勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2012年06月

Facebookは曲がり角?

現在、Facebook人口は9億に達したと言われている。そのユーザーの多さから「中国、インド、Facebook」とすら呼ばれているけれど、その一方で、この勢いが止まりつつあるのでは?という懸念もしばしばなされている。とりわけ指摘を受けるのが「Facebook疲れ」と呼ばれる現象だ。やり過ぎてウンザリしてしまい、やめてしまう現象をさしてこう呼ぶのだけれど。

たとえばこれはこんな具合で発生するといわれている。

Facebookは原則、実名登録だ。そして自らの写真も掲載する(中にはハンドルネームを使っているユーザーもいるらしい。また写真を掲載しないユーザーは多い。とりわけ日本人。日本人は「個人情報フェチ」っぽいので、とにかく顔くらいは隠したいと思うのだろうか。これは他の国ではなかなか見られない現象だ)。また自らの様々なプロフィールも公開する(このデータを基に関係すると思われるユーザーを、Facebookは探しでしてくるのだけど。ちなみに、やっぱりこのデータを最小限にすれば、個人情報を制限することができる。で、日本人はやっぱりこちらの方でも公開しない人間が多い)。ということは、お互いの「御里(おさと)」が知られていることになる。

Facebook疲れはmixi疲れと同じ?

つまり、Facebookのメインとなる機能の中心は日常生活の延長上、面の割れた同士のコミュニケーション活性化ツールと考えることができる。オンラインの人間関係が助長されるし、普段の関係がネット上に癒着するという構造になっている。ということは2ちゃんねるのような匿名空間でのしがらみの無さとは全く逆のメディアとして機能する。だから、やればやるほどお互いの関係が粘着性を帯び、しがらみに縛り付けられることになる。で、だんだん息苦しくなっていって、結局ここから離脱していく。こんなところだろうか。

たしかに、こうなってしまうという展開は十分にあり得るだろう。ただし、これはFacebookの利用の仕方がきわめて偏向しているから発生することだと考えることもできる。その利用法は、例えて言ってしまえば、mixiでの運用方法をそのままFacebookにあてはめたためと考えることができるだろう。mixiはハンドルネームを使いこそすれ、実質的には面の割れた人間間のネットワークを活性化させるSNSだ。だから、前述したFacebook疲れと全く同様の事態が発生する。何のことはない「Facebook疲れ」とは、もともと「mixi疲れ」と呼ばれたものをそのまま適用したものに過ぎない。

しかしFacebook人口は増加している

ということは、Facebook疲れはFacebookからmixi疲れの要素を取り除いたような利用法をする限りにおいて、そういった事態は発生しないと考えることもできる。僕はFacebookを利用し始めてそろそろ一年半になるが、Facebookに疲れを感じたことは全然ない。いや、それどころかますますこれにのめり込んでいるという状況だ。で、僕みたいに「Facebook疲れ知らず」という人間が実は趨勢だろう。だからこそ、その勢いは止まることはないといえるのではないだろうか(一年間で3億(1.5倍)も人口が増えたのだから)。一方、mixiの方はmixi疲れ、そしてFacebookと機能がバッティングしたこともあって、最近はじり貧だ。かなりのユーザーがFacebookに乗り換えている。ただし、もちろんFacebookもmixiと同等の機能を備えてはいる(だからmixiから移ってきたユーザーが多いのだけれど)。だったらmixiはダメでFacebookは問題ないというのはどこに求められるのだろうか?今回は、このことについて考えてみよう(ただし、本特集で議論に取り上げる以外の機能をmixiもFacebookも備えてはいる。だから、ここでは最も利用頻度が高い機能に限定するかたちで今回は展開したい)。(続く)

バカ発見器

Twitterが「バカ発見器」と呼ばれていることをご存知の方は多いだろう。Twitterで人に聞かれたらまずいようなことをツイートし、その結果自爆してしまうということをさして、こう呼ばれているのだけれど。たとえば「飲酒運転なう」なんてのが典型で、これじゃ「逮捕してください」と自分で言っているようなものだ。

高校の非常勤講師を務めている僕のところの大学院生の一人が、高校での、このバカ発見器利用の具体例について面白いことを話してくれた。「自分が赴任する高校名+飲酒」というキーワードで検索をかけると、在校生の飲酒写真がポンポン出てくるのだそうだ。で、当然のことながら、この連中は停学処分になってしまうのだけれど。でも、これじゃあ、どうみても「飛んで火に入る夏の虫」、やっぱりバカとしかいいようがない。

