勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2012年01月

前回まで新しい「つながり」(=自分がご主人様として、相手を相互にモノ=メディアのように扱うコミュニケーション)のスタイルとして「相手の動きだけを抜き取ること」「一期一会コミュニケーション」「第三の空間コミュニケーション」の三つを取り上げてきた。で、こういった「つながり」の要素を重ね合わせたモノは、必然的に多くの人々の関心を生むので、次々と開発されるようになっている。とりわけこれはネットでのサービスに顕著だ。そして、その典型としては、たとえば現在爆発的に広がりつつあるソーシャルネットワーク・サービスがあげられる。

ソーシャルネットワークとして、ここではTwitterをあげておこう。Twitterの魅力は、その名の通り「つぶやく」こと。それは、誰に向けてというわけではない。不特定の他者に向けてだ。しかし、つぶやくことに対してこれをフォローしてくれる人間が出現する。またハッシュタグという機能も便利だ。タイトルに♯をつけることで、ここがフォーラムに変わる。で、これが「つながり」を感じさせるというわけだ。しかし、その多くは匿名。つまり、フォローしてもらうということで「相手の動きだけを抜き取る」ことが出来る。そして自分もまた匿名であることで、今度はその場限りの関わりが可能になる。つまり「一期一会」。で、ヒマになったらTwitterをチェックしたり、テキトーにつぶやけばいいわけでこれは「第三の空間」となる。

「つながり」の副作用

さて、こういった新しく求められている「つながり」は、確かに快適だ。他人のうざったさのほとんどを排除可能だからだ。しかも、もし深入りしそうになったら撤退すればいいわけで。ひたすら、自分の都合のよいときに、他人のぬくもりだけを抜き取ることができる。

しかし、こういった「甘口のつながり」「おいしいところだけをいただくつながり」は当然副作用を伴っていることを忘れてはならないだろう。

「つながり」を感じられるイベントへの参入の頻繁化

まず深入りすることは、かつてのつながり=しがらみに戻る恐れがあるので極力避けなければならない。だから、自らが相手をモノのように扱って、それで満足したら即刻撤退し、次の「つながり」を求めていくということになる。要するにこのつながりはさながらスプリントのように短いスパンで、相手も変えて、しかも頻繁に行うということが要求されるようになるのだ。なるべくたくさんの友人やツイートする相手を求め、それぞれの人間と少しずつだけ関わるというやり方がデフォルトとなる。「浅く、広く」というわけだ。

そして、これは長期に関わる相手にも適用される。例えば家族。家族はずっと同居し、長く関わりを続けていく。つまり家族=うざったい、自由が効かない関係。じゃあどうすれば、これを「つながり」として維持可能にしているのか。それは、家庭内においても原則バラバラな関係を持つことによってということになる。それぞれが自室を持ち、そこにパソコンやケータイ、オーディオ、エアコン(場合によっては冷蔵庫)を持ち込み、通常はそれぞれが密室内でよろしくやる。だが、家族は一つ屋根の下に暮らしている。これが「つながり」を保証する。まあ、とはいっても、このままではむなしい。そこで、家族は頻繁にイベントを起こす。パーティをやり、レジャーに出かけといった具合に。その時、家族はこういったイベント、リクレーションを共有することができるわけで、シンクロしているがゆえに、その時ばかりは「つながり」を感じることができるのだ。しかし、前述したのと同様、「家族であること」、つまり「つながりを確認すること」のために、こういったイベントを頻繁に行うことが必要経費となる。

生身の他者が現れた瞬間の恐怖

ただし、こういった「甘口のつながり」は、いいかえれば「カタストロフの先送り」といった側面もある。つまり、相互のプライベートには関わらないし、うざったいことをしないということを徹底すれば、必然的に、その逆、つまり互いが利害などを通じて現実に関わり合う、言い換えればそれぞれのプライベートや利害にダイレクトに抵触するようなことが発生した場合には、それに対する処方箋は全くなくなる。こういったことについての経験が全くないのだから、あたりまえだ。だからそんなことが発生した時にはコンフリクトが最大化されるのだ。

実は、近年、人間間で発生しているコンフリクトの多くは、こういった他者に対する脆弱性の必然的結果なのではないだろうか。

つながりと「つながり」を飼い慣らせ!

