勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2012年10月

大学教員の定型文句「GoogleやWikipediaは×、辞書や辞典(事典)を引きなさい!」

最近では大学に入ると新入生は導入教育(多くは基礎ゼミの形式をとる)を施されるのが最近の一般的傾向(かつての大学は、こんなことはしなかった)。ここでは“図書館の使い方””論文の書き方“”初歩の討論の仕方“”レジュメの切り方”“プレゼンの仕方”といった「アカデミズムの初歩の初歩」、つまり学問のしきたり的な項目が指導される。

その際、教員たちの多くが「辞書の引き方」を指導する際には、次のような常套句を吐く。

「ちゃんと辞書や辞典(事典)を引きなさい。ネットのGoogleやWikipediaなんかはウソばっかりで全然、信用ができないから、参考にしてはいけない」

でも、僕はこれにちょっと、ツッコミをいれたい。

「こんなことを言う教員が、実はいちばん信用できない!」と

彼らの言い分は、Googleはただ単にネット上の情報をリンク頻度に従って羅列しているだけ、Wikiには事項についての詳しい内容が掲載されているが、一般の人間、つまり素人によって書き込みされているので誤りが多い、というもの。

確かにそうだ。僕もこれらで検索したときには、しばしばその誤りを見つけることがある。指摘されるように信用がおけるものではなかなかない。ただし、その信用度の低さは「一般の辞書と同程度に信用できないレベル」と、僕は考えている。

一般辞書(とりわけ事典)のいい加減さ

だいたい、一般の辞書がそんなに信用できるものだろうか?辞典はともかく、事典と呼ばれる辞書なんか全然信用できないんじゃないだろうか?僕は社会学という分野の研究者なので社会学事典なんてのを学生に引かせるのだけれど、ほとんど役に立たない。これって、社会学者が書いているから正確と思うかもしれないが、実はそうじゃあない。辞書の編纂については監修者が辞書項目についてその専門分野の研究者に執筆を依頼するのだけれど、よっぽどのことがないい限りケチを付けられないという状況に置かれている。というのも、書くのをお願いしたのに、それに文句を付けるなんて恐れ多くてできないからだ。だから、その内容についてのチェックは、ほとんどナシ。

仮にその内容が正確であったとしても、そのあとには大問題が残っている。項目担当者は社会学者、つまり「社会学オタク」だ。で、オタクだから、オタクはオタクにしか通用しないジャゴン=専門用語を使う。だから、項目の説明をするにあたっては、その説明内容に社会学の専門用語が含まれていることが多い。当然、シロウトはこの専門用語がわからない。だから同じ事典で、こんどはその説明に出てきた専門用語を調べる。……すると、そこに書かれている説明にもやはり専門用語が。で、仕方がないのでこれもまた調べる。するとまた……。で、気がついたら説明の説明の説明の中に元の調べようとしていた専門用語が含まれていたりもするわけで、ほとんどお役所のたらい回しみたいなことになってしまうのだ(要するに客のことなど考えていない)。だから、調べる側としてはものすごく生産性が低くなってしまう。

というわけで、辞書の正確性ははっきり言って絶対的なものではない(因みに、辞書は情報内容が古くさくなっていると言うことも,間々ある。たとえば国語辞典には「やさしい」はあっても「やさしさ」という項目がないのをご存知だろうか?「まったり」も「ゆったりとしておもはゆいさま」という味覚についての意味しかないので「きょうは、まったりしてました」の意味を調べてもわからない)。鮮度はやはり頻繁に更新されるウェブの情報の方に分がある。

ただし、GoogleやWikiもかなりイイカゲンというか、いい加減さに満ちている。それじゃあ、僕らは知りたい情報をどうやったら正しい情報を入手できるんだろうか?

「正しい情報」なんて、どこにもない!

