勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2011年10月

全く無視され続けた自転車マナー

ずーっと不思議に思ってきたことがある。それは「タバコの害についてはさんざん話題にされ、そしてどんどんタバコが吸えないエリアが拡大するという結果を招いているのに、自転車マナーに関する迷惑については、ほとんど何にも言われてこなかったこと」だ。

これって、本当に不思議としか言いようがない。だいたい、どっちが当事者でない人間にとって危険で危害が加えられる可能性が高いかと言えば、明らかに後者だからだ(タバコなんてのは、煙さえ人にバラまくことがなければ、あとは個人的な問題にすぎないにもかかわらず、吸っている人間は、今や「悪者扱い」だ)。歩道で歩行者にぶつかって傷害になる、駅前に違法駐輪し、駅周辺は自転車だらけ。歩行者はまともに通れなくなるわ、緊急車両が入れないわ。さらには、いらなくなった自転車を名前と防犯登録を外してその辺に放置するなんてのも。

警察が自転車を取り締まれない事情


「警察はどんどん取り締まればいい。なぜ、やらないんだろう?」

こんなふうに思うのは僕だけじゃあないだろう。

もっとも、これは警察側にも事情がある。あまりにマナー違反、違法が多すぎて取り締まれない。”こっちは敵軍にマシンガンを使って対応するけれど、向こうから攻めてくる敵軍が1万人、こっちは1人”みたいな状況になっているらしい。しかし、ここに来て自転車に関する事故は目に余るものになってきた。で、いよいよ対策を講じなければならないところにまできたようだ。

問題は「違反の取り締まり」ではなく、「違反しないという認識」を利用者に植え付けること

ただし、この問題の根本は日本人の自転車の扱い方についての認識にある。だから、前述したように、取り締まりを強化するだけでは効果が無い。あまりに多くて、取り締まられる人間がごく少数ということになるから、実質的なマナー違反、違法防止効果が見込まれないからだ。

ではどうするか?

それは

「自転車マナー違反、違法自転車撲滅キャンペーン」を展開すること。少々皮肉を込めて言えば「タバコ追放キャンペーンのように」やることだ。

マナーを一発で守る気にさせるキャッチコピーを使ってキャンペーンを展開する

でも、ごちゃごちゃいろんな規制をしたり、キャンペーンを展開するだけでは、やっぱり効果は薄い。 そこで、メディア論的な視点の登場となる。 これらを抑止するイメージを喚起する文言を=キャッチ・コピーを決め、これを軸に大キャンペーンを図ること。これに尽きる。

で、僕は次のようなキャッチコピーを提案したい。


「自転車はクルマです!」


これだ!このコピーは自転車の扱い方を一言で理解可能なものだ。で、これに併せて自転車に関する法律の多くを自動車の法律に準ずるかたちで改正する。たとえば以下のようなものを考える。


・自転車運転においては教習を実施し、免許を与える。

・自転車はすべて登録する。

・自転車運転に際しては免許証を携帯しなければならない(不携帯は罰金と減点)。

・違反に対しては罰金と減点処分を実施し、一定以上の減点に達した場合には免許停止にする。

・自転車の歩道走行禁止(横断歩道も含む)し、その代替として広い車道には自転車専用ゾーンを設置。歩道を利用する際には自転車から降りて押す。つまり「歩道走行」ではなく「歩道通行」する。

・駐輪を禁止するゾーンを設定し、全国一律で法律的に罰金を設定。


と、まあこんな感じだ。もっとも子ども、未成年も自転車は使用するので、このへんについての配慮も必要だろう(小学生くらいから、きっちりルールを学ばせればいいんだろうけれど。学校の授業に組み込む必要あり)

「自転車はクルマです!」というコピーは、ようするに「自動車と同じ条件に基づいてルールが敷かれている」ということを認知させるものすごく判りやすいコピーだ。つまり、もし警官が自転車の違反を指摘しようとする際には、違反者がこのコピーを認知していれば自動車の法律から容易にそのルールを類推可能となるので、文句を一切言えないということになるからだ。要は、こちらがルール違反を指摘するのではなく、言われた際、本人が「そーだった」と気付くような仕掛けが、この「自転車はクルマです!」というコピーなのだ。そう、このコピーの後には「だから、クルマと同じように罰せられます」という続きが自転車を運転する人間に自動的にインプットされるのだ。インターフェイスが一緒だったら明快なのだ!

