勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2011年09月

前回まで、社会学者・浅野智彦が提示した「趣味縁」という考え方による公共圏の再構築の可能性について披露してきた。島宇宙化・タコツボ化し、一部の親密な人間としか関わらなくなり社会性を失ってしまった若者たちに社会参加を促し、それによって公共性を持たせることで公共圏を再構築する方法として趣味を通じた人間関係を構築するというのがそれだった。


もっとも浅野は、この議論については、若者に限定している。しかし、この考え方はオタク化し社会参加に消極的になってしまった現代人全体に適応されるべきだろう。というのも、趣味縁の構築は若者の社会性欠如という問題に対する解消の手段だけでなく、日本経済の活性化にも繋がる可能性があるからだ。

滞留するジャパン・マネー

「カネは天下の回りもの」という言葉があるように、経済は稼いだカネを消費し、流通させることによって活性化する。つまり、個人が稼いだ所得を積極的に使用すると需要が創出され、それに対応すべく生産=供給を増加させると売り上げが伸び、翻ってそれが労働者の所得上昇となって可処分所得(≒遊びに使えるカネ)が伸び、さらに消費の需要が増すという「正のスパイラル」が展開される。

だが、個人が消費を渋ってしまうと、当然のことながら今度は逆の「負のスパイラル」が訪れる。つまり使わない→需要がない→生産が減少する→所得が減少して可処分所得も減る→いっそう使わなくなる、という循環だ。

そして現在の日本は、この負のスパイラルの状況にある。個人金融資産の総額が1500兆円。そのうちの多くが市場に貫流されることなくため込まれてしまうという状況が発生しているのだ。つまり、日本人は金を持っているのに使おうとしない。それが市場の不活性化をもたらしているというわけだ。

一般家庭は可処分所得が極めて低い

個人資産の内訳を見てみると面白いことがわかる。なんと個人金融資産の60%近くを六十代以上が所有しているのだ。一方、年齢別支出は40代後半がピークで60代は30代と同等、70代となると、その支出はいっそう下がっていく。さらに個人金融資産総額1500兆円とお伝えしたけれど、このうちの四分の一は負債(住宅ローンなど)で消えていく。そして、これらの負債を背負っている中心が30~50代であると言うことを考えれば、40代後半くらいまでは、要するに 「金融資産ー負債=低可処分所得」という図式があてはまるわけで、カツカツの生活を送っていると言うことがわかる。言い換えれば、持っているお金はフルに使い回しているのだ(まあ、これは僕が住むマンションを見てみても、よくわかる。僕の暮らしているマンションは30代が中心。価格は4000万円台。ほとんどの所帯が長期ローン(30年以上)を組んでいる。つまりかなりの負債を抱えている。このことは、たとえばゴミ捨て場のゴミを見るだけでも実感できる。たとえばカン・ビンの収集ボックスを見ると……ビール類だったらビールはほとんどなく、第三のビールか発泡酒。ワインだった1000円以下という状況なわけで、う~ん、みんなたいへんだなあ!と思わざるを得ない。つまり、みんなビンボーなのだ!)

経済不活性の元凶は高齢者

にもかかわらず、日本は経済が不活性。ということは、不活性の元凶は個人資産が多く、しかも支出が少なく、負債もない(高個人資産ー低支出かつ負債なし=高可処分所得)六十代以上の高齢者が金を貯め込んでいて市場に環流させないというところに求められるということになるだろう。ちょっと言い方は悪いが、現在の日本の高齢者はC.ディケンズの小説『クリスマス・キャロル』の主人公、エベネーザ・スクルージのごとくエゴイスティックな守銭奴になってしまっている?ということは、この高齢者たちに金を使わせる、つまりはき出させれば、日本の市場を活性化することも可能になるということになる。

ただし、彼らから無理矢理カネをむしり取るというのは、やっぱりおかしい。本人たちが改心したスクルージのように、喜んで金を使いたい、はき出したいという心性を喚起するというのが筋だろう。 どうやって?(続く)

前回は民主主義=個人主義と消費社会が結びつくことで個人の意識が個別化、つまりバラバラになり、公共性に基づいた公共圏が失われた結果、社会全体のモラール=士気が失われ、まったりとした元気のない日本社会が生まれたことを指摘しておいた。また、その象徴的事態がモラル・ハザードという現象となっていることも述べておいた。で、このままじゃあいけないわけで、じゃあどうすればいいんだろうか?

