勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2012年10月

キャンパスからアルコールが追放された

ここ数年、大学キャンパスはどんどんアルコールフリー、つまり飲酒を閉め出すようになっている。はじめは学内禁酒、そしてやがて学祭での禁酒がもはやほとんど大学で実施されるようになった。早稲田、明治ははもちろん、今年からは一橋、法政も飲酒禁止に踏み切る。僕は法政出身。大学時代学祭と言えば、とにかく一日中どんちゃん騒ぎ。応援団が寅箱を用意し、介護するなんてシステムまであった。しかし、祭に酒はつきもの。ましていわんやバカをやるのが大学生。それがなぜこんなことになっちゃったんだろう?今回はこれについて考えてみたい。

キャンパス内禁酒の歴史、実は浅い!

実は大学内や学祭でのアルコールフリーが一般化したのはそんなに古い話ではない。2000年前後は、学祭では飲酒というのはまだあたりまえだった。これが突然、あっちこっちで飲酒禁止、アルコールフリーキャンパスとなるのは2006年、福岡で会社員が飲酒運転して中道大橋で手前のワゴンに追突し、これが博多湾に転落して、乗車していた子ども三人が死亡するという事故が起きてから。この事件はメディアで大々的に報道され、学祭どころか一般の祭でも振る舞い酒を中止するという禁酒モードにまで至った。まずこのあたりが引き金だろう。

ただし、引き金が引かれるからには、その前に弾がこめられていなければならない。つまり大学からアルコールを閉め出すという文脈が形成されている必要がある。で、この文脈には様々な要素が含まれていた。これを様々な側面から考えてみよう。

ノミニケーションはもはやコミュニケーションの一部分でしかない

先ず学生を巡る事情。学生たちが集団で飲酒すること、いや飲酒することそれ自体がかなり減少している。コンパを開いても、その内のかなりのメンバーがソフトドリンクだ。以前だと大学入学とともに部活やサークルのコンパに連れて行かれ、飲めもしない酒をあおらされ(今ならアルハラということになりそうだが)、そんなことを繰り返すうちにだんだん酒の飲み方を覚えていったのだけれど、こういったコミュニケーションそれ自体が減少している。飲酒=ノミニケーションはあまたあるコミニュケーションの一つに成り下がったのだ。だから、酒のたしなみ方というのが身についていない。そんな連中が学祭で盛り上がるとコントロールが効かない飲み方になってしまう。それが急性アルコール中毒で死亡という事件を引き起こす。そしてそれが社会問題化するというわけだ。

大学側の責任回避

もう一つは大学側の事情。今や学校は様々な苦情を抱える機関となった。とにかく親からのクレームはすさまじい。自分の息子娘に何かあろうものなら、即座に学校にクレームがつけられる(今や、指導と称して教員が生徒に手をかけるということは不可能。やろうものなら“暴行”として逮捕される可能性すらある)。これは大学も例外では無い。もし、キャンパス内で飲酒し、それが原因で学生が死亡するようなことがあれば、即座に大学の管理不行き届きとして責任を追及されることになるだろう。
こうなると、当然大学側は防衛に入る。責任問題を押しつけられないよう、問題の種となる可能性を未然に防ごうと考える。その結果が学祭を含めたキャンパス内からのアルコールフリーという流れだった。

だが、この展開、ちょっとおかしくはないだろうか?というのも、これじゃあただの問題の先送りだ。単に大学側が責任回避しただけ。アルコールによるトラブルがただキャンパスで発生しなくなるだけで、彼/彼女たちがみんなでやる個人的な飲み会(飲み屋での飲みや仲間のウチでやる宅飲み)でトラブルが発生する可能性がある。ようするに「臭いものに蓋」をしただけなのだ。

飲酒という行為もアクティブラーニングとして捉えることもできる

慶応や中大、東京外大が面白い試みをしていると毎日新聞が伝えていた。慶応は酒類販売のチケット制、中大は飲酒場所の限定。そして東京外大は年齢確認をして、二十歳に達している学生には「アルコールパスポート」配布しているとか。でも、まあ消極的というか対処療法的という感じがしないでもない。このパターンだと、早晩これらの大学の学祭からもアルコールは消えていくんじゃなかろうか?

