勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2011年08月


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かつてネットカフェを併設していたカオサンの旅行代理店の看板。下のINTERNETという文字が消されている。


振り返ることを知らない街・カオサン

毎年八月、僕はタイ・バンコクの安宿街・カオサン地区のゲストハウスやレストランを紹介したウェブサイト「カオサンからアジアへ」の更新をするためにカオサンを訪れている。ちなみに、このサイト。当初は僕が一人で作成していたが、現在は学生たちのコンテンツ実習として運営しているもの。ただし情報内容は本格的だ。

毎年カオサンを訪れるようになって今年で16年目になるのだけれど、この街は全くといっていいほど「後ろを振り向かない街」だ。ドンドンあたらしものが登場し、そして、それもまた別の新しいものに置き換わっていく。典型的なものはゲストハウスでかつては民家改造型の地元住民が片手間でやっていたようなものが中心だったのだけれど、それが次第に企業経営的なものに変わり、さらに現在ではかなり大きな資本を持った企業が大型のゲストハウスというか、ほとんどホテルみたいなものを建てるようになっている。その設備も当初のドミトリー、シャワーとトイレ共同(シャワーはもちろん、水)というものから、今では個室でエアコン付き、プール併設なんてのもあっちこっちに見られるようになった。そして今やシャワーのデフォルトは温水だ。

変わるカオサンのインターネット事情

近年でその変化として面白いのはインターネット事情だ。これは、本ブログでも以前に紹介したので概況については簡単に触れておくが、96年くらいからネットカフェが出現し、当初ダイヤルアップ接続程度だったものが、ハイスピードに代わり、ネットカフェがジャンジャンできて、さらに料金がドンドン下がっていった。

ところが、これがここに三年で様子が変わっている。今度はネットカフェがドンドン減っていったのだ。

その理由はWi-Fi環境の充実にある。ホテルやゲストハウス、レストランがWi-Fiをサービスとして開始し、当初は有料だったのだけれど客を呼び込む手段として、次第に無料化を進めていったのだ。その結果、現在ではこれを利用する際にはWi-Fiのパスワードをもらって接続するというやり方が一般化した。だから、ネットカフェはほとんどお役ご免になったのだ。ついでに公衆電話も激減しているのだけれど。

旅行者が持ち歩くのは二年前まではネットブックと呼ばれる小型のパソコン、そして去年からはiPhoneに代表されるスマートフォン(以下、スマホ)となった。ようするにiPhoneを持ち、カフェやホテルでこれを操作するというわけだ。だから、今や“どこでもネットカフェ”という状態であり、もはや”ネットカフェは不要”というわけだ。

スマホの時代

で、スマホは旅行者にとっては、とっても便利なメディアだ。Wi-Fi環境にあればどこでもネットのブラウズ、そしてメールの出し入れが可能なのだから。いや、一般のケイータイ電話、そしてスマホのケータイ機能すら入らない。Viber、TangoといったWi-Fi電話があれば、世界中どこにどれだけかけても無料だし、これがSkypeならばテレビ電話になる。だから公衆電話もネットカフェと同様、お役ご免になりつつあるというわけだ。

そこで、カオサン通りでネットカフェを探してみた。なんと、たったの一件(これはレストランやゲストハウス併設のインターネットサービスを除いた、ネットカフェをスタンド・アローンでやっているネットカフェの数を数えたもの)。そう、もはや、カオサンではネットカフェの時代が終わろうとしていることを、これは意味していると言っていいだろう。来年あたりはパソコンも減ってスマホとiPad中心ってなことになっているんじゃないだろうか?

カオサンのネカフェは日本のネカフェとは違っている

ただし、このことについてはカオサンを訪れたことのない、バックパッキングの経験がない日本人にとっては不可思議なことに思えるかもしれない。ネットカフェと言えばドリンクバーがあり、マンガが読めて、シャワーが浴びられ、仮眠も出来るわけで「ネカフェ難民」みたいなことが可能なはずなのだから、チープなねぐらを探しているバックパッカーにとっては最適な環境のハズ。なくなるのはおかしいのではないかと考えるのではないだろうか。

カオサンのネカフェは、残念ながらそういうふうな設備にはなっていない。まずゲストハウス=収容施設があり、それにインターネットのようなサービスが付随するという位置づけが一般的。強いて言えばネットカフェを併設したゲストハウスというスタイル。一方、日本のネカフェの場合は、あくまでも宿泊も可能なインターネット接続サービスというスタイルだから、カテゴリーが違うと考えれば、納得されるのではなかろうか。

カオサンに日本式のネカフェは……いいかも?

