勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2011年10月

スマホの重層決定

前回はメディアの重層決定という考え方に基づいて、新しく出現したメディアの普及が既存のメディアに影響を及ぼすことを指摘しておいた。一つは機能的に完全に被ってしまった場合には消滅すること。そしてもう一つは、被った部分の機能は奪われるものの、他の機能については温存され、それらの機能について再定義を受けること、というのがそれだった。ということで、今回はスマホの出現によって、この二つの運命になる可能性のある既存のメディアを取り上げ、考えてみよう。

かなりのメディアが消滅する! 

まずは消えていくものについて。

スマホの利便性は、ネット利用をハブとして様々な機能にスマホ・ユーザーを導いていくだろう。メールは言うまでも無いが、写真撮影、スケジュール管理、音楽鑑賞、ビデオ視聴、電子書籍閲覧といったものがそれだ(これら機能はすでに備わっていたりアプリとして存在している。だからパソコン・ユーザーがスマホを購入した人間は、二つのインターフェイスが酷似しているので、簡単にこういった機能を使い始めるが、パソコンに疎い一般ユーザーは、こういった“既存の機能”をスマホを購入することで“発見”することになる)。こういった「オマケ」をスマホは、既存のメディア寄りもはるかにハンディで操作が簡単、価格も安いというメリットを武器に巻き込んでいき、われわれのメディア生活の中心に腰を下ろしていく。そして、上記のように、これら機能が重複するメディアの多くが消滅するか、メディアとしての位置づけを変更させられることを余儀なくされるだろう。今回は、消えていく(あるいはほとんど消えてしまうであろう)メディアについて考えてみよう。

カメラ、ゲーム、音楽プレイヤー、そして電子辞書が消えていく?

先ずカメラ。もうデジカメはダメだろう。残るのはマニアックな高級機種だけということになるのではないだろうか。すでにスマホは撮影に十分なだけの性能、利便性、さらには撮影やデータ管理の簡便性を備えている。だから、今後デジカメの市場は縮小していくだろう。実際、すでにデジカメの売り上げはどんどん落ちている。カメラ・メーカーも最近一生懸命売っているのは高機能の商品。廉価のものはほとんど捨てているという状況だ(実はほとんど儲けがなくなっている。テレビCMを見ても宣伝しているのは高級機種だ)。つまり、デジカメが銀盤カメラを駆逐したように、今度はスマホがデジカメを駆逐することになる(もっとも、すでにガラケーで地ならしがされているが)。

二つ目はゲーム。これもえらいことになっていて、ゲームソフト・メーカーはその商品開発の中心をスマホに移行しつつある。その一方でゲーム単体のハードはすでにかなり危機的な状況になっている。ゲーム機器の雄・任天堂が大赤字を計上したニュースは記憶に新しい(新しいハード・ニンテンドー3DSが全く売れなかったのだ)。もちろん、これはスマホやガラケーのゲーム・アプリとバッティングしてしまったからに他ならない(グリーやモバゲーね)。これらは専用メディア(ディスクなど)すら必要も無く、ポチっとタッチするだけで購入出来てしまうからだ(しかもフリーソフトも多い)。ちなみにゲームのおもしろさというのは、それが画像や映像がキレイだとか、手が込んでいるとかではなくて、むしろシンプルであることがポイント。おそらくスマホのような小さな画面に最も馴染むのはソリティアみたいな王道ゲームだろう。で、ハードメーカーも仕方ないので通信機能とかドライブとかを付けて対応してはいるのだけれど……状況はかなりキビシイ。ゲームハードが残るためには大画面でやるとかとうものになっていくだろう(ただし、こちらもテレビがインターネット回線と接続されることがあたりまえといった時代がやってくればダメになってしまうだろうが)。

三つ目は音楽プレイヤー。これはもうとっくに変わってしまっている。iPodを中心とした音楽デジタルプレイヤーのせいだ。CDの売り上げがガタ落ちになり、みんなiPodみたいなもいのにダウンロードして聴くようになった。で、このiPod層が今度はどんどんスマホに流れている。実際、現在iPodの売り上げはどんどん落ちているのだけれど、これはAppleがもはやiPodという”Apple立て直しの祖”みたいなものを切り捨て、iPhoneにその機能を移行させはじめたから。だから日本でウォークマンの売り上げが遂にiPodを抜いたなどといって、脳天気に喜んでいるのはマヌケということになる。つまりCDを潰しているiPodみたいなデジタルプレイヤーが、今度はスマホに潰されることになる。それは、いうまでもなく、こちらの方が扱いが全然簡単なであることによる。