最初にこれに関してバッサリと答えを言ってしまえば「正しい情報を入手することは不可能」ということになる。情報は生もの、そして時代や社会・文化によって正しいか否かが決まるもの。つまり、情報は真実としての正しさを所有していない。しかし、当該社会・文化圏において「正しい」とされる情報は存在する。たとえばイタリアで、ラーメンを食べる勢いでパスタをすすったらどうなるだろう。当然「ズズーッ」と音を立てることになるわけで、これはイタリアでは失礼な行為だ。でも、日本で音も立てずにムニュムニュとラーメンを食べているヤツがいたら、僕らにとってはどう見てもまずそうなものに思える。これはイタリア文化圏では「音を立てずに麺を食べること」が「正しい情報」で、日本では「音を立てて食べること」が「正しい情報」だからだ。

「適切な情報」のみが、存在する

つまり「正しい情報」「真実の情報」というのは存在しない。「その文化圏に妥当な情報」か「自分にとって有用な情報」があるだけだ。前者は自分が暮らす文化圏を適切に動き回るためには不可欠な「正しい情報」だし、後者は自分の欲望を満たすための「正しい情報」というわけだ。だから、僕は語弊がないように、これらをまとめて「適切な情報」と表現することにしたい。で、この「適切な情報」こそが僕らが求めているものに他ならない。そして、さらに、こういった「適切な情報」は,最終的には一般の辞書や事典でもGoogleやWikiでも見つけることのできないものだ(蓋然性として一般辞書・事典に若干の妥当性があるだけだ)。ということは、こういった「適切な情報」のつかみ方を教えることこそが,実は大学(いや、全ての教育機関)に課された使命=情報リテラシー教育ということになる。だからこそ「ウィキやGoogleは信用出来ない」なんて脳天気でガラパゴス的なことを学生にのたまっている教員は信用してはいけないのである。

情報を編集するという技術(※ここからはオマケ)

たしかに辞書やWiki、Googleは信用できないが、とはいっても活用しなければならないものであることは言うまでもない。だからこれらを(もちろんそれ以外の情報源も含めて)どう扱うかが問題になってくる。その扱い方は、要するに「情報をどう編集するか」に関わってくるのだけれど。

じゃあ具体的にどうするか。ここでそのもっとも大衆的かつ一般的なやり方の一つとして,私案を提示してみよう(ちなみに、専門性が高くなるにつれ、このやり方は限りなく難しくなっていくことをお断りしておく。超専門的な情報をネットから引っ張り出してくるのは、やっぱり難しい)。

1.Wiki、Googleから入る

先ず、知りたいことがあったら、真っ先にアクセスべきはGoogleとWikiでよいだろう。とりわけWikiは匿名の人間が執筆し、それに改訂が加えられ続けているものなので、書き方が平易でわかりやすい(つまり、玄人独特の難解さがない。ただし、その項目に執筆者が入れ込んでいて、どうでもいいことまで、事細かに書き込まれていることも多いのだけれど)。ある程度のことはこれでわかる。

で、次にGoogleでその項目についてチェックしてみよう。そして、まあ最初の1~2ページくらいまではリンク先をチェックしてみよう。Googleの場合は、知りたい項目についてはしょり書き程度に書かれているものが多い(論文が出てくることもあるけれど、むしろこれは取っつきにくい)ので、いきなり見てもあんまりわからないことも多いのだけれど、Wikiであらかじめチェックしておくと、その短いはしょり書きの文脈が見えてくるので「ああ、こういう意図でこの文は書かれているんだな」という感じになるわけだ。もちろんWikiとGoogleを逆にやってもいいんだけれど。

2.Wiki、Googleから飛ぶ。そしてやっと辞書・事典へ

ただし、ここで情報を鵜呑みにしてはいけない。両方ともまだ裏付けというか、有用性の確証が得られていないからだ。だから、ここからあちこちに飛ぶことにする。ひとつはWiki、Googleが示している関連文献、参考文献や参考サイト。でも、たとえば関連文献の場合、すぐそれを手に入れる必要は無い(手間とカネがかかる。かつ、いきなり難解だったりするので費用対効果が低い)。リンクで孫引きをやるなんてのが先にやるべきことだ。Amazonのブックレビューをチェックするのもいい。これらで、だいたい耳学問はやれてしまう(もっとも、このときもレビューワーの能力を吟味する必要があるけれど)。ようするに、まずはネット上の”集合知”にあたってみるというわけだ。

そして、これが終わった状態で辞書や事典、概論といったものに目を向ける。そうすると学者が書いた呪文みたいな、それでいて舌足らずな文章を、こちらが行間を補って理解することができる。でもって、まあ、これらは余分なことはあまり書いてないので、これまで読んだところのエッセンスがこれでクリアになる。

