勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2012年07月




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LINE=mixiの長所-mixiの短所+LINEの魅力

国産SNS・mixiの行く末について考えている。前回は「LINEのソーシャルネットワーク化の先にあるもの – SNS難民は救われ、mixiは死ぬ」(http://www.littleshotaro.com/archives/1777)というブログで指摘された「LINEによってmixiは死ぬ」という議論の穴を明らかにしておいた。今回からは、この穴を塞ぐかたちで、やっぱりmixiの行く末は暗いという結論をメディア論的側面から考えていく。

前回、上にあげたブログの穴として、FacebookやTwitterと行った“外来種”のSNSに乗り換えた元mixiユーザーが、これら外来種が敷居が高すぎて馴染めなかったにもかかわらず、なぜ古巣のmixiに戻らず、新しいLINEを選択したという理由が説明出来ていないことを突いておいた。そして、その穴を埋めるかたちとして「 LINE=mixiの長所-mixiの短所+LINEの魅力」という図式を提示しておいた。つまりLINEはmixiの魅力を共有している一方、その欠点を覗き、さらに独自の魅力を加えていることで支持を得た。ということは、LINEのこの魅力三つを説明すればmixi→LINEという流れが説明出来ることになる。ということで、いってみよう!

その1:LINEとmixiに共通する長所=牧歌的

これについては、ここで叩き台として取り上げた前述のブログがだいたい解説している。つまり、SNSとしてのアーキテクチャーが比較的単純なので参入しやすいというもの。mixiの場合は日記、つぶやき、コミュニティがその中心。一方、LINEはトーク(一対一、グループ)と通話だ。つまり機能が限定されていて、FacebookやTwitterのようにゴチャゴチャしておらず、使いやすい。でもって、コミュニケーションの相手は原則、身内や友人だ。言い換えればリアルな関わりを活性化するヴァーチャル・コミュニケーションツールという位置づけだ。実際、インターネットが世界中に情報をばらまくメディアであったとしても、そのコミュニケーションは、基本的には身内の域を出ない仕組みにもなっている。ということは、ここでパブリック-プライベートの線引きを間違えたコミュニケーションをやったところで「バカ発見器」として機能する可能性がほとんどない。だから、あんまり周りのことを気にせず、自由に発言出来る。つまり”牧歌的SNS”という言葉がぴったりくる。

低年齢層向け?

この牧歌性は、翻って、こういった牧歌的な使い方しかできないユーザーたちを収容することになる。だからmixiもLINEも、そのユーザーのコアは低年齢層だろう。断言してしまえば大学生以下。いや、もはやその中心ゾーンは高校生くらいにまで下がっているかもしれない。

その2:mixiの短所=ウザい

mixiの短所を単刀直入に表現すれば、それは「ウザい」ということになる。ただし、このウザさは、当初は魅力でもあったのだけれど。

mixiの大もとの機能は日記だ。自らが日記を綴り、それをマイミクに公開するというのが基本。これに、やがてタイムラインなどで流れるつぶやきが追加されている。またコミュニティ機能もある。但し、この日記の部分がウザいのだ。とりわけ、当初、重要なチャーム・ポイントとみなされた「足あと」がウザい。mixiの機能はリアルな人間を結びつけるには実に便利なのだけれど、反面、お互いの関係を強く拘束するという側面を持っている。つまり、足あとを見れば、実際は日常的に接している友人が自分の日記を見たかどうかが一目瞭然。 マイミクはハンドルネームでこそあるが、身内・友人間でのコミュニケーションだから、実質的には誰が訪れたのか判ってしまうからだ。 だが、こういった機能を必要とする層がいる。高校生以下のティーンエイジャーだ。

限定されたコミュニケーション環境がmixiを必要とさせた

ユーザーのコア層である彼/彼女たちはまだ子ども。だから自らが関わるコミュニケーション環境がきわめて狭い範囲に限られている。ただし、これから彼/彼女たちが関わるようになる社会はきわめて大きい。だから、そのままその環境に身を投じるなんてことはちょっとおっかない。そこで、彼/彼女たちは自分たちが今関わっている狭い環境=グループを強化して、実際の大きな社会の恐怖、あるいは見えづらさを回避しようとする。

