勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2012年12月

ほしのあきの偽ペニーオークション落札についてのブログ掲載事件が物議を醸している。

ペニオク自体は、コンプガチャと同様、きわめて犯罪性発生率の高い、ネット社会の不整備を突いたマネタイズ方法だ。入札のたびに手数料がかかるのだから、サクラをいれてオークションすればボロ儲けになるのは、ちょっと考えればわかること。でも、近いうちに法律が整備されだろうし、これについてはすでにあちこちで議論されているので、僕はこちらの方はあまり気にかけていない。

むしろ、問題はこれがブログというメディア上での事件だったことだ。実は、こちらの方が問題としては根が深いと考えている。というのも、ここにはブログというメディアが備える「可能性」と「現実」の違いが垣間見えるからだ。そこで、今回はこの事件の原因を考えながらブログの機能について考えてみたい。

ブログに発信力はない!

一般的にブログは「世界中に個人の情報を発信可能」「個人が新聞やテレビなどのメディアと同じ発信力を手に入れることができる」と考えられているが、これは幻想だ。このことは、実際にブログを始めてみればすぐにわかる。

ブログ記事を作成してアップする。これで世界への発信は完了。ところが、これはあくまで「可能性」の域を出ていない。現実的にはどうなるかというと……誰も見ないのだ。アクセス・カウンターをつけておけば、その悲惨な状況はハッキリと解る。一日の間にアクセス数1なんて事態が起こるのだ(ちなみにこの「1」は自分がアクセスしたからで、ということは実際には0)。まあ、がんばってやっていれば閲覧者はだんだんと増えるが、三桁に達するのは結構難しい。二桁程度だと、これを閲覧している人間はほとんどが身内や知り合い、ようするに身内間の通信欄みたいなものということになる。一般的な使用方法ではブログには公的レベルでの発信力はほとんどないといっていい。

ブログが発信力を持つためには

ブログが発信力を持つためにはいくつかの条件がある。ブログのコンテンツにテーマ性があること、またコンテンツに魅力があることがそれにあたる。僕はブログを書き始めて7年目だが、テーマをメディアに絞って展開したにもかかわらず、当初は悲惨なアクセス数だった(まあ、コンテンツに魅力がないということもあるのだろうが)。それでも「継続は力なり」で、その後アクセス数は300程度にまでなったけれど。しかし、実際のところブログを開設する一般人のアクセス数のほとんどは、こういった工夫をしたところで、せいぜいこの程度なのではなかろうか。

ブログのアクセス数が飛躍的に増えるためには外部要因が必要

もちろん、中には多くの閲覧者を獲得しているブログもある。ただし、これ、実はブログそれ自体の魅力とは異なる外部的要因によるものと考えた方がいい。たとえば僕の例。9月の終わり頃からブログがBLOGOSに編集部からの依頼を受け転載(BLOGSの記事は「Yahoo!ブログ」にアップしたもの)されるようになった途端、カウンターの数は時に1000を超えるという事態が発生した。BLOGOSというメジャーで多くの閲覧者が存在するブログまとめサイトに掲載されたから目につくようになり、こういうことが起こったわけで、当然、アクセス数の増加は僕のコンテンツそれ自体の魅力というわけではない。

そして、アクセス数を増やす外部要因の最たるものが、本人の属性だ(ちなみに、これは僕には関係がない)。つまり、セレブであれば何もしなくてもアクセス数は膨大なものになる。言い換えれば、ブログはこういった人たちの営業用の道具として有効的に機能するメディアなのだ。繰り返すが、一般人がブログで強力な発信力を持つことが可能といったような幻想は抱かない方がいい。

セレブにとってブログはプライベートに見せかけた宣伝用のメディア

無名の個人がブログを活用した場合、前述したように結果としてその情報はごくわずかの身内や仲間にしか届かないので、ある程度プライバシーに関わるような内容をアップしてもさして問題にならない。いいかえれば、多少、公共に晒されたらまずいようなことを書き込んだとしても、ほぼスルーされてしまう。