四つ目は電子辞書。これもほとんどその存在根拠を失うだろう。もはや電子辞書のたぐいはスマホ・アプリで配布されているし、ネットの辞書サイトにアクセスすれば事は足りてしまう。大きさを見てもスマホの方がハンディでポケットに入れて持ち歩ける。電子辞書だとこうはいかない。

ちなみにストップウォッチとかタイマー、アラーム、ICレコーダー、時刻表、方位磁石、そして懐中電灯なんてのも全てスマホのアプリにあるし(ガイガーカウンターまである)、これらの「基本的」な機能の多くが標準で添付されている(ガイガーカウンターはありません。念のため)。これらの類いも厳密な精密性を求められるというような特別な用途以外は、専用機は”お役ご免”となる。

そう、インターネット+スマホの組み合わせはメディアのブラックホール。他のメディアもどんどん吸収していくのだ!じゃあ、消滅することなく、なんとか機能を変更させられて生き残るメディアは、どんなモノで、どうなるのだろう?(続く)



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メディアの重層決定によって姿を消したポケベル



メディアの重層決定

前回まではスマホの出現によって、これまでパソコンでは不可能だったインターネットの本格的な普及が始まること、しかもこれがWeb2.0で指摘されたような発信能力の拡大ではなく、実は受信インフラの大衆化による受信能力の拡大によってもたらされることを指摘しておいた。そして、これを少々皮肉を込めてWeb3.0と呼ぶことにしておいた。

さて、今回はこういったスマホ中心のインターネット環境の一般化が及ぼすわれわれのメディア環境の変容について考えてみたい。その際、参考になるのがメディア論で言うところの「メディアの重層決定」という考え方だ。新たなメディアが出現するとき、そのメディアの社会における受容は、必ずしもメディアが本来持っている機能、あるいは本来想定された使用様式とは異なるかたちでそのメディアの特性が決定されるという考え方だ。

たとえばラジオはその典型。ラジオは本来通信機として開発されたもの。つまり双方向で送受信を行う機械として世に出たのだけれど、全然売れなかったので、その販促の一環として「こんなこともできますよ」といった感じで、劇場とかコンサートの中継を流したのだ。するとこれがバカウケ。これに気をよくした通信機のメーカーは通信機の双方向性を切り落とし、一方通行のラジオを売り出し、結果としてこちらが普及していった。つまりラジオは通信機の機能を退化させることで普及したものなのだ。

近年では携帯電話の普及も同様だ。もともとはビジネスマンの連絡ツールみたいな意図で開発されたもの。しかし、これが爆発的に普及するに至ったのはもっと日常的なコミュニケーションツールとしてだった。また日本ではメール機能が携帯電話のキラー機能とすらなった。これも開発した側の本来の意図とは異なるところで、その定着が進んでいる。

つまりメディアの普及は「本来の機能+社会的文脈」といった側面で決まる。これがメディアの重層決定という考え方だ。

で、スマホだが、これはこれまでに示してきたように結果として「ケータイをもっと売るつもりが、結果としてインターネットを普及させた」ということになる(もっともスマホブレークの契機となったiPhoneの発売の際、スティーブ・ジョブズは明らかにこれがインターネット・ツールであることを知っていた。つまり「iPod付きケータイを売ると見せかけて、実はインターネット・ツールを売りつけた」。ジョブズは先見の明を持ってこの重層決定機能を熟知していたのだ)。

重層決定がもたらすメディア機能の変化、もう一つの側面。

さて、メディアの重層決定については、ここまで述べてきたように、新しいメディアが出現したとき、それ自体が重層決定的に機能の受容が決定されるということの他に、もう一つの側面がある。それは既存のメディアが新しいメディアとの関係で、その価値が変容してしまうと言うことだ。

メディアの消滅

その変容については二つの方向が考えられる。一つは新しいメディアと既存のメディアの機能が完全にバッティングし、そして当然のことながら新しいメディアの方が機能的に優れているので既存のメディアが消滅するというもの。典型的なのはポケベルだ。ポケベルは携帯電話の出現によってその存在根拠を失いほぼ消滅した。ポケベルは話もメールもできない、ただ存在を連絡するだけのチープな通信メディアだったからだ。