しかし、アルコールを介したコミュニケーションはいずれ彼/彼女たちがどこかで経験することになること。とりわけ社会に出て行ったならば、こういった機会は避けられない。だったら、酒の飲み方を教えることも大学の「キャリア教育」の一つと捉えることもできる。そう、大学側は責任を回避することだけを考えているだけでなく、飲酒を積極的な教育の機会として利用するべき。僕ら大学教員にとっては自分の首を絞めるようなものだが、大学進学率が五割を超えている現在、大学はこんなことまでやるような時代になったと考えるべきだ。大学生たちは、今や自分を「学生」ではなく「生徒」と呼ぶ。ということは、大学にやってくる若者たちには「生徒指導」が欠かせない。まあ、情けない話だが。

で、どうだろう。学校側が一方的に禁止したり、制限をかけたりするだげじゃなくて、学生たちがどうやったら、楽しく、安全に飲酒出来るかを考えさせるような機会を作ってみたら?たとえば学祭でアルコールコントロールをするような仕組みを考えさせる。これって、どうやってみんなを安全に楽しませることができるかを考えさせる企画としては実に面白いことなんではなかろうか。そして格好のキャリア教育になるんじゃないだろうか?

大学も、もうちょっと視点を変えて考えるべきだろう。

体制改革のキーパーソン、トリックスター

体制が混迷するとき、これを一挙に打破するような存在が必ずと言っていいほど現れる。人類学的には「トリックスター」と呼ばれるが、これは越境者と理解すればいいだろう。構造化・硬直化した体制において、最も元凶になっているのはこういった体制を既存のパラダイムでしか捉えることのできない連中。彼/彼女たちは保身のためにこれにすがり続けるがゆえに、それが結果としてさらに状況を悪化させていく。そんなとき外部世界からトリックスターがやってきて新しい構造を暴力的に挿入する。それが結果として構造それ自体を根本的に変革していくことになる。これはかつて日産がどうにもならなくなったとき、フランスからブラジル系の男、カルロス・ゴーンがやってきてV字回復を果たしたこと、官製談合の連続で保守王国の構造にうんざりしていた宮崎にタレント・東国原英夫が就任して宮崎を活性化したことを振り返ってみるとよくわかるだろう。

ただし、こういったトリックスターは既存の構造にすがっている保身の側から見ると「空気の読めない愚か者」に見える。というのも、彼/彼女たちにとっては自らの立場こそ正道と考えているので、当然、外部の発想など邪道であるとしか思えないからだ。その立場=正道がとっくに腐敗していることなど顧みることもなく。

しかし、トリックスターは「賢い愚か者」だ。体制からすれば「愚か者」に見えるところこそが結果としてパフォーマンスに秀でた存在として彼/彼女たちを際立たせることになる。そして、その「愚かさ」こそ、旧体制では見えなかった構造を改革、進化させる原動力となる。

政治手腕=行政手腕という図式の誤り

政治家としての資質を問われる際に指摘されるのは、あたりまえだが「政治的手腕」だ。だが、この「政治的手腕」、しばしば単に「行政手腕」に置き換えられて語られてきたのではないか。たとえば六十八年、青島幸男が参議院選挙に立候補した際、青島は「タレント候補」と揶揄された。青島はパフォーマンス能力にこそ優れるが行政手腕などないと、いわば「人寄せパンダ」的な評価を受けていた(後に青島が都知事に就任した際、残念ながらそのことが露呈されてしまったが。ちなみに「人寄せパンダ」という言葉が生まれたのは青島当選数年後。また、この時、 青島本人は無所属で出馬している)。その後も一連のタレント候補と呼ばれる人間たちは、もっぱらパフォーマンス能力のみが指摘されてきたという印象が強い。これは宮崎県知事を務めた東国原英夫、千葉県知事の森田健作、大阪市長の(前府知事)の橋下徹も同様だ。いいかえれば「行政手腕こそが政治家の資質、パフォーマンス能力はオマケ、あるいは無能な行政手腕能力の隠れ蓑」的な扱い。「餅は餅屋」、つまり政治=行政的側面はそちらのプロパーに任せろという偏見だ。

しかし、これはやはりおかしいだろう。そのことは歴代宰相で社会に大きなインパクトを与えた人物を並べてみるとわかりやすい。吉田茂、池田勇人、田中角栄、小泉純一郎といった人物たちは卓越したパフォーマンス能力を有していた(地味なかたちで社会的にインパクトが大きかったのは佐藤栄作くらいではなかったか?)。そして、こういったパフォーマンス能力はメディアが政局により大きな影響力を与えるようになった21世紀には、ますます重要なものとなっている。だからこそ東国原(タレント)、森田(タレント)、橋下(弁護士+タレント)といった政治畑以外からやって来たトリックスターたちの活躍の場が生じたのだ。

パフォーマンス能力こそ政治手腕の必要条件だ!