趣味縁という考え方

社会学者の浅野智彦は若者の公共圏の可能性について「『趣味縁』による社会参加」という興味深い提案を行っている(『若者の気分~趣味縁からはじまる社会参加』岩波書店2011)。浅野は現状をだいたい次のように分析する。われわれは現在、親密圏の中にタコツボ・島宇宙的に閉じこもっている。自分と身内だけでしっぽりやっていて、社会全体が見えていない。つまりミーイズム、個人主義が徹底している。で、これではもちろん社会性など涵養されるわけがない。つまり親密性=親密圏の中にいる限り公共性=公共圏にはたどり着かない。そこで二つをブリッジするものとして想定されるのが「趣味縁」と呼ばれるものだという。そこで、趣味縁についてもう少し突っ込んで考えてみよう。

趣味縁とは趣味を媒介とした人間関係のことだ。趣味縁は親密性と公共性の中間にあって、双方の性質を併せ持つ。先ず親密性との関わりについて。これは趣味を媒介とすることで共有のネタが設定されるため、容易に関係性を構築することができる点で共通点がある。いきなり公共の場で見知らぬ他者と関係性を結ぶことは高い社会性が必要だが、こちらの場合は、いわば趣味という「社会性のシミュレーション」「公共圏の縮小版」的な領域が前提されるゆえ、参加・参入がしやすいのだ。

一方、公共性との関わりについては、個人的に親密な関係にある人間以外の外部の他者とも関わりが結べるというメリットがある。親密な人間同士だと、その関係はどうしても閉鎖的になりがちだ。それに比べると趣味を媒介とした関係は、結果として趣味を通じて、自らの親密圏を広げていく、言い換えれば人間関係の幅を拡大していく可能性を備えている。本来、見知らぬ他者が備えているノイズ(そのままでは受け入れがたいもの)を、趣味というショック・アブソーバーが媒介することで受け入れやすくするからだ。しかも他者の持っているノイズを吸収するという可能性も開かれる。言い換えれば、それは社会性を涵養する苗床として機能する。

さて、趣味縁は情報化社会、インターネット(とりわけSNS)が発達した現在では、そこにたどり着くことが極めて容易になっている。つまり趣味縁はストレスなく参加が可能なのだ。そして、この趣味縁で「徒党を組む」という行為を行うことで、それが結果といて社会参加となり、さらにはこういった趣味縁に基づく「新しい公共圏」が成立する可能性がある。

趣味縁は若者に限った話ではない

浅野の議論は島宇宙・タコツボ化し、社会性を失っている若者たちに対する公共性=公共圏成立の可能性を考察したものだが、ぼくは、これはなにも若者だけに限られたことではないと考える。つまり、いまやこういった事態は日本人全体に浸透しているのではないか。というのも島宇宙・タコツボ化する人間とはオタクのことを指しているからだ。で、オタクという言葉が生まれたのが83年。世間一般に知れ渡るようになったのが89年。ということはオタクは新人類世代よりちょっと前あたりからはじまっているわけで、オタクはすでに50代に達している。ということは、これらから下の世代はすべからくオタクである。いやいや、それだけじゃあ、ない。もう日本はとっくにオタク文化、オタク社会になっていて全世代がこういった島宇宙・タコツボ化した心性を備えているはずだ。つまり老人もまたオタクなのだ。社会学的に言うと、オタクという心性は社会的性格=社会全体の構成員が何らかのかたちで共有する性格になっている。

こういった前提が正しいとすれば、浅野の趣味縁という議論はもっと可能性を秘めていることになる。つまり、趣味縁を通じての社会参加という方法を見いだせば、若年層から老人層まで全てが社会参加し、そこに「新しい公共圏」が生み出される可能性があるのだ。