メディア機能の再定義

もう一つは、新しいメディアが出現することで、新しいメディアと重複する機能を失うが、その半面で新たなメディア的機能を付与されるというもの。これはラジオが典型だ。ラジオは機能的にバッティングするテレビが出現することで一旦その存在根拠を失う。つまりラジオドラマのようなジャンルは映像付きのテレビに取って代わられてしまった。また多くのリスナーも失った。ただし、現在でもラジオは生き続けている。それはマスメディア=ブロードキャストというより中規模なマスメディア=ミドルキャストとしての自らのアイデンティティを再定義されたからだ。つまり、ラジオはテレビに比べると経費がかからないし、機動性に富んでいる。だから地域密着型の放送展開という点でテレビが備えていない機能を確保し、現在も生き延びている。また緊急放送時に役に立つという意味でラジオは依然として強いメディア性=存在根拠を維持しているのだ。ただし、これは、要するに当初の機能とはその性質を大幅に変更させられたということになる。

で、この図式に基づけば、スマホの普及は他のメディアにどのような影響を与えるのだろうか。いずれインターネットがメディアの中心になることは目に見えている。そしてそれをチェックする中心的なメディアとしてスマホが地位を確保することも目に見え手いる。じゃあ、他のメディアはどうなるのだろう?(続く)




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AmazonのiPhone用アプリ。右の下から二番目のもの



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開いたところ。ものすごくシンプルな構成だ。つい”ポチッ”と買ってしまう?


パソコン=インターネットという図式を捨てよう!

前回Web2.0の誤りがインターネットをパソコンを軸として考えたこと、それによってパソコンにあまりアクセスしないマジョリティに対する配慮を欠いていること、さらに「ユーザーの情報発信のインフラが整うこと」と「ユーザーの情報発信能力の向上」を混同=同一視するという誤りを犯している(本来この二つは直接的な関連はない。インフラが整ったとしてもそれが必ずしも発進力に繋がるというわけではない)という点に求められることを指摘しておいた。

だがインターネットはパソコンに限られるわけではない。そこでパソコン≠インターネットという具合にパソコンとインターネットを切り離し、また情報発信についての議論を一旦ペンディングして考え直してみることにしよう。そうするとインターネットの議論の焦点として浮かび上がってくるのが、実はスマホというメディアなのだ。

スマホはパソコンよりはるかにネットへのアクセスが簡単

さて前回取り上げておいたようなパソコンへの苦手な大多数(そしてここに僕の教えている学生たちも含まれるのだけれど)がスマホを所有するようになったらどうなるだろうか。

その答えの一つが、今回の特集の冒頭のエピソードにあげたように、スマホの正体が「インターネット・ツール」であることに気付いた彼らが、スマホを使って日がなインターネットにアクセスするようになると言うことだ。そして、それは結果としてテレビの視聴時間よりネットへのアクセス時間の方が長いという事態を結果する。現在、携帯電話の新規購入者におけるスマホ比率は五割。おそらく、この割合はどんどんと増加し、やがて一般のケータイ(ガラケー)はピッチやポケベルの立場に置かれてしまうだろう。それは、言い換えれば、近いうちにこれまでネットにあまりアクセスしなかった大多数の層がネットへ頻繁にアクセスするようになることを意味する。

スマホが導くネット中心のメディア生活

そうすると、当然のことながら日本人のテレビVSネットのアクセス頻度はテレビ<ネットということになる。そう、最終的にインターネットをわれわれに定着させることになるのはスマホなのだ。スマホはネットをブラウズすることについてはパソコンよりはるかに簡単だ。すぐに立ち上がるし、だいいち、どこにでも持って行ける。見たいときにポケットから取り出してブラウズすればよいのだから。だがパソコンだとこうはいかない。取り扱いも煩雑だ。だから、みんなこちらでネットをチェックするようになる。