僕らは政治家たちの資質についてのパラダイムシフトをすべき時に来ているのではないか。つまり、これまでの「行政手腕=必要条件(あるいは政治手腕の全て)、パフォーマンス能力=十分条件(あるいはオマケ)という見方をあらため、パフォーマンス能力こそ政治手腕の必要条件であって、行政手腕は十分条件になると。

あたりまえの話だが政治家は有権者=オーディエンスにビジョンを提示しなければならない。ビジョンとは「未来図」、それゆえビジョンの提示とは未来についての絵を有権者にイメージさせ、そのその想定された未来図に向かって有権者のモチベーションを高めて結集させるものでなければならない。そのためにはパフォーマンスやコピー能力を駆使してビジョンを魅力的かつ平明に示す必要がある。まずは議題設定を行わなければ、具体的な細かい話に届くことは難しいからだ。池田勇人は「所得倍増計画」、田中角栄は「日本列島改造」、小泉純一郎は「郵政民営化」、東国原英夫は「みやざきをどげんかせんといかん!」というキャッチフレーズで有権者にビジョンを示した。なおかつ、その方向性がブレることはなかった。そうすることで有権者にも方向性を示すことが可能となり、そこから改革の引き金となるエネルギーを引き出すことに成功したのだ。

一方、ここ数年の首相を見てみよう。安倍、福田、麻生、鳩山、菅、そして野田……ひょっとしたらこれらの人物には行政手腕があったかもしれない。しかし、こういったパフォーマンス能力が根本的に欠けていたことは否めない(麻生、鳩山などはそれなりのパフォーマンスこそ示したが、センスゼロ、そしてブレまくりで国民に未来像をイメージさせることはまったくといっていいほどできなかった)。そう、こうやって考えてみると、実はパフォーマンス能力こそ政治手腕の必要条件と考えられる。つまり、まずは「人をその気にさせる」力こそが必要なのだ。

「政治は芸能と似ている」

宮崎県知事時代、東国原はそうコメントしたことがあるが、名言だろう。そう、よくよく考えてみれば政治とは「まつりごと」、つまり本居宣長が『古事記伝』で指摘していたように祭事(まつりごと)=政事(まつりごと)なのだ(丸山真男は否定しているが)。これは前者=パフォーマンス能力、後者=行政手腕と置き換えられる。となれば、東国原のこのことばは、要するに政治家には政治手腕として芸能的なパフォーマンス能力=大衆に御輿を担がせる能力が必要不可欠であることを意味する。ということは、現在、維新の会を設立して強烈なパフォーマンスを展開しいる橋下徹は、「船中八策」を掲げ、「独裁」を標榜し、これに多くの反発をかき立てる(”ハシズム”という橋下批判側のバッシングはむしろ橋下の追い風となった)ことで、自らのヴィジョンを示すことに成功し、一方の旧体制の自民・民主の体たらく=ビジョン無しを青天白日の下に晒しているわけで、政治手腕としての必要条件は十分ということになる。つまり、橋下は「弁護士」でも「タレント」でもなく「政治家」なのだ。

もちろん十分条件が揃って政治手腕はコンプリートするのだが~橋下の場合はどうか

政治手腕とはパフォーマンス能力+行政手腕によって成立すること。そして必要条件がむしろ前者で十分条件が後者。つまり、はじめにパフォーマンス能力ありきと考えた方が政治のダイナミズムを理解しやすいことを、ここまで確認してきた。 政治におけるメディア性を軽視しては絶対にいけないのである。

だが、政治的手腕が二つの条件が揃うことで初めて成立することは、やはり言うまでもない。もし、前者だけであるのならば、結局のところそれは「デマゴーク」という烙印を押されるのがオチだ。期待された分、ダメだったときにはかえってその落差が激しく、反動が起こってしまうからだ。(ちなみに、これははじめからパフォーマンス能力のない政治家には絶対に押されない烙印でもある。なんのことはない、彼/彼女たちはダメだった場合、ただの”無能”と評価されるだけだからだ)。

