勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2011年08月

ディズニー世界を彩る二つの要素

ディズニーの創始者ウォルト・ディズニー(以下ウォルト)を語る際に欠かせないのはもちろんアニメとディズニーランドだ。そして、これらの構築物の根底に流れるものとして欠かせないのは「テーマ性」と「ストーリー性」であることが定番になっている。

テーマ性の徹底

たとえばテーマ性については、ディズニーランドが徹底したテーマパークであることでよく知られている。パーク全体が「魔法の王国」であり、そしてそれがいくつかのテーマ・ランド(ファンタジーランド、アドベンチャーランドなど)に別れ、さらにこけらのテーマランドの施設にもそのテーマに関連したサブ・テーマが設けられている。その徹底度はアトラクションやレストランはもちろん、トイレ、ゴミ箱といったものにまで設定されている。

物語性の徹底

一方、物語性だが、これについてはアニメ制作にあたってウォルトが口を酸っぱく品が言い続けことだった。「技術よりも、先ずストーリーが重要」とイマジニア(アニメ制作スタッフ)に言い続け、何枚も絵コンテを描かせながら、そのストーリー性をチェックし続けたことは、つとに有名だ。そして、それが大輪の花を咲かせたのが、1937年に公開された世界初の長編アニメ映画『白雪姫』だった。アニメ映画における物語性はウォルトの死後も踏襲され、現在のピクサー作品群にもしっかりと繁栄されている。また、物語性はディズニーランドのアトラクションにも反映されており、たとえばTDSのタワー・オブ・テラーは、1899年、強欲な富豪、ハリソン・ハイタワーがシリキ・ウトゥンドゥの呪いにかかり、ニューヨークのハイタワーホテルのエレベーターの中に消えていき、そのあとを観光客が検証にやってきて同じ目に遭うという設定なのだが、垂直に三回落下するエレベーターという、数分程度のアトラクションのために、こういったストーリーがしたためられ、ゲストたちを恐怖のファンタジーに巻き込んでいる。

でも、ディズニー作品の物語って、みんな”お子様ランチ”なんだけど……

さて、今回は、こういったウォルトにまつわる一般的な解釈を一旦横に置き、別の視点からウォルトの考えを考察してみたい。とりわけ今回取り上げ、ツッコミを入れてみたいのはウォルトの二つの特徴の内の一つ、物語性だ。

よ~く、考えてみよう。ウォルトが始め、現在もディズニーが踏襲している、この物語性。そんなによく出来たモノと言えるのだろうか?ディズニーの作品って、どれも「お子様ランチ」で、ほとんどどーでもいいようなくだらない物語=ストーリーしかないんじゃないないだろうか?でも、ディズニーの作品群のすばらしさを語る際に、先ず指摘されるのが、この「物語性の優秀さ」なのだ。

これって、ちょっと、おかしくないか?今回は、この物語性の意味について考えてみよう。ちなみに、この”物語性”、実はもう一つの要素である”テーマ性”と強く関係している(というか、二つは結局同じモノなのだが)(続く)

非日常を非日常として楽しむことがバックパッキング

Facebookを使って世界を縦横無尽に渡り歩くバックパッカーと、同じようにFacebookを使いながら日本とのコミュニケーションをひたすらとり続けるバックパッカー。バックパッカーにはこういった情報格差ならぬ行動格差?があること(もちろん情報格差でもある)。ただし、どちらも場合によってはバックパッキング、そして旅という行為からはかけ離れたものになってしまう恐れがあることを前回は指摘しておいた。

もちろん、旅の目的は人それぞれ。だからいろんなスタイルがあってもいいと思う。しかし、僕はバックパッキングをやるなら、これだけは念頭に置いて欲しいと思っていることがある(あくまで、私見です)。それは、