しかし、こういうことは新しいメディアが出現した際には必ず起こることなのだ。今回はTwitterが「バカ発見器」として機能してしまうことの原因を、メディア論のより広い文脈の中で考えてみよう。

常に「バカ」は存在した
実は新しいメディアが出現するとき、メディアが「バカ発見器」として機能し、バカが発見されるのはTwitterに限られた話ではない。いや、むしろメディアというのはそう言うものと考えた方がいい。

過去の例を挙げてみよう。先ず19世紀、写真が発明されたとき。その普及にもかかわらず、被写体になることを徹底的に拒んだ層が存在した。理由は「魂を抜かれるから」。この人たち、要するにバカだ。次にテレビが普及し始めた1960年前後。プロレスの流血シーンを見てショック死した年寄りが出現し、これが社会問題となった。こんな残酷なシーンを一般大衆にみせてもよいものなのか?ということがその争点だったらしいのだが、これについては2つのバカが存在する。1つはプロレスというショーの「流血パフォーマンス」を本気と捉え、ショック死してしまった老人(映像はモノクロだから血は黒であるにもかかわらず、だ)。もう一つのバカは、これを社会問題として積極的に取り上げたメディアだ。

三つ目はマンガ。マンガは子どもに悪影響を与えるということで、これを子どもから取り上げようとする大人たちが存在した。全国各地の駅や市役所の前には「悪書追放」と書かれたペンギン型のポストが設置されていたのだが、これは明らかにマンガを意図していた。だが、ご存知の通りマンガはもはやすっかり社会的に認知されている。だから、こうやってマンガをやり玉に挙げた連中もまたバカである。

こんな例は枚挙にいとまがない。近年でも、例えばテレビゲームについて、やれ暴力性を助長するだの、ゲーム脳が出来上がるなどという議論も起きた。これもまたバカとしか言いようがないのだけれど。

「バカ」というよりは……

ここまで、あえて「バカ」を繰り返してきたのだけれど、正しくは、これは「無知」という表現の方が適切だろう(だから、ちょっと「バカ」は言い過ぎだ)。そして、その無知さは新たにメディアが出現する際に必ず発生してしまうことなのだ。なぜか?

人間は保守的動物だ。だから、新しいものが社会に入り込んでくる際、それがどんなものかわからないと不安になる。そういったとき、とりあえずの対応は、それを否定することとなる。ただし、闇雲に否定しては根拠がない。そこで、その根拠を求めるために「既成の見方・利用法からすると害である」という正当化が図られる。実際、既成のメディアの使い方をすると、確かに害になることがあるというのも事実。先ほどのテレビの普及の例であるならば、実際老人はショック死してしまったのだから、この場合、確かにTVは「有害」なのだ。

だが、これはプロレス中継でのバイオレンスや流血状況をショーとして見ることができなかったことによって起こったことなのだ。言い換えれば、今、プロレスの流血シーンを見てショック死するような人間がいたら、これはこれで別の意味で事件=ニュースになることでもある。ただし、全く違う評価のされ方で。それは「今時、ショーのプロレスの流血シーンを見てショック死するなんて時代錯誤で、おめでたい人間がいたのか?」という文脈で。

メディア・リテラシーの問題

つまり、こういった一連のバカ=無知というのは、実は新しいメディアに対する認知や使いこなしの誤りから発生するものと考えればわかりやすい。新しいメディアはそのメディアに即したかたち、またその時代、当該社会に流し込まれるかたちで利用されることで、そのメディア性が決定する。だから結局のところ、既成のメディアの利用法をそのまま該当させてもほとんど意味がない(ということは、既成のメディアの利用法をそのまま適用して考えるのは誤りということになる)。だが、普及当初においてそのメディア性は流動的でまだ決定していないし、認知されてもいない。だから、その使いこなしに混乱が起きる。これが結果として「無知=バカ」というふうに見えてしまう現象を結果するというわけだ。Twitterの場合、このSNSの備えるパブリック性とプライベート性、有名性と匿名性の峻別がまだついていないユーザーが有名性と匿名性の区別を誤り、Twitterという公共空間にプライバシーを露出してしまったがゆえに発生した事態と考えることができるだろう。とりわけ、こういったことをやらかすのが社会性の低い、つまり社会というものがまだどういうものかをよく理解していない若年層に偏りがちになることは、容易に想像がつく(実際、そうなのだけど)。