たとえば、前述した東国原は、その卓越したパフォーマンス能力で宮崎県民の圧倒的な支持を獲得し、就任直後60%台だった支持率を、最高時には90%にまで押し上げ、任期終了間近でも80%程度の支持率を維持した(いずれも宮崎日日新聞調べ)。つまり東国原もまた「お笑いタレント」ではなく、類い希なる必要条件を備えた「政治家」だったのだ。だが、東国原は一期で知事の座を退いているゆえ、その行政的な手腕が未知数のままであることを否めない。そして、これは大阪市長のまま国政に打って出ていこうとする現在の橋下にも該当する。まだ、橋下も未知数、本当の意味で行政手腕が評価されているわけではないからだ。

僕らは、必要条件についてはすでに最高点を獲得している橋下に大いなる期待をかけている。そして、その期待とは、要するに橋下が十分条件=行政手腕を満たし、これをコンプリートすることを指している。ただし、その道は容易なものではないだろう。もちろん、それは橋下が政治畑からやって来たのではないからではなく、政治畑、行政畑出身の政治家と同じようにという意味で。よくよく考えてみれば、今回の特集で取り上げたパフォーマンス性に長けた政治家たちが成功したかと言えば、かならずしもそうでもないのだ。たとえば小泉が格差社会を構築してしまったのは周知のこと(にもかかわらず、なぜか小泉待望論、さらには小泉フィクサー論が展開されるのは、このパフォーマンスな魅力にメディアやオーディエンスがいまだに魅了されているからに他ならない。本人が絶対に出てこないのは、このへんのことを実は自分ではよく知っているからなのかもしれない?)。田中角栄も同様に列島改造をぶち上げて結果としては土建屋を儲けさせただけだった。だから繰り返すが、二つの条件を併せ持つことこそが、やっぱり政治的手腕なのだ。そういった意味では、僕らはこれからの橋下の動向をじっくりと見極める必要がある。そのパフォーマンス能力と行政手腕を峻別し、また、それをどう融合しているかを見抜く力が要求されるというわけだ。

さて、話をちょっと変えよう。実はここまで展開した議論は、何も政治だけに限られることではない。実は、組織やシステムを構築する際にも二つの要素、とりわけパフォーマンスな側面は欠かせないものでもある。加えて言えば構築の際、必ずしも一人の人間が持ち得ている必要もないことも事実だ。そこで次回は「政治的手腕=イコール組織形成手腕」とみなして、組織におけるパフォーマンス性=メディア性の重要性について考えてみたい。(続く)




週刊朝日が佐野眞一の記事「ハシシタ奴の本性」が物議を醸している。橋下徹大阪市長(以下「橋下」)の出自について言及が、あからさまな人権無視、差別的なものであったことに橋下当人が怒り、出資会社の朝日新聞の記者会見を受けないとまで宣言。これがメディアに大きく取り上げられたことについては、すでに、よくご存知だろう。

被害者と加害者を入れ替えて考えてみよう

さて、今回の騒動、メディア論的にちょっとひねって、つまり視点を変えて考え直してみたい。週刊朝日のやったことは明らかに×、タダのアホな行為であることを僕は全く否定しない。だが、あえてここで被害者と加害者の立場を入れ替えて考えてみたい。つまり加害者=橋下徹、週刊朝日=被害者という図式。というのも、こうやってみてみると、実は橋下という人間が「メディアの魔術師」であること、つまりいかにメディアを操るのに長けているのかが見えてくるからだ。

ネガティブからポジティブへ

メディアの手法のひとつとして、よく使われるのが「知名度・認知度を利用する」というもの。たとえば二世の芸能人は親が有名人で顔つきが似ていることもあるゆえ、メディアに登場する際にはアドバンテージが与えられている。これは、それがどんなものであっても知名度・認知度さえあれば利用できるということを意味している。

東国原の「負を正にかえる」戦略~東国原劇場

2006年末、宮崎県知事選でそのまんま東が選挙に出馬した際、東は自らの選挙演説の冒頭で「私、1998年に不祥事を起こさせていただきましたそのまんま東でございます」とやって、有権者の関心を惹きつけることに成功した。その頃、東は通称「イメクラ事件」と呼ばれる不祥事で芸能界からホサれるかたちになり、テレビから姿を消していた。地元宮崎でも「宮崎の恥」と呼ばれ、出馬することについてきわめて批判的なムードが漂っていた。だが街頭演説ではこうやっていきなり自分のネガティブなイメージを自分から発言してしまうことで笑いを取ると同時に、有権者の魅力を惹きつけることに成功している。つまり、相手のこちらに対するネガティブなイメージをこちらから先に言ってしまい、謝ってしまうことで、ネガティブなイメージを利用して自らをポジティブ=誠実で面白みのある人間に見せることに成功したのだ。