「非日常を非日常として経験する勇気を持つこと」

つまり、自分が日本で培ってきたモノの見方についてのステレオタイプ=色眼鏡を異化し、対象化した視点からものを見る機会としてバックパッキングを利用して欲しいと思うのだ。もうすこし簡単に表現すれば「日常採っている立ち位置を捨ててみる手段としてバックパッキングを用いる」ということになろうか。訳のわからない食べ物に手を出してみること(お腹を壊すのは必要経費と考える。ただし、その対処法は万全の準備を整える。最低抗生物質くらいは買っておく(タイならその辺で処方箋なしで購入できる))、いろんな人間(日本人、外国人バックパッカー、現地人を問わず)と関わってみること、異文化の日本とは違うところに好奇心を抱いてみること、ガイドブックや地図にない地域に足を踏み入れてみること、そして時にはゲストハウスの部屋で孤独になりながら自分の人生を振り返ってみること。こんな「(自分の外部、そして内部の) 未知のものとの遭遇」こそ、バックパッキングの醍醐味なのだから。Facebookはそのための格好のツールにも、最悪のツールにもなり得る。それは旅の情報集めであろうと、日本の環境に向けた情報アクセスであろうと変わらない。要は、それを利用するバックパッカーをやっているあなた次第なのだ。

実は非日常は、どこにでも転がっている

ちなみに、そう考えれば日本という日常でも非日常を持ち込み、そこで自らを異化し、新たな経験をすることも十分可能ということでもある。

僕のバックパッカー歴の中で、バックパッキングが教えてくれたことは

「非日常は、どこにでもある。もちろん日本でも、そして身近な日常生活の中ですらも」

というものだった。

これは旅を続けるうちに、だんだん何も感じなくなっていったことで気がついたことだ。つまり、バックパッキングははじめた頃は、いろんなものとの出会いがとにかく新鮮で面白くってしょうがなかったのだけれど、だんだんとやり方に慣れていくとと、そういった驚き、新鮮みがなくなっていく。だからどんどんディープな、旅行者が訪れそうもないところを目指すようになるのだけれど、その新鮮さゲットのための費用対効果はどんどん下がっていく。そんなとき「何もバックパッキングを非日常として特化することはないんじゃないか?そう考えている自分の立ち位置こそが日常的なものに取り付かれているだけなんじゃないか?バックパッキングは実は単なる現実逃避なんでは?」と考えるようになったのだ。

つまり”様々な対象や環境に対して新たな立ち位置で見ようとすることはどんなモノ・コトに対しても可能”ということをバックパッキングは教えてくれたのだ。

ただし、若い頃はそのことがよくわからない。とりあえず手っ取り早く立ち位置を変える方法としてバックパッキングは便利なツール。だから、とりあえずバックパッキングに出かける。それでいいんじゃないんだろうか?

Facebook、そしてインターネットを旅のステキな道具として使ってもらうことを願ってやまない。


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カオサンのカフェ。iPhoneでFacebookをチェックする日本人バックパッカー。彼がアクセスしているのは旅の情報か?それとも日本の友人か?


バックパッキングにおけるデジタル・ディバイド

バックパッカーのFacebook利用実態について考えている。前回はその利用方法が旅の情報ツールと言うより、日本という日常を非日常で実現するための手段として用いられている、つまり後ろ向きの利用方法がなされていることを指摘しておいた。もちろん前者の利用方法をするバックパッカーもいるけれど、その大多数は後者。このことについて今回はメディア論的視点から考えてみよう。

デジタル・ディバイド=情報格差という言葉がある。情報化が進み、メディアによって情報アクセスが易化すると、これをジャンジャン使う人間と、そうでない人間に二極化するという、通称“マタイ効果”(「富めるものはいっそう富み、貧しいものはいっそう貧しくなる」という意味。社会学者R.マートンによる造語)と呼ばれる現象が出現することを指しているのだけれど、インターネットの出現によって、このデジタル・ディバイドは加速すると言われている。

これは僕の大学の学生たちにも顕著で、パソコンやスマホを持ってインターネットに頻繁にアクセスしているような連中は、ものすごい「情報通」になっている。毎日、これに日常的に触れているので、否応なく情報リテラシーが高まってしまうのだ。だから、同じ大学の学生でも、話している内容のレベルや情報量といったものが全然違ってくる(全員がパソコンを持ち、大学内で使いまくっているSFCなんかは本当にスゴいことになっているんじゃないだろうか)。

