勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2012年11月

稚拙な戦略も織り込み済み?

くまモンは「ご当地ゆるキャラ」というかたちで地域活性化に一役買うことを目指して作られたキャラクター。そして前回まではゆるキャラのように見えて実はコンセプトを徹底的に煮詰めた「なーんちゃってゆるキャラ」であることを指摘しておいた。おしまいに、じゃあ実際、くまモンは熊本の活性化にどのように貢献するのかを考えてみよう。

現在のくまモンの売り方についてみてみよう。キャラクターデザインとしてはコンセプトを煮詰めた究極キャラであるわりには、その戦略については綻びが見えないこともない。これはオフィシャルサイトでのくまモンの売り方を見るとよくわかる。ものすごくフツーなのだ。つまり二流どころのやる「ゆる~いコンセプト」。「ああ、観光課あたりがやっている素人のやり方だな」ってのがよくわかる。もはや一流プロデューサーの手腕からはほど遠いものになっているのである。

でも、これでいいのだ。こうやって地元がゆるい戦略を組み続けている限り、くまモンは、その本当の姿を隠しつつ「ゆるキャラ」というカテゴリーに収まり続けることが出来るのだから(ひょっとしたら小山薫堂や水野学はこのことまで織り込み済みかも?)

記号だけが浮遊する

ただし、くまモンはやっぱり「記号のみ」の存在。だから、名前こそ熊本にちなんでいるけれど、これを所持する若者たちとって、くまモンは「ただのくまモン」という記号でしかない。だから、これを持ち歩くからといって熊本に愛着を持つことはおそらくないだろう。そもそも「主張しない、読み込み自由」がそのウリなので、もしここでくまモンが豪快に熊本を主張するようになって「目線がはっきりする」ようなことがあったら、かえってファンはくまモンから去ってしまう可能性が高い。だからくまモンが全国的に人気を博することと、熊本についての認知度が高まることはあまり関連性がないと思っていいし、これが熊本に急激な集客力を持つとも考えられない。あくまでくまモンは「スタンドアローンなくまモン」として売れ続けているだけの存在。くまモンが売れているのは物語がないから、つまり熊本とは関係のない「萌えキャラ」の人気者なのだ。でも、これじゃあくまモンは熊本の観光推進に何ら貢献しないのではないか?

記号が地元意識に環流する

しかし、これもまた、これでいいのである。というのもくまモンは観光というよりも、他の側面から地域活性化に貢献するからだ。くまモンは、熊本県民にメディアを使って地域アデンティティ、つまり「おらが熊本」の感覚を別の側面から与えることを可能にする。

その図式は次のようになる。
まずくまモンが爆発的に売れる。そして全国区になり、あっちこっちのメディアで報道されるようになる。で、こうなったときに熊本の人間が東京都か大阪に出かけたりする。すると、そこで驚くべきことを発見する。それは街中にくまモンがあふれていることだ。

メディアに露出し、全国にあふれるくまモンを見たら熊本県民はどう思うだろうか。
当然、「おらがくまモンがすごいことになっている!」と感じるだろう。そして、そうやって全国に名を馳せているくまモンと自分を重ね合わせるようになる。接点は言うまでもなく、互いが熊本出身、つまり「くまもん=熊本の者」であること。で、くまモン人気をわがことのように喜び、それが熊本に対するアイデンティティーを刺激する。

ちなみに、これは東国原英夫が宮崎県知事時代にやった手法だ。「みやざきをどげんかせんといかん」と言い続け「地鶏、マンゴー、焼酎」を連呼し続けることで、これらを全国区にし、イケてない県としてのコンプレックスを持っていた宮崎県民を元気にしたのだけれど、ようするにどちらも全国でその名を売って、売れたことを地元県民に認知させ、自らのアイデンティティー、県民であることの自信を感じさせるという点では全く同じなのだ。だからくまモンも熊本を元気にするという点で地域活性化に十分貢献しているということになる。

そして結局、くまモンは本当にご当地ゆるキャラになる

おそらく、くまモン人気もそう長くは続かないだろう。あと五年もしないうちに忘れ去られているのではなかろうか。しかし、これもまたそれでいいということにならないだろうか。そうやって忘れ去られる反面、熊本ではイケない手法でくまモンは地域活性化のために貢献し続ける。そうすることで、今度は本当にご当地ゆるキャラとして安住の場所を見いだすことになるのだから。

地域活性化の手法としてのこういったくまモン、「あり」ですよ!