3.さらにハマったら、関連文献に当たる

で、おもしろくなってしまったら……仕方がないから文献に当たろう。これも、その議論についてのオリジナル=原点に直接あたると言うよりも、クリティークやオリジナルを検討した文献に当たると、より効率的だ。というのも、結局こういった調べたい内容はオリジナルが言っていることよりも、それを第三者がどう引用して使っているかにポイントがあるし、そちらの方が議論の対象となっていることのほうが圧倒的に多いからだ(だから誤用がしばしば発生するのだけれど)。たとえばメディア論の巨人・W.ベンヤミンといえば『複製技術時代の芸術作品』という文献が有名だが、ここで引用されるもののほとんどは「アウラの消滅=礼拝的価値から展示的価値へ」という議論だ。でも、これは文章全体の一部に過ぎない。だったらオリジナルをあたるより、その解説みたいのものを読んだ方がはるかに早いということになる。

4.もう止められないくらいハマったら~要領のいい読み方はヤメよう!

しかし、関連文献を読んでいたらますますハマって「ベンヤミンは何を考えていたんだろう?ほんとうのところは?」ってなことになってしまうこともあるかもしれない。そう、その時、やっとオリジナルが登場するというわけだ。これはもう、はしょらないでバカ丁寧に読んでみる。

で、こうやって読んだとき、実は本当の意味で自分にとって適切な情報が入ってくることになる。ここに来るまでの情報編集は、いわば「処理」だ。だが、ここからは自分がオリジナルと対峙する「思索」あるいは「体験」になるからだ。そして、それは自分にとっての情報の適切性を根本から問い直すための格好の機会になるのではなかろうか。

またもや村上春樹がノーベル文学賞を受賞し損ねた。これまで何度となく候補としてあげられブックメーカーのオッズも最高になるなど、本命中の本命だったのが、やっぱり落選したのだ。ファンも、そしてメディアもさぞかしがっかりしたことだろう。しかし、これってよ~く考えてみると,村上の小説が売れるという点ではきわめて好ましい状況ではなかろうか。そこで今回は村上春樹の売られ方について考えてみたい。ちなみに,最初に誤解のないようにお断りを入れておくと,今回の考察は村上の作品の質とは一切関わりない。あくまでメディア論的視点から、つまりメディアとしての村上春樹、マーケティング対象としての村上にメスを入れていく(いいかえれば僕の個人的な村上への評価は一切差し挟まない。ちなみに個人的には村上を高く評価している)。

ハングリーマーケティングという手法

ここ数年の村上の売り方はハングリー・マーケティングということばで表現できるだろう。これは消費者に飢餓感を与え,その飢えによって商品により強い欲望を喚起することで,実際に商品がリリースされる際にはユーザーたちは堰を切ったように商品に殺到するようにしてしまう手法だ。この手法をわが国で大々的に展開したのは70年代の角川春樹事務所だった。社長の角川春樹は自らがスカウトしたタレント薬師丸ひろ子を角川のメディア(角川文庫のポスターや映画雑誌『バラエティ』)でしか露出させず、これによってファンに薬師丸への飢餓感を与え、それがピークに達したときに薬師丸主演の映画(『セーラー服と機関銃』)を公開することで膨大な興行収入を獲得することに成功した。また90年代には宇多田ヒカルが同様の手法(ビデオクリップはあるがアメリカにいるのでテレビに出ない)でファーストアルバム『First Love』が日本音楽史史上最大の売り上げを達成している。

この手法が村上の著作に対してあからさまに採られたのは2009年に発表された『IQ84』の時だった。そろそろ村上の作品が発表されるという情報はあったが、事前に作品の情報が一切公表されず、ファンたちは今か今かと待たされたのだ。そして発表されたのは上下二巻の1000ページに及ぶ大作だった(しかも,この先これがどこまで続くのかわからなかった)。当然、これにファンたちは飛びつきベストセラーを記録したのだ。まあ、上手いやり方だ。

マーケティングを可能にするコンテクスト

だったら、なんでもハングリーマーケティングをすれば,どんな作家の作品も売れるのかといえば,もちろんそんなことはない。ハングリーマーケティングを行うためには,そのコンテクスト=種まきをやっておく必要がある。村上には長年にわたるこの種まきがなされていた。

