勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2012年12月

先日、TBS大晦日(30日放送予定)の特番の収録に行ってきた。この中での僕の役所は1968年に発生し、テレビが本格的に絡んだものとしては初の劇場型犯罪(テレビ以外ならそれ以前にも劇場型犯罪は存在する)である寸又峡事件の映像を見ながら、テレビと犯罪の関係についてコメントするというもの。寸又峡事件とは在日朝鮮人・金嬉老が清水で暴力団組員二名を射殺の後、寸又峡にあるふじみや旅館に人質をとって籠城した事件。実行犯の金は金銭的な要求をまったく行わず、ひたすらメディア、主にテレビを利用して、いかに自分が在日として迫害を受けたのかを訴え続けた。とりわけ静岡県警の取り調べの際(金のそれまでの人生は刑務所を出たり入ったりの繰り返しだった)に、在日であることで徹底的に差別を受けたことを根に思っており、こういった訴えは、最終的に静岡県警本部長によるテレビでの生謝罪という奇っ怪な事態すら引き起こすことになった。

金嬉老事件は、その後大きな話題となり、事件検証やルポルタージュなど、夥しい文献が発行されるに至る。91年には金の人生が、ビートたけし(金役)と樹木希林(金の母役)によって、スペシャルドラマ「金の戦争」となったほど。韓国でも金は一躍ヒーローとなった。

無期懲役の判決を受けた金だったが、99年、在日としての居住権を剥奪するという条件で釈放され、母国韓国に英雄として迎え入れられる。韓国では、金をテーマにした舞台が演じられるなど、そのもてはやされ方は相当なものだった。だが2001年愛人をめぐるトラブルで、その夫の殺害を計画。夫の監禁と愛人宅の放火の容疑で逮捕され韓国でも投獄され、その名声は地に落ちた。そして2009年の出所後、2010年に韓国内で逝去している。

今回は、この日本報道史はじまって以来のテレビによる劇場型犯罪がなぜ起こったのか、現在、劇場型犯罪はどうなっているのか、そしてこれを包摂する劇場型社会の現状はどうなのかについて、メディア論的視点から考えてみたいと思う。結論を先に述べておけば「劇場型犯罪」については終焉に近づいた、一方、それ以外の「劇場型イベント」、とりわけ「劇場型政治」については、現状ではきわめて脆弱な状況、つまり「対劇場型政治リテラシー」が低い状況にあるということになる。

異常な報道映像

TBSの調整室でチェックした事件当日の映像は実に奇っ怪だった。実は当時、僕はすぐ隣の島田で暮らしており(事件当時八歳)、また金に無許可で銃を販売した銃砲店が自分の町内にあったこともあって、この報道の一部始終を首ったけになってみていた記憶がある。だから、視聴できた映像はほぼすべてに記憶があり、今回、久々に事件の映像を観ても次がどうなるかスタッフに説明できてしまうほどだった(まあ、要するに夢中になっていたんだろう)。

ただし、こうやってあらためて映像を見たとき、当時では決して気づくことのない異常さを、そこに僕は見いだした。思いっきりヘンな映像ばかりなのだ。

先ず、「金がふじみ屋旅館で籠城する姿が室内から映っている」こと。金は部屋の畳を全部上げてバリケードを作り、身体にダイナマイトを巻き付け、銃を持ちながら座っている。そして金の向かいには子ども三人がこたつに入っている。

この映像が異常なのは、なんといっても「映像それ事態が存在すること」。つまり、これはテレビのスタッフが、金が立て籠もる旅館の中に入り、撮影しているのだ。いいかえれば、籠城する室内での映像つきの記者会見。これじゃ、まるで映画じゃないか。そして、この映像のもう一つ異常なところは、前述した向かいのこたつに入っている子どもたちが、金に取り立ててて恐怖を抱いていないこと。金と記者そして子どもたちは、なんとなく和気藹々という感じで、やはり籠城している殺人犯を囲んだ会話ではない。つまり、ゆる~い感じが漂っているのだ。

