メディテレニアンハーバーに堂々と登場した花で作られたダッフィー
ケープコッド・クックオフは花飾りの缶までがダッフィーだ
長期にわたってディズニーランド(TDL、TDS)の熱狂的なファンだった人間たちが、近年、ファンから離脱しつつあるのではないかという現状について考えている。今回は「パーク内における物語」が崩壊し、それに心酔していたファンたちがTDL、TDS二つのテーマパークから離脱していくプロセスについて展開する。
幼年時代~ディズニーという「ゆりかご」の中で過ごす
彼らは子供時代、おもちゃをひっくり返したようなTDL、TDSに熱狂する。そしてディズニーフリークとなる。さしあたり興味を抱くのはキャラクターだ。ミッキー、ミニー、プーさん、ドナルド。これらはいわば「萌え要素」。そのわかりやすい記号的な、そして攻撃性を抑制する「丸いかたち」を中心とした姿顔立ちは、物語やテーマ性を理解する年齢に達していない子供たちにとっては実に取っつきやすい「危険性を感じない」存在だ。で、そんなキャラクターが一挙に集合しているTDLは実に魅惑的な空間となる。また、家庭でも、その身の回りはこれらキャラクターに取り囲まれた状態(当然、親が買い与えている)。ということは、TDLそしてTDSは安心できる環境でもあるわけで、とどのつまり、彼らにとって二つのパークは「ゆりかご」なのだ。
ティーンエイジャーにとってパークはコミュニケーション空間
10代、つまりティーンエイジャーともなれば、当然子供たちはおませになってくる。ちょっとナマイキにファッションにこだわりはじめたりするのだ。こういったファッションは友だちとのコミュニケーションを形成する格好のメディアでもある。そして、ファッションと同様、こういったコミュニケーション・メディアのひとつとしてディズニーグッズ、そしてTDL、TDSも位置づけられることになる。彼ら(とりわけ女子)がバックに必ずといっていいほどぶら下げているキャラクターグッズ、それがダッフィー、そしてシェリーメイだ(もはやミッキーではない)。これをぶら下げていることが、互いが環境を共有していることの記号となっている。
で、このダッフィーを販売しているのがTDSだ。だから、友だちと連れだったTDSへ出かける。その目的は言うまでもなく、ダッフィーと出会い、新しいダッフィーグッズを買い求めるため(もちろん身体にはダッフィーをぶら下げて、あるいは抱えてパークにやってくるのだけれど)。パーク内のあちこちには自分が持ってきた、あるいは購入したダッフィーを置いて写真を撮影するフォトスポットが用意されている。ダッフィーだけを撮影したり、自分や仲間を入れて撮ったり。TDSという名のダッフィー・ランドはこうやって、今、大いに盛り上がっている。女の子たちはパーク内でパスポートを持ち歩くように、身体の一部にダッフィーかシェリーメイを装着しているのだけれど、そんな子だらけなのだ。
大人になったディズニーファンが辿る二つの道
さて、こうやってディズニー世界で育った子供が大人になるとどうなるか。その方向は二つある。
一つは、相変わらずディズニー・ライフを続けるというスタイルだ。恋人とパークを訪れ、ディズニーをコミュニケーションのメディアとし、結婚して子供ができたらディズニーグッズを買い与え、足蹴にパークに通い続ける。まあ、これは普通のディズニーファンだろう。
ところが、もう一つある。それは熱狂的なファンだ。彼らは二つのテーマパークに通い続けていく中で、ディズニーに対するリテラシーを上げていき、最終的にウォルトの精神に関心を抱くようになる。つまりこの物語の重層性によって作り上げられたテーマパークの魅力に取り憑かれる、言い換えれば大人の鑑賞眼でパークを見るようになるのだ。だが、そうなってしまったとき、二つのパークに対する熱狂は反転する。自らがウォルト的な美意識を身につけたお陰で、彼/彼女らがウォルトの立場で二つのパークを見つめ始めてしまうからだ。その結果、意識に芽生えるのはパークに対する幻滅だ。ここには単なるスクラップ・アンド・ビルドがあるだけで物語の重層性がない、いやそれどころかかつては存在した物語性、そしてテーマ性が年々破壊され続けている……。今回、僕が二つのエピソードで語った女性二人の発言、「私のディズニーじゃない」「あそこは終わっている」は、そういった認識が生まれていることを示唆している。そして、彼/彼女たちは二つのテーマパークに愛想を尽かし、脱TDL、TDS化していく。ただし、ディズニーが好きなことはそのままに。だから、彼/彼女たちが本家のアナハイムやフロリダのテーマパークに行ったときには評価は全く逆となる。つまり、あそここそが「私のディズニー」「私のディズニーランド」となる。
日本人にとってのこれからのディズニーランドとは
こうやって考えてみると、アメリカ人にとってのディズニーランドと日本人にとってのそれとはかなり位置づけが違っていることが考えられるだろう。能登路雅子が『ディズニーランドという聖地』で指摘するように、アメリカ人にとってディズニーランドは「聖地」。僕の解釈を加えれば人生に二度出かけ留場所。つまり、子供の時、そして大人になって子供を連れてくるとき。そしてアメリカのパークはテーマと物語の年輪を重ねるがゆえに「大人だましの世界」でもある。だから、子供と大人が楽しめるファミリー・エンターテインメントの空間を構成し続けている。
一方、日本人にとっては通過儀礼的な消費の空間。子供の頃熱狂するけれど、物語の年輪がないために大人の鑑賞に堪えない「子供だましの世界」を構築している(というか、30年間の内に構築してしまった)。だから子供の頃熱狂し、大人になるとやはり子供を連れてくるところではあるけれど、結構醒めてしまっているので、大人にとってはその辺の遊園地とあまり変わるところはなくなっていく。子供の頃入れ込みすぎた人間なら興ざめして遠ざかるところ。
とはいうものの、その需要が消え去ることはないだろう。ディズニー世界はすっかり定着し、子供用の遊園地としてもすっかり認知されてしまったのだから。で、さらにこのテーマ性の破壊を経営母体のオリエンタルランドは推進していくだろう。なぜって?その方がカネがもうかるからだ。ただし、そこにウォルトの精神のような高邁な理念はない。だから目先の利益に目がくらんでいることも確か。そして、こういった状況に企業が陥ったとき、最終的に生じるのは組織、環境そのものが飽きられ崩壊するという運命なんだが……TDL、TDSは今後どんな運命を辿っていくんだろうか?
ちなみに、僕はこれからも二つのテーマパークには通い続けるつもりだ。ファンとしての関心ではなくメディア論研究者としての関心を持って。心底ディズニー世界を楽しみたかったら、もちろんアナハイムに出かけるつもりだけれど。