これから始まりそうな自転車のマナー違反、法律違反キャンペーン。どうですか?このコピー使いません?

二次創作のオリジナリティ=創造力について考えている。その評価基準は二つあると述べておいた。そしてそのひとつが「原作以上に原作らしい作品をつくり、原作をリスペクトすると同時に、これを凌駕してしまう」ところにあることを、ドラえもんの二次創作「タイムパラドックス」を例に示した。

原作を徹底的に改編し、自らが原作になってしまう

今回は評価基準の二つ目について展開してみよう。これは前回とは全く逆の方向へ作風を振ることによって可能になるものだ。

それは、原作を素材に、ある程度原作を無視し独自の世界を作り上げてしまい、そしてそちらで別のリアリティを生んでしまうような場合だ。この典型はディズニーが繰り広げてきたアニメ制作の姿勢、批判も込めてディズニフィケーション(Disneyfication)と呼ばれる手法に典型的に見て取ることが出来る。

ディズニフィケーションという手法

ディズニーの長編アニメと言えば、その多くがグリムやイソップと言った童話を改編して作られていることはつとに有名だ。たとえば89年の作品「リトル・マーメイド」。この原作はアンデルセンの「人魚姫」なのだが、設定も内容も大幅な変更が加えられている。まず、人魚姫のキャラクター。原作は地上の世界を夢見はするが、自らが置かれた不遇な環境にひたすら耐えるという姿勢が前面に現れている。一方、リトル・マーメイドの方は先ず名前がアリエルへと変更されている。そして同様に地上の世界を夢見るが、地上の世界へ行くことを積極的に選択する陽気で無鉄砲なアメリカ人へと変更されている。そして、これもお決まりだが、こういった主人公を支えるキャラクターが横につく(リトル・マーメイドの場合はロブスターのセバスチャン)。そして、その精神はディズニーの哲学「夢は必ずかなう」や「いつか王子様が」といったものによって彩られている。また、作中の中にセックス、バイオレンス、残虐な描写というものも削除されている。

ストーリーも変更されている。原作の最後で王子と結ばれることなく人魚姫は泡となって消え、不幸な最期を遂げるのだが、リトル・マーメイドは晴れてプリンスと結ばれハッピーエンドを迎えるのだ。

そして、こういった手法によって作品を世界展開し、最終的に原作よりもこちらの改編したものが原作=オリジナルとして認められてしまう。

あのお子様ランチの、そして商業主義に徹したディズニフィケーションのどこが優れているのだ?とツッコミが入るかもしれないが、実際のところこういった「改編」が広く世界的規模で人口に膾炙し、人々の支持を受けたという事実を踏まえれば、これは「新しい創作=オリジナリティ」と認めざるを得ないだろう。もはや人魚姫の方が「改編・改作」になってしまったのだから。

著作権が曖昧になり、二次創作が氾濫する中で

最後に、今回の特集について改めておさらいをしておこう。まず著作権とオリジナリティ=クリエイティビティには実はなんの関連性もないことを確認した。次にオリジナリティが既存のパターンに新たなものを付加し、それが多くの人間に意味解釈の場を与えた時、それは生まれること、言い換えれば全てのオリジナル作品は二次創作であることを確認した。三つ目にわれわれが一般に指している二次創作=原作の改編のオリジナリティが二つの視点から認められることも確認した。一つは原作以上に原作らしい贋作を作ることによって、もうひとつは原作を徹底的に改編してしまい、その改編度が人々から支持を受け、原作よりもこちらが原作になってしまうような状況が出現することによって。

著作権の保護が限りなく難しくなり、その一方でそれに対抗する手段として著作権を保有する側が自ら著作権に手を染め改編するというような行為が次々出現している現代。僕らは著作権という考え方を根本的に考え直さなければならない時期に来ていると言えるだろう。ただし、それだからこそ作品のオリジナリティについて、深い、そして用心深い洞察を行わなければならいという課題もまた、僕らは突きつけられている。そのことは肝に銘じておくべきではないだろうか。