また、金が逮捕された瞬間の映像も異常だ。金は玄関越しに記者たちと会話をしている。両開きの玄関扉を少々開けるようなかたちで顔を玄関の外に向け、その周りに記者たちが取り囲みメモをとっている。だが、この中に記者に扮した警察が飛びかかり金を捕獲する。至近距離で記者と犯人が会話するというのが異常であるのはもちろんだが、いちばん異常なのは、「金の確保の瞬間が映像に収められていること」だ。つまり警察が絡む現場の最前線にテレビカメラが据えられているという「映画もどきの映像」「川口浩探検隊の前人未踏洞窟進入状態(古い!)」が展開されているのだ。こういったことは現在では絶対に考えられない事態といっていいだろう。

劇場型犯罪を知らなかった60年代後半

劇場型犯罪とは、実行犯と警察がさながら劇場の主役と脇役となり、これを観ている視聴者が観客になるというかたちで発生する犯罪だ。ただし、これは実際には、もちろん劇場ではない。劇場型犯罪においては舞台と観客席の間が直接ではなく、メディアが介在して間接的につながる。ということは、必然的に行われている犯罪と観客の間でメディアによる編集が行われ、それが結果としてドラマ仕立ての演出を結果することになる。だが劇場型犯罪については、当時の人間はほとんど知るところではなかった。いわば「対劇場型犯罪リテラシー」については、これに関わった人間たちのすべてが無知だったと言ってよい(唯一の例外は金嬉老ということになる。もちろん、本人もそれについて自覚的であったわけではないけれど)。 言い換えれば、当時の社会はこういった「劇場型犯罪」に対して対処するシステムを全く備えていなかったのだ。

警察は対応方法が全くわからなかった

だから、警察は金の、そしてメディアのやりたい放題の状態を作りだしてしまった。先ず、金のやりたい放題について。金はメディアを通じて県警本部長に自分に対して行った差別についての謝罪を要求。静岡県警は県警本部長をSBS(静岡放送)のスタジオに行かせ、テレビ越しに金に向かって謝罪をさせた。次にメディア=マスコミのやりたい放題について。メディアは金が籠城していたふじみや旅館へ電話を次から次へとかけていった。金の生のメッセージをスクープしようとする記者たちがわれ先にと金に向かって電話をかけまくっていたのだ。そして、その最たるものが前述の金が籠城する部屋の中でのテレビ記者会見だった。またNET(現テレ朝)の報道記者が、金にライフルを打ってみてくれと頼み込んだところ、それに応じて金が銃を天に向かって乱射したという出来事もあった。

メディアも、実は対応方法が全くわかっていなかった。

一方、やりたい放題になった当のメディア(とりわけテレビ)の方も、実は全く対応がわかっていなかったといってよい。メディアの行動原理は基本的に「経済原理」、つまり視聴率あるいは発行部数のアップにある。そのためにいちばん魅力的なトピックは「衝撃の瞬間」「バイオレンス」と「ハダカ」、そして「スキャンダル」ということになるのだが、メディア(この場合、メディアはマス・メディア(古くはマスコミ)を指す)は公共的な存在でもあるので、こういった経済原理に基づく行動は日常的な放送の中ではある程度避けられている。ところが、「劇場型犯罪」という、当時メディアにとっては未経験の状況が出現した。こうなったとき、どうやったらいいかわからない。で、だったらということで、メディアのこの下卑た根性が剥き出しになる。つまり「経済原理の暴走」。これが、メディア=マスコミたちを一斉に金に向かって走らせると言うことを結果した。

視聴者も劇場型犯罪についてのリテラシーがゼロだった

その結果、金に関する情報を犯罪の現場にまで立ち入って事細かに報道するという状況が出現した。だが、これが問題だった。というのも、これを見ていた視聴者たちもまた劇場型犯罪についてのリテラシーがなかったからだ。当時はテレビがどんどんと普及し、所有率がほぼ100%にまで到達した時期。そしてカラー映像が出現しはじめた時期でもある(ちなみに、この事件についての報道は全てフィルムだった。つまり、たったひとつを除いて生中継ではない)。