くまモン、ゆるキャラのようでいて実は徹底的にコンセプトを煮詰めたキャラクター、いわば「なーんちゃってゆるキャラ」であることを前回は示していた。くまモンは、その洗練されたコンセプトを隠蔽するため、あえてゆるいところを配置させる「ダサイジング」という手法(ただし、この命名は筆者)を採用した。そうして、ゆるキャラのラインナップに乗っかることで、今、旬の「ゆるキャラブーム」に便乗し、他の本当のゆるキャラと並びながら、その実洗練化したコンセプトで客を奪っていくという詐術で爆発的なブームを引き起こしたのだ。

では、そのコンセプトとはなんだろう。まあ小山薫堂と水野学のことだからいろいろんなことをやっているのだろうけれど、ここではくまモンのデザインコンセプトに限定して注目してみたい。

ほとんど設定が、ない

くまモンは90年代以降キャラクターの基調の一つとなった二つのコンセプトを忠実に踏襲している。「物語性の欠如」と「視線の喪失」だ。

まず「物語性の欠如」。本来キャラクターはアニメやマンガ作品の登場人物として位置づけられる。たとえば「鉄腕アトム」は未来世界という設定があり、その中でロボット三原則を守る正義の味方のロボット=心やさしい科学の子といった性格付けがなされている。つまり物語や設定あって初めて成立するキャラクター。またミッキーマウスについては強くて明るい元気な子、かつ紳士でイマジネーションのパワーを信じているといった性格が設定され、これはどんな役割を演じる際にも踏襲されている。

ところが、90年代から背後に物語や設定のないキャラクターが頻発し始める。つまり単なる情報=記号としてのキャラクターが次々と出現しはじめたのだ。この辺については東浩紀が『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)の中で、ブロッコリーのキャラクター、デジキャラットを取り上げて指摘しているのでご存知の方も多いだろう。デジキャラットはオタクアニメキャラの萌え要素だけを組み合わせて作った物語のない、そして性格もほとんどわからない(凶暴らしいのだが)キャラクター、言い換えれば設定の一切ないキャラクターとして出現し、支持を得たのだ。

さて、くまモンだが、やはりほとんど背後に物語を背負っていない(誕生日3月11日は九州新幹線全線開通日、「いちおう公務員」で、身近にあるサプライズ&ハッピーを見つけて全国に知らせることを目標にすると、オフィシャルページの自己紹介にあるが、これじゃほとんど他のゆるキャラとの差異化になっていないので物語と言うには失格に近い。まあ、熊本を全国に知ってもらうために、出現時に大阪で名刺を配ったなんてサプライズもやったらしいが)。

くまモンはどこを見ているんだろう?

もう一つ「視線の喪失」はどうか?要するに、くまモンの目は「瞳孔が開いている」という状態なのだ。一応、サプライズを探すので「驚いている」ということになってはいる。まあ、そう言われればそういうふうにとれないこともないが「ボーッとしている」「何も考えていない」「死んでいる」というふうにも見える。言い換えればどこを見ているのかわからないのだ。もっとはっきり言ってしまえば「こちらを見ていない」、だから視線が失われている。

こういったキャラクターも、実はここ二十年の間に次々と出現している。もともと日本のキャラクター、とりわけアニメのそれでは視線がはっきりと一定の方を向いているものが多かった。典型的なのは少女漫画の通称「お目々バチバチ」というやつで、これは明らかに読者(あるいは彼氏?王子様?)に向かって媚びた視線=感情を投げかけている。そしてこういったはっきりとした視線は海外の作品を国内に導入する際にも持ち込まれている。たとえばムーミン。放映された当初ムーミンの目は楕円でかわいい、やはりやや媚びたようなタッチだったが、これはオリジナルのタダ丸くて焦点が定まっていないものとは異なっていたため、原作者のトーベ・ヤンソンからクレームが付き、後に修正された逸話がある。ちなみにその焦点の定まらないものに変更したときには「怖い」という苦情が殺到したとか。

