勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2011年09月

コミュニケーションも擬制である:『山羊さんゆうびん』でのコミュニケーションを例に

社会学者N.ルーマンは情報は伝わらないというテーゼに基づいていコミュニケーション論を展開している。

そしてルーマンは、オートポイエーシスという考えを社会システムにまで発展させる。ここで社会システムは、その最小構成単位としてコミュニケーションを設定しているのだけれど、オートポイエーシスに基づけば、必然的にコミュニケーションもまた擬制、すなわちコミュニケーションを行う相互間で情報は伝達されていないことになる。ちょいとややこしいので、これもエピソードを用いて展開してみよう。引用するのはなぜか童謡の『山羊さんゆうびん』(まどみちお作詞、団伊玖磨作曲)である。

白やぎさんから お手紙 ついた
黒やぎさんたら 読まずに 食べた
しかたがないので お手紙書いた
さっきの 手紙の ご用事 なあに

 黒やぎさんから お手紙 ついた
白やぎさんたら 読まずに 食べた
しかたがないので お手紙書いた
さっきの 手紙の ご用事 なあに

歌詞は二番までだが、二番が一番に回帰するようになっている、つまりこの歌は延々と続くことが前提されていることは明らかだ。そして、白山羊さんと黒山羊さんは手紙を読まずに食べ続けることで、二頭は永遠に手紙のやりとりを続けることになる。さて、この歌詞の最も重要な点・キモは「ご用事」、つまり伝達情報を読まない(あるいは食べてしまうので「読めない」)ということで、かえってこういった手紙のやりとりが可能なことだ。いいかえれば、情報が伝達されないゆえにコミュニケーションが永続するというシステムなのだ。

「山羊さんゆうびん」は、まさにルーマンのコミュニケーションそのものだ。二頭はそれぞれオートポイエティックな心的システムを備えている。そして白山羊さんは自らの情報a=ご用事を生産し、これをコミュニケーションの場で伝達しようとする。しかし心的システムは閉じたシステムゆえ、互いに心的システム内部の情報の授受を行うことは出来ない。つまり、情報a=ご用事が黒山羊さんに伝達されることはない。

「お手紙を書く」という行為がそれぞれの活動を促す刺激となる

ただし、ここでは「お手紙書いた」という行動が相手の心的システム稼働を誘発させる刺激として機能していることがわかる。白やぎさんからお手紙をもらった黒山羊さんは、読まずに食べてしまったので「白山羊さんは何を伝えたかったのだろう?」と思考が心的システムのなかで作動する。そして、その「ご用事」を確認したいがゆえに、黒やぎさんは白やぎさんに手紙を送るという行動を行うのである。すると、今度はこの黒山羊さんの行動が刺激として白山羊さんの心的システム=思考を誘発し、オートポイエティックに白山羊さんの中に情報を生成させていくことになる。あとはその繰り返しということになるのだが、二頭はお手紙を読まずに食べ続ける限り、言い換えれば情報が伝わらない限りにおいて、相互に刺激を発し、そして志向を誘発する。つまり、コミュニケーションを続けることが可能になるのである。前回の「愛している」という言葉をめぐっての例に立ち返れば、このように、相互の愛の意味が全く異なっていたとしても、それによって互いの活動を刺激し、さらに欲望(男性における性的充足と女性における空間の共有)が充足される限りにおいて、「愛している」というささやきは伝達されているとみなされる。いいかえれば伝達が擬制されている。逆にもし、この時、心的システムが二人の間で伝達されていたとしたら、つまり『山羊さんゆうびん』のご用事が相互に伝わるということになったら、それは、互いに全くの誤解であることが判明すると同時に、コミュニケーションという行為自体もまた収束ことになる。そして、おそらく二人は別れることになるだろう。

このことをルーマンは「人間はコミュニケートすることはできない。コミュニケーションだけがコミュニケートしうる」と表現している。

これを、ざっくりとまとめてしまえば、コミュニケーションとは「互いに勘違いを続けること。そしてその勘違いを充足させようとアタマをめぐらせる(=思考)すること。さらに、それによって発せられた行為が相手にとっての刺激になって、さらなる勘違いを誘発させること」ということになる。しかし、それは二人のコミュニケーションを観察している第三者の視点からすれば、あたかも情報を交換しているかのように見えるのだ。(続く)


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人間におけるオートポイエーシス

社会学者N.ルーマンはマトゥラーナとバレラのオートポイエーシスという考えを人間にも援用し、「コミュニケーションとは伝わらないこと」という、一見すると首を傾げたくなるような議論を展開している。しかし、このコミュニケーション=伝えることという常識をひっくり返す発想が、コミュニケーションに対する考え方にコペルニクス的転回を与えることになるのだ。

