勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2013年01月

マスメディア報道の定型化からの脱却のためにはマーケティングによるポピュリズム的なやり方をやめ、独断偏向(ただし、相対化した、確信犯としての)の編集方針を採用した方がむしろよいと前回指摘しておいた。いいかえればマスメディア側はワン・オブ・オピニオンとして報道を行い、その判断をオーディエンスに委ねる姿勢が必要。そして、その根拠=前提としてオーディエンス側の価値観の相対化=メディア・リテラシーの向上を指摘しておいた。さらにその具体例として昨年十二月にテレ東が池上彰を起用して放送した選挙特番の成功をあげておいた。

だが、こういった番組編成は指向性が高いゆえに一般大衆受けせず、オーディエンスの数を限定してしまう恐れがあるのではないか?これが可能なのはマイナーなテレ東だからではないか?という懸念がないこともない。そこで今回の特集の最後に、このテレ東的なやり方が実は再びマスメディア的な力を取り戻す方策の一つになり得ることを示してみたい。

ジョブズが消費者に押しつけた独断偏向

わかりやすいように、その具体例を挙げてみよう。それはS.ジョブズが90年代末から逝去するまで行った独断偏向マーケティング?だ。ジョブズが復帰するまで、Appleは迷走していた。コンピューター業界の動向をリサーチし、顧客のニーズに合わせながら様々なモデルをリリース。だが、それは企業イメージを曖昧にし、Appleを並のコンピューター企業に貶め、最終的には「余命90日」と呼ばれるほどまでに弱体化してしまう。ここでジョブズが復帰する。ジョブズはこの時、それまでのポピュリズム的なマーケティングをやめ、たった四種類の商品だけに絞ってしまったのだ(プロとアマチュア向けにそれぞれデスクトップとノートパソコンを用意した)。そして最大の市場であるビジネスユースを捨て、もっぱら個人ユースに商品提供を行った。極言すれば、ジョブズという独断偏向男が好きな物を開発し、これを欲しがる者に売るという、客に媚びを売らない戦略に転換したのだ。ところが、これによってアップルのイメージは明確になる。そしてその独断偏向はアップルを志向する人たちの魅力となり、その後続いたiPod、iPhone、iPadという商品群に継承されたのだ。そしてマックは今やビジネスユースにも広く用いられるようになった。これらは、どれもどこにも無い、ユニークな、そして僕たちのメディアライフを根底から変更する「独断と偏向」に満ちた商品だった。

ジョブズがやったことは何か?それはマーケティングではなく「提案」「啓蒙」、もっといえば消費者への「教育」だ。つまり「上から目線」で独善的に自らのオピニオン(イデオロギーと呼んだ方が妥当だろう)を提示したのだ。しかもそれだけではなく、このオピニオンに責任を持った。つまり、全てのプロダクトに”i”という小文字をつけ(iMac、iBook、iPod、iPhone、iPad……)、それらを全く同じインターフェイス、そしてミニマリズムに基づく同じデザインで消費者に「押しつけた」のだ。この独断と偏見に付き合うあなたは安心!とやったわけだ。

いいかえればジョブズは商品を販売したのではなく、強烈なオピニオンを商品に乗せて提供したのだ。しかも、一切ブレることなく。そして消費者はそのオピニオンに魅せられて、商品を次々と買い求めていったのだ。また、ジョブズはそのオピニオンに責任を持った。つまり自らの発したオピニオン=イデオロギーを死に至るまで延々と維持し続けたのだ(最近のAppleは、ちょっとブレているが)。そうやって消費者から信頼を得ることにも成功した。それがAppleというブランドを再生したわけだ。

そして、こういった一貫性、そしてそれを徹底的に煮詰めていく作業によってジョブズというオタクによるオピニオン=イデオロギーはユニバーサルなものとなった(だからiMacに当初振られた個人ユースが最終的にはビジネスユースにまで広がったのだ)。