僕は、こういった「つながり」を「だからいけない」と一刀両断するつもりはない。こうやって互いにシンクロすることはわれわれが繋がることを感じる基本だからだ。さらに誰もが、これを快適なものとして選択したのであるし、またかつてのつながりには戻りたいと思ったから選択したものでもあるからだ(もちろん、僕もそう思っている)。しかし、こういった新しい「つながり」を享受し、その一方で既存のつながりと関わり合うしたたかさも必要だ。だから、この二つを併存させつつ、スキルとして利用するしたたかさ、そしてそれを可能とするシステムの構築が、さしあたっての僕らの課題ということになる。

前回まであたらしい「つながり」(=自分がご主人様として、相手を相互にモノ=メディアのように扱うコミュニケーション)のスタイルとして「相手の動きだけを抜き取ること」「一期一会コミュニケーション」の二つを取り上げてきた。で、今回は三つ目として「第三の空間コミュニケーション」を取り上げてみたい。

第三の空間とはスターバックスが掲げている理念。それは職場=パブリックな空間でも、家庭=プライベートな空間でもない、三つ目の空間を意味している。この第三の空間はパブリック的な空間とプライベートな空間のメリットを持ち込み、半面でデメリットを排除する空間だ。パブリックな空間のメリットは「一人ではないゆえ、寂しくないこと」、デメリットは「公共の面前ゆえ、自由が制限されること」。一方プライベートな空間のメリットは「自由勝手気ままができること」、デメリットは「寂しいこと」。つまり二つの空間は「究極の選択」の組み合わせになっている。そこで第三の空間では、この二つのおいしいところを重ね合わせること、つまり「自由勝手気ままが可能で、なおかつ人と一緒にいられる感覚が得られること」が目指されている。

スタバ店内の心理的効果

スターバックスはその店舗形態が大きく二つに分かれる。一つは商業ビルの中のテナントのスタイルをとるもの。もう一つは郊外型でスタンド・アローンに店舗を設けるもの。だが、いずれにしてもそのデザイン・コンセプトが「第三の空間」に基づいていることでは同様だ。

テナント型は必ず通路側の窓が取り払われている。いわばインナーだけれどオープンカフェの形式。店舗型の場合はガラス窓が大きく取られていて、外部にもテーブルが置かれ、席がさながら外部から続いているかのように作られている。つまり、どちらもライブ感覚が得られるように演出されている。

こういった構成をとることでプライベートとパブリックの快適性、そして室内の快適性と室外の快適性、それぞれ双方を実現可能になる。店内にはいるのだけれど、通路や店の前の道路・歩道が丸見えだ。そして、自分の座っている手前には常に往来がある。だから寂しくない、人と一緒にいるという感覚を得られる。半面、内部にあるということで天候に左右されることがない。だから、客はイスに身を委ね(のんびりできるよう、ゆったりとしたいすが置かれている)、そこで思い思いのことをする。多いのは読書やパソコンを打ったりすること。こんなこと、自室でやればよいのだが、自室は密室。そこには他者がいないので寂しい。ところがスタバに来れば往来の中で作業をするということになるので寂しくない。そのくせプライベートも心理的な仕切りによって作られている。だから仕事もはかどるというわけだ。つまり、これも都合のよいように人間をモノのように扱っている、つまり「つながり」があるというわけだ。

魚民、和民の「つながり」演出

そして、こういった「つながり」を用意した環境が、今やあちこちに誕生している。しかも、ここまであげてきた三つの要素を組み合わせたかたちで。

例えばその典型は居酒屋の魚民や和民だろう。魚民は十数年前にブレイクしたのだけれど、このウリは「コンパートメント居酒屋」であったことだった。客席が対面掘りごたつ式で、しかもワンブースごとパーテーションで仕切られており、さながらヨーロッパにある鉄道のコンパートメントのようなスタイルであることから、こういった名前が付けられた。このメリットは原則、席に着いた身内しか見えないことだ。だから、ここはプライベート・スペースになる。ところが通路側は掃き出しの状態。そして側面の客席は見える(互い違いにしてあることが多いが)。さらに天井はない。ということは他の客の声はバンバン入ってくるし、注意してみれば他の客の様子をのぞくこともできる。で、こちらのほうは飲み屋の盛り上がっている雰囲気の演出として使われている。ただし、その話し声の内容や、動きの具体には関心はないわけで、いわば「アトモスフィア」。つまり他人の動きだけを抜き取っていて、さらに第三の空間を形成しているというわけだ。

和民も同様だ。和民の場合、コンパートメントというよりもテーブルの真ん中やテーブルとテーブルの間に暖簾(スクリーン?)のような間仕切りがあり、テーブル間、テーブル内の客が見知らぬ人間の場合には、これが下ろされる。こうやって魚民と全く同じ効果をつくり出しているのだ。(続く)

「一期一会」コミュニケーション

新しく求められ始めた「つながり」について考えている。前回は、この「つながり」が相手と関わる際に「自らがご主人様となって、相手をモノのように扱う」心性が前提されること、そしてその具体的なやり方のひとつが「相手の動きだけを抜き取ること」であることを指摘しておいた。