だが、しかし、である。だったらカオサンに日本風のネカフェを作ったら、どうなるのだろう?これって、大儲けできるんじゃ、ないだろうか?で、誰かがこんなことを考えて、これが商売としての旨味があるとタイ人の起業家たちが思い始めたら、ひょっとするとこんどはカオサンに日本風ネットカフェが乱立するなんてこともあるかもしれない。

なんといっても、ここはカオサン、決して振り返ることのない街なのだから。

フジテレビの韓流偏重報道にデモ行動を行った人間たちが、実は自らこそが韓流によって洗脳されていること、そしてその心性や行動パターンはヒトラーに煽られたドイツ人たち(つまり「ユダヤ人は悪」という言葉に踊ったドイツ国民)と同質であることを前回指摘しておいた。しかし、なんでこんな感情的な図式に基づいて簡単に煽動されてしまうのだろうか?最後にこのことを考えてみよう。

問題なのは韓国ではなく日本人の心性(フジテレビも含め)

結論から言うと、こういったデモをする人間たちが、自らのアイデンティティ、主体性にほとんど自信を無くしているからだ。そして、そのことを認めたくないがゆえに、責任を転嫁しようとする行動がデモというかたちで現れた。”今、韓国は勢いがある。一方、日本には勢いも元気もない。ということは勢いのある韓国は目障りだ。だから除外しよう!”……つまり「あいつらだけイイ思いをするのは癪だ」という、ど~しようもない、人の足を引っ張って溜飲を下げようとする”後ろ向き”の心性だ。

あたりまえの話だが、問題なのは韓国に元気があることではなく、日本に元気がないこと。そして、これまたあたりまえなのだが、日本の元気を取り戻す方法は韓国を叩くことではなく、自分たちに渇を入れること、みんなでなんとかしようと思うことだ。そのために韓国をダシに使うというのは、韓国が国威発揚のために日本叩きに夢中になるのと同じくらい主体性が欠如しているということになる(韓国が、いつまでもこんなことやっていれば、いずれこの勢いも終わると僕は考える。文化には主体性が必要なのだ……でも野球、サッカー、女子フィギアに続いて、今度は女子サッカーに力を入れるんだろうなぁ(^_^; )。今回のデモみたいなことをやっているようでは、しかも、それを日本の将来を背負って立つ若者がやっているようでは、どうしようもないと言わざるを得ない。

みっともないから、およしなさい!

だから、これはデモというよりも2ちゃんねら~たちのフラッシュ・モブ(田代砲、マトリックス・オフ、吉野家オフ、折り鶴プロジェクトみたいなもの)と捉え、無視していいんじゃないだろうか?つまり、実は騒ぎたいだけ。メディアに取り上げられて「祭り」をやっているのだと。これが2ちゃんでの常套手段でもあるし(2ちゃんのスレはこれくらいの力は十分持っている)。実際、かなりの人間がマスクしながらデモやっているわけで。これって言動に責任は持てないけど、自分の感情は発散したいってことになってしまっている(これも各種フラッシュ・モブの行動、そして2ちゃんねらーの匿名だけによるスレ、つまり無責任=責任回避を前提に好き勝手なことを発言する、電子メディア上の「便所の落書き」と全く同じ)。まあ、取り上げず、無視しつづければ、彼らはますます「偏向報道だ、弾圧だ」ってファイヤーするかもしれないけれど。

いずれにしても、単なる感情に基づくフラッシュ・モブ、お祭り騒ぎ好きなら組織性がないので盛り上がることもなく一過性のものとして終わってしまうのではなかろうか。だから「放っておけばいい」といことになる。

洗脳されているのは、おまいらだ!韓流パワーみたいなものを勝手に感じて、恐れているようじゃあ、おしまいだよ!フジテレビ?韓流?あんなのは、放っときゃ、いいの!まず、自分の足元を確かめな!みっともないから、およしなさい。

デモへの参加者には、こんなエールを送ってみたい。日本の将来を背負っているのは君たちなんだから!

