勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2013年02月

肝腎の部分を見せないのがセクシー

壇蜜というキャラクターが面白い。グラビア・アイドルだが32歳、さして容姿がよいわけでもなければ、姿態が抜群に美しいというのともちょっと違う。ところがその「エロさ」がハンパではないというところが、多くの支持を獲得する原因となっているようだ。で、ちょっとネットで彼女の画像をチェックしてみると、なるほど、確かに「エロい」という言葉がぴったりくる。ただし面白いのはフルヌードになっているものよりも、何かを纏っている姿の方がセクシー、エロに見えることだ。「ギリギリまで見せて、最後は見せない」といった画像が、むしろエロティシズムとしてはきわめて説得力のあるものになっている。

差異の間歇

「肝腎の部分を見せない」というその手法は記号論=メディア論的には完全に正解だ。フランスの記号論者ロラン・バルトは、このことを「限りなき差異のたわむれ=間歇」という言葉で表現している。これは、たとえばスカートの中に隠されている下着に対する欲望を考えるとよくわかる。前を歩いている女性のスカートがまくり上がっていて丸見えだったとする。このときには、われわれは、実はほとんどその姿にエロティシズムを感じない。むしろ「みっともない」とか「こっけい」といった印象の方が強い。ところが風にスカートがなびいて下着が見えたり見えなかったりする場合には、エロスを感じるのだ。つまり「見える」より「見えそうで見えない」「ときどき見えそうな感じがする」という感じの方がセクシーであるというわけだ。だからたわむれ=間歇なのだけれど。

これは要するにエロティシズムが「下着それ自体」にあるのではなく、それが「どのように見えるか」にあることを意味している。スカートがなびいているときには「見える、見えない」の差異が延々続く。そして「見える、見えない、どちらなのだろうか?」という思いが、下着に対するフェティシズムを喚起しする。言い換えればエロティシズムのは「意味現象」、つまりそこに意味を見いだそうとする欲望が引き起こす現象なのだ。そういえば80年代、こういった「差異の間歇」に見いだす魅力は「チラリズム」と呼ばれていたことがあったっけな?

「壇蜜という意味」に男たちは幻惑される

壇蜜の手法がまさにこれだ。彼女はこういったチラリズムで、われわれに向けてエロティシズムを発し続ける。だから、彼女の画像に多くの男性が食い入るように見入ってしまう。くりかえすが32歳で、容姿も、姿態も飛び抜けているわけでもないにもかかわらず、だ。エロティシズムを「物それ自体」に見いだしていたとしたら、壇蜜の魅力はグラビア・アイドルとしては並、あるいはそれ以下だろう。しかし、そういった壇蜜という「物」がポーズを取った瞬間、突然生身の人間、生身の女性、オスに生殖欲望(これは記号的な欲望だから本能ではないのだけれど)を喚起するメス、リアルなエロスとして男の目には映ってしまうのだ。

そう、壇蜜は限りなくメディア的存在であり、またエロティシズムの本質を表現した存在なのである。

しかし、壇蜜のエロティシズムの妖しい輝きは、これだけにとどまらない。というのも、この魅力は男性のみならず女性にも放たれてしまっているからだ。では、それは何か?(続く)

前回はイノベーションが「無から有を生むこと」ではなく「有と有から新しい有を生むこと」、つまりAとBを組み合わせることでAでもBでもない、創発性を持ったCを誕生させることであることを指摘しておいた。そして、これが芸術や発明の基本であることも述べておいた。

では、今回のテーマであるスティーブ・ジョブズはどうだろう?つまり彼はイノベーター、つまり
AとBからCを生み出す人間であったんだろうか?

「徹底した職務遂行能力」とはイノベーションのこと

アップルに16年間勤務した経験を持つ松井博氏は、ジョブズはイノベーターであると言うよりも「徹底した職務遂行能力」の持ち主であり、これがジョブズ復帰後のアップルの繁栄をもたらしたと指摘している。言い換えれば「徹底した職務遂行能力」はイノベーション=技術革新とは関連がないという視点だ。

はたして、そうだろうか?

ジョブズが97年にアップルに復帰後、はじめたことは「徹底した組織の整理」だった。さながら「不良が跋扈する底辺高校のようなひどい状況」(松井氏の指摘)、つまり、まったくといっていいほどまとまりのないアップルという企業(各自が勝手に開発をやっていた) に大鉈を振るい、組織を統合していった。また夥しい数の製品をプロ用ー一般用、デスクトップーノートという二つの軸によって構成される、たった四種類だけにしてしまった(Power Mac、iMac、PowerBook、iBook)。つまりジョブズが行ったことは、すでにそこにあった組織やプロダクトを取捨選択し、残ったものそれぞれに磨きをかけた上で統合し、さらにそれらをつなげて見せたのだ。残された製品群やコンセプトは、いうまでもなく、ジョブズ復帰以前から存在するもの。ところがこれをつなげることがアップルでは行われず、それぞれの開発が原子化していた。ジョブズはこれを恐怖政治を行うことで実現したのだ。これは「有と有の結合」。つまりイノベーションに他ならない。そして、これは松井氏の著書『僕がアップルで学んだこと~環境を変えれば人が変わる、組織が変わる』で表した内容そのものだ。つまり、松井氏自身、実は著書の中でジョブズのイノベーションについて語っていたことになる。