みなさんは、高校や中学校の頃、非常に奇妙な女の子たちを学校で目撃したことがないだろうか。たとえば休み時間に廊下で二人でずっと抱き合っているとか、二人の椅子をロープで繋いでいるとか、あるいはわけもわからず二人で泣き合っているとか。これって、ようするにこういった複雑なコミュニケーション環境を縮減しようとするある種の防衛反応なのだ。つまり、この女の子たちは、常に、さながらレズビアンのように始終接触を続けることで、自分たちの居場所=安定したコミュニケーション空間をを確保するという戦略を採っている。

まあ、これは極端な例だけれど、ほど同様な自己防衛戦略を行為を多くのティーンエイジャーたちは実践している。で、この格好のツールとしてmixiが利用されてきた。つまり、互いに日記をつけ、足あとを調べ、相互に関わりが続いていることをリアルとヴァーチャル相互でチェックする。言い換えれば、相互監視の状態において、互いに規制しながら自らの居場所を確保する。

ただし、mixiの場合は、この関わりの程度を詳細にチェック出来るわけで、こうなると無理矢理足あとをつけるみたいなことが日課になってくる。要するに過同調状態になってしまい、だんだんと日記をつけること、足あとを見ることが義務みたいになってくる。というのも、足あとをつけないと相手をハブいたことになるし、逆に日記をつけないとハブられた気分になってしまうからだ。で、こういったことがもとで、グループ間で不協和音が生じると言うことも出現するわけで。その結果、出現するのが「mixi疲れ」というわけだ。

さすがに、このことに気付いたmixi側は「mixiボイス」という足あとをつけずに済む機能や「イイネ!」ボタンやを追加したりした後、2011年6月に「足あと」の機能を削除し、ているが、やはり「先週の訪問者」(「足あと」の置き換えで、機能を簡略化したもの)という機能が残っている。で、これもまた、やっぱりウザいのだ。これは余談だけれど、僕の教え子たちに訊ねてみると、もはや彼/彼女たちのかなりがmixiから退会するか、利用を停止している。そう、そして彼/彼女たちが共通にmixiを表する言葉が、この言葉だった。つまり

「mixi、ウザい!」

そこで、mixiの牧歌性をそのままにmixiのウザさを削り落としたのがLINEだったというわけだ。ただしLINEの魅力はこれだけにとどまらない。mixiにはないプラスα=新しいメディア機能を備えているがゆえにLINEは広がっているとも考えなければならない。じゃあ、それは何か?(続く)






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「LINEのソーシャルネットワーク化の先にあるもの – SNS難民は救われ、mixiは死ぬ」(http://www.littleshotaro.com/archives/1777)というタイトルのブログが物議を醸している。これはスマホアプリのLINEがmixiのユーザーを取りこみ、mixiの存在根拠を失わせてしまうことを展開した内容だったのだけれど、執筆者が同業者であったこと、そして「死ぬ」という過激な表現を用いたことなどが話題となり、バッシングまで起きて、執筆者が謝罪をすると同時に、過激な表現を削除したものをアップし直すという騒ぎになった(しかし、この改訂版でも執筆者のmixiの将来がないという論調に変更はない)。

本人はあまりの反響の大きさにちょっとビビってしまったというところなのだろうけど、僕はこの執筆者が指摘したことはそんなに外れてはいないと考えている。つまりあえて過激に表現すれば「mixiは、やっぱり、早晩死ぬ」、言い換えれば「mixiに未来はない」。ただし、執筆者の論点には実はちょっとした穴があり、それが説得力を欠いていることも事実だ。そこで、今回はこの穴を指摘する同時に、その点を修正しても、やっぱりmixiの将来はないというかたちで考察を進めてみたい。