だが、こういったTwitterの「バカ発見器」としての機能もいずれ失われていくことになるだろう。SNSがさらに一般化し、その運用のされ方のパターンが決まり、そのパターンにユーザーたちが適応していくからだ。そして、それが最終的に若年層まで行き渡った頃にはこういったことはほとんどなくなるだろう。そうすることでSNSに対するメディアリテラシーが高まっていくというわけだ。また、それはSNSというメディア性が決定されることでもある。

で、もしそうなった時に、それでもTwitter上で自分の愚行が周知されるようなことをするような輩が、つまりTwitterを「バカ発見器」として機能させてしまう人間が出現するならば、それは実に珍しい人間ということになる。そう、それは、さながら、いまどきプロレスの流血シーンを見てショック死する人間と同じくらい。

現代人が物語を語ること、つまりストーリー的に表現する能力が減退していることを本特集では考えてきた。そして「物語喚起能力の不全」という現状を説明するために、前回は「物語喚起能力が十全」となる状況について展開しておいた。で、今回はこの不全を説明するわけだけれど、それは「十全な環境」のどこの部分が抜け落ちたのかを考えればわかりやすい。

近隣の他者の代替としてのメディア

抜け落ちた部分は2つ。先ず最も大きいのが「近隣の他者」の存在だ。個人化が進み、共同体が崩壊。家族はカプセルとして周辺住民との関わりを持つことがなくなっていった(もちろん、完全になくなったというわけではない。厳密に表現すれば、これは関係が薄くなった、つまり関わる数が減り、関わっているそれぞれについても断片化したということになる)。その結果、子どもに対して物語を提供できるのが親だけという状況が作り上げられる。しかし、人間は情報行動する動物なので、情報を入手するということをやめるわけではない。そこで、アクセス先を変更する。それがメディアだった。メディアは資本の論理に基づく、つまり経済原理に基づいて運営されているので、それぞれが収益確保をめざして様々な情報を様々なチャンネルから提供するようになる。そして、それにあわせて情報テクノロジーも進化した。その結果、情報源は膨大になり、その一方でそれぞれの情報の深さは浅くなる。つまり情報の質が薄っぺらになっていくのだ。で、とにかく様々な情報が次々と現れ、この処理に子どもは追われるようになる。つまり、近隣では情報が少なく薄っぺら、メディアでは情報が膨大で、でも薄っぺら。それは、言い換えればもっぱら処理だけが作業となり、情報を吟味して物語をつむぐ時間を失うことを意味する。

でも、それならば親が徹底的に物語を子どもに提供すればいいのだけれど……ところがこれがダメなのだ。なぜかというと、もはや親の世代が物語喚起能力を喪失した世代だからだ。だから、そのつむぎ方を教えることはできない。これが抜け落ちた部分の二つ目だ。

こうやって子どもは物語喚起能力を修得する契機を失っていった。当然、情報と情報をつむぎあわせる能力も涵養されていないということは、相手と自分の関係をつむぎあわせることもわからない。だから空気が読めないし、逆に言えば必死になって空気を読もうとする。ちなみに、少ない情報を吟味し、またその情報の組み合わせも吟味してきた以前の人間は、本特集で展開したきたように身体が空気を知っているので( これは「言葉の言霊性」と呼ばれる)、読まなくても身体が空気を読んだことになる。だからKYにはならない。ところが、こういった身体を持ち合わせない(つまり言霊を持たない)現代の若者は、意識的に空気を読まなければイコールKYになってしまうという運命にある。そんな連中が、そのまま大学にやってきて基礎ゼミで自己紹介をさせたら、90秒の自己紹介すら苦痛で、なおかつひたすら情報を羅列するだけになったのは無理からぬ話なのだ。

物語喚起能力は女性の方が強い?