ドットをつなぐ

ただし、これだけでジョブズを秀でたイノベーターと評価するのはちょっとおかしい。この程度のことをやってしまう企業家、起業家は山ほどいるのだから(こういった「徹底した組織の管理」を行うイノベーターを知りたければTBSの番組『がっちりマンデー』あたりでも見ればいいだろう)。

では、ジョブズはどこが異なっているのか。

2005年、ジョブズはスタンフォード大学でスピーチを行っている。きわめて有名なスピーチで教科書にまでなるほどのものだったが、その冒頭、ジョブズは自らの生い立ちを興味深い表現で語っている。それは”connecting the dots”、つまり「点と点をつなげる」ということばに集約される。ジョブズはリード大学に入学したが半年ほどで中退してしまう。だが、その後18ヶ月の間ニセ学生として大学に居座った。ジョブズはカリグラフィーの授業に興味を持ち、もっぱらこれだけの授業に出席し続けたのだ。そこでジョブズが学んだのは書体、そしてプロポーショナルフォント(文字ごとに文字幅が異なるフォント)などのタイポグラフィーだった。

そして、この経験が84年に発表されたMacintosh(以下Mac)に結実する。ジョブズはゼロックスのパルアルト研究所で見たAltoというGUIマシーンに魅せられ、この開発スタッフを根こそぎ引き抜いてMacの開発に着手する。その結果、実現したものはウインドウ、マウス、デスクトップ、ポインタからなるAltoそっくりのマシンだった。ただし、全く違っていたところが二つある。一つはその大きさ。Altoは巨大だったがMacは運べるほど小さかった(実際、で片手で持ち運びができるよう、上部に取っ手がつけられていた)。そしてもう一つがカリグラフィーを反映したもの。つまりさまざまな書体、そしてプロポーショナルフォントだったのだ。ジョブズはこのスピーチで自分がリード大学でカリグラフィーの授業を受けていなかったら、マックが複数の書体もプロポーショナルフォントも持つことはなかっただろう。いや、現在のパソコンが美しいタイポグラフィーを持つこともなかっただろうと述べている。

ドットをつなぐとは、ようするに有と有を結びつけることに他ならない。そしてマックの開発にあたってジョブズはA=AltoのGUIをパクリ、B=カリグラフィーのフォントをパクリ、その結果C=マックという、その後(ただし、マックが発表されて十年後から)パソコンのデファクトスタンダードとなるようなOSのインターフェイスを開発したのだ。まさに、これはイノベーションに他ならない。

パラダイムを超える

そして、このイノベーションは既存のイノベーションとはその質を異にするものだ。通常、イノベーションはパラダイム、つまりひとつジャンルの中の有と有をつなぐ場合がほとんどだ。新しい料理を創作するにあたって、その食材を変えてみるというようなやり方はその典型。たとえば家系のラーメンであるならば、醤油ととんこつを合わせて「醤油とんこつ」という新しい種類をつくように(ともにラーメンというジャンル=パラダイムの範囲内のものを組み合わせている)。

一方、革新的なイノベーターは、パラダイムを超える、パラダイムを横断して有と有を結びつけるという作業をやってしまう。前回指摘したエジソンやビル・ビルゲイツはその典型で、前者は発明品=創造と特許=法律を、後者は発明品=創造と特許、そしてリースというビジネスモデルをつなぎ合わせている。つまりパラダイムを横断したかたちで新しい有をイノベーションしている(だから、画期的な成功を遂げたわけだ)。

そしてジョブズもこれと同じ。だが、ジョブズの場合はこのパラダイム間の振り幅が大きい。つまりコンピューターという「テクノロジー」とタイポグラフィーという「アート」という、常識的には考えづらい結合を行ってしまうのだ。そしてこういったパラダイム横断的なイノベーションを次々と生み出したのがジョブズだった。ちょっと、あげてみよう。

1.パーソナル・コンピューター:70年代、「マイコン」と呼ばれていたパソコンをディスプレイ、ディスケット内蔵の本体、キーボードという三点セットで売り出し、パソコンというジャンルを作り上げた。これはギークやナードのホビーであったパソコンをビジネスや一般家庭に持ち込むきっかけとなると同時に、その後のパソコンの基本スタイルを構築した。

2.Macintosh:デスクトップ上にウインドウ、ポインタを表示させ、マウスとキーボードで操作させるパソコンを世に問うた。また、巨大だったパソコンを10キロ程度に軽量化し、可搬性を持たせた。これによってパソコンはプログラムするのではなくアプリを利用するマシンというとらえ方を提示した。そして前述の書体が組み込まれた。

3.iMac:パソコンを一体型の透明な筐体に収め、インターネットへの接続を標準のものとした(LANケーブルが標準装備されていた)。それによってパソコンはインテリアとしての意味合いを含むものになると同時に、多くの人間をインターネットの世界に導いた。つまり、パソコンというジャンルとインテリアというジャンル、さらにネットの世界をつなぎ合わせた。

4.iPod:ハードディスクストレージ利用(後にメモリー)の音楽プレイヤーの世界を開いた。だが、単にそのようなマシンを売り出すのではなく、これを操作するソフトウエア・iTunesをセットにすることで、音楽というジャンルとコンピューター、そしてインターネットというジャンルをつなぎ合わせた。

5.iPhone:iPodという音楽、携帯電話、インターネットディバイス、そしてアプリを電話の形式の中に押し込んだ。これによってスマホというメディアが生まれ、その普及とともにインターネット社会の本格的な幕開けを導いた。

