勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2012年02月

『見た!』と『ミタ』

ちょいと古い話で恐縮だが、昨年放送された松嶋菜々子主演の『家政婦のミタ』(以下『ミタ』が最終回で視聴率40.7%を稼ぐという、視聴率低下の時代に画期的な成績を上げたことは記憶に新しい。

さて、このドラマが、市原悦子主演の人気シリーズ『家政婦は見た!』(以下『見た!』のタイトルをなぞったものであるのは、どなたもご存知だろう。二つの作品は家政婦としての主人公が家庭に派遣されることで様々なドラマが展開するという点で共通するスタイルを持っている。後発の『ミタ』は、先発の『見た!』の威光を借りているというわけだ。しかし、この二つの作品、タイトルと形式が同じなだけで、その内容、そしてパースペクティブは全く異なっている、というか全く逆だ。

ポスターから作品の違いをさぐる

そこで今回は二つの作品の違いを考えてみたい。ただし、その違いを分析するにあたってドラマそれ自体には立ち入らない。今回取り上げてみたいのはポスターだ。に作品のポスターを比較することで、その作品の質的相違をここから見いだしていく。というのも『ミタ』のポスターは『見た!』のポスターの作風を踏襲しながら、全く違いメッセージを発しており、それを『見た!』との比較させることによって見事に作風を示しているからだ。

先ず、違いを確認

二つのポスターを見て欲しい。市原と松嶋扉の後ろから身体の左側を隠すかたちで立っているという構図は全く同じだ。だから後発の『ミタ』が先発の『見た!』のそれをパクっていることが容易にわかる。ちなみに松嶋の左にはライトが映っているが『見た!』の方も左にパーテーションが置かれている(残念ながら、このポスターではちらっとしか見えないが)。

だが、構図は全く同じでありながら、そこに置かれたパーツや色、2人の撮影方法の違いを見ていくと、この二つが発しているメッセージが全く異なるものであることがわかってくる。じゃあ、違っているところを確認しておこう。


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1.2人の背景:市原は後ろが真っ暗。一方、松嶋は白。

2.身体の左側を隠すもの:市原は扉か壁で隠れた部分は全く見えない。一方松嶋は扉だがガラス貼りなので左肩がシルエットで見える。

3.身体の写し方:市原はバストアップ、松嶋は全身。

4.手の位置:市原は壁(扉?)に手をかけている。松嶋は扉の取っ手に手を置いている。

5.目線:市原は真っ直ぐこちらを見つめている。松嶋の目線は今ひとつその方向がはっきりしない。ぼんやりとしているようにも見える。

6.タイトル:ポイントは「みた」の部分。前者は「見た」という感じに「!」。後者は「ミタ」とカタカナ。

7.タイトルの一:『見た!』は市原の向かって左、暗闇の前。『ミタ』は松嶋の向かって右、ドアの前。

こういった、相違点。実は、全て一つのメッセージに向けてなされている演出なのだ。では、それはどういったものなのだろうか?(続く)



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難波江和英/内田樹『現代思想のパフォーマンス』映画評論の科学性を追求したテクスト論だ。また、現代思想の概念が学べるようにもなっている。



レビューの書き方について考えている。ここまで、無名である僕たちがネット上で説得力あるレビューを書くため、つまり社会性=有用性を獲得するためには1.このレビューがあくまで「個人的立場であること」を表明すること、2.自らの議論の立ち位置を明らかにすること、の二つの手続きが必要であることを示しておいた。ちなみに、この二つのレベルを維持しているのが良質なレベルの映画評論家やジャーナリストの文章ということになる。

しかし、レビューの書き方にはもう一つ上のレベル、つまりレベル3がある。これは「科学=アカデミズムとしてのレビュー」ということになるだろう。これはレベル2までの手続きで、その社会性=有用性=実証性に欠けた部分を補填する作業がなされているものだ。

価値自由レベル2の欠点~個人的視点についての正当性がないこと

レベル2の欠点は何だろう?それは、個人的な意見を表明し、そして自らの議論の立ち位置を明らかにしたところで、結局、議論の立ち位置が「個人的な視点=立場」の域を出ないことだ。前回の例を挙げれば「この作品を傑作(あるいは駄作)という立場から展開する」というのが典型で、傑作(駄作)と決めつけ、それ以降の展開(つまり認識論的な展開)を明確にしていくのはよいのだが、実を言うと、なぜ傑作(駄作)と決めたかについては根拠がない。この部分は「主観」、つまり個人的な視点に基づく。哲学的な表現をすれば存在論的問いを不問にしているということになる。

