勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2012年02月


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旅行人山荘。チョー有名な赤松の湯



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露天風呂の入り口にある傘。露天なので雨の日にはこれを被って風呂に入るという、細かい気遣い。

十年間九州を回って、施設が貧弱、料理も質素。風呂も小さいものがある程度。余分な設備はない。但し低料金でホスピタリティー最高。古い設備だけれどメインテナンスが行き届いているという条件に叶うホテルのベストを紹介している。前回は北阿蘇・杖立溫泉の葉隠館だった。で、今回紹介したいのが霧島温泉内の旅行人山荘だ。

ヘンな名前の溫泉「旅行人山荘」

しかし、この温泉の名前、ちょっとヘンだ。溫泉旅館というカテゴリーより、むしろ山小屋の方がイメージされる。実はこれにはそれなりのいわれがある。ここの以前の名前は「霧島プリンスホテル」だった。ところが、このホテル。平成11年に、ご主人と女将さんが相次いで亡くなってしまったのだ。そこで、後を継ぐことになったのが長男の蔵前壮一氏だった。それまで蔵前氏は東京で弟である仁一氏(『ゴーゴー、インド』『ゴーゴーアジア』などの紀行文で知られるイラストレーター)とバックパッカー向け情報誌「旅行人」の編集を手がけていた。壮一氏はこちらの仕事を弟に委ね、家の仕事を継ぐことになったのだ。だから、その名前も旅行人山荘にしたというわけ(当然、雑誌の知名度を踏まえての命名だろう)。

旅行人山荘は、それゆえ、よく見るとかつての霧島プリンスホテルの面影をしっかりと残している。建物は六十年代の鉄筋コンクリートで古めかしい。ただし、ここに壮一氏が東京の編集者としての生活で培ったノウハウがたっぷりと注ぎ込まれており、充実した施設の中で、洗練されたサービスが受けられる。

確かに建物は古いがリニューアルを重ね、室内は清潔で新しい。一階にはライブラリーがいくつかあり、東郷青児や山下清などたくさんの絵が飾ってある。また、今回は特集として弟・仁一氏のイラスト展が行われていた。イラストに氏の著書で親しんできた僕にとっては、そのオリジナルが見られることで、これは思わぬ幸運だった。

ゴージャス、そして実は有名な温泉

だが、設備面で最も誇るべきところは、肝腎の溫泉だ。大風呂の錦江の湯と大隅の湯はともに露天風呂付なのだけれど、どちらも湯船から錦江湾と桜島の絶景が見渡せる。

さらに、これよりもっと楽しめるのが貸し切り風呂だ。敷地の林の中に赤松の湯、鹿の湯、もみじの湯、ひのきの湯の四つがあり、宿泊客は45分間の貸し切りが可能だ。中でも最も人気なのが赤松の湯で、これはAGF Blendy CoffeeのCMでロケ地として使われた(出演は原田知世)。秋の紅葉の時期に行けば紅葉に囲まれて露天を楽しむことができる。ちなみに、言い忘れたけれど、湯質は九州でも随一と評判の高い霧島の湯そのもの。濃厚な硫黄の臭いが漂い、湯船は白濁、湯ノ花がいっぱいだ。

料理もシンプルだが細かいところに配慮が行き届いている。朝食のアジの開きは甑島から取り寄せた逸品。壮一氏直々に自家製の四十年ものの梅酒をいただいたけれど、これも濃厚で、ガッツリ楽しめた。ちなみに、こういった様々なサービスは宿泊客のリクエストを参考にしながらだんだんと築いていったものだと壮一氏は説明してくれた。うむ、なるほど。

洗練された都会的なホスピタリティ

しかし、最も評価すべき点は葉隠館同様、やはりホスピタリティだ。とにかく教育が隅々まで行き届いているという感じ。ちょっとした質問でも、どの従業員も実に丁寧に応対してくれる。エピソードをひとつあげてみよう。朝食会場での出来事。会場からは露天と同様錦江湾と桜島の絶景を楽しむことができるのだけれど、あいにく当日は霧。すると、僕の接待をしてくれた従業員が