責任を持った独断偏向を

つまり、僕が最終的に結論づけたいのはマスメディアの無能が実はオピニオンの無さ、一貫性の無さ、オピニオンを煮詰めることの無さ、そして報道に対する責任の放棄に由来すると言うことなのだ。マスメディアは腹を括り、明快なビジョンを持ち、それを責任を持ってオーディエンスに提示する。たとえ攻撃を受けたとしても、それに対する明確なビジョンでカウンターをあてる。そうすることで、実は初めてマスメディアは定型から抜け出し、強い訴求力を持つことが可能になる。残念ながら、現在のマスメディアは、こういったことをやらず、目の前のルーティーンにひたすら追われ続けている。つまり「思考停止」(強いて言えば、いちばんやっているのは受信料に依存し、視聴率の拘束を受けることのないNHKだ。でも、これこそ、まさに、皮肉なのだけれど)

こういった自由な立ち位置。実はそれこそがマスメディアの創造力に他ならないのだが……。一旦、オーディエンスに目を向けることをやめ、自らの有り様を自問自答してみること。マスメディアに求められているのはまさにこれに他ならない。

前回、マスメディアが無意識の経済原理=結果としてのカネ儲けに基づいて報道を行っていること。だが人権意識の高まりと価値観の多様化の中で経済原理に基づいた活動を行うことでコンテンツがどんどん定型化し、BSEの牛の脳のような形式だけのスカスカ状態に至ったこと。そして、それが今回のアルジェリアのテロでもクリーシェ=お定まりの語り口による報道を結果したことを示しておいた。だが、スカスカになればなるほど、人はマスメディアにそっぽを向けていく。すると予算が削減されてコンテンツはますますスカスカになっていく。そして、今やテレビは視聴率低下に歯止めがかからず、新聞・雑誌は発行部数をどんどん落としているという「負のスパイラル」が展開している状況だ。

さて、この現状を打開する処方箋はあるのだろうか。今回はこれを考えてみたい。

マーケティングをしない報道の有効性

まだ、情報インフラが整備されておらず、マスメディアが王様だった60年代。マスメディアは当時から「客観報道」を方針に掲げて活動を行っていた。人権意識は高くないのでクレームをつけられることは少なく、インターネットも存在しないので価値観も多様化されていない。お陰でテレビや新聞、雑誌はオピニオンリーダー的なポジションを謳歌することができた。マスメディアは国民の世論環境を独占しつつジャーナリズムとして機能していたのだ。

だが、間違ってはいけない。当時のマスメディアが科学性に基づいた客観報道をやっていたというわけでは決してなかったのだ。いいかえれば、前述したように現代にあるような「報道の足枷」が少なかったので、現代と同様、自らの立ち位置をやはり振り返ることなく、かなり独立偏向した報道をやっていた。たとえば朝日新聞。なんと北朝鮮を「地上の楽園」ともてはやし、学生運動についてもポジティブな立場をとった(さながら東京スポーツのように、ジャイアント馬場がチャンピオンになったなんてことをスポーツ欄に写真入りで掲載していたりもした。言うまでもなくプロレスはショービジネス。スポーツではないのだが)。当時の朝日新聞の影響力は絶大。そして、こんな独断偏向をやったおかげで多くの人間が煽られ、在日と結婚した日本人が北朝鮮に移住してしまうわ(これが後に脱北や拉致問題に繋がっていく)、学生たちはその気になって大学を占拠するわという社会状況を作り出す一因となっていた。だから客観報道でも何でもなかった。

まあ、これ自体は当然、褒められた話ではない。しかし、こうやって世論を形成する主体として機能したこと自体は評価すべきことといえる。言い換えれば、当時のマスメディアは大衆迎合のためのマーケティングなどやらず、ある意味「上から目線」で独自に、そして一本調子で番組・紙面を展開していた(もちろん、それが朝日のように客観報道・不偏不党といいながら、独断と偏見に満ちた豪快に偏ったヘンテコリンなコンテンツになってもいたのだが。しかも、くどうようだが当の朝日自体がこの独断偏向には気づいておらず、自分たちはあくまで不偏不党の客観報道をやっていると信じ込んでいた)。そして、そういった論調には一貫性があった。だからこそオピニオンリーダーとなり、大衆の支持を得ていたのだ。まあ、要するに良きにつけ、悪きにつけブレてはいなかったのだ。


独断偏向報道が求められている?

