった。本家本元のディズニーが1966年、創業者のウォルト・ディズニー死去後低迷を続け(70年代、映画はアメリカン・シネマに代表されるように現実を反映したリアルなものが求められるようになり、ディズニーのようなハッピーエンドで脳天気な作品は時代遅れとみなされた。またディズニーも新作映画をほとんど作らなくなり、定期的に映画館で上映される作品も、もっぱらディズニー古典の再上映という体裁を採っていた)、70年代以降その流れの中で日本にもディズニーについての情報が入ってこなくなり、当時の子どもたち(現在四十代)とってもディズニーはあまり親しみのないものになっていたのだ(ちなみに、先行世代、五十代以降は六十年代にテレビ番組「ディズニーランド」を視聴していた世代であるので、むしろディズニー・リテラシーは高くなる)。

TDLはひたすらゲストを教育していた

こうやって日本ではディズニーが忘れ去られた83年にTDLは開園する。必然的にTDL側のマーケティングはひたらすディズニー世界を教育・涵養するという形式を採用することになった。開園に先立ち82年のクリスマスには、本邦初のディズニー長編アニメ映画のテレビ放映がなされ(コンテンツは「ピーターパン」だった)、さらには83年4月から日本テレビ枠でかつての短編アニメ三本が午後七時のゴールデンタイム枠で毎週放映された(この時、スポンサーの多くがTDLのオフィシャルスポンサーで、この時間枠専用のCMを作成しているが、これまたパーク内の施設を紹介するものだった。たとえばニッスイはマークトウェイン号、プリマハムはダイヤモンドホースシューレビューがフィーチャリングされていた)。また、開園初の昼のパレード”Tokyo Disneyland Parade”は、パーク内の各テーマランドを紹介するフロートによって構成されていた。


開園時に行われていた昼のパレード。各テーマランドの紹介が基調になっている。


この認知度の低さは83年の統計的データにも表れている。一年間で1000万人弱に過ぎなかったのだ(まだTDSが開園していない時代のTDLの年間最大入場者数は98年の1745万人)。開園当時、僕はTDLのキャストとしてパーク内で働いていたのだけれど、83年の6月のウイークデイは本当にガラガラという状態で「ここ、大丈夫なんだろうか?」と思ってしまったことをよく覚えている)。

ディズニー・リテラシーを涵養した外部要因

だが、その後、ご存知のようにTDLは現在に向けての発展を遂げることになる。これにはいくつかの要因がある。テーマパーク性の徹底、そしてホスピタリティの高さ、つまりキャストの教育が行き届いていることなどがそれだが、こういったTDLを運営する側のシステムについては既にあちこちで言い尽くされていることなので、取り上げない。むしろここではTDLをめぐる外部要因について二つほどあげておきたい。

ひとつは本家本元のディズニー側の改革がある。84年、ウォルト・ディズニー・カンパニー(当時の社名はウォルト・ディズニー・プロダクション)に乗っ取り騒動が発生した後、新たなCEOマイケル・アイズナーの下で大改革が進行し、90年代には新プリンセス三部作等によってディズニーがワールドワイドマーケティングに成功。こうした世界的なディズニー人気がディズニー・リテラシー涵養の、そしてTDLの人気の援護射撃となった。

もうひとつはTDLが人口5000万を数える関東圏+その周辺地域を抱える地域にあったこと、しかもそれが東京駅から電車で15分というきわめて交通の利便性にすぐれた地点に立地していたという要因がある。これによって非日常であるはずのディズニーランドという夢の国が、多くの人間にとって出かけようと思えばすぐに行くことの出来る「日常的な非日常の場所」となり、それが結果として多くのリピーターを生み出すことになったのだ。そして、今やTDRを支えるゲストの九割以上がリピーターとなっている。