「今日は牧園町の街並みしか見えませんねえ。でも、まるで山の中にぽつりとある小さな街みたいで、こんな風景も実は結構、貴重なんですよ」

と楽しみ方を説明してくれた。そう、従業員の誰もが職場にアイデンティファイし、プライドを持って宿泊客に接しているのだ。しかも、従業員のホスピタリティは押しつけがましくならないように、細心の注意が施されている。そういった意味では葉隠館のコテコテの家庭サービスとは対極の、極めて都会的で洗練されたサービスなのだ。で、今回の宿泊料は9800円。やっぱりこの価格もちょっと信じられない。
では、葉隠館と旅行人山荘に共通する特徴とはなんなんだろうか?(続く)


温泉宿、究極の選択

もし温泉宿に行くとしたら、あなたはこれからあげる二つの内のどちらをチョイスするだろうか。

1.施設が素晴らしく、料理も豪勢、風呂もたくさんあって、サウナや溫泉プールも簡易している宿。但し、高額でホスピタリティーは普通。メインテナンスもイマイチ。

2.施設が貧弱、料理も質素。風呂も小さいものがある程度。余分な設備はない。但し低料金でホスピタリティー最高。古い設備だけれどメインテナンスが行き届いている。

僕は確実に2を選ぶ。その理由の一つはコストパフォーマンスだ。つまり1は「お値段相応」、一方2は「お値段以上」だからだ。もう一つは温泉宿に「体験」を求めているから。1は施設を楽しめるけれど、2はコミュニケーションを楽しむことができる。言い換えれば溫泉の楽しみはハードよりもソフトと考える。

九州の温泉宿、ベストの二つに宿泊してきた
僕は、仕事の関係で十年間九州に暮らし、その間カミさんと九州中の溫泉巡りをやってきた。指宿の白水館とか霧島のいわさきホテルみたいな高額なところに宿泊したこともあるが、宿泊したほとんどは一泊二食付き一万円以下。 僕がバックパッカーあがりなので、なるべくチープに楽しみたいという精神がなかなか抜けないのだ(まあ、実際お金もないけれど)。で、この二月、用事で九州に出かけたのだけれど、その帰りがてら温泉宿二件に宿泊した。杖立溫泉の葉隠館と霧島温泉の旅行人山荘だ。実はこの二つ、僕が、これまで九州で宿泊した溫泉の中ではベストと評価する二つ。しかも典型的な2のタイプの宿だ。但し、二つはある意味、全くそのスタイルが異なっている。そこで今回はこの二つの宿の異なるすばらしさについてお伝えしたいと思う。

葉隠館~一見、ボロ屋

先ずは葉隠館から。先ず建物。昭和四年建築の木造ゆえ、リニューアルはしてあるといっても建物にはかなり年季が入っていて、あちこちキイキイ鳴るし、歩くと揺れるといった感じのボロ屋だ。トイレも水洗だが昭和初期のタイル張り、しかも小便器の水は自分でバルブをひねって流すタイプ。う~ん古い。レトロというよりも、古いまま現在に至っているという感じだ。

部屋もやはりボロい。畳もあっちこっち凹んでいるし、電話機も古い。

ジャ、肝腎の溫泉はどうだろう?これもかつてのタイル張りの古式ゆかしいもの。浴槽の一つはコンクリート打ちっ放しだ。二つの風呂があるが(昼と夜で男女を入れ替える)、小さい方は家庭の風呂に毛が生えた程度の大きさしかない。大きな風呂はまあそこそこの大きさ。サウナというか「蒸し風呂」があって、ここにはなんと普通の五分の二くらいの大きさしかないドアを開けてはいる。天井は1m50cmほど。広さは三畳程度と、閉所恐怖症の人間だと閉口するような造り。もちろん古い。

食事も質素。インターネット特別限定価格の宿泊客は通常のメニューより二品ほど料理が少なくなる。

また、経費節減のために関内のあちこちに「お説教モード」の張り紙もある。風呂場のシャワーは、使用が終わったらしっかりと栓を閉めろだとか、洗面所の電気をマメに消せだとか(トイレと水洗はもちろん共同)、とにかくあっちこっちに宿泊客向けの断り書きがある。

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葉隠館の正面玄関。まあ、年季が入っている

宿代が、湯質が、料理が、もてなしがサイコー!