そして、こういった「上から目線」の「ブレの無さ」こそが、実は現代のメディアに求められていることなのではないか?

もちろん、かつての朝日のように、ほとんど洗脳みたいな状態になって多くの人間に迷惑をかけるのは困る。しかし、前回も示したように現代は多様化が進行した時代。価値観も多様化し、相対化も進んでいる。だから、オーディエンスがかつての朝日新聞にハメられた時のようになると不安になることはあまりないと僕は踏んでいる。もはやオーディエンスは情報すれっからし、そんなに初心ではないのだから。だったら「客観報道・不偏不党」といってマーケティングに基づいたポピュリズム的なことをやるよりも、独断偏向的に報道した方が明らかに説得力と魅力が増すだろう。そういったコンテンツに、オーディエンスは60年代のそれとは違って論調にのめり込まれることなく、オピニオンの一つとして相対化しつつも、これを好奇心を持って積極的にアクセスしようとするのではなかろうか。

衆院選特番に見るテレ東の独断偏向

独断偏向が強い説得力を持った例をちょっとあげてみよう。
昨年12月16日の衆院選の選挙特番。ここではテレ東がまさに独断と偏向に満ちた番組編成を行った。候補者の紹介を奇妙キテレツなかたちでやり(たとえば東国原英夫には「たけし軍団→知事→国会、おそるべし上昇志向」、石破茂には「カレー作りに異様な情熱」とプロフィールがついた)、進行の池上彰は当選者とのやりとりに歯に衣を着せぬものの謂いで視聴者を驚愕させた(小渕優子に「お父さんが議員じゃなかったら、あなたは政治家にはならなかったのでしょうか?」と、言ってはマズイ世襲のタブーを無視し突っ込み、公明党について「創価学会の組織票」とこちらもタブーを破り、石原慎太郎へは「パプアニューギニアやフィリピンを北朝鮮と同列に語るから、暴走老人と呼ばれるんじゃないですか?」とやって石原を激怒させたり)。だが、これは大評判となり、視聴率最下位の指定席から脱却(TBSの上に行った)。23時台には他の定型的な特番をさておいて7.9%トップの視聴率を上げることに成功している。

この時、僕らはテレ東の選挙特番を必ずしも真剣には見ていなかったはずだ。「おかしなもの」として、先ずは見た。だが、その「おかしなもの」は翻って、選挙の、そして政治の見えなかった側面を、テレ東の、そして池上彰の過激な進行から見て取ることができた。そして、それがとてつもない魅力に結びついたのだ。つまりこの番組を対象化、相対化しつつも、思わずのめり込んでみてしまった。そこに僕らはテレビ番組の持つ創造力=魅力を感じ取ったのだ。おそらく次の参院選でもテレ東は池上彰を起用し、このスタンスでやるだろう。そしてこの衆院選よりも視聴率を取るのではなかろうか?

ただし、独断変更のコンテンツを制作することは指向性が強いので、これを受け入れるオーディエンスを絞ってしまうことになる。言い換えればマスメディアと言うよりもミドルメディアになってしまうわけで、やはり大衆ウケするのは難しい。「こんなゲリラ戦術がができるのはキー局でもダントツ最下位のテレ東だからこそ」とツッコミを入れられてしまうかもしれない。

いや、ところが、そうでもないのだ!(続く)