そして、こうやってネットへのアクセスがあたりまえという情報行動が涵養されてしまうと、今度はこれをもっと使ってやろうという意識が、彼らにもむっくりともたげてくる(おそらく、これは仲間内で誰かが新しい機能を発見し、口コミでその便利さが伝わると、使いたくなるというプッシュ型のコミュニケーションがこういった意識を喚起するだろう)。また、もっと使わせようという送り手側の意識も芽生えてくる。そして、それは結果としてアプリをダウンロードしてゲームや情報検索アプリ、辞書アプリ、ユーティリティを使用したり、ビデオ/テレビ視聴をしたり……こんなことを人々がはじめることを結果する(さらに送り手側もよりシンプルなインターフェイスをに基づいたアプリやサービスシステムを作り始める)。スマホユーザーはその操作が実に簡単なことに気付くはずだ。もっとも、これはこれまでにネットでも十分にやれたものではある。だが、パソコンという“扱いづらい”メディアツールを使用することが条件となっていたため、彼らにとってはこれまで縁遠いものだった。それが突然身近なものに感じられるようになるわけだ。

つまり、僕みたいなさんざんパソコンを使いまくっていたような連中がやっていたような作業を彼らも、ごく普通にやり始めるようになる。ネットを使っての商品購入、ネットバンキング、コミュニケーションといったたぐいの作業がそれだ。たとえば、本をAmazonで買うとかという場合、もうパソコンは入らなくなる。実際Amazonはこういったいことを十分考慮に入れており、スマホ用のAmazonアプリを配布している。僕もこれを使っているが、あまりに簡単に購入出来てしまうので、つい、あんまり必要でないものまで、おもわず「ポチ」っとやってしまうほど。こうなると一般の人間にもAmazonはものすごく身近なものに変貌するわけで、おそらくこれまで一割程度だった僕の学生のAmazon利用層も飛躍的にアップするだろう。

こうやって、僕がパソコンでやっているようなネット生活を、スマホの所有者たちがなんの苦も無くやり始めるのだ。

Web3.0は「受信能力の拡張」

こうやって考えてみるとWeb3.0はどのように考えるべきか、そしてWeb2.0がどのように間違っていたかがハッキリする。2.0でオライリーたちが積極的に指摘したのが「発信能力の拡張」だった。しかし、これはすでにここまで指摘してきたように誤りであることがハッキリした。一方、3.0ではこの視点を逆の立ち位置をとることになる。それは「受信能力の拡張」だ。つまり、新しいメディアを用いての発信能力が拡張する前に、まず人々はそれらに馴染んでいく、使用出来るようにならなければならない。そのためには受信用のインターフェイスを徹底的にシンプルにし、誰でも気軽に扱うことが出来るようにインターフェイスを作り上げる必要がある。その役割の中心を担うのがスマホなのだ。つまり、スマホの普及こそが本格的なインターネット時代の幕開け=Web3.0に他ならない。そして、これらが熟成することによって、結果として発信能力の拡張も起こるだろう。ただし、じっくりと時間をかけて。しかし、その時、発信能力はWeb2.0が想定したものとは異なるものに違いない。では、それはなんだろう?また、他のメディアの運命(とりわけテレビやパソコン)はどうなるのだろう?(続く)




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野村総合研究所が提示していたWeb2.0の鳥瞰図。今見ると、かなり寒い(^_^;)


Web3.0を立ち上げる!

僕の教える学生たちのメディア接触時間がテレビ<インターネットになったことを踏まえ、スマホの普及がインターネット・ライフの本格的幕開けであるという前提を立て議論を進めている。
さて、インターネットの普及についてはこれまでWeb2.0という議論が行われてきた。今回はこれをちょっとおさらいするとともに、この議論がいかに的外れであったかと言うことを学生たちの「テレビ<インターネット」という図式を踏まえながら考えてみたい。そして、これを修正するものとして”Web3.0”という考え方を提唱してみたい。

Web2.0とは

で、まずは俎上に載せられるWeb2.0について確認しておこう。Wikipediaでは次のように定義されている。

「ティム・オライリーによって提唱された概念。狭義には、旧来は情報の送り手と受け手が固定され送り手から受け手への一方的な流れであった状態が、送り手と受け手が流動化し誰もがウェブを通して情報を発信できるように変化したwebの利用状態のこと。」