価値自由レベル3~概念を用いたテクスト分析

そこで、この存在論的立ち位置を明確にするのがレベル3ということになる。これは具体的にはレベル2において用いる議論の立ち位置=視点を個人的に設定するのではなく、既存の概念装置をあてはめ、その概念の手続きに基づいて分析するというやり方で、これは記号論では「テクスト分析」という手続きに該当する。

この典型を見ることができるのが内田樹と難波江和英の『現代思想のパフォーマンス』の中で展開されている映画分析だ。本書の中で、「不思議の国のアリス」ではソシュールの言語論、「エイリアン」ではロラン・バルトの記号論、「カッコーの巣の上で」ではフーコーの権力論を用いてというふうに、現代思想の概念を用いて様々な映画に切り込んでいる(また、本書は現代思想の概念の実践的な運用例という意味合いもある)。たとえば「カッコーの巣の上で」(執筆は難波江)では、主人公たちが収容されている精神医療施設がパノプティコン(一望監視システム)によって監視され、それが現代社会を象徴する物語になっていることを析出している。

こういったテクスト分析においては、自らの立ち位置は限りなく相対化される。個人の見解でしかないこと、個人の立ち位置を明確にすること、そしてその立ち位置もまた社会性を有した理論的概念に基づくこと(ちなみに、この時残る唯一の主観的視点は、映画の分析にあたって概念を、恣意的に選択したことだけだ)。こういった議論の対象化=相対化の手続きを採用することによってレビューはより科学性、文芸性、アカデミズム性を有し、その有用性を高められていくわけだ。ちなみに、僕もこれと同様の(ただし真似事みたいなもんだが)手続き映画レビューをやっている(ニューシネマパラダイス、カール爺さんの空飛ぶ家、ピーターパン、2001年宇宙の旅など)ので、興味のある方は本ブログの「映画批評」の書庫をチェックしていただきたい。

まあ、レベル3までやると、さすがに面倒くさいということもあるけれど、いずれにしても僕らに求められているのは、こういったレビュー・リテラシーであることは確かだろう。ただし、残念ながらこういった分野に対して教育を施すシステムを、現在の教育機関が何も用意していないのは残念だ。いや、もっとはっきり言えば「レビュー論」という分野が全くといっていいほど開発されていないという現状は嘆く他はない。。インターネットで誰もが書き込み可能になった現代、こういった分野でのマナー・ルールを守る、それによって僕たちの映画リテラシーを高めていくといった教育をそろそろ開発すべき時に来ている。僕はそんなふうに感じているのだが。

レビューの書き方について考えている。前回はレビューには「好き勝手なことを書いてもいい」と述べておいた。ただし、書き込む僕たち個人は、映画評論家のおすぎとは違って匿名的存在であり、社会性を持たない。だから、好き勝手なことを書く場合には、その内容に社会性を盛り込まなければならないこと、そのためにはマックス・ウェーバーの言う「価値自由」、つまりこの書き込みがあくまで個人的な意見であることを宣言しておくことの必要性を指摘しておいた。

ただし、これだけだと最低限のマナー・ルールを守っているだけ。だから、前回はこれを「価値自由レベル1」と表記しておいた。いいかえれば、もっと説得力のあるレビューを書くためにはさらに社会性=有用性の高い、つまり「価値自由レベル2」の表現を志向する必要がある。

レベル2は自己の立ち位置の対象化

レベル2はレベル1にもう一つ条件が加わる。その手続きは自らの見解の対象化、相対化をもう一歩進めることによる。レベル1では、自らのコメントがあくまでも個人的な視点でしかないことを読み手に明確に示すというものだった。で、レベル2の場合、これに自らの拠って立つ位置をはっきりさせることが加わる。つまり「自分は、こういう立場、立ち位置で議論を展開しています」と明確に宣言する。いちばん初歩的なレベルは「この作品を傑作(あるいは駄作)という立場から展開する」なんてのが、これにあたる。もう少しレベルを上げれば「○○監督のこれまでの作風との関連から展開する」「歴史考証の立場から展開する」といった展開になる。まあ、ちょっとディベートみたいに感じになるのだけれど、レビューを行う自分の立場をはっきりさせることで、今度はコメントの内容に関する立場を対象化するわけだ。

つまり個人的意見と立場だけ宣言するだけのものに、さらに、その個人的意見の立ち位置を対象化することで、形式と内容二つの側面で価値自由が生まれる(レベル2)というわけだ。そして、これはレベルの高い「良心的な」ジャーナリズムが採用している視点だ(ちなみに、現在のジャーナリストのほとんどは、これがダメになっているので、とにかくキャッチーなものとか、足を引っ張るものとかに食いつく“出歯亀”になっている。この連中は視聴率や発行部数の奴隷なのだ。そして、残念なことにそのここに気付いていない)。

立ち位置を対象化していないと、場合によっては知らないうちに国粋主義者になる?