ひたすら定型パターンを繰り返す

相変わらずメディアの報道はなかなひどい。これは、今回のアルジェリア事件についての報道も該当する。

事件について同じ情報をひたすら繰り返し、犠牲者の名前を公表し、犠牲者の遺族にインタビューし(もっぱら泣いたり、悲しんでいる顔を収めたいらしい)、犠牲者はいい人だったと語らせ(犠牲者は絶対に素晴らしい人しかいない)、さらに日揮の担当者の記者会見では「ご遺体に、どんなことばをかけてあげたいですか」という質問をする(答えは聞かなくてもだいたいわかる。同じだから)。そして、いわゆる「識者」に適当にコメントしてもらい(これも聞かなくても何を話すのかはあらかた予想がつく)、チャンチャンということに(この場合「識者」とは、そのことに詳しいと言うよりも、肩書きが問題になる。たとえば「大学教授」とかは、その典型。で、しばしばピントが外れている)。こういった一連のマスメディア報道、まとめてしまえば「創造力の欠如」と括ることができる。

もちろん情報収集もマトモにはなされていない(経済、能力二つの面で情報収集は事実上、不可能)。事件についてメディアがやっていることはひたすらクリーシェ=定型句の繰り返し(橋下徹が衆院選時、記者がクリーシェな質問したことに激怒したことがあったけな?)。映像も同じものを何回も何回も流す。報道もワンパターン、しかもどの局も同じという状況。言い換えれば、他の事件であってもほとんど異口同音の報道が繰り返されるのだ。だから、僕らとしては、報道が流すこういったクリーシェをかいくぐって、事の実際は何なのかを再編集、考え直すという作業が必要となる(これは、本来ならばマスメディアが担う仕事なのだけれど)。

さて、メディアが無能だ、バカだといってしまえばことは簡単だ。ところがマスメディアはふざけているというのではなく、これでも意外とマジメにやっているという事実をご存知だろうか?でも、結局、こういったふうなヒドいコンテンツの提供になってしまっている。ということは自覚症状がないわけで、要するに重傷と言うことなのだけれど。

今回は、定型化し創造力を失ってしまうに至っているマスメディアの構造について考えてみたい。

マスメディアの活動を促す原動力は「経済原理」

マスメディアが活動する基本原則は、今や、かつて以上に完全に経済原理だ。つまり新聞・雑誌なら発行部数、テレビなら視聴率ということになる。ただし、これはあからさまには言われない。そして、面白いことにマスメディアに関わっている人間の多くも、そうは思ってはいない。時代劇の「越後屋と悪代官」のように、カネ儲けをめぐって「そちも悪よのう」といったふうな確信犯的な感覚=カネ儲け主義を持ちあわせてはいないのだ。むしろ、事実、真実を報道しようというスタンスで活動を行っている。ところが、これが無意識のうちにねじ曲げられていく。つまり、本人たちも知らないうちに「経済原理の虜囚」に陥っていくのである(言い換えれば「無知の知」を知らない。だから「重傷」なのだけれど)。

経済原理の虜囚に陥るプロセス

経済原理の虜囚に至るのは次のような要因による。日本のマスメディアの原則は「客観報道」「不偏不党」だ。つまりどこにも偏ることなく、常にニュートラルな視点での報道を旨とする。ところが、それは翻って「オピニオンの無さ」に結びつく。オピニオン=報道側のスタンスや主張が存在しないのなら、報道の行き着く先は科学主義ということになるのだろうけれど、これは費用対効果的に見て無理だ。科学的に実証しようとすれば膨大な費用がかかってしまうからだ。そこで用いられるのがオーディエンスの欲望に忠実な展開をすること。つまり、マスの意見が客観報道と捉える。だが、それは突き詰めてしまえば「興味本位」ということに落ち着く。そして、これに忠実に従えば、それが結果として視聴率や発行部数に繋がるわけだ。つまり「客観報道」というタテマエが大衆迎合=ポピュリズムを呼び、結果としてカネ儲けを正当化するものに転じてしまう(よく「報道の自由」とか「知る権利」とかマヌケな理屈を振り回すけれど、これなどは「無知の知」を知らないことからくる無責任な発言だろう。自分が経済原理に包摂されていることに気づいていないのだから)。