ところがセレブの場合はそうはならない。セレブは名前、姿、行動を逐次大衆にチェックされている公共的存在だ。それゆえブログ閲覧者数は膨大になる。そして前述したように、この数はコンテンツそれ自体によるのではなく、こういったセレブであるという外部的要因=知名度=公共性がなせる業。ということは、ブログにおいてもセレブは私的存在であることを許容されない。いいかえれば、それは不用意にプライバシーを開示してはならないということになる。

ただし、セレブゆえにブログは膨大な数の閲覧者に向かって直接話しかけるメディアでもある。だから、さながらセレブから大衆に向かってのプライベートな発言のようにコンテンツを作成するという「偽装=営業」もノルマとなる。必然的にセレブたちは閲覧者に対してブログというメディアを用いることで自らを「近い存在」と思わせ、親密性を抱かせるように働きかけるが、その一方で「遠い存在」であることを踏まえていなければならない。ちなみに、セレブたちはこういった公共的存在としての振る舞いについて、普段の活動では概ね熟知しているし、取り巻きが公私を分けるよう脇を固めている。

公共的存在のセキュリティーホールとしてのブログ

ところが、ネット上に存在するブログはこういった公共的存在のセキュリティーホールになってしまっている。なぜか?要するにセレブがブログの「遠くて近い」「近くて遠い」メディア性に気づいていない、言い換えればブログというメディアの特性を理解していないからだ。それが結果として今回のペニオク事件を発生させた。ほしのあきたちたちは仲間から商品を宣伝するように頼まれて、それが虚偽であるにもかかわらず安請け合いしてしまった。軽率と言えば軽率だが、これは彼/彼女たちがブログを「私的なもの」と錯覚していたからだ。彼/彼女たちの多くがペニオクで落としたという虚偽の報告をすることである程度の報酬を得ていたが、数万~数十万円程度のもので、実は彼/彼女たちにとっては「はした金」。むしろ仲間たちの依頼にちょっと気を利かせたというのがホンネなのではなかろうか。

しかし、結局のところ彼/彼女たちのブログの人気はブログのコンテンツではなく外部的要因、つまりセレブであることに依存している。だからあくまで公共的存在として振る舞わなければならないのだが、彼/彼女たちは個人的=私的な都合を公共の場で展開してしまった。つまり、ここで彼/彼女たちがやったことは「公私混同」というきわめて単純な混乱にたどり着く。

おそらく、今回の一件で、セレブたちもブログのメディア性に気づかされることになるだろう。そして、これ以降、こういった虚偽の情報をおいそれとは発信しないようになるに違いない(というか、事務所が止めるだろう)。

ブログ、実は限りなく発信力が限定されたメディアなのだ。

大学生(関東学院大、宮崎公立大、立正大340名)のスマホ利用状況調査についてお知らせしている。前回は、学生たちがスマホをパソコン=汎用機器として様々な用途に利用していることを紹介した。また、とりわけアプリマシンである側面が強いことも指摘しておいた。そこで、今回はアプリについて見てみよう。

多様なアプリ利用。トップはSNS

まずダウンロードして利用しているアプリについて。結果はSNS(LINE、Twitter、Facebook等)=89.9%、写真・画像加工=67.8%、ゲーム==63.4%、動画=61.6%、交通・地図・旅行=59.6%といった利用率。やはり、かなりいろんな側面でスマホが使われていることがわかる。これらのアプリのうちで最も利用頻度が高いアプリは1位SNS=76.%1、2位ゲーム=16.8%、3位写真15.7%だった(有料アプリ購入率は28.9%)。