二次創作の評価すべき二つの基準の一つ目として「原作をいかに踏襲し、さらにこれを乗り越えられるか」という点を、ドラえもんの二次創作作品「タイムパラドックス」を例に説明している。前回は本作品がキャラクター設定において原作のキャラクターを完全に踏襲した上で、成長し大人になったキャラクターが描かれている点について指摘しておいた。しかし、設定に対する徹底はこれだけではない。今回は他の部分についても見ていく。

のび太とドラえもんの友情も一切変わっていない

次いでこれにキャラクターの関係もキッチリと温存されている。のび太は動かなくなったドラえもんを自らの知識と技術で動かすべく猛勉強をはじめるのだが(なんとテストで出来杉をはるかに抜くダントツの成績を高校でとっている)、こういったモチベーションが働くのはドラえもんとの友情を維持したいという強い情熱に基づいている。そして一見すると性格がガラっとかわってしまったかのようにみえるのだが、それは違う。こういったドラえもんとの友情の強さゆえに、みずからのおっちょこちょい、不真面目さ、すぐにしずかちゃんの風呂場を除こうとするエッチさを隠蔽するのだ。ガリ勉するのび太を周囲は変わったというが、しずかちゃんだけがこれを否定する(だから結婚するのだけれど)。逆に言えば、これらがストーリーの最後に、なぜ彼がかつてののび太を封印していたかの伏線となっており、その実のび太は一切変わっていなかったのだということが、ラストシーンで明かされる。復活したドラえもんの前でのび太は子供に戻り、泣きながらドラえもんに抱きつくのである(しずかちゃんも子どもに戻っている)。



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 大人の子どもが修復したドラえもんに抱きつく、子どもに戻ったのび太。ドラえもんには耳が付け加えられている。


脚本の妙、世界観の一致

そして世界観やストーリーの整合性も完璧だ。ストーリーの冒頭は首相官邸。ここで総理の出来杉が二人の男を招集する。ジャイアンとスネ夫だ。出来杉は二人を呼び出した理由を語る。それは「タイムパラドックス」に関することがらだった。ジャイアンとスネ夫は、子供時代ドラえもんの秘密道具を利用して、様々な未来的な経験をしている。夏休みはタイムふろしきに乗って必ず別世界をドラえもん、のび太、しずかちゃんと旅していた(映画版)。だから、そういった未来がいずれやってくることも二人は知っている。ところが、実際の技術の進歩はあまりに遅い。これは、おかしいんじゃないか。このままではタイムパラドックスが起きてしまう。ところが、この遅れを一気に取り戻す瞬間が一人の技術者によって今なされようとしている。そのことを出来杉総理は二人に伝えるのだ。でも、なぜジャイアントスネ夫なのか?その技術者とはのび太だったからだ。つまり技術の進歩とは、とどのつまりのび太が技術者となりドラえもんを修理し、二人の記憶を温存したままにドラえもんを復活させることに他ならなかった。



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ドラえもんを復活させるのび太博士とその妻・しずか



開発者の名前が決して子供ののび太に明かされなかった理由

ちなみに、動かなくなったドラえもんを動かそうとしてのび太がドラミちゃんに開発者のことについて問い合わせても「それは厳重な秘密になっていて、自分の回路にも二重三重にプロテクトがかかっている」といって答えてくれない。なぜか?要するにドラえもんの開発者とはのび太だったからだ。もし子供ののび太にいずれ自分がドラえもんを直すと言ったことが知られたら、のび太のグータラさが前面に出てきて、のび太は勉強しなくなり、ドラえもんを修理する技術者にはなれなくなる。それは言い換えればドラえもんを作り出すことが出来ない、ようするにドラえもんがはじめから存在しないという「タイムパラドックス」に陥ってしまう。だから、子供ののび太の性格をいちばんよく知っている開発者・大人ののび太(本人だからあたりまえなのだけれど)は未来のタイムパラドックスを起こさせないように、子供ののび太に勉強をさせなければならない。そこで、開発者を決して教えないように開発者を明かすことについてシールドをかけたのだ(ドラえもんが動かなくなった時点で、すでに未来と現在の間の行き来が不可能になっているのは……大人ののび太がそのように指図したというふうに理解すると話はキレイにまとまる)。



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技術者の名前は未来からも通達された超重要秘密事項だった。



ちなみに、画風についてもものすごく原作のスタイルを学んでいる。のび太がビックリしたときには体中に電撃が走っているし、ジャイアンが突然ドラえもんが消えたことを思い出して怒りだし、首相官邸のテーブルをドンとたたく(”ドン”とカタカナの吹き出しがある)なんて、藤子の細かい技法までがあちらこちらで用いられているのだ。



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この”驚愕”の画像スタイルは藤子F不二雄のオリジナルだ。しっかり踏襲されている。



明らかに原作、そして藤子に対するオマージュになっている!