そして、時は高度経済成長。この物語のリアリティを強烈に煽ったのもテレビだった。言い換えればテレビは「現実を写し取る鏡」。視聴者はテレビが映し出すものを、情報の中のひとつではなく、「真実」として捉えてしまう脆弱性すら備えていた。実際、当時、視聴率40%を超える、現在では考えられないような視聴率をコンスタントに取る番組さえ出現した(「八時だヨ!全員集合」「肝っ玉母さん」など。紅白に至っては視聴率は70%超えといった具合だった)。

さて、じゃあ、こういった強大な、人々を煽動する力のあるメディア=マスコミが「経済原理」に基づいて、やじうま的、出歯亀的な報道をしたらどうなるか。その必然的結果が、実は寸又峡事件の異常、そして金嬉老の英雄化だったのだ。(続く)


TDKのビデオテープCMに登場したA.ウォーホール。その精神性は高須克弥と同じだ!



高須クリニックのCMで、主演する高須克弥院長は俗物を徹底的に演じることでメタ俗物的な位置に自らを置き、これによって自己を対象化・相対化し、さらに自らを「俗物高須院長」という記号としてカリカチュアライズするという作業を行っていることを、ここまで述べてきた。僕は、こういった高須のアプローチが、きわめて「美的」なアプローチであると評価している。

A.ウォーホールの実験

アメリカ、ポップアートの巨匠といえば、まず思い浮かぶのはA.ウォーホールだ。キャンベルのスープ、マリリン・モンロー、ジャッキー・オナシスといった一連のシルクスクリーンによる作品群は、まさにポップでなじみ深い。ウォーホールの手法は、きわめて単純。その最たるものが前述の有名人を描いたシルクスクリーン作品で、これは既製の写真をシルクスクリーンで色を変えただけというものだ。ちなみにキャンベルのスープもアメリカではきわめて大衆的なスープの缶であるこの商品を忠実に描いただけ。つまり、個性といったものがほとんど存在しない作品なのだ。

しかし、これこそがウォーホールの戦略だった。彼のねらいは「徹底的な非個性化」「非オリジナリティー化」で、それによってアートそれ自体に衝撃を与えることだった。そしてそれはある意味、アート世界へのシニカルな批判でもあった。つまり「アートはオリジナリティがなければならない」という命題に、「オリジナリティのない作品」というものを提案することで逆にオリジナリティの存在を示したのだ。

ウォーホールのアート界への攻撃は作品のみにとどまらない。ウォーホールは自らのアトリエを「ファクトリー」と名付け、そこで何枚もシルクスクリーンで作品をコピーし、ある程度コピーした時点で原盤を破棄し、残った作品に番号をつけて売りに出したのだ(こうすることで画数が限定されるので絵の価格が跳ね上がる)。つまりアートからはいちばん遠いと思われるビジネスをアートを使って展開した。そして、そのことを象徴的に示そうとしたのがアトリエをファクトリー=工場と表現したことだった。

こうやって財産を成したウォーホールはミック・ジャガー、ルー・リード、トルーマン・カポーティといったセレブたちと親交を結び、華やいだ世界で自らもスター・セレブという記号=ポップスターとなる。つまりアートの世界からはほど遠い、カネ儲けと有名になることを志向する「俗物」として振る舞ったのだ。

ただし、こういったウォーホールの戦略、つまりアートの否定、オリジナリティの否定、拝金主義、有名願望というやり方全体が、実はひとつのアートというパフォーマンスとして成立していた。つまり、ウォーホール自身は、創造、新たなパラダイムの構築、アート界のコード破りという、一般のアーティストたちが志向するのと同様の行為を、こういった存在論的な問いを投げかけるかたちでやって見せたのだ。つまり”確信犯”。