LINEが収容する低情報リテラシーSNS難民という図式

上記のブログの趣旨はだいたいこんな感じになっている。

FacebookやTwitterの出現によって多くのユーザーがmixiから離脱し、こちらへ移動した。ところが、この移動は凶と出る。というのも、これら”外来種”もののSNSは高度なITリテラシーを要求したからだ。一方、mixiはITリテラシーが低くても使いこなすことができる牧歌的なSNS。その結果、移動したのはいいがこれら外来種SNSに馴染めず、結果として旧mixiユーザーはSNSの居場所を失ってSNS難民となってしまった。そんなとき出現したのがLINEだった。LINEはmixi同様、高いITリテラシーを要求しない牧歌的なSNS(というか、もともとは無料電話)。そこでSNS難民たちはこれを”難民キャンプ”として利用するようになった。そして今やLINEは難民キャンプどころか”都市”へと変貌しつつある。

なぜSNS難民はmixiに戻ろうとしないのか

論考自体は、なかなかおもしろい。でも、その穴は意外と簡単に見つかる。というのも、この議論、その出発点がちょっとアヤシイからだ。確かにFacebook、Twitterと行った“外来種”のSNSはそれなりに高度な情報リテラシー(=記事内では”ITリテラシー”)を要求する。具体的にはプライベートとパブリックの使い分けが難しい。だから、公的な場でプライベートな発言をしてしまったり、その逆をやったりしてしまう。それがマヌケなので、これらメディアは「バカ発見器」とも呼ばれるのだけれど。つまりソーシャルメディアにおいても、これらSNSはかなりのマナーが要求されるのだ。ここの議論の押さえ方については異論はない。

問題なのはmixiそれ自体の特性や現状についての議論=分析がはじめにないことだ。論考では「”外来種”のSNSがやってきたので使ってみたのだけれど馴染めなかった」ということになっている。でも、この議論は、一般的には「もし馴染めなかったら普通はまたmixiに戻ればいいだけ」という、いとも容易なツッコミを入れることが可能。だから、外来種のSNSに馴染めないからといって”牧歌”派=情報リテラシーの高くないユーザーが難民になることはない。

ところが、”牧歌”派はmixiに戻ることを快しとはしなかった。だからこそ難民になったと考えるのが筋だろう。ということは、先ず議論の前提として押さえておくべきことはなぜ「mixiから離脱したのか?」ということになる。つまり、この議論、「はじめにmixi疲れありき」なのだ。

ちょっと整理すると正しい流れは次のようになる。


1.mixiが嫌になった

2.そこで外来種のFacebook、Twitterを使ってみた

3.しかし高度な情報リテラシーを要求されるためにこれに馴染めず、SNS難民になった

4.そこにmixiと同様、”牧歌”的=低リテラシーでも十分使いこなせるLINEが登場した。

5.しかしLINEへの移動についてmixiはプッシュ要因(つまり似たようなSNSであること)とはなっていても、プル要因(LINEを選択しようとする積極的動機)にはなっていない。

つまり、LINEはLINE≠mixi、要するに「mixiとは似ているけれども、別なもの」ということをユーザーが理解したからこれを選択したことになるのだ。言い換えればLINEはmixiと同じ長所を備えているとともに、mixiの短所がない。さらにmixiにはない長所がある。だからこそLINEに乗り換えたという結論になるのだ。

つまり


LINE=mixiの長所-mixiの短所+LINEの魅力


という図式。

ところが、「LINEのソーシャルネットワーク化の先にあるもの – SNS難民は救われ、mixiは死ぬ」では、単純にLINE=mixiの図式が設定されている。これこそが、この議論の穴なのだ。ということは、この図式のポイントを指摘することで、なぜSNS難民たちがLINEに大挙して移動しつつあるのか、いいかえればLINEの魅力がはっきりするということになる。さらに言い換えればmixiの暗い将来も明らかになる。

じゃあ、それはなんだろうか?(続く)

スマホアプリ「すごい時間割」=大学講義のスケジューラーの「すごさ」について考えている。このアプリはソーシャル・メディアとして機能することで、これまでの大学側による授業評価を根本的に覆してしまう可能性を秘めていることを、ここまで指摘してきた。大学が授業の実態をどんなに隠蔽しようが、ソーシャル・メディアの力はスマホの普及と相まってこれを不可能にしていく。だから、こんなアプリが普及したら大学としてはたまったもんじゃあない!ってなことになる。