当選後、東は東国原英夫として県知事に就任した後にも同じことをやっている。就任直後、宮崎県清武町(現宮崎市)で鶏インフルエンザが発生。宮崎鶏はイメージ的に壊滅と思われたが、東国原はネガティブなかたちで宮崎鶏が認知されたことを逆手にとって大々的な宮崎鶏のキャンペーンを展開する。「みやざきの鶏は安心、おいしい、しかもヘルシー!」とキャッチコピーを繰り返しながら、トップセールスマンとして自らが宮崎鶏を食べるシーンをメディアに露出し続けたのだ。その結果、宮崎鶏はバカ売れし、「鶏はみやざき」というイメージを全国的に定着させることに成功する。つまり、ネガティブなかたちで広がったイメージを逆利用してしまったのである。これはまさに「東国原劇場」だった。

騒ぎを大きくした本人は橋下自身

今回の橋下の出自を巡る週刊朝日騒動も、これと全く同じ図式が当てはまる。よくよく考えてみても欲しい。あの記事がそんなに騒ぐことなんだろうか?橋下の出自が、いわば「血が汚れている」みたいな文脈で展開されているのだけれど、おそらくそのまま放っておいても大したことにはならなかったと僕は考える。もともと差別的なニュアンスが強すぎて他のメディアが取り上げるのが厳しいネタ。だから、テレビも他のメディアもおそらくビビってスルーしたに違いない。ところが、これが大騒ぎになった。なぜ?……なんのことはない、当の橋下がこれに怒り心頭に達したことを記者会見し、メディアイベントとして話題を盛り上げてしまったからだ。これで、盛り上がった。そう、事をデカくした張本人は橋下その人だったのだ。

橋下劇場=スペクタクルの展開

だが、こうなってしまうと、もう橋下の思うツボ。週刊朝日=悪役、橋下=正義の味方というベタな図式の下、やりたい放題が始まる。橋下は「次回の記載内容を見ていきたい」と発言をした。ビビった当の週刊朝日の方は、次号の巻頭で謝罪、連載を中止するとともにチェック機能を徹底検証すると宣言。事実上、「全面降伏」する。

ところがこの発言はギミックだった。橋下は、今度はこれに噛みつく。紙面で謝罪するなどマナーや社会性のない鬼畜集団だ!ときたのだ。しかも、こうやって雑誌に謝罪文を掲載することで売り上げを伸ばすような阿漕なことまでやっている。許せない!と糾弾はエスカレート。そして、朝日新聞の記者会見は再会するが、週刊朝日の対応は非常識で許せるものではないという文脈の論調を展開した。その結果、この騒ぎ=「橋下劇場」はさらに盛り上がりをみせていったのだった。

しかし、この論法はちょっとおかしい。一般的には、騒動は週刊朝日のやり方で一件落着となる。誌面での誤りは誌面で謝罪というのがメディアの一般的なやり方だからだ。でも、誰もそれに気づいていない。なぜ?それは橋下の秀逸なパフォーマンスにわれわれが完全に幻惑されてしまったからに他ならない。

勧善懲悪劇場のクライマックスは、まだこれから?

おそらく、この橋下劇場はまだ終わらないだろう。次には週刊朝日の編集長がメディアの前に引きずり出されるなんてところにまで話が進む可能性がある。しかも、橋下はそれを狙っているようにしか、僕には思えない。

これは「メディアの魔術師=メディア使い」である橋下の見事のメディア戦略だ。自民党、民主党総裁選の絡みの中で、ここのところ維新の会の支持率は急降下している。だからなんとしても、ここで起死回生の一発を撃つ必要がある。そのためにはメディアに橋下が露出し、さながら正義の味方=ジェダイの騎士のようなカッコイイ活躍をする必要がある。で、そういったパフォーマンスが展開出来るのであるのならば悪役=ダースベイダーは誰でも構わない。そして、狙い撃ちされたのが週刊朝日だったのだ。

