勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2012年06月

スマホそしてSNS(Facebook、Twitter、mixi)普及によるネットモラルの混乱について考えている。前回は「パブリック-プライベート」の軸について展開した。つまり、ネット上では双方の線引きが明瞭でなく、パブリックな領域にプライベートが侵入してしまったり、あるいはその逆のことが起きたりして混乱を来していることを指摘しておいた。そして、これに拍車をかけるのが、残りの様々な軸、つまり「匿名ー有名」「インストゥルメンタルーコンサマトリー」「コミュニケーション志向ー情報入手志向」だ。

「匿名-有名」の軸のブレ

先ず「匿名-有名」の軸についてとりあげよう。SNSの場合、どこまでが匿名で、どこまでが有名なのかがわかりづらいことは確かだ(実名主義のFacebookを除く)。たとえばTwitterで個人的なことをツイートしたとしても、その名前が匿名であれば大丈夫と思えないこともない。ところが、このTwitterでの個人のツイート履歴を辿っていくことで、実はかなりの場合、つぶやいている側の素性が判明してしまう。つまり履歴が、あたかもスマホ・アプリのAkinatorのようにプロファイリングされてしまう可能性があるのだ。たとえばJリーグ・川崎フロンターレの選手がホテルに女性タレントとチェックインしたことをホテルの女性従業員がツイートしてしまったことがあった。これ自体はホテルの従業員が守秘義務を破ってしまったこと、つまり前回指摘しておいたパブリックとプライベートの混同をやってしまったことになる。しかし、このツイートをした女性従業員はTwitterで匿名でつぶやいたため、何ら問題ないと思っていたフシがある。ところが、そうではなかった。これを不謹慎な行いだとして彼女はネットユーザーたちにプロファイリングされ、名前、写真、生まれ、出身校、所属大学、加入している部活動などなど、そのプライベートをネット上で徹底的にバラされてしまったのだ(彼女のツイートから彼女の写真がネット上に公開されるまで五時間もかからなかったという)。これによって彼女がホテルを辞めることになったのはもちろんだが、それ以上に精神的な大きなダメージを追ったであろうことは想像に難くない。

要するに、この「事件」の場合、前回の「パブリック-プライベート」軸のブレに、さらに「匿名-有名」のブレが重なり、事が大きくなってしまったというわけだ。もちろん、こうやって彼女のプライバシーを暴露し、ケチョンケチョンにしてネタとして楽しむという輩も、やはり、この二つの軸を完全に混乱させてしまっている。もし、このツイートを入手したユーザーがこれらの軸を遵守していれば、これを暴露することで相手がどのような状況に陥れられるかということは容易に想像が付くはずだ。ところが、自らが匿名であることを逆手にとって、当事者をやりたい放題に誹謗中傷し続けた(こういった事態に対する、処方箋=マナーやルールはまだ形成されていない)。それは言い換えればツイートした側もこれをバッシングした側も「匿名-有名」についての認識がSNS上ではリアルワールドとは異なり、完全に歪んでいることを意味している。

しかし、混乱はこれだけにとどまらないさらに第三、そして第四の軸がいっそうの混乱をもたらすことになるのだけれど。(続く)

ネット上の混乱、とりわけ急激に普及するSNS(この場合Facebook、Twitter、mixiなどの狭義のSNSを指すことにする)のそれについて考えている。これを考える軸として、前回の最後に「パブリック-プライベート」「匿名-有名」「インストゥルメンタルーコンサマトリー」「コミュニケーション志向ー情報入手志向」の五つを提示しておいた。で、ここからは、これらそれぞれについて、そしてそれぞれが絡むことによって発生している事態について考えていこう。

先ず混乱要因として、最もわかりやすい「パブリック-プライベート」の軸だ。われわれは無意識のうちに、公共の場とプライベートな場を使い分けている。今回はこれについて取り上げてみよう

パブリックとプライベートは文化によって恣意的に決定されている

これは、たとえば裸体と例にとって考えてみるとよくわかる。原則、われわれが裸体をみせる場所はプライベートな空間だ。家族、恋人、そしてたった一人の空間で僕らは裸体になる。ところが、裸体は状況によってはパブリックな存在ともなり得る。それは銭湯に入ることを考えればわかりやすい(銭湯の英語は”public bath”だ)。この時、われわれは見知らぬ人間同士でありながら、互いの裸体を露出する。裸体の露出は男女間でも何ら違和感なく行われることもある。わかりやすいのは混浴だけれども、その他にも男性医の前で女性が裸体になる(その逆ももちろん同じ)、スポーツクラブの男性ロッカールームのメインテナンスを女性がやっているなんてのもこの部類に属する。