自分たちのやっていることに気がつかない。これを“洗脳”と呼ぶ

韓流コンテンツを偏向的に流すフジテレビに抗議しているデモの参加者は、実は自分が公共性と私的感情を混同していること、つまりフジテレビの「報道の公共性違反」を虎の威に、自らの「嫌韓」という感情を正当化しているのに気がついていないことを前回は指摘しておいた。

で、これをもう一つ存在論的な立場から考えれば、こんなことが言える。フジテレビが韓国の傀儡となって日本文化を駆逐しようと洗脳しているというより、デモをやっている人間が、自らの「嫌韓意識」、いや「嫌韓無意識」によって洗脳されているのだと。逆に言えば、それほどまでに韓国を意識しているわけで、いわば、かつての「アンチ巨人ファン」のように韓国が大好きな人間なのだ。前述したように、もしそうでないのであるならば、テレビの公共性と韓流放送をごちゃ混ぜにするようなことは決してあり得ないからだ。そして、突然、フジテレビの偏向報道にツッコミを入れはじめることもないからだ。

たしかにフジテレビも含めて現在の民放局の番組編成には問題がある。根本的に想像力、創造力を失っているし、公共性についての配慮にも欠けている(これについては本ブログ,8月4日(http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/archive/2011/08/04)で展開しているので詳細はそちらを参照していただきたい)。そして、前述したように韓流偏向は、こういった”もっと大きな問題”の一現象でしかない。このことは指摘されてもいい。ただし前回にも述べておいたように、韓国の問題で、ことさらこのことを取り上げるというのが、インチキ臭いのだ。

「韓流は悪」は「ユダヤ人は悪」と同じ

で、僕は主催者やデモの人間を見ていると、ちょっとゾッとしてしまう。この人たちは、実はなぜデモをやっているのかについて自分でも判っていないのではないか。そして、こういった人間たちこそ、実は一番洗脳されやすい人格傾向を備えているのではないか、と考えるからだ。つまり、彼らは考えることなく感情に促されて行動している(主催者による、自らの立ち位置すら判っていないコメントはその最たるものだ(ニコニコ動画で見ることが出来る(概要は前回ブログを参照)。で、こんな無思考の人間に、やはり感情に基づいて賛同してしまう人間が4000人も現れたのはかなり怖い)。だから、もし、これに今後多くの人間が賛同の意を示すようなことがあるとすれば、それこそがメディアの偏向報道による洗脳という恐ろしい事態の発生ということになる。つまり「韓国は悪である!」という、「ユダヤ人は悪である!」ってのと全く同じロジックが感情に基づいて生じるのだ。

第一次世界大戦後、敗戦国ドイツは世界で最も民主主義的な憲法に基づくワイマール共和国を設立した。しかしながら、敗戦国であるゆえ国は荒廃。さらに戦勝国からは膨大な賠償金を請求され、とんでもないインフレが進行。国家はにっちもさっちもいかない状態にあった。そんな中で登場したのがヒトラー率いるナチス党で、ヒトラーは、こういった様々なドイツの問題を「ユダヤ人のせい」と、判りやすい図式で、欲求不満の状態だったドイツ国民たちにはけ口を与え、煽動することで支持を獲得。政権を奪取するとユダヤ人の迫害をはじめ、大量虐殺を行い、挙げ句の果てに第二次世界大戦を勃発させてしまった。

さて、日本は現在かなり経済的にはヤバイ状態にある(とはいうもののワイマール憲法かにおけるドイツに比べれば全然、大したことはないが)。それに人々は欲求不満を持っている。そんな中で、デマゴークが出現し、こういった様々な日本の問題を「韓国の性」と判りやすい図式で日本国民を煽動したら……これって、結構、それなりにヤバいでしょ?

でも、なんでこんな“烏合の衆”みたいな心性を彼らは持ってしまっているんだろう?(続く)

4000人がフジテレビの韓流ゴリ押しに抗議のデモ

8月21日、フジテレビの韓流ドラマなどを含んだ韓流タレントの「ゴリ押し」に対して、一般市民(というか”2ちゃんねら~”)が立ち上がり、フジテレビ前で約4000人がデモ行進を行ったことが報道されている。主催者の通称“現地の人”こと児玉健二氏はインタビューで、フジテレビが韓国の番組やタレントを「ゴリ押し」している。つまり偏向したかたちで過度に報道していること。こういった報道の背景にはフジテレビと韓国の私的な利害に絡んだ思惑があることを指摘している。そして、日本の文化を守るため、公共の電波の私物化をフジテレビに止めさせるためにデモを呼びかけたと答えている。

つまり、フジテレビは韓国によって韓流のプロパガンダをすることに洗脳されている、あるいは電波という公共物を私的利益のために悪用しているが、これはおかしいというわけだ。

フジテレビの「ゴリ押し」は韓流にはじまった話ではない!