視線が定まらないキャラクターが注目されはじめるのは90年代半ばからだ(ちなみに古くは70年代後半、吾妻ひでおが描いた「ナハハ」や「のた魚」があるが、知っているのは一部マニアのみ)。その典型が「たれぱんだ」で、このキャラクターは明らかに瞳孔が開いた状態で、どこを見ているのかわからない(ちなみに姿勢も寝ているのか立っているの、逆立ちしているのかかわからない)。また同時期に登場したToy Storyに登場するエイリアン、リトル・グリーン・メンも同様で、こちらは三ツ目なのでさらにどこを見ているのか全くわからない。そして、これらはいずれも人気を博した。

物語の欠如と視線の消失が産む解釈の自由

「物語の欠如」と「視線の消失」という二つの傾向は、最終的に一つの方向性へとそのキャラクターの特徴を収斂させる。それは、キャラクターがこちらに何らかの訴えかけをしてこないという「押しつけがましくない」存在になること、それによってこのキャラクターに対し、こちらが自由に視線を投げかけることが出来るという点だ。物語がないのだから、どんな物語を付与してもよいし、こっちを見ていないのだからこっちから見て適当に表情を判断すればいい。つまり、自分の思うがままにそこに意味を読み取ることができる(言語学者のロラン・バルトはこのことを「テクストの快楽」と呼んだ)。

こういった「主張しない、読み込み自由」なキャラクターはが90年代後半以降のトレンドとなった。ちょっとあげてみよう。古くはハローキティやミッフィ(出現はさらにずっと前だが、この時期にブレイクしている)。これらには口がない(あるいは口が×)。だから主張しないし表情がない。ということは表情はこちらが勝手に読み込めばいいということになる(ハローキティでは「口は自分でその都度入れてください」との説明まである。アニメに登場するハローキティは口があり違和感がある)。また2000年前後にはペットとして爬虫類系がもてはやされたことがあるが、これも表情がなく感情が判断できないのでかわいいということになった(これらペットは”ムヒョ系”、つまり「無表情系のペット」と呼ばれた)。そしてディズニーシーに出現したのダッフィーはまさにこういった「主張しない、読み込み自由」キャラクターのディズニー版。ほとんど物語を持たず(とってつけたようなものあるだけ。しかもオリジナルとなったアメリカのディズニーベアとはその設定を変更している)、ディズニー的な文法を全く踏まえていない(身体に“隠れミッキー”が加えられて、かろうじてディズニーファミリーであることを示しているのみ)。にもかかわらず爆発的なブームを生み、日本ではディズニーキャラクターとしてミッキーマウスに次ぐポジションにまで上り詰めたのだ。

そして、こういった文法を集約したかたちでデザインされているのがくまモンなのだ。くまモンは、一切主張しないことでこれを所有する側の意のままに思い入れが可能という「お気に召すまま」キャラクターという近年のトレンドを徹底して踏襲しているのである。

じゃあ、こういったデザインや戦略はどういうかたちで一般に受け入れられているんだろう。そして熊本の地域活性化に貢献しているのだろう?(続く)

ゆるキャラのくまモン、今や全国区

熊本県のイメージキャラクター「くまモン」が大人気だ。くまモンはいわゆる「ゆるキャラ」と呼ばれるキャラクターの一つ。今や全国各地がゆるキャラフィーバー状態だが、その中でもくまモンは抜きん出ていて、それまでもっとも有名だった彦根の「ひこにゃん」をアッと言う間に抜き去ったという感すらある。実際、僕の大学でもカバンにくまモンのマスコット人形をぶら下げたり、くまモンをあしらった文具を持ち歩く学生(もちろん、女子学生だけれど)を結構見かける。もうフツーに全国区のキャラクターなのだ。

「ゆるキャラ」とはイラストレーターのみうらじゅんが命名したことば。主として全国各地のご当地キャラクターをさしているが、それだけに限られるわけではない。このキャラクターを理解するためには、「ゆるキャラ」の「キャラ」の前におかれた「ゆる」に着目すればいい。つまり「ゆるい」のだ。何がゆるいのかといえば、要するにキャラクターとしての設定やコンセプトの詰めが甘い、だから「詰めの緩いキャラクター」、転じて「ゆるキャラ」となる。

