勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2012年01月

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情報行動とメディア利用

今回は、バックパッカー、つまり航空チケットのみを購入し、海外をホテルの予約などなく、宿泊日数も比較的長期で、滞在地を自由に旅する旅行者の情報行動について統計的に考えてみたい。世界で最も多くバックパッカーが投宿すると呼ばれているタイ・バンコク・カオサン地区での日本人へのアンケートとインタビュー調査を行った。調査期間は2011年8月4~19日。質問紙調査については、現地滞在中の日本人への留置法による。回収票総数116票。
今回の調査の焦点はバックパッカーの情報行動、とりわけ電子メディアの発展に伴って出現したインターネットとこれにアクセスするメディア(携帯電話、パソコン、スマートフォン、タブレットPC、パソコン等)の使いこなし状況の把握に置いている。
 

バックパッカーの基本属性:旅行者の高齢化、多様化

はじめに、バックパッカーの基本的属性について押さえておこう。その際、以前との変化を見るために96年3月に同地区で報告者が実施した調査結果(回収票数312票)と比較することにする。
 

旅行者の性別は 男:75.0%、女:25.0%。これは96年の調査結果とほぼ同じ(男77.9%、女22. 1%)。バックパッキングの経験数は、初めて:81.0%、2回目:10.3%、3回以上:8.7%で平均回数は1.4回。96年が3.1回だったことを考えると、初心者が増加していることがわかる。また国内の居住地は関東:50.0%、近畿30.2%、東海北陸:9.5%、北海道:3.4%、中国:3.4%、九州・沖縄:1.7%。96年は関東61.5%、近畿23.5%、その他15.0%で、やはりバックパッキングという旅スタイルが大都市圏の若者に偏重傾向があることについては変化がない。

 
年齢層的には10代:7.8%、20代:76.5%、30代:11.3%、40代:2.6%、50代以上11.7%。96年調査時には、旅行者の平均年齢は21.7歳。今回は質問項目が十歳区切りであったため、平均年齢は明らかでないが、やはり20代が中心であることがわかる。ただし、旅行者の属性を踏まえると年齢層が高齢化していることが予想される。属性は学生:44.7%、会社員:26.3%、無職・フリーター:15.8%、その他:13.2%。一方、96年は学生80.8%、無職10.0%、会社員4.6%であり、学生の減少、会社員の増加という傾向が見られるからだ。そして、こういったバックパッカーの高年齢化を示唆するもう一つの指標として、滞在期間があげられる。滞在期間は5日以内:15.0%、6~10日:27.4%、11~15日:11.5%、16~20日:8.8%、21~25日:5.3%、26日~1ヶ月:5.3%、1ヶ月~2ヶ月:7.0%、2ヶ月以上~1年:5.3%、1年以上:8.9%、その他:5.3%。一方、96年の平均滞在日数は14.2日だった。15日以内が53.9%、一ヶ月以内が73.5%を占めるということを考えると、旅行日数はあまり変動がないと見てよいのかも知れないが、その一方で五日以内が15.0%というのは特筆すべきデータと言える。これはもはやバックパッキングと表現するのが妥当かどうか微妙な日数だ。想定されるのは、会社員が短期の休暇を利用してバックパッキングにやってくるといった状況だろう。
 
 
 

旅の情報入手:事前にインターネット;旅先ではガイドブックを利用

次に旅の情報入手について。これについては事前の収集および旅行中の収集手段について調査を行った。事前の旅の情報収集については「した」:73.2%、「しない」:26.8%。「した」と回答した者のうち、その情報の入手先についてはインターネット:59.2%、ガイドブック:34.2%、口コミ:5.3%、その他:1.3%という割合であった。ただし旅行中の情報入手先となるとガイドブック:40.6%、インターネット33.7%、口コミ:24.8%と、インターネットとガイドブックの割合が逆転する。つまり旅行者は旅に出かける前にはネットで、現地ではガイドブックでという行動パターン傾向が見られる。ちなみにガイドブックの所持率は82.9%で、96年の90.6%に比べると7.7ポイントの減少が見られる。このことは①ガイドブックが依然として旅の必須アイテムであること、その一方で②ガイドブック以外にも旅情報へのアクセスの手段が出現していることを示していると考えられる。