とまあ、ここまで挙げたネガティブな要素を考えると「あんまり行きたくないなあ~」と思われるかも知れない。ところが、これが視点を変えた瞬間、究極の宿に変貌する。

先ず驚くのは宿泊料。インターネットの特別限定価格だとウイークデイなら一泊5,250円(入湯税等除く)というありえない破格の価格。この時代、国民宿舎でもこの価格はあり得ない。
次に施設。確かにボロい。しかし隅々までピカピカに磨き上げられていて実に気持ちがいい。そして、この造りが面白い。真ん中に階段があって周囲に客室が設けられているという造り。さながら「千と千尋の神隠し」の湯屋を彷彿とさせる。旅情はたっぷりだ。


肝腎の溫泉だが、これがスゴイ。まず湯質が最高だ。九州の溫泉は本州の溫泉に比べると、一般的に湯質がよいことで有名だ(実際、九州の溫泉に馴染んできた僕が、関東に戻ってきて、あっちこっちの溫泉に行き始めたのだけれど、湯質的に九州の平均的な溫泉に匹敵しうるのは草津くらいじゃないんだろうか?箱根とか熱海とか伊東は「う~ん、なんだかなぁ」という感じなのだ)。で、その中でもここの湯質は最高の部類に属する。肌がツルツルになるのだ。また、閉所恐怖症でなければ大風呂の方のサウナならぬ「蒸し風呂」も実にいい。乾式ではなく湿式。しかも蒸気はツルツルの温泉の湯なので、汗を流しつつ肌がツルツルという状態に。

だが、驚くのは質素なはずの食事だ。全て薬膳で料理には一工夫も二工夫もされている。月並みな溫泉にありがちの天ぷらを出してごまかすなんてことは全くない。馬刺し、カルパッチョなんてものが出てくる。ちょっと五千円の宿泊代にしてはゴージャスすぎる展開だ。で、自慢の料理がチーズの茶碗蒸しで、あっさりとしたピザのような味わいを楽しむことができる。ちなみにサイドオーダーも廉価で設定されていた。例えば鮎やイワナの塩焼きは一皿550円だ。どれも料理のレベルは高い。

そして料理でいちばん驚くのは、これがこの破格の宿泊料金にもかかわらず、なんと部屋食なのだ(朝食は会場になる)。葉隠館だけに、忍者風の格好をしたおばさんが料理を担いで階段を上がり、料理を出してくれる。しかも、温かいものを食べさせようというはからいで、少しずつ何回かに分けて料理を持ってきてくれるのだ。階段を何階も上り下りさせてしまい、申し訳ないような気すらしてくる。ちなみにおばさんは九時くらいまで階段脇のホールにいて、何かと客の面倒を見てくれる。


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葉隠館の夕食。牛のカルパッチョ(左前)、馬刺し(右奥)なんてのが5000演題の宿泊料で今日される。しかも部屋食だ。


素人経営?の極地

つまり葉隠館では家族的な経営を心がけて経費を徹底的に切り詰める代わりに、やはり家族的なコテコテのサービスを施し、顧客に溫泉ライフを「体験」させようとしているのだ。ここにはマニュアル的なものがあるわけではない。しかし、従業員たちが運営についてプライドを持って客を切り盛りしている。洗練されているというわけではないが、手作りの素人的なおもてなしのすばらしさが、ここにはある。今回は二度目だが、一度目よりも満足度はむしろ高かった。また、事あるごとに「ここへ泊まれ」と友人たちには紹介してきたが、誰もが大満足で、このサービスは僕に限った話ではないことがよくわかる。

ちなみに、次回紹介する旅行人山荘のオーナー・蔵前壮一氏と話をさせてもらう機会があったのだけれど、その際、僕が前日、葉隠館に宿泊したと言うと蔵前氏は「お目が高い」と僕をほめてくれた(^o^)。氏の弟である旅行作家で雑誌旅行人の編集長でもある蔵前仁一氏(というか、わが国のバックパッキングの火付け役)も、ここに友人を連れてよく宿泊するそうだ。

