勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2012年02月


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雑誌「旅行人」が消え、霧島温泉・旅行人山荘が残った(こちらは大繁盛。霧島で評判の溫泉だ)。ちなみに看板は「旅行人」のもの。


「旅情の楽しみとしての読み物」という機能だけが残ったが

バックパッカー向け情報誌「旅行人」の休刊について考えている。前回まで、その原因としてバックパッキング・バブルがはじけたこと、そしてバックパッキングがトリビアなスキマ情報であるため、こういった情報についてはより詳細で、簡単にアクセス可能なインターネットにその機能を奪われたことを挙げておいた。後者について補足すれば、ネット情報の方が詳細、迅速、正確、確実(ただし、情報リテラシーが必要だが)。つまり、インターネットの提供するバックパッキングに関する情報は「旅行人」のそれをはるかに凌いでいたのである。

ということは、もう「旅行人」やることはなくなってしまったのだ。それまでの熱心な読者も、その情報アクセスについては次第にネットに移行した。だから情報誌としての機能は失われた。にもかかわらず月刊から季刊、そして上下刊→休刊というかたちで緩慢に死を迎えることができたのは、紀行文などによって雑誌を読むことで旅情に浸ることができたからだ。つまり「旅行人」は”情報にアクセスするもの”から”読み物”に変化していったのだ。

「読み物」としても賞味期限切れになった

しかし、やはり緩慢ながら死を迎えたということは、最終的に“読み物”としての機能もまた、失われたからに他ならない。2012年上刊、つまり最終刊の特集は「世界で唯一の、私の場所」というタイトルだった。これは旅ライターに見開き2ページにわたって、自分にとってのお気に入りの場所を綴ってもらったもの。椎名誠、下川裕治、小林紀晴、グレゴリ青山、前川健一といったライターたちが登場するが、おそらくこれらの作家の書物=紀行文に親しんでいるのは30代後半以上の、「かつてのバックパッカー」たち。だから、これら「かつての蒼々たる顔ぶれ」は、現在の若者には馴染みのない存在だろう(おそらく若者たちが、彼らの文章を読んだら「胡散臭いライター」という印象しか抱かないだろう)。だから、休刊号を購入するのはかつてのファンたちでしかない。そう、「旅行人」は完全にその歴史的使命を終えてしまっているのだ。

2月12日、僕は、現在、鹿児島霧島にある溫泉旅行人山荘でオーナーを務める、「旅行人」編集長の蔵前仁一の兄・壮一氏にお会いし、この辺の事情を伺った(壮一氏は、家業であるこのホテルを継ぐまでは、東京で「旅行人」の運営に携わっていた)。

「もう、時代が変わったって言うことなんですかね。弟も「これを続ける社会的意義なんかあるのか?」とボヤいていました。」

蔵前仁一は、すでに前年の上刊号で休刊を宣言していたという。

それでもバックパッキングはなくならない

最後に、誤解のないように一つだけ加えておかなければならないことがある。それは「旅行人」の消滅=バックパッキングの消滅、はないということだ。バックパッキング・バブルははじけた。だが、バックパッキングはかつてのそれほどではないにしても、旅のスタイルとしてすっかり定着したことも確かなのだ。昨年の夏、僕は例年通りバンコク・カオサン地区に二週間ほど滞在し、日本人の旅行者を観察することができた。一昨年こそ、タイの政情不安で日本人バックパッカーは激減したが、この夏は再び旅行者の数は復活している。もちろん、かつてに比べれば減少した感は否めないが、それは海外旅行熱が下がったことと同じ。だから、バックパッキングという旅スタイルが消滅することはちょっと考えられない。ただただ単に、旅を巡る社会の情勢が変化した、それに伴ってバックパッキングも、そのスタイルの変化を遂げている。そんなふうに捉えるのが、とりあえずは正鵠を射ているのではないか。

ちなみに、僕のバックパッキングも続く。ただし、やはりそのスタイルを変えながら。






インターネットという怪物

バックパッキングの情報誌「旅行人」が休刊した原因についてメディア論的な視点から考えている。その原因が情報インフラの充実とそれに伴う価値観の相対化に求められること。そして、その具体的な流れの一つとしてバックパッキング・バブルの消滅を前回指摘しておいた。今回は、インターネット環境の出現との関連について考えてみよう。