ただし、こうやってオーディエンスの興味を喚起したとしても、本来なら、それでもそれなりに面白いものが出てくるはずである。ここで創造力を発揮することは十分可能だからだ(そうなれば、これはこれである意味「面白い」のだが)。しかし、そうはならないで、定型化する。というのも、今度は外部的要因がそうはさせないからだ。

人権意識の高まりがコンテンツを形式化する

そのひとつは、現代の人権意識が高まったこと。いたずらに好奇心を惹起するようなコンテンツを掲載すれば、それはプライバシーに抵触し裁判沙汰になる。だから表現は穏当なものに押さえられる。たとえば、被害者を攻撃するようなおそれのあるコンテンツを掲載することは危険きわまりないので、決してやらない(「被害者は」は絶対善であり、どんな人であろうと「神聖にして冒すべからず」なのだ)。また、差別に抵触する可能性のあるものも取り上げない。たとえば、テレビなどで使ってしまった場合にはお詫びすることになることばとして「放送禁止用語」がある。実は、これは正しくは「放送自粛用語」であり、民放連が定めたもので、仮に発してしまったところで法律的な罰則があるわけではない。ただし、事実上「禁止用語」として扱われるのは、こういったリスクを回避しようとする動機に基づくからだ。

われわれのオタク化もコンテンツを形式化する

もう一つは情報化に伴う価値観の相対化だ。今や「オタク」の時代。人々は細分化した趣味、価値観の中にタコツボ的にアタマをツッコミ、その小さなパラダイムの中で生息している。しかも、こういった状態が「一部のオタク」ではなく、社会的性格として国民のほとんどがある程度分有している。つまり「オタクなあなた」ではなく「あなたの中のオタク」という時代。一方、マスメディアはその名の通りマス=大衆をオーディエンスとして設定している。大衆は価値観を一様とする人々だが、今や大衆であるオタクは「価値観がバラバラな大衆」という矛盾した存在。ということは、マスメディアがこれらオタクたちに一様に情報を提供することは限りなく不可能。細分化された情報全てに対応すればコンテンツの量は膨大なものになるし、仮にそれぞれを満遍なく掲載できたとしても、それは必然的に1つ1つの取り扱いが限りなく小さくなる。つまり、これまでのボリュームで細々と掲載したら情報はスカスカになってしまうのだ。そんなものを誰が見たい、読みたいだろうか。

マスメディア報道のBSE脳化

こんな八方ふさがりの中で表現を展開すれば、結果としてコンテンツは「薄っぺらい、当たり障りのない、定型的なもの」というコンテンツが必然的な帰結ということに行き着く。ただし、こういったことをマスメディアの送り手たちが自覚しているとすればまだ救いようがあるのだが、残念ながらそのようになってはいないようだ。ひたすら客観報道というオーディエンスのニーズ=欲望に応えるとともに、その中からリスクを回避するというスクリーミングを行っているうちに、気がつけば、いや気がつかないうちに定型だけが残ったというわけだ。僕はこれを「報道のBSE化」と呼んでいる。つまりコンテンツは意味が完全に落とされ、セルだけになって、報道内容が定型=形だけの、まるで狂牛病の脳のようなスポンジ状態になってしまっている。

そして、このBSE化は負のスパイラルにも、また陥っている。リスク回避+コンテンツの平板化→オーディエンスのマスメディア離れ→収益の悪化→予算の削減→いっそうのリスク回避+コンテンツの平板化→オーディエンスのいっそうのマスメディア離れ。その「なれの果て」がアルジェリアでのテロ報道ではなかったか?遺族にインタビューしてお涙ちょうだいなんてのは、はっきり言ってどうでもいい話なのだから。

この悪循環、つける薬はあるのか?(続く)