ダマされたと思って、お試しあれ!(続く)

※葉隠館HPはこちらhttp://www.tuetate.com/


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Thunderbolt Display+MacBook Airの組み合わせの原型となるPowerBook Duo





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DuoをDuoDockに差し込んで使う




念願のApple Thunderbolt Display(27inch)を購入した。値段は84,800円。同じサイズのディスプレイが、すでに二万円台で売られていることからすればかなり高い。しかし、この価格差は見方によって十分に納得のいくものとも言える。他のアップルの製品と同様、見た目は他と同じだが、使ってみると全然違うというものだからだ。そしてThunderbolt Displayはアップルが志向してきたパソコンのあり方の一つの到達点と言っていい。じゃあ、このディスプレイは他のものとどう違っているのか。

PowerBook Duoの先進性と中途半端さ

時代は21年前の91年に遡る。80年代の後半、パソコン各社がノートパソコンを販売したが、アップルはなかなかこの分野に手を出していなかった。だが91年にPowerBookシリーズを発売した際には、キーボードを前進させ、手前にトラックボールを配置するという画期的なスタイルを打ち出し、以後、このスタイルがノートパソコンのデファクト・スタンダードとなっていいく。

そして、この先進性をさらに一歩前進させるべくリリースされたのPowerBook Duoシリーズだった。これは本体から余分なものを極力外して軽量化させ(フロッピードライブを搭載せず、コネクターもバススロット一つだけ)、モバイル性を高めるとともに、自宅やオフィスに戻ったときにはDocking Stationという筐体にこれを差し込むことでデスクトップマシンに変貌するというものだった。ようするにノートパソコンとデスクトップパソコンを一体化しようというのが目論見で、そのスタイリッシュさと先見性に、一部のパソコンマニアたちが魅了されたものだった。ただし、高額であったこと、またdockがなければどこにも接続ができないという代物でもあったがために使用環境が限定されてしまったということで、このコンセプト自体は中途半端なものとなり、後続に引き継がれることがなかった。
で、こういったコンセプトはすっかりやめてしまったかと思いきや、アップルは突然、復活させたのだ。しかもDuoが抱えたハンディを全てクリアするというやり方で。そして、その役割を担う中心が、実はこのThunderbolt Displayなのだ。じゃあ、一般のディスプレイとどこが違うんだろう。

MacBookAirとの究極のマッチング

見た目は普通の27インチディスプレイというかiMacみたいな印象。ところが違っているところがある……それはThunderboltのコネクターと電源しか接続するものがないところだ。で、これをMacBookAirの11インチと接続する。この時MacBookAirが接続されるものは、やはりThunderboltのコネクターのみ。いや、厳密には二つで、それはMagsafeの電源なのだけれど、これがなんとディスプレイからThunderboltコネクターのコードと一体化し、途中で枝分かれするかたちでつなげられる。だからディスプレイとMacBook Airを接続するコードは実質的にはたったの一本なのだ。

で、Thunderboltコネクターは、この一本で全ての機能をつなげてしまう。つまりディスプレイ表示から始まってサウンド、プリンター、さらにはカメラ(ディスプレイの上部中央にHDカメラが内蔵されている)。ちなみに、これらは接続した瞬間、アクティブになる(もちろんMacBook Airは閉じたままだ)。

いや、話はこれだけでは終わらない。背面にはUSBポート×3、Firewire、Thunderbolt、Ethernetがあり、これに例えば外部ハードディスクを接続すれば、MacBookAirを接続した瞬間、これが外部ハードディスク(内部ハードディスク)となる。で、これをタイムマシーンを使ってバックアップとして使うと言うことも可能だ。 もちろんプリンターも同様だ。

つまり、Thunderbolt DisplayとMacBookAirの組み合わせはPowerBook Duoの完成形なのだ。持ち運んでいるときには一㎏強の超小型ウルトラブック。自宅やオフィスに戻ればThunderboltコネクター一本に接続するだけでデスクトップマシンに早変わりする。こうなると、もうデスクトップマシンはお役ご免というわけだ。