リベラルアーツ=テクノロジーとアートの交差点

こういった一連のパラダイム横断的な接合の基本的立場をジョブズはリベラルアーツ、テクノロジーとアートの交差点ということばで結んでいる(これは理系と文系の接合と言ってもいい)。つまり、ジョブズは常にジャンルという存在そのものを問うことを志向した。ジャンルを乗り越え、横断させて新しいジャンルを作ろうとしたのだ。しかもそのやり方は常に大衆へ向けてのもの、言い換えれば「テクノロジーをいかにして一般化し、誰もがアクセス可能なものにするか」を問い続けたものだったのだ。こういった視点でジョブズの仕事を見てみると、その方向性は見事に一貫していることがわかる(そしてそれこそがジョブズの美意識であり哲学であったわけだ)。99年に打ち出されたキャンペーンの”think different”というコピーは、まさにジョブズ自身のためにあったことばだったのだ。

アップルの未来~ティムクックに欠けているもの

2011年10月。ジョブズは逝去する。指導者亡き後のアップルの舵取りを行うのはティム・クックだった。そして、現在、アップルのイノベーションについては疑問が持たれるようになっている。なぜか?

クックはマネージメント能力に優れている。つまりパラダイム内のイノベーションが得意という存在だ。ジョブズ時代はパラダイム横断的な発想をするジョブズとタッグを組むことでその能力を遺憾なく発揮していた。だが、ジョブズ逝去後、アップルは新しいパラダイムシフトを世界に巻き起こすようなプロダクトを発表していない。ひたすらジョブズ時代の製品の洗練と焼き直しに甘んじている。そして、それは当然のことながらクックにはジョブズ的なイノベーションを生み出す力が無いということを意味する。だがそれは、要するに現在のアップルがリベラルアーツとして、常にジャンルを超えるというようなことはやれていない、一般企業とさして変わらない存在に成り下がっているということでもある。このことはジョブズ時代にはあった「アップルは次にいったい何をやるんだ?」という、パラダイムを根本から破壊してくれるようなワクワクした期待感をユーザーが得られなくなっていることが傍証している。

さて、ではアップルはどうなるのだろう?新しいパラダイムシフトを生み出すことができるのだろうか……それは未知数だ。しかし「宇宙に衝撃を与えること」に欲望を見いだしていた男が去った企業からすると、これはなかなか難しいことなのかもしれない。やはり、アップルはジョブズのイノベーションによって展開していた企業だったのだ。

そう、ジョブズは「とんでもないパクリ屋であり、ペテン師」だったのだ。でも、それは「とんでもないイノベーター」という表現と全く同じことなのだが。

元アップルのシニアマネージャーが指摘したアップルとジョブズの「イノベーションの無さ」

Apple本社で16年間勤務した経歴のある松井博氏が自らのブログの中で「アップルが失いつつあるもの」というタイトルの記事を掲載し、「アップルがそもそもそんなにイノベーティブな会社だったのか」と疑問を呈している(http://matsuhiro.blogspot.jp/2013/02/blog-post_10.html)。さらに「アップルはむしろ、ジョブズ復帰以前の方がずっとイノベーティブだったようにすら思います」とも述べている。で、僕はちょっとこの議論に引っかかった。

松井氏がやり玉に挙げるのは、なんとジョブズ自身だ(松井氏自身はジョブズが死去した際にブログに追悼文を掲載している。ただし、そこには彼がアメリカで働いていた頃の2000年台のジョブズの恐怖政治が綴られていたのだけれどhttp://matsuhiro.blogspot.jp/2011/10/steve-jobs.html)。ブログの中ではジョブズが生み出したプロダクトが次々とパクリであったと指摘している。iPod、iPhone、iPadは全てオリジナルではなく、それ以前に製品があった。いや、それどころかGUI(初代Macintosh以降に用いられているインターフェイスで、現在のウインドウのコンセプトを実現する際に基本となっているもの。これによってウインドウ、Mouse、ポイントの組み合わせが可能になっている)それ自体がゼロックスのパクリであると指摘している。そしてジョブズの強みはイノベーションではなくむしろ「徹底した任務遂行能力」にあったとしている。

松井氏はジョブズのイノベーションを当事者として語る場所にいたのだろうか?

松井氏は自らのアップルでの経歴(16年間勤務)と、自らアップルについての文献を発表していること(『僕がアップルで学んだこと~環境を変えれば人が変わる、組織が変わる』(アスキー新書、2012)、この二つを担保にこういった発言をされているわけなのだが(そして、もちろん、文献を売るために、出版社側が氏のこういった側面を前面に出したということもあるだろうが)、ちょっとこの担保にも僕は疑問を持った。というのも、この松井氏の発言と松井氏の経歴はあまり関連がないからだ。松井氏は2001年までは日本のアップルで、後の七年間は米アップルに勤めておられるが、ここでハードウェア製品の品質保証部門で働いていたとある。だが、これだとブログでの松井氏の指摘は、原則、「当事者」と言うよりもわれわれと同様、「外部者」からのものとなってしまうのだ。というのもGUIにしても、iPodにしても松井氏が米アップルに勤める前のものであるし、残りの二つは米アップル時のものであるが、松井氏が直接開発に携わったのではなく、あくまでも品質保証という分野に関わっているに過ぎないからだ(実際、『僕がアップルで……』の中で松井氏が展開されているのは、プロダクト開発それ自体ではなく、開発に関わるヒューマンリレーション上のマネージメントに関する内容だ。言い換えれば、開発の現場それ自体ではない。だから、この本は「ジョブズの哲学」とかではなく「松井博のアップル社という一企業でのマネージメント経験」に関するものなのだ。とりわけ後半の三章以降は全て)。