アルジェリアのテロで、今回、すでに日本人だけでも9人の死亡が確認された。アルジェリア政府はこのテロに対して軍突入という強硬措置を行った結果、大量の犠牲者を生んでしまったわけだが、このことについてアルジェリア政府は「対応は適切で何ら問題ない」といった主旨のコメント行っている。

当然、人道的措置を期待した日本政府、そしてわれわれ日本人からすれば「トンデモナイ」ということになるのだけれど。実際、日本政府・菅官房長官も「アルジェリア軍の行動は残念」とコメントしている。しかしながら、アルジェリアのこの対応、残念ながら、ある意味では「適切」と判断しなければならないかもしれない。ちなみにフランスのオランド大統領はアルジェリア政府の対応を「最も適切」と評価、アメリカ・クリントン長官とイギリス・キャメロン首相は「責任はテロリストにある」とアルジェリア政府を擁護している。

それにしても、日本と他国のテロに対するこの認識の違いはなんだろう?

戦争はゲーム

言うまでもないことだが、戦争とは「ゲーム」である。「ふざけるな!」と突っ込まれそうだが、社会学的にはゲームの範疇で括ることができる。ゲームはルールで構成されるからだ。戦争は利害を対立させている国家が人命をかけて権力奪取をめざすもの。だが、そこにはきちんとした規則がある。先ず、戦闘員と非戦闘員の分離。戦闘員は戦闘服に身をつけることで「的」となることを明示しなければならない。言い換えれば非戦闘員は一般服だから、これを攻撃してはいけない。また、時に休戦日がもうけられたりもする。さらに捕虜は戦時国際法によって扱いが定められているし、白旗を揚げたら攻撃する側はそれ以上攻撃してはいけない。また、白旗を揚げた方は武装放棄しなければならない(もちろん、他のゲームと同様「違反」は出現するが)。そして非戦闘員の被害を最小限に食い止めることがめざされるものの、国益のためには戦争によって非戦闘員が犠牲になっても、それは仕方がないというかたちで認識されてきた。そう、戦争とはまさに厳密なルールに基づいて行われるゲームなのだ。

戦争というゲームのルールを逸脱したのがゲリラ、そしてテロだ

さて超大国・アメリカが戦争で負けた国が、一つある。それはベトナムだ。なぜか?そこにベトコンというゲリラが存在したからだ。ベトコンがアメリカ軍に勝利した理由は簡単。戦争というゲームで「ルール違反」をやったから。ベトコンはゲリラだからどこから出没するかわからない。しかも戦闘服に身を纏っているわけでもない。だから、アメリカ軍は何をやったらいいのかわからなくなってしまった(そうやって混乱したアメリカ兵がやってしまったのがソンミ村の大虐殺だった。襲撃した米兵には村民が全てベトコンに見えてしまったのだ)。

そして、このゲリラのやり方を現代風にアレンジしたものがテロだろう。911の時、アメリカはその対応に苦慮、そして混乱した。アフガンやイラク政府を崩壊させてしまうのだが、肝腎のテロの張本人であるアルカイダの殲滅には至っていない。アルカイダもベトコンと同様、戦争、国際紛争のルール=ゲームの規則外で場外乱闘をやっているからだ。アメリカは仕方なく、これを「戦争」と定義し、それを仕掛けた国家の政権を倒すという手段に出たのだけど、当該国からすれば迷惑な話だ(要するに、アメリカは場外乱闘を、あくまでリング内で決着をつけようとした。それが可能なのはショーであるプロレスだけ。現実はそうはならない)。つまり「突っつく場所を間違えている」。国家を戦争のルールに基づいて殲滅したところでテロが殲滅されることはなかったのだから。