さらにインターネットブラウザの利用法についてもアプリと同様の傾向が見られる。閲覧しているものはSNS=66.2%、動画=58.8%、Map・交通情報=51.2%、ニュース・スポーツ・天気=48.9%、ネットショッピング=48.9%、大学HP=46.8%、エンタメ・情報サイト=40.3%といったところで、やはりバリエーションが広い(ちなみにGoogleなどの検索については「あたりまえ」とみなして検索項目から除外している)。最も利用頻度が高いジャンルについてもやはりトップはSNS=50.3%、ニュース・スポーツ・天気=11.3%、ソーシャルゲーム=6.1%だった。

ここで、注目すべきはアプリ利用においてもブラウザ利用においてもSNSが筆頭にあることだ。スマホとSNSが強い関係にあることがわかる。つまりスマホの普及がSNSの普及を促している、あるいはその逆にSNSがスマホの普及を促しているという傾向があるようだ。反面、大学のHPへのアクセスが46.8%というのも面白い(というか情けない)。原則、学生たちは大学HPへのアクセスは当然しなければならないはずなのだが、そうはなっていないのは、いかに大学HPが魅力のない作りをしているかを示している。

メッセージのやりとりはキャリアメールからLINEへ

学生たちはスマホを使ってどうコミュニケーションしているのだろうか。そこでメッセージのやりとりについて利用しているものに答えてもらった。

メッセージのやりとり手段について、その利用はキャリアメール(ガラケーの際に使用していたメール機能)=90.1%、LINEのトーク機能=79.1%、Twitterのリプライ・ダイレクトメッセージ=60.1%、PCメール=32.3%、Facebookのメッセージ機能=25.1%、Skypeのチャット機能=17.6%。ガラケーからの乗り換えがほとんどなのでキャリアメールが多いのは納得がいくが、これにラインが迫ってきているのは興味深い。またTwitterもよく使われているが、これも注目すべき項目だ。反面、Facebookが意外に使われていない。これは学生の間ではTwitterに比べFacebookの利用率が低いことを示している。ちなみにFacebookの利用頻度の低さについてはSNSに関する質問項目の結果(次回特集予定)でも明らかだった。

メッセージのやりとりでの使用頻度については1位LINE=53.8%、二位=キャリアメール=31.3%、三位Twitter=11.8%の順。ここで興味深いのは、もはやメッセージやりとりの主流がLINEになっていること。グループでのメッセージやりとり(三人以上のチャット)も同様でLINEは利用者で89.3%、利用頻度で85.0%と圧倒的だった。どうやら学生たちにとってのメッセージやりとり手段はどんどんLINEへとシフトしつつあるようだ。ちなみにこのLINE人気の高まりは通話についても同様で、学生たちの無料通話で最も利用頻度の高いものもLINEで76.7%と圧倒的だった(無料通話対有料通話利用比率は4.5:5.5だった)。

スマホ=ガラケー機能+インターネット+SNS→市民権を得たコンピューター

ここまでのデータをみてみるとスマホはこれまで学生たちの間ではなかなか定着しなかった「コンピューター利用」というパンドラの箱を開けたと考えるができるのではないだろうか。スマホはガラケーの全ての機能を引き継ぐことでガラケーからの買い換え需要を促し、購入後はアプリ利用、インターネット接続、そしてSNS利用という世界を学生たちに開き、彼らのメディア生活にとっての必需品となった(ちなみにネットショッピングやクーポンのダウンロードと言った利用もスマホは促している。実は、こういった利用、ガラケーではほとんどやられてこなかったものだ。彼らがガラケー時代利用していたクーポンと言えば、もっぱらマクドナルドのそれだったのだから)

こうやってインターネット、コンピューター、SNSの世界を押し開いたスマホ。当然、彼らの今後のメディア生活、そしてコミュニケーションスタイルを大きく変えていく可能性を秘めていると考えることができるだろう。次回はSNSについてお伝えする。(続く)

今年10月、社会科学系大学3学部の学生(関東学院大学文学部、立正大学文学部、宮崎公立大学人文学部)を対象にスマートフォン(以下スマホ)の利用状況についてのアンケート証左を実施した。(集計総数340票、調査対象の年齢の平均年齢20.1 歳、 男女比=45.2:54.8)。今回はその結果についてお伝えしたい。調査結果をあらかじめ結論をあげておけば1.スマホこそ学生にとってのコンピューター=パソコンだった、2.スマホはSNSマシンということになる。第1回目は前者について。

