勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

2011年07月




「消臭力」=図像性>指標性の突然逆転

「消臭力」と「蚊に効くカトリス」、二つのCMがその構造として対照的な位置にある作品であり、それがいかに視聴者に魅力を放っているのかを図像=イコン性(CMの映像部)と、指標=インデックス性(CMの文字やナレーションの部分)という二つのメディア論の装置を用いて考えている。前回はダイソン・マルチプライヤーとiPhoneのCMを取り上げ、二つが図像=イコン性と指標=インデックス性をバランスよく配置した中庸な作品であることを指摘しておいた。この二つのバランスが崩れているのが、今日取り上げる二つのCMだ。

まずはエステー化学「消臭力」のCMについて考えてみよう。
これはヨーロッパの街角(リスボン市街)を遠景に白人の少年が「ラララ~」と歌をアカペラで歌っているというもの。キモはこれが何のCMか全くわからない状態で続いた挙げ句に、最後に少年が、高らかに「ショーシューゥリキー!」と歌い上げるシーンだ。ここで、見ている方は映像と歌詞とのギャップに唖然としてしまう。

まず、最初の白人の子供、ウイーン少年合唱団のような歌い方、そしてヨーロッパの街角という映像が、ここがベタなヨーロッパ、つまり日本人のヨーロッパに対するステレオタイプとしてのそれであると言うことを伝えてくる。ところが、おしまいに出てくる歌詞が「消臭力」という漢字三つのジャパニーズな感覚、そして長州力というレスラー(「消臭力」という名前は「長州力」にちなんで命名されている)であることで、こちらはその図像性を破壊する。つまり映像=イコンと歌の歌詞=インデックスが反発=ミスマッチを起こすのだ。で、見ている側はこれまでもっぱら映像=イコンに重きを置いていたのだけれど、歌詞=インデックスがこれを否定しにかかってくると、このどちらに重きを置いたらいいのかわからなくなる。

だが、その後に”消臭力”という文字が登場し、指標=インデックス側の優位が位置づけられる。さらに、その横に消臭力の写真が街並みに埋め込まれるように置かれている。そして最後「エステー化学」と「空気変えよう」の表示が登場し、エステーのシンボル・サウンドである雀のさえずりが響く。

ここで、僕らの違和感は妙な転移をみせるのだ。ヨーロッパの背景とエステーの雀のさえずりに挟まれて消臭力という野暮ったい名前がものすごい違和感を感じるとともに、なおかつ、この背景と雀のさえずりの爽やかさに、これを位置づけるという作業を強要される。そして映像との親和性を示すべく消臭力という字=ロゴの下に商品の写真が三つ置かれることで、あたかも、この爽やかな風景と消臭力が深い関連性を持っているかのようにわれわれを錯覚させるのだ。無関係なものを並列させることによって、その無関係の要素を無理矢理もう一方に埋め込む作業が、ここでは行われているのである

そう、このダサい消臭力。名前はダサいが、使ってみればさわやかになる。こういったメタメッセージが発せられているわけだ。

※次回は、この逆の演出を行っている「蚊に効くカトリス」です。(続く)



iPhoneのベタなCM。図像性と指標性が寄り添っている


消臭力と蚊に効くカトリスはヘン

今回はCMの構造を、いくつかのCMを取り上げてメディア論的視点から考えてみたい。その際、ポイントとするのはエステー化学の「消臭力」とキンチョーの「蚊に効くカトリス」という対照的な作品。そして、その中間形態としてのダイソン「エアマルチ・プライアー」とApple”iPhone”だ。最後の二つのCMを軸の中心として、両極にある前者二つの作品が僕たちにどのようなメッセージを発しているのか?今回はこれを考えてみよう。

で、その際、本ブログの7月5日~の特集”アナウンサーの客観性を疑う”で用いた図像=イコン性と指標=インデックス性という考え方を用いてみたい。かみ砕いて表現すれば、前者はCMの映像の部分、後者は文字やナレーションの部分だ。この二つがどういった比率で用いられるかによって、CMの印象が変わってくるのだけれど、見事に正反対の演出になっているが消臭力と蚊に効くカトリスなのだ。

図像=イコン性と指標=インデックス性をほどよくバランスさせたアメリカによくあるCM

但し、その前に、この図像=イコン性と指標=インデックス性がバランスよく配置されているCMとして二つをあげておく。アメリカのCMは、一般的に二つの記号性のバランスのよい配置を、主たる演出方法として制作されるのだけれど、この二つはまさにその典型だ。

一つはダイソンのエア・マルチプライヤー。ご存じのように羽のない扇風機だ。風は丸い輪っかの間から吹き出してくる。このCMの中で、展開されるのは羽を使わないので風がストレートにムラなく吹き出してくること。それが映像の、見た目は何も起きていないような(羽根が回っておらず、風だけが吹いているので、風が吹いていることがわかりづらい)映像が、かえってストレートな、自然な風が吹きつけられてくることを視聴者に印象づけている。つまり、映像とそのナレーションは二つがピッタリと寄り添った状態だ。