 
どうやら、バックパッカーたちにとって情報入手の手段としてかなりインターネットは重要になっているようだ。じゃあ、具体的にはどうなっているんだろうか?(続く)
 



「若者の○○離れ」について、考えている。で、今回は最終回。テレビ離れと酒離れについて考えてみよう。

テレビ離れ:コンサマトリー(消費的)側面が他メディアに分散

これも新聞と同様インターネットとカブったことで、かなりの時間を持って行かれた。さらに、テレビには新聞が敵としたインターネットの他にも敵がいる。それはケータイ、とりわけメールだ。新聞はそのメディアの性質上、インストゥルメンタルな側面、つまり「情報を入手する」といった傾向が強い。テレビももちろんそういった側面もあるけれど、むしろ強いのはコンサマトリーな側面、つまり消費、ヒマつぶしといった趣だ。で、かつては若者にとってのこういったヒマつぶしをテレビが一手に引き受けていたのだけれど、これをネットやメールに持って行かれたのだ。ネットではヒマつぶしとして情報をブラウズすること(たとえばYouTubeやYahoo!のホームページの閲覧はその典型)に、コンサマトリーな魅力がある。またソーシャルネットワークで、ネットを介した第三者の書き込みををチェックしヒマつぶしするのも同様だ。そして、さらに、これにケータイが強敵として現れる。ここでは身内とされるメンバーの間で激しく情報のやりとりというか、言葉によるヒマつぶし、メールのキャッチボールが繰り広げられる。これで、ネットとケータイに忙しい若者はテレビをあんまり見なくなってしまったというわけだ。

酒離れ:飲む酒バラバラ、酒を飲むのもたくさんの趣味のワン・オブ・ゼム

かつては大学に入れば、とりあえず居酒屋で酒を飲まされるというのが大学のしきたりだった。そう、例の「とりあえずビール」である(80年代半ば「イッキ飲み」で死者が出たことが問題視されるまでは、アルハラなんて言葉はなかった。とんねるずが「イッキ!」っていう歌をリリースしていたなんて時代だった)。ところが、いまや大学一年生がみんなで酒を飲みに行くなんてことは御法度(バレたら停学になるという時代)。僕も、新入生と食事には行くけれど、一緒に酒を飲むということは、まあ、やれなくなっている(教員が連れて行ったなんてことがバレたら懲戒)。ということは、かつて酒は「強制」だったが、いまや「任意」。そこで、飲まなくてもいいという自由が生まれ、酒を飲まなくなる若者が増える。また酒を飲むというシチュエーションにおいても、それぞれが多様化しているので、酒の種類も場やバラになる。「とりあえずビール」なんてことは、ほとんどアルハラになるわけで。カルアミルクだの、モスコミュールだのってなことになる。で、こうなると今度は「ビール離れ」ってことになってしまうわけだ。

しかし、やっぱりその一方で、酒マニアもいる。たとえば、僕のゼミ生、しかも女の子の1人は大の酒好き。卒論もビールについてだ。逆にかつてだったらお酒大好き女子大生なんてのはとんでもないやつだということになったのだけれど、今では「趣味の一つ、嗜好の一つ」となっている。そう、細分化された領域に、マニアックに「寄って」いるのだ。

さて、ここまで「若者の○○離れ」について考えてきた。でも、よーく考えてみると、こういった設定、実は間違っていることがわかる。ここまで「離れ」は「寄り」とのコントラストによって感じられる相対的感覚だと指摘しておいた。そして、嗜好の多様化によって、それぞれが異なった好みや傾向を持つようになり、関心領域が分散化し、それが結果として「○○離れ」に見えるとも指摘しておいた。

でも、この情報による価値観の多様化という現象は、なにも若者に限られたことではない。つまり、日本人の多くがこういった傾向を持つようになっているわけで。ということは「若者の○○離れ」ではなく「日本人の○○離れ」というのが正しいということになる。そう、あなたも「○○離れ」しているのだ。ただし、当の本人であるあなたはそんなこと、つまり「○○から離れた」なんて

若者の「○○離れ」について考えている。前回までで、この現象が実は「多様化による関心対象の分散化」によって、そのように見えるだけであることを指摘しておいた。そしてバイクと旅行離れの原因について述べた。で、今回は、その他の「○○離れ」についても考えてみよう。