購入可能な「情報ノート」としての「旅行人」

バックパッキングの醍醐味はガイドブックには書かれていない場所へ行き、そこで自らの脚と頭とコミュニケーションを使って旅の情報を入手し、旅行地へ向かうというところにある。当然、こういった旅の情報はパリのエッフェル塔に登るとかニューヨークの自由の女神にいくというのとはわけが違って、情報は簡単には入手が難しい。そこへ向かう旅行者の数が圧倒的に少ないので、ガイドブックなどには掲載されないのだ(ガイドブックとしては危険な可能性のある場所は掲載を避けるという傾向もあるので、その結果バックパッカーたちが求める情報はこれらには掲載されないことになる)。必然的にバックパッキングは一般のパックツアーに比べると、情報収集においてはるかに高度なレベルを必要とする。

こういったトリビアな情報をフォローしたのが「旅行人」だった。もともと出版部数をメジャーの旅行誌のように大々的に拡大するというようなことは志向していないゆえ、これらのニッチな情報を取り扱うにはちょうどよかったのだ。本誌のもともとのアイデアは、バックパッカーが投宿するゲストハウスに置かれている「情報ノート」から始まっている(前身となった「遊星通信」はベタに情報ノート的な色彩を帯びていた)。これは70~80年代、世界各地で人気のゲストハウス=安宿には必ずといっていいほど置かれていたものだった。一般の大学ノート程度のものに、宿泊客が思い思いに旅の情報を書き込むのだ。バックパッカーたちはこの情報ノートをチェックすること(そして書き込むこと)も旅の楽しみの一つだった。そこには、自らがこれから向かう旅先についての細かな情報が書き込まれているという点では有用な情報であり、また思い思いに綴った旅に関する文面は、それを読むことでどっぷりと旅情に浸ることができたのだ。

そして、こういった旅の情報ノートを同人誌、さらに情報誌というかたちで実現したのが「旅行人」だった。つまり「書店で購入できる、濃密な情報ノート」が「旅行人」だったのだ。

インターネットと完全に機能が重なってしまった

ところが、このトリビアな情報、そして個人による口コミ情報をウリとすることが仇となる。これら機能が完全にインターネットカブってしまったのだ。つまり、旅について知りたい情報があればググればいいということになった。ネット上の情報は膨大。バックパッカーたちがトリビアで詳細な情報を書き込んでいる。だから、知りたい情報のあらかたはそこから入手することが可能。また、旅行地やゲストハウス、ホテルについての評判みたいなものも調べられる「とりまとめサイト」もある。Trip Advisorなどはその典型だ。

僕のリゾートさがしを例にとれば

ちょっと、僕の例を挙げてみよう。かつて、僕は以前、島にリゾート=沈没する際には次のような情報行動をとっていた。先ず、どこでもいいから島の中心部の、リゾートでもなんでもない格安のゲストハウスに一泊する。その間、バイクを借りて島中を巡り、ベストのリゾートを探す。で、お気に入りの場所が見つかったら、今度は旅行代理店を探しディスカウント価格でそこに宿泊する。こうやると、直にリゾートを確かめられるので間違いがない。その代わり一日中、バイクでグルグル回るので、泳ぐ前に土方焼けしてしまったけれど。

ところが、今はこんなことは一切やらない。自宅でTrip Advisorを開き、レビューを読み、リゾートのオフィシャル・ページに向かい、ExpediaやAgodaなどの予約サイトからディスカウント価格で予約を入れる。もちろん、これら全ては、日本にいる間にやれることで、あたりまえだけど土方焼けすることもない。そして、こうやって調べたものについては、ほぼ間違いがない結果を得られる(いや、むしろ詳細にわたって調べ上げることが可能)。つまり、ゴキゲンなリゾートに宿泊できるのだ。しかも、脚(バイク?)を使って調べた価格よりはるかに安く。

そして「読み物」としての機能が残った、はずなのだが……

こうやって「旅行人」からは、バックパッカー向けのトリビアな旅の情報提供という機能が失われた。その結果、残ったのは、旅情を楽しませること。つまり「読み物」として機能だった。しかし、これにも、やがて終止符が打たれるときがやってくる。(続く)


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「旅行人」最終号。編集長・蔵前仁一自ら手を振ってお別れ。残念!