さて、こういう視点(レベル1、2)を持たないでレビューを展開するとどうなるか?その具体例を僕のゼミ生が卒論で展開してくれたので、ちょっとご紹介しておこう。彼が取り上げたのはハリウッドが日本を題材にした映画。そのうち「ラストサムライ」と「SAYURI」では、もっぱら作品の時代考証的な視点への批判が相次いだのだ。「浦賀からあの位置に富士山が見えるのはおかしい」「夫を殺した男(トム・クルーズ)とキスする侍の妻なんてことはあり得ない」「政府への反逆者となってしまったトム・クルーズ演じるオルグレンが天皇に謁見できるのはヘンだ」「なぜサユリが中国人なんだ」「芸者たちは、その振る舞いが雑すぎる」などなど。

まあ、たしかにヘンではある。しかし、これと同様のことは日本の時代劇でもいくらでもある。たとえば「水戸黄門」で水戸光圀は水戸藩から外に出たことなんかないのに日本中を漫遊している。また「暴れん坊将軍」で徳川吉宗は一町民として江戸を闊歩しているわけで。身につけている衣装だってメチャクチャだ。にもかかわらず、日本で制作される時代考証のメチャクチャさにはおとがめはナシ。ようするに、この場合、レビューワーたちは、無意識のうちに自らがナショナリストになり、このナショナリストの立ち位置からは不適切なハリウッドの表現を叩いている(だから、同じ日本人がメチャクチャを描いても文句を言わない。同じ日本人がやる場合には無意識のうちに免罪してしまうのだ)。しかし、こういった「ナショナリストとしての立ち位置」を、これらのレビューワーは自覚していない。だから、かなりみっともないのだ。自らが、こういったドグマに陥っていることに気付いていないからだ。つまり「無知の知を知らない」。

レベル2はレビューと討論を文芸の領域に押し上げる

このようなレベル2のマナーを書き手とレビューワー双方が備えていれば、議論を展開する場合には、書き手は自らの立ち位置を明確にし(価値自由)、また読み手=レビューワーの方は書き手の立ち位置を良く踏まえながら理解し(こっちの方は「動機の意味理解」とウェーバーは呼んでいる)、そして、双方がその相違を吟味し、それに基づいて、それぞれの立ち位置をさら吟味し議論を深めていくことができる。こうなると、議論は結構スリリングなものになっていく。さらにレビューや討論というのは文芸のレベルにまで質を向上させることができるようになる。

しかし、さらにもう一つ、レベル3がある。それは、アカデミズムの領域に踏み込むことになるのだけれど。(続く)



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社会学の巨人、マックス・ウェーバーおじさん


おすぎの映画評論をネタに、一般人のレビューの書き方について考えている。前回はインターネットに書き込むレビューワーのレビューも、おすぎの映画批評も、好き勝手に評論していることには変わりはないこと、だがおすぎにはタレント性があるため、その露出するパーソナリティが担保となって評論に社会性、つまり有用性が生じることを指摘しておいた。だったら、こういったタレント性を備えない一般人がレビューを書くときには、どうしたらいいのだろうか?という問題が立ち上がってくる。

好き勝手なことを書いてもいい、ただし……

先ず、これだけは確認しておこう。だからといって「好き勝手なこと書いてはいけない」ということにはならないこと。言い換えれば、やっぱり「好き勝手に書いてもいいこと」ということを。レビューはいろんな人間がいろんな立場から書き込むこと。それによって、作品に対する多様な読みが展開され、映画に関するフォーラム、つまり討論の場所が作られるからだ。それによって映画作品の深みを僕たちは認識することができる。そして、そこにこそレビューの価値がある。だから、それぞれの感性に基づいた「好き勝手な視点」は尊重される必要がある。