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自宅のThunderbolt DisplayとMacBookAir。Airは立てかけてある。スピーカーはBOSEのM-1を使用。おかげで机はスッキリ。コードもほとんどない。



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Thunderbolt Displayの背面コネクタ。左からUSB×3,Firewire、Thunderbolt、Ethernet。これに外部接続機器をつなげておけば、MacBookAirとはThunderboltコネクター一本で繋がる。



ミニマリズムを突き詰める

そう、これはアップルのミニマリズム=最少主義のコンセプトを骨太で踏襲したものだ。だから、究極のパソコンライフは普段はMacBookAir(とりわけ、より小さい11インチがいい)を持ち歩き、気ままにパソコンを操作し、自宅やオフィスではThunderbolt Displayと接続して大画面を見ながらじっくり作業に取り組むというスタイルになる(まあ、これにクラウドとスマホ、そしてiPadが加わるんだけど)。コードがどうした、パソコン間のデータ接続がどうしたなんてややこしいこととはおさらばだ。

MacBookエアーにThunderbolt Displayがあれば、パソコンは一台で十分なのだ!



求められる右脳の開発

偏差値教育が人間の備える左脳と右脳の内、もっぱら左脳の能力ばかりを評価し、現世御利益を狙い人間がこれに呼応するかたちで能力を鍛えた結果、日本がヘタレ社会になっていると言うことを、ここまで指摘してきた。

じゃあ、左脳と右脳をバランスよく養成するような教育方法を考えればよいということになる。いや、現状を踏まえれば、先ず行うべきことは、現在の左脳重視を反省し、左脳=頭がいいという偏見を相対化すると同時に、右脳開発のための教育プログラムを用意することということになる。

ただし、右脳開発は難しい。今回の特集で示しておいたように右脳には具体的な開発方法がほとんどない(だから、企業は採用にあたってSPIのような左脳チェックを行うと同時に、クドクドと面接をやる。面接でこの右脳のレベルをチェックしたいのだ。でも、やっぱり明確な測定基準はないので、しばしばスカを引いてしまうということになるのだけれど)。

キャリア教育に活路を求める

本特集で何度も述べてきたように、左脳を重視するのは仕事の能力(効率性、迅速性、正確性)を測定することがある程度可能だから。しかし、イノベーションとかブレーンストーミングとかグループワークとかについては、右脳の領域であり、測定が難しい。言い換えれば、左脳が測定可能と言うことは、マニュアルなどのシステム化によって養成可能と言うことでもあるということだけれど、右脳についてはこういったシステムを具体的に作り上げることが困難ということでもある。では、右脳はどうやったら鍛えられるのだろうか。

そこで提案したいのが、現在大学が取り組みはじめているキャリア教育だ。ただし、現状のものは全くダメ。あそこでやってるのは単なる戦術、お辞儀の仕方みたいな「付け焼き刃」を付けることと、SPIみたいな左脳のスキルアップでしかない(ほとんどの大学でのキャリア教育は大学内=学生にではなく、大学外=宣伝・広報に向けられている)。もちろん左脳のスキルアップも必要だけれども、それに加えて右脳アップ、さらには左脳と右脳のバランスに関するスキルアップを図るような教育を施さなければならないだろう。

身体にスキルをしみこませるキャリア教育を

じゃあ、どうするか。そのひとつとして提案したいのは「グループワークによるフィールドワーク」だ。つまり、チームを組ませ、課題を与え、大学の外に出し、一般社会人に対してフィールドワークを行い、そのインプットをグループで考える、つまりブレーンストーミングし、ひとつの企画を完成させるというようなやり方だ(まあバラエティ番組「あいのり」の全メンバーに統一した達成課題を設けるようなものとイメージしてもらえばいいだろう)。こういった集団行動は、左脳だけでは処理できない状況に他ならない(当然、メンバー感ではグダグダな心理的葛藤状況が出現することが想定される)。ここに若者を放り込むことによって、右脳を鍛えること、左脳を鍛えること、そして二つのバランスを取ることが学習される。とりわけ右脳の鍛錬には最適だ。他者は常に自分と異なった行動をとる。それは予測不可能なのだけれど、グループワークの中ではこれを理解し取り込んでいかなければならないからだ。だがそのような「取り込み」を考えるという営為は、イコール物事を統合する力を鍛えることに他ならない。