われわれは「勧善懲悪もの」が大好きだ。正義の味方が悪をくじく姿を是非とも見物したい。この要望を察知している橋下は無理矢理、週刊朝日という悪役を作りだし、それを叩きはじめた。で、叩けば叩くほどわれわれ=オーディエンスはカタルシスを感じる。だから誌面で謝罪をさせ、次にはこの謝罪のやり方を叩き、さらにダースベイダー=週刊朝日の編集長その人を引っ張り出して、ジェダイの騎士=橋下による成敗(あるいは「公開処刑」)のスペクタクルを期待する。そして、こういう劇場が展開している間、人々は激情=熱狂しつづけ、そういったカタルシスを感じさせてくれる橋下にワクワクするのだ。また、メディアもこの熱狂が視聴率と発行部数に直結することを動物的カンで知っている。だから、延々と報道をし続ける。そうすることで橋下と維新の会の支持率は上がっていくのである。

リアルはファンタジーではない!

こんなふうに今回の騒動の立ち位置、つまり被害者と加害者を入れ替えてみると、橋下という人間のメディアを操作する技術がいかに長けているのかがよくわかるのではなかろうか。これは、ある意味「賞賛」に値する。大衆=オーディエンスはこうやってしばしば煽動されてしまうことを、橋下はよく知っているのだ(橋下は地方遊説で「僕はハシシタではありません」とこの騒動を自ら煽り続けている)。

ただし、これがやっぱり、かなりアブないことであることを僕らは理解しなければならないだろう。僕らは、これが橋下が展開するギミックであることを見抜くほどのリテラシーを持つ必要がある。橋下は被害者面をして、見事にわれわれをハメているのだから。

今回の橋下のギミックのポイントは一つ。”紙面謝罪をさらに非常識と非難したこと”。これ、実はあたりまえで非常識でも何でもないのだ。でも、大衆=オーディエンス(そしてメディア)は橋下の自信たっぷりのパフォーマンスにうつつを抜かして、このギミックに相づちを打ってしまっている。だから、われわれとしてはこれに煽られないこと。そして、橋下がこれ以上週刊朝日を叩くようなことを続けるのであるのならば「この男は胡散臭い」ととりあわないことだろう。そういった意味では、橋下という人物は僕らのメディアリテラシーを涵養するためには是非とも必要な存在。いわば「必要悪」なのである。僕らは橋下を乗り越えなければいけない。

それにしても橋下徹という男のメディア戦略は、やっぱりスゴイ。オーディエンスとメディアを丸ごとギミックにかけてしまうのだから、見事なものだ。やれやれ……

(追記)ちなみに「鬼畜集団発言謝罪」についても全く同様だ。今度はこっちが先に謝り機先を制すると同時に「素直さ」をアピールして好感度を得ようとしているということになる。そう、つまり、全ては「支持率アップ」に集約されていると見ると、戦略的には実にわかりやすい。

※「メディアの魔術師」「劇場」「東国原劇場」については拙著『劇場型社会の構造~お祭り党という視点』(青弓社、2009)を参照していただければ幸いです(宣伝ね!)

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滞在型ビーチリゾート、その時間のつぶし方

バリ、ペナン、プーケット、セブ……アジアのビーチリゾートには実に多くの欧州旅行者たちが訪れる。彼/彼女たちのリゾートでの基本は「何もしない」というスタイル。日本人のように、短期滞在でいろんなアトラクションに興じるのではなく、長期でとにかく日がな一日ビーチやプールサイドでのんびりするという毎日を過ごしているのだ。

もちろん、まったく何にもやっていないわけではない。彼/彼女たちはビーチチェアにもたれながら、いろんなことをやっている。新聞購読、読書、ゲーム、おしゃべり。もちろん傍らにはドリンクが。読書なら、先ずペーパーバック。ゲームならクロスワードパズル、Sudoku、ナンクロといったところ。そして耳にはイヤフォン(もちろん,その先にはiPodが)。

iPadの出現

ところが、この数年、様子がガラッと変わった。新聞も本もゲームもiPodも、そしておしゃべりさえもが減ってきたのだ。そしてその代わりとして出現したのがiPadだった。

ビーチサイド&iPadの組み合わせを初めて目撃したのは2010年の夏、タイのチャーン島でのことだった。まだリリースされて数ヶ月しかたっていないこの時期。僕も発売と同時に購入したので、リゾートに持ち込むのは僕ぐらいなのでは(だから、ちょっと自慢出来るともくろんでいた(笑))と思っていたら、さにあらず。結構な数の宿泊客が持ち込んでいたのである。