つまり、われわれはシチュエーションによって裸体をパブリックなもの、プライベートなものとして使い分けているわけだ。そして、このような「使い分け」は社会の文化・制度的側面によって規定されている。だから、これに僕らは違和感を抱かないわけだけど。逆に言えば文化圏が異なれば、自分がプライベートなものと思っているものが突然パブリックになったり、その逆になったりする。最近はどうだかわからないが十数年前の中国だったら公衆便所で用を足すことは、外国人にとってはかなり苦痛だった。というのもトイレに扉がなく、用を足しているところが順番を待っている人間に丸見えだったからだ。もちろん、中国人たちはそんなことは一切気にとめる様子もなかったのだけれど。

SNS上で展開されるパブリックとプライベートの混乱

さて、インターネット、とりわけSNS上では、現在のところこのパブリックとプライベートの線引きがはっきりしていない。十年も前から「ネチケット」、つまりネット上のエチケットみたいなことが言われてきたが、このネチケットはなかなか守られていない。というのも、ネチケットと言ってもリアルのエチケットをそのまま踏襲しただけのものなので、それがインターネット上のエチケットにも適用可能かは全くもって未知数だし、インターネットユーザーがこれを支持しているわけでも必ずしもないからだ。だから、それぞれの使い方がバラバラで混乱し、それぞれが勝手な基準でパブリックとプライベートを使い分けている。

鬼塚ちひろは素っ裸で路上に出てしまった?

その結果、ネット上で発生しているのが、いわば「素っ裸で路上に出る」「屋台ラーメン食べるためにタキシードで決めてくる」みたいな現象だ。つまり前者はプライベートをパブリックな状況に持ち込むこと、後者はその逆を意味している。基準=スタンダードがないのだから、誰もがある程度、この手のことはやっているのだけれど、その中には明らかに度が過ぎていて、事件や揉めごとになるなんてこともしばしばある。たとえば直近の例であるならばTwitterを始めたばかりのミュージシャン鬼塚ちひろが突然「和田アキ子殺してぇ」「紳助も殺したえ」なんてつぶやいてしまったのがその典型。これ、鬼塚という個人が身内の間で酔っ払って吐いているなら何ら問題はない。つまりプライベートな空間でやっていればいいものを、Twitterというネット上の公的な場でつぶやいてしまった。だから、メディアで騒がれてしまうということになってしまったのだけれど。そして、こういった公私の区別が付かない状態でSNSを利用することで、たとえばTwitterは「バカ発見器」になったわけだけれど(ということは鬼塚もまた「バカ」として発見されてしまったということになる)。

ただし、この混乱にいっそうの混乱を来すのが、残りの様々なタームなのだ。では、どうやって?(続く)

スマホの普及は本格的なインターネット時代の夜明け

スマホの普及でインターネットを頻繁に利用する層が爆発的に増加している(スマホはネットブラウズや音楽機能付きのケータイではない。そうではなくて音楽機能やケータイ付きのコンピューター=アプリとインターネットマシンだ。この事実は、徐々にだが浸透しつつある)。

インターネット元年と呼ばれた96年。だが、当時インターネットを本格的に使いこなせる層は一部だった。これはWeb2.0と呼ばれ、ブログや検索、インターネットビジネスが本格的になったと呼ばれた2004年当時も同じだった。これらはいずれも「ユーザーが能動的にネットにアクセスするようになった」、具体的にはネットを使って情報発信するようになったということをインターネットの普及と捉えていたのだけれど、その認識からしても、当時はまだまだインターネットの普及とは言えないものだった。要するに当時、人々のほとんどはまだま,ネットを通じて情報発信していない。その理由は、インターネットがもっぱらパソコンというメディアを通してしか利用出来なかったためだ。つまり、ネットユーザーがパソコン・ユーザーに限られ、それが決定的な足枷となっていたのだ。

ホームページもブログも情報発信を促すツールとしては弱かった

ところが、スマホの普及によってこの事情は大幅に変化した。つまり受け手の能動性、受け手の情報発信があたりまえになり、しかもその数が膨大なものになったのだ。つまり、インターネットの普及は「ユーザーの情報発信力の上昇」ということで説明が付く。