こういった、ディズニーをめぐるインフラストラクチャーの充実が、80年代後半から90年代にかけてゲストたちのディズニーリテラシーを押し上げていくことになる。90年からは年間入場者数が毎年1500万人を超えた。そしてTDL開園時に子どもだったゲストは大人となり、子どもを産み、そして今度はこの子どもたちがディズニーファンとなり、さらには大人になって、再び子どもを産むというディズニーファンの再生産を繰り返すことになった。ウォルトがディズニーランドに吹き込んだ「ファミリー・エンターテインメント」、つまり家族みんなが楽しめるという状況が親子の間でも完全に実現する事態が90年代には実現したのだ。

だが21世紀に入りTDRとゲストの関係はその力関係を逆転させるようになる。一言で表現すれば、それは需要と供給の逆転、あるいは涵養される立場の入れ替わりという事態だった。(続く)

大学生たちのスマホによるSNSの利用状況についてお伝えしている。前回はスマホがSNSマシン、つまりスマホ導入がSNS開始(mixiを除く)の起爆剤になっていること、彼らたちにとってLINEが最も身近なSNS=身内内コミュニケーションツールであること、その一方でFacebookが少々敷居の高いSNS=使いづらいツールであることを示しておいた。今回はTwitterの状況、そしてSNSのこれからについて考えてみたいと思う。

Twitterもまた身内ツール?

学生たちにTwitterは結構使われている。前回示したようにLINEに匹敵する利用率(LINE84.9%、Twitter73.5%)で、最も頻繁に利用するSNSとしては第一位(Twitter45.2%、LINE42.5%)だ。Twitterは、一般的には「ゆるいSNS」と呼ばれる。勝手にツイートし、勝手にフォローし、勝手にフォローされる。またハンドルネームでもいいので、不特定多数の匿名に向かってこういった情報の応酬がオープンに出来るというのがそのゆるさの根拠となっている。だから、つぶやきを発信したり検索したりすることで、自分の知らないさまざまな世界の情報のやりとりが高い自由度で可能になるというのがTwitterのウリであるというのはしばしばTwitterについての議論で語られるところだ(例えば『Twitter社会論~新たなリアルタイム・ウェブの潮流』の津田大介)。いいかえればこの「ゆるさ」がユーザーを世界に向けて情報の送受信を可能にさせるとともに、その魅力を感じさせている。

ところが、学生たちのTwitter利用は、こういったTwitterの議論とは全く別のところで展開されているようだ。彼らの平均フォロー数は119.2人、フォロワー数は104.9人とほぼ拮抗、フォローしている相手のリアル:ヴァーチャル比率、つまり知人:見知らぬ人の割合は6.5:3.5、フォロワーの場合は6.8:3.2、利用目的頻度は上位から暇つぶし(35.5%)、人との交流(31.3%)、情報収集(24.7%)の順だった。

こういったTwitter利用の現状は少なくとも今回調査した学生に関しては、津田を典型とする「世界に開かれたツールとしてのTwitter」とは別方向でTwitterが存在していることを示しているのではないだろうか。つまり上記のデータは「顔見知りの間で、適当に暇つぶしとしてつぶやいてお互いの関係をつなぐツール」という見方で捉えた方が当を得ている(言い換えれば「情報集ツールでは、あまりない」)。関わっている人間は100名足らず、しかもほとんどが知人なのだから。

Twitterはブログの使用方法と似ている

この図式は、ブログが当初期待されていた機能と実際に使われているそれが大きく乖離していたことと似ている。ブログはインターネットという世界中に開かれた空間に自らの情報を公開することで世界中の人々へ自己表現が可能になると呼ばれていたのだが、現実にはこういったことが可能なのはブログを書く人間が有名人であるか、よほど説得力、発進力のあるコンテンツを書くことができる人間であるかに限られ、ほとんどのブログは可能性としては世界に開かれていたとしても、実際にそれを閲覧するユーザーは身内に限られる「日記的なもの」としてしか機能しなかったのだ。これがTwitterについてもあてはまるように思えるのだ。つまり可能性と現実は異なっている。