「すごい時間割」は、大学にもきわめて有用なツールだ

だが、それは翻って、大学側にも究極の利益ともなると考えてもいいだろう。これまで、教員や大学側のエゴによって授業内容はベールに包まれてきた。そして、その改善がなかなか進まなかった。ところが、ソーシャル・メディアの集合知の力を借りることによって、大学の授業が無理矢理、青天白日の下に晒されることになる。だって、これに規制をかける方法はないんだから。だから、もし、この「すごい時間割」がソーシャル・メディアの機能を十全に活用して普及したとしたら、つまり全国各地の学生がこのアプリを利用し、さらに機能を加えて学生専用のFacebook的な役割を果たすようなことがあるとすれば、もうこれは学生側から教育に対する異議申し立ての巨大な勢力を形成することになる。いいかえれば、大学側もこれを無視することなどできないといった状況が作り上げられる。そうなったとき、大学は現状の旧態依然とした体質にあぐらをかいていることは不可能なわけで、そのシステムの根本的改善を余儀なくさせられるのだ。いわば下から改善を押しつけられるという事態が発生する。

しかし、それは大学にとって困ったことではなく福音とみなすべきだろう。これまで「アカデミズム」をタテマエに、完全に放置状態だった教育に民意(この場合は学生のそれ)が反映されるのだから、健全な経営の土壌を形成するきっかけにもなる。賢い大学ならば、このアプリの情報を積極的に活用し始めすらするだろう。

「すごい時間割」に求めること

そこで、今回の特集を終えるにあたって、最後にこのアプリをさらに発展させるためにさらに加えるべきことを提示しておこう。

ひとつはそのソーシャル・メディア性をもっと高めることだ。現在は授業についての情報に限定されているが、学生たちが集うヴァーチャル・コミュニティ的な機能を加えていくようなことをしていくのがいいだろう。大学内の部活・サークル紹介、ゼミ活動の紹介、ただのしゃべり場みたいな空間を大学単位で作っていく。こんなことになれば、大学生にとってヴァーチャル上の必須アプリになることも考える。それこそつぶやきレベルで書き込めるというメリットがあるので、こういったものは普及しやすいかもしれない。

二つ目は、このアプリを大学、そして教員にも開放すること。そうして教育を提供する側とこれを受ける側のコミュニケーションの場とする。まあ、これは、大学の授業改善や試験作成に予備校が一役買っているというのと同じメカニズムになる。つまり呉越同舟。それによって、それぞれの垣根を取っ払って、より民主主義的で効率的な運営を考えるための土壌として用いる。そう、これこそがこのアプリを大学側が有効に活用すると言うことなのだけれど。そして、みんなで大学教育を真剣に考えることでもあるのだけれど。ただし、大学側の参入を許すと言うことは、学生たちはハンドルネームで関わり合うことを余儀なくされるということでもあるのだけれど(^_^;。

そして、最後に一つ、そしていちばん重要なこと。それは、学生たちがこのアプリを積極的に活用し集合知を作り上げることだ。集合知の精度はスケールメリットに依存する。だから、多くの学生たちがこれを積極的に活用することが必要なのだ。そんなに力量を必要とするようなアプリではないし、政治的な意味合いがあるわけでもない。だから、これが便利と言うことを発見すれば、学生たちも気軽に使う気にもなるんじゃないだろうか?

そう、学生のみなさん、「すごい時間割」を活用して、キミたちの大学を「すごい大学」にしようではありませんか。そうすれば、君たちの大学もよくなるはずだ!