ちょっと遡りながら、あらためて説明してみよう。まずインターネット元年の時代。この時にはホームページを作成することで情報発信が可能になったと言われた。ただし、当時ホームページで発信するためにはHTML言語でプログラムを打たねばならず(これ自体は、それまでのプログラムに比べればはるかに簡単なものだったのだけど)、時間もかかるので、一般の人間が食指を伸ばすにはちょっと敷居が高かった。

次にWeb2.0で情報発信の可能性として注目されたのはブログだった。ワープロを打つより簡単にホームページを作成できるブログで多くの人間が情報発信を始めたとされたのだ。しかし、前述したようにブログを作成するインターネット・ユーザーは先ずパソコンユーザーでなければならなかった。だから、ワープロより簡単と言っても、パソコン所有という第一ハードルが設けられていたのだ。これで、普及に足枷が付く。

スマホが推進した情報発信力の上昇

こういった情報発信への敷居がスマホによって一気に取り払われる。先ず、スマホはケータイ(=ガラケー)の発展版、あるいはタッチパネル版というイメージを振りまくことで、ネットアクセスにあまり気持ちが向かわない大量のネットユーザーを創り出した。というか、ガラケー・ユーザーに、スマホを「ケータイの変形版」と騙してこれに切り替えさせることで、それが結果としてネットユーザーを自動的に大量に創り出すことになってしまった。なんのことはない、スマホユーザー=ネットユーザーなのだから(ネットを使わないスマホユーザーなど、ほとんどいないだろう)。これでネット=パソコンという軛が取り払われた。

そして、これにブログ以上に情報発信をカジュアルにするツールが搭載される。SNS、とりわけFacebook、Twitter、そしてmixiだ。もともとガラケーでメールを打つことは慣れている。この情報発信をSNSに移行させれば、それは文字だけでなく、音や画像、映像までがカジュアルに発信可能となる(たとえば、スマホで撮影した写真をソッコーフェイスブックにアップなんてことをユーザーはみ~んなやっている)。そう、当初はホームページが情報発信の画期的なツールとされていたインターネットメディアだったのだけれど、最終的にユーザーの情報発信はこういったSNSに収斂していったのだ。そして今やFacebookの人口は9億人と呼ばれている。世界中の人間がネット上で情報発信するようになっているというわけだ。

技術インフラの充実に追いつかないユーザー側のインフラ

しかし、こういった急激な情報発信者の増大傾向にもかかわらず、その中で情報発信する人々の発信様式はまだまだ流動的なままだ。インターネット上でのコミュニケーションのあり方は定まっていない。もちろん、制度面での対応もまだ未整備のまま。そこでこの使い方を勘違いした連中が、ネット上で物議を醸すことになる。前回特集したTwitter上で公共で表明してはヤバいようなことをヘーキで披露してしまい、墓穴を掘るような輩が登場するのだ(だからTwitterは「バカ発見器」と呼ばれているのだけれど)。言い換えれば「ネットの常識」はまだまだ制度化されていないし、慣習化されてもいない。受容レベルが技術レベルに追いついていないのである。

で、今回はこの混乱状況についてメディア論的に考えてみたいと思う。その際キーポイントのなるタームは「パブリック-プライベート」「匿名-有名」「インストゥルメンタルーコンサマトリー」「情報入手志向ーコミュニケーション志向」の五つだ。

さて、この混乱、どういうふうに考えられるものだろうか?(続く)

Facebookとmixiが共にリアルワールドを担保としたSNSでありながら、前者がますますユーザーを増やし、その一方でmixiがじり貧であることについて考えている。前回は、その原因の一つとしてユーザーのリアル・コミュニケーション・ネットワークの規模の問題を取り上げてきた。つまり、中高生(あるいは大学生)を中心とするmixiは若年層ゆえリアル上でのネットワークが小さい。一方、大人は大きい。これが結果としてmixi疲れという現象を発生させ、mixi離れを起こさせ、さらにFacebookへの移動を加速すると結論しておいた。