テロはルールを逸脱することで、これまで勝ちを収めてきた

さて、テロであるが、これはこれまで戦争としては認識されてこなかった。 だから戦争のやり方が適用されていない(911に対するアメリカのやり方=アフガン、イラク攻撃は例外。戦争とはみなしたが、アルカイダそれ自体には戦争のルールは適用していない。むしろ国家に「戦争」、テロリストには「悪い奴らの掃討」という認識だった。ようするに国家とテロリストを混同しているわけで、だから対応がちぐはぐになった)。で、得てして民間人が犠牲になるので、これはむしろ誘拐などの”刑事事件”というゲームのルールが適用されてきた。その結果、テロで用いられたのが「人命尊重」だった。そして対応する政府の側はこういった人命尊重のルールに基づいて対応してきた。だが、テロリストがやっていることは「場外乱闘」。つまりこのルールが全く適用されない。だから、やられっぱなしになってきたというわけだ。言い換えればテロリストは反則行為によって勝ちを収めてきたというわけだ。

テロを戦争として再規定する

じゃあ、どうやったらテロに対して対応できるのか。その方法は簡単。対応する政府の方も場外乱闘をやればいいのだ。つまりこれまでのリングの中だけに適応してきたルールを改め、テロリストと同様、場外乱闘をルールの中に織り込んでいくこと。実は、こういったテロ対策に対するパラダイムシフトを日本以外の国家はとっくの昔にやってしまっていた。だから今回のアルジェリア政府の対応を適切と言ったのだけれど。

新しいルールとは、なんのことはない。戦争のルールをアレンジし直したものにすぎない。つまりテロの戦争ルールへの繰り入れ。先ず国益を重視する。そしてテロについては断固として対応する。その際、かつての誘拐レベルでやってきた対応は捨て、国益のためには民間人が多少犠牲になってもやむを得ぬという「戦争ルール」の態度で臨むのだ。こうすることで政府は初めてテロリストと同じルール上で戦うことが可能となる。つまり、誘拐のように人命重視と言うこと(これが政府がテロリストに対して持っている弱みに他ならない)を二の次にして、どんどんとテロに強行突入していく(それが結果として「テロリストとは交渉しない」という方針になる)。多くの場合、要求など一切聞かずに。こうなると、テロの効果は激減してしまう。テロによって、テロリストは全員死亡するし、要求も達せられないので費用対効果が得られなくなってしまうからだ。要するに911以降、十年を経て、やっと国家はテロリストとイーブンに戦うルールを発見したというわけだ。ただし、間違えて欲しくないのは、こういった「テロの戦争ルールへの繰り入れ」はテロリスト側の金銭獲得と政治的要求には効力はあっても911のような象徴性の高いテロには相変わらず功を奏さない。この手のテロは社会に衝撃を与えることに主眼があり、なおかつ原則自爆テロになるからだ。だから結局、セキュリティをアップすること、それから残念だが、いざというときは覚悟することが必要となるのだけれど。

そして、こういった新しいゲーム=戦争とテロを取りこむルールによって構成されたもの中で、ゲームは新たに展開されることになる。それは言い換えれば、それはゲームゆえ今後国家とテロリスト双方の作戦が高度・巧妙になっていくということだ。そして、すでにこれを徹底してやっているのがアメリカであることは言うまでもない(だから、アメリカ側から見れば、今回のアルジェリアのやり方はずいぶんと杜撰に見えたのではなかろうか?)。まあ、結局「詰め将棋」は続くのだが、ルールが共有されていないことよりは被害を減らすことができる。

そして、今回のテロは、わが国でも今後のテロのあり方についてのパラダイムシフト=ゲームルールの再編成が起こる可能性があることを示唆している。つまり「人命最優先」という立場を破棄しなければならないという……。まあ、「アブナイ国に行くのは、おっかない」ってなことにもなるのだが。

学生時代、のんきにアルジェリアのサハラ砂漠をうろついていた僕としては「なんだかなぁ」という気分でもある(もっとも、バックパッカーを拉致するのは、テロリストにとっては費用対効果的にはあんまりメリットがないだろうけれど)。