もし若者だけに趣味縁を通じての社会参加を促すだけであるのならば、それはただただ単に世代の問題の域を出ない。ところが、これが成人層、老人層にも適用されるのならば、これは日本の経済の問題に転じていく可能性がある。なぜか?それは、こういった公共圏が構成されるならば、日本経済の復活が可能になるからだ。でも、どうして(続く)

モラル・ハザードの必然

公共圏の崩壊が叫ばれて久しい。たとえばモラル・ハザードと言った現象はその典型だ。ゴミのポイ捨て、電車でのケータイ使用、優先席の若者の使用、違法駐輪、道路交通法の無視なんてのはもはや日常的な風景。誰もが私的な領域に首を突っ込み、マナー、モラル、常識といったものに目を向けなくなってきている。「周囲以外はみな風景」とう状況がデフォルト化しつつあるのだ(半面「周囲」の範囲には異常に気をつかう)。

こうなった原因は民主主義=個人主義と消費社会が奇妙な癒着を起こしたことに基づいている。民主主義=個人主義は個人の自由、人権尊重を旨とする。そして本来なら社会はこういった理念を”相互に重視”し遵守する人々によって形成される。ところが、これらと消費がむすびつくと、自由は相手のことを無視した「個人的な欲望の自由」へと代わる。自由だから何をやっても構わないということになったのだ。そしてそういった欲望の実現を遮るような行為は「人権尊重」という理念によって「人権蹂躙」とみなされる排除されるようになっていった。

私>公のデフォルト化

で、これによって公共圏を形成する公共性はむしろ否定されるべきものになってしまった。というのも、消費社会は「金儲け」が基本。そこで資本側は「民主主義=個人主義の理念」を錦の御旗に、個人の欲望を最大化させるような商品を提供した。言い換えれば「公」より「私」を重視する感覚を助長した。その結果、個人の欲望だけが異常に肥大し、その一方で、公共性はそれを疎外する要因の一つと位置づけられてしまったのだ。

公共性というのは他者を前提とし、他者を尊重しつつ個人個人が調和を図ることによって成立するもの。ところが、消費社会と民主主義=個人主義の結婚は、個人の欲望>公共性という力関係を設定してしまう。二つはもともと相反する位置に置かれているものでもあるからだ。つまり個人の欲望を最大化する際には、それを妨げる公共性は邪魔。一方、公共性を重んじるなら個人の欲望はある程度抑制されなければならない。

そして、資本が支持したのは言うまでもなく前者の方だった。その結果、われわれは個人の欲望を最大化するための商品を次々と入手し、個人レベルでは快適な生活を実現した。だがその一方で、公共性が衰退した結果、それぞれがミーイズム=個人の欲望を社会の利益に優先させる心性が助長され、人々は原子化していった。その象徴的な現象がモラルハザードというものだったのだ。

「私」肥大がもたらした副作用

しかしながら、こういった消費による個人の欲望の最大化は、翻って個人に副作用をもたらしている。それは相互における信頼感の欠如と孤独だ。1億3000万人もの人間が生活しながら、それぞれはバラバラに生きていると言う状態が出現。そしてこういった心性がデフォルトとなったときに生まれたのが”社会全体のモチベーションの衰退”だ。誰もが自分のことしか、あるいはごく小さな自分の周辺のことしか考えないため、社会全体が見えなくなってしまった。あるいは社会に対する意識が欠如するようになってしまった。そう、”無気力なまったりとした社会”が出現したのである。

そういったモラールの衰退は、翻って社会の勢いをなくし、現在の日本社会の停滞状況を作り上げていると考えてよいだろう。

じゃあ、どうすればいい?

しかし、あたりまえの話だが、このままじゃあヤバい。日本社会が元気を取り戻さない限り、これから日本はズルズルとこれまで以上に衰退をつづめていくことは必定だ。何か、人々のやる気、社会性、公共性を復活させるような方法がないだろうか。いいかえれば公共性に基づいた公共圏という空間を再構築する方法はないのだろうか?