AppleのiPhoneのCMも同様だ。とにかく、iPhoneの画面を大写しにし、その機能を映像で証明するという方法を採っている。筐体の薄さ、アプリのダウンロードの容易さ、アプリの便利さといったものをナレーションに従って映像が展開していくのだが、実は映像だけを見ていればその仕組みはほとんどわかるし、その逆で音声だけを追っていたとしても情報は十分理解できる。

つまりこの二つのCMは図像=イコン性と指標=インデックス性がほとんど同質で寄り添ったようなかたちで作品が展開する。言い換えれば、もっぱら製品の情報伝達性を高めることを意図しているとみなしていい。

ところが消臭力と蚊に効くカトリスは、これらアメリカ版のCMとはその立ち位置を異にする。図像=イコンと指標=インデックスは寄り添うどころか反発し、見ている側に「違和感」という強烈な印象を投げつけてくるのだ。そして、ある意味それが大変魅力的でもあるのだけれど。では、この魅力はどこにあるのだろう?(続く)

三十代キャリア志向女性にお姉系が支持される理由

お姉系がメディアで重宝がられている理由についてジェンダー別に考えている。

さて、最後に女性、とりわけ三十代のキャリア志向女性にお姉系が支持される理由を考えてみよう。こういった立ち位置にある女性は晩婚化によって生じた一群の女性たちだ。未婚、しかし定職がないという境遇にある。そう、安定した未来が見えていない。この女性たちにとってお姉系はどうして福音に映るのか。それは二つある。

困難な状況に置かれていること

一つは、お姉系たちと自分たちの置かれた位置に同一のものを感じるからだ。お姉系たちは男であって女ではなく、それゆえ自らが女になろうと日々精進している。一方三十代のキャリア志向女性は、前述したように三十代でありながら定職がない。また女性特有の職業である専業主婦という立場にもいない。しかし、男性に頼ることなく自立して生きていこうと精進している。女になろうと努力する=キャリアを持った女性として生きようと努力する。まず、このハンディで同一視がおこるのだ。

ところが、お姉系たちはそういったハンディの中で様々な技能(整体師、華道家、美容スタイリスト……)を身につけ、その技能をバックボーンに芸能界に進出してきた。こうなるとお姉系たちは三十代キャリア志向の女性にとって「輝ける我らが星」というふうに位置づけられることになる。だから、彼女たちの活躍を思わず応援してしまうのだ。しかも他の女性が成功したときに感じる”妬み”を感じないで済むという側面もある。「だって、男なんだから!」、こんな感覚が無意識にしっかりと根付いているのだ。

セレブ系・きれい系タレントの相対化

もう一つは、彼女たちの毒舌だ。お姉系たちは、芸能界で活躍するきれい系・セレブ系の女性タレントへの毒舌が、めっぽう鋭い。どんなにタレントとしてもてはやされていたとしても彼女たちの話術にかかったらけちょんけちょんにされてしまう。これが自分たちはうまくいっていない三十代の先の見えない女性たちにはウケる。同一視しているお姉系たちがうまくいっているタレントたちに引きずり下ろしてくれるので溜飲が下がるというわけだ。

だが、話はそれだけでは終わらない。というのも、けちょんけちょんにされたタレントの方も、そんなに悪い気はしていないからだ。なぜなら、それは同類の女性からの嫉妬にまみれた批判とは違っているからだ。そう、この時、毒舌を向けられたタレントたちは、お姉系たちの批判に、やっぱり男性性を見ている。だから、その毒舌が相対化され本人たちは余り悪い気はしないという構造が出来上がっている。自らのけちょんけちょん状態を自ら笑えてしまうのだ。また、お姉系たちの男性ジェンダーの長所である論理性に基づいてけちょんけちょんにされると、それは「説得力」という言葉に変わる。だから、タレントたちは諭されている感じになり、真摯な姿勢で受け止めようとする感覚さえ芽生える。

そして、さらにそうやって諭され、それを受け入れたきれい系・セレブ系は、そのオーラが剥がされ、タダのタレントに成り下がるのだが、こうなると三十代の先の見えない女性にとっては、今度はこういったきれい系・セレブ系も「がんばっているタレント」というふうに読み替えが可能となる。もちろん、これから自分が芸能界で活躍するというわけではないが「きれい系・セレブ系たちのように、自分も目指す世界で輝けるのでは?」という希望を抱くことが出来るようになるのだ。

お姉系たちの未来は明るい

こうやって考えてみると、お姉系たちがメディアから重宝がられている理由がよくわかる。要するに彼女たちは認識論的には女性、それでいて存在論的には実は男性(生物学的にも、ジェンダー的の一部でも)であることによって、男性と女性のジェンダーを媒介し、それぞれを相対化させるトリックスター=賢い愚か者なのだ。そして、そうやって男性と女性の間を往復する中で、彼女たちを見ているオーディエンスは男性であれ、女性であれ、自らの立場を活性化できる。とりわけ三十代の先の見えない女性にとっては、ということになる。

だから、今後とも、彼女たちが活躍する場というのは、一層広がるのではないか。ゲイバーという世界に閉じこもることなく、芸能界にも進出したお姉系。次の進出場所は、おそらく一般社会。そして、そうなる日は、おそらく、そう遠いことではないだろう。