ルーマンは言う。人間も同じように情報を外界からインプットし、アウトプットしているのではなく、オートポイエティックに情報を自律的に生成していると。ただし一般の生命システムとは異なり、人間は「意識と無意識からなる心的システム」を所有し、思考を繰り返している。

「愛している」という言葉は伝わらないが、互いが「愛」を実感している

これをエピソードを例に説明してみよう。恋人同士がささやいた。「愛していよ」「愛しているわ」。ささやき合う二人はそれぞれ「愛している」という言葉をささやくことで、自らの愛を伝達していることを確信しているし、相互の愛を意識している。しかし、その際、「愛」とは何を意味しているのだろう。たとえば男性にとっては「愛している」という言葉が意味するところは、これによって相手の女性と性的関係を継続的に維持できることを保証するものとする。そして、これはさしあたり無意識にある欲望とする。一方、女性にとっては、相手との会話や時間を共有することを保証するものとする。そしてこれも同様に無意識にある欲望とする。しかし、こういったそれぞれの意図を互いが知ることはない(当人たちも意識に上がってこないので、この欲望は潜在するだけだし、本人たちも知らないので伝えようともしていない)。だが、このように「愛」という言葉に求めるものが全く違っていたとしても、それによって男性の側は性的欲望が充足され、一方、女性の側は相手と共有する時間を確保されれば、それぞれ「愛している」という言葉の意味が充足される。つまり、「愛」という言葉は互いの心的システムの作動を刺激するが、個々の心的システムはオートポイエティックに愛の意味を産出し続けていて、しかも異なっている。情報のインプット、アウトプットは外部に対して閉じているのだ。

でも、それじゃあコミュニケーションなんか発生しないのでは?(続く)



N.ルーマンの逆転的発想~”情報は伝わらない”という前提

社会学者N.ルーマンは八十年代、これまでと一線を画するコミュニケーション論を世に問うている。それまでコミュニケーション論と言えばC.シャノンとW.ウィーバーの情報モデルに基づいていた。これは、情報が送信者から受信者に伝達される際、その情報内容がどのように伝えられるかについて視点を当てたものだった。そして、その際、目標とされたのが「情報伝達の正確性」、つまり送信者の情報aが受信者に情報a‘として伝達されたときに、いかにすればa=a‘となるかということだった。

このようなプロセスは機械工学ではその伝達技術をアナログからデジタルに切り替えることで達成可能となった。たとえば、音楽観賞用の記録媒体を取り上げてみよう。かつてはレコードかテープレコーダーがメディアとして用いられていたが、これらには全てノイズが存在しいてた。ところが、デジタル化することによってノイズはゼロとなる。iPodで音楽を聴く際には、何も音のないところから突然音楽が始まり、コンピューターに取り込んだりCDに焼いたりしたデータは何度コピーしても情報が劣化することがなくなったのだ。

だったら、人間のコミュニケーションもまたデジタル化を目指せばよいということになるのだが、ルーマンは人間と機械のコミュニケーションは根本的に異なっていると指摘する。その際、最も刺激的だったその主張は「情報は伝わらない」という、逆転的な発想だった。コミュニケーションにおいて、人間はなんら情報を伝え合っているのではないというのである。いや、さらに進んで、ルーマンはそもそも人間も生物も情報交換など行っていないと言う。ではわれわれはコミュニケーション上で何を行っているのだろうか。

オートポイエーシス

ルーマンは自らのコミュニケーションを展開するにあたって、チリの神経生理学者マトゥラーナとバレラのオートポイエーシスという考えを持ちだす。生物は全て外部に対して情報のインプットアウトプットを行っていない閉鎖的な存在で、常にその内部で情報を自己準拠(auto)的に産出し(poietic)続けている生命システムであるというのだ。