まあ、こうやってこの作品を見ていると本当にビックリする。一番感じるのは、これを制作した二次創作者がどれだけ「ドラえもん」が大好きで、そしてその作品を大事にし、リスペクトている、つまり作品に深い愛情を抱いているかと言うことだ。それがしっかりと伝わってくる。だから、自分が二次創作を行ったとしても、絶対に藤子F不二雄の作り上げたドラえもんの世界を壊さないような配慮を徹底的に行っている。だが、それは結果として藤子以上に藤子らしい二次創作を可能にさせているわけだ。つまり、この二次創作は出来杉、いや出来過ぎなのだ。(続く)



ドラえもんの最終回を想定した二次創作「タイムパラドックス」


二次創作のオリジナリティ

ここまで創作というものが、実は全て二次創作であるということを明らかにしてきた。

しかし、これは全てのものにおけるオリジナリティが該当すると指摘することになるわけで、いわゆる一般的に呼ばれている二次創作に限定されるオリジナリティに限った話ではなくなる。では、こういった「二次創作」(つまり、ここまで展開した「全ては二次創作」という定義ではなく、一般的に言われている二次創作のこと)のオリジナリティはどのように定義されることができるだろうか。

基本は前述の「低燃費少女ハイジ」「ゴル休3」と同じだ。つまり上に述べたように1+1が3にも4にもなってしまい、見ている側が、これに新しい意味を読み取ろうという状況が前提となる。ただし、二次創作は原則、同一作品の設定やキャラクター、ストーリー背景などを借用して別の作品を作り上げるものだ。じゃあ、この場合、どうやったら1+1が3になったり4になったりするんだろう。

オリジナルの全てを厳密に踏襲し、オリジナル以上にオリジナルな作品を作る
これには二つの回答があるだろう。ひとつは原作のキャラクターや設定などの全てを踏襲しながら、作品を別の作者が作り上げ、それが結果として原作以上に原作のコンセプトや理念を踏まえ、原作を超えてしまうような場合だ。原作者が見てびっくりし、「自分の作品以上に自分の作品らしい」と思わせるような解釈を迫る力のあるものが二次創作のオリジナリティの一つと言えるだろう。

ドラえもんの最終回「タイムパラドックス」のリアリティ
これもまた、具体的に一つ二次創作の作品を指摘しておこう。それはドラえもんの最終回という想定で作られた「タイムパラドックス」という二次創作だ。ちなみに、この作品は二次創作の世界では極めて有名な傑作だ。

ストーリー:動かなくなったドラえもん。しかし修理すれば……

ストーリーはある日、ドラえもんが全く動かなくなってしまうことから始まる。困ったのび太はドラミちゃんにタイムテレビでそのことを連絡。すると、その原因がバッテリーが切れたことであることがわかる。ならば交換すればよいのだが、ドラえもんの記憶のバックアップ回路は耳におかれているため、ネズミにかじられてしまって耳のないドラえもんはバッテリーを交換した場合には元どおりにこそなるが、のび太との思い出を全て消されてしまい、二人は全くはじめから関わり合いを結ばなければならなくなる。

ドラミちゃんはのび太に二つの選択肢を与える。一つは未来にドラえもんを連れて行き前述のようにバッテリーを交換して、新しいドラえもんと関わること。もう一つは、未来に希望を抱いてドラえもんの記憶を残したまま再び稼働させる技術者が現れるのを待つこと。

のび太が選択したのは後者だった。そして数十年後、その技術者が現れる。その技術者とは?