要するに受け手の能動性が高まり、発信することが可能になったということになるのだけれど。これをもう少し具体的に解説すると次のようになる。

Web1.0

インターネットの幕開けは米国防総省が運営していたARPANETが一般に開放され、これを一般が利用出来るようティム・バーナーズリーがWorld Wide Web(WWW)というブラウザ(エクスプローラーのようなネット閲覧ソフト)を作成したことに端を発する。そしてわが国でネットが普及するきっかけになったのはインターネット元年と呼ばれる95年。より操作が容易なブラウザであるNetScape(WWWの改良版)の普及、そしてモデム回線のスピードアップがきっかけだった。これによって一般の人間でもネットを閲覧することが可能になる。

ただし、発信となるとなかなかそうはいかなかった。ブラウザに表示するプログラムとしてはHTMLが配布されていた。これは文字や映像をタグで挟むというプログラムで、一般のプログラムに比べるとはるかに簡単にプログラムを組むことが可能だった。しかし、そうはいってもワープロを打つような感覚で扱えるわけではないので、やはり一般には敷居は高かった。こういった「受信中心で発信が難しい」のWeb利用環境のことをオライリーはアプリケーションのバージョンに見立ててWeb1.0と呼んだのだ。

21世紀に始まったWeb2.0

そして21世紀に入りネットの環境は飛躍的に進歩する。モデムではなくLANケーブル接続による高速回線の実現、ブログの登場、ネットビジネス、検索サイトの充実……こういった一連のネットインフラの拡充はe情報発信の可能性を飛躍的に向上させた。ブログを例にとれば、これは要するにワープロ文書作成感覚で自らのホームページを作成可能になったのだ。こういった「発信インフラの充実」を踏まえ、オライリーはWebというアプリがメジャーアップデートしたという意味を込めてWeb2.0と呼んだのだ。

で、まあその後Web2.0の議論はあちこちでなされていくようになったのだけれど……この議論、なんかある部分が根本的に欠落しているというふうに思わないだろうか。その問題点は二つ。

情報発信インフラの向上≠情報発信能力の向上

一つは情報発信インフラが向上したからといって、人間の情報発信能力が向上するとは必ずしも限らないということ。これはたとえばワープロ覚えたからといって文章が上手くなるわけではないということと同じだ。この二つ、関係が無いことも無いだろうけど直接結びつけるのはおかしい。だからブログの多くはただのモノローグみたいなもので発信能力がほとんど無かったり、Twitterでヤバイ情報漏らしちゃったりってなことがちょくちょく起こる。

パソコンをまともに使わない人間には関係のない話

そしてもう一つは(こちらがもっと重要なことなのだけれども)パソコンを使わない人間とかパソコンが苦手な人間のことを一切考えていないということだ。発信用のインフラが整備されようが、人がパソコン使わなきゃどうしようもないわけで。で、これに該当するのが実はWeb2.0の議論からハズされてきた多くの人々で、そしてその「使わない人間」の集合の一つとしてあてはまるのが僕の講義を受講する学生たちなのだ(残念ながら、ウチの大学はSFCではない ^_^; )

彼らはパソコン環境を持ってはいる。つまり入学時に親から買い与えられたり(明らかに親は、パソコンを「勉強道具」と認識している)、あるいは自宅に置いたあったりはする。ただし、これを使うのは勉強用。つまりワードを開いてレポートを作成すること。あるいはWikiやGoogleを使って勉強用の情報を入手したり、レポートにコピペしたりすること(それ以外で検索サイトを使うと言うことを、あんまりやっていない)。あとはYouTubeの閲覧かiTunesでiPodのデータの入れ替えくらい。ちなみに本格的に使うようになるのは大学3年の秋になってから。就活でリクナビやマイナビを使わなければならなくなるからだ。要するに“お勉強道具”というおカタいものがパソコンなのだ。そして、そのパソコンがネットにアクセスする方法。だから、ネットもあんまり使わない。

ちなみに、こんな質問も学生たちにやってみた。

「ネットを使って商品を購入したことがありますか?」

経験があるのは一割程度だった。そしてその一割のほとんどはAmazonからの文献購入で、たとえば楽天から購入したり、カカクコムのようなまとめサイトをみながら商品を購入するという学生はほとんどいなかったのだ。なんでもかんでもネットで済まそうとする生活をしている僕(楽天、カカクコム、Amazon、航空チケットやホテルの予約、それからネットバンキング。生産者から直接秋刀魚を買ったりもする)からすると、これは本当に驚きだった(まあ、これは僕が20年以上パソコンを使い続けてきたからなんだろうけど)。

つまりネット環境における発信のためのインフラが整備されたところで、先ずパソコンにアクセスしないのだから、Web2.0という議論はちょっとおかしいのだ。

The rest of us without Personal Computerがネットの世界に招待された!