mixiからTwitter経由でLINEへ

そして、このような見方が正しいとすれば、次のような考察が可能になる。それはLINEとTwitter(そして古くはmixi)の使い方で既にみてきたように、SNSが若者たちには、原則「身内内コミュニケーションツール」として利用されていること(言い換えれば「世界に開かれているわけでは必ずしもないこと」)、そして、その利用スタイルがスマホ普及によって変化しつつあるということだ。このことは、とりわけ、ここまで取り上げてこなかった彼らのmixi利用の変化を通して見てみるとよくわかる。

mixiは前述したように、彼らにとってスマホ以前にはパソコン、そしてガラケーを使ったSNSの王様だった。既存のリアルな友人(多くは学校友だち)とマイミクになり、そこで学校という空間の外でのコミュニケーションを図るヴァーチャル空間として利用されてきた(ハンドルネームは「匿名」だが、実際には誰なのか判別がつく「有名」なもの。つまり「仇名」的なものだ)。ところが、足あとなどの「履歴が残る」という機能が互いの関係を拘束するという結果をもたらし、いわゆる「mixi疲れ」という状況を生み出してしまった。そんなとき、スマホ普及とともにその代替として登場したのがFacebook、Twitter、そしてLINEだった。

で、当初、彼らにとってはFacebookとTwitter二つのチョイスがあった。ところがFacebookは難しすぎる。また実名主義が、ちょっと引っかかるところもある。だからやってはみたけれど、どうもよくわからない。そこでもう一つのTwitterを選択した。でも、実は、その自由度が災いして、こっちも曖昧模糊としていて少々わかりづらい。とはいうもののmixiの代用として使うことは出来る。ブログみたいに意気込んで長文を書く必要もなく、ほとんどタイムラインみたいに使えるところが便利で、気軽。そこで、身内ツールとしてこちらを選んだ。当然つぶやきは既存の友人に向けられている。で、原則的にはそのつぶやきを仲間内のみが閲覧する。

ところが、その後Twitterは結構、アブナイSNSであることもわかってくる。典型的なのが、いわゆる「バカ発見器」機能で、身内に向かってつぶやいた内容であっても、原則オープンなので、世界中で閲覧されてしまう可能性がある。だから、おいそれと身内ネタを開帳などしたら、とんでもないことになりかねない(ホテルの従業員がサッカー選手とタレントの密会をツイートしてしまった例はその典型。ツイートした本人はおそらく身内につぶやいたという感覚しかなかったのではなかろうか)。また、やっぱりTwitterはよくわからない。

そんなときTwitterの気軽さを持ち、安全で、しかもmixiのようなしがらみも少ないLINEが登場した。もっぱら身内内コミュニケーションを志向する多くの若者たちにとっては、これは当然のことながら福音だった。だから一気に飛びついた。まあ、こんなところなのではなかろうか。当然ながら、mixiの居場所は完全に失われ、彼らにとってもはや「死亡」したものとすらとられている。現在、利用率(現在メンバーとして登録している)が45.9%であるのに利用頻度が3.2%にまで低下し、また利用を停止している割合が43.3%と非常に高い数値にまで達していることがこのことを明確に示しているといえるだろう。

ということは、今後彼らがSNSを使う方向として考えられるのは次のようになる。先ずmixiからTwitterへの移行はひとまず完了した。そして現在起こりつつあるのがTwitterから、もっとお手軽なLINEへの移行、あるいは何らかの機能的棲み分けだ。ちなみにこの流れが進めば進むほど、現状のままではmixiは死亡に近づいていくだろう。

Facebookのゆくえ

さて、最後に学生たちにとってのFacebookの行方についても考えておこう。現状、彼らの「身内内コミュニケーションツール」というSNSの基本的利用スタイルからすれば、どうやらFacebookの出番はあまりないように思われる。だからその多くはFacebookを積極的に活用するのはもう少しあと。社会人になってからということになるのだろう。ただし、もちろんこれには例外もある。情報感度が高い学生(高偏差値系大学に多い)にとってはFacebookはすでに最も使われるSNSになっているからだ。これは同時期に調査したバックパッカーのSNSの利用実態からも判明している。彼らの多くが高偏差値系の大学生で、なおかつバックパッキングという高度に情報行動を要求するレジャースタイルを使いこなす。こういった若者たちにとってSNSは「身内内コミュニケーションツール」のみならず「世界に開かれたコミュニケーションツール」としても用いられることになるからだ。ただし、ここでは、こういったセンス・エリートたちはあくまで例外としておいた。マス、つまり大多数の若者、そしておそらく大多数のSNSユーザーにとって、SNSとは先ず「身内内コミュニケーションツール」と考えるべきだし、だからこそSNSは爆発的な普及を遂げているとみなした方がいい。