今回は、これ以外の、新しい「つながり」を獲得する具体的な方法として二つ目をあげてみたいたいと思う。それは「一期一会的コミュニケーション」だ。これは、ほんのひとときだけ、共通のネタ、関心を通じて匿名の人間が集結し、大いに盛り上がったら解散する。そして、後腐れナシというやり方だ。いくつか例を挙げてみよう。

バックパッカーたちの瞬間的盛り上がり

例えばバックパッカーのゲストハウスでのコミュニケーション。バックパッカーたちは原則、海外のゲストハウス(最近は国内もあるが)を、行き当たりばったりで渡り歩く。ただし、これは『地球の歩き方』などにちゃんと掲載されているところに向かうので、当然そこには同じように日本人バックパッカーが投宿している。そこで、同じ旅行者として意気投合。食事をしたり、酒を飲んだり。時には次の目的地に一緒に出かけたりすることも。ただし、その関係が長続きすることは少ない。ほとんどはその場限りの盛り上がり。時が過ぎれば散会する。

こういった関わり合いは「旅の恥はかきすて」という、古くからあるモノのイイがピッタリ来るだろう。ここでは多少プライベートなことを話したり、恥をさらしたりしたところで、どうせもう二度と会うこともない。だったら、好き勝手に相手と関わってしまおうという心性が働くわけだ。後腐れがないと無意識のうちに知っているので、大いに盛り上がる。そう、いずれ会うこともない他者と関わっている瞬間は、強い「つながり」が感じられるというわけだ。

一過性ボランティアたちの「つながり」

また、震災ボランティアもこれに該当する。阪神淡路大震災の頃からすでに発生していることなのだが、震災となるとどっとボランティアが出現する。ただし、このほとんどが一過性だ。つまり、震災直後にこそものすごい勢いでやってくるが、ほとぼりが冷めてくると、逆にボランティアがどっと引いていくという現象も発生する(実際、東北大震災のボランティアの数は、現在完全に不足した状態になっている)。こういったボランティアを本格的なそれと区別するために「一過性ボランティア」と呼んでおくことにしよう(ちなみに、誤解を招かないようお断りしておくと、僕はこれ自体が悪いといっているわけでは決してない。やらないより、やってくれた方がよいのはあたりまえなのだから)。

こういった一過性ボランティアたちの狙いは、災害地に共通の目的を持ってやってくることで、やはりバックパッカーと同様「盛り上がること」にある(阪神淡路大震災時ボランティアとして集結した若者たちの中には現役のバックパッカーがかなりいた)。つまり災害地に対峙し、被災者、そして他のボランティアと協働することで「つながり」を感じることができる(しばし、祭りに参加しているような感覚も伴う)。ただし、これが長期に及ぶと「しがらみ」が発生する。だから、ある程度関わったらもう終わり。つまり、この時、やはりボランティアに対して「やる、やらない」の決定はあくまでも、こちら側の任意ということになる。そう、「自らがご主人様」「相手をモノのように扱う」という心性は、ここでも保持されているのである。

さて、ここまであげた二つの他にもう一つ、そして最もわれわれが利用している、それゆえビジネスシーンで頻繁に用いられる「つながり」がある。(続く)

近年、社会科学の議論の中で求められるようになってきた「つながり」について考えている。前回は、かつてあったのだけれど、情報化とテクノロジーの進展によって失われてしまったがために、その復興を求めて「つながり」が語られ始めたこと、しかしもともと「つながり」は、これがうざったい、おっくうだから次第に避けられたことを指摘しておいた。ということは、現在叫ばれている「つながり」はかつてのそれとは似て非なるものと考えなければならない。じゃあ、それはなんなんだろう?

そのためには、まず「つながり」が意味するものについて確認しておく必要がある。つながりは、言葉の通り、人と人の関係性のことを指している。具体的には、そこで相互に助け合い、コミュニケーションを取り交わし、一体感や親密感、信頼感を獲得するために存在するものだ。

新しい「つながり」は、かつてのうざったい部分を排除している

ただし、前回も指摘しておいたように「つながり」には必要経費がかかる。それは「しがらみ」だ。つながりを持つ中で相互の関係に精神的な(場合によっては金銭的な)貸し借りができる、あるいはそういった関わり合いの中で互いのプライバシーの開示を余儀なくさせられる。さらに他者への配慮を強制されることで自らの自由=勝手気ままに制限をかけられる。こういった負荷をかけられることを現代人はとことん嫌う。ということは、ここから現在求められている「つながり」は、結局のところ上記の「つながり」の成分の内、こういった副作用を取り除いたものということになる。つまり、親密性を獲得し、さらに自由=勝手気ままも獲得可能する一方で、他者の持っているネガティブな側面を排除する。