今回はミーイズムと公共圏をつなげるアイデアとして社会学者・浅野智彦の「趣味縁」という言葉をヒントに考えてみたい。個人の欲望と公共を結びつける手段として「趣味」がそのメディアとなるという考え方なのだが……(続く)

社会システムははコミュニケーションと心的システムから構成される:方法論的関係主義の視点

情報は伝わらない、またコミュニケーションにおいて人間は情報を伝え合っていない。ただ相互に刺激を与えているだけ。だがそういったコミュニケーションが個人と社会という単位を成立させている。

こういったルーマンの考え方は社会システムと心的システム=意識システムが、社会や個人といった単位に還元されることなく、それぞれがコミュニケーションを媒介に社会全体を構成する二側面として成立していることを示している。しかも、参加している心的システム間での情報のインプット、アウトプットが全くないままにこれが成立しているのである。

換言すれば、これは方法論的集団主義(集団があって個人が成立する)にも方法論的個人主義(個人が集まって社会が成立する)にも還元されない、徹底した方法論的関係主義(コミュニケーションによって子じっと社会は同時に成立する)であり、社会理論のコペルニクス的転回と言っても過言ではないだろう。つまり社会システムではその最小構成単位としてコミュニケーションが必要とされるが、そのコミュニケーション・システムが結果として心的システムを稼働させ、また心的システムがコミュニケーション・システムを稼働させることで社会システム全体が作動する。すべては同じ社会システムの諸側面でしかなく、どの側面を欠落させても社会システムが成立することはないのである。

別の側面からこれを説明してみよう。心的システムが社会に何かを投げかける際には、それが閉鎖的な個人の欲望に基づいていたとしても、結果としてそれが刺激として機能することでコミュニケーションを発生させ、社会システムを稼働させる。またコミュニケーションは心的システムとは関わりなく作動するが、それは結果としてコミュニケーションに関わる心的システムを作動させる。こういった構造的カップリングが、結果として心的システムの中に意味を媒介とした思考といったプロセスを再生産させ続けるのだ。

情報は伝わらないがゆえにコミュニケーションが発生し、そして社会が成立する

ということは、もし仮に生身の他者とのコミュニケーションが寸断された状況に心的システムが置かれてしまえば、それは心的システムを稼働させる機会を著しく損なうと言うことでもある。もちろん、そこに生身の他者が存在しなくてもコミュニケーションは可能ではある。たとえば文献を読む、一人で物思いに耽るというのも社会システム、つまりコミュニケーションと心的システムが作動している状態だ。前者の場合は”文献という他者”、後者の場合は”自己という他者”とヴァーチャルな他者とコミュニケーションを行っているということになるからだ。

だが、思考の誘発という点、つまり現実性=複雑性を不断に産出する刺激となるという点では、予測がつきづらい生身の他者の方が費用対効果的にははるかに効果的(予期せぬ刺激を頻発する)であり、それゆえにこそわれわれは他者を必要とする。これによって人々は必然的に心的システムとコミュニケーションを活発に稼働させる。すなわち意味=思考を求め、また他者に刺激を与え続けることが宿命となる。だが、結果として、それが社会システムからなる社会を構築し続けるエンジンとして機能しているのだ。だからこそ他者は絶対に必要な存在なのだ。

ルーマンのコミュニケーションは人間が社会的動物であること、意味を産出する生物であること、還元すれば社会を成立させ、さらに意味を欲する生物であることの必然性を理論的に実証している。これは、これまでの伝達といった、機械的な情報伝達(アエロポエティック)を敷衍するかたちで展開されてきたコミュニケーション論の限界を乗り越えるものだ。

「伝わらないからコミュニケーションが起こる」という考え方。ものすごくリアルなものに思えないだろうか?

構造的カップリング

前回は童謡『やぎさんゆうびん』を例にとって、社会学者N.ルーマンのテーゼ「情報が伝わらないがゆえにコミュニケーションが発生する」という状況を説明しておいた。

ルーマンは、こういった、社会システム=コミュニケーションと心的システムが関連しあうことは無いが、心的システムと心的システム(つまり意識と意識)、コミュニケーションと心的システムが互いのシステムを稼働させるための刺激となって稼働する状況を「構造的カップリング」と呼んでいる。つまり心的システムが作動すると、それが結果として相手に対して刺激を誘発し、相手側の心的システムが作動する。さらにこの作動が、発信者の心的システムの作動を誘発する。そして、この時こそがコミュニケーションが発生している状況なのだ。