バックパッカー向け情報誌「旅行人」の休刊の原因について考えている。90年代前半に創刊された本誌は、バックパッキング・ブームの牽引車として大きな役割を果たしたのだが21世紀に入って次第に発行部数を減らし、季刊、さらには年上下刊となり2012年上刊をもってその役割を終了した。僕は、この原因が編集長の蔵前仁一、そして「旅行人」のスタッフたちにあるとは決して考えない。彼らは、常に良心的な、そしてアマチュア目線を外さない良心的なスタンスで本誌を運営し、質を維持してきた。だから、むしろこのような結末になってしまったのは「時代の必然」と考える。言い換えれば、どんなに編集を工夫したところで、いずれこのような運命に至ることになることは必定のメディアであったと言えるのだ。では、なぜそんなことが言えるのか。

ブームの終わり

こうなってしまったことの原因は、一言に集約してしまえば急激な情報化による情報インフラの整備と、それに伴う若者の価値観の相対化に求められる。さらに、こういった流れは二つの側面から考えることができるだろう。

バックパッキング・バブルがはじけた

一つはバックパッキングという旅行スタイルのバブルがはじけたことに求められる。前回指摘しておいたように、86年のプラザ合意によって急激に円高が進み、これが結果として海外旅行の大衆化を日本人にもたらしていった。かつてはテレビや雑誌を通して知ることがほとんどだった海外という空間が、一気に一般に開かれたのだ。政府は86年、テン・ミリオン計画をぶち上げた。これは5年以内に海外渡航者数を1000万人に到達させようというものだったが、そのプランは一年前倒しで達成されてしまう。

だが、誰もが海外に出かけることができるようになったと言うことは、海外旅行にそれまで備わっていた「非日常」という文脈が消し去られることでもある。それは、かつて海外経験者に与えられていた特権=優越感を消し去ることでもあった。60年代半ば、赤塚不二夫はマンガ「おそ松くん」の中でイヤミというキャラクターを登場させている。イヤミはフランスかぶれで、ことあるごとに「おフランスでは」という言葉を連発した(実際には、イヤミはフランスに行ったことがない)。これは、明らかに洋行経験のある人間に対する、赤塚のイヤミならぬ「嫌味」に他ならなかった。

だが、こんな差異化の道具としては、もはや海外旅行は通用しなくなった。つまり「おフランスでは」と上から目線で語り始めたところで「だから、どーなんだ?」ということになってしまったのだ。

バックパッキングによる差異化効果の消滅

そして、この海外旅行の相対化のうねりを最も受けたのがバックパッキングだった。海外旅行をすること、さらにパックツアーではなく自分の脚で海外を周遊すること、しかも普通の訪問先ではなくインドなどのディープな場所、もう一つ加えればビンボー旅行であること。こういった差異化の要素をいくつも重ね合わせた旅のスタイルがバックパッキングだったからだ。実際、80年代、学生が就職の面接で「インドにバックパッキングしてきました」なんて語れば、面接官たちがグッと身体を前に乗り出してくるくらい、差異化の要素としては訴求力があったのだ。

こんな御利益があったので、学生たちは「自分もいかねば」と付和雷同的にバックパッキングを志向した。大手大学内の生協などに併設されている書籍コーナーは五月ともなると「地球の歩き方」が店頭に平積みされるという状況すら出現していた。

しかし、前述したように、海外旅行は21世紀に入りカジュアルなものになる。テレビでも海外取材が特番的に扱われることはなくなり、番組の1コーナーにぽつんと置かれるまでになった。そう、誰でも行けるという感覚が一般化したのだ。

また、価値観の多様化もバックパッキングの斜陽化に拍車をかけていく。バックパッカーが目指したインドだって、行こうと思えば簡単に行ける。だから、行ったところでどうってことはない。言い換えれば、それは「個人の趣味の問題」。「ビンボー旅行?そりゃ、ご苦労さん」というわけだ。メディア論的な表現をすれば、海外に、そしてバックパッキングにそれまで付与されていたアウラが消滅したのだった。