女性もお姉系の論理性に魅力を感じる

では、女性にとってのお姉系の魅力とは何か?
前回は男性視聴者にとってのお姉系の魅力について指摘しておいた。で、今回は女性にとってお姉系の魅力について考えてみよう。実は、これも同じで、最終的に、その魅力は、男性性のうち「女性的ではない」というところにアクセス可能な点に求められる。しかも、やはり男性が魅力を感じるお姉系の「論理性」に。

お姉系は相談できると思える相手

女性が”悩みごと”を持ったとする。そして、それを自分では解決できないとする。そんなとき相談する手っ取り早い相手は同性、つまり女性だろう。しかし、ジェンダー的に女性の場合は論理性に弱い。では、そのジェンダーを所有する男性に悩みを打ち明ければよいのだが、ここで男性性が障壁となる。つまり、男と女の関係ならば、相談ついでにカウンセリング料金が派生する恐れがある。しかも、それは現金ではなく「男女関係」というカウンセリング料だ。まあ、自分が信頼している男性ならよいが、普通の男性なら、こういったカウンセリング料を払うと言うことはあり得ない。しかし、これを要求してくる恐れは、まま、ある。だから、おいそれと相談することは危険なことなのだ。

だったらば、襲ってくることのない男性に悩みごとを打ち明けるというパターンを採ればいいわけで。それは言うまでもないことだが、お姉系が該当するわけだ。お姉系は、自らが認識論的に女性であることを掲げている。そんな自分が女性を見て、突然オオカミに変わり、女性に襲いかかってくるようなことがあったとするならば、それはアイデンティティの矛盾となる。つまり、突然、自分が男であることを認めることになる。だからそれは出来ない相談,言い換えれば、お姉系は常にオオカミであることの否定を自己存在をかけた命題としている。

しかし、お姉系は論理性という男性ジェンダーは背負っている。ということは女性が相談を持ちかけたら、彼女たちはもっぱらカウンセリングを引き受け、しかもカウンセリング料を要求することなどあり得ないということになる。だから、女性はお姉系に信頼感を抱き、相談する。あるいはメディア上のお姉系にそういった頼りになる女性=男性というイメージを抱くことになるわけだ。

お姉系の魅力、その本質は、その“男性性”にある

で、こうやって考えてみると、お姉系が男性、女性双方から人気を博する背景には、実は男性ジェンダーがどっしりと構えていることが見えてくる。いいかえれば、お姉系は表面=認識論的には性別の解消的な存在だが、深層=存在論的レベルでは、徹底的に男性ジェンダーを助長する存在と考えられるのだ。(続く)

お姉系の魅力・性別ごとに考えると

前回、お姉系がメディアでもてはやされる理由として話術に長けていること、そして別の世界でプロであること。さらに、これらの才能が彼女たちが置かれているマージナルな環境によって培われた物であることを指摘しておいた。つまり、男であって女、女であって男という両義的な立場にあることが、周辺の環境、自己、さらには女性としての自分を対象化する能力を彼女たちに付与すし、これが結果としてお姉系に特異な能力を開花させた、と。

さて、こういったお姉系の才能が、一般視聴者にはどういったかたちで支持されることになったのだろう。今回はこれについて性別をわけて分析してみよう。

男性は、お姉系が男性間コミュニケーションにおけるリスクを回避できる点に魅力を感じている

先ず男性にとってのお姉系の魅力について。これはズバリ、彼女たちが「女であること」に対して向けられている。男性同士というと、コミュニケーションにおいてはジェンダー的にどうしてもビジネスライクだったり、形式的になってしまう。場合によってはビジネス上での対決相手という側面すら登場する「油断できない存在」と相手をみなすことも。だから、警戒するのが相手に対するデフォルトの姿勢になる。いわば「狩猟」的側面がコミュニケーション上で出現する。

ところが、お姉系は女性であることを志向しているため、こういったベタな男性性から降りることが至上命題となる。しかし、それ以外のさほどベタであるとは指摘されない男性的なジェンダー、たとえば論理性についてはこれを所有している。だから、こちらの場合は、彼女たちが自らが女性であることのために必ずしも障害とはならない。となると、男性はお姉系に対して「安心できる男性・男性性を抜き取った男性=女性・お姉系」という図式で安心して相手に対してコミュニケーションを委ねることが出来るのだ。いいかえれば、男性同士がこういった関係になるまでにはお互いの警戒心を解くための時間を有するのだが、お姉系に対しては男性はこういった時間的経費を省略することが出来る。だから、ありがたい存在なのだ。

女性の背後に男性を見る

しかし、こうやって考えると、男性にとってのお姉系の魅力は「女であること」というはじめにしておいた定義はちょっとアレンジする必要が出てくる。男性にとってお姉系は認識論的に女性であるのでとっつきやすいのだが、そこからコミュニケーション的に引き出そうとするのは男性性の特徴である論理性なのだから、存在論的には男性性にアクセスしていることになるからだ。つまり女性性というフィルターを通して男性性にたどり着くわけだ。やはりお姉系の魅力は「男で女」という両義性にたどり着く。(続く)

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