なぜわれわれはコミュニケーションを行うのか

しかし、心的システムをなぜ作動するのだろうか。これについてルーマンは「意味」という概念を持ちだす。 意味とは「現実性と可能性との区別を不断に再編成し、継続的に可能性を現実化すること」と定義される。でも、これじゃ、ちょいとわかりにくいので、これを心的システムを構成する意識システムの視点(要するに意識と意味の関係)から考えてみよう。

意識するとは思考すること

われわれがある事象を思考するとき、それは何らの事象についての意識が働いている状態だ。つまり何かを考えているときには、その思考する事象を対象化=イメージしている(たとえば「自己について考える」場合、われわれは自分の頭の中に「自己イメージ」を思い浮かべる。つまり、この時、われわれは自分自身を対象化しているわけだ)。ただし、事象が意識化=対象化するというのは、何らかの問題状況が発生した時に限定される。ある事象について、それが予定通りに展開しているのならば、その事象が意識に上がってくることはない。たとえばキーボードをミスタイプしてしまった瞬間のことを考えてみよう。ブラインドタッチになれている人間なら、タイプの誤りをディスプレイを見ながら発見するのではなく、むしろ打鍵した指の違和感がフィードバックされてくるはずだ。この時、われわれは「おやっ?」と、そのミスタイプした指の感覚が意識化されるのだ。言い換えれば、通常どおりキーを入力している文には、打鍵している指先はさながら透明なメディアとして機能しており、入力している本人は入力するディスプレイと思い巡らせている内容に集中していて、指先のことなどまったく意識されない。言い換えれば意識化と問題状況の出現は同時ということを逆照射する。

そして、この問題状況の出現=意識化は、既存の処理方法では対処できなかったという「現実性」を心的システムに投げかけてくる。すなわち状況に対する複雑性が出現し、心的システムが不安定になるのだ。当然これに対処する必要が出てくるわけで、心的システムはこの現実性=複雑性を縮減するために、対処するためのさまざまな可能性の中からひとつを選択することで、事象を単純化、換言すれば安定化した状態に戻そうとする。そしてこれが成功すれば再びこれら事象は無意識となる。こういった現実性ー可能性のプロセスこそが思考なのだ。

おさらいをしておこう。意識が心的システムに上がってくるときは、それは日常の自動的に進行している行動パターンからズレた結果が生じたときだ。但しそのズレは何らかのかたちで修正されなければ平常状態に戻れない。そこで、頭の中で現在発生した問題状況をフィードバックし、さらに問題状況が発生していなければ普段はどのような行動パターンをとっているかをフィードバックし、二つを比較し統合することで、新しい行動パターンが決定される。これがいわば心的システム=意識における思考の流れなのだ。

ただし、思考は現実性-可能性のプロセスそれ自体で閉じているわけではない。こういったサイクルが再び次の問題状況を出現させ複雑性を露呈させる。そして、さらにこれを安定化させようというサイクル、すなわち思考が継続する。それがコミュニケーションであり、さらにその先に社会システムが作動し始めるのだ。

個人ーコミュニケーション-社会、それぞれを個別には扱えない!

このサイクルを誘発させるものこそ社会システム=コミュニケーションに他ならない。つまり心的システムが処理(=複雑性を単純化させること)した事象に基づいて行動を起こせば、それが相手の心的システムにとっては刺激として誘発される。そして、その刺激が相手の心的システムに問題状況を出現させ、今度は相手の心的システム内で意味を求めて思考が繰り広げられるのである。そしてまた処理された事象に基づいて行動を起こすことで、こんどは発信者の心的システムの稼働を誘発する刺激となるのである。

でも、こういった視点を採ると社会学的にも新しいものの見方が見えてくる。これまでの個人ーコミュニケーション-社会といった図式をそれぞれバラバラに捉える、既存の社会学的図式が否定されてしまうのだ。つまり「情報は伝わらない」というテーゼは社会学の立ち位置の根本的変更を要請するテーゼでもある。ではどう考えられるのだろうか?(続く)

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