Facebookは曲がり角?
現在、Facebook人口は9億に達したと言われている。そのユーザーの多さから「中国、インド、Facebook」とすら呼ばれているけれど、その一方で、この勢いが止まりつつあるのでは?という懸念もしばしばなされている。とりわけ指摘を受けるのが「Facebook疲れ」と呼ばれる現象だ。やり過ぎてウンザリしてしまい、やめてしまう現象をさしてこう呼ぶのだけれど。
たとえばこれはこんな具合で発生するといわれている。
Facebookは原則、実名登録だ。そして自らの写真も掲載する(中にはハンドルネームを使っているユーザーもいるらしい。また写真を掲載しないユーザーは多い。とりわけ日本人。日本人は「個人情報フェチ」っぽいので、とにかく顔くらいは隠したいと思うのだろうか。これは他の国ではなかなか見られない現象だ)。また自らの様々なプロフィールも公開する(このデータを基に関係すると思われるユーザーを、Facebookは探しでしてくるのだけど。ちなみに、やっぱりこのデータを最小限にすれば、個人情報を制限することができる。で、日本人はやっぱりこちらの方でも公開しない人間が多い)。ということは、お互いの「御里(おさと)」が知られていることになる。
Facebook疲れはmixi疲れと同じ?
つまり、Facebookのメインとなる機能の中心は日常生活の延長上、面の割れた同士のコミュニケーション活性化ツールと考えることができる。オンラインの人間関係が助長されるし、普段の関係がネット上に癒着するという構造になっている。ということは2ちゃんねるのような匿名空間でのしがらみの無さとは全く逆のメディアとして機能する。だから、やればやるほどお互いの関係が粘着性を帯び、しがらみに縛り付けられることになる。で、だんだん息苦しくなっていって、結局ここから離脱していく。こんなところだろうか。
たしかに、こうなってしまうという展開は十分にあり得るだろう。ただし、これはFacebookの利用の仕方がきわめて偏向しているから発生することだと考えることもできる。その利用法は、例えて言ってしまえば、mixiでの運用方法をそのままFacebookにあてはめたためと考えることができるだろう。mixiはハンドルネームを使いこそすれ、実質的には面の割れた人間間のネットワークを活性化させるSNSだ。だから、前述したFacebook疲れと全く同様の事態が発生する。何のことはない「Facebook疲れ」とは、もともと「mixi疲れ」と呼ばれたものをそのまま適用したものに過ぎない。
しかしFacebook人口は増加している
ということは、Facebook疲れはFacebookからmixi疲れの要素を取り除いたような利用法をする限りにおいて、そういった事態は発生しないと考えることもできる。僕はFacebookを利用し始めてそろそろ一年半になるが、Facebookに疲れを感じたことは全然ない。いや、それどころかますますこれにのめり込んでいるという状況だ。で、僕みたいに「Facebook疲れ知らず」という人間が実は趨勢だろう。だからこそ、その勢いは止まることはないといえるのではないだろうか(一年間で3億(1.5倍)も人口が増えたのだから)。一方、mixiの方はmixi疲れ、そしてFacebookと機能がバッティングしたこともあって、最近はじり貧だ。かなりのユーザーがFacebookに乗り換えている。ただし、もちろんFacebookもmixiと同等の機能を備えてはいる(だからmixiから移ってきたユーザーが多いのだけれど)。だったらmixiはダメでFacebookは問題ないというのはどこに求められるのだろうか?今回は、このことについて考えてみよう(ただし、本特集で議論に取り上げる以外の機能をmixiもFacebookも備えてはいる。だから、ここでは最も利用頻度が高い機能に限定するかたちで今回は展開したい)。(続く)