ただし、ここには残念ながらこの方法にマニュアルはない(というかマニュアルで獲得できるような安っぽいものではない)。こういった生身の身体と身体がぶつかり合う中で先に述べたような右脳スキルを、まさに”体得”するのだ。皮膚感覚で状況や空気を読む技術とでも言ったらよいのだろうか(ということは、残念ながらこんなことをやっても右脳が鍛えられない人間もいることになるのだけれど)。

これはキャリア教育ではないが、僕の教え子の面白い例を一つ。ゼミに生真面目でシャレのわからない女の子がいた。いわゆる「頭がカタい」といったキャラクターで、大学時代はパッとしなかった。彼女は卒業後、就職を拒みバイトで金を貯めてワーキングホリデーに向かったのだが……その先でブレイクしたのだ。ほとんど英語も喋れないような彼女が半年たった頃には、現地にたくさんの友達ができたおかげで、かなり難しい英語をメールで書き込んでくるようになった。彼女は自分の殻を、ワーキングホリデーという「他者と生身で関わらないではやっていけない環境」に敢えて放り込むことによって破った。つまり、自ら演出したキャリア教育で一皮むけたというわけだ。こんな身体的なぶつかり合いの中での気づきを提供するような環境こそ、現代の教育は容易すべきなのではなかろうか。

最後に、今回の特集を終えるにあたって2人のコメントを引用しよう。
1人は東国原英夫前宮崎県知事だ。

「若者に徴農制を施すべき」

これは、教育についてコメントを求められたときのもの。当初は徴兵制と言って物議を醸し、これを言い換えた。東国原は若者を厳しい環境にある程度の期間放り込むことの必要性を主張したかったのだ。この場合、農作業で自然という外部と、そして共に働く他の人間とのグループワークが必要となる。

もう一人はスティーブ・ジョブズの発言だ。ジョブズは宿敵であるMicrosoftのビル・ゲイツを次のように批判した。

「ゲイツがダメなのは、僕みたいに若い頃にインドに行ったりドラッグをやったりしなかったからだ」

これもまた、外部へ一歩足を踏み出して、これと戦い自らの左脳を活性化することの重要性を述べたものと考えてよいだろう(ただしゲイツも天才だ。そしてこちらは極度に左脳が肥大した特異な才能の)。

ということで、そろそろ偏差値バカはやめたほうが、これからの日本のためだと僕は考えているが、みなさんはどうお思いだろうか?

左脳偏差値重視が生んだ弊害

高偏差値=頭がいいという偏見の問題点について考えている。ここまで人間の脳の機能には左脳と右脳があり、現代社会が左脳の能力である偏差値を高く評価していること。そして、その理由が、企業が「仕事のできないスカを引かないため」という目論見に基づいていることを確認してきた。左脳は測定可能で、こちらの能力が高ければ、少なくとも言われた仕事を正確かつ迅速にやれる可能性が高いためだ(ちなみに、これ以外の要因も、もちろんある。たとえば、「学閥」という身内を採用したいという利害的な文脈がそれで、マスコミと早稲田の関係なんてのがその典型だ)

ところが、こういった「安全パイ」を獲得しようとする企業の人事戦略が、翻って日本企業全体をヘタレにしていくという状況を生み出していく。左脳と右脳の能力は、必ずしも生得的なものではない。そのほとんどは後天的に学習で養成されるものだ。たとえば、低偏差値大学や中卒程度の学歴だった人間が、企業に入った途端、ものすごく正確迅速な作業をやり始めることが十分にあり得るのだ(この場合、就職した後に、社内の教育によって左脳が開発されたというわけだ)。言い換えれば、人間が「賢く」あるためには、後天的にこの脳の二つの側面をバランスよく「脳トレ」する必要があるということになる。