ゆるキャラがゆるくなってしまう構造

なぜ詰めが甘くなるのかを、ちょっとカリカチュアライズしたかたちで説明してみよう。公共団体がローカル地域の活性化や、企業がイメージアップを考えていた。そんなとき思いついた(あるいは広告代理店あたりが企画として持ち込んだ)のがキャラクターだ。企業や団体のイメージをキャラクターとして売り込めばわかりやすい。ディズニーのミッキーマウスみたいに、みんなに愛されるかもしれない。あるいは、最近はどこもキャラクター作ってもいるし、ウチもやらんといかんかなぁ?と考えた。まあ、こんな軽い感じでキャラクターを作ることにした。

ただし、当然ながら、こういったキャラクター作りに関して、思いついた連中は素人。だからコンセプトを煮詰められない。で、テキトーに考えたところで、あとは広告代理店への丸投げみたいなかたちになる。代理店の方もやっつけ仕事でやるので(地元の広告代理店なんかにやらせると技術的な問題上、かなりゆるくなる)、デザイン的に見ても文法が甘い、またキャラクターについての売り方も「既製品」の、ものすごくベタなものになる。で、結局、他と差異化が働かないので、あんまり効果を生まないということになるのだけれど(みなさんは最近生まれた宮崎県のキャラクターをご存知だろうか?「みやざき犬(みやざきけん)」という犬三匹なんだけど、これなんかゆるキャラの極地と言えるだろう。キャラは地味だし、三匹でセットなので印象がきわめて薄い)。徹底的に煮詰められたディズニーのキャラクター群(ゆるさゼロ)とは、ちょっとわけが違うのである。

ゆるキャラは諧謔的な楽しみ

「ゆるキャラ」発案者のみうらじゅんは、こういった忘れ去られ、ひっそりと生息するご当地・企業キャラクターを諧謔的な立ち位置からこう名付けたのだった。ただし、みうらの場合、諧謔的ゆえ、これを楽しむというカルト的立ち位置でもある。みうらは、この詰めの甘さからうまれる大量のゆるキャラをまとめ、「ダサさ」として楽しんでしまうという視点を提示、これが一般に受け入れられて「ゆるキャラ」が認知されることになったのだ(ちなみに、みうらのこういった視点は一貫している。このほかにも「カスハガ=誰も買いたくないようなダサい絵はがき」「とんまつり=威厳を全く感じさせない、場合によってはこちらが赤面してしまいたくなるような勘違いな祭」といった命名もおこなっている。僕らがいまや「普通名詞」として使用している「クソゲー=あまりにつまらないテレビゲーム」もみうらが「クソゲーム」と命名したことに端を発している)。

ゆるキャラのゆるさを踏襲しているくまモン

さて、くまモンである。ゆるキャラとしては後発。そして、ゆるキャラの基本である、この詰めの甘さとダサさをしっかりと踏襲しているように見える。で、まあ、いちおうコンセプトはある。全体が黒いのは熊本城が黒いことにちなんだもの、そして名前の「くまモン」は、熊本の人の呼び方(「熊本から来た者」というわけで「東京もん」と同じ)。おそらく名前の後ろを「モン」とカタカナ表記しているのは、モンスターあたりを彷彿とさせようとしているのではなかろうか。しかし、アタマから身体にかけての広がりはくびれがなくだらしない。つまりスタイルの詰めが甘い。しかも目は、いわば「瞳孔が開いている」状態で、何を見つめているのかよくわからない。また、くまモンのオフィシャルサイトで展開されている各種イベントも、な~んにも考えていないような「ゆるさ」と「しょ~もなさ」に満ちている。

くまモンを考えた人間たち、実は超大物

しかし、騙されてはいけない。これは周到に組まれたコンセプトと僕は考えている。というのも、このコンセプトのアドバイザーは小山薫堂、デザイナーは水野学という、知る人ぞ知る広告業界の超大物。当然、かなり巧妙な仕掛けがあり、この仕掛けを近年のゆるキャラブームに乗っかりつつも、これをうまく使いこなす究極のプロの仕事をここでやっていると見た。しかし、それでもゆるキャラであることに変わりはない。じゃ、彼らは何をやっているのか。