スマホはもはや大学生の必需品

まずスマホの所持率。これは78.5%だった。ガラケーは30.1%なので、もはやスマホの時代になっていると考えてよいだろう(ちなみにスマホとガラケーを合計すると100%を超えるのは「二台持ち」がいるため)。iPhoneとAndroidの比率は=47.2:52.8だった。僕は一昨年と昨年にも学生たちに所持率を訊ねている。一昨年は授業で手を挙げてもらっただけなので厳密な数値は不明だが、200名中一桁程度だった。そして昨年は40%前半だったことを考えると、スマホの普及がきわめて著しいことがわかる。

スマホこそコンピューターだった

学生たちはスマホのどんな機能を利用しているか。デフォルトアプリで使用しているものとしては、頻度の高い順に メール=98.2%、電話=96.8%、インターネットブラウザ=94.7%、カメラ=89.3%、音楽プレーヤー=44.5%、それ以外のアプリ60.5%ということになった。

ガラケーをスマホに変更してからのこれらの使用頻度の変化を訊ねてみたところ(選択肢は1.増えた、2.やや増えた、3.変わらない、4.やや減った、5.減った、6使わなくなったの6項目)、「1.増えた」と回答したもので顕著なものが アプリ=79.8%、 インターネット=71.5%、カメラ機能=34.6%、変わらないものは通話=56.8%、メール=39.8%、音楽プレーヤー36.8%だった。ちなみに利用頻度が減少したものはなかった。

これらのデータが示しているのは、学生たちがスマホを実に様々なスタイルで様々な機能を利用していることだ。コンピューターと言えば、これまで先ずイメージされるのはパソコン。パソコンは「汎用機器」と呼ばれ、アプリをインストールすることで様々な用途に利用可能なことがウリだったのだが、意外にも学生たちにはあまり普及していなかった。学生たちにとってパソコンは「お勉強道具」的な側面が強かったのだ(大学入学時に親が買い与えるというパターンも結構多い)。遊びはどちらかというとガラケーの方に振られていた。

ところがスマホはこういったコンピューターのイメージを根底から変えてしまった。今回の結果は、パソコンに想定されていた汎用性を、学生たちはスマホで初めて我が物としたことを示している。そう、要するにスマホこそ彼らにとっては「使えるコンピューター」だったのだ。つまりアプリをインストールしこれを利用する。また、スマホはインターネットを閲覧するディバイスともなっている。これは今回のアンケートの調査項目には盛り込まなかったが、僕は毎年授業中に受講生にテレビとインターネットの接触時間比率をたずねている。そしてなんと、今年初めてインターネット接触時間がテレビを上回ったのである。しかもその際、手を挙げた学生たちのほとんどがスマホを所有していたのだ。つまりスマホが学生たちにインターネットの世界を本格的に開いたと考えていいだろう。

意外や意外、スタンドアローンなスマホ使用

ちなみにスマホこそコンピューターであることの傍証となる(ただし、パソコン世代にとっては不可思議な)データがある。彼らのスマホデータのバックアップ率は52.8%。つまり半数近くがバックアップしていない(恐ろしい?)。言い換えればパソコンに依存しないで、スマホをスタンドアローンで使っているのだ。またWi-Fi利用率は55.7%。接続はもっぱら家庭でなのだが、半数近くがWi-Fi機能を実質、切っているという状況(全ての大学でWi-Fiが飛んでいるが、こっちは使わないのだ。どうやらいちいちログインしなければならない、一定時間が過ぎると切れてしまうというのがうざったいらしい。もっともWi-Fiの存在を知らないという”痛い”学生もいたけれど)。彼らにとってスマホは「便利になったガラケー」という認識なんだろうか。しかし、それこそがコンピューターの使用ということになるんだろうけれど。

じゃあ、どんなアプリを利用しているのだろう?インターネットをどのように扱っているのだろう?