生物のオートポイエーシス:情報は生物が決定している

それゆえ生物にとって情報は生物の外部から内部へ伝達されてくるのではなく、内部で自律的に生成される。
つまり、こうだ。生物の外部で何かの変化が起きたとする。その変化に対して生物が反応を示した場合、その反応という活動それ自体が情報となる。外部の変化は反応を誘発する刺激=キューに過ぎない。ただし、第三者から見れば、それはさながら反応を示すことになるきっかけとなった刺激が外部があたかも情報と思える。しかし、生物が情報としているものと、外部の指し示すもの=環境は何ら関連性を持たない。たとえば蚊が動物から吸血する際、蚊にとっての有意味な情報とは、主として二酸化炭素だ。その対象が二酸化炭素を発していれば、それは蚊のオートポイエーシスにとって有意味な情報となり、二酸化炭素の発生源に近づいていく。対象の種類、美醜、大きさいったものは反応すべきもの=有意味なものとはされないので、それはまったく情報の対象外、つまり情報ではない。それゆえ、たとえば、蚊のいるところにドライアイスを置けば、蚊はこれに近づいていき、接触した瞬間凍り付いて死んでしまう。ドライアイスは二酸化炭素の個体だからである。蚊にとって有意味な情報とは、二酸化炭素を発している個体=対象ではなく二酸化炭素それ自体なのだ。言い換えれば、情報は生物の側がはじめから決定しているのであって、外部の対象はその情報を生命システムに発生させるための刺激=触媒的機能を果たしているに過ぎない。

そして、ルーマンは人間もまた同じ有機体としてオートポイエーシスに基づいて活動を行っているというのだ。(続く)

あいまいなコミュニケーションという言葉

「コミュニケーション」という言葉。僕たちが気軽に用いている言葉のひとつだけれども、でもコミュニケーションっていったいなんなんだろう?すごくわかりづらい言葉なんじゃないんだろうか。

ちょっと考えてみて欲しい。コミュニケーションは原義はcommunicationで、日本語に訳されることなく、そのままカタカナで使われている。じゃあ、これに訳を当てたらどうなるか。

伝達?

まず思い浮かぶのは「伝達」という言葉だ。つまり、コミュニケーションとはAからBへ情報を伝えること。なるほど、たしかにそうだ。

しかし、たとえば「サークルの飲み会でコミュニケーションを図る」という用い方をしたときはどうなるだろう。この飲み会は互いの情報伝達、つまり情報交換を意図しているだろうか。まあ、そういう側面もあるだろうけれど、むしろ飲み会での僕たちの関心は「盛り上がること」、また、そうすることで「親睦を深めること」がいちばんの目的だろう。情報交換なんてのはサークル活動中にやればいいわけなんだから(逆に情報交換=伝達を意図した飲み会なんてのは、どう考えてもビジネスライクで盛り上がりそうもない)。

親密>伝達

こんな運用をする時、僕らはコミュニケーションに伝達とは全く逆の意味を与えている。つまりコミュニケーションとは親密さを高める伝達行為ではあるけれど、重点は親密さを高めることにあって、その際の情報交換=伝達は親密さを高めるためのメディア=手段でしかない、と。要は「やりとりそれ自体」が重要視され、目的になっている。

で、よくよく考えてみると、僕らが普段やっているコミュニケーションは、そのほとんどが「親密さを高める行為」という意味で用いている。これは夫婦の会話を思い浮かべるとわかりやすい。毎日顔をつきあわせているのだから、実は伝達することなんかほとんどない。にもかかわらず二人は会話を続ける。それはテレビのネタだったりするわけで。加えて、そのネタはもうすでにお互いが知っているということもしばしば。「SMAPが中国公演をやったよねえ」と二人で会話を交わしたところで、このネタは始めからお互いが知っているわけで、要するにここでやっているのは、すでに入手している情報の確認であって、交換ではない。だが、この確認行為が夫婦の親密性とか関係性を保証しているのだ。

じゃあコミュニケーションの日本語訳を「親密化行為」としようということになるが、これもちょっとおかしな感じがする。やはり、ある程度は情報が伝わっているし、そしてその伝わった情報に基づいてコミュニケーションに関わる人間がコミュニケーションを起こし、継続させているからだ。

こういった、ちょっとをわかりづらいというか、曖昧模糊としたコミュニケーションという言葉に、今回は新しい側面から定義を当てる作業をやってみたい。取り上げるのはドイツの社会学者N.ルーマンのコミュニケーション論だ。そしてルーマンはコミュニケーションを説明するにあたって、先ず「情報は伝わらない」という説明から始める。

「コミュニケーションって情報の授受という行為じゃないのか?」

誰もがそう考えるのが当然だ。ところがルーマンはこの前提をひっ くり返したパラドキシカルな立ち位置からコミュニケーションを始めることで、僕らにこれまでのコミュニケーション論では見えてこなかった人間のコミュニケーションの有り様を明らかにしてくれる。それは何か?(続く)




KISS伝説の77年武道館ライブ。映像はNHKヤング・ミュージック・ショー




2006年CANONのカメラEOS KISSのCM。子供たちがKISSメイクをしている。


KISSは地獄の使者だから消えたり、死んだりすることはない?