「なんで、こんなに持ってるの?」

でも,よく考えてみれば,これはあたりまえだ。新聞も、読書も,ゲームも,音楽も全てこれ一つで済ますことができるんだから。いや、それだけじゃあ、ない。この頃からビーチリゾートは部屋だけでなくプールやビーチサイドにもWi-Fi環境が整うようになり始めたので,インターネットをブラウズし、メールを書くこともできる。ビーチやプールサイドでのんびりする欧州人はほぼ一日中そこにいるのだけれど、iPadはバッテリーの持ちもよいので長々と使える(一日中,ビーチやプールサイドにいたとしてもせいぜい7~8時間なので)。

そして今年夏、やはりタイのホアヒンのビーチでのこと。状況はさらに加速していた。iPad、iPad、iPad……ビーチ&プールサイドにはiPadがたくさん。これはiPad自体の普及、そしてホテルのWi-Fi環境がさらに充実(ほとんどのホテルに設置。しかも今やWi-Fi使用料タダというところの方が多いくらいになっている)したことが影響しているだろう。iPadとかぶったメディアはさらにその数を減らしていた。

ビーチリゾートでは、まさにiPadという「第三のカテゴリー」が威力を発揮する

かつてS.ジョブズがiPad発表時にiPadをパソコンでもスマートフォンでもない第三のカテゴリーであると指摘し、さらにこういった新しいカテゴリーが成立するためには主要なタスクがこれらよりずっと優れたものにしなければならなかったと述べた。ビーチ&プールサイドでのiPad利用はこの主張を見事に反映している。パソコンだったらが重くてバッテリーが持たないし、スマートフォンだったら小さすぎて、一度に多くの文字を読みづらいし、細かい作業ができない。これらが全て解決されているのがiPadで、だからこそ1日のんびり派のリゾート客たちはiPadをチョイスしたのだ。そしてこれまでビーチ&プールサイドでやっていたことが、これだけでやっている(意外なことにKindleを見ることは少ない。Kindleは読書専門なので外のデバイスも持ち込まなければならないからなのだろう)。

あなたが欧米型の「のんびり型リゾート」派だったら、リゾートにiPadをお忘れなく。

大学が苦肉の策ではじめた?“キャリア教育”

四十代以上のみなさんにお伺いしたい。現在、大学では一様に「キャリア教育」という科目が設置されているのだけれど、これって何を教育するのかご存知だろうか?

と、ちょっと上から目線の失礼な書き出しではじめてしまったが、これは十年ほど前からはじめられ,現在ではかなり多くの大学が「必修レベル」で実施しているものだ。キャリア教育とは,表向きには「社会人としてのキャリアを在学中に学ばせる教育」なのだが、実質的には「就職指導」と言った方が当を得ている。大学の増設、少子化で今や大学は供給過多。だから,あれこれと学生向けのサービスをやっているのだけれど、これはそのうち「出口」のサービス、つまり環境のよい職場に就職させようとするプログラムだ。現在では就職出来ない学生が山ほどいる(全体の三分の一程度が就職浪人になる)時代なので、こういった教育、というかサービスが学生を集めるのには、つまり集客には必要不可欠とみなされているのだ。

キャリア教育で行われているのは自己診断、自分の見つけ方、コミュニケーションの取り方、果ては 就活の仕方、 就活での作法まで、まあ、いろいろとやられているのだけれど、この授業を受けている学生たちにはきわめて評判が悪い。彼/彼女たちが一様に口にするのは「これのどこが就職に役に立つの?」というもの。ようするに、こういったものは「絵に描いた餅」、話を聞いただけではどうにもならないことを彼/彼女たちもよく知っているわけだ(学生をバカにしてはいけない)。これには僕も全く同感だ。

キャリア教育は「絵に描いた餅」なので食べられない,味わえない

キャリア教育は「文章の書き方」「統計のやり方」みたいな授業とよく似ている。前者だったら「書き方の形式」と「て・に・を・は」、そして「ワープロの使い方」が、後者の場合には「統計ソフトの使い方」が指導されるというのがもっぱら。しかし、これらは掲げられたテーマが目指すスキルの”形式”的な側面でしかない。これは、たとえばいくらWordの使い方を覚えたところで文章を書けるようにはならないということを考えてみればよくわかる(統計ソフトが使えても、調べることの意味がわからなければ全くムダ)。せいぜい、人が書いた文章を形式に流し込むことができるだけ。つまり文章の書き方を学ぶと言うことは文の”内容”の書き方を教えることなのだけれど、こちらについてはこういった授業では決して教えてくれない(これは「文章の書き方」関係の文献をあたってもほとんど同じだ)。