高須は常識を無視した上に、全てに"Yes"と肯定的なメッセージを発することで人々を啓発している

高須のやり方もウォーホルのそれと全く同じだろう。医は仁術、医者は人のために尽くさなければならないというような一般的な認識を、自ら俗物、つまり医学界が批判の的にしたくなるようなパフォーマンスによって打ち破る。しかも、自らそういったコード破りを行う記号として出現するというやり方で。だから、このCMは医学界からしたら噴飯物なのだ。

ところが、これを「人間賛歌」というふうに考えると、様相はガラッと変わってくる。高須のパフォーマンスはこういった慣習やコードに拘束されることのない自由な主体の営為として再定義されることになるのだ。その自由さを示す方法が「無根拠・無意味」だった。そして、その象徴的なものが「ドバイ編」であるとすれば、最たるものは一群の「院長の一日編」ということになる。これらはいずれも、とにかく人は自由に振る舞うこと、そうすることが正しいのだという強烈なメッセージとなっている。そして、こういった「自由に振る舞う」ということがテーマになったとき、無根拠なCMの意味は突然、俄然有意味の根拠あるものへと反転する。さらに、そこに、やはり無根拠に登場しているとしか思えない野村沙知代と西原理恵子二にも必然性が生じてくる。二人とも「自由に生きている」という点で、高須とライフスタイルを一にするからだ。

そして、このテーゼは、結局、本CMのメッセージにたどり着く。

すなわち

「自分を楽しんでいますか?」

そして高須の答えは、もちろん「Yes!」だ。

視聴者に働きかけていることは?
でも、それはやっぱり高須の自己顕示には代わりはない。成金俗物趣味をメタ成金俗物趣味に変更しただけで、自己顕示していることには同じだから。つまり他の成金同様、客を無視したナルシスティックでグロテスクな存在。言い換えれば「高須クリニック」の営業には、何ら貢献していないもののようにも思えるのだが。

いや、そんなことはない。こういった高須の自己顕示、メタ俗物的パフォーマンスが示す「自由に生きていい」という人間賛歌は、翻って顧客=患者たちに衝撃を与えることにもなっている。

高須クリニックは美容整形外科だ。つまり身体のあちこちを人工的に作り替えるという、医学としては「はみ出し」の、付加価値的な分野に当たる。インターネットで検索してみるとわかるが、たとえば有名女性アイドルタレントの中高生時代の写真が流出し、その顔立ちが現在とは全く異なるゆえ「○○は整形している」なんて陰口がたたかれる。ここには「整形までしてタレントになろうとした」という文脈が含まれている。ということは「整形=よろしくないこと」というコード・慣習が一般には定着している(まあ、以前よりはかなり認められるようにはなっているが)。この一般的慣習に、高須はこのメタ俗物CMで挑み、そして整形することの正当性をここで主張しようとしている。(ちなみに高須自身も顔を整形している。そしてそのことを公表している)。

つまり、人のことなんか気にすることはない。自分がやりたいように自由に生きればいい。そこで高須はCMでこういった容姿などで悩んでいる視聴者に訴えるのだ。それはつまり。

「自分を楽しんでいますか?」

で、高須は楽しんでいる。こういったメタ俗物性をCMを使って率先的に自己顕示することで。だから前述したように高須の答えは「Yes!」だ。ただし、高須クリニックのCMのキャッチフレーズはYesだけで終わらない。その後ろに一言加えられている。つまり、

Yes!「高須クリニック」

この訴えかけは、つまりこうなる。「あなたは自分を楽しんでいますか。もしそうでなかったら高須クリニックにいらっしゃい。そうすれば、自分を楽しむことについて「Yes」の答えを返せるはずだ!」そう 、「整形してどこが悪い!他人の目など気にする必要はない」と。そして、そういった常識破りを率先してやっているのがCM上の高須なのだ。

ここでも、高須は常識をぶっ飛ばし、楽しめ!と煽っている。


Good morning, Dr.Takasu.、次はどんな自分の楽しみをパフォーマンスして、僕らにYesを見せてくれるのですか?