洗練を徹底的に隠蔽する

ディズニーランドの建築物には老朽化したものが結構ある。しかし、実際にはこれらは老朽化したのではなく、はじめから老朽化している。つまり「ボロさ」「古さ」をデザインとして表現しているのだ。これはハリウッド映画のセットの手法を踏襲したもので、この技法は一般的には「エイジング」と呼ばれている。エイジングを施す際には、実際、老朽化したのと同じようなテクスチャーをつけて、あたかもボロボロに見せるという工夫がなされるのだけれど、よく見てみないとそれが「作り物としての老朽物」であることがわからない。

くまモンに施されている手法もこれと同じだ。つまり、コンセプトを徹底的に煮詰めた後に、それがわからないようにわざとダサくする。つまり「コンセプトがゆるいように見せる」という手法=「ダサさというテクスチャーをつけるやり方」を用いている。前述したくまモンの形状におけるくびれの無さ、開いた瞳孔、くまモンを使った様々な企画の統一性の無さ(くまモンを橋の上からバンジージャンプさせるというビデオすらあるほど。おまえはガチャピンか?)などはその典型的手法(くまモンを使った企画は地元にまかされているのだろう。かなりメチャクチャだ。でも、これも計算済みか?)。これによって他の本当に詰めの甘い「ゆるキャラ」と同じようなものに見せているのだけれど、実はその背後に隠されているコンセプトは見えないようになっている。そのコンセプトとは、実はこの数十年のキャラクターを研究し尽くすことによって作られたものと僕には思えた。ただし、クドいようだが、これが見えないようにダサくする。

「ダサいジング」という手法?

かつて映画監督ティム・バートンは『マーズ・アタック』という映画のオープニングでアダムスキー型の円盤を大映しにしたことがあった。これはかつての安物のUFO映画(エド・ウッドの『プラン9・フロム・アウター・スペース』あたり)で使われた金属製の灰皿にピアノ線をつけて撮影をしたような安っぽいUFOで、当然、ピアノ線だから現在のCGとは違ってUFOは安定性なくブレて、揺れながら回転したいたのだけれど。ところがバートンは、なんと、これをわざわざCGで作成していたのだ。

さて、そこでくまモンのゆるキャラ化、ティムバートンのUFOに施された手法を、ディズニーのエイジングにちなんで「ダサイジング」(=わざとダサくする手法)と呼ぶことにしよう。

僕らはくまモンを見て、まず今流行の「ゆるキャラ」として注目する。だが、それだけだったらくまモンは他のゆるキャラの馬郡に沈むだけだ。ところがくまモンは突出した。ということは、小山薫堂と水野学の仕込みは、ゆるキャラというムーブメントで惹きつけておいて、その実徹、徹底したコンセプトで人々を魅了してしまうきわめて狡猾なやり方をやっているということになる。

じゃあ、それはどのような手法なのだろう?(続く)

(続き)

学生を「お坊ちゃん」「お嬢ちゃん」と認識する

今や大学生は、自分のことを「学生」ではなく「生徒」と呼ぶ。実際、学生のほとんどは「お坊ちゃん」「お嬢ちゃん」。親もそういう感覚の人間が多い。たとえば授業に対して、親が平気でクレーム付けに来るなんていうモンスター・ペアレンツは大学にもいるのだ!(「学費を払ったのは私(=親)だから、大学教育の実態について注文を付ける権利がある」なんて平気で言ってくる親も)。また入学式や卒業式は卒業する学生の三倍ほどの収容数を確保できる会場が必要というのも、もはや常識。親が参観するからだ。

ということは、必然的に大学教員の職務の一つは「学生」ではなく「生徒」に対する対応、つまり「生徒指導」ということになる。いうならば「心身の指導」が要請される。

アカデミックスキルの「基礎」を教えることが大学の使命となる

全入時代なので、ほとんどの学生に勉学意欲は低い。だまっていても、どこかへ入れる。だから、今風の表現をすれば”何気で”入ってきただけ。また受験戦争と言った「試練」もないので、打たれ弱く、粘り強くもない。だから強制的にモチベーションを付けることも出来ない(大学の多くが推薦入試と称して受験生の青田刈りをやっている。ちなみに以前と違い推薦で入学する学生=生徒は一般入試、つまり通常の試験選抜で入学した学生より確実に学力が低い。言い換えれば、もし推薦で不合格になったならば、その生徒がその学校に一般入試で合格する可能性はほとんどない)。