「好き勝手」に社会性=有用性を挿入するために必要な「価値自由」

ただし、フォーラム=討論であるからには、当然そこにはマナーやルールがある。例えばプロレスだったらナックルパート(グーで相手を殴る)やトゥキック(つま先蹴り)は禁止だ。これをやったら試合が瞬間的に終わってしまうし、事故やケガ(場合によっては死)に繋がってしまうからだ。もし、レスラーがこんなことを頻繁にやるようなら当然、プロレス界から追放される。そして、こういったマナーやルールを守ることが社会性=有用性を確保する条件となる。

ではレビューにおけるマナーやルールとは。それは、突然、難しい社会学の用語を持ち出すようで申し訳ないが、「価値自由(Weltfreiheit)」という、社会学者・マックス・ウェーバーの言葉にたどり着く。これは、ものすごく簡単にざっくりと表現してしまうと「何を言ってもいいけれど、その際に、自分の言いたいことの立ち位置をはっきりと表明しておくこと」ということになる。

価値自由レベル1~レビューにおける「噛みつき合い」を避ける方法としての

この最も初歩的なレベルは、自分のレビューの内容が、あくまで「個人的な立ち位置から述べたものに過ぎない」ということを、読み手、そして自分双方に向かって明確に表明する態度に求められる。たとえばレビューでしばしば発生する揉めごとの一つに、他人が書き込んだレビューに読み手=レビューワーが噛みつくというものがある。この時、しばしば議論に収拾がつかなくなるのは、「自らの立ち位置をあくまで個人的意見として相対化する」という視点が応酬し合う双方に共有されていないからだ。つまりレビューを読んだ側は自分の意見の方が絶対に正しい、普遍的であるという上から目線で相手(レビューの書き手)に攻め込み(この時、攻め込む側には、こういった「自分の意見は普遍性がある」という自覚がなく、無意識の内にこういった態度がとられている。だからタチが悪い)、これに受けて立つ書き手側も同様に自らの意見を相対化せず上から目線でやり返す(もちろん、こちらもタチが悪い)。こうなると結果として議論の内容を深めるよりまえに「ガンの付け合い飛ばし合い」になってしまう。つまり、議論の内容とはかけ離れた「どっちの方が偉い」かを決める権力闘争という、どうでもいい展開になってしまうのだ(ちなみにウェーバーはこのことを「神々の闘争」と呼んだ)。

だが、「あくまで個人的立場」であることを表明しておけば、相手も「この人はこういうふうに考えるのね」ということになって議論に社会性=共通の地平(つまり、最低限の社会性)が発生する。また、あくまで立ち位置が違うと言うことで、これを読んだ側が噛みつくこともない。繰り返すが、相手に噛みつき始めるのは、自らの映画に対する立ち位置を絶対化し、またレビューもこれと同一線上に位置づけることによって発生するからだ。つまりその映画に対する評価の視点が自分のものひとつしかないと決めつけていて、それとレビューが合致しないとなると、それは「間違い」ということみなされて、その意見をつぶしにかかろうとすることによって「噛みつき」は発生する。

だが、こういったレビューに対する相対的な視点を書き込む側と読む側が共有していれば、読み手はレビューを「自分以外の立ち位置からの意見」として捉えることが可能になる。そして、それらのどれを支持するかは読み手の任意に任されるということになる。また、もし読み手が噛みついてきたとしても、書き手の方は「これは、あくまで私個人の見解ですから」と回答すれば議論の紛糾は避けることができる。

ただし、これだと議論に深みは生じない。より社会性=有用性を持たせるためには価値自由の考え方をもう一歩押し進める必要がある。言い換えれば本格的なフォーラムを形成する必要がある。では、それはどのような方法だろう?(続く)


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ナンシー関が描いたおすぎ(右)とピーコ(左)


おすぎは好き勝手に、言いたいことを言っている?