しかし、この主張はどう見てもヘンだ。テレビ電波は公共的な存在でなければならないことは判らないでもない。しかし一般の民放は私企業、つまり営利団体であり、利益追求を第一とする。まあ、それが過度にならないように民放連があり、やらなくてもいいような放送自粛用語(通称“放送禁止用語”)を指定したりしているわけだけど、そうは言っても視聴率がとれなきゃ仕方がないわけで、全ての民放局は視聴率ゲットを求めて、様々なメディア・イベント(勝手にイベントをでっち上げて、既成事実化し、視聴率を稼ぐ)を、以前からずっと繰り広げている。

やり玉になっているフジテレビを例に取れば、フジテレビはスポーツならバレー、F1、格闘技ならK-1を日本人に定着させた。また映画なら古くはサンリオ系の映画とか、最近なら三谷幸喜の作品とか、踊る大捜査線とかをメディア・イベントとして傾斜集中的なキャンペーンを行っている。このやり方は実に偏向しているし「ゴリ押し」という言葉がピッタリ来るものだ。ちなみにこの手の手法はどの放送局(最近はNHKも含めて)もやっている。その典型が日本テレビの正力松太郎がテレビ普及のために仕掛けたプロ野球、そして力道山によるプロレスだ。前者では巨人が不当に持ち上げられ、ONというスーパースターが作られたし、後者ではエンターテインメントであるはずのプロレスがスポーツとして取り上げられ、いずれも日本に定着した。要するにテレビの歴史とはメディア・イベントの、つまりゴリ押しの歴史なのだ。

で、フジテレビは今回の韓流についても同じ手法を使っていると考えればいいだろう。韓流なら番組の放映権も安いし、タレントも廉価で扱うことが出来るわけで、視聴率が取れず制作費の削減を余儀なくされているテレビ局側にとって、これに願ってもないコンテンツだ。だから、最近フジは韓流ドラマやタレントを今度はゴリ押し=メディア・イベント化しているわけだ。そう「公共電波の私物化」だ。

ということは、今回も、いつもと同じ手法を使っているに過ぎないわけで、「ゴリ押し」は、なにも韓流に限ったことではない。それゆえ、デモをやるなら、こういったフジテレビの一連の「ゴリ押し」=メディア・イベント的行為に対して抗議をするというのが筋だろう。

公私混同をやっているのはデモの側も同じ

ところが、今回のデモでの抗議内容は、こういったフジテレビの「公共物の私物化」よりも、むしろ「韓流を取り上げたこと」に焦点が当てられている。そして、これへの抗議を正当化する言い訳として「公共電波の私物化」が持ちだされているのだ。そして、ここが一番怖いところなのだけれど、このデモをやっている人間は、こういった「正しいメディアのあり方」という公共性と、「嫌韓」という私的感情がゴチャゴチャになっていることに気づいていない。

つまり、公私混同をやっているのはデモをやっている人間も同じなのだ。で、公私混同をやっている人間が、公私混同をやっている人間を「公私混同はけしからん」と訴えても、なんの説得力もないのはいうまでもないだろう。そのことに全く気づいていない児玉氏は、もうしわけないが「自分のことが判っていない可哀想な存在」にしか僕には見えない。

そして「可哀想」に見えることがもう一つある。それは、主催者を含めてデモをやっている人間が、自分たちが洗脳されていることに気づいていないことだ。では、それは何か?(続く)


(ちなみに、僕は嫌韓では(あるいは好韓?でも)ないけれど、韓流についてはメディア論者とウォッチングするということ以外には、ほとんど興味はないことをお断りしておく(東方神技とかはプロとしてかなりイイレベルに言っているとは思うが)。また、海外の旅先ではなるべく韓国人が宿泊しないホテルを探すことにしている。韓国人が好きとか嫌いとかということではなくて、団体さんがやってくると大騒ぎしたり、朝食会場に自前のキムチを持ち込んで異臭を漂わせたりするので。これは中国人の団体さんも同じ)

マナーの崩壊は社会の崩壊

情報ソースの多元化による価値観の相対化は、人々の一元的な価値、すなわちマナーを崩壊させ、KYな人間を多数出現させるに至った。しかし、こういったマナー崩壊は、その半面で「家族の絆」「お互いに対するやさしさ」の強化も推進していることを、ここまで確認してきた。