洋画離れ:家で見る

これは本当だ。ただし、映画館に行かなくなっただけのこと。映画館に行かなくてもすぐにレンタルできるわけだし。で、結局洋画、邦画にかかわらず、話題となっている映画を若者たちは、家でキッチリ見ている。で、映画マニアもたくさんいる。

読書離れ:実は読んだり書いたりする量は膨大になっているのだが

本は本当に読まなくなった。ただし、これは文字を読まなくなったのとは違う。つまり読書量=文字量という図式は間違っている。というのもネットを通じて電子化した文字をべらぼうに読むようになったし、またケータイ・スマホを通じて文字もべらぼうに書くようになったからだ。ということは、以前の人間よりも、はるかに読み書きする文字の量は圧倒的に増えたのだ。ただし本に書かれている文章のスタイルと、ネットのそれとは異なっている(最もわかりやすい特徴は文章一つ一つが短くなっていることだろう)。これはメール打ち、そしてネットの情報が短い文で展開されていることによる。だから、かつてのリテラシーとは全く異なったリテラシーが形成されるようになった(つまり「短文リテラシー」が向上し、「長文リテラシー」が衰退した)。ただし、かつてのリテラシー、つまり「本を読むこと=文字を読むこと」こそが「正しいリテラシー」とみなすジジイたちにとっては、これはリテラシーの低下に見える。だから、ジジイたちは、かつてのこういった立ち位置に基づいて「本離れ=文字離れ」を嘆くのである。

新聞離れ:他のメディアと競合し、価値観が相対化されてしまった。

僕が大学の頃(80年代)、アパート暮らしの学生たちはカネもないのに新聞を購読するということを、かなりの人間がやっていた。新聞は数少ない「社会の窓」だったからだ。しかし、今や新聞は独占的な社会の窓の役割から引きずり下ろされている。むしろ社会の窓はインターネットだろう。事件が勃発すると、僕たちは先ずYahoo!などのポータルサイトのホームにアクセスする(というか、今では、そこから事件を知る)。そして、さらに出来事の内容を調べるべくGoogleへ向かい、知りたい項目を検索する、あるいはYouTubeでチェックをはじめる。また、周りの人間がどう考えているかTwitterやFacebook、2ちゃんねるでチェックする……ってな具合に、僕らはネットを通じて社会を知る。ということは、翌日にならないとやってこない新聞などもはや「用なし」といった状況になってしまったのだ。また、かつては新聞はオピニオンリーダー的な役割も果たしていた。つまり、論説委員が出来事を解説するなんてことをやっていて、まさに「社会を知る窓」的な機能を果たしていたのだけれど、これもテレビやネットなどの他のメディアに持って行かれた。また、論説自体も相対化されてしまい、ネットやテレビで流されるオピニオンの一つに成り下がり、権威を喪失して、僕らが敢えて新聞の論説にアクセスしようというようなモチベーションも失ってしまった。実際、僕の教え子でアパート住まいの連中で新聞を定期購読している学生なんて皆無だ。(続く)

前回は、若者の「○○離れ」がパラダイムシフトに基づいて発生していると考えるべきであると指摘しておいた。そこで、このパラダイムシフトを確かめるために、かつての「○○離れしていない」、つまり「寄っていた」パラダイムシフト・チェンジ前の状況を分析し、これと比較することで確認してみよう。


80年代の「寄っていた」時代

時は80年代。若者が新人類と呼ばれたこの時代、若者たちは極めて「寄った」ライフスタイルを形成していた。音楽ならば洋楽(ビートルズ、ストーンズあたりを古典とし、クイーンやTOTO、ポリス、ドナ・サマー、スティーヴィー・ワンダー、マイケル・ジャクソン)、邦楽ならばJ-POPと呼ばれる前のニューミュージック(ユーミン、サザン、井上陽水、オフコース、YMO)、ファッション雑誌ならポパイ、オリーブ、ギョーカイならフジテレビ、サントリー、そしてセゾングループ(糸井重里!)に「寄った」かたちで関心を持っていた。そして学生たちの間にはニューアカデミズム・ブームが発生(浅田彬、中沢新一、栗本慎一郎、山口昌男、デリダ、ドゥールーズ、フーコー)。こぞってスクーターを購入し、クルマでデートとしゃれ込んだ。好感度で独自に情報を入手すると呼ばれた当時の若者=新人類は、実は極めて似たような行動を採っていたのだ。つまり「寄りに寄っていた」。