今後、おそらくほとんどの人間がスマホを携帯するという事態に至るだろうが、その際、SNSはどういった使われ方をしていくのだろうか?もちろん、ユーザー側だけの問題ではなく、SNSを提供する側も、そのノウハウについてさまざまな模索を続け、SNSに新しい機能を加えたり、他の機能と合体させたりということをやっていくだろう。だから正直なところSNSの5年後というのは、今のところ誰にも見えていないと考えた方がよいのかもしれない。

2012年10月大学生にSNSの利用状況を調査してみた

昨年10月、文系大学生(関東学院大学、立正大学、宮崎公立大学)340名にスマートフォンの利用調査を行ったのだが、その際、加えてSNSの利用状況についてもアンケートを実施した。そのとき驚いたのは、スマートフォンとSNSの関連だ。その結びつきはきわめて強く、もはやスマートフォンとはSNSマシンと言っても過言でないほどになっている(ちなみに、今回SNSとして扱うのはFacebook、Twitter、mixi、LINEの四つ)。当初、学生たちの多くがiPod+ケータイが合体するものという動機でスマホを購入するのだけれど(もっとも、今では周囲の人間が購入するので、自分も所有していないとマズイという強迫観念で手に入れる学生も増えているのだけど。購入動機が「流行だから」という理由が37.3%もあった)、手に入れてみると次第にSNSを使うマシンになってしまうのだ。

きわめて高いSNSのスマホでの利用率

この時点でのスマートフォン所有者は78.5%、つまり340人中267名。これら所有者の内、SNSの利用率は、高い順にLINE84.9%、Twitter73.5%、Facebook52.6%、mixi45.9%だった。ちなみにこれはFacebookのみのデータだが、SNS=Facebookへのアクセスはスマホ87.6%、パソコン12.4%と、スマホからのアクセスが圧倒的だった。スマホは要するに前述した通りSNSマシン的な側面があることがわかる。個人的にちょっと驚きだったのはLINEが凄まじいほどの普及を見せていること、FacebookよりTwitterの方が普及していることだった。そこで、それぞれのSNSの状況についてみていってみよう。

LINEの凄まじい勢い

LINEについては利用率が前述したように84.9%とトップの普及率だった。しかも利用歴は8.9ヶ月程度。TwitterとFacebookの利用歴が19.8ヶ月、14.6ヶ月であることを踏まえれば、LINEがいかに急激な普及を見せているかがわかる(mixiについては質問項目を立てなかったが、当然、利用歴は最も長いことが想定される。彼らは中学からmixiに親しんできた世代だ)。またスマホの平均利用歴が12.8ヶ月であり、SNSの利用歴と近いということからもスマホがSNSマシンであることを裏付ける。そして、とにかく「時代はLINE」ということらしい。

Facebookは学生には使いづらい?

普及率でFacebookが意外に低いというのも面白いデータだ。利用率こそ52.6%だが、四つのSNSの中でどれを最も利用するのかについての質問をしたところはTwitter45.2%、LINE42.5%、Facebook6.9%、mixi3.2%の順で、第三位であるのは利用率としては同じだが、利用頻度はガクンと落ちてしまっている。つまりFacebookは、登録しているし、それなりに利用歴もあるのだが、あまり重要視されていないSNSであることがわかる。また、登録はしたが、現在は利用を停止しているという質問項目についてはLINE11.5%、Twitter17.7%、Facebook19.8%、mixi43.4%、利用者の1日のSNSチェック頻度はLINE17.2回、Twitter14.8回、Facebook5.5回の順だった。ようするにFacebookは学生たちにとってはちょっと敷居が高い「使いづらいSNS」なのだ。