ご主人様として、相手をモノのように扱う

で、こういったご都合主義的な「つながり」とは、一言で表現すれば、それは「さながら相手をモノのように扱うこと」、いやもう少しわかりやすく表現すれば「メディア機器のようにこちらの都合で関係のスイッチをオンーオフできるようにすること」、さらに「こういったこういった「相手をモノのように扱うこと」が、つながりを作る当事者双方に可能となること」によって達成されるものということになる。言い換えれば、「つながりを結ぶ人間全員がご主人様になる」という関係こそが、新しい社会における「つながり」を意味するようになるのだ。

相手の動きだけを抜き取ること

じゃあ、具体的に、これはどうやることで可能になるのか?
そのひとつは「相手の動きだけを抜き取り、それ以外を全て削除すること」だ。たとえば、これは2ちゃんねるやブログ、ツイッターへの書き込みといった行為が該当する。ここでの書き込みは、さらなる書き込みを生む。こうすることで、相互につながりが発生する。ただし、ここで展開されるつながり=関わりは、原則匿名で行われる。ということは、書き込む人間は人格の一部しかここに表明しない。にもかかわらず、リアクションを得ることができる。だから「つながり」を感じることができる。

生身の人間の動きは機械のそれよりリアル

こうすることのメリットは、これに答える(応える?)相手がマシンやゲームだったらどうなるかということを想像してみればわかりやすい。これらは機械だから、結局アルゴリズムに基づいてプログラムが動くだけだ。どんなに複雑であったとしても、いずれパターンが見えてくる。そうなるとつまらない。ところが、サイトへの書き込みのリアクションは生身の人間だ。だから、どんなリアクションがやってくるのかはわからない。状況次第で無限のリアクションが出現する。逆に言えば、それだからこそ、予期せぬリアクションを常に期待できる、言い換えればこちらを常にインスパイアし続けることができるわけで、それが結果として「つながり」を実感させることになるのだ。ただし、匿名であるがゆえにいつでも参入可能であるし、撤退も可能。それは、こちら側の任意、つまりご主人様として他者をモノのように扱うことができるのだ。そして、実際のところ相手とのしがらみはないし、自らのプライバシーが侵害されることもない。さらにいえば、こういった権利を参加者全員が獲得できるという「全員ご主人様」状態が可能になる。もちろん、これは全員が操作される機械になっているということでもあるのだけれど。(続く)

「つながり」が再考され始めた

近年、メディア論、コミュニケーション論、若者論、そして社会学の脈絡で語られ始めているのが「つながり」だ。これは当然「人と人のつながり」なのだけれど、これが今求められているという議論だ。もっとも、「つながりを求める」なんてのは今に始まった話ではないのだが……。これらの議論の前提は、だいたい次のようになっている。

現代人はメディアの発達によってお互いの関係か間接化してしまった。かつて人は否応なく関わり合わなければ生きていけなかった。一人ではどうしようもないので他者の助けを必要としていたのだ。しかし、こういった「他者の助け」は、テクノロジーとメディアの発達によって次第に不要なものとなった。食事一つ作るのでも、今ではその食材は半完成品ばかり、いやケータリングなんてサービスまである。情報アクセスもネットを使えばラクラクだ。で、快適な生活を過ごすことができるようになったのだけれど、その半面、これらがテクノロジーに委ねられることで、人と人の関わりが希薄になってしまった。つまり、人と会う必要がなくなったので寂しくなってしまったのだ。

そして、その反動として、再び求められるようになったのが「つながり」だ。つまり、つながりがテクノロジーによって切断されたので、やっぱりこれを希求するようになった。で「かつてあったようなつながりを復活すべきだ」というわけだ。

求める「つながり」は、かつてのそれとは違っている

しかし、こういった議論は根本的な前提を一つ欠いている。それは、人々がこういったつながりを失っていったのが、本来、そういったつながりを「うざったい」「面倒くさいもの」として嫌悪し始めたことに端を発していることだ。つまり、テクノロジーが低ければ人海戦術で互いが協力して物事に対処しなければならない。しかし、それは言い換えれば、そのために個人の自由が束縛される。つまり、相手が何かを実現するために自分が時間や労働を割いてやらなければならないし、あるいは自分が望むことを実現しようとする場合にも、他人の助けを借りることで多少なりとも妥協を強いられ、必ずしも思うようにはならない。だからこそ、そのしがらみを回避するためにテクノロジーやメディアを発達させていったのだ。

ということは、現在、求められるようになった「つながり」はかつてのそれとは似て非なるものでなければならないということになる。他人に自分の欲望を遮られることなど、欲望実現のために他者に配慮することなどまっぴらゴメンだからだ。じゃあ、現代のつながりとは、いったいどういうものなんだろうか?僕は、この「つながり」がスゴくご都合主義的なものだと思っている。でも誰もがそれを望んでいるので、このあたらしい「つながり」をビジネス化すると必ず儲かるとも思う(実際儲かっているんだけど)。じゃあ、この「つながり」って、いったいなんなんだろうか?(続く)

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