藤子F不二雄の世界全てをリスペクトし、踏襲する

詳細については原作がアップされているYouTubeをご覧いただきたいが、ここでこの最終回を作成した作者は、見事に藤子F不二雄の描いたドラえもんの世界をキッチリと踏襲している。

キャラクターを一切改変しない

先ずキャラクター設定。時代設定が数十年後になっているのでキャラクターは成長しているのだが、子供時代の性格をしっかりと踏襲しており違和感がない。たとえば「のび太の結婚前夜」「おばあちゃんの思い出」といったドラえもんの作品(オフィシャルのもの)をいくつも手がけている渡辺歩の作品の中では、それぞれのキャラクターの一部が強調され、なおかつ改変されている。のび太はおっちょこちょいだが、礼儀正しい、生き物を大切にするキャラクターに、ジャイアンは乱暴だが友情に厚い男に、しずかちゃんはフェミニストが怒りそうな「銃後の守り」をする献身的な女性にアレンジされているのだ。ところが“最終回”はこういったデフォルメが一切ない。だから、各キャラクターはそのまま成長しただけといった印象を受け、違和感がなく、大人と言ってもリアリティがある。ちなみに最後にドラえもんは復活するのだが、その復活第一声は「のび太君。宿題は終わったのかい!?」。つまり、ドラえもんののび太に対するキャラクターも全くそのままだ。



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復活したドラえもん。全くキャラクターが変わっていない。そして両耳がついている



いや、変わっていないのはそれだけではない。とにかく、藤子Fが最終回を描いたらこうなるという、想定が徹底されているのだ。それは何か?(続く)



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「一休さん」と「ゴルゴ13」を接合させたパロディ「ゴル休3」


パロディのオリジナリティ

前回はオリジナリティというものが実は全て二次創作的に、既存のスタイルをパクることで成立することを示してきた。さらに既存のものに新しいものを付加したり、既存のものと組み合わせ、どちらでもない新しいイメージや意味を受け手に喚起した際、それがオリジナルなものになる、そして創造力があるものになることを指摘しておいた。

今回は、前回の「低燃費少女ハイジ」と同様、こういった二つの作品を無理矢理掛け合わせ、新しいイメージを喚起しているものについてもう一つ紹介しておこう。ただしこちらはアマチュアの作品だ。

作品名は「ゴル休3」。このタイトルから予想出来るように、本作品は「ゴルゴ13」と「一休さん」を掛け合わせたものだ。作品は「一休さんの虎退治」をベースにしたパロディだ。

まず一休さんの「虎退治」から。原作は次のような下りだ。

一休さんをギャフンと言わせたい殿様が一休さんを殿中に呼びつけ、無理難題をふっかけることから始まる。それは「屏風の虎が夜になると外に出てきて、ウロウロして困るので、これを退治してくれ」というもの。屏風に描かれた絵が実物になって出てくることなどあり得ない。しかし一休さんは、正座し、例によってアタマをポクポク叩きながら瞑想することでとんちを思いつく。

まず、殿様に虎を捕まえるための縄の用意を要請する。そしてやおら屏風の前に立ち、殿様に語りはじめたのだ。

「お殿様、これから虎を屏風からおびき出します。そちらにいては危ないですから屏風の裏にお回りください。それから屏風の裏を叩いて虎を外におびき出してください」

一休さんは虎を縄で捕まえることについては意欲満々である。ところが、まず殿様が屏風から虎を出してくれないことには捕まえられない。しかし屏風に描いた虎だから出てくることができない。これで勝負ありである。

これが原作なのだが、「ゴル休3」では一休さんはゴルゴ13になっている。そして全く同じシチュエーションで虎退治を考えるのだが……ゴル休3がやったのは銃で屏風に描かれた虎の眉間を撃ち抜くことだった。唖然とする殿様……

この作品の妙は、一休さん、ゴル休3どちらにしても殿様は返り討ちに遭って唖然とすることだ。一休さんからはとんちで、ゴル休3は銃という暴力装置を用いられることによって(そしてゴル休3で唖然とする殿様の顔はゴルゴ13の中で登場する人物が唖然とする顔と全く同じ表情で描かれている)。結果が全く同じなのだが、キャラクターが異なってくるとその方法が違う。だから、ここでは飄々とした一休さんと寡黙なゴルゴ13のコントラスト、そして一休さんの設定とゴルゴ13の一休さんというキャラクターのシチュエーションでの場違いさが、受け手の側にある種の快感を誘うのだ。しかもその手段も知恵VS暴力とコントラストをなしている(ちなみに、このシリーズは他にもあるが、それらにはこれほどの作品の絶妙さは、残念ながら無い)。(続く)


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