経験がなくても指摘はできる~ホテル・サファリの小林さんの例

といっても、僕は「経験至上主義」を振り回すつもりは毛頭ない。経験がなくても外部から本質的な指摘をすることは十分に可能だからだ(そして、これは今回考察しようとするイノベーション、クリエーションのあり方と関連するのだけれど)。たとえば、かつてエジプト・カイロのホテル・サファリというゲストハウスには、伝説のバックパッカーと呼ばれる「小林さん」という人物がいた。彼はこのゲストハウスに何年も滞在し続けたのだが、ほとんどそこから旅に出ることをしなかった。ところが、このゲストハウスを訪れる他のバックパッカーにバックパッキングに関する情報を適切アドバイスし続け、バックパッカーたちからは神のように崇め奉られていた(「小林君に会いに行くツアー」なんてのが組まれていたくらいだった)。じゃあ、なぜ彼が旅をほとんどしなかったにもかかわらず、バックパッカーたちに尊敬され続けたのか。それは、ここに宿泊するゲストたちから情報を仕入れ、これを適切に処理し、他のバックパッカーたちに提供していたからだ。佐々木俊尚的に表現すれば、小林さんは旅のキュレーターだったのだ。言い換えれば、どれだけ経験が豊富でも小林さんのように情報を整理し、相対化するような視点を持っていなければ、その情報の有用性は薄いということになる。

だから、僕は松井氏がアップルで働いていた経験などなくても、その指摘が的を射ていれば、そして説得力のあるものであるならば全く構わないと思っている。つまり松井氏の経験と議論はさしあたり関係がない。問題視したいのは議論そのものだ。そして、松井氏の議論は根本的な部分で大きな誤謬があると僕は考える。言い換えれば、小林さんのようには的を射ていないと思うのだ。そして、それがアップルとジョブズが「イノベーティブ」な存在ではないという指摘だ。なぜか?それは松井氏が「イノベーティブ」のとらえ方を根本的に間違えていると判断するからだ(もっとも、この誤謬は松井氏だけでなく、イノベーティブということばについて僕らの多くが陥ってしまう誤謬でもあり、松井氏もその一人であっただけとも捉えられるけれど)。

イノベーションは「無から有を作り出すこと」ではない

イノベーティブの名詞”innovation”は経済学者・j.シュンペーターが21世紀初頭に提唱した造語で「新結合」「新機軸」「新しい切り口」「新しい捉え方」「新しい活用法」といった意味を持つ。イノベーションが起こることによって社会や技術に革新が起こるわけで、それゆえイノベーティブな存在とはこういった事態を促す能力を備えた組織や人物のことを指すことになる。

このイノベーションということばを持ちだすとき、僕たちはしばしば次のような誤謬に陥る。それは、この単語が「無から有を生み出すこと」であるとみなしてしまうことだ。残念ながら人間のイノベーション、そしてクリエーションには「無から有を生み出すこと」ということは、原則ありえない(これが可能なのは神によるクリエーションだけだ)。それは表現を変えれば、ようするに「全てはパクリでしかない」ということであり、パクリがイノベーションになるということでもある。

これはどういうことか?イノベーションのプロセスを説明しよう。


確認として誤りの図式から

× 0(ゼロ=無)→A(有)

つまり何もないゼロの状態から何かが突然、生成する。



一方、イノベーションは

○ A+B≠C かつ A+B<C、

すなわち C=A+B+α


となる。つまり、AとBを組み合わせることで、AでもなくBでもない、二つを融合したことでαが加わった(そしてAもBも変容した)新しいCが生成される。だから「新結合」「新機軸」などと呼ばれるわけだ。

過去のイノベーション、そしてクリエーションは全てこの図式が該当すると言えるだろう。つまり一つの技術や発想があり(A)、もう一方にまた別の技術や発想があり(B)、この二つを結合することで全く新しい技術や発想(C)が誕生する。「無から有が出現する」のではなく「有と有から有が出現する」のだ。言い換えれば弁証法的にしかイノベーションは発生しない(後述するが、否定弁証法的にもイノベーションは発生する。そしてそれこそがジョブズがやっていたことなのだけど)

これをパクリということばで言い直せばAをパクリ、Bをパクリ、これらを融合すると新しいCが生まれるということになる。当然A≠Cであり、またB≠CなのだからCは「当初はパクったけれども、最終的にはパクリではない」ということになる。

モダンアートというパクリ

こういったイノベーション、そしてクリエーションの図式を傍証してみよう。
例えばモダンアート。19世紀末、写真の普及によってそれまでの絵師(現在の画家)は職を失ってしまう。絵師たちの仕事は主として肖像画を描くことだった。だが写真というメディアがこれに取って代わってしまったのだ。そこで絵師は新しい身の置き所を考えなければならなくなった。
ではどうしたか?対象を写し取るだけなら絶対に写真には適わない。そこで写生にとらわれない描き方を思いついた。それがモダンアートの(そして画家という職業の)誕生だった。でも、その時、彼/彼女たちはどうやって描き方を思いついたのか?