情報化が生む多様化・細分化こそが「○○離れ」の正体

ところが、時代は変わっていく。情報化がどんどん進み、価値観の多様化が進展する。そうなると、それぞれが自らの好みを細分化させていくわけで、そういった欲望に忠実に行動すれば、それぞれの嗜好はバラバラになっていく。当然、世代全体が関心を「寄せる」項目は減少し、嗜好は多様化、細分化する。

必然的に、若者それぞれが寄せる関心領域の規模は徐々に小さくなっていく。ということは、その後に発生したことが「○○離れ」ではなく、単に分散しただけだのだということがわかってくる。つまり、関心が小分けされたのだけれど、これが、ジジイ連中からすれば、さながら「○○離れ」したように見えるのだ。

「○○離れ」は、昔のおいしい商売に戻りたいと思っている資本の嘆き

だが、それをメディアが無理矢理「○○離れ」と表現している。でも、なんでそんなことをするのか?その理由は「カネ」に収斂すると理解すれば、案外わかりやすい。80年代のように、若者の多くが、一部の趣味や嗜好の領域に「寄って」いれば、これは金儲けがしやすい。なんといっても資本の原則は「少品種大量生産」。つまり、少ない商品を大量に生産してバラまけば儲かるわけで、資本とすれば寄ってくれている方が助かるに決まっているからだ。言い換えれば「○○離れ」というのは、既存のビジネス手法=ビジネス・パラダイムでは商売が通用しなくなったことを嘆いているだけなのだ。だから、若者たちが「○○離れ」していることは、こういった立ち位置からしたら真実ということになる。でも、それは傍目から見れば、要するに「嘆いているオマエラのアタマが悪いだけだ!」ということにもなるのだけれど。

若者それぞれは「○○離れ」などしていない

だから、こういった若者たちの「○○離れ」は若者が外界に関心を寄せなくなったということを必ずしも意味しない。それは、この分散化された領域への若者の熱の入れ方を見てみればよくわかる。つまり、分散化したものの、自分が関心を持った領域には熱狂的入れ込んでいることについては80年代のそれと、実は何ら変わるところはないのだ。その例をいくつか挙げてみよう。

例えばその販売台数が激減したバイク。とりわけ落ち込みが激しいのはスクーターだ。これは要するに80年代の若者が「寄っていた」ために猫も杓子もスクーターを求めたと、いう状況が解消されてしまったからだ。しかし、その一方で付加価値の高いバイクについてはよく売れる。スポーツタイプの高額なバイクとかハーレー・ダビッドソンとか。バイクに熱狂的に入れ込んでいる一部の若者たちは、こういった高額物件を「清水の舞台から飛び降りる」感覚で手を付ける。僕の教え子の一人にバイク大好きの人間がいたのだが、こいつはHAMのバイク、つまりアメリカ・ホンダのバイクを逆輸入して乗り回していた。まあ、よくもこんなややこしいことまでしてバイクに入れ込むなと思ったほど。

旅行も同様だ。一部の旅行マニアは、今やものすごく旅行の手法に手が込んでいる。バックパッカーの中には、ホントにマニアックで誰も行かないようなところに脚を伸ばす連中もいる。こいつらは旅の情報をものすごくよく知っていて、しかもメディアを駆使して情報を徹底的に調べ尽くすようなスキルを持っている。また、パックツアーの連中も同様だ。パックツアーで最近最も流行っているのがスケルトン・パックというスタイル。これは航空券とホテルだけしかついていないというパターン(ホテルまでの送迎がついている場合もある)で、ようするにホテルと航空券がセットになっていればバックパッカーみたいにチケットと宿泊施設を別にプランを立てていくというよりはるかに安上がりになる。しかも、旅行代理店もゴチャゴチャとうるさいこと(オプションとれだとか、旅のド素人向けのお説教とか)をいわない。で、自分たちとしては、そうやって飛行機と宿だけを確保し、後は好き勝手にショッピングしたり、観光したり、エステしたり、グルメしたり、観劇したりとやりたい放題のことをやる。こういった連中の旅行への入れ子見方はディープでスゴイ。自分が関心を持った分野については「離れ」手いるどころか、極端に「寄って」いる。ただし、これが無数に分散されているので見えないだけなのだ。