村上が文壇に登場した80年代、その作品は当時流行だった軽薄短小、サブカル、ギョーカイ的なノリで市場に展開されている(実際には、村上の作品はフィッツジェラルド、カポーティ、ヴォネガットなどを踏襲した米文学、そしてカフカの影響を受けたもので、これとはかなり乖離したものだったが)。もしこのノリで村上が売られつづけていたら、この手法は営業的には功を奏さなかっただろう。ちなみに村上自体はメディアに滅多に露出することがなかったので、このイメージのみが先行していたという時代だった。

きっかけは87年の『ノルウェイの森』だ。本書は女性が持ち歩くことを装丁した派手なデザインでベストセラーとなるが(恋愛小説でもあった)、村上のイメージを一新するのはそれではなく、これが海外で高く評価されことだった。海外評価というのは,言うまでもなく「権威」を身に纏うことを意味する。これで軽薄なイメージが一新され(クドいようだが,元々平明なタッチではあっても村上は軽薄な文章など書いていない。そして難解だ)、村上は「世界のHaruki Murakami」となった。ちなみに、こういった「世界の」という権威=コンテクストを身に纏ったのは前述した宇多田ヒカルしかり,たけし(=お笑いの「ビートたけし」から世界の映画監督「北野武=キタノ」へ)しかりだ。

だが、これはやっぱり村上作品それ自体の正当評価ということにはならない。なんのことはない、「軽薄、サブカルの村上」が「世界のMurakami」という次のイメージに置き換わっただけだからだ。しかし、このコンテクストはマーケットの規模が圧倒的に違う。だから,村上の新作を欲する消費者は飛躍的に増加する。当然出し惜しみ=ハングリーマーケティングを展開すれば購買欲がよりかき立てられる前提が整う。

「ノーベル文学賞候補」という,究極のハングリーマーケティング?

そしてノーベル賞ノミネート?だ。メディアが勝手に候補としてノミネートしてしまえば、さらに村上作品に対する期待は高まる。そして,こういったコンテクストの中で『IQ84』は発表されていたのだから、これは当然「究極のハングリーマーケティング」ということになる。ということは、もし、これが毎年繰り広げられれば,ノーベル賞の季節のたびに村上の名前が挙がり,挙げ句の果てには小学校低学年の子どもですら知っている著名人になる。で、またぞろハングリーマーケティングをやってじらせば、もっともっとベストセラーとなっていく。「世界のMurakamiは次はどんなことをするんだろう?」というわけだ。

ということは,村上がノーベル賞に毎年落選し続けるたびに,本が売れるようになるという「意図せざるハングリーマーケティング」が展開されることになるのだ。ビジネスとしては,こんなにオイシイ話はないだろう。村上は資本の側からすれば大事な大事な「商品」なのだ(まあ、その一方で消費者の側からすれば「ネタ」になっているのだけれど)。

ただし,村上作品それ自体の評価はほとんど関係がない。ビジネスはもっぱら「村上春樹=Haruki Murakami」という記号=メディアを利用して展開していくだけだ。僕個人としては、できれば作品の議論をマトモにやって、そちらをメディアで展開してもらいたいが、おそらくそういうことにはならないだろう。メディア、そしてビジネスというものは要するに収益の問題に収斂するゆえ、儲かる分にはその中身など大した問題ではないのだから。

こうやって小説を書いている当の人物=村上春樹とは全く関係ないところで,もう一人の「村上春樹」がマスメディア上、社会空間上に出現し続けていく。もちろん、こういった例は村上一人に限ったことではないけれど。

メディアというのはそういうものだ。

60代以上はお金持ち。彼/彼女たちに金を使わせろ!

日本経済がなかなかヘタレな状況から抜け出せない原因を、今回はちょっと別の側面から考えてみたい。実は日本人は結構、カネを持っている。個人金融資産の総額は世界トップレベルだ。ところが、残念なことに、これら資産はひたすらストックされて表に出てこない。つまり流通していない。それが結果として経済停滞という事態をもたらしている(活況にある中国、韓国、アジア諸国の消費活力は非常に高い。稼いだカネはせっせと使っている)。ということは、日本人が持ち金を積極的に使うようになれば、経済は復興する。

では、どうすればいいのか?それは、あたりまえの話だが高所得者にターゲットを向け、カネを落とさせればいいということになる。とりわけカネを持っているのに使っていない層を狙いにする。そしてその層こそが六十歳以上の年代だ。この層は個人金融資産の六割以上を所有している。住宅ローンなども終わっていたりするので借金も少ない。その一方で、支出は30~60歳よりも二割以上も低い(つまり可処分所得をデッドストックにしている、日本経済停滞の元凶的存在ということになる)。しかも、この層は団塊世代を含んでいるので、かなりの人口に及ぶ。