いや、思いついたのではない。パクったのだ!そのパクった典型的なものが日本芸術(浮世絵)やアフリカ芸術(儀式の仮面や偶像などの技法)だった。よく知られているようにロートレックやゴッホの作風は浮世絵の技法が色濃く反映されている(ゴッホの作品『タンギー爺さん』では、その背後にたくさんの浮世絵が描かれている)。さらにピカソのキュービズム作品からはアフリカ芸術(黒人部族の仮面)を読み取ることができる。彼らは既存のアートにパクったもを付け足してイノベーション=クリエーションを起こしたのだ。そして、後続の画家たちはゴッホやピカソの技法をパクリ、さらに新しい技法を弁証法的に構築していったのだ。つまりイノベーション=有と有の組み合わせが生む新しい有=新結合というわけだ。

20世紀最初と最後の巨人たちによるパクリ

90年代、20世紀にはその初頭と末に一人ずつ巨人が誕生したといわれたことがある。ただし、アイロニカルな意味合いで。その時あげられたのが、初頭の巨人はT.エジソンであり、末のそれはビル・ゲイツである。「えっ?発明王と狡猾なビジネスマンをなぜ並列して並べるんだ?」と、訝しがりたくなるような組み合わせだが、二人がパクったことによって歴史に名を残したという点では全く共通だ。例えばエジソンの発明。これはほとんどオリジナルではなく、人のものをパクったものだ。その典型は白熱球で、これを開発したのはジョセフ・スワンである。ビル・ゲイツについては言うまでもなくほとんどパクリだ。出世作のBASIC、PCのデファクトスタンダードになったMS-DOS、Windows、どれもそれ以前に開発者が存在する。BASICについては60年代にダートマス大学が開発したBASICが、MS-DOSはキル・ドールが開発したCP/Mが、WindowsはMacOS(あるいはパルアルト研究所が開発したAltoの0Sが)といった具合に。

二人は既存技術と法律を結びつけ新しいビジネスモデルをイノベーションした

そしてこの二人に共通するのが、二人とも「法律に強かった」ことだ。具体的には人が開発したものを買い取り、特許を申請した。そして、それをあたかも自らの研究成果のように見せたのだ。で、こういったものこそを正真正銘のパクリというのだろうけれど、彼らにもイノベーティブな側面、つまり「有」と「有」を結びつけて、新しい「有」を生み出す力は存在した。それはパクリと特許という一件関係ない二つの有を結びつけて巨大な富を生み出すビジネスモデルを作り上げたことだ(とりわけゲイツはプログラムという商品を販売するのではなくリースするという商法を考えたことで世界一の大金持ちになったのだ。販売すれば儲けは一回だけれど、リースならただのプログラムをコピーして無限に設けることができるという新しいビジネスもでるをイノベーションした)。

さて、ジョブズである。ただ、ジョブズがパクったのであれば、こういった二人の巨人と変わらないことになる。いや、彼らのような狡猾なビジネスモデルをつくることが苦手なぶん、イノベーションは低いと言わざるを得ないだろう。

いや、そうではない。ジョブズのイノベーティブはこういったものとは全く別のところにある。そして、それはきわめてイノベーティブな、つまりイノベーションに富んだものだった。では、それは何か(続く)

スマホとガラケーの所有率、テレビとインターネットのアクセス時間が逆転

僕は毎年、三つの大学の講義で学生たちにスマホの利用状況について質問している。ずっとたずねてきた質問項目は1.スマホとガラケーの所有率、2.テレビとインターネットアクセス時間比率の二つだ。トータルで300名程度の講義で実施しているのだけれど、2012年はちょっとびっくり、というか「ついに来たか」という反応があった。六月にこの二つの質問をしたところ、スマホとガラケーの所有率、テレビとインターネットへのアクセス時間比率、ともに逆転現象が起きたのだ。スマホの所有率が六割、そしてインターネットへのアクセス時間がテレビのそれを上回った。おそらく、というか、これは間違いなく二つが連動していることを示していると考えていいだろう。つまり、スマホの所有がインターネットアクセス時間の増加を促したと。

2007年、スティーブ・ジョブズがiPhoneを発表した際、ジョブズはiPhoneの機能を順に三つ紹介していた。携帯電話、音楽プレーヤー、そしてインターネットだ。ジョブズがこれを紹介するときの会場のリアクションは興味深い。最初の二つで大歓声が上がったが、三つ目のインターネット・ディバイスを指摘したときは、あんまり盛り上がらなかったのだ。つまりこれは、当初、人々はiPhone=スマホをケータイとiPodを一台で持ち歩けるツールとして魅力を感じていて、インターネット・マシンとしては大して期待を寄せてはいなかったことを示唆している。ただし、ジョブズはこういう発表をやるときには、イチオシを最後に出すという演出をおこなうのが常だった(例の有名な”One more thing”という決めゼリフがそれだ)。ということは、ジョブズのこのプレゼンは肩すかしを食ったわけなのだけれどのだけれど(それでも、この時のプレゼンは「ジョブズ生涯における最高のプレゼン」と絶賛されている)。

だが、今回のこの結果はジョブズの見通しが正しかったとことを証明している。ジョブズは未来を正確に見通していた。現在、スマホがケータイと音楽プレーヤーを合体したものではなく、インターネット・ディバイス、いいかえれば常に持ち運べるコンピューターであること、パソコンの進化形であること(さらに言い換えれば、実はケータイと音楽プレーヤーはオマケでしかないこと)を疑う人間はもはやいないだろう(パソコン=スマホという認識ができない人間は、認識を改め直した方がいい)。

それじゃあ、ということで、スマホの利用状況についてもっと本格的に調べてみよう!