そして、こういった「○○離れ」に見える若者の現象は、実は全て「多様化による分散」という言葉でカウンターをあてることができるのだ。(続く)

いろんな若者の○○離れ

最近若者の「○○離れ」という言葉が、あっちこっちで用いられている。クルマ離れ、バイク離れ、洋画離れ、酒離れ、旅行離れ、読書離れ、新聞離れ、英語離れ、テレビ離れ……とにかく、メディア上では若者は「離れる」のが好きらしい。

で、実際データを見てみても、この「離れ」は確かのように見える。僕の周りの学生でも、クルマやバイクに関心あるやつなんかほとんどいないし(バイクの売り上げは激減している)、以前みたいにコンパで酒をガンガン飲むのも減ったし(乾杯は“とりあえずビール”なんて時代は終わった。カルアミルクだとかモスコミュールだとか、とにかく多くてもうわけわからん)、本を読んでいる様子もないし(本も売り上げが落ちている)、英語なんかパッパラパーだし(留学者もバンバン減って、留学を斡旋する会社がドンドンつぶれたりしている)、海外旅行なんかしてないし(二十代の女性の海外旅行数は90年代の三割程度まで落ち込んでいる。旅行情報誌AB-ROADも休刊して久しいl(ネット上には、あります))。

「離れ」は「寄り」とセット

しかし、このモノのイイはちょっと気になる。あたりまえだが、「離れ」というのは「寄り」という言葉とセットになっている。つまりかつて「寄っていた」ものから、現在「離れた」ということなので、もともと寄ってないものは、こちらもあたりまえだが「離れた」とはいわない。ということは「○○離れ」という考え方は、あくまで相対的なもの、つまり比較の問題でしかないということになる。

クルマ離れとは

ちょっと、これらのいくつかを取り上げて考えてみる。先ず取り上げられるのがクルマだ。若者の車離れはかなり著しい。実際、今の若者はかつての若者のようにはクルマを買っていない。日産がスポーツカーのスカイランやフェアレディZを販売しているが、これを購入する層は四十代以上だ。

で、若者がクルマを購入しないのは所得が低くてクルマを購入するカネがないからとよく言われる。しかし、これはちょっとおかしい。というのも30年代、新人類と呼ばれた僕たちも、やはりカネは持っていなかったからだ。でも、無理矢理クルマを購入する連中、とりわけ男性は多かった。「無理矢理」というのは、メチャクチャなローンを組んでまで購入する「清水の舞台から飛び降りる方式」というのもあったが、その多くが「諸経費込みで二十万円」みたいな中古車を購入するというパターンがだった。だからこの時代からすれば、現在の若者は経済的な状況でクルマが買えなくなっているというのではなく、心理的に「クルマを買う気がなくなっている」ということになる。ただし、これも僕らの時代が「寄っていた」という前提で「離れている」ということでしかないのだけれど。だから、一概に「クルマを買う気にならなくなっている」と即断することはできない。

旅行離れとは

次は「若者の旅行離れ」。これは、海外に行かなくなってしまっているということなんだけど、事実これはそうだ。僕はバックパッカーの聖地=安宿街、タイ・バンコク・カオサンへ毎夏出かけているんだけれど、日本人若者の激減ぶりはめざましいものがある。カオサンで出会う日本人は、むしろかつてのバックパッカーみたいな人間が目立ちはじめている。つまり30代以上。で、前述したように20代女性の海外旅行離れもものすごい勢いで加速している。そう、こちらもかつての「寄っていた」時代からは「離れている」というわけだ。

「離れている」というのは「寄っている」時代と比べればという話でしかない

しかし、である。これはここまでクドクド断ってきたように「寄っていた」時代と比較しているから「離れている」と見えるということを確認しておいてほしい。逆に言えば、現在の状況からすれば、かつては「離れていた」ものもたくさんある。例えばケータイやスマホ、音楽プレイヤーなんてのは、今の方がずっと「寄っている」わけで(いや、それどころか、十数年前までケータイなんて持っている人間はいなかった)。

ということは、この「○○離れ」という現象は「年寄りの立ち位置に基づいて語られている」ということになる。そして、これをもう少し社会論的に表現すれば「嗜好や行動スタイルにパラダイムシフトが生じている」と考えるのが妥当ということになるのだ。じゃあ、それは何か?(続く)

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