マナーの崩壊は、やはりわれわれが生きていく上で絶対必要とされる”社会”という構成体の存立を考慮すれば、かなり危機的な問題と捉えるべきものだろう。今回の特集の冒頭でも述べたように、社会というのは常識=Common Sense、つまり共通感覚で初めて成立しているし、しかもこの共通感覚にはさしたる根拠もないが「そういうもの」として構成員が共有している。そして、これがなくなった状態がマナーの崩壊という現象として現れているわけで、いいかえれば、マナーの崩壊と社会の崩壊は正の相関を示す。

一元的価値を復興せよ

それゆえ、僕らはマナーの復活を何らかのかたちで行わなければならない瀬戸際に立たされていると認識すべきだろう。そのためには、当然、上記した内容の逆をやる、つまり一元的価値=Common Senseを構築する方法を編み出さねばならない。

しかしながら、それは必ずしも容易いものではない。「日本国家を意識しろ」なんて言えば「オマエは軍国主義者か」とでも言われかねないからだ。戦前の翼賛体制へのアレルギーはまだ根強いものがあり、一元化=軍国主義化=民主主義の弾圧みたいな図式が未だにまかり通っている。

しかし、こういった単純な図式は、そろそろ止めるべきだろう。われわれが、社会の一員として生きていくためには、その社会の一員としての共通感覚を持たねばならない。また、それを法律ではなくマナー、そして因襲として踏襲するということを「あたりまえ」とし、そのようなことを守らない人間に対して、皆で「みっともない」と指摘することは、やはり重要だ。そして、それが社会的な美意識を作り上げ、文化となるのだ。

痛みを感じること、経験を共有すること

では、どういった一元的な価値が有効だろうか。僕は「他者に介入すること、他者から介入されることを、ある程度快しとして受け入れる心性」を涵養することだと考える。このことをちょっと別の例で説明してみよう。

味覚はどうやったら発達するのか?

味覚については、生まれもっての味覚というのもあるし、個々人で感度の差異もあるけれど、一般的には味覚についての多様な経験から養われていくものだ。そして、経験とは、ある程度痛みを伴うものでもある。あなたがすでに成人ならビール、わさび、辛子といったものを自らの嗜好の一つとして取り入れているだろう。それぞれ苦さ、鼻につく辛さ、舌につく辛さをもった味覚だ。だが、大部分の人間にとって、これらの多くは自らが成人になる過程で培われた味覚だろう。初めてビールを口に含んだとき、それはただ苦いだけの飲料だったはずだ。また、わさびも辛子も、その辛さに耐えられなかったはずだ。しかし、その「つらさ」「痛み」を乗り越えるかたちで、これらを自分たちの味覚の一つとして取り入れたのだ。その結果、味覚の幅が広がり、様々な料理を楽しめるようになったというわけだ(余談だが、僕が面倒を見ているゼミ生たちの味覚は、ほとんど味盲に近い。ファーストフード、ファミレス、レトルト製品で作られた味覚だからだ。ちなみに、僕が大学生のころも、はっきり言って味盲だったけれど。要するに、学生くらいだったら、まだ味に関する経験が根本的に欠けている。で、これらは社会人になってから培われていく)。

他者の立場を経験すること

他者に対する対応も、実はこういった味覚の広がりと同じ手続きで考えることが出来るだろう。つまり、他者からの傷みを受ける中で、その対応方法を編み出し、他者を交流可能な存在へと取り込んでいく。そうすることで他者を理解し、他者と理解を共有する幅を広げることが出来る。で、これを一般的には「コミュニケーション・スキル」と呼んでいるのだけれど。

ただし、もちろん、これは「介入しないやさしさ」のような言葉の表層だけでの儀礼的関わり合いでは決して到達することが出来ないものであることを忘れてはならない(これは、ただの甘ったるいだけの「子供の味」というわけだ)。相互に介入しなければ、相互の痛みはわからないからだ。他者の傷みを自らが経験する必要がある。

そして、その痛みを乗り越え、相互に共有できる感覚が得られ、それが多くの人間の間で共有可能になったとき、それは言葉だけによるもの、理屈だけによるものではない、身体的な経験を伴ったCommon Sense、つまり共通感覚を形成することになる。そこに、新たな、そして強固なマナーが再構築される可能性は生まれるのではないだろうか。


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