※ちなみに、これは偏差値40台後半~50代前半文系社会学系三大学のデータに過ぎない。たとえばSFCとか筑波なんかで調べれば、おそらくかなり異なった結果が出ることが予想されることをお断りしておく(続く)。

劇場型犯罪の変遷について考えている。前回までは68年に発生した寸又峡事件を取り上げた。ここでは金嬉老という類い希なる「物語の語り部」がメディア=マスコミ=テレビを使うことで劇場型犯罪が発生し、その結果、金の犯罪(=殺人+立て籠もり)と警察当局の「犯罪」(=金への人種差別)が入れ替わり、実行犯である金がヒーロー、警察が悪になってしまったことを展開した。その後、劇場型犯罪は数々の模倣犯を生むのだが、警察当局側は次第に劇場犯罪に対する対応シフトを形成していった。だが、その一方でメディアと大衆=視聴者は、相変わらずこういった犯罪スタイルには脆弱なままだった。メディアと大衆が激増型犯罪に対応するためにはまだ時間がかかったのだ。

「疑惑スター」三浦和義の誕生

メディアが劇場型犯罪に本格的に取り組むことになるのは、たった一人でメディアに戦争をふっかけて勝利した男のお陰という側面がある。その男の名は”三浦和義”。80年代「ロス疑惑」で一躍、劇場型スターになってしまった人物だ。

「ロス疑惑」とは81年ロスを訪れた三浦夫妻が駐車場で何者かによって銃撃され、三浦の妻が植物人間となった挙げ句死亡した事件に対する疑惑を指す。三浦も足を打たれたのだが、これを週刊文春が84年に「疑惑の銃弾」として取り上げる。三浦はロスに向かった際、妻に高額の保険をかけていた。一方、自らが経営する事業は火の車。そこで暗殺者を雇い、事件に仕立てて妻を殺すことを依頼したのではというのが、この特集の主旨だった。

事件発生当初、三浦は「悲劇の主人公」としてメディアで扱われていたのだが、この記事によってメディアの対応は一転、彼は「疑惑の人」として注目を浴び、一挙手一投足を徹底的に追いかけられることになる。だが、これに三浦は燦然と立ち向かっていった。疑惑で有名人となったことを逆手に取り、頻繁にメディアに登場。自己の正当性を主張するとともに、バラエティなどにも出演するようになり、三浦は「疑惑スター」の地位にまで上り詰める。

これに対し、メディアはこの注目すべき存在に対して「経済原理」つまり発行部数と視聴率稼ぎという目的で追いかける。三浦についてあることないこと、そしてプライバシーに関することまで、事細かに掲載しはじめたのだ。それゆえ三浦はますますスターとなっていった。金嬉老の時と違っていたのは、メディアはあくまで三浦を疑惑の人=悪という文脈で報道を続けたこと。ただし、この時点で三浦は逮捕されていたわけではないので、今考えてみれば人権蹂躙も甚だしい状況だった。ただし、80年代半ばは3FET(Focus、Friday、Flash、Emma、Touch)と呼ばれた写真週刊誌がスキャンダリズムの嵐を巻き起こしていた時代。個人情報保護法なんてものもなかったこともあり、有名人、一般人も含めて「出歯亀」的なプライバシー暴露報道があたりまえのようになされていた。たとえば日光ジャンボ機墜落時にはその死体が、アイドル岡田有希子が飛び降り自殺した際にも転落した岡田の姿が写真に堂々と掲載されていたというような時代で、当然、疑惑の渦中にある三浦にプライバシーなど一切存在しなかった。さすがにたまりかねた三浦は自らの住居をイギリスへと移すのだが、なんとそこまでメディア=マスコミは追っかけてくる始末だったのだ。