だから、教育も「生徒指導」のレベルでやる必要がある。より具体的に言えば、もはや大学は専門教育機関ではなく教養教育の機関と考えるべき(専門教育は大学院以降)。ならば教養教育、基礎教育に重点をあてた教育が必須。具体的にはミニマム・エッセンシャルズという「アカデミズムの基礎」を養う機関と位置づけるのが正しい。つまり、大学で学ぶことは「情報の集め方」「情報の整理の仕方」「情報の発信の仕方」というメディア・リテラシー教育とグループワークに基づくコミュニケーション力の養成。文科省的に言うと“人間力”と言うことになる。とはいうものの、これは本来なら高校までの教育がやっておくべきことではあるのだが……。

しかしながら高校では情報の集め方を教えてくれない(ネットの使い方もまともに教えていない。というかパソコン嫌い。みんなケータイにアタマ突っ込んでいる。学生にとってパソコンとは「勉強するので買う必要があるもの」「就職のために買う必要のあるもの」という認識しかない。だから自発的に購入しようという意欲はない。大学がメルアドを提供してもレポート提出用以外にはほとんど使わない。使うのはケータイ・アドレス。ちなみにパソコンを渡すと彼らが積極的にやるのはYouTubeのブラウズ。2ちゃんねるすら見ない。最も最近はスマホの普及によってちょっと様子が変わりはじめているが)、情報の整理の仕方を教えてはくれない(たとえば良い店を探す技術がない。彼らにコンパの会場を探させると”和○”とか”笑○”とか”魚○”といった、チェーン店になる。当然「味盲」)、情報の発信の仕方を教えてくれない(レポートや文章が書けません。レポートを要求すると1200字を一段落で書いてくる学生、逆に全て改行して「箇条書き」という学生が必ず存在する。長い文章を書けと要求するとノイローゼになる。パワポも一枚のスライドに文章を500字くらい入れ、それをうつむきながら棒読みするのでプレゼンの意味がない)、話し合いやチームワーク方法を教えてくれません(発言できない。発言するとKYになるのではと懸念して発言しない。そのくせグループワークをやるとすぐに意見が対立し、気まずくなった人間は授業に出てこなくなる)。

なので、これを大学で鍛えるというのが、これからの大学のあるべき方向と言うことに、残念ながらなる(これが”ミニマム・エッセンシャルズ”というわけ)。ちなみに「学生」でなく「生徒」なので社会性も低い(遅刻、電車内の優先席に座りケータイをかけたり化粧をしたりする、禁煙と書いてあるプレートの前に仲間とやって来てタバコを吸うなど)わけで、となるとマナーや道徳の時間、つまり「しつけ=心身の指導」の時間も必要と言うことになる(できれば高校までに指導しておいてほしいのだが、中学高校の教員が社会性が低いというか社会的スキルが乏しいので教えられない。まあ大学教員もほぼ同じか、それ以下。まことに学生たちは可哀想だ)。ようするに、繰り返すが大学では文字通りの「生徒指導」が今、必要とされているのだ。つまり、 大学でおこなうべきことは、専門的な知識の提供ではなくて、基礎的なアカデミック・スキルとマナーや社会のルールを教えることなのだ。

大学は就職予備校を目指すしか、ない?

で、こういった教育は、以外なことに(っていうか、あたりまえなのだが)、実は就職率のアップに繋がる。というのも「アカデミック・スキル」は企業で企画を考えたりする際の、基本的な技術(価値判断を排除したり、構造的に物事を捉える能力)になるし、「コミュニケーション・スキル」はKYでない社員を養成することになるからだ。ということは、大学が少子化の中でサバイバルするためには「就職予備校」になるというのがベストということになる(僕は大学教員なので、この主張は自分の首を絞めていることになるのだけれど(笑))。