付記:そういえば「Yes」をテーマにしている日本人がもう一人いた。オノ・ヨーコだ。オノも既成の概念にとらわれることなく自由に振る舞い続けていることについては、誰も疑わないだろう。そう、彼女のYesはビートルズまで解体させてしまたとさえ言われ、またジョン・レノンという作品を作りあげてしまったのだから。当然、自分を楽しむエネルギーが強いので、あっちこっちから非難を浴びているのだが、そんなものはYesといってはねのけてしまっている。ちなみにオノは2001年、自らの個展”Yes,Yoko Ono”はアメリカ美術批評家国際協会の最優秀美術館展賞を受賞している。


豪華ホテルでステーキブレックファーストという、奇っ怪なメニューを白スーツ姿で食べる高須


高須の1200万円するクルマに落書きする西原理恵子。300万円くらいになっちゃったんじゃないかと西原はコメントしている。




高須クリニックのCMで出演する高須克弥院長は一見、俗物の限り、自己顕示の限りを尽くしていると思えるが、その実、このCMにはきわめて巧妙な「俗物根性をあえて売り物にした戦略」が組まれている。こういった前提でテクスト分析を進めている。

全ては無根拠

じゃあ、あのCMは一般の俗物たちの自己顕示とどこが違っているのか。これを「メタ俗物根性」というスタンスで考えてみよう。

再び高須クリニックCM「ドバイ編」を見てみよう。このCMの基調は全て「無根拠に満ちている」という点だ。まず高須院長がドバイにやってくる理由が全くない。学会に来ているのか?クリニックをドバイに建設しようとしているのか?全く不明なのだ。この人はいったい何をやりたいんだろう?ところが豪華船を借り切って船の中でアラブの富豪らしき人物たち(これも豪快にウソっぽい。どうみても二流の役者にしか見えない)と談笑している。中心にはもちろん高須院長がいるのだが、何を話しているのか想像がつかない。もちろん豪華客船を借り切る根拠もない。そして今度はヘリを操縦して高層ビルへという下りなのだが、ヘリで行く必要もなければ、なぜその後、高層ビルの中で会議をする必要があるのかもわからない。そしてその会議の中に野村沙知代あるいは西原理恵子がいて高須の話に頷くのだが、これこそ本当に全く根拠がない。元野球選手・監督の妻、あるいはマンガ家がドバイに来て医者と会議に出席するいわれなど全くないのは誰にとっても明らか。この二人、まさに無根拠の極みなのだ。

これが単なる芝居=虚構であることは誰の目にも明らか。だから、もしこのCMを歌う天気予報の社長のノリでやっていたらタダのホンモノの俗物で終わりだ。いや、ところがそうではない。高須がやっているのは、この「俗物」をあえて演じているところだ。野村や西原が登場するのは、この映像が虚構であることを自らダメを押しているというふうにしかとれない。さっきも書いたけど野球監督夫人とマンガ家とドバイはなんの関係もないのだから。

じゃあ、これで高須は何をやろうとしているのか?単刀直入に答えれば「オレは金持ち、オレは俗物。だから金を使って自己顕示する。文句あっかー?」ということになる。つまり「究極の俗物」。ただし、高須は自らが俗物であることを確信犯的に自覚し、あえて俗物を徹底して演じ続けるというスタンスを採用している。いいかえれは自らの俗物性を対象化、相対化している。そしてパロディ化している。つまりこれは「役割演技」としての俗物なのだ。

高須はそのことを明示すべく、CMの至る所に「無根拠」「無意味」な記号を配置する。その最たる存在が前述した野村沙知代と西原理恵子という、出演する意味の全くない二人なのだが、この記号性は、さらに高須のメタ俗物性戦略のツールとして有効に機能する。