三浦とメディア=マスコミをめぐる攻防は85年、三浦の逮捕によって一旦終息を迎える。メディア=マスコミは経済原理をスキャンダリズム=報道という図式で纏って押し切ることで三浦に勝利したかのように思えた。

三浦の逆襲

だが、実はここからがはじまりだった。なんと三浦は拘置所からメディア=マスコミに対し逆襲を始めたのだ。三浦は拘置所の中で法律書を読みあさり弁護士ばりの知識を身につけ、それを武器に三浦に対してなされた報道の逐一に対して名誉毀損で訴えを起こす。そして……なんと三浦はそのほとんどに勝利したのだ。さらに 疑惑の人、三浦はその後証拠不十分で2003年無罪釈放となる。 これでメディア=マスコミは沈黙する。つまり、これまでのように経済原理に基づいて好き勝手に報道すると酷い目に遭うことを三浦にイヤと言うほどたたき込まれたのだ。また、時代は次第に個人の人権に対する保護が強化される方向に動いていた(この年、個人情報保護法が成立している)。その結果、犯罪に対しておめそれと興味本位=経済原理に基づいた報道ができなくなってしまったのだ(もちろん、それは現在ではもっとその徹底化が図られている)。

このことを象徴的に示す出来事がやはり三浦に関する報道で起きている。三浦は2003年に書店で、また2007年にはコンビニで万引きによって逮捕されている。あの三浦がまた犯罪を犯したのだ!だったらメディア=マスコミはこのことを大々的に報道すればよいのだが、全てのメディアはこの事件を論評抜きで事実だけを報道するにとどめてしまったのだ。

さらに07年、三浦はサイパンへ向かったところでアメリカ連邦警察に逮捕される。なんと、これはロス銃撃事件の容疑者としての逮捕だった。つまり日本の法廷では無罪だが、アメリカでは事件が決着していないという理屈によるものだった。最終的に三浦はロスに移送され、拘置所で首吊り自殺を遂げるのだが、これらについてもメディアはほとんど論評しないというか、きわめて注意深い対応をしたのだった。苦笑させられたのは、この時の三浦のメディアでの呼ばれ方だった。テレビメディアは三浦を「三浦容疑者」ではなく「三浦元社長」という奇っ怪な肩書きで三浦を紹介し続けたのだ。つまり「限りなく卑屈な対応」。

結果として劇場型犯罪防止シフトが形成された

メディア=マスコミは三浦との攻防の中で劇場型犯罪に対する対応方法を結果として学んだことになるといえるだろう。つまり、ポジティブであれネガティブであれ、劇場型犯罪を展開する人間に対して、そこにある種の物語をつけたりスキャンダリズムで迫りスクープ合戦をするようなことは、翻って身の危険に転じてしまうことを三浦を通じて身をもって知らされたのだ。そして、このスタイルは他の犯罪についても適用されるようになっていった。

こうして21世紀に入り、劇場型犯罪はほぼ終息する。警察側は劇場型犯罪に対するシステムを構築することによってメディアを効率的に閉め出し、さらにメディアが過剰な報道を自主回避することによって「劇場」は閉鎖された(あるいは大衆=観客が劇場から閉め出された)。そして、ここにインターネットを中心とした情報の多様化による大衆=視聴者たちの劇場型犯罪へのリテラシー上昇という事態も加わった。つまり大衆もまた劇場型犯罪を展開する実行犯に対し、彼らの語る物語に耳を傾けると言うよりも、よい意味で「しょせん犯罪者」という相対化された認識を高めるように、ある程度はなっていったのだ(ただし、クレームやバッシングという、今度は大衆煽動型の新しい劇場=激情が出現しもしたのだけれど)。