左脳の強化と右脳の野生化

ところが、である。日本社会は学歴社会。今回取り上げているように、高偏差値→一流企業→豊かな暮らしというステレオタイプがまかり通っている。そこで、こういった「社会の勝者」に我が子をさせたいと思うあまり、親は子供の偏差値アップ教育、つまり一流大学入学を目標とした受験教育に力を入れる。つまり左脳ばかりを強化させる教育に走る。その結果、教育方針は「受験以外の余分なことなど考える必要は無い」ということになる。

で、こういった左脳へ傾斜集中的な教育を施せば、必然的に右脳の脳トレについては放ったらかしになるわけで、右脳は全然進歩しない。しかも、こういった「左脳重視」は社会的にも是認されているわけで、これが「偏った、おかしなもの」として指摘されることはほとんどなくなる。その結果、どんどん「働きアリ」みたいなやつが育っていくわけだ。その一方で右脳は手つかずのままの野生な状態が続く……。

コントロールできない左脳による、右脳の横暴化

で、こういったかたち、つまり左脳肥大の状態で成長し、一流企業に入った連中には困ったことが生じる。彼らは徹底した左脳重視、左脳の能力こそ「アタマのよいことのしるし」と信じて疑わない「頭の悪い連中」になってしまうのだ。まあ、それなりの金銭的保障や社会的地位が確保されているので、これにあぐらをかいてしまい、もう自分がただの「左脳バカ」であることを気付くことすらない。そして、「自分たちはアタマがよいのだから、社会全体を自分たちが支配し先導するのは当然」というふうに、ますます考えていくようになる。 実はこれこそが、スノッブなエリート意識を形成しているんだが(もちろん働きアリとしての仕事はできる。つまり、それなりに評価される。だが、それが「頭の悪い状態」を、いっそう増長させることになる)。

ただし、彼らはあくまで左脳人間。右脳的な、ジャンルや分野を横断したり、まとめ上げたりする力はない。というか、左脳養成に全精力を注いだために、こちらの能力については、一般人よりも、むしろ劣っている可能性が高いことになる。しかしながら、これを顧みることなく、自信たっぷりに様々なことをやり始めるのだ。しかも横暴に。ちなみに横暴にやってしまうのは、ようするに右脳が全く発達していからだ。そこにあるのは次々と仕事はできるが、全く空気が読めないマヌケで迷惑な人格に他ならない。この状態、実は「無能な右脳による、左脳の支配」ということになる。これって、ものすごく野蛮なのだが。

ザッカーバーグのいない日本

ところが、世界の動きはこうなってはいない。左脳、右脳双方をバランスよく備えた人間が世界を変革している。コンピューターの世界を踏まえれば、例えばFacebookのマーク・ザッカーバーグは左脳としてはプログラムの天才であるけれど、インターネットを使って人間コミュニケーションを拡張しようとしたこと、つまりヴァーチャルを使ってリアルを活性化しようとしたという発想は明らかにコンピューター業界の人間たちが考えるものの外の発想、つまり右脳がやらかしていることだったのだ(だからザッカーバーグは天才なのだ)。

一方、日本の企業は、この偏差値至上主義が積もり積もって弊害を表面化させた結果、発想においても、自分たちが置かれているパラダイムから外に出ることができない連中がほとんどということになってしまった(おそらくその典型はSONYだろう。かつてのクリエイティブなスタッフたちが、大企業になることで集めたのは、ただの左脳バカだったというわけだ)。そう、これこそが、日本の社会や企業が創造力を枯渇させ、ヘタれてしまった原因に他ならないのではないだろうか。ちなみに現在飛ぶ鳥を落とす勢いのITC系諸企業(ゲーム屋さん等)も、その才能においては同等だ。時流に乗り、この時流に左脳がジャストフィットしたことで急成長を遂げているだけ。いずれ時の流れが変わってしまえば左脳集団といった色合いの強いこれらの企業のほとんどは消え去ってしまうか、勢いを失ってしまうだろう(ちなみに、これらの企業は巨大化しはじめた瞬間、判で押したように「左脳人間を集める」という保守的な企業経営をはじめている)。

じゃあ、これから日本はどうすれば、いいんだろう?(続く)

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