そして、ここまで展開してきたように、このディジタル・ディバイドがバックパッカーたちにも波及しているようだ。Facebookを活用し、旅の情報をジャンジャン集め、次から次へと旅先を渡り歩く情報感度抜群のごく一部のバックパッカーと、同じようにFacebookを旅先でチェックするが、故郷に思いを馳せ、母国の生活環境、コミュニケーション関係を継続させようとする用途で使用する大多数の低感度バックパッカーという格差だ。当然、前者の使い方をするのは、もともと情報感度に優れている高偏差値系の大学生(ただし、さらにその一部)が該当するだろう。

旅とは、バックパッキングとは?

で、ここで「Facebookで日本ばっかり見ているようではどうしようもない。 そんな後ろ向きなことばかりしていないで、しっかりと旅をしなさい。Facebookをきちんと使って!」と檄を飛ばすのは簡単だ。ただし、こういった檄の飛ばし方は半分は正解で、半分は間違っていると僕は考える。このことは「旅とは」「バックパッキングとは」という旅の存在論的問いをしたときにハッキリしてくる。

まず、確かに旅先に出たのに、そこで日本の環境を再構築し、そこから出ないのではバックパッキングとはもはや言えない。だから、そのことを指摘することは間違っていないだろう。ただし、じゃあFacebookを使って、あっちこっちのFacebook上の友達と情報交換して、次々と旅先へ向かうというのが絶対的に正しいことかと言えば、これまたそうとも言えないだろう。というのも、これでは「情報検索」という行為それ自体が旅=バックパッキングとなってしまう恐れもあるからだ。Facebookやインターネットは、あくまで旅のためのツールであって旅それ自体ではない(まあ「Facebookこそ旅である」と開き直ってしまえば、それも「あり」だけれど)。とりあえず、一番肝心なのはFacebookで情報交換したあとに、その情報を基にバックパッカー自身が旅をどう楽しむか、どう経験するかであるはずだ。

Facebookを高感度に利用し尽くすと、それはパックツアーと同じになる

もし、Facebookでこうやった情報交換だけを目的としたような旅をするのであるのならば、それはパックツアーで世界遺産を見て回ることと全く心性は同じということになる。名所旧跡をチェックするという、「見て経験することより、チェックすること、訪れたという事実を確認すること」が一番の目的になってしまうのだから。そして、そういった旅の情報チェック、旅先に行くという行為に特化したバックパッキングは、要するに自らが日本でやっている情報行動をそのまま旅先に持ち込んで、それを維持している行為となるわけで、これもまた、実は非日常に日常を持ち込むということでは、Facebookで日本の友人たちとコミュニケーションしていることと何ら代わりはないということになってしまうのだ(僕は、毎年ゼミ生をタイに連れて行き、調査のあとにバックパッキングすることを課題にしているのだけれど、その際「アンコールワット行き」を禁じている。カオサンから行く場合、ツアーに入るので、それじゃあ現地でパックツアーを調達したのと同じことになってしまうからだ)。

そう、インターネットそしてFacebookを高感度に利用してあちこちを旅している人間こそバックパッカーなんて考え方。実はこれ自体も、ものすごく偏っていると考えなければならないのではないだろうか。じゃあ、旅って、バックパッキングって、どう考えたらいいんだろう?(続く)


前回はカオサンでFacebookが大流行なこと。これをバックパッカーたちが駆使すれば、世界の旅の情報を縦横無尽に取り込むことが出来るようになる可能性があることを指摘しておいた。しかし、僕が知っっているかぎり、前回指摘した、上記のような「可能性としてのFacebook利用」、つまりFacebookを活用して次々とバックパッカー友達を作り、情報交換しながら世界を渡り歩く、というようなことをやっているバックパッカーはかなりマイノリティではないかと踏んでいる(というか、実際そうなっているのだけれど)。しかし、このことはFacebookの一般的な利用法から類推してみると結構見えてくる。