11月23日、豊川信用金庫蔵子支店に銀行強盗が入り、銀行員4名を人質にして立て籠もるという事件が発生した。これは79年に発生した劇場型犯罪、梅川昭美による三菱銀行事件と同様の図式だったのだが、事件それ自体が一斉に実況中継されることもなく、その対応が粛々と進行した。警察はSAT=特殊急襲部隊が動き、この動きがわからないようにメディアを閉め出すという対策がとられた。だから、この銀行強盗籠城もニュースの合間みたいなやり方でしか報道されず、12時間後にはSATが銀行に侵入、実行犯を射殺することもなく捕獲し、あっさりと事件は幕を下ろした。そして、その間、そこで何があったのか大衆はほとんど知ることがなくなってしまったのだ。要するに、この事件では劇場型犯罪が完全に封殺されたのである。ここに劇場型犯罪は終焉を迎えた。

劇場型社会、次の課題は「犯罪」から「政治」へ

じゃあ、僕らは劇場型と呼ばれる一連の出来事に冷静に対処できるようになったのだろうか?いや、そうではない。寸又峡事件から四十数年を経て僕たちが学んだ、つまりメディア・リテラシーを上昇させたのは、あくまで「劇場型犯罪」だけに過ぎない。言い換えれば、それ以外の「劇場型○○」についての処方箋は持ちあわせていない。それはこの「○○」の中に「政治」ということばを挿入してみれば明らかだ。21世紀に入り僕らは劇場型政治に翻弄され続けている。小泉劇場、東国原劇場、2009年夏の民主党の歴史的大勝利、そして橋下劇場。これら全てに僕らは踊らされ、烏合の衆のように振り回されてきた。つまり「劇場型政治」についての僕らのメディア・リテラシーは、未だ劇場型政治の金嬉老=寸又峡事件のレベルなのだ。

僕が今回、いちばん指摘したかったのは、実はここにある。僕らはメディアを使った政治にあまりにナイーブなのだ。だから劇場型「犯罪」で培ったように、劇場型「政治」についてもすれっからしにならなければならない。そして、こういったメディア・リテラシーを身につけるためには、ひょっとしたら金嬉老や三浦和義のようなデマゴキーによって痛い目に遭わなければダメなのかもしれない。で、実は、そういった存在こそが小泉純一郎、堀江貴文、新庄剛志、東国原英夫、そして橋下徹なのではと僕は踏んでいる。

大衆=視聴者のテレビ情報への脆弱性

68年、静岡県寸又峡温泉で金嬉老が起こしたわが国史上初のテレビを利用した劇場型犯罪、そして劇場型犯罪の変遷について考察している。前回は、警察当局、メディア=マスコミ、視聴者が劇場型犯罪についてのリテラシーを全く持ちあわせていなかったために、奇妙キテレツな事件が展開したことについて指摘しておいた。金が籠城するふじみや旅館の部屋で記者会見が開かれたり、静岡県警本部長がテレビ越しに謝罪したり、金の逮捕の瞬間が実況中継(ただしフィルム)されたりしたのがそれだった。

寸又峡事件でのこういった一連の異常な事態は、もう一つの異常を作り出すことにも貢献することになる。前回指摘しておいたように、当時はテレビがほぼ普及し、お茶の間の一角をテレビ受像器が占めるまでになっていたのだが、その反面、大衆=視聴者たちは、それ以外の情報アクセス源を新聞・雑誌程度しか確保しておらず、またそれらへのアクセスはテレビに比べて圧倒的に少ないこともあって「テレビによる情報の一元化」という事態が極端に進行していた。テレビが「映像」という「アリバイ」を持つメディアであると言うことも、そのリアリティを高めることに一役買ってはいたのだが、とにかく「テレビが映し出すことは真実」と、当時の大衆=視聴者たちはそのほとんどが信じ込んでいたのだ。

こういった視聴者たちの脆弱なメディア・リテラシーに、劇場型犯罪リテラシーの低いメディア=マスコミが「経済原理」に基づいてスクープ報道合戦を始め、それにやはり劇場型犯罪リテラシー対応システムの無い警察当局がちぐはぐな対応をやったらどうなるか?その結果のひとつが前回の異常な映像だったのだが、もう一つは、これを観た視聴者の側に形成されたリアリティ異常さだった。そして、それが金嬉老という「英雄」を作り出してしまう。