野村沙知代の夫と高須はメタ俗物性というポジションで同じ立場にある

先ず“サッチー”こと野村沙知代。彼女の夫はご存知のように野村克也だ。野村は自宅が豪華な家具や置物であふれていることで有名だ。クルマも日本に数台しかないポルシェを所有している。自宅にはひたすら高価なものが並べられ、統一性がない。つまり俗物、成金趣味の極地のような生活をしている。ただし、これには理由がある。野村はプロ野球選手になるまでは極貧の生活をしており、豊かさに対するものすごいルサンチマンがあるとしばしば告白している。で、一流選手となり、有り余るカネを手にしたとき、こういったものを次々と所有しはじめた。沙知代夫人にしたところで高級クラブのホステスだ。だが、これだとタダの俗物なのだが、野村もまた高須同様、自らがこういった金ぴかなもので周囲を固めることについて確信犯的信条を持っている。野村は自らの所持物を評して「俗物」「くだらないもの」と言い放つ。そして、なぜ、そんなものを集めるのかという理由について「復讐」と答える。いいかえれば野村と高須はメタ俗物性という側面で同一線上のスタンスを備えている。

マンガで自分を徹底的に俗物として描いている西原を、高須はCMに出演させている

次にマンガ家の西原理恵子。彼女自身は野村や高須のような俗物的な生活をしているわけではない。その代わり西原はメディア上で高須のスポークスマン的役割を担っている。ただし、ネガティブな意味で。西原のマンガには高須がしばしば登場するのだが、これが極端に俗物のそのもののキャラクターとして描かれているのだ。たとえば旅に同行した際の高須の奇行が次々と描かれる。しかもかなり凶暴な。にもかかわらず二人は雑誌で「愛人関係にある」と書かれるほど親交が深い。そして、高須自身は西原が描くマンガ上の「俗物高須」のことを気にすることがないどころか、自らのCMに西原を出演させてさえいる。それは、西原のマンガを知っている読者なら、このCMは「あの俗物の高須と同時に出演している」という認識になる。

自虐ネタ?自ギャグネタ?としての「院長の一日編」

そして、こういった「自己パロディ」「メタ俗物性」を極めたのが「院長の一日」というCMシリーズだ。この一連のシリーズの中で高須はとにかく常識外れの奇行を繰り返す。いくつか取り上げてみよう。1.「寿司茶漬け編」。お昼時間だろうか。高須の食事は寿司だ。ウニやいくらが入っていかにも高級そうなそれなのだが、高須はこれをいきなり丼にぶち込みお茶をかけてすすってしまうのだ。そして「別々に食うよりはいっぺんに食った方がオイシイね」としたり顔でコメントする。2.「朝食編」。豪華ホテルで高須の宿泊する部屋に朝食が運ばれてくる。すると立ち上がる高須。なぜか真っ白なブレザー?タキシード?スーツ?を着たままの状態で起き上がると、朝食として口にするのはステーキ。そして「これが朝飯には消化がいいんだよ。すぐにエネルギーになるしさ」と嘯く。3.「高級車イラスト編」。これは二つある。自らが所有する1200万円はするスポーツカーに西原理恵子がマジックで自らの顔を描き、さらに名前も書き込む。西原は「これで300万くらいになっちゃったんじゃないか」と言い放つ。もう一つはこのペイントに西原は「駅でなくすと困るから」書き込んだとコメントするもの。高須はさらっと「酷い人ですね」と言い返す。

院長の一日編ともなると、もうこれは完全にメタ俗物性というイデオロギーを顕示するという点で究極のレベルになる。基本は豪華なもの(すべて自腹)を次々に台無しにしていくというパターン。そして、この場合、視聴者、そしてインタビューアーがその非常識ぶりにひたすら呆れるという展開になる。また、自虐的なネタも多く、あえてだらしのない裸を見せたり、わけのわからない趣味を披露したり、スキンヘッドで登場してみたり、完全なスッピンで登場したりなんてものもある。

言い換えれば、このシリーズでは高須が演じる「俗物高須」はさらに洗練され「究極の俗物高須化」が行われているのだ。だが、この時、俗物性は突然反転して美的なものへと転じていく。なおかつ、この戦略は結果として、高須クリニックのビジネス戦略とピッタリと整合性を、保ってしまう。なぜか?(続く。すいません、今回後編で終わる予定でしたが、いろいろ考えているうちに長くなってしまいました。あとひとつやりますのでお付き合いのほどをm(__)m)

高須クリニックドバイ編・フルバージョン



「Yes!高須クリニック」って、いったい?