ここから金引き出すグッドな方法がある。しかも、政府が考えるような税制的な側面でこれら年代に圧力をかけ、カネを絞り出すという方法、つまり”北風理論”ではなく、自分からカネを積極的に出したくなる”太陽政策”で。それは、オタクに目をつけることだ


オタク時代の出現

オタクという言葉が初めて指摘されたのは83年。エッセイストの中森明夫がコミケで相手のことを名前や「キミ」などと呼ばず「おたく」と呼んでいたころから名付けられたのがその始まりだが、この時、オタクと名指しされた年齢が二十歳過ぎの若者だった。と言うことは、初代オタクはもはや50代に達している。そして、オタクは今や「社会的性格」、つまり日本人のほとんどが「オタク成分」を含有するようになった。少し古いデータだが2005年の野村総研が試算した時点で、オタク市場は2800億。そして、日本人がこれからもどんどんオタク成分を増やしていくと言うことを考えると、もはやオタクというのはある種の文化と言ってよいだろう。そういえば元首相の麻生太郎はマンガオタクだったし、この間自民党総裁選で党員から大量得票を獲得した石波茂はミリタリーオタク。同様に元首相だった鳩山由紀夫に至っては自らオタクであることを自負し、それを売り物にすらしていた(『オタクエリート』(ビブロス、2005年)というムックの表紙を飾っている)。そして、オタクの殿堂である秋葉原は”アキバ”と呼ばれ渋谷や銀座よりはるかに最先端でファッショナブルなプレイスとして位置づけられている。時代は、今やオタクなのである。

で、単純なことなのだが、あと数年経つとオタクは60代に達することになる。そう、いわゆるシルバー世代への到達だ。しかしオタクは若い頃だけに該当する世代的なものではもはやないので、60代になってもオタクはオタク。その成分を保持し続けるだろう。つまりマンガ、アニメ、フィギュアなどサブカルチャー、消費物に戯れ続ける。そして後続世代もすべからくオタクとなるだろうから、その頃オタク市場はとっくに一兆円を超えているはずだ。いや2012年の時点ですでに超えているかもしれないが?

とはいっても60代というのは、一般には仕事リタイヤ。余生である。つまり、オタクのまま結婚し、子供を産み、子育てを終える年齢。それでも、繰り返すようだが、「おたく」スピリットだけは現役のままだろう。

シルバー・オタク市場の出現

僕は90年代初頭に「マンガ世代は年をとってもマンガから離れることはなく、それにあわせて新たな市場が生まれるだろう」と雑誌に書いたことがある。その時、予言したのは『少年ジャンプ』『ヤングジャンプ』に続く高齢者向けマンガ雑誌『シルバージャンプ』の出現だった。だが、この予測は外れた。だが、これは実はとっくに出版されていると言ってもいい。なんのことはない。『ヤングジャンプ』の読者層がそのまま持ち上がっていくという現象が起こったからだ。それを如実に示すのが『ビッグコミック』『ビッグコミック・オリジナル』だ。ここにはオタク第一世代が親しんだマンガがいまだに連載されている。「浮浪雲」、「ゴルゴ13」,そして「課長島耕作」改め「社長島耕作」。これって、とっくに『シルバージャンプ』状態。こうなると全世代に渡るオタク市場の中に、第一世代向けオタク市場もまた登場することになる。

「オタク老人ホーム」の提案~日本経済もオタクもみんな幸せ!