メディアによる正義と悪の逆転

そのからくりは、だいたい次のようになるだろう。
メディア=マスコミはスクープを抜こうと金嬉老の元に押し寄せる。警察当局はこれを制止することができない。そして、記者たちは金嬉老の映像、そして主張を視聴者に向かって報道する。この時、金の主張は、ある意味正当性がある。在日差別の不当さを訴えていたからだ。また、金自身が劇場型犯罪を起こすだけの能力があるため、自らの生い立ちや状況をドラマ仕立てに物語るのが上手い。つまりスティーブ・ジョブズばりの名演説をやってしまう。こうなると清水で人間二名を射殺したという事実などどうでもよくなり、本来なら金=悪、警察=正義であるはずの図式が逆転する。つまり、メディアが金の発言に耳を傾け、これを報道する。ただし、これは金寄りの報道(報道記者も金に感情移入した側面がある。また演出上、図式を入れ替えた方が視聴者の関心を惹起できるという「経済原理」に基づいた報道側の無意識の思惑もあり、結果として正と悪を逆転させた演出が施されてしまった)。一方、大衆=視聴者は「テレビの報道は真実」と思い込むような脆弱なメディア・リテラシーしかない。そこにメディア=テレビが「金は正義の味方、静岡県警は悪の権化」いう図式で水戸黄門ばりの「勧善懲悪物語」を展開されれば、大衆のほとんどは金への同情という立ち位置に立ってしまうのは無理もないことだった。

人質になっていた宿泊客も同様で、彼らもまた金の話に耳を傾け、さらにテレビで金の主張が大々的に展開されているのを視聴することで、次第に金へ同情するようになる(この辺の下りについては、後の文献の中のいくつかで示されている)。実行犯と人質という関係が次第に融解し、籠城する旅館の中で昔話に花が咲くなんて状況が出現。本来ならば監禁という緊張が張り詰めているはずの空間がゆる~い雰囲気になったのは、こういった要因が重なり合った必然的結果だった。 金の向かいにこたつが置かれ、そこに子どもが潜り込んでいるのだけれど、この子どもたちに緊張感がほとんどなかったのも同様の理由によるだろう。この子どもたちにとって金は「銃を持った人のいいおじさん」になってしまっていたのだ。

こういった報道をまともに受け止め、様々な文献が出版されることになった。また、金の母国(といっても、在日だったので事件当時、韓国を訪れたことはなかったし、金自身韓国語も話せなかったのだけれど)・韓国では金は国民的英雄視されることにもなった(もちろん、これは韓国の「克日」「嫌日」という文脈があったからでもあるのだが)。

劇場型犯罪に対するメディアの脆弱性は90年代まで続いた

劇場型犯罪についての、こういった非常に低いリテラシーは、これ以降も続いていく。その後、よど号事件、瀬戸内シージャック事件、三菱銀行事件、グリコ・森永事件、幼女連続誘拐殺人事件といった劇場型犯罪が続いていくのだ。これに対する対応が最も早かった、つまり劇場型犯罪リテラシーを一気に高めていったのは警察側だったが、その一方でメディアの、そして大衆=視聴者の脆弱性はその後も続いていく。メディアについては少なくとも90年代前半まで、そして大衆=視聴者については21世紀まで(ひょっとしたら今も)。

ただし、現在、メディアは劇場型犯罪に対して寸又峡事件のような対応は行わなくなっている。なぜか?ひとつは、警察当局側が劇場型犯罪に対する対応システムを構築しメディアを排除したからだが、もうひとつメディア自らがこれをやめたという経緯があった。それはメディアが劇場型犯罪の報道をしたがためとんでもないしっぺ返しを食らったことによる。これは90年代前後に訪れた。しかも、メディアはこういったしっぺ返し、痛い目を、たった一人の男によって食らってしまったのだ。その男とは?(続く)

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