キャリア教育は、まさにこの形式を教えることと同じ。だから、いつまでやっても自分が社会に出て行く準備としてのキャリア=経験/スキルは身につかない。もし仮に,これをくそまじめに学んで就活に出たとしても,それは付け“付け焼き刃”。面接で「きわめて礼儀正しい、紋切り型の答えをする、無能なリクルート学生」になるだけだ。そんな中身の無い学生、たいていの企業には「使えない」と見抜かれてしまうのがオチだろう。

じゃあ、キャリア教育とはどうあるべきか?答えは簡単,内容=内実を教えればよい。つまり大学は「本刃」を学生たちに身につけさせ,就職面接で彼/彼女たちに面接官を一刀両断させてしまえばいいのだ。でも、どうやって?

キャリア教育は教育の原点に戻りさえすればいい!

実は”キャリア教育”などと言う大仰かつ無意味なものをやらなくても、こういった経験=キャリアを養うことは十分可能と僕は考えている。しかも、それは企業に媚びを売るような教育ではなく、大学教育の本義に戻りさえすれば十分可能なものだ。

「キャリア」ということばの中身を考えてみよう。辞書的には「経験、経歴、専門的な職業,保菌者」とある。この中で、キャリアのコアイメージを理解しやすいのは,実は「保菌者」だろう。つまり、本人の意向にかかわらず身についてしまったもの。いいかえれば、これは教わるものじゃないことを意味している。ハウツゥーものと同じで、書かれているのは経験してそのことがわかった人間の目線に基づくもの。ところがこれを聞いている側は経験していないから理屈はわかっても認知出来ない。要するにクルマの運転の仕方をマニュアルで覚えてたところで運転ができるようになるわけではないのと同じことだ。

ゼミという環境をフルに活用する

大学が学生にキャリアを身につけさせる方法は、なんのことはない、これまでカリキュラムとして用意したものを「まっとう」にやればいいだけの話だ。つまり、大学教育のキモであるゼミをきちんとやる。言い換えればアカデミックなスキルを身につけるため学生と教員、学生と学生が日常的に関わり合う環境を用意し,積極的に活用すればいい。

具体的に展開してみよう。ゼミを積極的に展開すればどうなるか?たとえばゼミで学生にグループワークを課す。ゼミ生に共同研究をさせるとしてみよう。教員は研究のための情報についてのインフォメーションや、その使い方を教授する。理論とか調査方法とかの提示だ。これに基づいて学生たちが活動をはじめる。先ず、様々な情報を収集する。この方法はネットはもちろんだがヒアリングやインタビューなんてのも入ってくる。そして,これをもとに今度はブレーンストーミングし,議論を収斂していく。この時、教員はその流れが混乱しないようにスーパーバイズする。まとまったら今度はこれを発信するためのプレゼンテーションを、やはりブレーンストーミングしながら考え,研究結果として最終的にアウトプットする。

まあ、大学でやる「あたりまえと言えば、全くあたりまえの作業」に過ぎない。しかし,これをマトモにやればアカデミックスキルが身につくし,グループワークや外部との関わりが必然的に生じるのでコミュニケーション能力が身につくし、他のゼミ生とぶつかり合うことで自分の能力(何が他人より優れていて、何が劣っているか)がわかってくる、つまり自分さがしができるし、もちろん人擦れしてくるのでプレゼンテーション能力とか対人交渉力も養われる。ようするに,キャリア教育なんかやらなくても大学が大学としての教育をきちんとやればキャリアは養成される。で,そんな学生が就活すれば,面接時にデカい面(よい意味で)して,面接官を一刀両断ってなことに必然的になるというわけだ。

僕には大学が実施しているこのキャリア教育という科目が,単なる大学教育サポタージュの正当化道具にしかなっていないとすら思えてしまうのだが(とりわけ私学)。

大学冬の時代、生き残りたいと思ったら、ようするに初心に返ること。アカデミズムの基本に戻ることだろう。

でも、よくよく考えてみれば,こんなことはちょっと考えれば,誰でもわかることなんではないだろうか。だってキャリアは「教える」ものではなく,「積む」ものなのだから。

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