こういった高齢化したオタクのために、こんなサービス業を始めたらきっと儲かるのでは思うものがある。それは「オタク老人ホーム」だ。つまり、特定のオタクに対象を特化した老人ホームを建設し、そこにオタクたちを収容するのだ。たとえば”鉄道オタク向け老人ホーム”。もうここは”鉄っちゃん”だけが入居を許される施設とする。もっとも鉄っちゃんだけでは幅が広いので、さらに分野を狭めて、たとえばNゲージ専門とかにする。

で、施設も完全にテーマパーク化し、外観内装とも鉄道で溢れた”鉄分の濃い”施設にする。館内にはNゲージのレールが所狭しと敷かれている。当然、ジオラマ部屋も用意。入居者は採用試験を実施。また、すべてのコレクションの持ち込みを許可する。

さて、こうなると世のNゲージ系鉄っちゃんたちは、老後を「余生」として老人ホームで過ごすなどとは考えなくなる。むしろ、あの老人ホームでひたすら鉄っちゃんを続けよう、鉄分を補給し続けよう、しかも同好の士ばかりで構成された場所で、と考えるようになるのだ。もう毎日がNゲージ状態。こりゃ、間違いなく楽しくてたまらないんじゃないか。ようするにオタク魂を炸裂させながら、気がつけば死んでいたというハッピーな環境を作ることが出来るのだから。

ただし、死亡の際には自らのコレクションの全てを施設に寄付する誓約書を書かせる。そうすることでこのNゲージ老人ホームは博物館=アーカイブと化し、それがますます後続の鉄っちゃんたちの人気を集める理由となる。自分のコレクションが未来永劫残るということも、その人気に拍車をかけることになるだろう。そこに、Nゲージマニアが次々と見学者として訪れるようになれば、今度は鉄ちゃんたちは、喜び勇んで彼らを迎えてレクチャーをし、最後まで社会的役割を与えられるという幸せな余生を過ごすことができるようになるだろう。そして、この管理者がやはりオタクによって担われる。こうなると、これを経営する側も施設に付加価値を与えることが出来るわけで、事業の運営としても好都合だ。なんといっても、オタクたちは自らが牴触する分野への金銭の投入には惜しみないという傾向もあるわけで。この手のオタク老人ホームを細分化させて、様々なジャンルのものを用意する。価格は高めの設定でイイ。オタクたちは、全財産を投げうって、この老人ホームに入居しようとするはずだ(鉄ちゃん同士が方針を巡ってエキサイトし、事件沙汰なんてことも副作用として、当然、出現するだろうけれど)。

こうなると、オタク老人たちはそのオタク係数をさらに上げ、次々と個人資産をこの施設にせっせと投資することになるので、カネがバンバン日本経済を流通するようになる。そして当の本人たちも、そうすればするほど楽しい日々を過ごすことが可能になる。これで日本経済も、オタクの老後も万々歳というわけだ。

文化発信の拠点に

いやいや、さらによ~く考えると、こんなことも言える。
このオタク老人ホームのアーカイブは時代とともに膨大なものとなり、まさに老人ホームが「オタクの殿堂」となっていく。で、これって究極の文化じゃないの?こうなると先ず、世界中の鉄道オタクが日本の老人ホームで余生を過ごすことを目指す。そして次に、資本はこれをビジネスチャンスと捉え、このオタク老人ホームは世界フランチャイズ化していく。ということはオタクの「老人力」を媒介として世界中にオタク文化が普及するのだ。こうなると百年後、今のヨーロッパやアメリカを凌駕する文化輸出国日本が誕生しているかもしれない。もちろん世界に誇るOTAKU Cultureとして……。

どなたか、こんな老人ホーム、そろそろ考えませんか?というわけで、今回はちょっとファンタジーにしてみました。

前回はリクルート業界の収益構造が顧客=クライアントを企業としているがために、結果として就職を希望する学生たちに、企業に阿った「提灯記事」しか提供することができず、にもかかわらず、これが学生たちのリクルートの数少ない情報源であるため、それが結果として企業と新卒者のミスマッチを起こす一因となっていることを指摘しておいた。だが、こういった「火事場泥棒」的な事業展開、実は就職学生たちのみならず、当のリクルート業者にとっても、もはや不健全なものと言わざるを得ない。言い換えれば、このやり方は収益構造としては早晩成立が難しくなる運命にあると僕は踏んでいる。

というのも、IT業界はもはやずっと先を行っているからだ。しかも新しい情報提供システムは、企業と消費者に対してフェアなシステムを提供している。つまり、リクルート業者の事業展開よりはるかに健全なのだ。これは、たとえば価格.com、TripAdvisor、Amazon、Yahoo!の映画欄などの情報提供サイトを見るとよくわかる。

