肝腎の部分を見せないのがセクシー
壇蜜というキャラクターが面白い。グラビア・アイドルだが32歳、さして容姿がよいわけでもなければ、姿態が抜群に美しいというのともちょっと違う。ところがその「エロさ」がハンパではないというところが、多くの支持を獲得する原因となっているようだ。で、ちょっとネットで彼女の画像をチェックしてみると、なるほど、確かに「エロい」という言葉がぴったりくる。ただし面白いのはフルヌードになっているものよりも、何かを纏っている姿の方がセクシー、エロに見えることだ。「ギリギリまで見せて、最後は見せない」といった画像が、むしろエロティシズムとしてはきわめて説得力のあるものになっている。
差異の間歇
「肝腎の部分を見せない」というその手法は記号論=メディア論的には完全に正解だ。フランスの記号論者ロラン・バルトは、このことを「限りなき差異のたわむれ=間歇」という言葉で表現している。これは、たとえばスカートの中に隠されている下着に対する欲望を考えるとよくわかる。前を歩いている女性のスカートがまくり上がっていて丸見えだったとする。このときには、われわれは、実はほとんどその姿にエロティシズムを感じない。むしろ「みっともない」とか「こっけい」といった印象の方が強い。ところが風にスカートがなびいて下着が見えたり見えなかったりする場合には、エロスを感じるのだ。つまり「見える」より「見えそうで見えない」「ときどき見えそうな感じがする」という感じの方がセクシーであるというわけだ。だからたわむれ=間歇なのだけれど。
これは要するにエロティシズムが「下着それ自体」にあるのではなく、それが「どのように見えるか」にあることを意味している。スカートがなびいているときには「見える、見えない」の差異が延々続く。そして「見える、見えない、どちらなのだろうか?」という思いが、下着に対するフェティシズムを喚起しする。言い換えればエロティシズムのは「意味現象」、つまりそこに意味を見いだそうとする欲望が引き起こす現象なのだ。そういえば80年代、こういった「差異の間歇」に見いだす魅力は「チラリズム」と呼ばれていたことがあったっけな?
「壇蜜という意味」に男たちは幻惑される
壇蜜の手法がまさにこれだ。彼女はこういったチラリズムで、われわれに向けてエロティシズムを発し続ける。だから、彼女の画像に多くの男性が食い入るように見入ってしまう。くりかえすが32歳で、容姿も、姿態も飛び抜けているわけでもないにもかかわらず、だ。エロティシズムを「物それ自体」に見いだしていたとしたら、壇蜜の魅力はグラビア・アイドルとしては並、あるいはそれ以下だろう。しかし、そういった壇蜜という「物」がポーズを取った瞬間、突然生身の人間、生身の女性、オスに生殖欲望(これは記号的な欲望だから本能ではないのだけれど)を喚起するメス、リアルなエロスとして男の目には映ってしまうのだ。
そう、壇蜜は限りなくメディア的存在であり、またエロティシズムの本質を表現した存在なのである。
しかし、壇蜜のエロティシズムの妖しい輝きは、これだけにとどまらない。というのも、この魅力は男性のみならず女性にも放たれてしまっているからだ。では、それは何か?(続く)