1月14日付けの本ブログ「体罰を管理せよ!」(http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/archive/2013/1/14)に対する反論を反駁すべく続編をお送りしている。今回は三つ目の僕の意見に賛成してくれた議論にツッコミを入れる。それは

「愛情があれば体罰も可」

という考え方だ。このものの言い、半分は○だが半分は×と考える。このコメントの中でいちばんアブナイことばが「愛情」だ。なぜって?これはブラックボックスだからだ。愛情は人それぞれ。ということは本人が「愛情」と思っていても、ひとりよがり、ただの「ありがた迷惑」になる可能性がある。いいかえれば、この「愛情」の形式が明確に位置づけられていなければならない。

体罰における「愛情」の条件

体罰(一般的なことばによる指導も含む)における愛情について、僕は以下の項目を条件づける。1.体罰に教育的効果があること、2.そのことを体罰を受ける側が理解していること、3.周囲の生徒もまたそのことを理解していること、4.体罰を行う場合、教員は確信犯でやること。つまり「ここでは体罰をすべき」という役割演技として対象化しつつこれを行使すること。言い換えれば、自らが感情的になっているときには絶対に体罰を行ってはならない。ちなみに、これは前記三つの項目を確認して行うということでもある。

桜丘高校の教員は愛情を履き違えていた?

要するに、これらをまとめてしまえば、体罰をめぐってその文脈=コンテクストを教員と生徒が共有し、了解していることとなる。こうなれば、それはたとえ仮にビンタであっとしても、生徒はその意図=文脈を理解し受け入れる。そうなれば体罰は「精神的奨励」になっても「精神的苦痛」にはならない(これは体罰であろうが、口頭による指導であろうが同じだ。もっとわかりやすく言えばアントニオ猪木にビンタしてもらうようなもの)。こういった教育を介した信頼関係が前提されることで、初めて「愛情としての体罰」は成立する。桜宮高校の教員には、残念ながらこれがなかったのではなかろうか。前回も書いたように、彼にあったのは「バスケットボール部を勝たせる」という業績原理だけ。本人はそうやって、どんなことがあっても勝たせることが教育と思い込んでいた。つまり「勝利」に目がいっていて「生徒=教育」には目が言っていなかった。もちろん教員なりの「愛情」はあったかもしれない。しかし、仮にそうであったとしても、それは結果として「ありがた迷惑な愛情」にしかなっていない。つまり「勝たせること=愛情」という履き違え。

僕はゼミ生を「アホ、ボケ、バカ」と罵倒している

前回も述べたが、幸運なことに僕は身体的苦痛を伴う体罰を学生・生徒に行うことなく、ここまで教育者を続けることができた。ただし、傍目から見たら体罰に等しい行為を「ことば」で学生たちにすることはある。ゼミ生たちに「アホ、ボケ、バカ」なんて罵声を平気で浴びせるのだ。ただし、一切苦情は出ない。理由は簡単だ。前述の項目を慎重に踏襲するからだ。ちなみに、これらの罵声の意味、実は全て同じだ。教えたことをちゃんとやらなかったり、一度やったミスを繰り返したとき、僕はこのことばをゼミ生に浴びせる。つまりジャーゴン=ゼミ内だけのことばの定義がなされている。そして、彼/彼女たちはその意味をよく理解している。もちろん、これがことばによる激励のビンタであることも。もっとも彼/彼女たちが僕に罵声を浴びせられているシーンを、こういったコンテクストを共有しない外部の学生が目撃したらビックリするだろうけれど。

でも、やっぱりこれも一つ運用を間違えれば、学生たちを精神的苦痛に追い込み、ヘタすると死に至らせる可能性がないとも言えない。だから上にあげた体罰(この場合は指導)の文脈を常にメインテナンスし続けることが、僕のの不断の行いとなっている。そして、こういった行いは生徒を指導する教員全てが心掛けることだと思っている。

体罰ということば・形式に振り回されては、いけない。それは、教育の本質からは外れた議論だ。

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