価格.comを例に取ってみよう。ご存知のように、このサイトはネット上で展開している電化製品、情報機器、カメラなど様々なサイトの価格情報をとりまとめて提供している。該当商品のコーナーにはその製品番号と小さな写真が掲載され、その下に製品を取り扱っている業者が提示する価格が並べられているだけだ。商品情報についてもメーカーサイトへのリンクのみ。サイト自らが特定の商品を売り込んだり、価値付けをしたりという行為を一切行っていない。代わりに統計に基づいた注目度、満足度、価格のランキング、そして商品購入者の口コミやレビューが並べられている。いいかえれば、評価は”集合知”に委ね、価格.comというサイトそれ自体は情報を提供する「透明な存在」に徹している。

収益構造も情報の川上から川下、つまりメーカー→販売業者→消費者までフェアなものになっている。その収益のメインはクリック課金と広告収入だからだ。前者はブラウズしたユーザーがリンクを張られた該当ページにクリックする度に業者に課金するシステム。後者は該当する商品のコーナーに自動的に広告が張られるものだが(Googleのアドワーズやアドセンスと同じ)、広告に関しても、こういったランキングとは別枠で表示されている。こういった「透明な存在」に徹し、評価は「集合知」に委ねることで情報の適切な流れを作りだしているのだ。ここではJ.スロウィッキーのいう「みんなの意見は案外正しい」が機能している。つまりこうやって集合知で評価がなされることで、ユーザー側は自らの嗜好に応じた良質な製品・サービスを選択可能になるし、一方、企業や業者の方も、これに合わせるかたちで商品開発、価格の設定を行えるようになる。

リクルート業者も、同様のシステムを採用すべきだろう。職種や業種別に企業情報を提供し、詳細な情報については各社が運営するサイトにリンクを張り、企業の評価についてはユーザー(OBや就活学生など)に委ねる(もちろん、サクラの書き込みもあるので、これらについてのスクリーニングするシステムの開発が必要だが)。そうすることで情報の透明化が図られ、学生にとって有益な情報も不利な情報も統計的レベルで明らかになる。ブラック企業などは、あっと言う間に指摘されるようになってしまうのではなかろうか(ちなみに、現状でも企業の本当のところについては、2ちゃんねるのスレやブラック企業についてまとめられているサイトで閲覧することはできるが、合理化、システム化されているわけではないので実質的な効果は薄い。また、こちらはこちらで、ただの誹謗中傷になってしまっている側面もある)。

これ以外にも、最近では企業がSNSを利用し、直接学生と関わるという方法もはじめられている。Facebookページの利用などがそれで、企業サイトと学生がページを通じてマッチングを行うというシチュエーションも作られつつあるのだ(もっとも就職協定のすり抜けの道具、つまり「内定の前倒し」に使われてしまう恐れもあるが)。

いずれ、こういった就活支援システムが登場するだろう。その時には、現在のリクルート業者は何らかの収益構造転換を図ることを余儀なくされるはずだ。いや、こういったやり方に真っ先に手をつけるべき存在がリクルート業者なのかもしれないが。

新卒学生の3年以内の離職率が四割近くに達していることが報告されたのは二年前。だが、現状においてもその状況は改善されていない。この原因については雇用情勢の不安定化、つまり受け入れ側が新卒社員を抱えきれないという脆弱性を備えていることや、新卒社員が豊かな環境で育ったために忍耐力がないことなどがあげられてきた。まあ、いずれもそれなりにその指摘は当てはまるのかもしれない。だが、これらとはちょっと別の側面から原因の一因を考えてみたい。それは就職活動を仲介するするリクルート業者(”リクルート””マイナビ”など)の存在だ。実は、かなり罪作りな存在ではないかと僕は考えている。では、これら業者はどんな罪を学生たち、そして日本社会に対して犯しているのだろう。実は、僕はこの手の業者でかつてライターとして仕事をしていた。それゆえ、今回は自戒の念をこめて考えてみたい。

就職仲介システムの合理化

リクルート業者の役割は就活において企業と学生の橋渡し役をすることにある。大学3年の後半ともなると学生たちは就活講座に出席し、そこでリクナビ、マイナビなどの就活サイトの利用方法についてのレクチャーを受ける。これらサイトを閲覧することで、学生は企業情報の詳細を閲覧収集可能となっているばかりでなく、就職のためのエントリーシート、そして就職面接対策などの周辺情報、さらには内定を受けた学生のための就職準備サイトまで用意されている。まさに至れり尽くせりといった感じなのだけれど。こうして学生たちは就活のためにインターネットに首っ引きという状態になっていく(実際、就職活動時期になって就職の必要に駆られて初めてパソコンやネットを本格的にいじるようになるといった学生は、信じられないかもしれないが、かなり多いのだ)。