スマホアプリ「すごい時間割」=大学講義のスケジューラーの「すごさ」について考えている。前回は、このアプリを学生たちがみんなで使用すれば、授業のスケジュール管理がきわめて容易になるのみならず、ソーシャル・メディアの機能を利用して単位登録がよりやりやすくなること、つまりやりたい勉強をきちんと選べたり、単位の取りやすい授業を選択したりすることが可能になることを説明しておいた。今回は、大学教育改善のためにも、このアプリがきわめて重要な役割を果たす可能性があることについて考えてみよう。つまり、これまでの大学がやっている授業評価の存在を”無”にしてしまうような可能性について。

究極の機能「掲示板」

前回は主要機能「授業詳細」(デフォルト画面)「履修者」「掲示板」のうち、前者二つについて説明しておいた。しかし、それよりももっとすごい力を持っているのが、三つ目の「掲示板」の機能だ。これはこのアプリのソーシャル・メディアとしての特性をフルに生かす機能と言える。「掲示板」は、要するに、授業について授業登録者、つまり学生がなんでも情報を掲示出来るスペースだ。この授業の単位の取りやすさはもちろん、レポートや試験の内容、授業の内容、教員の性格といった授業に関する情報なら、なんでもここに書き込むことができるわけなのだけれど……だから、これは究極の授業評価ということになる。

とにかく受講者たちは、授業に関することならなんでも、好き勝手にアップする。ある意味、完全に無法地帯。だから、大学が実施している授業評価と正反対の授業評価がここでは登場することになる。

トドメの一発、その名もズバリ「授業評価」

これらに加えて、さらに掲示板の機能をより強化するものに、その名もズバリ「授業評価」という機能がある。項目は「授業の満足度」「単位の取りやすさ」「出欠確認の有無」「抽選・履修選抜の有無」「テスト」「課題とレポート」、そして「感想、後輩へのアドバイス」。つまり、調査項目は大学のやっているものとさして違いはないように思えるかもしれない。ところがこちらも「掲示板」と同様、大学側の規制が全くかかっていないところが根本的に違う。また、こういった統計的な情報と前述の「掲示板」を併用することで、かなり適切に授業評価をすることが可能になる。つまり、掲示板での議論が「授業評価」に反映され、またその「授業評価」が掲示板での議論を活性化させる。そんなことをやっているうちに「集合知」(=最初は間違っていても、みんなでワイワイ議論している内に正確が情報になっていき、知が構築されること。ウイキペディアはその典型)が形成されていくのだ。


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これが授業評価。残念ながら、まだ僕の評価は誰もやってくれていない(>_<)



実を言うと掲示板だけだったら、ただの2チャンネル的な誹謗中傷レベルの書き込みに終わってしまう可能性がある。だが、これに「授業評価」が加わって、この二つがうまく機能すればこれは回避可能だ。つまり授業評価が掲示板の暴走に歯止めをかけるということになるのだ。

つまり、「すごい時間割」は徹底した民主主義に基づき、情報の規制をかけないことで、学生が大学を適切に活用出来るようにする究極のツールとなるわけだ(もちろん、楽観視できない側面もある。逆に「掲示板」と「授業評価」が負のスパイラルを展開してしまったら、これはただのバッシングの場になってしまう可能性もあるからだ)。

スマホベースのSNSであることが、最大の強みだ!

ちなみに、こういった学生たちによる大学評価については、すでに「みんなのキャンパス」というサイトがネット上に存在している。もちろん、そこでも授業評価を見ることは可能だ(前任校で僕がやっていた授業についても掲載されていた)。ただし、学生たちがこれを上手に使いこなしていたという感じは残念ながらなかった。理由は、ここにアクセスするためにはパソコンにつなぎ、さらにサイトを検索するというハードルがあったからだ。実際、アクセスがメンドクサイ。だから、たいていの学生はこのサイトをチェックすることをしない。ところがこの「すごい時間割」は違う。スマホという日常的に携帯するメディアに搭載されている。だから、すごく簡単にアクセスできる。しかも、授業スケジューラーにもなり、その上、プッシュ機能も付いているので気楽に使える。そして、学生たちの間でもはやスマホもSNSもすっかり一般化されている。だから、学生たちに普及する可能性は極めて大といえるのだ。

さて、この「すごい時間割」実は大学当局にとっても、きわめて有用なツールなのだけれど。でも、どうして?(続く)