ここ数年、実に気になっているCMがある。残念ながら全国では放送されてはおらず、もっぱらテレビ東京あたり(「開運!なんでも鑑定団」の時間帯など)で流されている高須クリニック(美容整形外科)のCMが、それだ。このCMでは高須クリニックの院長・高須克弥氏みずからが出演しているのだが、これが実にスゴイ。

とりわけ興味深いのは「ドバイ編」だ。CMの中で高須は、ドバイでヘリを操縦したり?、豪華船の中でアラブのビジネスマンらしき人間たちとなにやらビジネスのやりとりをしている。そこになぜか、チャドルらしきものを纏った野村沙知代や西原理恵子があらわれる。そして「自分を楽しんでいますか」というテロップが出た後、「Yes、高須クリニック」と本人が語る。でもって、すごくカネがかかっているのだ。ちなみにこの他にも「院長の1日」シリーズがあったりするが、こちらも含めてとにかく最近の高須クリニックのCMはなんかヘンなのだ。

深夜にローカル局でやっている「歌う天気予報」という奇っ怪な番組の秘密

ご存知の方も多いかもしれないが、民放ローカルテレビ局は深夜の番組が終わる間際に実に奇妙な番組をやっていることがある。典型的なのは「歌う天気予報」と題された番組。フツーに天気予報なのだけれど、なぜかバックが演歌。和服を纏った演歌歌手がこぶしをふりまわして歌っている(でも、だいたいはあんまり上手いとは言えない)。とにかくミスマッチなのだが、このあやしげな番組は民放の収益構造を踏まえるとよくわかる。民放はスポンサーからのCM料で収益を賄っている。つまり局の立ち位置からすればプログラム=番組はCMを見てもらうためのオマケ。で、CM料金は視聴率で決まっている。つまり視聴率が高ければ高いほどCM放送料金も高い。ということは、テレビが終わる深夜帯はものすごく視聴率が低いのでCM料金も安い。だったら、ということでCMを流す会社が番組も買ってしまうということすらある。それが、こういったあやしげな番組を産むことになるのだ。何のことはない、ここで歌っている歌手は演歌歌手でも何でもなく、この会社の社長(だからあんまりうまくない)。ひたすら自己顕示のために番組を買い取りテレビに出て悦に入っている、ただしそれじゃあ番組として成立しないので天気予報を流すというわけだ。要するに俗物。成金趣味。

もちろん、これを見ている側はたまったもんじゃあない。ようするにカネにものを言わせて、視聴者にキモチワルイものを見せているわけで。

で、高須院長がやっていることは、この「歌う天気予報」の社長と全く同じようにみえる。ところがよくよく見てみるとギリギリのところで決定的に違っていることがわかる。そして、そこが実に僕には興味深いのだ。

俗物を俗物として演じるメタ俗物性

2つのコンテンツはどこが違うのか。それは立ち位置の相対化の問題に行き着く。「歌う天気予報」の社長は単に「ナルシスティックに悦に入っている」だけ。つまり「オレってイケてるだろう」と本気で思っている。ところが高須院長の方は「ナルシスティックに悦に入っている」と言うことに悦に入っている。つまり「オレは悦に入っているんだ」と言うことを自覚=対象化しつつ悦に入っている。そして、そういったメタ的なスタンスが、高須クリニックという病院の存在を明確に打ち出すというCMの機能的側面をも最終的に結果している。つまり、実に巧妙に組まれた「俗物根性あえて売り物にした戦略CM」なのだ。後編ではこの戦略をCMのテクスト分析から明らかにしてみよう。(続く)

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