ハンドルネームという中途半端な実名性

ただし、こういったユーザー層の相違を生んだ理由は、やはり二つのSNSの機能的(=メディア特性的)な相違にあるはずだ。これはおそらくmixi=ハンドルネームとFacebook=実名といったところに求められるだろう。で、結論から述べればmixiのハンドルネームというシステムは中途半端、それゆえ袋小路に入ってしまったと考えられる。mixiは「匿名だけど実名」、つまりそのハンドルネームをマイミクたちは誰のハンドルネームであるか知っているというのが原則だ。で、言い換えれば全く知らないmixiユーザーとつながりマイミクになる可能性が、これによってグッと減ってしまう。しかも、マイミクになったところで、今度は逆にハンドルネームという匿名性が邪魔をして、相手が誰だかわからないから関係は限定する方向に気持ちが向かってしまう。要するにmixiは、実名の悪いところ=しがらみと匿名の悪いところ=誰だかわからないので危険の二つをハンドルネームというシステムによって併せ持ってしまった。その結果、身内から外に出ることが容易ではないという状況が作り出され、それがmixi疲れを起こし、一定期間を過ぎるとmixi離れという現象を結果してしまうことになる。

プロフィールを公開することの恩恵

一方、Facebookの方は実名だ。データ=プロフィールを書き込む部分に、自らの属性を書き込めば書き込むほど、その属性に関連した人間をFacebookは返してくる。僕だったら中学校、高校、大学の同級生なんてのがその典型だ。つまり自らの存在を公開することで、膨大な数の「かつての友人」をリストに挙げてくる。で、これらの人々と友だち申請すれば、こういった膨大な「リアルを担保にした友人たち」とのコミュニケーションが再開される。そして、これらの人間との関わりはmixiでティーン・エイジャーたちがやっているような狭い範囲に限定されたものとは異なっている。だから、深くなりすぎず、浅くなりすぎずという「ほどよい深さ」を獲得しやすい。もちろん、その一方でディープな関わり合いも可能だけれど、こういった「ディープ」「ほどよく深い」「浅い」の三つの関係が混在したかたちでニュースフィードに掲示される。だからいろんな人たちといろんなレベルで関わり合うことで、まあ忙しくはなるが、ネトネトとしたうっとうしい関係にはなりづらい。あるいは一部でなったとしても、それはFacebook全体で関わる友だちの一部に限定される。だから、こういったねっとりとした関わりでうんざりしても、それをあっさりした関係が相殺するというふうに機能してFacebookをやめる気にはならないのだ。でも、これって僕らのリアル・コミュニケーションと同じ。だからリアルな人間間における社会関係は維持される(ちなみに、こういったリアルとヴァーチャルのコミュニケーション様式が、逆に「表だっては言えないこと」を表明することを躊躇させるという側面も存在する。そこでFacebookユーザーは、そちらの「裏の話」はTwitterなどの他のSNSでやるということになる。この時、その「裏SNS」がmixiになることも、もちろんある)。

グループの連絡がプッシュ機能によって十全に稼働する

こんな特性を持っているから、グループを作っても円滑に作用しやすい。たとえば、メーリスや大学の連絡網をネットで作っても実は以外に上手く機能しない。というのも、これらはこちらが積極的に見に行かなければならないという「プル的なアクセス」を強いられるからだ。これはmixiのコミュニティも同様だ。ところがFacebookの場合は前述したようにたくさんの友だちとの多様なレベルでのコミュニケーションを図っているため、ユーザーはFacebookに積極的にアクセスする(というかネット上のコミュニケーションのプラットフォームとして機能するので、知らず知らずのうちに一日に何度もFacebookを開くことになるのだけれど)。すると、こういった友だちとのコミュニケーションが掲示されるニュースフィード上にグループ内での連絡も並列に並べられる。こうなると友だちとのやりとりがグループ内の連絡へアクセする動機を促す。つまり友だちとのやりとりはグループ内連絡をプッシュすることになるわけだ。

その結果、二つは同じリアルワールドを担保にしながら、Facebookは使用者の社交性=ネットワークの広さと使用用途の多様性によってユーザーを拡大し、mixiは逆に社交性の狭さと用途の少なさで、継続することに苦痛を来すような状況が次第に形成されることになったのだ。

で、結局どうなるかというと、僕は、このままならばmixiは最終的にどこかに吸収されて消滅してしまうとみている。mixiは、その狭い範囲でのしがらみを結果する手前、長期継続が原則難しく、しかもメディア性がFacebookと重複することで、もはや、行き場を失いつつあるというのが正直なところではないだろうか。

五年後、果たしてmixiは存在しているのだろうか?