実際、大学は現在、アカデミズムについての教育よりも就活支援に力点を置くという方向に向かいつつある。就活訓練所みたいなことをいっぱいやっているわけで。就職率が悪いというのは大学イメージを低下させる大きな要因だから、大学としてもかなり切実な問題として捉えている。バカでボーっとしている学生たちは、放っておくとどこにも就職できない(多くの大学で、就職支援に割く予算は年々増大している)。彼らは就職活動がうまくいく、いかないという議論以前に、「就職活動とは何か」とか「就職活動の方法」を知らない。だから早め早めに大学の方から学生たちにキャリア教育と称して「君たち、就職の準備しなくちゃね」とクドクドと働きかける。リクナビ、マイナビの存在も知らないので、その説明と使い方、エントリー・シートの書き方の説明会をし、SPIや模擬面接をやらせてという具合に、尻を叩きながら就職戦線に学生を出していく、ってなことをやっているのである。僕は現在50代だが、自分が就活をすることになった八十年代の半ばの頃は、就職支援室こそあったが、それをどう使うのかは完全に学生任せで、大学はなんにもしないというのが普通だった。まあ、バブルの時代だったのでそれでもよかったのだけれど、それにしても隔世の感がある。

しかしこんなことでいいのだろうか?いいわけはないだろう。これじゃ教育にならないんだから。やはり就職解禁時期の法制化が、まず実施されなければならない。繰り返すようだが、そうしないと日本の将来はないと言っても過言ではない、そんなふうに現場で教育に携わる僕は切実に思っているのだが。

”人間力”養成プログラムの一つを提案する

では、どんな修正案が考えられるか。 つまり、大学教育のスケジュールはどのようにすべきか。文系大学に絞ったかたちで一案を提示しておこう。ちなみに、これは「高校までの基礎教育がきちんと施されていない」そして「就職解禁が法制化された」という前提で大学側がスタンド・アローンで修正するプランだ(本来なら教育システム全体を見直さなければならないのだけれど)。

大学一~二年前期:基礎的なアカデミックスキルの修得(読み書き、パソコン。そしてグループワーク)。基礎ゼミによる少人数でのインテンシブな授業の中で、これらを培う。つまり、本来なら高校までにやっておかなければならない情報の集め方(ネット検索、文献検索、本の読み方)、整理の仕方(レジュメの切り方、情報整理の仕方)、表現の仕方(文章の書き方、論文の構成の仕方、プレゼンテーションの方法)、ブレーン・ストーミングの仕方といったものをひたすらたたき込む。

二年後期~四年前期:ゼミ活動を中心とした専門的な教育(但し基礎レベル)。ここで専門分野の入門レベルの知識とスキルを指導し、論文作成の準備(研究ノート、ゼミ論などの作成等)とする。グループ研究(フィールドワーク等)なども積極的に取り入れ「社会性」を養う。

四年後期:卒論作成と就活。就活しながら卒論を作るのだが、これは原則、個別指導とする。

こうすると結局、二つの技術、つまりアカデミックなスキルの基礎と、社会で立ち回ることの出来る能力の二つ、要するに“人間力”が養成されると、僕は思うのだが(もっともすでに、これくらいのことをやっている大学も存在する。残念なのは、それがごく一部であると言うことだ)。ちなみに、皮肉なことにこういった人間力に最も欠けた類いの人間は大学教員。だから、根本的な問題を指摘すれば、大学教員それ自体を変える必要があるのだけれど。そう、大学教育は民間企業の視点から見れば、ビジネスモデルからはほど遠い状態なのだ。大学運営と同じことをビジネスでやれば、まあつぶれるわな。トホホ……。

でも、やっぱりこれを大学教育がやらなければならないという現状は問題と言わざるを得ないなあ。

大学も、今や学級崩壊?

今、大学ではスゴイこと(ヤバい意味でだが)が起こっていることをご存じだろうか。

「スゴイこと」とは、大学の教育システムを根幹から揺るがすような事態をさしている。それは「授業が成立しない」「教育をきちんと施すことが出来ていない」ということ。もちろん小学校の学級崩壊みたいなものとは、チト違う。小学校の学級崩壊の場合は、生徒が勝手に授業中に徘徊したり、サボったり、あるいは親の都合でサボらせることで授業が成り立たなくなることをさしているのだが、大学の場合は、学生が出席したくても授業に出席できないという事態が発生しているのだ。

始まる時期は大学三年の十一月頃から。つまり、就職活動が始まったときからで、これ以降、学生たちは就活に振り回されて授業に出席することが事実上困難になっていくのだ。

ゼミの現状は悲惨

例えばゼミ。何人かは就活で出席できない。これでゼミが歯抜けになっていく。つまり4年生は必ず何人かは欠席しているという状態になる。ただし就職活動は学生にとって将来を決める重要な活動。だから、教員としては「やるな」とは言えない。で、4年生のゼミは原則、卒論作成となるので、もう全体でゼミを開くことはやめて、個別指導にしているところも(もっとも、これをいいことに、指導を全くやらない教員もいるが)。