最後に現代の物語喚起能力の欠如について、面白いエピソードを1つ。僕は大学の講義の1つとしてビデオコンテンツを作らせるというのを十年近くやっているのだけれど、この授業を受ける学生たちには共通する傾向、しかもずっと同じのそれ、がある。それは「女の子の方が、総じて男の子よりはよい作品を作る」というものだ。だが、これも物語を喚起する環境を踏まえて考察すると見えてくる。まあ、それはジェンダーの問題でもあるのだけれど。

女の子の方がよい作品を作る理由は「テクを使わないから」と言ったところに求められる。作品を作らせると、男の子がやることは、とにかくいろんなテクを使いたがるのだ。ビデオ機器やビデオ編集ソフトの機能を、スケベ心でやたらと使うのだけれど、結局どれも「生乾き」の状態。出来上がったものをみせられたときには、はっきり言って支離滅裂で、それでいてエゴが前面にでてくるキモチワルイものになる。つまり情報の過多と意味の希薄という作品になる。で、こういった「演出」にもっぱらエネルギーをとられたお陰で、コンテンツ=ストーリーは希薄なものになってしまうのだ。

一方、女の子はジェンダー的に機械オンチという側面がある(生物学的には不明。というか、多分そんなものはないと思うのだけれど)。だから、これらの機能について最小限のものしか使わない。だが、そのお陰で少ない機能の使いこなしについては実に上手に操作するのだ。そう、女の子たちはジェンダー性に拘束されたがゆえに、かえってクリエイティブな作品、よくまとまった作品を作ることができるという側面が、どうやらあるのだ。これは、本当にそうで、学生たちが残してくれた作品の傑作は、ほとんど女の子たちによるものなのだ。もちろん、こっちの方が機械の操作方法としては本質的なんだけど。

と考えれば、情報化時代、女性のジェンダー性の方がまとまった話ができるわけで、それは要するに女性の時代がやってくるということなのかもしれない。う~ん、どうなんだろうかぁ。

物語喚起能力喪失を歴史的文脈で語る

6月15日まで、現代人が物語を語れなくなっている現状とその処方箋について展開しておいた。で、実はこの特集はこれで終了する予定だったのだけれど、現状分析という形、文化人類学的に表現すれば共時的側面からでしか、この「物語の喪失」を語っていなかった。ので、今回は時間軸=通時的側面からの分析をオマケに足しておきたい。現代人はなぜ物語を語れなくなったのかを、その歴史的過程を辿ることで補遺として展開しよう。もちろん、メディア論、そして社会学的に。

子どもは物語を持たない

生まれたばかりの子どもは、あたりまえの話だが「物語」を持たない。これまたあたりまえの話だが「物語」を語るためには、その必要条件として「言葉」が必要だからだ(さらにあたりまえだが、だから動物は物語ることができない)。

子どもは成長するにつれて言葉を話すようになる。だが、それは前述したように物語るための必要条件でしかない。実際、幼い子どもは物語を持たずに言葉を発することがほとんどだ。例えば赤ん坊の言葉は欲望に直結している。最も原初的な言葉は「マンマ」、つまり「食べ物をよこせ」というメッセージだ。これは一説によれば、おっぱいを吸う発声「m」から派生したものだとか。つまり、自分の欲求を満たす音声を発することが「食事をよこせ」となるし、その食事、つまりおっぱいを与えるのが母親なので、やはりこの「m」から派生して「ママ」となったのだとか。で、五歳以下なら言葉のほとんどはこういった欲望の直接的発露の域をほとんど出ることはない。

物語を提供するのは他者の「言葉」と「身体」

こういった欲望の塊=餓鬼としての子どもが物語を持つようになるための十分条件、それは「他者」の存在だ。この他者も、できれば「生身の他者」がいい。このとき具体的にその役割を担う中心的な他者(社会学では「重要な他者=significant other」と呼ぶ)は、一般的には親になる。子どもは親と集中的に関わり続けることで、次第に親の物語を、いわば「居抜き」のかたちで導入する。これは、今回の特集で取り上げた、少ない情報を徹底的に掘り下げることで行われる。子どもは、とりあえずは親のクローンのような存在になっていくのだ。だから、そのパターンは得てして親の受け売りになる。

だが、物語、そして物語のパターンを提供するのは親だけではない。身近にいる兄弟もそうだ。そうはいっても兄弟もまだ年齢的にそう離れているわけではないので物語喚起能力は低い。そこで、近隣の住民の存在が重要になってくる。つまり、近所のおじさん、おばさん、お兄さん、お姉さんという「生身の他者」が子どもにいろんな物語を提供するのだ。ただし、これは子どもの行動範囲、つまりうろつき回れる範囲を逸脱することはない。だから、必然的に関わり合う他者の数は限られる。そして、やはりこういった他者から様々な物語を何度となく語られる。