ところが、こういったパソコンを使わない人たちが積極的にネットにアクセスするようになることがこれから考えられる。というか、もう始まっている。しかもドラスティックに。それがスマホという存在だ。そして、この広がりはWeb2.0による発信の高まりといった議論があまりにバカバカしい、的を外している議論であることを青天白日の下にさらすことになるのだけれど。

この議論、どう考えればいいのか。そしてネット環境はどう新しくなるのか。次回はWeb2.0ならぬWeb3.0について考えてみよう。(続く)


ついにその日が来てしまった!

僕は大学でいくつかの講義を担当している。で、時に授業中にちょっとしたことを受講している学生たちに訊ねているのだが、その中に毎年訊ねる同じ質問がいくつかある。で、これはその中の一つ。

「みなさんはテレビとインターネット。アクセスしている時間、どちらが長いですか?」

この質問、これまでは圧倒的にテレビだった。そしてその比率もあまり変わることはなかったのだ。実は、この反応、ちょっと不思議に思っていた。というのも、僕はもう数年も前からインターネット接続時間の方がはるかに長くなっていたからだ。「学生たちにはインターネットはあまり馴染みの無いものなんだなあ」これが、僕のこれまでの印象だった。

ところが、である。今年は違った。先ず二年生を主な対象にした講義でこれを訊ねてみたところ、形勢が逆転。ネット接続時間の長い方がマジョリティを占めたのだ。これはかなりビックリした。で、その時、さらに

「今、手をあげた人は、あげたままにしておいてください」

と、お願いした。とっさに追加質問が思いついたからだ。それは

「手をあげている人でスマホを所有している人は、そのまま手を挙げ続けてください」

というもの。すると、である。下げられた手はなんとたったの一割程度だった。そう、彼らがネットを見るようになったのはスマホを購入したからだ。「スマホの増加=インターネットアクセス率の増大」という図式が、どうやら学生たちには該当するらしい。

でも、ちょっと信じられないので、他でもやってみた。一年生を対象にした講義、そして兼任講師で教えている大学(こちらな2~3年生対象)。結果は……全く同じだったのだ。

テレビがネットに食われる!

この結果に僕は愕然とした。「ああ、ついにその時がやってきたのか」と考えたからだ。現在、携帯電話の新規購入者のうち、スマホの購入率は五割に達している。そして、学生たちもケータイの買い換えの際にはどんどんスマホへと変更しはじめている。で、僕が愕然とした”その時”とは、要するに「テレビがネットに食われる時」のことを指している。

スマホの通話機能はトロイの木馬

当初、スマホはiPodとネットブラウザのついたケータイという位置づけで人々の間に認知されていた。つまりスマホ=ケータイ+αという図式。そして、実際その購入者のほとんどはそういった認識だった。ところが、購入した瞬間、その位置づけは全く変わってしまう。スマホとは実はインターネットブラウザ、しかも超小型のそれであり、これが利用用途の中心で、通話機能やメール機能、そして音楽鑑賞機能はただのオマケ、つまりスマホ=ネット+αというふうになってしまうのだ。実際、購入者のほとんどのスマホ利用の大半はネットブラウズであることは、今回の回答が証明している。少なくとも学生にとっては。

新しいメディア生活が、いま、始まる!

そして、この結果に普遍性があるとすれば(僕は、そう思っているのだけれど)これは僕たちのメディア生活が根本から変わろうとしていることを意味する。というのもスマホというメディアは不可逆的なメディア・ツールとしての側面を備えているからだ。つまり、一旦ケータイからスマホにチェンジすると、それ以降はずっとスマホを買い続ける。そしてその逆はない(事実、もうスマホからスマホへ機種変更をしたという人間も出てきているくらいで)。

で、それは、本当の意味での本格的なインターネットライフの幕開けと言ってよい事態に他ならないだろう。だって、みんなこれでテレビ視聴時間を凌駕するほどずーっとネットを見ているんだから。今回はちょっとこれを考えてみよう。(続く)

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