LINEは身内用のお手軽SNS

いいかえれば、その反対がLINEであることもこの数値は示している。ラインは普及しているし、頻繁にチェックされてもいる、また利用停止率も低い。ただし「最も利用頻度が高いSNS」のランキングともなるとその数値を突然下げ、Twitterに首位の座を譲っている。言い換えれば、とてもお手軽な「使いやすいSNS」なのだ。ただし、現状の利用法としては現実の友人間でのコミュニケーションツールでもあり(ライン上の友人のリアル:ヴァーチャル比率は97:3)、LINEはきわめて内向きのSNSとみなすこともできる。

じゃあ、Twitterはどうなっているんだろう?そしてこれらSNSはどういった関係にあるのだろう?(続く)

Tripadviserをめぐる集合知について今回は考えてきた。最後に二つほどオマケを。

集団も集合知も最終的には管理者が必要?

集合知がその規模によって情報が集約されるどころかバラバラになっていくことを前回指摘しておいた。そして、これは企業の巨大化によって身動きがとれなくなることと同じだ。で、これもM.ウェーバーの「官僚制の逆機能」という概念で説明がつく。つまり集団が巨大化するにつれ、内部で多様化、専門化が進んでいき、そこに所属するメンバーが集団の全体像をみることが出来なくなった結果、自らの領域にタコツボ的に閉じこもり、自らの利害の獲得のみを志向するようになる。そして、これが昂進することで、集団全体の動きが緩慢になって、集団構造が形骸化、さらには崩壊するというというのがこの概念のあらましだ。ちなみに、こういった官僚制の逆機能を打破するやりかたは、最終的に管理者が登場し、一元管理を再構築して、構成員に全体像を再付与するというもの。かつての日産にカルロス・ゴーンが登場したり、倒産寸前のアップルにスティーブ・ジョブズが復帰したというのがその典型。彼らはカリスマ的な力を発揮し(これもウェーバーは「カリスマ的支配」と名付けている)、巨大化し脆弱化した企業にキュレーションを行い、企業としてのアイデンティティ、そしてイデオロギーを与えたのだった。

こういった循環が、集合知もこの展開にピッタリ当てはまっているのではなかろうか。だからこそ、僕は「今後は管理者が必要」と前回指摘したのだけれど。


Tripadviserが観光地の景観やスタイルを変えてしまう

Tripadviserの威力は凄まじい。今回、僕はこれをポルトガル・ナザレで痛感した。評価がよく当たっているというのは前回記述した通りだけれど、問題なのはTripadviserの評価が店のスタイルを変えてしまう可能性があることだ。

Maria do marというランク2位のレストランに行ったときのこと。ここではカルディラーダといポルトガル風ブイヤベースがウリ(メニューの名前は”Caldeirada de Maria”)とTripadviserには表記があちこちになされていたのだが……なんと客のほとんどがこれを注文していたのだ。もともとこれがウリなのか、それともTripadviserのせいなのか。それは、もちろん後者だ。だって、客のほとんどが観光客なんだから。確かに美味しいのだけれど、Tripadviserのおかげで、ここは結局、カルデェラーダ専門店に近い状態になってしまっている。そういえば、注文をとりに来たおばさんも、僕が注文を告げる前に「カルディラーダ?」と先に訊いてきた。まあ、これで、どんどんここのカルディラーダが美味しくなっている訳なので、そりゃそれでいいんだろうが……ちょっと複雑な気分がしないでもない瞬間だった。

情報がめぐると、世界も変わる!



イメージ 1

ナザレのレストラン”Maria de Mar"の窓に貼られたTripadviserの認証ステッカー。ほとんど「印籠」状態!



イメージ 2

"Maria de Mar"の看板。カルディーラ(右)が大きくフィーチャーされている。横にはTripの認証マークも。

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