昨年10月、アンケートを実施してみた。対象は文系大学(関東学院大学、宮崎公立大学、立正大学)の学生340名(平均年齢20.1歳、男女比=45.2:54.8)。質問項目はスマホの利用状況、そしてスマホを用いたSNSの利用状況についてだ(SNSの利用状況については次回掲載予定)。ちなみに「大学生のスマホ利用状況」とタイトルには書いたけれど、調査対象はあくまでもこの三つの大学で僕の授業を受けている大学生たちであることをお断りしておく(偏差値40台後半~50台前半なので、これより偏差値が上になったり、下になったりすると、おそらく利用状況がかなり異なってくるだろう)。

基本データが示す「学生たちにとって、もはや電話はスマホの時代」

先ず基本的なデータから。その所有率は、それぞれスマホ78.5%、ガラケー30.1%という結果だった(スマホとガラケーを合計すると100%を超えてしまうのは二台持ちがいるから)。この時点での(12年10月時)全国の普及率が30%程度ということを鑑みれば、この数値は非常に高いということになる。OSについてはiOS(iPhone):Android=47.2:52.8(それ以外のOSはなし)。この比率も、まあ、一般とあまり変わらない。使用期間の平均はスマホが12.8ヶ月(ガラケーは55.1ヶ月)。基本データの中で興味深いののはWi-Fiの利用率で、なんと59.2%が利用していないという結果が出た。いずれの大学においてもすでに学内Wi-Fi環境は整備されているにもかかわらず、意外とこの機能は使われていないのだ。ここから考えられるのはスマホのスタンド・アローンな使用だろう(「Wi-Fiって何ですか?」って質問すらあった)。つまり、パソコンと接続してデータのやりとりをすることがほとんどなく、もっぱらスマホ単体で全ての作業を行っているということ。データのバックアップ率が52.8%であることはこのことを傍証する。つまり、これは学生たちが電話をガラケーからスマホに持ち替えても、いまのところは相変わらずガラケー的なスタイルで利用していることを意味する(とはいっても、残念ながら今回はこれについての質問項目を設けていなかったので、これはあくまで推測の域を出ることはないのだけれど)。

それぞれの機能の利用比率についてはメール98.2%、電話96.8%、インターネットブラウザ94.7%、カメラ89.3%、音楽プレーヤー44.5%(デフォルトでインストールされているアプリ。その他のアプリについては後述)。要するに、それぞれの機能については結構、満遍なく利用されているというのがわかる。

メールの送信パターンが多様化

これら基本機能の状況について細かくみてみよう。
まずメールについて。1日のキャリア・メール送信回数はガラケー8.7回、スマホ=7.8回で、スマホになると若干の減少が見られる。ただし、これは、その他のメッセージ機能にメール機能が奪われたとも考えるべき。それぞれのメッセージ機能の利用率を見るとキャリア・メール90.0%、PCメール32.3%、Facebookのメッセージ25.1%、LINEのトーク79.1%といった具合。いわば、かつてキャリア・メールが一括して担ったメールの送受信機能が分散したとみていいだろう。にもかかわらずキャリア・メールの利用頻度があまり落ちていないと言うことは、メール=メッセージ機能全般の利用頻度が高まったということになる。

無料電話アプリで通話料心配いらず

こういった、ガラケーが備えていた機能をスマホに持ち替えることによって、その利用が活性化するという現象は他の機能でも一様に見ることができる。例えば通話。一週間の通話回数はガラケー5.4回→スマホ5.9回、総通話時間についてはガラケー38.3分→スマホ49.8分と増加。LINEやSkypeなどの無料通話アプリの利用率は77.3%、そして利用者の一般通話と無料通話の使用比率は5.5:4.6だった。つまり、アプリを使ってタダで電話ができるということで電話の利用頻度が高まったというわけだ。ちなみに最も使われている無料通話アプリはLINEだった。ま、これもあたりまえと言えば、あたりまえか。

カメラ撮影アップ、その一方で音楽プレーヤーは意外にも……

だが、スマホの基本機能の利用頻度の中で特筆すべきはカメラと音楽プレーヤーだ。前者が意外と高く、後者が意外と低い。カメラについてはガラケー所有者と一週間の撮影枚数を比較したところスガラケー4.7枚、スマホ8.0枚という結果。これは、おそらくSNSの利用と関わっていると見ていいだろう。スマホだったら撮影した写真を即座にFacebookやTwitter、LINEにアップできるので、手軽に撮影してしまうのだ(この詳細については次回)。

音楽プレーヤーの利用頻度が低いのは、結局、いまだに音楽プレーヤーを持ち歩いているという事情による。つまりガラケー時代と同じで二台持ちを続けている。その理由をいくつか聞いてみたところ、大別して二つの理由があった。ひとつは「データを移動するのが面倒くさい」。要するに、もう音楽データをiPodなどに入れているので、そのまんま使い続けるというわけ。もう一つは「バッテリーの消耗を押さえるため」というもの。スマホ、とりわけAndroid系は、音楽プレーヤーを使用した場合でもかなりのバッテリー食いになる。聴いているとどんどん残りの電池量が減ってしまうのだ。ちなみに、音楽プレーヤー機能を利用してもバッテリー消費量が少ないiPhoneではこういった理由は見られなかった。