Facebookの人口は6億

確かにFacebookは便利なソーシャルネットワークだ。このことを世界中の人間が知っており「中国、インド、Facebook」と呼ばれるように、利用者は現在6億人を超えている。そして中東やアラブ地域で起きた政権の交代、革命のような大きなうねりは“Facebook革命”と呼ばれ、人と人を繋ぐ、もう一つの社会、ネットワークとしての機能がFacebookの特徴として語られている。

しかし、である。もし、6億人もの人間がこういった能動的でアクティブな使用法をしていたならば、今頃、世の中は凄いことになっているのではないだろうか。あっという間に民主主義が世界中に浸透し、人々は平等意識を持ち、かつてマクルーハンが標榜し、多くの人間がその意味を読み間違えた「グローバル・ヴィレッジ」が出現するはずだ(グローバル・ヴィレッジの考え方は”情報化によって世界が一つになり平和な世界が訪れる”と一般的に理解された。ちなみにマクルーハンが指摘していたのは”ヴィレッジ=田舎村の人間関係が世界大に拡大される”というもの。つまり、田舎のドロドロ関係が世界規模で起こると預言していたのだけど)。

Facebook利用法のメインは「いつもの仲間、昔の仲間とヨロシクやる」

ところが、そうはなっていない。むしろ、Facebookの最もメインの利用法は「既存の友人=リアルな友人の紐帯を高めるツール」というものだ。つまり、友人、知人とリアルだけでなく、ヴァーチャルでも繋げて親密性を高めるというのがFacebookのいちばんの魅力で、これはたとえば友人同士が直接は出会うことの出来ない遠距離にあったとしても、Facebookにアクセスすればすぐに出会うことが出来るというかたちで実現する。実際、僕も札幌、福岡、福島、名古屋、福岡、宮崎、沖縄、タイ、イギリス、アメリカ……に住んでいる友人とFacebookで毎日のようにコミュニケーションを交わしている(僕は川崎在住。そしてこれのブログを書いている現在、タイにいる)。で、こんな「友人といつでもどこでも出会える“どこでもドア”」としての利用がFacebook利用の中心と言える。実際、Facebookの創設者のマーク・ザッカーバーグも、これをはじめたきっかけはハーバード大学の社交クラブのヴァーチャル化だったのだから(しかも、ハーバード大学生完全限定だった)。

で、こうやって考えてみると6億人のFacebookの利用法が見えてくる。それは……ごく限られた範囲の顔見知りの仲間たちでのコミュニケーションを活性化させるためのツールだ。

バックパッカーたちの本当のFacebook利用法~「カオサンなう」

さて、ここから類推するとバックパッカーたちがカオサンのカフェやレストランでスマホやネットブックを開いて頻繁にアクセスしているその先がどこかも、必然的に見えてくる。それは……いつもの仲間たちだ。そしてその仲間たちに近況をコメントする。つまり

「カオサンなう」

これだ!

で、この利用法は、よく考えてみると、このブログで最初に取り上げた想定された電脳バックパッカーのアクティブでプル的な情報アクセス、情報行動とは全く反対の心性に基づいて情報行動=Facebook利用をしていることが判る。

バックパッカーは、今や非日常の中に日常を持ち込んでいる

想定されていたバックパッカーは常に旅のその先に向けて情報ツール=Facebookを駆使していた。一方、一般的な文脈でのFacebook使用に基づくその情報行動は、必然的に、旅の前、自分が住んでいる日常である日本のコミュニケーション環境に向けられている。つまりそれは、前者の心性が旅を非日常と捉えるのに対し、後者は旅という非日常の中で日常を実現することに向けられているということになる。