スマホアプリ「すごい時間割」=大学講義のスケジューラーの「すごさ」について考えている。で、このすごさとは、大学の授業評価、そして授業そのものを根本的に変えてしまうところにあると僕は考えている。前回は、このアプリを説明する前提として、現在の大学での授業評価アンケートがいかに無意味であるのかという現状についてお伝えした。つまり、文科省の要請で大学側はイヤイヤやっていること、評価の中身は何ら授業改善に役立っていないことをお伝えしてきた。でも、これじゃあヤバイ。そこで大学教育改善、そして大学の生き残りの手段としてソーシャル・メディアであるこの「すごい時間割」の登場ということになる。

見た目はただの時間割

じゃあ、どこが「すごい」んだろう?まあ、ごちゃごちゃ言っても仕方がないので、その機能を説明しつつ、そのすごさを紹介してみたい。で、今回は先ず学生目線で、これを使うと学生たちがどれだけ便利なのかに焦点を当てて展開してみたい。

「すごい時間割」は見た目はただの授業時間割のスケジュールアプリだ。つまり一週間の授業時間割が掲示される表があり、ここに学生=ユーザーは自分の授業を登録するだけ。プッシュ機能も付いていて、授業の開始を教えてもくれる。でも、これだけだったら、これまでのスケジューラーと何ら違いはない。


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時間割の登録画面


あっと言う間に登録完了

だが、これがソーシャル・メディアとなると、俄然、様子が異なってくる。ユーザーは利用開始時に、先ずアカウントを登録する(アカウントはFacebookと連動可能)。するとウイザードに従ってやーザー名、パスワードをたずねてきた後に、大学と学部、学年、年度をさらにたずねてくるのだ。こうやって登録を完了すると、次にやることは授業の登録なのだけれど、ここからがソーシャル・メディアの出番となる。なんと自分で授業名、教員、教室を打ち込む必要がない。そうではなくて、すでに当該時間の授業は他のユーザー、つまり同じ大学の同じ学部の学生たちによって登録されているので、それを選ぶだけなのだ。もちろん選択項目に該当する授業がない場合もあるが、その場合は自分が登録することで、今度は他のユーザーが登録する際に自動的に反映されることになる。たとえば僕はメディア社会論という講義を金曜の三限に行っているのだが、これをさがすと僕の名前と教室名がすでに登録されている。ということで、登録があっと言う間に完了する。

で、次に時間割の中から任意に一つ、授業を選択してみる。すると授業の詳細についての画面が現れる。そしてここから、さらに「授業詳細」(デフォルト画面)「履修者」「掲示板」三つの画面が選択可能になる。

受講者の講義登録状況が一目瞭然!

「授業詳細」では授業名、担当教員、時間がすでに掲載されている。さらに、出席状況と「課題とスケジュールの作成」を任意で登録が可能になる。


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授業詳細画面。授業日程の他に自分の出席状況や課題を記入出来る。


「履修者」では同じ講義を受講しているユーザーたちの一覧を見ることができる。その内の一人を選択すると、今度はそこに、その授業の受講者が登録している他の授業の一覧も閲覧できるようになっている。だが、この画面のキモは右上に「友達申請」ボタンがあることだ。つまり「同じ授業を取っているのだからこの授業についての情報交換をやりましょう」という、きわめて利便性の高い友達申請ができるようになっている。また「履修者」の画面には「友達」のボタンもあり、ここではその履修者の友達一覧が提示される。

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履修者の画面。登録している授業数と科目がわかる。キモは右上の「友達申請」だ。これで授業情報を共有出来る。



こうすると授業情報を媒介にして複数の間で友達申請が可能になり、授業の情報を効率的に入手可能になる。つまり、これまでは誰がどの授業を取っているのかは実際の友人の間で問い合わせないとわからなかったのだけれど、友達が「すごい時間割」に登録すれば、いちいち問い合わせることなく誰が登録しているのかが一目瞭然になる。だから試験やレポートが近づいたときには、このアプリを見ればその対策について相互に融通をつけることが可能になる。また、顔見知りでない受講者についてもここで情報のやりとりをやれば、同様に試験・レポート対策ができる。

しかし、本当にすごいのはここからの機能。それは「掲示板」と「授業評価」だ。これが大学の教育システムそのものの変更を迫る潜在性を備えた機能なのだけれど……(続く)

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