そして、かつてのピュアバックパッカーだけが残った

そして、情報化は価値観の多様化を急激な勢いで進展させていく。個人が自らの嗜好に基づいて好みの領域に頭を突っ込むオタクによるタコツボ的文化が登場したのだ。価値観がバラバラになっていくことで、バックパッキングも、そういったあまたある嗜好の一つということになった。つまり馬群に埋もれてしまったのだ。言い換えれば流行廃りではなく、一部のバックパッキングに純粋に関心を抱く若者たちが志向する旅スタイルになったのだった。まあ、でもよくよく考えてみれば、かつてのバックパッカー(70年代~80年代の「地球の歩き方」が席巻する以前)の旅に対する意識に戻っただけなのだろうけれど。当然「旅行人」に手を伸ばすのも、かつてのノリで購入していた人間たちは去り、本当にバックパッキングがしたい人だけになったのだ。

ただし、それならば、まだまだ「旅行人」は続いたはずだ。ところが、こういった「本当にバックパッキングがしたい人」たちも、ここから去って行くことになる。それはもう一つの情報化のうねりがあったからだ。それは何か?(続く)


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カジュアルな視線でインドのバックパッキングを描いた蔵前仁一の『ゴーゴ・インド』



遂に休刊「旅行人」

バックパッキングの雑誌「旅行人」が2012年上期号を最後に休刊した。情報誌としてバックパッキングという旅スタイルを牽引してきた同誌だが、ついにこの日がやってきてしまったのだ。だが、この現実は「旅行人」という雑誌のスタッフに求められるものではない。むしろこれは、ある意味、情報化社会における必然的結果と考えた方が当を得ている。

そこで、今回は「旅行人」が人気を博したこと、そして2012年という年に休刊に至ってしまったことについてメディア論的視点から分析してみたいと思う。

バックパッキングをカジュアルにした蔵前仁一、そして雑誌「旅行人」

93年に月刊誌として創刊した同紙は、90年代後半のバックパッキング・ブームに大きな役割を果たした。80年代、バックパッキングの隆盛とともに、これを先導したのがダイヤモンド・ビッグ社の「地球の歩き方」だったが、86年のプラザ合意によって円高が急激に進行し、日本人が海外へどっと繰り出すようになると「歩き方」はその編集方針をバックパッカー向けのものから一般の観光客向けのものへシフトしていく。ところが、学生たちのバックパッキング熱はむしろ80年代末から加速する。そんな需要に見事に応えたのが「旅行人」だったのだ。

「旅行人」が支持されたのは、この分野がニッチであったことはもちろんだけれど、それだけではない。この情報誌の編集長であるイラストレーター・蔵前仁一の存在によるところも大きかった。70~80年代、バックパッキングは、ともすればちょっとスノッブなものでもあった。当時はまだ海外旅行は一般的なものではなく、その多くがパッケージツアーを利用していた。そんな中、敢えてチケットだけを購入し、海外を自分の脚で周遊するというバックパッキングのスタイルは「蛮行」っぽくもみえたし、敢行する若者たちはちょっとセンス・エリートのようにも見えた。実際、バックパッキングに向かった旅行者の多くが、帰国後、その「冒険談」をこれ見よがしに語ったりしていたのも事実だった。インドを旅したバックパッカーが「インドには時間がないんだよね」みたいなスノッブな発言をいていたのだ(キモい(^_^;)。言い換えれば、バックパッキングは、一般の若者はなかなか手が出せない、敷居の高い類いのレジャーだった。

ところが蔵前は、これとは全く異なる視線でバックパッキングし、その体験をギャグタッチでほのぼのとした絵を随所にちりばめた紀行文として発表する。蔵前のバックパッキングスタイルは、それまでのスノッブなスタイルとは対照をなす、等身大の、フツーの人間がフツーの視点で旅の経験を語るというものだったのだ。代表著『ゴーゴーアジア』『ゴーゴーインド』『ホテルアジアの眠れない夜』の文体には全く気取りがなく、自分が旅先で発見したことを率直に驚いたり、感動したり、ウンザリしたりという素朴な経験が、ある意味「素人」の目線で描かれていた。また、他の旅ライターのようなバックパッキングをディープなものとしては全く描かなかった。ドラッグや犯罪、旅する自分の内面描写、そしてものすごくトリビアな旅のエピソードなんかを、上から目線で書くというパターンが旅ライターには多かったのだ(僕は、バックパッキングを取り上げたライターとしては蔵前がいちばん文才があると評価している)。