そして、バックパッカーたちの「非日常における日常実現ツールとしてのFacebook利用」という情報行動スタイルは、僕が16年間カオサンで取り組んできたバックパッカーについてのアンケート調査結果と見事に一致する。そのほとんどが20代前半で、そして旅行日数は二週間程度(ちなみにこれが90年代後半で、現在は10日程度にまで短縮されている)。つまり、パックツアーやスケルトン・ツアーの倍程度の滞在日数でしかない。で、周遊するところもタイだったらローズガーデン、水上マーケット、暁の寺、王宮、ムエタイ、ウイークエンドマーケットとパックツアー客とほとんど代わりはない。買い物するのもコンビニ、お茶するならスタバ、メシ食うならマックやケンタッキー、その辺の屋台の料理は目の前にあるけれど、ちょっと衛生的におっかないのでパッタイ=焼きそば程度にしか手を出さない(実際、日本人はアジアの細菌に慣れていないので、一週間も滞在すれば、かなりの旅行者が食中毒になるのも事実だけれど)。つまり海外、バックパッキング、カオサンという非日常の中で日常生活にアクセスしているバックパッカーがほとんどなのだ。

Facebookの利用方法も、こういったかたちになるのも無理はないだろう。つまり、Facebookは世界のどこに行っても、自国の日常を再現することが可能なメディアなのだ。(続く)

2011年夏のカオサン。レストラン、ゲストハウス、カフェ。とにかくあっちこっちでバックパッカーたちがネットにアクセスしている。一番多いのがiPhoneなどのスマホ、次がネットブック。中には大型のノートパソコンを持ち歩く人間も。メディアを携帯しないバックパッカーも、ゲストハウスに設置されたデスクトップパソコンかネットカフェでアクセスしている。

で、彼らが判を押したようにアクセスしているサイトがFacebookだ。何をブラウズしているのだろうと、ちょっと横目でのぞき込んでみると、そこには決まって白地に青のあの画面が。これは今年になって現れた顕著な傾向とみなしていい。しかし彼らはFacebookで何をやっているんだろう。

バックパッカーって?

バックパッカーという存在は、パッケージ・ツアーやスケルトン・ツアーなどの既製品、お仕着せの旅のスタイルに飽き足らない人間が、自ら旅をプロデュースすることを目指して選択した自由旅行という旅のスタイル。つまり、格安購入券だけを購入し、宿も予約することなく行き当たりばったりで自由に旅先を移動する。

想定されるバックパッカーのFacebook利用法

そんな彼らから想像できるFacebookのスタイルは、およそこんなところになるだろう。

バックパッカーAは旅先で知り合った旅行者BとFacebook上でも友達となる。そして、それぞれは次の旅の目的にへと向かう。そこで、またそれぞれが他のバックパッカーと知り合いになり、やはりFacebook上でも友達関係を結ぶ。たとえばAはC、BはDというバックパッカーと友達になる。するとこの四人はFacebookのグループや友達紹介機能を媒介に、互いを知るようになる。そしてAはBの紹介でCと、BはAの紹介でDと友達関係を結ぶ。で、四人はそれぞれ別の旅先へ向かう。そして、これと同じことが繰り返され、ここに旅のバックパッキングの広大な情報ネットワークが誕生することになる。つまり、たとえばAはBの知り合いのDの知り合いのFの知り合いのHと知り合いになり、そのHがたまたま自分が向かおうとする旅先を訪れたことがあるのならば、そこにその旅先の情報について照会することができるし、あるいはFがその目的にいるのならばオンライン・ミーティングと言うことで対面して情報交換することが出来るというわけだ。

こういったインターネットを利用した旅の情報ネットワークは、もちろん、もう10年以上も前から存在している。しかし、Facebookはこれを極めてお手軽なかたちにしたこと、そして旅先でのインターネットアクセスのインフラが充実したことによって、旅の情報ネットワークに極めて手軽にアクセスできるようになったという点が、これまでとは根本的に違っている。いわば、誰もが「電脳バックパッカー」として世界を駆け巡ることが可能になる……こんなことが考えられるはずだ。そして、実際、そういった旅のスタイルを実行しているバックパッカーは存在する。

しかし、である。カオサンで大流行のFacebookの使われ方の大多数は、実はこれとはちょっと異なっている。そして、そちらのマスの使い方を踏まえると、バックパッカーの真の姿が見えてくる。それはどういったものだろう。(続く)

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