この時、親、兄弟、近隣住民は、子どもが物語を持つようになるための基礎教育を行っていることになる。本特集での物語学習のメカニズムをこれに照らし合わせれば、これらの数少ない情報源からクドクドと物語を聞かされることで、この物語パターンそれぞれが身体化される。そして、次第にこれら数少ない情報源の物語コンテンツやパターンをカスタマイズし始めるようになる。ドラえもんの例になぞらえば「ひみつ道具を悪用する」(ジャイアンに適用したひみつ道具をしずかちゃんにも使ってみる)ということになる。こうやって、一つ一つ質的に高い情報源=物語を換骨奪胎し、トライ・アンド・エラーを繰り返す中で、自らの物語が形成されていくのだ。

物語は社会化の揺籃

そして、こういったプロセスでの物語形成は、同時に生身の他者の身体を受け入れているということにもなる。つまり、クドクドと話を聞かされることで、物語をテクスト=文字通りのみならず、コンテクスト=身体的情報も無意識に取りこんでいる。で、これを繰り返していくことで、結果として子どもは様々な他者との関係を身体的に形成していくことになるのだ。だから、成長するにつれ子どもは物語を「言葉」として語ることができるようになるし、他者のことも身体的に把握しているので、相手に対する配慮も可能となる。いいかえれば何も考えなくても自動的に「空気を読む」ことが出来るようになるのだ。つまり「物語」を持つと同時に、相手に自動的に呼応する「身体」も持ち合わせることになる。

さらに、これが年齢とともに、より大きな空間の中で展開される。例えばそれは学校教育の中のクラスメートや先輩後輩関係の中、さらにメディア情報との関わりの中で。これらは、前述したコアな他者=重要な他者との関連の中で構築された「物語」と「無意識に空気を読む」というスタイルを適用する場所となる。そうこうするうちに、子どもは次第に「より大きな他者」を把握することになる。「より大きな他者」とは、社会一般の常識的な他者という「行為の準拠枠=action frame of reference」のこと。つまり、世間一般はどういう行動をとるのかと考えるときに想定する他者であり、このことをG.H.ミードは「一般化された他者=generalized others」と呼んでいる。

こうすることで成長した子どもは次第に社会に適応した存在、つまり社会化された個人となっていくわけだ。で、こういった行動の苗床をベースに、個人はそれぞれの情報を紡ぎあわせて物語を作るのだけれど、それぞれの情報の深度、そして組み合わせの妙のレベルが高いので、普通に語るその内容が個性的なものとなる。ただし、繰り返すようだけど、この「個性的」というのは「クリエイティブ」にも「偏屈」にもなり得るのだけれど(^_^)。

つまり、社会化した大人として人間が十全に活動可能になるためには、こういったプロセスで物語を獲得することが必要とされているわけだ。ところが、今回の特集で展開しているように、この物語喚起能力がきわめて劣悪な状況になっている現状がある。ということは、これはここに展開したように社会化のプロセス=物語喚起能力養成過程が機能不全を起こしてしまっているということになるのだけれど。じゃあ、何がそういった機能不全を生んでしまったのだろうか?(続く)

AKB総選挙四位の「さしこ」こと指原莉乃の「男女交際禁止」というAKB48のルールを破ったとして、HKT48に左遷になった事件について考えている。で、本特集では、この「移籍=左遷」という秋元康のメディア・イベントによって、実はAKBを取り巻く環境、より明確に表現してしまえば秋元が構築しているAKBエコシステム全体が結果としてトクをするという前提で議論を進めてきた。前々回はAKB48とHKT48がトクすること、前回は指原がトクすることを指摘しておいた。

こうやって考えてみると、まあ秋元康という人物は、まさに「メディアの魔術師」といえる。あくどい、えげつない、あざとい、狡猾、つまりエグい。そう、秋元は実にクリエイティブな存在であり、オーディエンスを実は上から目線で完全にナメきっているのだ。

秋元のライフワークとしての戦略は「徹底して素人を起用すること」

秋元は、こうやってメディアを弄してオーディエンスを弄ぶということをずっとやってきたことも確かだ。それはオールナイターズであったり、おニャン子クラブであったり、岡林信康、美空ひばりであったり、とんねるずであったりした。

秋元が三十年間にわたって一貫してめざしてきたもの。それは「素人を起用しても成立するエンターテインメント・システム」だ。上記の主要な業績の内、岡林信康と美空ひばりを除けば、この方針=チャレンジはブレていない(演歌とフォークの巨匠を全く違うジャンルに引っ張り出したという意味では、この二人も“素人”的な扱いではあるのだけれど)。

