マック赤坂の大阪府知事選政見放送。放送の内容を除くと(内容はほとんどスマイル党の宣伝)、そのパフォーマンス=形式の派手さは橋下と共通する。2人の違いは社会的コンテクストなのだ。
橋下徹が起こした大阪での騒動について考えている。
橋下が辣腕の、そしてパフォーマティブな弁護士であることは、バラエティ番組「行列のできる法律相談所」で一般にも周知されている(実際、TVに出演していた頃には『図説 心理戦で絶対負けない交渉術』という本すら出版している)。だから山口二郎が指摘したたハシズム的なやり方など、元々お手の物、これくらいのネタをバラされたくらいで橋下にとっては屁でもないなのである。とっくの昔に自分でバラしてるんだから。そして、このパフォーマンス能力が遺憾なく発揮されているのが、現在の大阪維新の会をめぐる一連の活動に他ならない。
ハシズムを稼働させる社会的コンテクスト
ただし、そうだからといって、必ずしも大阪全体を巻き起こすだけの力があるかと言えば、そうでもないだろう。ハジズム、そして「独裁」という言葉をメディア、評論家、政治家が振り回し、それが予言の自己破壊を起こすためには、そのための十分条件=コンテクストが必要だ。そして、それこそが現在の大阪の、そして日本の窮状に他ならない。大阪は現在、全く持って元気がない。生活保護を受ける人間の数は大都市圏では飛び抜けているし、財政も借金だらけ。産業も活気がない、の「ないない尽くし」なのだから。
橋下からコンテクスト抜き去るとマック赤坂になる
この十分条件=コンテクストという考え方は重要だ。これがなければ、ややもすれば荒唐無稽にすら思える橋下のパフォーマンスなど一蹴されるはずだからだ。よく考えてみれば、あの派手なパフォーマンスは、ちょっとやり過ぎ、バカっぽく見えないこともない(東国原よりはるかに派手で安っぽい)。でも、これが大阪の閉塞状況というコンテクストに置かれると、突然リアリティが出てくるから不思議だ。
これを考えるためには、全くコンテクストを持たない例と比較してみるのがいいだろう。たとえば、同時期に府知事選に立候補していたマック赤坂はまさに典型だ。そのエキセントリックな政見放送で一部では有名なマック。だが、政見放送からその内容の荒唐無稽さを除いたパフォーマンスは橋下のそれと大して変わるところはない。しかし、マックは今回の候補者七名中、最下位で落選している。なんのことはない、彼には十分条件としてのコンテクストが全くといっていいほど存在しないのだから、あたりまえなのだ。つまりマック赤坂は空気を読めていない(ま、本人は一向に構わないんだろうけど)。
空気を読んだ橋下
こういった閉塞状況にハシズムが乗っかってくれば、歯車は高回転で回り始めることになる。橋下はその責任を大阪市と大阪府の二重行政のせいと決めつけ、大阪人の「共通の敵」を作ることに成功した。そして、それに対する正義の味方こそは「大阪維新の会」を掲げる橋下自身としたのだ。これまたハシズム。
ハシズムに拍車をかける平松の自爆
さらにこれに対立候補の平松邦夫が、自らの予言の自己破壊で自爆していくことでハシズムに拍車をかける。「『おおさか満足度日本一』なんて脳天気なこと言っているわけで、これじゃ現状を全くわかっていないバカ」ってな印象になってしまうのだ。つまり、このキャッチは大阪人の感情を逆撫ですることにしかならないわけで、だから平松はこのキャッチでキャンペーンをやればやるほど自爆していったのである。前回に引き続きボコボコにするようで申し訳ないが、やはり平松は全く空気が読めていない。単なる橋下の“ムード盛り上げ楽団”でしかなかったのだ。
で、くどいようだがこの図式を援護射撃するのがこの二重行政が生んだと思わせた大阪の財政の窮状なのだ。もちろん、これだけが責任と言うことはないだろうし、実際大阪維新の会が市と府を統合して大阪都としても、現在の状況を打破出来るかは疑問だ。でも、窮状というコンテクストがあると、これを打破したい、一発賭けたいという気分になる。そういった心性を見事に橋下は煽っているのだ。
じゃあ、いったい橋下がいじることになる大阪はどうなるんだろう?橋下にはその度量があるんだろうか?(続く)