とはいうものの、これらは過渡期的な現象でしかないとみなせるデータもある。そのことは、スマホ所有者が以前ガラケーを使っていたときに、ガラケーで音楽を聴いていたと回答した者が40.8%と少なかったことだ。つまりスマホは40.8%の人間に、音楽プレイヤーとしての利用を、iPodなどからスマホへとシフトさせたのだ。ということはデータ移行が容易になり(メモリー容量の増大も必要条件になるが)、バッテリーの持ちがよくなれば、音楽プレーヤーの利用頻度が高まることが予想される(言い換えればiPodのような音楽プレイヤーの利用が激減する)。

ガラケーに備わっていた機能がさらに活性化する

こういった各機能の利用状況をざっくりと知るために、ガラケーからスマホに持ち替えることで各機能の使用頻度が変化したかどうかを、「増えた」「変わらない」「減った」という項目でたずねてみた。まず電話の場合、それぞれ22.7%、56.8%、18.8%で微増、インターネットは増えたが88.0%と激増、アプリも92.5%で激増、音楽プレイヤーは増えたが35.5%、減ったが11.6%で増加、カメラは62.4%が増えたで、これまた激増。

パソコンではなくスマホこそ大衆的なコンピュータ

結局、アンケート結果はガラケーからスマホに持ち替えることで、ガラケーに備わっていた既存機能の利用頻度が高まるというということを示している。かつてパソコンは汎用機器と呼ばれ、アプリケーションをインストールすることで様々な機能を使い分けることができる夢のマシンのように語られていた。実際、パソコンはいろいろなことができた(そしてもちろん今でもできる)が、一定のレベル以上での普及はなかなか進まなかった。操作が複雑で、一般人には少々敷居が高かったのだ。そしてそれは大学生にも該当した。だが、スマホは今やパソコンを使いこなせない人間でさえもタッチパネルをタッチしながらアプリを手軽に使いこなせるようになっている。つまり、スマホこそパソコンで実現しようとした理念を具現化したメディア=ツールなのだ。今回の結果は、少なくとも僕が教えている学生については、このことをある程度証明している。

AKB48の峯岸みなみがユニットの掟である恋愛禁止を破ったことが発覚し、解雇を恐れて自ら丸刈りにすることで謝罪の誠意を示し、研修生への降格処分になった件についての議論がかまびすしい。そこで、僕もこの議論についてメディア論的に考えてみようと思う。ただし、プロデューサーである秋元康の立ち位置から。

秋元の関心はシステムにしかない

秋元のライフワークは常に「芸能界においてシステムを構築し、これを稼働、拡大させること」だった。そして「そのために女性タレントをコマのように扱うこと」だった。ただし、秋元自身はそのコマを動かさず、「コマ=タレントが自ら主体的にコマを進める」というスタイルを採ることで。これを進化させることに精力を注いできた。

このためにしばしばチョイスされたのが限りなく「素人」、限りなく「あまり才能のない」タレントたちだった。「素人」の方がコントロールしやすいし、「才能があまりない」ということは、彼女たちがブレークした際には、それは自らのプロデュース力が証明されたことになるからだ。古くは80年代。オールナイトフジの女子大生ユニット・オールナイターズ、80年代後半にはおニャン子クラブ、90年代後半には猿岩石。これらに共通するのは、まずはタレントたちが活動するフィールドを与え、そこにルールを施し、そのルールの範囲内で自由=主体的に動き回らせるというやり方だった。言い換えれば、秋元はコマ=羊それぞれにさしあたり関心はない。関心の焦点は、前述したようにシステムそれ自体の「動き」なのだ。これを逐次チェックし、システムの維持管理、拡大をやっていく。そういったシステムの構築こそが秋元が志向するものなのだ。そして、この志向はナルシスティックな欲望に基づいている。

実はファンもまたAKB48のメンバーそれぞれに関心を持っていない

実は、これは秋元のシステムを享受するファンもまた同様だ。というのもファンは、そのコマ=羊の動きを楽しむという、バラエティ「進め!電波少年」あるいは映画「トゥルーマン・ショー」のようなドキュメント・バラエティを楽しむといったところが、実は最も関心のあるところだからだ。もちろん、これは無意識だろうが。

ファンの関心は、さしあたりごひいきのタレント=メンバーでは、ある。ただし、このタレントたち、容貌、プロポーション、頭の回転の良さ、どれをとっても素人っぽい。これは松嶋菜々子、綾瀬はるか、広末涼子、竹内結子、長澤まさみ、宮崎あおいといった女優たちと比較してみるとよくわかる。まあ、いわば「輝きがない」「目力がない」(彼女たちのグラビアを撮影するカメラマンは、さぞかし大変なのではなかろうか)。実際、秋元もAKB48メンバーについてのコンセプトを「クラスで10番目くらい」の存在と公言している。

にもかかわらず、ファンはAKB48に首っ引きになる。なぜか?それはファンの方も、実は最も関心を抱いているのが秋元が提供するシステムだからだ。つまり、本当のところ、タレント個々に関心はほとんどない。じゃあ、なぜファンたちがメンバーに執着するのか。それは、前述したようにシステムの中のコマ=羊の「動き」が楽しいからだ。つまり、彼女たちのドキュメンタリーを見ることにワクワクしてしまう。