おすぎは、映画、とりわけ洋画の普及に貢献する映画評論家としてはつとに有名な存在だ。弟(妹?)のファッション評論家・ピーコとともに現在のオネエ系タレントの元祖という存在でもある。映画雑誌「キネマ旬報」に文章を掲載し始めてから、既に四十年近くがたっており、淀川長治、水野晴郎といった大御所が逝った現在、映画評論家としては筆頭的な存在と言っていいだろう。

ただし、である。おすぎの評論は、そんなに素晴らしいものなんだろうか?なんか、言いたいことを適当に言っているるように思えないでもないのだけれど。こういった疑念を抱くのは、現在インターネットのYahoo!などにアップされている一般人のレビューと比較してみるとよくわかる。なんのことはない、こちらも言いたいことを言っているわけで……。ということは、どっちも低レベル。ということは、おすぎの映画評論(テレビ、文章)がメディアに露出するのは不当と考えるべきなのではないだろうか。

映画評論の正当性

たしかに、贔屓目に見てもおすぎはかなり適当なことを言っている。評論と言うよりは、自分の「好き嫌い」の感覚に基づいてノリで批評しているように見える。この辺は、師匠である淀川長治とは圧倒的に異なるところだ。淀川は人生を映画評論に賭けた男?で、その映画に関する膨大な知識を背景にした評論は、時には辛辣なものではあったけれども(ただし、日曜ロードショーでは、放映する作品に一切批判をしなかった。にもかかわらず、この作品が良いのかクズなのかをメタメッセージで視聴者にキチッと伝えるという裏技を使っていた強者だった)、アカデミズムと感性に満ち溢れる舌鋒鋭いものだった。だが、おすぎは、これとはかなり違っている。じゃあ、おすぎの評論はダメなのか?いや、そうではない。

映画評論はの正当性は、その社会性に求めることができる。もう少しわかりやすく表現すれば、評論の内容が読者にとって有用であったかどうか。有用であるかどうかは、その評論の立ち位置=パースペクティブを読者が共有しており、その立ち位置に基づいて理解可能で、そこから映画に関する情報を取り寄せることができる場合だ。

おすぎの評論と一般の評論の決定的な違いは社会性

残念ながら、インターネットに書き込まれる映画レビュー(本のレビューなんかも同じだが)は、こういった認識を持ち合わせていない。アップする側は読者のことなど考えることなく、自分の印象を勝手気ままに書き込むというパターンが実に多いのだ。そして、この手の文章には共通の特徴がある。それは「何様のつもり?」とこちらが思ってしまうほど上から目線になっていること。いいかえれば、プライベートな感情や偏見の部分をインターネットという公的な環境に露出しているということでもあり、また、自らの視点に対する反省的態度、つまり自己を相対化する視線を持ち合わせていない。だから、読んでいる側としては自己欺瞞に満ちたナルシスティックで「キモチワルイ」ものに見える。

さて、おすぎである。おすぎがやっていることも、こういった社会性を無視した、好き勝手な評論をやっていることではかわりはない。しかし、である。おすぎのそれは、映画評論の社会性と言うことを踏まえて考えた場合、十分に有用なものとなるのだ。つまり、社会性がある。なぜか。

タレントという担保

おすぎの場合、映画評論家であると言うことよりもタレントというイメージの方が一般的に強い。コメンテーター的な立ち位置で、他のタレントにツッコミを入れるというのが役所で、実際にコメンテーターをやったりもしている(KBS、そしてフジテレビの「特ダネ」など)。実は、これがおすぎの映画評論に社会性=正当性を持たせる担保となっているのだ。

視聴者はタレントとして頻繁にメディアに露出するおすぎのパーソナリティを知っている。だから、おすぎがどういう立ち位置を持っているのかということを、これらから(とりわけテレビから)伺い知ることができる。それゆえ、おすぎが映画評論を行うときには、こういった「おすぎの考え方についてのコンテクスト=文脈」を保持していることになる。つまり、視聴者たちはおすぎの立ち位置をおすぎと共有することができているのだ。

こうなると、おすぎがノリや気分でどんなに好き勝手な批評、評論をしようとも「あのおすぎが、この映画を、そんなふうに考えているのか」ということになる。だから、僕らはおすぎから映画に関する有用な情報を取り込むことができる。いいかえれば、インターネットのレビューに書き込むレビューワーが「何様のつもり?」でしかないのに対し、おすぎの場合はそれに対する回答があることになる。つまり「おすぎ様」なのだ。

さて、ここまで、おすぎによる映画評論の正当性の根拠について展開してきたが、僕がここで考えてみたいのは、じゃあ、おすぎのようなタレント=有名人でないわれわれ一般の人間、つまりレビューを読む側がコンテクストを共有しようのない書き手が、インターネットの映画レビューに書き込みをする際には、どうしたら正当性=読み手にとっての有用性を確保できるのかと言うことなのだ。それはとどのつまりレビューの書き方と言うことに他ならないのだけれど。次回以降、レビューのまっとうな書き方について考えていこう(続く)

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