前回は、インターナショナル・ミュージック(世界中どこでも流れるビートルズのような音楽)というジャンルが出現し、さながらクラッシック音楽のように延々と歌い続けられていく音楽と、延々とリスペクトされ続けるミュージシャンが出現し始めたことを述べておいた。そして、その中には、本人たちがこの世から消えてもステージに立ち、歌い続けるゾンビのようなミュージシャンさえ現れる可能性があることを付け加えておいた。でも、果たしてそんなのあるのか?僕はその可能性をKISSに見ている。

KISSというロックグループが活躍したのは70年代(ヨーロッパでは80年代前半)。その後、一旦解散した?が、再結成、メンバーチェンジを繰り返し、現在でも活動を続けている。70年代にはそのメイク(顔面を白地に黒で塗りたくり、オリジナルの顔がわからない)と衣装(ヘヴィメタのプロトタイプになった。日本でも聖飢魔II、X JAPANなどが影響を受けている)、そしてパフォーマンス(火吹き、爆薬使用等)が絶大なる支持を獲得したのだが、これがいまだに延々とやり続けられているのだ。オリジナル・メンバーはジーン・シモンズ、ポール・スタンレー、エース・フレーリー、ピーター・クリスだが、彼らにはそれぞれデーモン、スターチャイルド、スペース・マン、キャットマンという役割が設定されている(現在、全てオリジナル・メンバー、というわけではない)。

で、彼らのライブ。やれば常に大盛況なのだ。観客たちの中にはメンバーたちと同じメイクをして会場に訪れる者も多い。しかも、その客層は70年代を共有した50代以上というわけではない。会場にはポール・スタンレー=スターチャイルドやジーン・シモンズ=デーモンらのメイクをした子供もたくさん含まれている。そう、これはもはやディズニーランドと同じ。つまりファミリー・エンターテインメントなのだ。で、よくよく考えればビートルズもカーペンターズもピンク・レディーもファミリー・エンターテインメント。ライブをやれば家族でやってくるわけで。

ミュージシャンの大槻ケンヂは2004年、NHKの番組「NHKアーカイブス」が77年に放送したKISSの日本武道館ライブ(当時放送されていた「ヤング・ミュージック・ショー」の再放送)を取り上げたときにゲスト出演し、次のように語ったことがあった。

「KISSは歌舞伎のように世襲にすべきだ!」

つまり、あのメイクで二代目デーモン、三代目デーモンというかたちでKISSは永遠に続けられるのがよいといったわけなのだけれど、今回取り上げたように音楽が世代も何も超越するインターナショナル・ミュージック、インタージェネレーショナル・ミュージック、インターリージョナル・ミュージックとして位置づけられたときには、コミュニケーションの格好のツールとしてKISSという存在は極めて重要になる。それを踏まえれば大槻のこの指摘、実に正鵠を射ているということにならないだろうか?死んでもステージに立つというのは、つまり、そういうことだ。デーモンやスターチャイルドであれば、それが誰であろうと構わない。要はミッキーマウスと同じなのだから。

カウント・ベイシーは復活した。そしてビートルズも?

ちなみに、もはやこういったバンド=ユニットはジャズの世界には存在する。今年9月11日、一関・毛越寺でジャズのビックバンド、カウント・ベイシー楽団が震災復興ライブを行っている。だがベイシーは84年に他界している。だから指揮を執るのはデニス・マクレルという別のミュージシャン。彼が指揮を執って「ワン・オクロック・ジャンプ」などのベイシーの楽曲を次々と奏でたのだ(カウント・ベイシー楽団はベイシー他界後、リーダーを変更して(サド・ジョーンズやフランク・フォスターなどのジャズ界の巨匠が務めた)継続されてきた)。また、ビートルズがロンドン・オリンピックの開会式に出演するというウワサもある。要するにジョンの息子(ショーンかジュリアン)とジョージの息子(ダーニ)が親に代わって出てくるわけで(ザック・スターキー=リンゴの息子も出てきそうだが)、こうなると完全にゾンビというか、世襲ということになる。つまりカウント・ベイシーもビートルズも個人の肉体を離れたブランドになったのだ。そうディズニーのように。

今、ロックやポップスは新しい古典=クラッシックになろうとしている。学校教育の音楽教科書はすでにロックやポップスの曲をいくつか紹介しているけれど、これらのインターナショナル・ミュージックが教科書の大半を占め、世襲のビートルズがライブ会場を満杯にし続けるるなんて時代が、いずれやってくるのかもしれない。というか、たぶんそうなるんじゃないんだろうか?


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