80年代前半、フジテレビの深夜番組「オールナイトフジ」ではオールナイターズという現役女子大生を登場させた。 オールナイターズのキャッチフレーズは「私たちはバカじゃない!」だった。 また、この時、「ぎんざNOW!」の「素人コメディアン道場」や「TVジョッキー」の「ザ・チャレンジ」コーナーに頻繁に出現し、「お笑いスター誕生」にも「貴明&憲武」という名前で素人としてエントリーした帝京高校出身のお笑いコンビ「とんねるず」を狂言回しとして起用している。

次いで80年代後半にはフジの夕方の番組「夕焼けニャンニャン」のなかでおニャン子クラブを登場させる。コンセプトは「放課後の部活」。高校生=ハイティーンを大挙出演させ、その素人っぽさが好評を博した。実際、夕方5時からという時間帯も、まさに放課後のイメージ。ここからは渡辺満里奈、工藤静香、渡辺美奈代、国生さゆりといったタレントが登場している。

また、これはあまり知られていないが「進め!電波少年」の大ヒット企画「猿岩石ユーラシア大陸横断ヒッチハイクの旅」で一躍人気者になった新人若手お笑いコンビ「猿岩石」を歌手デビューさせたもの秋元の手腕によるところだ。この時も猿岩石の芸の無さ、素人性を前面に打ち出すという展開を行っている。発売した音楽アルバムのタイトルは、なんと「まぐれ」だった。つまり、実力がない人間が、メディアのお陰で偶然ビッグになったという意味を、そのまんまタイトルにしたのだ。


イメージ 1

秋元康プロデュースによる猿岩石・ファーストアルバム。タイトルは、なんと「まぐれ」



いちばんトクするのは秋元自身だ~秋元イズムというゴーマニズム

こういった「素人=芸無し」というラインを徹底的に進化させた完成形=集大成がAKB48と言えるだろう。

秋元自身が言うように、AKBのメンバーは「クラスで十番目くらいの子」を集めたというコンセプト。言い換えれば容姿もプロポーションも最高というわけではない、ついでにアタマのよさもたいしたことはない(つまり、やっぱり「十番目くらい」)。こういった凡庸で目立たない「二流タレント」を大挙してデビューさせるという”蛮行”の背後には、「どんなヤツらでもスターにできる」という、秋元のあまりにもゴーマンな自負があるように僕には思える。で、実際これが功を奏している。つまり、AKBを取り囲むAKBエコシステムに熱狂しているファンたち、メディアたちは前田、大島、渡辺、柏木、指原、篠田、高橋、小島、板野といったメンバーに入れ込んでいるように見えて、実は秋元イズム、秋元が構築しているAKBエコシステムに完全に洗脳されている。言い換えれば、こういったエコシステムを維持するために、秋元はそれぞれのコマを好き勝手に操るのだ。つまりAKB48は敢えて才能のない人間を集めてきて、それでも自分のシステムは機能するのだと、これ見よがしのことをやっているようにすら思えないでもない。

そして、秋元の関心は、実はこういったシステムを維持するところにしかない。逆に言えば、そのシステム構築を阻害する場合には、いとも容易にコマを切り捨てることもいとわない。まさにタレントたちは秋元イズムという利己遺伝子が乗っかっている媒体なのだ。

で、ついでにいっておくと、そんなとき「クラスで十番目くらいのアタマのよさ」というのは実に都合がいい。なぜって、とっても操りやすいからだ。彼女たちには、こういった秋元の戦略を読み取りだけの力は、毛頭ない。だから本気で「涙を流す」し、本気で「がむしゃらにがんばる」。つまり「敵を欺くには、先ず味方から」というわけで、そうすることでファンたちはこの素直な「クラスで十番目くらいのアタマのよさ」の女の子に同情したり、支援したりするようになる。つまり、全ては「秋元康というお釈迦様の手のひら」にメディア、芸能界、ファンたちは置かれている。そして、今のところ、彼のこの斬新な手法は芸能界に旋風を巻き起こしているわけで。まあ、とはいっても、この秋元エコシステムはCD売り上げが激減している音楽業界、視聴率が低下しているTV業界にはまさに福音で、だからさしあたり「神秋元」に頼るしかないんだろうけれど。

さて、来年、「さしこ」はどうなっているのだろう?




イメージ 2

秋元はほとんど芸能界の「ダースベイダー?」

↑このページのトップヘ