Facebookとmixi、どちらも実名性に近い機能を備えている、つまり日常的関わりの延長として、そして日常的関わりを担保としてソーシャルネットワーキングサービスを展開している。にもかかわらず、mixiは近年「mixi疲れ」と称し、離脱するユーザーが増えている一方でFacebookの方はそのユーザー=人口拡大が止むことはない。この二つの違いの理由はどこに求められるのだろうか。

mixi=子ども向け、Facebook=大人向けとして広がった

実は二つとも同じような機能を有している。Facebookは実名主義だ。mixiはハンドルネーム性だが紹介制なので、結果として関わっている相手が既知の人物になることが多いので、その実名声は高い。また、グループを形成する機能も共に有している。だから片方が増えて片方が凹むというのは、本来ならちょっとヘンなのだ。

その原因一つは、ユーザーの属性にあると僕は考えている。Facebookはハーバード大学の社交クラブとして生まれたが、その後一般に開放され、主として大学生以上の大人層を中心に広まった。一方、mixiは日本のオリジナルで、主としてハイティーンを中心に広がった。で、この普及層の違いこそが二つの勢いを決定的に違うものにしているのではないだろうか。

リアル・コミュニケーションがSNS継続の担保になっている

大人は現実社会において様々な人間関係を構築している。例えば僕ならば、大学組織内の教員、職員、学生(前任校のそれらも含む)、親戚、友人、仕事相手、研究仲間といったネットワークを持っている。そしてFacebookはこういった既存の人間関係を活性化する役割を果たす。いや、それどころか完全に潜在化してしまって、長らく関わりのなかった関係者まで、さながらゾンビのように復活させてしまう。つまり人間関係における歴史のフラット化ということが起きる。だから、これらの人間と関わることで忙しくなる。その関わり方もプライベート的なものから仕事に至るまで実に多様。だから、そこでの関わり方もリアル・ワールドを反映したものになる。

もっともFacebook登録前からmixiには登録してはいた。でも、とんと利用することがなく、ほとんど開店休業状態になってしまっていた。理由は簡単、全然マイミクになるような人間が出現しなかったからだ。引っかかるのは教え子ばかり。これだとリアルもヴァーチャルも学生とつきあうことになってしまう。また、その内容についてもただのチャットという感じで、僕にとっては実用性の乏しいものだったのだ(「先生、友だち少ないんですね」と学生に揶揄されたこともあったけれど(^◇^;)。いや、違うのよ(`ヘ´))。

mixi疲れはリアルワールドでのコミュニケーション・ネットワークの狭さから発生する

ただし、mixiに関しては、こういったほとんど身内でのチャットという機能が趨勢を占めていることも確かなようだ。だから、リアルワールドでのコミュニケーション・ネットワークが小さく、既存のネットワークを強化して小さな世界を維持しようとする属性の持ち主にとっては便利な道具となる。そういった属性の持ち主とは、要するにティーンエイジャーだ。彼/彼女たちが関わる世界は学校とその周辺の域を出ることはほとんどない。しかも、それが数少ない、あるいは唯一のネットワーク。だから、これを失うことは社会とのつながりを失うことに等しい。だったら、この関係を始終維持し続けて不安を解消する必要がある。そこでmixiの登場と相成る。つまり学校でリアルに友だちとつながり、ネット上ではマイミク関係のもとでヴァーチャルにつながって互いを二重に縛り付けるのだ。こうすれば安心だが、だが、それは当然うっとうしいものとなる危険性を常に孕んでいる。だから、ちょっとした関係の軋轢生まれただけでも、このリアルとヴァーチャルによるネットワークの往還は精神的にツライものになる。で、これに耐えられなくなったとき、彼/彼女は「mixi疲れ」をおこし、ここから離脱していくのだ。

ということは、こういったティーンエイジャーがFacebookに乗り換えたところで同じことが発生する可能性が高いということになる。つまり、やっぱりFacebook上で現在のリアルワールドでのコミュニケーションネットワーク上にある人間と関わるからだ。当然、こういった人間たちは「Facebook疲れ」にもなるというわけだ。

もちろんFacebookとmixiの違いはそれだけではない。機能的な側面でも大きく異なり、それが現状における二つのSNSの優劣の違いを作っているのだけれど。(続く)

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