言うまでもなく、秋元はそういったシステムを設置している。「会いにいけるアイドル」というシステムから始まって、総選挙、じゃんけん大会、そして震災慰問などなど。こういった、コマ=羊が自由に(そして不定形に)活動可能なフィールドを用意し、そこで彼女たちがどういった振る舞い(パフォーマンスではない。しかし、このシステムの中ではパフォーマンスと認識されてしまうようになっているのだけれど)をするのかにファンは興味津々となるのだ。 そして、この「ドキュメンタリー」を追っかけていくうちに、自分を彼女たちと同一化しはじめる。 その結果、知らないうちに芸能人としては並以下にしか思われないAKB48のメンバーに思い入れをするようになっていく。つまりだんだんと容貌、スタイル、アタマのよさなどというものはどうでもよくなっていくのだ。だから、結局のところファンも、この「動き」に関心を持っているわけだ。

そして秋元は、こういったファンの「動き」を利用してシステムのメインテナンスに関心を持つ。まさに、これはドキュメントバラエティの手法そのものなのだけれど。言い換えれば、秋元はシステムのマクロ的側面、ファンはシステムのミクロ的側面に常に注目を寄せているのである。

システムの完成形としてのAKB48

そして、こういった秋元の欲望がどんどん洗練、純化されていったものこそがAKB48といった存在に他ならない。もはや、秋元自らが強制的に介入しなくても、彼女たち自らがシステム=羊飼いのフィールドの中で、さながらオートマトン=自動人形ようにシステムに対し従順に稼働するようになったのだから。しかも認識としては「主体的」に(こういった状況はオールナイターズやおニャン子クラブの時代にはなかった)。前田敦子は卒業し、宮澤佐江はSNH48に移籍し、指原莉乃はHKT48で活動している。一見すると前田のみが自らの主体的な判断でそうしたように見え、一方、宮沢は転勤させられたように、指原は左遷されたように見える。だが、そうではない。すべて「秋元という神」の「見えざる手」によって仕組まれたものだろう(だから僕はさきほど「主体的」とカッコ付きで表現したのだけれど。つまり彼女たちはあくまでも「羊飼いの羊」。認識論的にはどんなに主体的に振る舞っても、存在論的には秋元システムに拘束された受動的な存在でしかない)。そして、今回の峯岸みなみも全く同様だ。彼女は恋愛が発覚し、AKB48を除名されることを恐れ、自らオートマトンとして「丸刈り」という「主体的」な振る舞い=パフォーマンスに出たのだ。まさに秋元のお釈迦様の手のひら、羊飼いのフィールド内行為といわずしてなんと言おうか。

峯岸はフェードアウトしない。秋元は個人のメインテナンスも、それなりにちゃんとやっている

で、最近「体罰」が話題となっているので、これにかこつけて「これも体罰の一種だ」「やりすぎだ」と批判するムキもある。だが、これは秋元が運営している超管理システムの単なるメインテナンスに過ぎない。そして、これは体罰のようで見えて、実は秋元の「個人をメインテナンス」するというシステム内の機能を稼働させたということでもある(もちろんシステム全体をメインテナンスするという目的が先ず第一にあってだが)。峯岸のAKBでのランクは14位。16位までの選抜メンバーにランクインしている。ただし、下位だ。そこでこういった掟破りをすれば……ネガティブな意味ではあるが峯岸みなみという存在が広く認知されることになる。AKB48をあまり知らない人間なら、名前すら聞いたことのない峯岸の知名度を、今回の丸刈り事件は一気に高めることになるのだ。そしてそうすることでAKB48全体の知名度が高まっていく(要するに、関心のない一般人も、また一人、また一人と言った具合にAKB48のメンバー名を覚えることになる)。こういったネガティブな要素もまた秋元はシステム管理として用いてしまうのだ。

しかも、それは結果として、実は峯岸がアドバンテージを獲得したことにもなる。丸刈り事件をオーディエンスが騒げば騒ぐほど、彼女の将来が約束されるからだ。研究生に降格された峯岸は、その後、どうやって現状にのランクに復帰するのか?今度はオーディエンスはそういったプロセスに関心を抱くようになっていく。そこに秋元はつけ込むのだ。しかも、今回はそのプロセスをビジュアルに確認することができるという仕組みまで加わって。そう、峯岸の復帰プログラムのプロセスは「髪の伸び具合」によって確認可能なのだ。つまり、ここで秋元のまた例のシステム管理が登場する。こんどは峯岸復帰プログラムというドキュメント・バラエティが稼働するのである。このことはすでに前田敦子の卒業、そして指原莉乃のHKT48左遷の際にも見た通り(指原もまた、左遷させられることで知名度を一気に上げた。指原についての秋元のプロデュースについては僕のブログ「秋元康の「さしこ=指原莉乃左遷戦略」はエグい!」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/archive/2012/06/17をご参照いただきたい)。

捨てられる羊

ただし、くどいようだが秋元が愛着を寄せるのは自らの構築したシステムでしかない。言い換えればナルシスティックな欲望に基づいている。だから、メンバーは開くまでコマ=羊。だから、こういった「復帰」「卒業」プログラムを組めるのは、タレントがシステムを順機能的に作用させるときだけだ。つまり、不祥事を起こしたとしても選抜メンバーにランクインしていれば、もっと知名度を上げるためには使えるのでこういった「復帰」というプロセスを与えるが、ランクが低い場合にはシステム維持のために「恋愛禁止は解雇」という規定を事務的に作動させる。つまり「解雇」。それはシステムからすれば逆機能として作用するから。ようするに「不良品」として扱われるわけだ。これもまたメインテナンスというわけだ。

で、こうやって騒ぎ立てることで、実は僕も、秋元というシステムのお釈迦様の手のひらで舞っているだけと言うことに、まあなるんだろう。

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