本格的な就職活動の開始は三年次の2月。で、これ以降は就活一色になるわけで、当然四年の一年間はほとんどゼミ活動といったものが不可能(とりわけグループワーク)。ということは大学における教育は大学三年までで実質終了(卒論除く)。当然専門教育は短大レベルになる。

だが、こういった事態は、実は日本の現在、そして招来を揺るがしかねない大きな構造的問題もたらす可能性を孕んでいるとも言えるのではなかろうか。

就活の前倒しが生んだ大学教育の崩壊

現在、大学に入学してくる学生の学力、そして社会力は、かつてに比べるとかなり低下している。それは言うまでもなく”ゆとり教育”のお陰だ。一例として、僕の教えている学部(偏差値50程度)の英語力をあげれば、五文系が言えない、発音記号が読めない、be動詞と一般動詞の区別がつかないといった状態。たとえば「あなたはペンを持っていますか。はい」という英作文をさせると”Are you have pen? Yes, I have”なんて回答がいくらでも出てくるといった具合(be動詞と一般動詞の混在、不定冠詞がない、doとhaveの混同)。また社会力についても同様で、とりわけコミュニケーション力の欠如は著しい。グループワークをやると全くチームワークが取れない、いや、その前に人と話し合いをすることに恐れをなしたりする学生が結構、存在する。

こんな”バカ学生”(厳密には「バカ」ではなく、「未開拓」な学生と表現した方が正しい。まともに教育を受けていないのだから。そういった意味で、彼らは被害者だ。言い換えれば開拓すれば才能が芽生える人間が大半。ただし、ここでは申し訳ないが、わかりやすいよう「バカ学生」と表記する)が三年間、ほとんどなんの教育も施されることなく(これは大学側の責任でも、もちろんある)就活をやるのだから、ようするに”バカの二乗”になる。つまりボーっとして大学に入ってきて、なんにもしないうちに就活が始まるのだ。

就活前倒しのお陰で、大学教育は実質破綻している。「バカのママだったバカは、バカのママだった」ということになり、これが大量に社会に出て行くわけで、そりゃ日本が韓国や中国に抜かれるのも無理はないと思えないでもない。日本社会、日本経済が萎えていることの主要因の一つとして、ゆとり教育と就活の前倒しは指摘することができることは、間違いないだろう。

就活の紳士協定を強化して復活せよ

これに対する対策は一つは、かつてあった就職活動についての企業間の紳士協定を強化したかたちで復活すること。もう、これは絶対にやらなければ、ダメ。そうしないと日本は崩壊するだろう。

96年まで、就職については紳士協定が企業間で結ばれていたのだが、協定破りがあまりに多いためにこれが破棄され、それが結果として就活の前倒し状況を生んでしまった。そして前述したように大学教育の形骸化を生んでいる。ただし、紳士協定が破棄された理由は「紳士的でない企業」が頻発したから。いいかえれば、これはあくまでもマナーみたいなレベルでの拘束力しかなかった。だから結果として破綻したわけで。

ということは、やるのなら「紳士協定」ではなく立法化しないと意味がない。具体的には就職開始日を八月一日とし、この規定に反した企業は一年間の新卒募集停止とかの処分をする。開始日八月一日というのが適切なのは、これによって四年前期までの大学教育の充実化が図れるため。つまり、これまで三年次の一月までだった教育がさらに半年延びる。学習期間は13%程度増加する。また、八月以降は卒論指導の期間とすれば、就活と卒論作成が同時になるわけで、個別指導という状況にも対応できる。でもって、「これで日本も安心だ!」と言うことに(くどいようだが、その期間を大学側がちゃんと教育できればと言う留保が当然付くが。で、ダメなんだけど)。

そうなればよいのだが……しかし、現状はそうなってはいない。では、現在の就活システム、そしてゆとり教育の中で大学教育は、いかなる立ち位置をとるべきなのだろうか?

そこで現状を把握し、教育側がとるべき立ち位置について押さえておこう。(後編に続く)

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