リクルート業者はその活動の舞台をネットに移す以前(つまり僕がこの業界で仕事をやっていた90年代以前)、企業情報を紙媒体に印刷、つまり冊子で就活に該当する学生たちに配布していた。その中には履歴書やエントリーのためのはがきもバンドルされていた(おかげで学生たちは下宿に、ある日電話帳を数冊束ねたような数キロもある小包を受け取ることになったのだけれど)。 ネットの出現はこんな古典的なやり方を一掃し、膨大な就職情報を迅速かつ軽快に入手することを可能にした。合理化という点では長足の進歩を遂げたのだ。

旧態依然とした収益構造

だが、その一方で収益構造は全く変わっていない。リクルート業者の役割は前述したように企業と就活学生の媒介的な役割だが、その収益構造ゆえ、結局のところ「企業=クライアント重視の事業展開」を行っている点については変わりがない。

リクルート業者は企業=クライアントに対して、その企業の紹介を学生側に仲介することを提案する。契約が成立すれば、企業の広報から情報提供(事業の概要であるとか、社員のインタビューなど)を受け、これをリクルート業者が用意したライターと編集者が記事を作成し「就職ガイド」として学生に配布する。そして、こういった情報仲介をすることで企業から掲載料を徴収。これがリクルート業者側の取り分となる。

だが、あくまでも顧客=クライアントは企業。要するにリクルート業者は学生をダシにして企業から金を巻き上げているわけで、そこで展開される企業情報は必然的に企業=クライアントに阿った「提灯記事」とならざるを得ない。つまり絶対に企業に都合の悪いことを掲載することができない仕組みになっている。

情報に振り回される学生たち~リクルート業者は火事場泥棒?

当然ながら、これが就活学生たちの情報検索に困難を与えることになる。真に優良な企業であろうとブラック企業であろうと、同じような”美辞麗句”で飾られた記事=情報が羅列されるからだ。たとえば、コンテンツの中には「企業評論」と銘を打ち、しかもその記事のおしまいには「記者の目」といったコラムまで設けて、あたかも客観報道のような体裁を装うものもあるが、その実、曖昧模糊としてつかみどころのない情報となる。しかしながら学生たちにしてみればそれでも入手可能な唯一の情報源なので、結局これに頼らざるを得ない。

こういった買い手市場(買い手=企業、売り手=学生)的な立ち位置に基づいた情報が展開される中で、結局、学生たちは情報に振り回され、全くわけがわからず職に就く、あるいは職に就けない、あるいは職に就いたけれどもマッチしなかったという状況に陥っていく。新卒社員の四割近くが3年以内に離職する原因の一因として、こういった「リクルート業者が現状の収益構造で事業を展開するがゆえに、学生たちを混乱に陥れる」といった側面がないとはいえないだろう。言い換えれば、リクルート業者が行っている情報仲介の事業は「火事場泥棒」「ハイエナ」的な不健全なやり方といえないこともない。

実はリクルート業者も墓穴を掘っている?

こうやって若者を窮地に追いやっているリクルート業者の収益構造。だが、インターネット時代の「情報選択の多様化」、つまり「容易に広範囲な検索が可能で、そこから個人のニーズにあった情報を適切に取り出すことが可能となるインフラ整備の進行」といった情報化社会の進展からすれば、この構造はきわめて古いものではないだろうか。というのも事業展開の戦術的側面=事業の電子化こそ情報化最先端だが、その一方で戦略的側面=収益システムは旧態依然としたままなのだからだ。むしろ(というか、あたりまえだが)、こういった社会の流れの中で望まれるのは、真にベストな就活学生と企業のマッチングであり、それを仲介するのがリクルート業者の使命だろう。

リクルート業者がこういった企業=クライアント重視の収益構造を今後も続けていけば、その将来は暗い。学生たちを混乱に陥れ続けるだけでなく、いずれ業者自体が情報化の波の中にのまれてしまう可能性が高い。でも、なぜ?また、そうであるとするならばリクルート業者は今後どうあるべきなのだろうか?

後半ではこれらについてメディア論的側面から考えてみたい(続く)

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