「な~んだ、バックパッキングだからといって、何も気負う必要はないんだ」

蔵前の著書を読んで、こんなふうに思い、旅に出かけた若者は多かったはずだ。バックパッキングがカジュアルなものであると言うことを蔵前は示して見せたのだ。

そんな、蔵前が始めたのが、今回取り上げているバックパッキングの情報誌「旅行人」だった。まあ、ブームになったとはいっても、バックパッキングはニッチなレジャーであることには変わりない。だからこそ販売部数を伸ばしていった「地球の歩き方は」は途中でバックパッカーを切り捨てたわけで(こんな連中を相手にしても儲けはたかが知れているというわけだ)。「旅行人」は一般のメディアには掲載されない旅情報を満載した月刊誌として人気を博していく。96年には『旅行人ノート』というガイドブック・シリーズも開始するまでになった。ちなみに、この第一号は、なんとチベットだった。

21世紀に入り、失速

しかし21世紀に入ると、その人気は次第に低下していく。2004年からは季刊、2008年からは年上下刊と発行回数を減らされることを余儀なくされていったのだ。

旅行人に何があったのだろう?いやバックパッキングに何が起こったのだろうか?(続く)

ここまで、僕が十年間泊まり歩いた九州の温泉宿で、チープなのにホスピタリティに長けている二つの溫泉、葉隠館と旅行人山荘の二つを紹介してきた。前者は家族経営の田舎っぽいコテコテのサービス、後者は都会仕込みの洗練されたサービスという点で対照をなしているのだけれど、では二つに共通する強烈な魅力とはなんだろう。

プッシュ=提案型のサービスを徹底

そのひとつは、この溫泉が二つともプッシュ型のサービスを心がけていると言うことだ。とにかく、客に対して黙っていないで、自ら溫泉ライフスタイルを提案する。葉隠館は洗練されていないけれど、コテコテの気持ちで。旅行人山荘は控えめではあるけれど、知らないうちに次々とゲストが気付くような仕組みとサービスを用意することで。とにかく双方の溫泉は顧客に対して黙ってはいない。常に陰に日向にサービスの提案を投げかけているのだ。それは、実際にそういうことを実施したから素晴らしいと言うことよりも、常にそういったことを心がけていることが、結果として溫泉の魅力に繋がっていると解釈することもできる。とにかく、自分たちのスタイルを、二つの溫泉は良い意味で「押し売り」しているのだから。

体験を売る=ディズニー化という仕掛け

さらに二つに共通するのが、こういった「押し売り」が「体験を売る」というコンセプトに繋がっていることだ。確かに施設は二つとも老朽化している。ところが、これを古いなりに徹底的に整備し、これに各種のホスピタリティをトッピングしていく。それは料理であったり、作品展で会ったり、はたまた細かい配慮であったり。そして従業員も含めて、その経営方針には一貫したポリシーが感じられる。ちなみにそういったポリシーは従業員全体が職場にアイデンティファイした必然的な結果と考えることもできる。

これはアラン・ブライマンが指摘しするところとディズニーゼーション(以下ディズニー化)という概念に該当すると言えるだろう。ブライマンはサービスの形態がマニュアルで統一化され、均質化した先に登場するものとしてディズニー化が出現していることを指摘している。つまりマクドナルドのようなマニュアルによる定型化サービスの先に、今度はさらにサービスに物語が付与され、顧客はその物語を受容することで、サービスを一連の語り=ナラティブとして体験するのだ。つまり、単に溫泉を提供する、食事を提供する、部屋を提供すると言うことにとどまらず、これらを有機的に接続することでサービスを一つの「体験」に変容させてしまおうとするわけだ。

そういった「物語という体験を提供している」という点では、家庭的、都会的と言うことを別にして共通していると考えることができる。そして、結果として僕らのような顧客は、設備それ自体よりも、この物語を追体験したくて、再びここを訪れようという気になるのである。だから、施設が古いと言うことは、この際、大した問題ではなくなるというわけだ。

つまり、二つの旅館は古い施設を用いながら、その実、全く新しい溫泉旅館のあり方を僕たち顧客にて維持しているという意味で、実は最先端のサービスを提供していると考えても良いのだ。

この最先端のサービス形態。でも、よくよく考えてみれば、溫泉に求められずっと言われてきていることを実践しているだけに過ぎないということもある。そう、ようするにこれは「溫泉女将の心づくしのおもてなし」というものと、何ら変わるところがないのだから。

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